6月26日の朝日新聞オピニオン面見開き右側の「社説」欄には「ハンセン病 『負の歴史』徹底検証を」とあり、左側の「耕論」欄には「水俣病 切られたマイク」とありました。いずれも熊本県内の出来事についての記事が、全国紙の紙面で大きく取り上げられていました。蒲島前知事がかねがね水俣病問題は「私の政治の原点」と語っていましたが、いまもってハンセン病と水俣病は、政治とは何かを考えるうえで大きな歴史的テーマであり、政治の原点は熊本にあるかもしれないとさえ感じます。
「耕論」欄に掲載されたひとりは元環境事務次官の小林光氏でした。同氏は、現在の環境大臣や特殊疾病対策室長と同じく慶應義塾大学卒業の方です。慶応出の大臣や室長には患者の気持ちは分からないという報道も一部で目にはしましたが、小林氏の退官後の行動もフォローしている私の目から見ると、学歴で人物を評価するのは間違っていると思います。試しに興味のある方は、東大先端研の「小林光・研究顧問の部屋」に所収の論文・コラムを読んでみられるといいかと思います。環境問題にかかわる熱い想いが伝わります。
なかなか今の環境省には水俣病問題について理解している官僚は少ないのかもしれません。しかし、1990年12月に自ら命を絶たれた、当時の環境庁企画調整局長(事務方のナンバー2)だった山内豊徳氏のような存在を忘れることはありません。個人の気持ちは常に患者側にあるのに、権力を有する組織の一員としては苦悩された方でした。この方が遺された詩が生命誌研究者の中村桂子氏のコラムで読めますので、こちらもご覧ください。映画監督の是枝裕和氏の初著書『雲は答えなかった 高級官僚 その生と死』でも山内氏について描かれています。
環境省(庁)の歴史を振り返ると、親分として最も水俣病問題解決に理解があったのは、実質的に初代長官を務めた大石武一氏だっただろうと考えています。1971年からのわずか1年間の任期に終わりましたが、現在の環境疫学の常識的知見に沿った患者認定を進めました。大石氏という政治家は、地球環境保護や国際軍縮平和運動にも積極的にかかわった先進的な人物でもありました。
してみると、国民にとっても官僚にとってもその人権を護れる政治家こそを政治の舞台へ送り出すことが、結局のところ最重要なんだよなあと思わされます。