「関輝明行政書士事務所」カテゴリーアーカイブ

『琉球・台湾とつなげて学ぶ日中全史』読書メモ

10年前あるいは今年発生した熊本地震のような巨大地震では、地殻変動により水平方向あるいは垂直方向に地表が移動します。たとえば、法務局で熊本県内の字図を取得するとほとんどの場合、「(注)国土交通省国土地理院が公表した座標補正パラメータ(kumamoto2016_BL.par)による」という注意書きが載っているはずです。これは地震前より数10cm~1m超動いたことを示しています。すでに今年発生の熊本地震による座標補正パラメータも9月25日に公開されていているので、今から取得する字図には、上記の注釈文がkumamoto2026_BL.parとなっているかもしれません。私の自宅付近だと今度は50~60cmは動いたことになっています。
https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/sokuchikijun41012.html
そんなわけで、地球の地表の位置が永久不変ということはありません。にもかかわらず一般人が所有地の微々たる境界の違いをめぐってもめ事を起こす姿ほど醜悪なものありません。同様に国家間の境界争いも似たような側面があって、歴史的に統治の範囲・境界線には曖昧なものがあるので、グレーな部分をあえて残した方が無益な紛争にならず平和が保たれていいのではと思うことがあります。ましてや海を挟んだ近隣の国・地域と無用な争いを起こすのはバカげています。
岡本隆司著『琉球・台湾とつなげて学ぶ日中全史』(東洋経済新報社、1800円+税、2026年)を読むと、海域でつながる東アジアの歴史を振り返る大切さを感じました。現在の国家の枠組みに縛られた思考では相隣関係に禍根をもたらしかねない危うさを感じます。

本書に出てきた言葉を以下にメモします。
「独立」…「地域以上・国家未満」で表現されるそれには一般的な意味合いとは違う文脈・含意がある。例:自治、自己決定、自律性。
「両属」…近代の1872-1880年、琉球は日中の両方に属した。ただし、日中双方が了解した、コンセンサスの取れた両属とは言い切れない。
「附庸(ふよう)」…近世の1609-1871年、琉球は薩摩に従属していた。しかし、明朝や清朝に対して隠蔽していた。
「港市(こうし)」…港での貿易に従事することに特化したような国家。
「互市」…明朝の朝貢一元体制に代わって、朝貢を残しながらある程度の交易を認めた清朝のシステム。
「北虜南倭(ほくりょなんわ)」…明朝に対する北のモンゴル遊牧民による脅威と東シナ海での倭寇による朝貢貿易の秩序破壊。
「因俗而治(いんぞくじち)」…在地在来のやり方に任せる清朝の統治姿勢。
「異国」…和製漢語。江戸幕府にとって朝鮮は対等の純然たる異国だったが、琉球は従属の関係にある異国だったので附庸とした。
「外国」…「中国」と対になる言葉。「中華」に対する「外夷」の言い換え。
「冊封」…「朝貢」と対をなす。君臣の上下関係を示す。1872年の明治天皇による琉球藩王への組み入れもそう称された。
「生蕃(せいばん)」…「化外(統治範囲外)」の生粋の野蛮人という意味。中華文明を多少なりとも持ている野蛮人は「熟蕃」と清朝では呼んでいた。
「両岸三地」…大陸と台湾、香港を指す。「一国二制度」が使われるようになってから死語化した。
「光復」…すっかり元どおりになる意味。
「藩部」…チベットや新疆ウイグル、モンゴルを指す。漢人の住地・明朝の流域は直省。
「瓜分」…スイカを切り分け割るように国土が分割されるという意味。

その他のメモ。
○17世紀の日本を世界史的に見れば、秀吉による九州平定と秀吉に続いて家康が受け継いだキリスト教の禁教が重要な出来事。海外と深くつながっていた九州を秀吉も家康も警戒していた。海外からの政治的または文化的な影響を阻止しながら、経済的な利益を確保しようとした。徳川日本の凝集性・一体性はきわだって奇異。
○清朝の中国ではアヘンが通貨の役割をはたしたという仮説(p.167)。塩取引のライセンス状が株券のように売買されていた(p.168)。
○英語の中国語表記は広東語に由来するものが多い。例:マクドナルド=麦当労(広東語読み:マック・トーン・ロウ、北京語読み:マイ・ダン・ラオ)。
○中国の中央政府にとって、やっかいなのが広東人。香港人がその典型。民族的には漢民族でありながら、発想や行動がほとんど西洋人と変わらない。明朝・清朝の時代から彼らが「倭寇」の一派となり、政府非公認の貿易に従事してきた。

