月別アーカイブ: 2025年2月

中2時代の2月26日の記憶から

きょうは2月26日だなという認識とともに、朝から中2のときのその日を思い出して、半世紀近く前のことなのに、われながら記憶力とはおもしろいものだと感じました。その日は、中学校の職員室内で金銭盗難事件が発生したとのことで、朝から警察が現場検証に入っていて、もちろん生徒は職員室周辺に立ち入るなという指示が出ていて、なんとも落ち着かない校内の雰囲気だったことを覚えています。当時生徒会長として昼休みや放課後の私の居場所であった生徒会室の行事予定表に、役員でもない同級生が事件発生を記録し、その後の捜査の経過を書き込んでいましたが、結局ホシを挙げるまでには至らなかったようです。ともかく歴史的に著名な「二・二六事件」と同じ日付に校内で発生した非日常的な出来事だったので、中学生たちはいたく興奮したのだろうと思います。
ついでながら生徒会活動の思い出としては、なんといっても全校生徒の民主的賛成決議を経てまとめた男子生徒の頭髪にかかわる校則改正案(丸刈り強制ではなく長髪選択を可とする)が、職員会議であっさり否決されて成立しなかったというのが最大です。大半の先生たちの否決理由というのが、長髪は中学生らしくないとかいう、くだらないものでした。学校教師の偽善ぶりを目の当たりにしたので、今となっては政治教育のいい経験だったと思います。強制的同姓から転換して選択的別姓を認めることを頑なに反対する大きなお世話の連中とまるで同じで、世の中の「わからんちん」の存在を、身をもって先生たちが可視化してくれたのかもしれません。
その中学校の職員室の新聞雑誌配架台には雑誌『世界』があって、そのバックナンバーが図書室にありました。私が印象に残る『世界』連載記事は、なんといってもT・K生の『韓国からの通信』でした。他には、ソルジェニーツィンの『収容所群島』に親しみました。民主化運動を弾圧する軍事政権下の韓国や収容所での強制労働が行われていたスターリン主義下のソ連とは当然比較にはなりませんが、中学生の人権なんて権威主義国家の国民と同じく軽いものだったことは否めません。
ほかに中学校時代の教師の発言として記憶に残るのは、同僚に対する蔭口です。当時は学校対抗の男性教職員のソフトボール大会があって、たまにその練習がグラウンドであっていました。映画評論については抜群であってもおよそスポーツが得意ではない国語の園村昌弘先生(退職後の1985年『スポーツという女-二本木仲之町界隈』出版)がおられて、園村先生はまったく練習に出てこられませんでした。そのことを指して実家の小川町の寺で住職を務める社会科教師が「あいつは一度も出てこない」と、生徒にも聞こえるような批判をたたいたことがあって、いけ好かないやつだなと感じた思い出が残っています。政治家はもちろん学校教師とか宗教家とかいう肩書だけで人を判断するなということが学べたと今では考えています。

猫の目に劣る

2月22日は「猫の日」です。その前日、1時間ほど役所内での学校や地域の関係者らからなる会合に参加しました。その会合の終わり方に、学校ボランティア代表の人物が、外国人の観光地におけるマナーを問題視する意見を場違いにも述べていました。確かに一部に観光公害もあるかもしれませんが、マナーが悪いのはすべて外国人と言わんばかりで、ヘイト思考を苦々しく感じました。
一方で、この会議中に次のような迷惑行為に遭遇しました。私の隣り席の小学校長上がりの人物が、一度ならず二度も腕時計から電子音を長々と鳴り響かせたのです。その都度、私が制止を求めるまで止めなかったものですから、これを無視しての外国人ヘイト発言が余計に一方的な偏見と感じました。
「猫の目が変わるように発言が変わる」などと、ふつうは「猫の目」の変化を否定的に捉えます。しかし、目の前のマナーが悪い日本人は見ないで、どこかの外国人観光客全体を嫌悪する自説を会議の場で披露する見苦しさに接して、人の目はつくづく見たいものだけ見ているものだなと思いました。猫に失礼だ、猫に謝れと、吾輩は呪っています。
写真はローマの「トレビの泉」(1990年12月撮影)。改修工事中のため張られたテントに観光客が投げ入れるコインを追い回して、猫たちが戯れていました。これがイタリア版「猫に小判」というやつ?

