月別アーカイブ: 2021年4月

権威主義から見えるもの

今読んでいる『権威主義』はたいへん読みやすい政治学のテキストだと思いました。特に権威主義体制にある最高権力者とエリート層との関係は体制の維持・崩壊の両面で影響します。忠節を尽くすエリート層か、競争相手の可能性があるために排除すべきエリート層なのか、権力者というやつの心持は常に不安をかかえており、つくづく不幸せな役回りだと思います。

まだ再建途上

昨日、地元市の仮庁舎へ立ち寄った帰りに新庁舎建設工事現場の脇を通りました。くい打ち機が備えられていました。今日も大津町の江藤家住宅(ここも最近主屋が解体組直しで再建が完了)の前を通って阿蘇へ向かいました。初めて大津と阿蘇とを結ぶ北回り復旧道路を走行しました。阿蘇神社では拝殿がこれまた再建中でまだ白い木材や光る銅板屋根を見ることができました。

考える力を養いたい

他国の人権問題も大切ですが、自国内の外国人をはじめとする人権問題についても関心を払いたいと思います。国際法や条約などの順守も大切ですが、歴史的に戦後処理が適切に行われてきたかを振り返ることも重要です。一面だけを取り上げて主張しても相手に耳を傾けてくれる信頼関係という前提がないと何も解決へは進みません。最近そう思うことが多くてメディアに登場する識者の層が薄いと感じます。

レベル5厳戒警報の影響

新型コロナウイルス感染症対策に係る熊本県リスクレベルが最高基準である「レベル5厳戒警報」に引きあげられたことに伴い、地元市の公共施設が本日から5月末まで休館となりました。その影響で地区内の各種団体の総会行事が昨年に引き続いて開催できずに、書面決議の形をとらなくてはならなくなりました。こんな調子で事業運営が進むとなると、共助の活動も停滞してしまう感じです。

五輪にふさわしくない大会は無益

本来であれば、本日は全九州高校総体の県予選だったのですが、開催中止となりました。3か月後の東京五輪の開催を主催者はまだあきらめていないようですが、果たして開催を強行して五輪にふさわしい競技成績が生まれる大会になると考えているのでしょうか。そこで選手が得た成績が誇れるものなのか疑問に思えます。対戦型競技では難しいですが、記録や採点を競う種目に限っては選手の所属国で実施した結果を元に競う通信制の競技会もありだと思います。審判員の国構成をどうするか、リモートでのジャッジが認められるか課題はありますが、最高レベルの選手派遣が期待できない大会よりは競技成績の価値は上がると考えます。

一時金交付までに1カ月は所要か

「熊本県事業継続・再開支援一時金」の申請期間が当初の4月末から5月末まで延長されているところですが、申請者が気になるのはいつ交付されるのかだと思います。当事務所が個人事業主として3月21日に県ホームページから申請したケースでは、1カ月後の4月22日に交付通知決定が出て翌23日に入金されていました。この間、何も照会もなく状況確認もできないので、もどかしい思いでした。なお、当社の法人としての申請も同じく3月21日に県ホームページから申請していますが、こちらは一度4月7日に添付書類についての照会があり、その翌日に解決したところですが、まだ交付決定通知は着信していません。ほどなく届くのではと期待しています。

