日別アーカイブ: 2025年1月24日

鉄と馬

九州国立博物館で開催中の特別展「はにわ」を観てきました。同展の目玉は「挂甲の武人」や「踊る人々」ということになるかと思いますが、見方を変えれば日本列島における「鉄と馬」の起源、武力を伴った権力の出現の歴史を実感できる展示だと言えます。
まず「挂甲(けいこう)」とは何かということですが、解説によると「古墳時代・5世紀に登場した甲(かぶと)の一種。小さな鉄板(小札)を紐で綴り合せて、人の動きに合わせたワンピース型に作り上げる。着用者は動きやすく、馬の騎乗にも適していたので、6世紀にかけて普及した。」とありました。つまり、実物は現代でも貴重な鉄からなるものです。当時は激レア資源だったので、王の墓なんかに添えるにはさすがにもったいなくて土器(埴輪)なのは自然です。それでいくと、いずれも古墳時代・5 -6世紀の鉄製品(すべて東京国立博物館蔵)であり、さりげなく展示されていた、熊本県和水町の江田船山古墳から出土した国宝3点セット 「衝角付冑」「頸甲」「横矧板鋲留短甲」の価値が、数段上とも正直感じました。
次にその形状から「踊る人々」と名付けられた古墳時代・6世紀の埴輪ですが、これも解説によると「儀礼に際して踊る姿とされるが、近年は馬を曳く姿(馬子)である説も根強い。」とありました。「挂甲の武人」が馬の騎乗に適した甲を着用していることと合わせて、ここにも馬とのかかわりが感じられます。
さて、この鉄と馬にかかわる技術・風習がどこに由来し、いつ頃からなのかというと、朝鮮半島南部からの渡来人によっておおむね5世紀ころから伝わったとされます。倭は百済や加耶からさまざまな技術を学び、多くの渡来人が海を渡って、多様な技術や文化を日本列島に伝えました。乗馬の風習も朝鮮半島から学んだもので、日本列島の古墳に馬具が副葬されようになったのも5世紀になってからです。より進んだ鉄器・須恵器の生産、機織り・金属工芸・土木などの諸技術、漢字の使用や水筒・外交文書の作成、6世紀以降の儒教や仏教の伝来など、渡来人の役割は大きいものがあります。
設楽博己編『日本史の現在1考古』(山川出版社、3300円+税、2024年)のp.161には、「日本史を学ぶ場合、いつの時代についても、周辺の国々をはじめとする各地域の歴史や、日本と諸外国との関係に目を向けていく必要がある」とありましたが、「はにわ」にも様々な地域との交流と、その影響を受けた展開を感じることができます。5世紀の鉄と馬にかかわる技術・風習の学びがなければ、王権や戦争の出現はありえなかったと思います。
戦争と馬との関係で言えば、つい80年前の近代戦争でも密接でした。山砲1門を分解した部品の輸送に際して馬6頭を必要としました。大陸打通作戦で中国・山東省からタイ・バンコクまで踏破した、日本一歩いた軍隊である第三十七師団(冬兵団)を例にとると、師団を解団する時点で、主力がいたタイで人員約1万名、日本馬約1500頭、大陸馬約2050頭、先遣部隊がいたマレー州で人員2890名、日本馬約330頭、大陸馬約220頭いたとされます。タイでは武装解除にあたった英軍から命じられてほとんどの馬を銃殺ないしは撲殺しています。一方、マレーではすべての馬が英軍に渡され、近くのゴム林へ連れて行き殺すことなく放されたとありました。
馬耳東風、馬の耳に念仏、馬子(これは人)にも衣装、馬脚を露わす、泣いて馬謖(これも人)を斬る…。古来権力者は馬に世話になりながら、なぜかネガティブなイメージのことわざに多用されている印象があります。そんなこともありまして、せめて熊本のロアッソ(これはJクラブ)は温かく応援してあげたいものです。最後はそれかいと言われそうです。