吾輩は行政書士のハシクレである

明日2月22日は、2並びの「にゃん、にゃん、にゃん」で猫の日であり、1951年2月22日公布の行政書士法にちなんだ行政書士記念日でもあります。
ということは、行政書士界隈はネコノミクスの一端を、にニャているのではニャいかニャ?
画像は、ネコのユキマサくんがキャラクターである登録団体のサイトより。

競争的選挙は民主主義の基本なので

民主主義の定義にはいろいろありますが、一例を挙げると「競争的選挙」「表現や結社の自由の権利」「法の支配」から成り立っているというのが、政治学の常識といって差し支えないと思います。逆に民主主義が危機にあるかどうかを見極めるためには、「選挙が非競争的か、権利が侵害されているか、法の支配が崩壊しているか」(アダム・プシェヴォスキ『民主主義の危機 比較分析が示す変容』p.14)というチェックが必要です。
たとえば、統一教会の関連団体の役員として活動していた人物が、選挙に立候補するのは自由です。しかし、どのような信条で過去そうした活動に携わっていたのかを、有権者に対して説明する責任があるのではないかと思います。不都合な事実が隠されず公正な判断ができる状態を確保したなかでの競争的選挙は民主主義の基本です。
今月16日に投開票があった阿蘇市長選挙では、牛舎建設を巡る住民訴訟において市が市長に8359万円の賠償を請求するよう命じた地裁判決も争点になり、住民訴訟の原告らを支援してきた新人が当選し、市に多額の損害をもたらしてきた現職はタダの人になりました。同訴訟は市が控訴していて継続中ですが、一審が市側の全面的敗訴だっただけに控訴審判決の行方も自ずと分かります。新市長は「住民に利益のある道を選びたい」(地元紙19日報道)と話していました。こういう選挙は、まさに民主主義のいい例だと感じます。

近代日本の礎を築いた肥後藩校の無償教育

大石眞著の『井上毅 ―大僚を動かして、自己の意見を貫けり-』(ミネルヴァ日本評伝選、3200円+税、2025年)を昨夜から読み始めたところです。熊本に生まれ今年没後130年となる井上毅(1843-1895)は、明治憲法や教育勅語、国会開設の勅諭をはじめ、重要政策の立案・起草に中心的役割を果たし、近代日本の礎を築いた法制官僚なのですが、政治の表舞台で動いた鹿児島や山口の出身者に比べると、あまり知られていない人物です。私も中央に出てからの能吏としての足跡はある程度知っていましたが、井上毅が若いときにどのような教育を受けて、その資質を備えるに至ったのかについては承知していなかったので、本書はそれを理解するのに役立ちました。
まず注目したのが肥後細川藩の教育システムです。対象は藩士の子弟に限られますが、今でいう教育の無償化がすでに実現されているのです。毅(幼名:多久馬)は、家老・長岡監物の家臣である、たいへん貧しい藩士の家に生まれますが、幼少のころから英才であったようで、二人の兄が読書していたのを傍らで聞き覚え、いつの間にかその書物を暗誦していたとか、4、5歳頃には母から教えられた百人一首をすべて暗記していたというエピソードが残っています。10~15歳の間は、長岡家家塾「必由堂(ひつゆうどう)」で勉学に励み、ここでもたいへん優秀だったようです。15歳になると、監物の推薦で藩校「時習館」への進学塾的存在の木下犀潭(長女の鶴は毅の後妻。孫の木下道雄は昭和天皇の侍従次長。道雄の妻・静は劇作家の木下順二の異母姉)の塾に進み、木下門下の三秀才のひとりと呼ばれます。
そして、20歳のときに木下犀潭の推薦で時習館の居寮生となります。その修学費用は長岡家から支給されました。居寮生とは、「藩中の子弟より学力才幹の衆に秀で群を抜き、将来有望の目ある者を採りて之を特待し、学費を給し優遇を為して館中の寮舎に居らしめ、学問を勉強せしめ、他日之を重用して藩政の要地に立たしむる者」とされた、「藩学に於ける官費寄宿生」を指します。時習館における勉学は経史子集の四部からなる漢籍中心でしたが、後に藩からの推薦でフランス学修業のために長崎の広運館への遊学や東京の大学南校(東京大学の前身)への入学のチャンスも得ます。エリート優遇という面はあるにしても、近代以前の時代において無償教育の重要性が藩政で認識されていたのは刮目に値すると思いました。
次に、近代日本のグランドデザインを描いた法制官僚としての資質の源流について振り返ります。井上毅が初めて就いた官職は、わずか2カ月余りですが、大学南校での宿舎長を務めています。しかも、この間に「辛未学制意見」と題した大学南校学則の変更を求める意見書を書き上げ、学生や職員の賛同も得て大学当局へ提出しています。内容は、たとえば語学修業システムの改善など、大学の現状の問題点を指摘し、その要因を分析し、具体的な提案を行っています。しかし、あまりにもその献策が正鵠を射ていたためか、大学教員らの狭小な心証をすっかり害してしまい、当時29歳の井上の方から依願退官してしまう結果に終わります。
本書の副題にある「大僚を動かして、自己の意見を貫けり」は、やはり熊本出身のジャーナリスト・徳富蘇峰が井上毅を評した言葉ですが、優れた公務員つまり能吏としての資質はこのときすでに完成していたのです。それをもたらしたのは肥後藩の教育システムと言えなくはないなと感じます。

