月別アーカイブ: 2020年10月

残り10ゲーム

今季のJ3も残り10ゲームとなりました。1位の秋田は依然無敗を続けていて2位との勝ち点がずいぶん開いてしまいました。したがって、J2昇格枠は2位の1枠を争う形となっています。ロアッソ熊本は24節を終えてなんとか2位に食い込んでいます。残り全勝で復帰を果たしてほしいものです。

オンライン学会を視聴しました

第40回日本川崎病学会・学術集会をオンラインで視聴する機会を得ました。きょうと明日の2日間開かれます。ここにもコロナの影響があるわけですが、初のオンラインでの開催でした。ですが、スムーズな運営がなされていました。座長・討論者・演者ともに所在地から遠隔参加できますし、受講者も当然に国内外から容易に参加可能です。質問も文字で正確に伝わりますし、投票集計機能を使って会議中にアンケート結果を発表共有することもできます。会議室を移動したり、セッティングする時間的ロスもなくなります。確かに交流行事は難しいですが、その後もネット上での意見交換は可能です。いろいろと、勉強になりました。

国際理解ができているか

引き続き『国際理解のために』からの話題です。日本国内でもさまざまな外国人との出会いがあります。食習慣の違いからイスラム教徒のことを知る機会は増えてきました。なんといっても世界で最も教徒が多い宗教です。といっても中東のイメージが強いですが、意外とそれ以外の地域、たとえばパキスタンやインドネシアなどで多いのです。これからますますその知識が必要になると思います。ユダヤ教徒にいたっては、まだ日本国内ではなじみが薄いと思います。厳格に守る人の土曜の休息日についての考え方はよく理解しておくことが必要です。エレベーターや議会投票のボタンを押すことも「労働」と見なされることまではさすがに知りませんでした。

市議会動画は歓迎

昨日から市議会の9月定例会の一般質問の動画が配信されています。コロナ対策で傍聴自粛が求められているなかで、議員と行政職員の資質を監視する上で有用な取り組みだと思います。ただ、会議場内で音響機器を使っているのですからマイク音源から音も入力できた方がよりクリアになると思いました。ビデオカメラのマイクで直接音を収録しているので、撮影者がカメラの向きを動かすたびに接触音が雑音として入るのが残念でした。市議会の情報公開とは別に同市の小学校で児童の個人情報が入ったUSBメモリを教員が紛失したことが発表されました。この種の不祥事があるたびに個人情報の流出の恐れに対する再発防止ばかりが言われますが、教員の私物のPCと市のPCとを行き来させることでUSBメモリを介した市のネットワークのウイルス感染の方がもっと危険です。学校内のPCにはUSBメモリを接続できないようにハード面の仕様を変えるなど、抜本的な対策を行わないと、危なっかしくてたまりません。

円筒印章とイシュタル門

髙橋和夫著の『改訂版 国際理解のために』を読み進めています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、実は兄弟宗教であり、聖地はいずれも中東です。そしてこの三つの宗教に影響を与えたのが、ゾロアスター教で、それはアケメネス朝ペルシア帝国の支配下で広がりました。この帝国の統治方法は現代の視点からみても非常に注目すべき点があります。それは、信仰の自由を保護した点です。そのことにより被征服民の反抗が生まれず、経済が発展し、帝国が長続きすることとなりました。この時代を象徴する遺物として「キュロス大王の円筒印章」があります。信仰の自由を保障する内容の勅令が刻まれていて、現在のイラン人が世界最古の人権宣言として誇るものですが、実物は大英博物館にあるのを見たことがあります。実に見ごたえがあります。さらに帝国の遺物としては現代のイラクに建設されていた「イシュタル門」が著名ですが、これも実物はドイツ・ベルリンのペルガモン博物館にあります。同館を訪れてそれを眺めたことがありますが、壮麗なレンガに圧倒されます。いずれも2千数百年前の文化の中心はオリエントにあったのですが、その栄華を物語る痕跡はヨーロッパの博物館に収まっているわけです。

世界の宗教を知る

放送大学のラジオ講座でも聴講できる高橋和夫著『改訂版 国際理解のために』を読み始めています。テキストを実際に手に取ってみると、著者のなみなみならぬ動機を「まえがき」で知ることとなります。「日本が滅びるのではないかとの危機感が本書執筆の動機である。日本人は、あまりにも世界を知らない。これでは世界の中で生きて行けない。心配である。」とあります。自分が信仰する宗教についてだけでなく、世界の主要な宗教について知らないと、日本に限らず命取りになることがあります。本書では、一例として2001年の米国での同時多発テロ後のテロとの戦いを新しい「十字軍」と、当時の米大統領が言及してしまった無知ぶりを挙げています。中東においては、十字軍とは途方もなく否定的な言葉とされています。ヨーロッパのキリスト教徒からなる十字軍がエルサレムを征服した際に、イスラム教徒、ユダヤ教徒、現地のキリスト教徒を虐殺した歴史があります。とりわけ指導者に歴史的教養が欠けると、国民は多大な犠牲を支払う危険がもたらされることを示しています。