『モノに宿る真実』読書メモ

8月30日の熊本日日新聞読書面で、スポーツライターとして著名な澤宮優氏が、戦争の記憶を継承する著作(『モノに宿る真実 あなたの隣りにある戦争の記憶』弦書房、1800円+税、2026年)を刊行しているのを知り、さっそく読んでみました。同氏の新聞寄稿をこれまで何度か目にした覚えはありますが、著書を手にするのは初めてとなります。著者が宇土高校時代に「社会部」という考古学の部活動に参加していたのも同窓の縁で知っていましたが、進学した大学でも考古学を専門に学んだということは本書で知りました。同書の著者プロフィール紹介には「文化財保存全国協議会員」「肥後考古学会員」とあり、現在もその専門分野とのかかわりが深いことがうかがえます。
さて、本書のタイトルを象徴するのは、奈良県香芝市の屯鶴峯地下壕跡について触れた第三章の部分だと思います。この地下壕は、陸軍航空総軍司令所として使用するため、アジア・太平洋戦争末期の1945年6月に作られた戦争遺跡です。著者はこれを「戦争(戦跡)考古学」の視点から後世に伝えるべきと考えています。第四章では、広島市のサッカースタジアム建設が優先され、2021年に発掘された中国軍管区輜重兵補充隊施設の被爆遺跡の大部分が破壊された問題を批判的に取り上げています。
著者の姿勢は、あとがきの以下の部分に記されています。「これからは歴史を正しく伝えることの重要性がさらに増してゆくということである。近い未来に戦争体験者から証言を得ることは不可能な時代がやってくる。モノを通して戦争の真実や戦時下での人々の暮らし伝える方法が主流になる。しかしこれが政治的な力や時代の空気で別の歴史物語が作られていく心配もある。(中略)モノはありのままの真実を伝えもするが、何も言わない。だから目を光らせる必要がある。何かそこに秘匿されていることはないか、都合の悪い史実に触れずにいるのではないか、それを見逃さないことである。」(p.239)。さらにスポーツライターらしい表現(元ネタは水上勉の子息で無言館館主の窪島誠一郎氏)もあります。「(1964年生まれの著者を含む)私たち世代は戦争体験者からの話を聞いている。戦争体験者が外野手であれば、そのボールを内野で受け取り、ホームにいる次世代の人たちに投げる。私たちカットマンの責任は大きい。まずしなければいけないのは、モノから歴史を学ぶとき、秘匿や改ざんをあきらかにすることで、正しい歴史の真相を多くの場に伝えなければならないということである。」(p.241)。
冒頭紹介したように、澤宮氏は宇土高校卒業生ですが、本書の第一章では宇土高校の前身の旧制宇土中学を卒業した谷口睦生と美術教師だった佐久間修について記されていますので、同窓生にはぜひ知ってほしいと思いました。まず、現在の八代市鏡町出身の谷口睦生は、大学生時代の1936年ベルリン五輪に出場した陸上短距離ランナーであり、当時の200m走直走路の日本記録保持者(21.2秒)でしたが、兵役に取られて1943年10月2日にブーゲンビル島付近で戦死しています。なお、200m走は1968年以降、曲走路が公式記録となったので、現在も谷口の記録が直走路の日本記録となっているそうです。文政小の北隣りの八代市総合グラウンド正面には谷口の銅像が今も建っていて、八代陸上競技選手権大会には「谷口睦生杯」の冠名が残されています。次に、佐久間修は勤労学徒を引率した先の長崎県大村市で1944年10月25日、空襲に遭い命を落としました。妻の静子さんを描いた作品が長野県上田市の無言館に保管されています。佐久間は世界的に有名な版画家・浜田知明と同郷(御船町)・同窓(旧制御船中学、東京美術学校)であり、交流があったことも本書で示されています。戦後、北九州市で暮らした妻の静子さんは行政書士の資格を取って収入を得て子どもを育てたとも書いてありました。
最後に、出版社の編集者が気付いてやれよというレベルの、記述の誤りと違和感をメモしておきます。佐久間の引率先が「第二海軍航空廠」(p.55とp.56の2か所)となっていますが、正しくは「第二十一海軍航空廠」です。第二は千葉県木更津市、第二十一は長崎県大村市に設置されていました。本書には、旧満州や朝鮮半島からの引き揚げ者の歴史についての記述がありますが、「引き揚げ者は、ソ連や中国などの侵略に晒されたので犠牲者も多い。」(p.65)という部分も適切ではないと思いました。旧満州は実質的に日本が中国から収奪した植民地でしたから、ソ連(および衛星国のモンゴル人民共和国)の対日(満)参戦は侵攻といえます。しかし、日中間の戦争は日本による中国への侵略であり、その逆ではありません。日ソ戦争の全体像は、麻田雅文著の『日ソ戦争』(中公新書、2024年)が良好なテキストになると思います。
※9月2日の西日本新聞朝刊にも関連記事が載ったようです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b788b4a9f97c27305a81f09bfd9ea9e5aebe58f9
※9月12日の読売新聞オンラインに熊本地震後に実家を訪ねた澤宮氏についての記事がありました。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20260912-GYS1T00031/

海外に開かれた熊本の歴史

くまもと文学・歴史館10周年記念佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」を9月12日聴講してきました。海外交流というと、人の移動手段が発展してきた近現代をイメージしてしまいますが、この講演では古墳時代から語られました。その時代の九州は中国文明、ことに漢字文化が伝わる玄関口であって、それを示す出土品などの存在について学ぶことができました。
講演の中で紹介された一部の情報に関連情報を付加して以下に示します。講演では中世、近世、近代の歴史についても語られましたが、下記では割愛します。
○江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀…1873(M6)年、現在の熊本県和水町の江田船山古墳から出土。同年、東京国立博物館で保管された(窒素で錆を防ぐドイツ製のケースに現在保管されている)。刀身のみねの部分に銀象嵌の銘文がある。その内容からワカタケル大王(雄略天皇)のヤマト王権が肥後の地方豪族と連携して支配領域の拡大を進めた様子(5世紀後期)がうかがえる。当時は漢字を扱えること自体に呪力があったと考えられ、「長寿である」とか「支配権が安泰」であることを意味する文言が書かれている。渡来人とみられる「張安」の名が書者として刻まれている。
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J573
○日羅(にちら)…6世紀の百済王威徳王やヤマト王権の敏達天皇の外交顧問。父は肥後の地方豪族火葦北国造(ひのあしきたのくにみやつこ)刑部靱部(おさかべのゆげいべ)阿利斯登(ありしと)。『日本書紀』によれば、日羅は父とともに百済に渡って育ち、威徳王に仕えたのち、来日。朝廷へ百済に不利な内容を奏上したため、百済人によって難波で暗殺された。現在の八代市坂本町百済来に日羅の墓とされるものがある。
http://kumamoto-midori.com/rojumeiboku/100/100_detail.html
○浄水寺跡石碑…熊本県豊野町の浄水寺跡に奈良・平安時代の古代石碑群4点がある。延暦9年(790)南大門碑、延暦20年(801)燈籠碑、天長3年(826)寺領碑、康平7年(1064)如法経碑からなる。仏教とともに古代肥後へ漢字文化が広まったことを示す。
https://www.city.uki.kumamoto.jp/hihyoji0/hihyoji/2267777
※写真は、講演受講帰りに見た風景(砂取橋、水前寺児童公園、サクラマチクマモト)。

『調査票のなかの「戦争」』読書メモ

『調査票のなかの「戦争」 京浜工業地帯の労働者一万四千人の記録から』(勁草書房、3000円+税、2026年)の著者・渡邊勉さんが同書をめぐって報告する「第51回空襲オンライン学習会」(9/26開催)に参加予定なので事前に読んでみました。本書は、横浜・川崎の事業所に勤務する労働者1万4千人を対象にした1951年実施の調査データを数理・計量社会学の手法で分析し、回答者のライフコースを描き出した稀有な著作です。年齢・学歴・職歴・居住歴・結婚歴・家族構成・戦争経験(徴兵・引揚・戦災)などさまざまですが、「戦争とは人びとを選別するシステムである」と結論付けています。たとえば、地方の農民出身者ほど前線へ送られた経験をもつ者が多く、逆に高学歴の軍需産業の技術者ほど前線へ送られた経験をもつ者が少ないといったことが解析できています。戦争で夫を亡くしたり婚期を逸したりするなど、女性労働者の生活にも大きな格差が生じました。戦争による影響は、回答者の子孫の世代にもおそらく格差をもたらしたのではと思います。しかし、何よりも終戦から6年後の調査であるため、当然のことながら戦死あるいは戦災死した者たちの記録はないわけで、死者の声を聴けないことにも思いを向けなくてはならないと感じました。

