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占領期の歴史メモ

『現代東アジアの政治と社会』を読み進めると、アジア・太平洋戦争の敗戦から国際連合に加盟するまでの占領期、国際社会の外にいたときの日本の(特に東アジアの)周辺環境の変化の史実についてあまり学んでいなかったことを改めて思い知らされます。当時は多くの国民が内向きで自身の戦後復興が第一だったので、国民的記憶が薄いのもわかります。確か評論家の渡辺京二氏が故・石牟礼道子氏と思われる人物について彼女は朝鮮戦争があったことを知らなかったということをどこかで書いていたのを覚えています。
その朝鮮戦争、これは現在も休戦状態にあるわけですが、1950年の開戦後の日本には戦争特需景気が起きたことは事実です。国連軍が日本を基地として出兵し、その物資の調達をドルで支払ったため、日本には1953年までの戦争時期に都合11億ドルが流入し、日本経済の早期の回復を可能にしました。つい最近、新潟県某市の教育長が「コロナ禍を解消する方法は、どこかで大きな戦争が発生することではないか」と発言して辞任することになったという報道がありました。人の血が流れても経済優先という思いの至らなさは教育行政に携わる者として決定的に資質が欠落していますが、戦争の悲惨さに無自覚なおめでたい日本国民が案外多いのではとも思いました。
戦後日本が国際連合へ加盟するまでの東アジアの国際環境を知らないと、今日の枠組みの成り立ちも理解できませんし、相手に何を言えば反発を招き、どのような態度で接すれば理解や協力が得られるかもわかるはずです。本書から当時の姿をメモしてみます。
・1945年の国際連合成立時、中華民国は5大国の一つとして常任理事国入りを果たした。しかし、中国国内は、国民政府支配区、中国共産党の革命根拠地、親日政権支配区、日本の占領区に分かれ、複合国家の様相を呈していた。華北などの親日政権区もしくは東北部では日本軍の武器や戦略物資の接収で国共は激しい攻防戦を展開していた。米ソも戦後間もない中国に介入することで東アジアの勢力図を自らに有利に再構築しようとした。1949年の中国の分断化は、どちらの中国が正当であるか、どちらを承認するかという問題を国際社会に提起した。中華民国政府は、1949年、南京から広州、重慶、一部が台湾へ移動を開始した。米国は、国民政府は腐敗による経済破綻で自壊したと断定して中国国民党とこの時点で決別した。その年の中華人民共和国の成立にあたってソ連はただちに承認し、米国は不承認とした。中華民国政府は重慶から成都へ移転し、台北へ遷都した。なお、国民政府は故宮博物院の宝物を中国の正統政府の「一つのシンボル」と考え、1931年から南京、上海などへの移送を開始して、1949年半ばまでに台北へ移送を終えている。そのため、早い時期から台湾への移転を計画していたといえる。1947年には台北市民が国民党政府の警察・憲兵隊によって武力鎮圧される、いわゆる二・二八事件が起きている。
※国共内戦において共産党が戦いを有利に進めた理由の一つとして日本軍から接収した武器の存在を指摘する歴史家もいる。蔣介石が抗日戦後直後の日本および日本人へアピールした「以徳報怨」(戦争責任及び敵を軍閥のみに限定し、日本人民を敵とせず)の演説や中国の軍艦による日本軍捕虜・民間人200万人帰還事業の実行については、現在あまり知られていない。また、抗日戦争中に蔣介石朝鮮臨時政府の指導者たちを保護して朝鮮独立を支援していたことも現在はあまり知られていない。
・カイロ会談以前から蔣介石(中華民国)とチャーチル(英国)の香港回収をめぐる確執があった。一方、毛沢東は、外モンゴル(1945年独立)・新疆問題や香港問題(英国による再占領・防衛)・チベット問題を「副次的」問題として、英国とソ連との関係を優先し、内戦を有利に戦う戦略をとっていた。1950年頭に英国は中華人民共和国を承認する協議に入ったため、中華民国は英国との断交を決定した。
※戦時中に毛沢東が進めた減租運動や整風運動は中国共産党に対して清廉な印象を国内外に与えることに成功した。蔣介石と国民党は独裁者とファシスト党という共産党によるネガティブ・キャンペーンに悩まされていた。英国が香港の返還先を台湾にしなかったのは、チャーチルと蔣介石との確執があったためである。蒋介石の「中華の回復」を実現するという「夢」は当時の大国の論理の前でもろくも消え去ったが、今日の中国共産党が引き継いでいるともいえる。