議論が必要な問題は何か

憲法に自衛隊の存在を書き込めば違憲論は鎮静化するから9条を変えようという議論がありますが、これは間違った前提から出発して間違った議論であることが、『戦争と法』で明快に説明されています。新型コロナ感染防止に効果が薄い布マスクを配っておけば、不安はパッと消えると考えて巨費を投じた対応ぐらいに程度の低い議論です。p.211では少しながくなりますが、以下のように書かれています。「憲法9条は、個別的自衛権の行使を否定していないからです。歴代の政府が「有権解釈」としてそう理解してきたというだけでなく、9条は、「国際紛争を解決する手段」としての戦争、つまり、勝ち負けで正しい方を決める「決闘」としての戦争で国同士の紛争に決着をつけることを禁止しているにすぎないからです。この目的を実現するために、「決闘」として戦争を遂行する能力である「戦力」も否定しています。しかし、自国が攻撃を受けた場合に武力でそれを撃退することも否定する非常識な規定ではありません。こうした発想の原点である不戦条約にまで9条の背後にある思想の起源を遡り、制定の経緯も勘案して、適確に条文を理解すれば、それで足りる話です。」。自衛隊の組織や活動の中身を問わずに丸ごと合憲か違憲かという議論は、思慮に欠けるものです。国際法原理を理解していなければ、9条が意味することを正しく理解することはできず、間違った議論に時間を浪費することとなりかねません。
一方、国際社会における「法の支配」が弱体化している問題や国連のような国際機関の判断に委ねるだけでは解決にならない現実もあります。サイバー攻撃や無人兵器、超速ミサイルの登場で、最初の一撃で壊滅に追い込み、撃退が困難な時代を迎えています。それらを考え合わせるも、改憲レガシー作りではなく、もっと議論すべき問題がほかにあるように思います。

比較不能な価値の選択

長谷部恭男著『戦争と法』のp.205にイギリスの政治学者のバーリンがオックスフォード大学の同僚に宛てた手紙の一文が紹介されています。「複数の目的は衝突する。いずれを選択しようと、君は苦痛を味わい、人に苦痛を与える。衝突を乗り越え、高みに昇り、止揚し、すべてがすべてと究極的に調和する地平を目指すことは、大がかりな逃避だ。対立は現にそこにある。避けて通ることはできない。罪悪感と苦悶とを逃れようとしても、別の罪悪感と苦悶にさいなまれるか、虚偽と自己欺瞞と無意味な読経に陥るだけだ。傷はいずれ治る。傷を負わない人生が傷を負う人生より善いというわけではない。」。バーリンについては、オックスフォード大学で学んだ恩師が師事した学者でしたから、親しみがありましたが、これこそがまさに政治の本質を言い表していると思いました。本書p.206では、著者自身が「比較不能な価値観が衝突するこの世の中では、「正しいこと」「望ましいこと」をすべて同時に満足させることはできません。とりわけ暴力行使の場面では、そのジレンマが正面から突きつけられます。」と記しています。それと、本書ではp.195において比較不能な価値の選択の例としてクンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の一節に触れた記述がありました。私は、原作は読んでいませんが、映画の方では出演しているフランスの女優のジュリエット・ビノシュに魅了されたことがあって、人生の選択の集積が政治ということに激しく実感できる思いがしました。

多文化共生vs.同化

中国国内でのモンゴル族やウイグル族など少数民族に対する同化政策へ国際社会の厳しい目が向いていますが、こうしたことはどこの国もかつて行ってきました。またそのことにより弾圧に動いた側の犠牲も大きいものがありました。たとえば、日本の台湾統治に伴い出した戦死者は日清戦争をしのぎます。アメリカがスペインから割譲を受けてフィリピン統治で払った犠牲者数は米西戦争のそれを上回ります。台湾、フィリピンそれぞれに独立志向が高い現地の人々の激しい抵抗を受けた歴史があるのですが、現代の日本人や米国人の多くはそれについて深く知らないのではないでしょうか。地上や海上にどんなに境界を引いても文化を一つに塗り替えることは、世帯内でも難しいことを知っているはずなのですが、国家や民族の偉大さという幻想に指導者が酔いしれてしまうと、言葉や宗教、法律の縛りを一元化します。すると必ずうまくはいかないものです。