新聞記者のあるべき姿

岩波書店発行の『世界』(2026年10月号)に熊本日日新聞記者の植木泰士氏が、「巨悪よりも厄介な──陸自「思想調査」報道」(p.41-43)として陸自中央情報隊隷下の「現地情報隊」が民間人の思想調査活動をしていた事案報道の経緯を書いているのを読みました。この報道のきっかけは、植木記者あての電話だったと明らかにされていました。同記者の元には今回の件に限らずさまざまな組織の不正・不適切事案の情報が日頃から寄せられているとのこと。それだけ頼りにされている存在だということがうかがえます。陸自「思想調査」スクープ第1弾は今年7月23日の紙面ですが、記事にするまでの裏取りには1年かけたと別の動画では語っています。防衛大臣は報道内容について「確認されていない」の一言で済ませて文民統制の責任を果たすつもりがないありさまです。記者ならびに同紙の追及を期待しています。

関連YouTube動画(チャンネル名/配信日/タイトル/リンク先URL)
○『荻上チキ・Session』TBSラジオ 2026/8/5
植木泰士「陸上自衛隊の不適切な情報収集問題〜熊本日日新聞のスクープを取材報告」/熊本地震
https://youtu.be/AnJfrChL8ZU?si=7ENNmeGerTUV5KT1
○Dialogue for People 2026/8/19
植木泰士さん「自衛隊と『民主的統制』」Radio Dialogue 274(2026/8/19)
https://www.youtube.com/live/Oe-wLs7TPeM?si=cvX4OI849eEagetv
○SlowNews / スローニュース 2026/8/21
【18時30分より生配信 SlowNews Talk】陸自の情報隊が大学教授やNPO代表の思想信条の情報を秘密裏に調査していた! 国家を震撼させるスクープを書いた熊日の植木記者に聞く
https://www.youtube.com/live/Ht3GutGWIzc?si=AkOC4r7MlyKjpzGr
○望月いそことオッカ君チャンネル 2026/8/24
熊日の植木泰士記者が暴く!!独占スクープ「陸自、民間人の思想調査か」驚愕の41項目にわたるリストの正体とは?自衛隊の監視社会化と現代の「法の支配」崩壊の危機を望月衣塑子とオッカ君が徹底解説。
https://www.youtube.com/live/e76HZ4K9Sow?si=0LyPCatPcx1GrXJ1
○『荻上チキ・Session』TBSラジオ 2026/8/26
【特集】陸自の個人情報収集~熊本日日新聞の記者の報告とその問題点(植木泰士、木村草太)
https://youtu.be/6NvXmERi_IY?si=cwWRtr26HOMqOMY_

82年前の不発弾か

8月17日に長崎県大村市の郡川河川敷(福重橋付近)で発見された不発弾の処理作業が、9月6日、無事終了したとの報道がありました。今回発見処理されたのは、アジア・太平洋戦争期に米軍が使用していた250キロ爆弾と判断されています。米軍側での呼称は、「500ポンド通常弾 (AN-M64)」とされ、主にB29爆撃機などから投下されました。戦時中の大村市は第21海軍航空廠(現在の長崎空港の対岸)や海軍航空隊基地(現在のサンセット通りの西側)がある軍産都市であり、たびたび米軍機による空襲を受けました。うち5回の空爆で250キロ爆弾を使用したことが米軍側の記録に残っていますが、中でも大規模な空爆だったのが、1944年10月25日の「大村大空襲」でした。この日の攻撃では360発の250キロ爆弾が投下されています。さらに焼夷弾が初めて使われたのもこのときでした。この空襲での人的被害は死者300名以上、重軽傷者500名以上とされています。特に第21海軍航空廠では死者272人(うち、動員学徒70人)を出しました。その海軍航空廠跡地での最後の慰霊祭が昨年行われ、遺族の高齢化で主催団体も解散しています。
建物被害の一つとして今回の不発弾発見場所の近くにあった福重国民学校(現・福重小学校)の校舎焼失があります。この場所は第21海軍航空廠や海軍航空隊基地からは北方向に離れていますが、付近には米軍機を迎撃するための戦闘機部隊「草薙部隊」(1944年8月新設)や「皆同砲台」もありましたので、福重橋とともに攻撃目標となったかもしれません。福重国民学校が立ち退き移転した跡地の郡川北岸に、1945年5月、福重飛行場が急ごしらえで造られましたので、戦争末期の空襲なら同飛行場が標的となった可能性もあります。
結論としていつ投下された爆弾の不発弾だったのか特定できませんが、大村大空襲のときのものである可能性も排除できないと思います。慰霊祭という形で遺族(ヒト)による記憶の継承の場が開かれなくなっても、このたびの不発弾(モノ)が戦争の歴史を忘れるなというメッセージになったと受け止めています。