『続・水俣まんだら』読後メモ

3月初旬に石風社から水俣病研究会編『水俣病にたいする企業の責任-チッソの不法行為』の増補・新装版が刊行されるにあたって、同研究会の現在の代表である有馬澄雄氏ほかの講演・対談の集まりが、2月16日、熊本大学くまトヨ講義室で開かれ参加しました。同書の初版は、第一次訴訟の渦中の1970年、裁判勝訴(訴訟派)のための準備書面に盛り込む理論として非売品として出たものです。被害発生の予見可能性がない加害者に責任を問えないとされた当時の過失論に対して、安全確保義務を尽くさなかった加害者には責任があると主張し、1973年3月の同訴訟判決で初めてチッソの加害責任が認められた原動力となりました。
この日、水俣市では水俣病未認定患者救済運動(自主交渉派)のリーダーだった故川本輝夫さんを偲ぶ24回目の「咆哮忌」が開かれていました。一次訴訟の勝訴判決後に訴訟派の患者たちは、川本さんら自主交渉派の患者たちと合流し、チッソ本社と交渉し、1973年7月、同社と補償協定を結びました。協定書調印には立会人4人(三木環境庁長官、馬場衆議院議員、沢田知事、日吉水俣市民会議会長)もおり、「以降認定された患者で希望するものには適用する」との約束が交わされました。
水俣病被害をめぐる裁判では、2004年10月の関西訴訟最高裁判決のように、国・県の行政責任が確定した画期的なものがあります。しかし、そのことばかりに注目が集まり、関西訴訟勝訴原告は認定患者となっても、判決で得た一時金的な慰謝料の賠償金のほかに誰一人、補償協定による補償(患者生存中の医療生活保障の各種手当が含まれる)は、チッソが裁判で賠償は決着済みとして締結を拒否し、受けられませんでした。これらの患者は身体の被害に加えて差別や生活苦から関西へ移住して裁判を闘うことになった方々であり、判決から20年経過した現在みなさん亡くなられています。こうしたいきさつを詳細に記録したのが、原告患者を永年支援してきた、木野茂さんと山中由紀さんの共著による『続・水俣まんだら』(緑風出版、3200円+税、2025年)です。
本書を読むと、患者との面談に応じる熊本県職員の実名発言記録も多数出てきます。その中には、水俣病対策課長や審査課長、環境生活部長を歴任した人物もいます。この人物は、現在、私の地元の副市長を務めていることもあって、特に興味深く読みました。当人の話しぶりは温厚ですが、けっして役所に不利になる言質を与えない点は徹底していて、こういう人物が役所では「有能」とされるのだなということを改めて感じました。立場が変われば仕事ぶりの評価がこうも違うのでしょう。しかし、大局的に見てその仕事ぶりは正義と言えるのか、不当な苦しみを被って一生を終えた人たちから尊敬される人物と言えるのか、というと、やはり大いに疑問です。おそらく、本市の職員で本書を読んだ「奇特」な人はいないだろうなと思います。ですが、あなた方の上司が公務員の鑑として誇れるか一度考えてみてほしいと思います。
【2025年6月24日追記】
上記で「現在、私の地元の副市長を務めている」と記した人物は、2025年3月31日をもって同職を退任しています。