※1943年のカイロ宣言は、東アジアの戦後の国際関係を決定づけるものになったが、会談での英中の対立により、中国はその後戦後構想から疎外される場面が多く見られた。1943年のテヘラン会談、1944年のダンバートン・オークス会議(ワシントン郊外)、1945年のヤルタ密約はいずれも英(チャーチル)・米(ルーズヴェルト)・ソ(スターリン)の三者だけで戦後構想は決定された。ヤルタ密約の内容は中国の主権にかかわるものが多いが、それが中国に知らされたのは1カ月以上も経ってからであった。
・1950年頭時点では、米国は台湾問題には不介入宣言をしていたが、朝鮮戦争勃発後にはそれを破棄し、中立化宣言を出し、台湾防衛の姿勢を示した。蒋介石も朝鮮戦争の戦場へ陸軍精鋭部隊33000人派遣を表明した。
・1951年のサンフランシスコ平和条約で戦後処理を済ませたことが日本の国際社会への復帰の節目とされている。サンフランシスコ講和会議には対日参戦をした55か国のうちの51か国が参加し、中国・インド・ビルマ(ミャンマー)・ユーゴスラビアの4か国が不参加であった。日本と参加国中48か国の間で条約が締結されたが、ソ連・ポーランド・チェコの3か国は調印を拒否した。調印と同じ日に日米安全保障条約も締結された。サンフランシスコ平和条約が発効した1952年で連合国による日本占領は終了することとなった。1952年に自衛隊ができ、1954年に米国とMSA協定(日本国と米国との間の相互防衛援助協定)が締結された。
※1951年の時点では、中華人民共和国と中華民国のどちらの政府と日本は戦後処理を行うかという課題が残された。講和会議には対立を避けるためどちらの政府も招聘しないことを米国が決定していた。会議の前年、英国(アトリー政権)とソ連は中華人民共和国を参加させるよう主張していた。
・戦後の日中関係のスタートとなった1952年の「日華平和条約」締結時、米国追随の外交路線を選択せざるを得なかった日本は、中華人民共和国との国家間関係の樹立を断念するしかなかった。そこで、国交がないながらも、人民共和国との貿易に強い関心を抱き、人的交流と民間貿易を再開させる道を模索した。国共内戦末期の1949年、日本は人民共和国との間に「中日貿易促進会」、「中日貿易促進議員連盟」、「中日貿易協会」が成立した。1950年、「日本中国友好協会」が発足した。しかし、これら4団体の活動は朝鮮戦争勃発後GHQによって弾圧を受けるようになり、「日華平和条約」締結後はさらに厳しい監視下におかれるようになった。「友好協会」は『人民日報』を香港経由で輸入していたが、その活動が「占領を誹謗する文書配布による占領目的阻害」の罪に問われて逮捕者まで出した。
※三権分立がない現代の香港における中国中央政府の存在は、占領期日本におけるGHQの存在と重ね合わせることができて興味深い。
・中華人民共和国は成立当初、社会主義ではなく新民主主義、連合政府論を反映した国家建設を行った。社会主義移行へは長ければ15年から20年かかると指導者は考えていた。1949年に決定した臨時憲法による連合政府の最高権力機関の人事では、共産党44%、各民主諸党派30%、労働者農民各界無党派26%から構成された。
・毛沢東は抗日期にはソ連の「民族自治」政策に倣い、連邦制を模索したが、建国後は内モンゴル、新疆、チベットを「中華民族の自治区」とする政策をとった。1951年春には台湾を攻略し、国家統一を完成させる計画を立てていたが、その計画を中止させたのは朝鮮戦争であったし、計画よりも早く社会主義への道を選択せざるを得なくなった。共産党一党による指導体制の確立が加速していくのは1953年からである。1954年憲法で民主諸党派は共産党の領導下に組み入れられ「野党」ではなく「疑似政党」となっていった。
※朝鮮戦争が起こらなければ、大陸による台湾の「解放」という名の統一は早期になされていたかもしれない。1950年に40万の中国人民志願軍が出兵し、朝鮮戦争では米軍との交戦があった。台湾海峡に米第七艦隊が停泊していた。
・日本が国際連合へ加盟したのは1956年。それまではソ連が拒否権を発動していた。