『戦争の世紀を読む』読書メモ

佐藤卓己著『戦争の世紀を読む――ナチズムと帝国日本を超えて』(岩波現代文庫、1600円+税、2026年)は、ドイツ現代史からスタートした日本メディア史の研究者による書評集であり、総力戦と国民支配(自発的協力体制づくり)を理解するためのブックガイドと言えます。収録された書評の初出時期は1991-2026年、評者の年齢が30-65歳の期間となります。評者と私は同世代とあって、書評が執筆された時代の雰囲気・体感(異世代との関係性を含む)をよく知るため、心なしか内容がすんなり入って来る感じを持ちました。
ところで、興味深いのは、収録された書評対象本の大部分が、評者自身が選んだのではなくて依頼原稿のために、つまり書評のために読んだという点です。それと、「あとがき」で著者が自身の書評を振り返り「35年間であまり進歩があったようには思えない。ただ、私は人類の進歩など信じない歴史家なので、それは以て瞑すべしなのだろう」と書いていた点が意外でした。私自身もここ35年間で何か進歩があったかと問われれば、自信はありません。それより気になるのは、年齢を重ねるごとに残りの人生は確実に短くなっていくので、できることなら読むに価する本だけに出合いたいという思いが強いです。読んでみないと、つまりある程度無駄読みしないと、その機会が生まれない点も重々承知しています。だからこそ、良き書き手へ誘ってくれる良き読み手の存在は、ありがたい限りです。
以下はメモ情報です。
○オイゲン・コーゴン『SS国家――ドイツ強制収容所のシステム』(ミネルヴァ書房、2001年)……収容所内の特権囚による自主管理システムについて書かれています。「過酷な生存競争の中で誰もが望む利権を手にした特権囚は、自分の地位=生命を守るためにはどこまでも冷酷にならざるを得なかった。収容者の憎悪をナチではなく同じ収容者に向けさせた自主管理システムの恐ろしさは、被差別者がより冷酷な差別者となる現代社会の多くの事例に見ることができる。」(p.60)
○ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学術文庫、1999年)……捕虜銃殺の汚れ仕事を担った親衛隊兵士たちには飲み放題のアルコールが支給されていましたが、精神的負担に耐えられず発狂したり自殺したりする者も多く深刻な問題であったと書かれています。そのため、収容所では精神を荒廃させる行為から親衛隊員が遠ざけられました。「そこでヘスが考え出した悪魔的なシステムが、ガス室や死体焼却炉の作業をまかされたユダヤ人「特別部隊」の利用である。遺品を分類し、死体から金歯を抜き取り、灰を処分した彼らは、秘密保持のため約4か月ごとに用心深く抹殺された。」「ユダヤ人自身に残忍な任務を押しつけることで、犠牲者自身に罪の重荷を移転したのである。自分たちの代わりに非人間的な汚れ仕事を行ってくれる特別部隊に対して、親衛隊はある程度仲間意識さえ感じていた。「仕事」の合間に、親衛隊警備チームとの間でサッカーの試合さえ行われている。」(p.68)
○林芙美子『戦線』(中公文庫、2014年)……本書は、1938年9月19日から10月28日にかけて陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行したときの朝日新聞社発行の従軍記などの復刻版です。林は内閣情報部が組織した「ペン部隊」に自ら望んで参加していましたし、従軍記掲載の契約を交わしていた朝日新聞社が取材に協力していました。1938年当時、東日・大毎(毎日新聞社)の発行部数は285万、東朝・大朝(朝日新聞社)のそれは248万でした。その後、朝日の戦争報道が優り、1941年には部数が毎日を抜いています。「文壇での成功に新聞社を利用した女性作家があり、彼女の野心を部数拡大イベントに利用した新聞社があったというだけだ。その共犯関係は明白である。」(p.186)と評者は記しています。
○山之内靖/J・ヴィクター・コシュマン/成田龍一編『総力戦と現代化』(柏書房、1995年)……「総力戦が格差是正、つまり社会的平準化を必然化させるのは、大衆に戦争への主体的参加を求めるためである。」(p.151)という指摘からは福祉国家の顔はファシズム国家でも覗かせることがあるという歴史が学べる思いがしました。
○若桑みどり『戦争がつくる女性像――第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(ちくま学芸文庫、2000年)……「市川房枝ほか「進歩的」女性指導者たちが、戦時動員を女性の社会参加の機会と信じて、積極的に戦争協力を行った事実も指摘されている。」(p.188)という記述からも国民から協力を引き出す体制づくりの巧妙さを感じます。

宇土の宝

9月5日の朝日新聞掲載記事中にある「学校の音楽講師でもある原山圭子さん宅で練習を重ね、地域のイベントなどに参加。」に登場する、原山圭子さんは中学時代の同級生。指導者として活躍されているのを知り、誇らしく感じました。
大会では、「おかあさんコーラス賞」を受賞とありました。まさに宇土の宝の一つかもしれません。
https://www.asahi.com/articles/ASV941H7WV94ULIP00WM.html

当サイト来訪の方へのお断り

当サイトを閲覧いただき、誠にありがとうございます。
最初にお断りしておきますが、当サイト公開の目的は運営者自身の備忘録としての活用と合わせて閲覧者との情報共有(公共財としての情報活用)にあります。法人設立あるいは行政書士事務所開業の当初のコンテンツは、集客目的の事業紹介のそれが確かに主体だったのですが、年数を重ねるうちに次第にそのウエイトは減り、今では運営者自身もその目的を意図していないサイトとして取り扱っています。(備忘録情報は1万ページを超えていますので、何かと検索でヒットしてしまうようです。)
以上の理由により、特にホームページ制作事業者のみなさまが、当サイトの構成や伝え方・見せ方を分析され、提案営業をかけられるのはまったくのムダです。ご案内いただいても毎度無視しています。
加えて(かつてはあった)「お問い合わせ」フォームも開設しておりません。この理由はあまりにもスパムメールが多いため、その対応に時間を割きたくないためです。
※同一の内容を固定ページにも掲載しました。

こころピア&くまもと文学・歴史館訪問記

いずれも会期中の始め頃に2026年熊本地震が起きて一時休館したため、訪ねる機会を逸していた2つの展示会場(どちらも入館無料)へ、8月最後の日曜日、行くことができました。
まず1つめは、玉名市立歴史博物館こころピアの「熊本地震から10年 くまもと戦争遺産被災レスキュー展」(会期:7/22-9/13)。展示会タイトルにある「熊本地震」は2016年発生のそれを指していますが、今回の地震でさらに県内の戦争遺産が失われる恐れがあります。出展者の「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」では、「熊本地震戦争遺産支援金」を募っていて、八代市郡築の「コンクリート製軍人像」ほかの3D測量や宇城市・八代市を中心とした戦時資料のレスキュー活動の費用に充てたいと呼びかけています。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081801.pdf
展示品の中に、写真の教育勅語額装がありました。書いたのは「学習院教授 小野鐗敬」とあったので、ネットで調べて見たところ、明治時代に活躍した高名な書家である小野鵞堂(本名:小野鐗之助)(1862-1922年)らしいです。「鵞堂流」と呼ばれる独自の仮名書風を確立し、現代の学校教育における習字の手本にも大きな影響を与えた人物であり、華族女学校(現・学習院女子中・高等科)などで30年以上にわたり書道を教えたということです。
同展関連イベントとして8月1日に玉名市文化センターで「長崎被爆体験証言会と紙芝居Ⅱ~日本原爆被害者団体協議会設立70周年記念~」が開催される予定でしたが、当日は地震発災から間もない日程で会場が避難所となったこともあり、11月15日に延期されています(時間と会場は同じ)。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081201.pdf
2つめは、くまもと文学・歴史館10周年記念大収蔵品展の「温故知新 文学と歴史でたどるくまもとの記憶2026」(会期:7/17-9/23)です。本展で取り上げられる人物の時代は江戸時代から明治・大正・昭和・平成まで、分野は文学者に限らず、藩主・教育者・思想家などさまざまです。明治憲法や教育勅語を起草した井上毅も紹介されていました。井上の熊本時代の師匠は、木下韡村(1805-67年)です。もともとは農家に生まれましたが聡明なため22歳のとき苗字帯刀を許された人物です。弟の助之の孫が劇作家の木下順二です。次男の広次は、井上の義弟(韡村の長女が井上の後妻)にして、京都帝国大学初代総長であり、嘉納治五郎の媒酌人を務めています。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki/cat3/cat1
こちらも関連イベントとして9月12日に佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」が開かれるので参加申し込みを行いました。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/blogs/blog_entries/view/1945/7674ffc593d84ad90631799d278ebaf5?frame_id=2144