西洋画技法と戦争

久留米市美術館で現在開催中の宮城県美術館コレクション展を観ての気づきは、スパイ経歴とコレクターとのかかわり以外に、西洋画技法導入と戦争遂行とのかかわりがありました。というのも、明治期には陸軍士官学校や工部大学校(現在の東京大学工学部)で教鞭をとった洋画家がいて彼らの作品も展示されていたからです。彼らはアートとして教育にかかわったのではなく、外交・安全保障のツールとしての西洋画技法の教育者として携わりました。
当時の陸軍によって作製された地図は、地形図と写景(視図)から成り、士官学校で西洋画技法(画法幾何)や測量法、築城術を学んだ軍人たちによって作り出されていました。当時は写真が発達していないので、現地に行って、もしくは地形図から、現地ではどういうふうな風景に見えるかということをすぐ描くというのは、将校の重要な資質の一つとされていたようです。
工部大学校においても、モノの形を立体的に捉え、陰影や明暗、遠近を正確に描く西洋画技法の教育は重視されました。ついでながら触れると、この工部大学校は学習院とも浅からぬ縁があります。工部大学校の初代校長・大鳥圭介(1833-1911)は、後に学習院第3代院長を務めていますし、明治19年に校舎を火事で焼失した学習院は、明治23年に四谷に移転するまで工部大学校の旧校舎を使用していました。工部大学校の一機関として6年間だけ存在した工部美術学校で西洋画技法を学んだ松室重剛(1851-1929)が、明治22年から大正10年までの33年間、学習院中等科の西洋画教師を務めており、その関係で多くの教材が工部大学校から学習院へ持ち込まれたと考えられています。
前記の通り当時の陸軍において、地形の見取り図や地図を作成する能力は重要でしたし、学習院は陸軍士官学校や海軍兵学校へ多くの卒業生を輩出する校風も背景にあって、西洋画技法の教育を重視していたようです。なお、松室重剛史料は2000年に学習院大学史料館(2025年3月より「霞会館記念学習院ミュージアム」へリニューアル)に寄託されています。
戦意高揚のために描かれた絵画、それとは逆に戦争の不条理を描いた絵画と、単に美術作品として見るだけではなく、戦争遂行のための技術として教育に取り入れられていった歴史を辿ってみるのも興味深いです。
写真は記事と関係ありません。バルセロナのミロ美術館(1991年12月撮影)。

スパイは優秀なコレクター?

まずは岡田憲治著の『言いたいことが言えないひとの政治学』(晶文社)の話の続きとなりますが、話ができないおじさんのポイントとして、著者は次の3つをあげています。「今の生活様式を理解できない」「人の行動やその規範を企業生活からしか引き出さない」「老後の不安を封じ込めるための地位にしがみつく」(p.158)。読書といったら狭い経験談で埋まったビジネス書のたぐいばかり、他人の自慢話や精神論を聴いて経営の勉強をしたと錯覚して過ごしてきた勘違いおじさんたちを何人も思い浮かべることができます。「親と地球の地軸は変えられない」(p.164)ので、仕方ないですが、日常の非営利組織(例:マンション管理組合、PTA…)においては独裁を許さない適切なルール作りの余地はありそうです。
さて、きょうは、現在改修工事中の宮城県美術館コレクション展を開催中の久留米市美術館を訪ねてみました。前身の石橋美術館の頃は、美術の教科書に載っているような青木繁の「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」が目玉作品として展示してありましたが、それらは今、東京・京橋のアーティゾン美術館(前身はブリヂストン美術館)が収蔵しています。私も石橋美術館時代に行ったことがありましたが、久留米市美術館(2016年10月開館)になってからは初めての訪問でした。
やはり美術館の格は、そのコレクション次第ということになります。今回、久留米市美術館を訪ねてみようと思い立ったのも、まだ訪ねたことがなかった宮城県美術館のコレクションを鑑賞できるからこそでした。そしてそれはコレクションの源となったコレクターへの関心にも連なります。宮城県美術館の「洲之内コレクション」に名を残す洲之内徹(1913-1987)は、学生時代にプロレタリア運動に参加しますが、後に「転向」し、日中戦争期は軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り、対共工作と情報収集に携わった経歴を有します。戦後、画廊主として多くの画家を発掘し、自分が本当に気に入った作品は手元に残したそうです。それらが没後、一括して宮城県美術館に収められます。
いわばスパイの資質があることと画家本人との交流があったという点では、長崎県美術館の「須磨コレクション」と共通するものを感じます。こちらのコレクターは、第二次世界大戦時、特命全権公使としてスペインのマドリードに派遣された須磨彌吉郎(1892-1970)です。赴任期間中、須磨はスペイン各地を巡り、膨大な数のスペイン美術作品の収集に心血を注ぎました。表向きは公使ですが、親枢軸的なスペインを拠点にアメリカの情報を収集することを構想し、自ら「東(とう)機関」を開設し、諜報戦で多くの情報を盗む成果を挙げました。「東」=「盗」と、読みはどちらも「とう」というわけです。戦後コレクションの一部が全国巡回展示され、その最終会場が長崎県であった縁もあって、遺族から長崎県へ寄贈されたのだといいます。
ところで、久留米での宮城県美術館コレクション展の出品作のうちには、ドイツ表現主義を代表するカンペンドンクのもの(「洲之内コレクション」ではありません)もありました。ですが、気の毒なことに高知県立美術館ではカンペンドンクの贋作を1800万円で購入していたことが最近ニュースになりました。これを贋作した画家の商品は、徳島県立美術館にもあるとのことで、そちらは6720万円もしたとのことです。
常に正確な情報を盗むことに長けたスパイ出身のコレクターからタダで作品をもらい受けた美術館がある一方で、こうしたニセモノに大枚をはたいた美術館もあって、これはこれで話題性があって興味は尽きない世界だなと感じます。
https://www.nhk.or.jp/tokushima/lreport/articles/300/201/86/
写真はカンディンスキー作品が豊富なエルミタージュ美術館。

