学生時代に当時立教大学教授だった栗原彬さんの「政治社会学」の講義を聴講しに同大学へよく行っていました。栗原さんの著書『管理社会と民衆理性』を持参し、先生に一度サインをいただいたことがあります。その際に浄土真宗の開祖・親鸞の言葉「同朋同行」を添えられました。なかなかに含蓄ある言葉で、40年以上ときおり脳裏に浮かんできて意味を考えさせられます。なんとはなしに、自分の行動指針の一つとなったことは間違いないと思います。栗原さんは、「水俣展」を企画する認定NPO法人水俣フォーラム評議員として今も活躍されています。
冒頭の立教大学での聴講の思い出としては、当時慶應義塾大学教授の内山秀夫さんが講師として講義されていた政治学もありました。内山さんにも著書の『民族の基層』にサインのお願いをしたことがありましたが、照れ隠しなのか「やだよ」とあっさり断られてしまいました。なお、この頃、内山さんと栗原さんの共著『昭和同時代を生きる』も出ていました。
それでなんでまた「同朋同行」のエピソードを持ち出したかというと、浄土真宗本願寺派(お西さん)の現門主が親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年にあたる2023年に発布した「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」をめぐって宗派内で混乱が生じている事象に接したからです。
文学の世界では、1000年以上前に書かれた『源氏物語』の現代語訳が複数あります。蓮如が生きた500年ほど前から用いられた『領解文』の現代語訳の必要性は一定あるかもしれません。ですが、文学の世界では訳者個人の解釈に基づいて大胆な表現が許されるでしょうが、宗派の教義にかかわる文章を門主だからと言って構成も含めて一方的に改変を定めると、確かに混乱をきたしかねないと思います。
会社に例えると、創業者が定めた社是社訓を、創業記念事業の一環で社長が社内に諮らずに広告プランナーに丸投げして今風にCIリニューアルして創業の精神が混乱してしまったようなものです。社史に業績として社長の名前を刻みたいだけとか、改憲したいだけの某総理みたいな…。
さすがに生成AIを使ってもデータが蓄積されていないと適切な文章にはならないと思いますし、教義宗教の場合は、唱和するので音楽的要素も重要だと思います。黙読で済む文学作品以上に難しいと思います。
同朋同行の精神に立ち返ると、門主も信徒も平等であるべきなので、ひとことで言えば門主だけの解釈を押し付けないことが大事なのではと眺めています。