8000代を経て

以前から名前は存じ上げていましたが、単独著書としては意外と初めて手に取った長谷部恭男氏の『戦争と法』が読み物として面白いと感じています。戦争の進み方と当時の指導者の描写が鮮やかで今さらながら頭脳のデキが凄いのだなと思いました。
先日の投稿で人類の起源は500万年前と書きましたが、現代の地球に暮らす人間であるホモサピエンスに至っては、わずかに20万年前ということでした。1世代が25年だとすると、1万年間では400代、さらにその前は世代の間隔年が短いかもしれませんが、せいぜい8000代前はみんなアフリカ大陸の樹から降り立ったばかりだというのに、頭脳のデキ、不デキは違うものですし、デキが良くても指導者にはならないから、戦争は起こり得るのだなと思いました。

信仰の自由と科学的真実との対立

偶像崇拝を禁じるイスラム教預言者の風刺画を授業で題材にしたために、フランスのパリ近郊の中学校教員が殺害される事件が先日起きました。信仰の自由も権利の一つですが、特に公教育の現場では、科学的真実と対立することがあります。同様の衝突は、先進国とみられている米国でも抱えています。人類の起源を突き詰めていくと進化の歴史に出会いますが、神が創造したとする反進化論の考えに立つ信仰の厚い人たちの勢力は意外に大きく、公教育で進化論を学ぶ機会がないのがほとんどとされます。日本においても先の大戦の時期まで特別科学学級に属するスーパーエリートの子どもを除いて神国日本を信じ込ませるでたらめな教育をしていたのですから、どこにでもあったともいえます。信仰の自由は権利の一つといいましたが、科学的真実を追求する学問の自由も同様に権利の一つです。あらゆる宗教には神話があり、科学的真実に照らすと、しばしば荒唐無稽な物語となりますが、尊重することも重要です。それを信じない人への攻撃がない限り権利を踏みにじらない寛容さが必要です。国家や民族・人種というのは約束事に過ぎなく地球上の人類はすべて同じ人間です。どう共存したらいいのか、難問です。

China Demonstration

けさの新聞で近藤等則さんの訃報を知りました。30年ほど前に八代であったライブを聴いたことがあります。その後に発表された「China Demonstration」が私の中では代表作です。第二次天安門事件へ抗議した数少ないアーティストの一人だったと思いますが、この点に触れた論評は見かけないです。享年71歳とあります、もっと年長に感じていましたが、一回りしか違わないというのも少し驚きでした。

中抜き計画では困る

この一週間は所用が立て込み本ブログの連日投稿が途切れてしまいました。さまざまな経験を積む機会を得ていますが、市の地域福祉計画策定に伴う地区座談会へ地区の民生委員代表として参加したのですが、座談会の意義について大いに疑問を持ちました。市の意向としては、すでに計画策定委員会のメンバーを決めて、市民アンケート結果や各地区座談会結果を反映して計画を策定するということでしたが、せっかくの座談会には委員の出席がなく、民間事業者の仕切りでブレインストーミング方式のグループワークをさせるというものでした。まずアンケート結果の分析の切り口が雑でした。分析についてはともかく、座談会参加者へアンケート結果を事前配布するだけでも座談会の議論の深まりが期待できるのにそれがありませんでした。委員へ生の意見や提案を伝える機会がなく、いわばその場限りの頭脳ゲームに過ぎないグループワークでは適切な議事録としても残らない恐れを感じました。もともとが、法律に基づいて地方自治体が計画を策定しなければならないのですが、現場の行政職員はルーティンの業務の処理に手いっぱいで、こうした計画策定の仕事は能力的にも時間的にも無理なのではと思いました。だから、民間事業者に計画策定の流れの管理を任せてあまり独自性のない通り一遍の作文しか出来上がらないのだろうと思いました。コロナ対策でさまざまな給付金・補助金制度の運営事務が民間事業者に任され、中抜きビジネスとの批判を浴びましたが、地方でもこうした仕事の進め方の一端に触れると、計画段階から中身のないまさしく中抜きになるのではと思わされました。