オカケンに学ぶ

まだ途中ですが、オカケンこと岡田憲治氏の近刊『言いたいことが言えないひとの政治学』(晶文社、1800円+税、2024年)を読んでいるところです。岡田氏は専修大学教授を務める政治学者の方、生まれ年は私と同じです。同氏の名前は新聞雑誌、SNSなどでこれまで見かけたことはありましたが、著書は初めて手に取りました。本書は、タイトルにもある通り通常の政治学の専門書ではありません。職場や地域社会、家庭において他者との関係に困っている人たちに、政治学の知恵を授ける読み物となっています。
「わからんちん」の上司の下で働かないといけない立場の人にはすぐに役立つと思いますし、あるいはそういう立場にある人を周囲にもつ人が読んでアドバイスのツールにしてもいいかと思います。私自身の体験に即しても本書が提示する理論と実践の内容は納得できる部分がほとんどでした。
しかし、ときたまいい歳こいた大人が、つまり私からしたら先輩諸氏や同級生といった初老以上の人たちのなかに、やれディープ・ステートがどうたらとか、すっかり陰謀論に目覚めた例に出会います。岡田氏によれば、ネトウヨは思想ではなく、彼らの言動は「自分を脅かすのではないかというものへのやや過剰な反応」のように思われる、としています(p.127)。こういう議論にならない相手を日常生活では放置するに限るのですが、それらの票を束にしたポピュリスト政党がバカにできない勢力になることもありえるので、そのへんは実に厄介です。

何がめでたいのやら

私の中学時代に出会った教師たちの記憶で残るものといえば、それぞれの専門教科以外での言葉ばかりです。中学1年のときの担任は英語の森田昌典先生でした。2月11日の前日放課後のホームルームで先生は、「明日は建国記念の日ですが、この祝日ついてはいろんな意見があるので、君たちもニュースや新聞を見て考えてみるといいよ」という趣旨の話をされました。紀元節が廃止となったのが1948年、建国記念の日が1966年の祝日法改正で祝日に加えられ、翌1967年の2月11日から適用されますから、まだ10年と経っていない時代です。
考えてみると、それからいつの間にか50年も経っています。ついでながら書くと、2年前にその中学校を訪ねた際には森田先生のご子息が教頭を務められていました。それはともかく、毎年、この日を迎えると、やはり先生の言葉を思い出します。そういうわけで本日の熊本日日新聞に目を通してみました。
同紙によると、八代宮において「八代建国記念日奉祝会」なるものがあったと、報じていました。どうも「建国記念の日」とは別モノの祝日をこしらえて神殿に向かって「万歳」を行う奇特な人々の集まりだったようです。地元首長もノコノコと宗教施設に出向いているのですが、これが公務扱いなのかどうか、記者は取材してなかったのか、記事では触れてありませんでした。
そのため、わざわざ前日の同紙の「首長の日程」を確認してみると、八代市長の公務予定は「建国記念の日奉祝会」(しっかり「の」入り)出席となっていました。
なお、本日の地元紙1面記事下には中国人留学生やクルド人に対するヘイト本の広告が載っていました。商業新聞といえばそれまでですが、カネがもらえればヘイト本広告を載せたり、勝手につくった祝日を祝う変な団体の記事を載せたりして、ずいぶんとおめでたいなあと思った次第でした。
おかげで、半世紀を経てもいろいろ考えさせられました。11日に公費の支出があっているのかどうかについては、八代市民のみなさんがお考えになればよろしいことです。
【追記】
ついでながら、八代市のホームページに掲出されている「市長スケジュール」では、参加する催事名が「建国記念日奉祝会」となっていました。したがって、2月11日の熊本日日新聞の「首長の日程」欄にある「の」入りの催事名は、新聞社側での加工(忖度?)ということになります。
選挙で選ばれたからといって首長の能力が必ずしもあるわけではありませんが、せめて役所の秘書職員は親分の行動にご注進するぐらいの器量はあってしかるべきなのではと思います。