時代考証力の判断材料になる研究

尾脇秀和著『氏名の誕生』(ちくま新書、940円+税、2021年)は、日本国民の氏名の形が実は150年足らずの歴史しかない固有の伝統でもないものだということを明かしている学術研究の成果を示してくれます。江戸時代における武家社会と朝廷社会の人名の成り立ちの違いが明治の新政府の時代になってぶつかり合い、国民管理の都合上、現在の形に決めた過程が丁寧に実証されています。江戸時代の一般の人たちにとっては、苗字がなくても何ら差しさわりがなかったのですが、極端に言えば兵籍簿を備えるにあたってなんかあった方が管理上便利だったということに過ぎません。
江戸時代は一生の間に幼名・成人名・当主名・隠居名のように名前を変えることがむしろ自然でした。今のように親に付けられた名前に縛られる必要はありません。位が高い武士は官名由来のかっこいい名前を通称として使用していて、それがために本来の職名、たとえばどこそこの地域の長官という意味とは関係ない名前で普段は呼ばれていて、実名は手紙で使うなどして周囲の人から呼ばれる名前としては使われていません。位の低い武士や一般の人も官名由来の字を名前に取り入れていますが、勝手に使ってはならない表記もあるので、そうした決まり事を知っていないと時代小説・ドラマでありえない人物名が登場するハメになります。たとえば「必殺仕事人」の「中村主水」は時代考証的にはアウトになるようです。
氏名で国民管理を行う必要はあると思いますが、どう名乗るかという点については本人に決めさせることをもっと緩やかにしてもいいのではと思わせる本でした。それでいくと、家族で苗字が異なっていても関係そのものには変わりはありませんし、さらに言えば苗字は不要という選択があってもいいという議論さえ考えられます。

久々に集団健診を受けてみて

おかげさまで、自分の医療費は何年もかかっていません。しかし、家族から言われやむなく先日、久々に集団検診を受けてみました。前回の健康診断受診は一般医療機関で4年ぐらい前のことで、集団検診はそれよりも前ですからかれこれ9年ぶりぐらいになります。本来であれば健康づくり推進の立場上、率先して人にも勧める立場なのですが、面倒くさがりですし、何よりも検査が嫌いなのでできるだけ回避してきました。気に入らないのでつい検査での対応の不備がいろいろと気になります。たとえば、胃がん検診では炭酸ガスを発生させる粉を飲むときに、係員からマスクを顎に下ろして飲むように指示されました。もしも顎にウイルスが付着していた場合は、マスクの内側に付いてしまうことになるので、指示には従わず片耳だけゴムをかけて外して飲みました。結果に問題なければしばらくご無沙汰したいと思います。

対面を避けるしかない

県知事が本日午前の記者会見で、新型コロナ感染についての県独自のリスクレベルについて「今週中に最上位のレベル5(厳戒警報)とする可能性がある」と述べていました。さらには、「県内の新規感染者は直近1週間で前週の5倍以上に急増し、県内に第4波が到達した」とも言っていました。不要不急の対面を控えて生活するしかありません。

不都合な事実にほかならない

18日にミャンマーで日本人フリージャーナリストが、虚偽のニュースを広めた疑いで治安当局に逮捕されました。「国軍」と称する暴力集団が「国民」の生命を危険にさらしている事実のどこが虚偽なのか、まったく理解できません。不都合な事実という認識がある犯罪者たちにとっては、虚偽のニュースだと言い張りたいのでしょうが、その愚かさは全世界が知っています。

いつの間にか開業10周年

農地の現地確認に携わっていた先週の4月15日は、行政書士登録10周年にあたりました。今年そのことは意識していたのですが、当日はすっかり忘れていてけさ改めて実感しました。昨日は参加人数を限定して地元の認可地縁団体の総会が開かれ、議長として議事を進めさせてもらいました。日頃地元のさまざまな案件のアドバイスを行う機会があったのですが、本年度から団体の行政手続アドバイザーとして正式に顧問的立場でかかわることとなりました。所属する行政書士会の会員数が増えていますが、こうした足元の活動にかかわったみたらと思います。地域が抱える困りごとに対してうまく行政を動かしながら解決していくことは、案外楽しいものです。