定住と遊動

昨日、自身の結婚記念日の小旅行をこのところしていないと投稿しましたが、昨年は太宰府の九博で開かれていた三国志展を観に行ったことを、連れ合いからの指摘で思い出しました。このように1年前のことでさえ忘れているのですから、かなりいい加減です。けさは、地元農業委員会が遊休農地に植え付けているジャガイモのめかき作業に参加しました。委員の多くはプロの生産者ということもあって作業は20分ほどで終了しました。12月初めの収穫が楽しみです。
人類学は面白い学問分野だと思いますが、昨日たまたま視聴した放送大学の講座では定住と遊動について語られていました。人類の歴史は500万年前から始まりますが、最初は狩猟民や遊牧民であって農耕を始めたのはつい最近の1万年前からなのだそうです。日本列島で稲作が始まったのは渡来弥生人によってですから3000~2000年前くらいに過ぎません。つまり、農耕を行うようになってから定住があるようになったわけで、それまでは遊動でした。いわゆる焼き畑農業は遊動を伴う定住ですから、人類が定住という味を知った歴史は浅いようです。そして社会が生まれるとさまざまな軋轢が発生し、憎しみや妬みも出てきます。悪いことは「呪い」で発生するという考え方も出てきます。遊動生活であれば、ウマが合わない人と無理に暮らす必要がなく、互いに離れればいいのですが、定住社会になると排除あるいは征服という行動になりがちです。もちろん現代社会では、定住していても社会的孤立、ひきこもりという形態もあります。ともかく面白いなと思ったのは、人類はもともと定住しない生き方をしていたので、社会でストレスを感じるのは不思議ではないということです。たまに仕事(職場)を変えて自由になりたいと思うのは当然のことなのだと思います。ということで、農業というのも人類学的視点ではかなり新しい産業なのだなと思った次第です。

24年経って

私事ながら本日は結婚記念日にあたります。1年後は銀婚となります。ひところは記念日に合わせて小旅行をしていたのですが、このところはそういう機会も減ってきたように思います。昨今のGoToキャンペーンは無理やり感があって利用する気になりません。GDPのことだけを考えれば、先日の投稿でも触れた通り負の消費も貢献します。医療や介護のサービスは、地域に大きな雇用や消費を生みますから、医療機関や介護施設の利用者の存在は、それだけでありがたいと思わないといけません。利用者の方は、社会や家族等に迷惑をかけていると恐縮する必要はまったくなく、感謝されなければなりません。医療や介護のサービスと宿泊飲食保育のサービスを結ぶ優遇政策はもっと考えられてもいいかもしれません。

理論と応用

自然科学分野の理工学の理論と応用、医学の基礎と臨床のように、社会科学分野の法学の専門家でも学者と法律系士業・行政窓口では守備範囲の違いがあります。ですが、自己の領域にこもっている専門家は実は専門家ではないように思えます。ふだんさまざまな士業や行政窓口と接する機会がありますが、ルーティン業務しか受けられないというのでは、依頼者としては専門家として頼りないということになります。特に人権が絡む問題は、国内法だけでなく国際基準を十分知っておく必要がありますが、行政の末端職員等にそうしたことを求めるのが無理なのは承知なのですが、ないのもまた事実です。

GDPの伸びと幸福度は別

晴天が続いていて近隣では稲刈りが進んでいます。おかげでノドの調子が良くありませんが、農家にとっては絶好の収穫日和なわけで立場が異なると利害は衝突するものです。GDPの伸びも同じようなことがいえます。GDPが伸びると一般に経済成長をしていると考えられ歓迎されますが、GDPがカウントする消費には幸福なものもありますが、不幸なものもあります。たとえば、災害復興に伴う消費などはそうです。コロナ禍にあって今年は蔵書を再読する時間が増えました。これなども新刊書を買うことによるGDPアップへの貢献はありませんが、私的には知の充実という幸福度の高まりがあります。つまり、負の消費もGDPアップには貢献するのですが、GDPがアップしなくても不幸だとは限らないということです。一面的な捉え方をすると、政治を誤ることがこんなことからも言えます。また、多面的な捉え方を提示するのが社会科学の知見というものです。

警戒レベルの差

新型コロナの警戒レベルがここに来て熊本県では2、政令市の熊本市では4と差が出ています。居住している市は、熊本市と隣接していますので、この差には違和感があります。市独自の判断によるレベル判定があってもいいのではないでしょうか。

前季の轍を踏むな

J3ロアッソ熊本がリーグ後半戦に入り3連敗と勝ち点を積み上げられないでいます。昨日の敗戦で昇格圏外の3位に後退してしまいました。前季も前半は首位で折り返しながら昇格を逃してしまいましたので、その轍を踏んでいるようでやきもきしています。正代の優勝と昇進、阿蘇への国道開通と少し明るいニュースも出てきたところに水を差す戦いぶりです。ぜひ跳ね上がってもらいたいものです。