【記録】・・・新聞社へも以下の問合せメールを送信してみました。
種類:記事の内容について
件名:「首長の日程」欄での行事名書き換えの理由について

貴紙2月12日18面掲載の「建国記念の日 県内各地で集会」の記事中、八代市長が八代宮で開かれた「建国記念日奉祝会」に参加したと載っていたので、公務で参加したのかを確認したく、11日2面掲載の「首長の日程」欄を読み返したところ、参加予定の行事名は「建国記念の日奉祝会」となっていました。
さらに、八代市ホームページ内の「市長スケジュール」も確認したところ、そこでも「建国記念日奉祝会」となっていましたので、なぜ11日の「首長の日程」欄には(12日の記事や市の公表情報通りとせず)「の」を入れて掲載されたのか、理由をお尋ねしたくメールしました。

あと別件ですが、12日1面の「ハート出版」の記事下広告についても質問いたします。東大・早稲田-有名大学が反日分子の供給機関にと決めつけた内容紹介付きで『中国の傀儡 反日留学生』というヘイトの恐れがある書籍の広告が載っています。中国人留学生全体に対する偏見を助長しかねないと懸念します。
なお、同出版社については、貴紙の昨年12月25日1面にも『埼玉クルド人問題』なるヘイトの恐れがある書籍の広告が載っており、重ねての蛮行を疑問に感じます。このような広告を掲載しても構わないとする貴紙の見解をお尋ねします。

結果はいかに

有事や原発災害の国民保護において法律はどこまで役に立つのか、限界があるならリスク対処の政策はどうあるべきか。そういうことをモノ好きにも考えてみようかと出願してみました。
最少開講人数に達しないと開講されないので多くの行政書士会員からの申し込みを期待しています。一方、定員超過だと審査で落とされることもあるようです。

牛若丸、ウィリー、ニッキー、トランプ

2月3日、阪神タイガースの監督を務めた吉田義男さんが亡くなったことが、報じられました。京都市出身で、享年91歳でした。私が大学時代に属したゼミの河合秀和先生が、吉田氏と出身地および生年が同じです。阪神ファンの河合先生のご自慢の一つ話が、後年「牛若丸」の異名を持つ吉田投手と府立一中時代に対戦し、ヒットを放ったことがあるというものでした。このことをつい思い出しました。
もう一つ、先生のことで思い出したことが、きょう「朝日新聞ポッドキャスト」の「昭和天皇が抗えなかった『勢い』 日米開戦の責任はどこに 100年をたどる旅(4)」を聴いていてありました。それは、限られた側近としか本音の話ができなかった昭和天皇に対して、欧州の王室間の情報交流の豊かさについて話されていたからです。2020年に中央公論新社から刊行された、河合先生の著書『クレメント・アトリー』のp.280には、日露戦争の時代の「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世は、ともにイギリスのヴィクトリア女王の孫であり、互いに英語でウィリー、ニッキーと呼び交わして手紙をやり取りして」いたことが紹介されています。
ついでながら、他国のトップですから余計なお世話と言えばそれまでですが、米国のトランプ氏の周辺環境が、かつての昭和天皇みたいになってはいないかと危惧します。忠誠心だけが高い人物だけで身の回りが固められていますので、大事な情報が集まってこずに政策面で誤った道を選んでしまわないかと思います。
https://omny.fm/shows/asahi/1747