東京都美術館とワタリウム美術館訪問記

2026年熊本地震の後、断水が続いていたこともあって、8月半ばころまで首都圏に滞在していました。その間に、息抜きを兼ねて2か所だけ美術鑑賞の時間を過ごしました。
最初に訪ねたのは、上野にある東京都美術館で開催中の「大英博物館日本美術コレクション百花繚乱」。ロンドンにある大英博物館へは30数年前一度だけ行ったことがあります。日本美術を含む東洋美術の展示室は同館の奥まったところにあり、ゆっくり見て回るには数日かけないと無理だなと思った記憶があります。それと充実した施設にもかかわらず入館料が無料で、多くの寄付で文化を支える気風に感心した印象が強く残っています。
さて、本展の目玉は、青森(春景花鳥図襖)・ロンドン(秋冬花鳥図襖)・シアトル(琴棋書画仙人図襖)に分かれて所蔵されていた狩野派の一連・一組の襖絵が一堂に会するというものでしたが、江戸時代を代表する浮世絵作品も多数展示されていて、より見応えがありました。大英帝国時代のコレクターの作品狩猟ぶりはさすがというか、抜け目ないと思いました。1回の実物鑑賞だけでは飽き足らず、公式図録を買って帰りました。
訪ねた当日は、公園の一角で「パキスタン・日本親善フェスティバル」のイベントが開かれて賑わっていました。その隣の国立西洋美術館での常設展はその日、無料入館できたのですが、それなら中は込み合っているだろうと判断し、素通りして次の目的地であるワタリウム美術館へ向かいました。
ワタリウム美術館は地下鉄の外苑前駅から徒歩7分の地にあり、「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」の開催中とあって今回初めて訪ねました。ナムジュン・パイクのメディアアート作品に最初接したのは、40年以上前の時期でした。その後、韓国・果川市にある韓国国立現代美術館やニューヨークのグッゲンハイム美術館でも作品と対面した体験があり、それだけ思い入れが深いアーティストの一人です。
今展は同館ビルの2・3・4階で開かれていました。2階フロアには、檜(?)のチップが敷き詰められていてその香り、踏みしめた靴底から伝わる感触もあって、視聴覚だけにとどまらない作品の奥行を感じました。
ビル1階および地階にはショップやカフェ、ギャラリーが併設されていて、その空間もセンスが良く気に入りました。ギャラリーでは、コケシスキーの個展が開催されていましたので、思いがけず2つの展示を楽しめました。

『環境と公害』(2026年夏号)読後メモ

○林美帆・除本理史「水俣病をめぐる継承の課題と公害資料館――百間排水口問題にもふれて――」
戦後81年、戦争体験者の減少により、戦争の記憶の継承が「ひと」から「もの」へ移っています。それと同様のことが、水俣病公式発見から今年で70年を迎えた水俣病事件を伝える公害資料館でも課題として浮上しつつあります。
しかし、公立か私立か、その設立主体によって同じ公害を対象とする資料館でも違いがあります。
たとえば、「市立資料館の展示を見ると、水俣市が一番アピールしたいことは、「過去」よりも、環境再生をとげた「現在」なのではないかと思われ」(p.23)ます。
一方、「(民間の相思社の)考証館の特徴の一つに、圧倒的な現物(モノ)資料の展示」(p.23)があります。水俣湾内に汚染魚を封じ込めるためとして設置された仕切り網、水銀ヘドロを封じ込める埋め立て工事が行われたときの看板、チッソ附属病院の細川一医師が動物実験で使用したネコ小屋、「怨」と染め抜かれた旗などの展示がそうです。被害者や支援者が運動の中で集めてきた、思いの詰まったモノだけに、公害を引き起こした側には居たたまれなさを感じさせる「圧」があるかもしれません。
ですが、この違いがあるからこそ見えてくるものがありますので、それはそれで意味があるように思います。
本稿では、2023-25年に保存をめぐって動きがあった、百間排水口問題についても取り上げています。この排水口は、チッソが1932-68年にメチル水銀を海へ流し続けた、水俣病の原点の地にあります。市が老朽化した樋門扉を撤去する予定でしたが、それを知った患者や支援者から保存を求める声が出ました。当時の県知事もこの問題にかかわり、最終的には公害発生当時の「形態」を残す新しい扉が設置され、決着しました。今回撤去した扉自体は1999年から交換設置されていた比較的新しいもので、逆流防止という機能もすでにないものでしたから、「ものの真正性」という視点からすると、レプリカ保存でしかありません。一種のオープンミュージアムの意味をもたせた保存方式に、関係者が合意した現れと考えられます。

○佐伯良祐「水俣病被害者互助会認定義務付け訴訟――福岡高裁判決の事例報告――」
本稿は、2026年4月23日の福岡高裁判決について未認定被害者の代理人を務めた弁護士が報告したものです。
2013年最高裁判決では、感覚障害のみであっても水俣病罹患を認める可能性を認め、1977年判断条件が要求する症候の組合せを満たさない患者を水俣病と認定しました。
ところが、今度の福岡高裁判決では「感覚障害が認められても他疾患の可能性が排斥されない限り、水俣病り患の証明力は減殺される」として最高裁判決の判旨を空洞化させる判断をしました。「これでは、水俣病以外には何の疾病にも罹患していない健康体の者でなければ、水俣病と認定されないこととなって」(p.29)しまいます。
さらに、裁判官らが当事者に不可能な立証を求めている点として、当事者が感覚障害の発症を覚えた時期の問題があります。「当事者らは、メチル水銀排出量のピーク時付近に出生しており、幼少期から水俣病(感覚障害)を発症していた可能性が高い。物心がついた時期から感覚障害を有する者は、成人後に感覚障害を発症した者と比較すると、自らの身体に感覚障害が起きていることに気付きにくい。正常な状態を認識したことがないからである」(p.30)という指摘を理解できる裁判官がいないという現実に慄然としました。

○高岡滋「水俣病の病態と広がり――民間医師団らによるその解明の成果と、求められる健康調査――」
寄稿者は、水俣にあるクリニックで永く被害者の掘り起こしを続けてきた医師です。
未だに救済されない被害者がいる理由の一つを、病像の矮小化を続けてきた医学界の重鎮たちに求めています。本来行うべき調査を怠り、医学的根拠のない診断基準を正当化し解明を妨げてきたとまで言い切り、不作為・隠蔽に関与した医学者の実名を挙げて批判しています。
学者が学問的信念を脇に追いやり政治権力にこびへつらうことの罪深さを思い知りました。