監理人の負担が重い

4月16日、出入国管理法改正案が、衆議院で審議入りしました。今回の改正案は、国際的に批判されてている入管施設での長期収容を減らすために、国外退去処分の手続きが進められている外国人のうち、逃亡のおそれが低いなどの条件を満たす人は、退去するまでの間、施設に収容せず、親族などのもとで生活することを認める内容となっています。そのため、支援者や専門職に監理人に就いてもらうこととして、日本行政書士会連合会へ協力の申し入れがなされている旨の報道もありました。しかし、監理人は、対象者の生活状況、許可条件の遵守状況を監督し、その状況を国に届け出る義務を負います。これに反すれば罰則を科せられ得るとされ、大きな負担を強いる内容となっています。外国人を支援したい人に密告者(スパイ)になれと言っているようなもので、ずいぶんと人をバカにした法案です。この内容では弁護士は監理人には就任しがたいと、日弁連は反対の姿勢を示しています。いま一つの問題は、3回以上の難民認定申請者等について、原則として送還を停止する効力を解除することとしている点です。現在のミャンマー情勢を知る人なら容易に想像がつくと思いますが、ノン・ルフールマン原則(迫害を受けるおそれのある国への追放・送還を禁じる国際法上の原則)に反する恐れがあります。これにも日弁連は反対していますが、みすみす生命を失う危険に外国人をさらすことになりかねないわけで、法案の修正が求められます。

相互監視による自浄作用

昨夜放送のNHK・Eテレの番組「ズームバックオチアイ」が取り上げていた環境論に石牟礼道子さんの作品が紹介されると知って見ました。その作品のインパクトから生まれた環境運動についてはそうなのかもしれませんが、現代のSNS社会で生じる「相互監視による自浄作用」についての言明が印象に残りました。たとえばSDGsに反した企業活動を行っている企業の商品を買わないというのは大きな力です。環境汚染はつまるところ生命への危機、これは人権侵害にほかなりません。したがって環境汚染につながらなくても人権を侵害された労働者が製造している製品を利用した商品を売っている企業もなくしていかなくてはなりません。汚染水と処理水、廃水と排水のようにちょっとしたカムフラージュに国民は騙されやすいものです。相互監視といえば聞こえはよくありませんが、相互学習につながるものだと思えば効用に対する見方も変わります。
こうした用語の問題と伝統かどうかの問題もあります。婚姻カップルの氏のことを考える際も安易に「伝統」に依拠してはならないと思います。本当にそれは伝統なのか、守るべき価値があるのかどうかを、学問的に考える必要があると思います。そんなわけで、次に表紙写真の本を読む予定です。

処理水を飲んでみるとは言えないのか

東京電力福島第1原発の処理水の海洋放出をめぐる、財務相と周辺国政府の発言に引き寄せられます。13日に財務相が「あの水飲んでもなんちゅうことはないそうですから」と海洋放出に問題はないとの認識を示したところ、翌日、中国外務省は「太平洋は日本の下水道ではない」「飲んでも問題ないと言うのであれば飲んでみてほしい」などと批判しました。これを受けて16日に財務相は「じゃあ(太平洋は)中国の下水道なのか。みんなの海じゃないのかね、と思うね」と答えていました。この点は応酬のように見えて海洋は人類共通の資産なので一国による勝手な汚染は許されないとの認識が示されていて、日中の違いはないとも受け取れます。ここは「飲んでみてほしい」という要望に応えて「飲んでみる」と言ってみる器量がほしいと思いました。ただ、先日の投稿にも示した通り責任ある立場の人物が本来飲んで見せるべき水を飲んでくれるとは限りません。国民をだましていないならその姿勢を2年後に示してほしいと思います。

遺言を遺す文化

遺言・遺言執行・死後事務委任等をめぐるWEB研修を受講した際に、講師の方が、日本では大まかにいえば死亡者の約1割が遺言書を作成していますが、英国では55歳以上の64%(英国弁護士会報告書、2014年10月)が遺言書を作成していると紹介していました。なんでも英国では、中世においては遺言を遺さずに死亡することは魂の救済を受けずに死亡することを意味し、聖地への埋葬ができず、財産を領主に没収されるという事態を招き得る、不名誉かつ忌むべき深刻な事態であるという伝統があるようです(『民事月報』2018年11月号)。英国流の考え方では、幸い私は昨年7月に自筆証書遺言書保管制度を利用しましたので、名誉ある死を迎えられそうだと思いました。
それはともかく先に亡くなる可能性の高い人はできるだけ遺された人へ迷惑はかけたくないものです。手間をかけずに相続ができることは、残された人の日常生活にとってどんなに楽なことかと思います。
一方、講師は付言において相続・遺贈を受けない利害関係者の感情を刺激する内容は厳に慎むようにクギを刺していました。遺言者の真意がどうであれ感情的な言葉は盛り込まないのが流儀ということになります。私の場合は、一切付言を入れませんでした。
遺言書に限らず先に逝く人は争いにならないように言葉は発したいものです。