中国歴代王朝の財宝の意味

2月3日放送のNHK「映像の世紀バタフライエフェクト」の「ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」の回は、清朝最後の皇帝だった溥儀が紫禁城から持ち出した1200点以上の書画その他宝飾品を切り売りするなどして生き延びたエピソードを描いていて、たいへん興味深く視聴しました。現在は北京故宮博物院所蔵の御璽「乾隆帝三聯印」と絵画「清明上河図」や東京国立博物館所蔵の絵画「五馬図巻」も、溥儀がかつて持ち出した財宝なのだそうです。番組では流出した財宝の回収に中国政府は躍起になっている紹介していましたが、今も300点以上の書画財宝は所在が分からないそうです。
なお、歴代王朝の財宝の持ち出し数量においては、蒋介石の国民政府によるそれは溥儀の比ではなくかなり大規模です。家近亮子著『東アジア現代史』のp.256によれば、「国家は滅んで再興できるが、文物は一度失われたら永遠に元には戻らない」という理由から、日本軍の華北への介入が濃厚になっていった1931年から故宮博物院の宝物の疎開を計画し、1933年1月から南京、上海への移送を開始します。日中戦争開始後は四川省の峨眉山、巴県など国民政府下の奥地に移送し、様々な形で保管していました。1948年9月、上海から台北への移送が開始され、1949年半ばまでに断続的に行われました。故宮の宝物は蒋介石にとって正統政府のシンボルそのものでした。移送計画当初の目的は日中戦争の戦禍から文物を守る点にありましたが、戦後の1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文物の組織的破壊からも保護された側面もあります。
故宮の宝物は正統政府のシンボルそのものという考えは、溥儀が流出させた財宝の回収に躍起である今日の北京政府にも共通するものがあると感じます。
https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/N1JP3YW9NR/

楽しいよりも安心安全がいい

かつて「楽しくなければテレビじゃない」とか言っていたテレビ局が、不治の病に侵されていたみたいで、経営的にも不時着しそうな勢いです。
そんでもって、首相が「楽しい日本」を目指していきたいと訴えたら、「共感できない」の回答が49%で、「共感できる」の回答が43%だったそうです。
首相としては「きょうより明日は良くなる」を実感できる先に「楽しい」をもってきたのですが、バブル期のイケイケドンドンの再来は無理な時代の空気を読めていない感じを受けます。それよりは、賃金は上がっていくのか、将来の年金や介護の制度は大丈夫なのか、被災しても安心して暮らせるか、といった国民の不安感・不信感の解消に向き合い、「安心安全な日本」を目指した方が、共感されるのではないかと思います。
それと、「楽しい」か「楽しくない」かは、同じ場面でも個人差があると思います。たとえば、役所内の会合で、最初だけお偉いさん(課長クラスでもある)が出てきて挨拶をされますが、挨拶する方は自尊心が満たされ気持ち良くて「楽しい」かもしれません。しかし、詰まらない話を延々と聞かされた上に、これから公務があるのでここで退席しますとか言って会場に残される側からすれば、この会合はアンタにとって公務じゃないのかと、甚だしく「楽しくない」思いにさせられる経験がよくあります。
「平和な日本」が何よりなんじゃないかと考えます。
【速報】石破総理“楽しい日本”「共感できない」49% 2月JNN世論調査 | TBS NEWS DIG (1ページ)