○「水俣病問題の現在地と将来への課題――支援者の視点から――」
司会を含め7人の座談会をまとめた記事です(実施は2026年4月11日)。
最も注目した出席者の発言を引用紹介します。それは、伊東紀美代さん(水俣病被害者互助会)のものです。「私が望むのは、国も県も市もチッソも水俣病問題でどこで/どう間違ったか、なすべき何をしなかったか、してはならない何をしたか、真摯に検証をしてほしい、そこは望みます。水俣病事件で悪いのはひたすらチッソであり、国、県だっていうことが水俣市民の常識になってほしい、誰もが何の疑いもなくそうなれば、もう少しみんなフランクに水俣病と付き合えるんじゃないかと常々思っています」(p.69)。
つまり、過去に対する反省としっかりとした後始末をつけないことには未来を切り拓くことはできないということだろうと思います。これは被害者・支援者にも言えることで、運動の中での過ちがないとは限りません。過去にどう向き合うかということはたいへん重要です。

『世界』(2026年9月号)読後メモ

○「対談 真の名で呼ぶ 金城美幸×奈倉有理」
若者を軍に入らせやすくするために進めたロシア政府による教育制度の改変について奈倉氏が語っていました。それによると、日本でいう中学校卒業時に、特に成績のすぐれない生徒に対し、高校に進学せずに職業専門学校に入って就職するよう指導する方針がとられるようになったといいます。進学せずに就職すれば徴兵の猶予もなくなります。女性に対しては早く結婚して子どもを産むことが奨励されています。ほかにも地方から都会の大学への進学を制限して、教育の機会を減らし軍隊に入らせやすくしています。大学に進学した学生に対しても、契約兵として前線に誘導する方針がとられているとのことです。
軍隊があり、それを用いる権力があり、容認する社会があって人が殺されていることをもっと可視化すべきだという考えから、トルストイの『殺すなかれ』を紹介していました。
アルジャジーラによると、日本国籍とイスラエル国籍を持ち、イスラエル軍に従軍している人が65人、日本、イスラエルに加え3つ以上の国籍を持ち従軍している人が11人いるそうです。この情報は、金城氏が述べていました。

○武田一義「余白を胸に抱いて『ペリリュー』との10年間」
白泉社から『ペリリュー――楽園のゲルニカ――』の本編11巻、外伝4巻が刊行されているそうです。機会があれば手にしたいと思います。

○中尾知代「天皇オランダ訪問 不可視化されたデモ」
オランダの兵士慰礼塔があるダム広場へ同国訪問中の天皇が来場するということで、アジア・太平洋戦争期のインドネシアにおいて日本軍と戦ったオランダの軍人遺族たちが、サイレント・スタンディングを行う予定でしたが、現地当局はこれを許可しませんでした。代わりに、広場に面するホテルのカフェ内でサイレント・スタンディングが行われました。しかし、その撮影も現地当局は許しませんでした。過去の歴史と今回のデモの実態を双方の国民が知らなければ、和解には近づけないと、筆者の中尾氏は記しています。

○南彰「消された声 「不屈」船長性暴力問題」
悪天候の中、辺野古沖に船を出し、転覆事故により乗船していた高校生と船長の2人が亡くなる事故がありました。この船長は、北海道出身で、南城市の佐敷協会の牧師をしている人物であり、2010年に性暴力事件を起こした人物でもあったそうです。

○酒井朗「インタビュー 不登校35万人「学びの保障」と支援の市場化」
不登校支援の市場化の実態を知って驚きました。通信制高校のサポート校というものがありますが、これを利用するスクーリングを含めた学費は年間100万円前後になるのだそうです。
学習塾が朝から子どもを受け入れるフリースクールをつくりスペースを活用する動きも見られます。フリースクールから系列の通信制高校へ進学させるルートもあるといいます。
地域で学校教育そのものが成り立たないというのも十分あり得るため、オンラインでの学びが標準化・常態化すると、酒井氏はみています。

○荻上チキ「「学校に行かなくていいの」の、その先で」
不登校を選べなかった子どもだった荻上氏が、不登校児童の親になる体験を書いています。

○高坂康雅「不適応ではなく生存戦略 不登校でも人生は詰まない」
このタイトルのとおりです。

伊万里散策

先週末は国スポの九州ブロック大会で鹿児島県へ行きました。熊本地震のため九州の真ん中を通る交通が寸断され、鹿児島県の観光業が打撃を受けていると報道されていました。
そして今週は、佐賀県で開かれた日韓中ジュニア交流大会に参加しました。宿泊先が伊万里市内だったので、1時間ほど街中を散策して古伊万里などを鑑賞しました。

『気候紛争』読書メモ

関山健著『気候紛争 たった「2℃」が起こす戦争』(光文社新書、900円+税、2026年)は、気候紛争の研究が交流した2007年以降に国際的な学術誌に掲載された関連論文を主として参照し、その知見が分かりやすく濃縮されて解説されており、重宝する書籍でした。気候変動に伴う自然災害や社会混乱のリスクはかなりあります。例を挙げると、猛暑・熱波、日照り・干ばつ、豪雨・洪水、台風、高潮、海面上昇、水不足、食料不足、健康被害があります。雨が降らない一方、降る時は極端に集中して降るなど、その実感は確かにあります。さすがに最近はあからさまな地球温暖化懐疑の言動に接することが少なくなった気がしますが、そうした無知な勢力にあがらうためにも世界的に信頼できる最新情報に接しる機会を確保することが重要だと考えます。
本書で初めて知ったのですが、地球温暖化を防ぐために人工的に太陽放射管理を行う気候工学があるそうです。これはロケットを多数飛ばして成層圏にエアロゾルを散布(注入)するというものです。しかし、地球全体にどのような副作用をもたらすのか不明の点があり、実用には多大なリスクがあります。もしも国際的なルールやガバナンスを無視して強力にこうした施策を実現させようとする指導者がいたとしたら、たいへん怖ろしいばかりです。
他にも「風泥棒」という現象と国家間紛争の可能性についても初めて知りました。風が風車を回すと風速が下がるので、風下にある風力発電所の発電量を低下させるそうです。ノルウェーが北海に計画している100基近い洋上風力発電施設が稼働すると、約22km先の海上にデンマークが建設する発電所と風を奪い合う恐れがあるといいます。紛争を未然に防ぐ政治外交の視点が求められていることを痛感します。