飲んでもなんてことないそうですから

きのう政府は2年後をめどに、福島第一原発のトリチウムを含む処理水を海へ放出する方針を決定しました。財務相は会見で「科学的根拠に基づいて、なんで早めにやらないのか。よく私どもとしては、もうちょっと早くやったらと僕は思っていましたけど、いずれにしても(海洋放出)やられることになったんで、別に、あの水飲んでもなんてことないそうですから」と述べました。
それで思い出したのが、水銀を除去できないサイクレーター(浄化装置)の完成式で装置から出る廃水を飲んで見せたチッソ社長のサル芝居でした。1959年当時、水俣病の原因はチッソの工場廃水に含まれる水銀だと考えられていたので、チッソとしては水銀を除去して海洋放出していると見せかける必要がありました。しかし、完成したサイクレーターには水銀を触媒として使う工程での排水が入らない経路となっていました。完成式に出席した知事も後でだまされたと語っています。
チッソは創業者が電気工学の技術者であったことからももともと東京電力と同じく電力会社です。今も各地に水力発電所をもっていますが、その発電能力を利用して肥料成分である窒素を製造したので、電力会社から化学メーカーへ転換したわけです。
確かに原発の処理水をタンクでため続けることも電気使用者の負担になっていますが、安全な処理ができるのか、東電と政府関係者が飲料水に使ってみてくれないと信用できない気がします。

二分論

中国の指導者で周恩来は日米では評価が高い好人物として認識されています。1970年代に米中関係の基礎を共に築いたキッシンジャーは、周のことをスマートで思慮深い人物として回想録で書いています。日本にとっても周が唱えた戦争責任二分論によって日中戦争の戦争犯罪人の多くが死罪を免れました。連合国側の裁判の戦争犯罪人からは多くが極刑に処せられたのとは対照的です。1972年の日中共同声明においても中国側からの提案で「戦争賠償の請求を放棄すること」が宣言されました。台湾も以徳報怨の姿勢でいましたから、戦後処理においては大陸からも台湾からも恩恵を受けたことは否定できません。一方、中国内モンゴル自治区のモンゴル人からすれば、周は弾圧を加えた張本人ということになります。国内(漢民族)の対立による不満の矛先をモンゴル人に向けさせたと、『紅衛兵とモンゴル人大虐殺』の著者は指摘しています。まさに「夷狄」としてモンゴル人を扱っています。評価が二分されるわけです。専制国家の中で長らくナンバー2の位置に座るにはいろんな立ち振る舞いが要求されたと思います。歴史に登場する人物を見るときにいろんな側面から見る必要性を感じます。

部分的なつながり

インターネット配信で今年の東大入学式の映像を視聴しました。新総長がコロナ陽性に伴い、式辞は理事・副学長の一人が代読となっていました。聴いていて印象に残ったのは、教養学部長の式辞でした。多様性と同質性について考える内容でした。万物が同じであれば、万物は存在しないわけで、「東大生」という同質性に預かってしまっては、異質は見えてこないということだと思います。同時に「部分的なつながり」があるということは、時空を超えて「無関係」はないということです。科学技術に限らず、政治課題もそうですが、何事も関係がないということを知り、関心を寄せるということが、学問なのかなと思いました。

市庁舎起工

熊本地震で大きな損害を受けた宇土市役所の新しい庁舎の起工がようやく一昨日あったそうです。供用開始は2年後の5月ということですから、被災から実に7年もの間、不自由を強いられたということになります。大規模災害の影響が長期にわたることを実感させられます。前震のあった48時間前に震源地付近を車で通っただけにこの時期になるといろいろ当時のことを思い起こされます。