『続・日本軍兵士』読後メモ

吉田裕著『続・日本軍兵士――帝国陸海軍の現実』(中公新書、900円+税、2025年)を読むと、機械化・自動化が立ち遅れて人的負担が過重な旧日本軍の姿が露になります。加えて泥沼化した日中戦争の戦場における兵士の食料事情も悲惨でした。飯ごう炊飯においては、後方からの補給が不十分なこともあって、まず水と燃料を確保し、適当な燃料がないときは、民家や家財道具を打ち壊して薪を手にいれてから、米や副食物も掠奪して手に入れて炊飯に入る蛮行が常態化していました。中国の民衆は、通過した後には何も残さない蝗(いなご)のような軍隊という意味で、日本軍を「蝗(こう)軍」と呼んだ、とありました。もともと太平洋戦争開戦前は米国から石油を、オーストラリアからは小麦や羊毛の輸入に頼り切っていましたし、戦争遂行の経済力・工業力はありませんでした。
ところで、本書を読み終わって考えたのは、日本では戦場の実態をテーマにした映画作品がなぜ少ないのだろうかということでした。それには資金力やロケ地、国際関係・情勢の問題が関係ありそうだと思います。
戦場の日本軍兵士を描いた邦画作品の中でまっさきに思い浮かべるのは、1960年前後の小林正樹監督『人間の條件』(2部毎×3作品)や1970年代前半の山本薩夫監督の『戦争と人間』(三部作、第一部の製作費が3億5000万円)です。いずれも原作は五味川純平であり、私の場合は映画よりも三一書房から出ていた原作本で中高生時代に親しんでいました。映画の『人間の條件』が描く舞台と時代は、旧満州の1943年から1945年で、終盤にはソ連の対日参戦が出てきます。同じく映画の『戦争と人間』が描くそれは、1928年の張作霖爆殺事件前夜から1939年のノモンハン事件までとなっていますが、原作の方はアジア・太平洋戦争末期までを含みます。
上記の映画2作品とも日本軍とソ連軍との戦闘シーンがありますが、ロケ地はそれぞれ異なり、『人間の條件』(第四部)では陸上自衛隊の協力を得て北海道で、『戦争と人間』(第三部)ではモスフィルムおよびソ連軍の協力を得てロシアのヴォルゴグラードとなっています。ロシアではソ連時代から独ソ戦をテーマにした映画作品は山のようにあります。「大祖国戦争」とロシア国民が今も称する通り、敵であるファシストと闘うのは正義で当然というプロパガンダに満ち溢れている制約がありますが、戦場は自国内であり、実際の兵器がふんだんに登場し使用されます(おそらく国家的支援もあったのでしょう)。徹底したリアリズムにこだわり多額の製作費を投入するやり方は、日本ではなかなかマネできなかったと思います。
アジア・太平洋戦争における地上戦の戦場のほとんどが、戦後しばらく国交がない占領地や旧植民地であり、沖縄も映画『戦争と人間』の製作当時のころまでは米国政府の施政下に置かれていました。戦争の実態を再現するのに適したロケ地がない事情もあったかと思います。それと、第二次世界大戦後もベトナム戦争のように世界各地で戦争が次から次へと現実に起こっていましたので、日本が関与した戦争の実態が映画で再現されなくても、ニュース映像の範囲内で国内ではなんとなく戦争を「わかった」気になってしまって、わがこと感がないまま、ただ海外に可哀そうな人たちがいるという程度でしか、戦争を見てこなかったのではないでしょうか。
実際の戦場では、机上の計画通り「国民保護」が可能になることは極めて困難だと思います。そのことも知らないまま過ごしているような気がしてなりません。実写映画がない分、やはり新聞書籍やセミナーといった言葉・文字の力で伝えるしかないのかなとも感じました。

『東アジア現代史』感想メール

家近亮子著『東アジア現代史』(ちくま新書、1400円+税、2025年)を先日、春節祭期間中でにぎわう長崎へ向かう電車中で読みました。内容は満足しましたが、最近は伝統ある出版社(ここ1カ月でも白水社や岩波書店)の著作物でも文中に誤記を発見することがたびたびあります。著者が出すデジタル原稿をどんなやり方で校正しているのかと、活字印刷時代から読書に親しんだ昔の青年は考えます。そんなわけで、おせっかいだと承知しつつ、下記のメールを出してみました。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076670/?fbclid=IwY2xjawIKkFRleHRuA2FlbQIxMQABHYNPThcn2SF14-RjEKN3se0amcNSu-qeD09VTeXul_a5el_p95ja2us0gA_aem_AH9vh1fEyDYKXsZJq-UKYw

放送大学テキストの『現代東アジアの政治と社会』と、そのラジオ講義聴講で、家近先生の研究テーマに馴染みを覚えていましたので、さっそく読ませていただきました。東アジアのみならず、米国やソ連、英国との関係やそれらの指導者の考えにも触れてあり、一層理解が進みました。慶応出身者でありながら福沢諭吉に対する評価も率直で、その点も学者として信頼できました。
p.341の4行目とp.364の3行目の2か所で、いずれも「副総統」とあるべきところが、「福総統」との誤字表記となっていました。

【追記】
2月1日の朝日新聞読書面で、これから読む予定の吉田裕著『続・日本軍兵士』(中公新書)とともに紹介されていました。
吉田裕氏の師匠の藤原彰著『中国戦線従軍記 歴史家の体験した戦場』(岩波現代文庫)もお勧めです。同書のp.217で触れられていますが、藤原氏は、戦後、岩波書店内に事務局を置いた「歴史学研究会」でアルバイトしていますが、そのころ同じ事務局で後年学習院大学教授となる斉藤孝先生(学生時代に「国際政治史」の講義を受けたことがあります。)もおられました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S16139787.html