り災証明書の発行申請

#マイナポータルぴったりサービス
#り災証明書の発行申請
#熊本県宇土市
このたびの令和8年熊本地震では直後に断水が続き生活が不便なため2週間近く県外に滞在していました。
それもあって室内散乱の片づけ作業は今月半ばからようやく着手した次第です。
建物被災は軽微でしたので、り災証明書の発行申請も15日に「マイナポータルぴったりサービス」から行いました。
熊本県宇土市の場合、申請状況の照会に対応していないため、マイナポータル上では処理状況の確認をすることができません。
本日現在、申請が提出済であることは確認できますが、処理完了までにはまだ時間がかかるのかもしれません。
担当部署も多忙でしょうから気長に待つこととします。
損害保険会社への連絡もインターネットから行いましたが、これも訪問の連絡待ちです。これも気長に待ちます。
地震前から予定に組まれていた、県外での競技審判の用件が近くまた控えているので、行政書士会の活動への協力がなかなかできず申し訳ないです。

2026.8.20 16時頃 記録のため投稿
18日付けで交付の「り災証明書」が郵便で本日午後に着信しました。マイナポータル上では「提出済」と表示され、「完了」まで日数がかかるのかなと考えていましたが、即日に近いペースで処理されたようです。担当課の仕事ぶりに感謝します。

【利用しての評価】
結果的に紙の「り災証明書」が手元に届いたので、処理は完了したのですが、19時半現在、マイナポータルで確認したところでは、単に「提出済」のままですし、交付に関するお知らせの表示も通知もありませんでした。
(戸籍名の読みの確認など他の過去の手続きは「完了」となっています)
行きだけ電子で、帰りは紙郵送という流れであるという説明がどこにもない点に正直戸惑いました。この運用が自治体ごとにもしも異なるなら、サポートにあたる行政書士のみなさんも困惑されるかもしれないですね。

実践ワークショップ(案内)

小中学校時代の同級生の泉憲二くんが、9月15日、XOSS POINTで「業務の見直しから組織を考える実践ワークショップ」を行います。特に医療や介護業界に精通して実績をもつ講師ですが、業界を問わず課題を抱えている企業担当者には役立つ機会となるかもしれません。以上、ご紹介まで。
なお、案内チラシには記載がありませんが、天草市河浦町の子どもたち向けの水泳指導も続けておられます。ビジネスだけでなく地域貢献にも熱い人物です。

『砕かれた神』読後メモ

『砕かれた神 ある復員兵の手記』(角川新書、1200円+税、2026年)の著者が渡辺清氏(1925-1981年)と知り、今夏手に取りました。同氏の著作との出会いは実に半世紀ぶりとなります。中学2年のときに中学校の図書室から借りて読んだ『海の城 海軍少年兵の手記』に、たいへん衝撃を受けた覚えがあります。『海の城』の舞台は、少年兵であった渡辺氏が実際に乗艦していた日本海軍の巨大戦艦「武蔵」。艦内での精神混入棒を用いたしごきにより、同年兵が亡くなる事件も描かれていました。敵軍との交戦だけでなく味方の上官の手によっても命を失うことがある軍隊という組織の歪さを知ることができました。著者自身の戦中の記憶が『海の城』であり、敗戦直後の20歳前後の記憶が『砕かれた神』となっています。戦後、著者の心の中で砕け散ったものは現人神であった天皇だけでなく、戦中までは沈黙していた学者であったり、権力に阿った言動を続けていた学校教師や地域の名士だったりが含まれます。少年兵たちは復員後、戦後にやすやすと手のひらを返した醜い大人の姿を知るのです。巻末の小熊英二氏による解説がいいです。

惜しみなく与えよ

※本稿は「令和8年熊本地震」発生直前から書き始めて2日空けて本日脱稿したものです。
英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学教授(人類学)だった米国生まれのデヴィッド・グレーバー(1961-2020年)著『民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義』(平凡社ライブラリー、1700円+税、2026年)に所収の「【付録】惜しみなく与えよ――新しいモース派の台頭」は、魅惑的な論考です。自分と他人を同時に豊かにする贈与の「喜び」と「楽しみ」について思い起こさせてくれます。
この対極にあるのが、効率的に奪うことを良しとする自由市場一辺倒のタックスヘイブン、自由港、経済特区のような社会であり、非効率的だとみなされる民主主義がない資本主義の世界に見えます。そうしたゾーン(区)は世界のあちらこちら(後掲書によれば5400カ所)に出現しています。ボストン大学パーディー・スクール教授(歴史学)であり1978年カナダ生まれのクィン・スロボディアン著の『破壊系資本主義 民主主義から脱出するリバタリアンたち』(みすず書房、3600円+税、2026年)を読むと、香港、ロンドンのカナリーワーフ、シンガポール、南アフリカ、米国内のゲーテッド・コミュニティー、未承認国家ソマリランド、ドバイ、メタバースのクラウド国といった実例を知ることができます。
国家であれコミュニティーであれ、民主主義の手続きを捨象して物事を決める会社経営者のような人物がトップを務めるような政治がまかり通っていることに気づいて発言し行動するのが、人間の人間たる所以ではないのかなと、上記の2冊と合わせて7月27日放送の、NHK・Eテレの番組「こころの時代〜宗教・人生〜 川とひとをみつめて 〜ある河川工学者の半生〜」を視聴して感じました。この放送の40分前後では、熊本県の川辺川流水型ダム建設計画も取り上げられています。この番組に登場する河川工学者の大熊孝さんは、ダム治水に対して学問的見地から疑問を呈して行動してきたことが理解できます。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/9L5KQJ6YVP
2020年7月に発生した球磨川流域の豪雨災害についてはダム計画に反対する市民団体から次のような見方が呈されています。この災害後、国交省は「川辺川ダムがあれば浸水は6割防げた」と主張し、当時の熊本県知事に流水型のダム建設へ舵を取らせました。しかし、この豪雨災害時に、川辺川流域に局所集中豪雨が降ったわけではありません。球磨川の中流域の山地へ局所集中豪雨が降り、人吉市街地で球磨川がまだ氾濫しない時刻に支流の山田川や万江川が氾濫して多くの命が奪われています。人吉市街地を襲った大洪水は球磨川からでも川辺川からでもなく合流点でつくりだされたものでした。合流点の直上の低地は丸太の集積場となっており、膨大な丸太が貯木されていました。洪水によってそこから流れ出した丸太が流木となって第四橋梁にたまりダム化し、その後崩壊したのが要因と考えられます。川辺川流域の地形や地質、人吉市に氾濫を起こした洪水の原因の分析を疎かにするばかりか、事実を捻じ曲げて進められようとするダム事業の姿があります。
なお、その市民団体の試算によると、川辺川のダム建設を巡る熊本県の将来負担は620億円(熊本日日新聞7月2日記事参照)に上ると見られます。実際、過去60年間の県の負担額は526億円に上っていますが、県は完成までの負担額を試算していないとしながら、木村知事は経済波及効果があるとする立場から「負担金を支払ってでもやるべき事業だ」(熊本日日新聞7月3日記事参照)と会見で述べています。治水に役立つか疑問な事業に620億円の公金を出すよりも、流域の住民へ同額を給付した方がよほど経済波及効果も復興効果もあると考える器量は感じられません。
7月9日には熊本県民交流館パレアで開かれたシンポジウム「熊本の防災・治水を考える―地域気象データ駆動型社会への展開―」があって、防災に役立つ気象予測や緑の流域治水の研究成果・活用実績が報告されました。閉会時には後援についている熊本県の知事があいさつに出てきて、「アカデミアに対するリスペクト」を口にしつつ、「川辺川の流水型ダムは(緑の流域治水にとって)うれしい社会実装」と述べ、報告の趣旨に反する見解を平然と盛り込んだ態度に、薄っぺらさを感じました。
この知事は同職に就く直前、県職員である公益通報者に対して以下のLINEメッセージを送ったことで知られています。「内情を暴露するのは逆にブーメランになって○○さん(通報者)を刺しに来るのが既得権・旧体制のやる手段です」(熊本日日新聞7月25日記事参照)。既得権・旧体制のやり口に詳しいことがうかがえますし、刺されないために既得権・旧体制におもねる処世術が知事には身についているようにも思われます。
公益通報も民主主義の手続きの一つだと思います。効率重視の既得権・旧体制の方々からすれば、民主主義の手続きを踏もうとする人は、目障りで刺したいのかと、勉強になりました。しかし、そんな仕事に「喜び」と「楽しみ」はないでしょう。哀れに思う気持ちもあります。

富山大空襲

富山県はまだ訪ねたことのない土地の一つです。それもあって1945年8月2日の富山大空襲の歴史や富山市が不二越という工作機械メーカーの企業城下町であることも、昨夜開催の第50回空襲オンライン学習会での報告を視聴するまでは知らずにいました。この空襲は、米軍の報告書によると、作戦目標エリア内の焼失率が99.5%と他の都市と比べても格段に高い攻撃を受け、徹底的に焼き尽くされたことがわかっています。死者数は2700人超とされます。しかも、その目標エリアというのが、県都であり住宅が多く占める地域であり、近接する陸軍施設や不二越は逆にエリア外とされ、実際、不二越は被害を免れました。
報告者は、北日本新聞を定年退職後に立教大学大学院で学ぶ鶴木義直氏です。もともとは地方自治を研究したくて大学院に進まれたのですが、ジェノサイド研究の教授からの勧めと新聞社時代に富山大空襲を研究している地元歴史家との出会いがあったことから、研究テーマを変更し、論文作成にかかっているとのことでした。「なぜ富山は徹底的に焼き尽くされたのか」「大惨事の記憶はなぜ継承されなかったのか(公共財化の動きは戦後30年近く経ってから)」を課題に準備を進めていると報告がありました。
※富山市公式ウェブサイト「未来に語り継ぐ富山大空襲の記録」
https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu/
※総務省ウェブサイト「国内各都市の戦災の状況」へは富山市から掲載がありません。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/index.html#shinetsu
報告を聞きながら意外に感じたのは、当時ベアリング製造にあたっていた不二越がなぜ作戦目標エリアから外されたかということでした。米軍側からすると、この時期には、工業生産設備を叩かずとも勝敗が決していたので、むしろ戦後の活用を見据えてあえて温存させたのではないかとさえ思わせます。
上岡伸雄著『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書、2025年)を参照すると、ルメイがワシントンからの指令で、満州の鉄鋼産業を標的にするのやめ、台湾と日本本土の軍需産業を標的にするようになったのは、1944年10月からです。出撃基地もインド(成都経由)からマリアナ諸島に変わっていきます。第1目標は軍事施設(軍需会社を含む)としながら、第2目標は市街地に設定され、そちらを爆撃することもありました。武器製造を支える小型部品の工場が住宅地の至るところにあるので、そういう場所を叩くためには住宅密集地への攻撃もやむなしと航空軍の上層部は考えていました。
1945年3月の、無差別爆撃といえる東京大空襲を前にルメイは、「民間人にある程度の死傷者を出すことなく戦争に勝つことはできない。(……)我々が戦争を始めたのではないのだし、早く戦争を終わらせれば終わらせるほど、たくさんの命を救うことになる――アメリカ人の命だけではない。できることなら民間人の殺害は避けたいが、これは頭に入れておいてくれ。兵器を製造する日本人の労働者も彼らの軍事機構の一部だ。私の第一の義務は、我々のクルーの命をできる限りたくさん守り、救うことなのだ」と語っています。この時期は東京、名古屋、大阪、神戸と大都市が中心で、焼夷弾が尽きて半月あまり空爆を休止してしまうほどでした。その間、機雷投下のミッションを行っています。空爆再開後、1945年6月中旬までに東京の150平方キロ、名古屋の32平方キロ、神戸の23平方キロ、大阪の40平方キロ、横浜の23平方キロ、川崎の9平方キロが炎上しました。
この時期、まだ米陸軍の一部であった航空軍は、まだ残っている中小の工業都市への空爆によって、日本本土侵攻前に日本を降伏に追いこめば、航空軍が戦勝に最大の貢献をしたことになり、空軍独立の悲願を果たせるのではないかと考えていました。7月の終わりには原爆がテニアン島に届く予定でしたが、原爆は陸軍の仕事であり、航空軍はその運び屋にすぎないとされたことから、航空軍としては原爆なしでも自分たちの手で戦争を終わらせたという実績を求めていたという見方もあります。それで、ルメイは標的を中小の都市に向け、7月終わりまでに60の都市を破壊していきました。
1945年7月20日、富山市内3カ所に模擬原爆が投下されています。7月26日、原爆がテニアン島に運びこまれ、ワシントンから航空軍へ8月3日以降に原爆投下の指令が届きました。ルメイは原爆と競い合うように中都市への爆撃を進めました。7月31日に富山市へ空襲警告ビラ(伝単)が撒布されます。8月1日から2日にかけては陸軍航空軍の第38回目の創立記念日に合わせて特段に激しい空襲が企画され、富山はこの作戦で八王子、長岡、水戸とともに爆撃されています。死者は合わせて約5千人に上りました。
葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像』(石風社、2026年)などによると、1944年1月に共に軍需会社に指定された化学産業である日窒水俣工場(防諜名:熊第7042工場)は同年3~8月に7回(最大規模は7月31日、26人死亡)、同延岡工場(現旭化成)は同年3月と6月、昭和電工川崎工場は同年4月に空襲を受けています。これら化学工場では爆薬原料の製造を行っていましたので攻撃目標となったのは頷けます。他の都市でも航空機製造拠点は早い時期から攻撃を受けています。それだけに富山の不二越がなぜ目標から外されたのかは興味あるテーマです。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_07.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_09.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html