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上野三碑と渡来人

2025年度くまもと文学・歴史館館長佐藤信連続講演会「地域と交流の古代史」の1回目「上野三碑と渡来人」を6月14日、受講しました。上野三碑とは、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録された、特別史跡の山上碑(681年)および古墳、多胡碑(711年)、金井沢碑(726年)からなり、いずれも群馬県高崎市に位置しています。
今回の講演を聴いて現在の群馬県にあたる上野(読みは「こうずけ」)地域が、7-8世紀の時代に異国人を排除することなく迎え入れた渡来人と密接な関係があり、仏教・漢字文化や建築・繊維その他の先端技術を受容して東アジアと交流してきた開明的な社会であったことを学べ、大いに刺激を受けました。高崎市では無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」を運行しているとのことですから、機会があればぜひ訪ねてみたいと思います。
上野三碑の存在については私も不勉強でしたが、その価値が日本で再発見されたのは、明治時代になってからなのだそうです。近世に、朝鮮通信使が多胡碑拓本を持ち帰って中国清に伝え、清の書家により楷書の手本として評価されていました。それが、明治時代になってから、清の外交官より日本の書家へ多胡碑の存在が教示されて、日本側で注目されるようになったということでした。
講師の佐藤館長は文化庁勤務歴もあるため、文化財保護行政についても詳しく、史跡がある自治体へは1件あたり240万円の交付金があると明かしていました。交付の趣旨は史跡保存のためということですが、地方財政にとっては歓迎なので、1991年から2003年まで群馬県知事を務めた小寺知事の時代は、本人が文化財を大切にする人物だったので、県民の協力も得て史跡を増やすことに奔走した逸話を紹介していました。
さらに、この講演を聴いて次のことも思い浮かべました。高崎市といえば県立公園「群馬の森」があり、2025年1月29日に朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去した知事がいます。このような人物だと、戦争遺跡を史跡として保存しようという意識は到底望めないだろうなと思いました。知事次第で歴史的価値評価や財政の目の付け所に差が出てくるものだなと感じます。
ところで最近は中国関連の情報に関心を持ちます(写真画像の書籍は近頃読んだものです)。中国のことは中国発の情報ではなかなかうかがい知れなくなっていると感じます。そうなってくると、時代を越えて見たり、関係先を通じて見たりすることが必要になります。中国の国土は広大ですが、国民の多くが住むのは沿岸部であり、食料やエネルギー、物流は近隣に多くを頼っています。より遠隔地との海上ルートが封鎖されれば、たちまち行き詰まってしまうのは目に見えています。したがって、いたずらに脅威論を唱えるのは現実的ではないし、崩壊の危機に怯えているのは中国自身かもしれません。

第三十七師団戦記読書メモ

4月に神田古書店街の文華堂書店で手に入れた、いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』(以下、上巻と称す)『夕日は赤しメナム河』(以下、下巻と称す)は、旧日本陸軍の実相を知るうえで貴重な史料だと思います(熊本県立図書館にもあります)。著者自身が1939-1943年の間、師団の戦列に加わっていた体験者でしたし、戦後、防衛研修所戦史部勤務の環境にあったため、師団が記録した各作戦の戦闘詳報に接することが容易でした。この詳報は戦後の1946年1月9日、進駐米軍に、他の陸軍史料とともに一括押収されて米本国へ渡り、ワシントンの国立公文書館に眠っていましたが、1958年4月10日、日本へ返還され未整理のまま、戦史部史料庫に収納されていたものです(下巻p.290)。加えて、出版した時期は戦後30年頃、生還者の回想証言も収集可能でした。史料と記憶証言が比較的充実したなかで出版されたのは幸いでした。
以下に本書で知った興味深い情報のメモを記します。

・日中戦争(支那事変)の発端となった蘆溝橋事件の発生は1937年7月7日。この当時の中国軍の兵力は184師・約130万名、極東ソ連軍は28個師団・約56万名いた。日本軍兵士の約90%近くは予・後備役兵であり、現役兵力が枯渇していた。そのため1939年、新たに10個師団、15個旅団等、約22万名の兵力が臨時編成された。そのひとつが第三十七師団。1939年2月に久留米で編成され、同年5月に山西省晉南(しんなん)に進駐した。当初は山地戦に不向きな編成だったため、1940年8月までに逐次改編された。輓馬→駄馬。野砲→山砲。

・第三十七師団の「七」は「しち」と読む。同師団の兵団文字符は「冬」。「作戦」とは、通常、戦略単位(師団)以上の兵団の某期間にわたる対敵行動の総称。

・一号作戦構想時の支那派遣軍の兵力は、25個師団、12個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団、1香港防衛隊で、人員約64万4000名・馬匹約13万頭。このうちの約79%にあたる14個師団、6個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団等、合わせて人員約51万名・馬匹約13万頭・戦車装甲車794両・火砲1551門・航空機154機・自動車1万5550両を、同作戦兵力とした。一号作戦の役割は、あくまでも太平洋戦域の主作戦の、背後を固める大陸での支作戦、対米持久戦の一環だった。一号作戦から第三十七師団の秘匿符号は「光」となった。

・軍馬の入隊は騸(せん)を標準とし、やむを得ないときに限り、牝(ひん)で代用していた。騸とは明け三歳の牡(ぼ)の去勢したもの(上巻p.174)。まれに去勢の時点で陰睾のため睾丸の片方が腹腔内に隠れて切除を免れた馬力絶倫の軍馬がいた。片睾の武こと武久号。

・蒋介石が率いる中国軍には日本軍の捕虜や兵器を捕獲した場合に懸賞金を与える定め「修正俘虜及戦利品処理弁法」があり、品目によっては中国軍将兵の給与(例:師団長180元)よりも高かった。暗号電報符号簿5万元、官兵の番号認識票1個500元。

・南進前に第三十七師団が駐屯していた山西省運城の警察署長は関鉄忱という元騎兵大佐で、漢代の英雄、関羽五十九代の後裔と伝えられていた(上巻p.268)。当時発行されていた中国聯合準備銀行券の十円札に印刷されていた関羽像と風貌が似ていた。

・華北の鉄・石炭・綿花・塩・小麦を日本国内へ還送するのが日本軍の任務だったが、広大な土地と中国人民の大海の中では、面ではなく点を占拠することしかできなかった。華南ではタングステンが垂涎の軍需資源だった。

・中国軍(蒋介石軍事委員長)による日本軍に対する観察と対策(1940年)。
【日本軍の長所】 → 【中国軍の対策】
快:軍用巧妙、動けば脱兎の如し。 → 穏:沈着固守で当れ。
硬:戦闘力と精神が堅強なり。 → 靭:持続性堅忍性ある戦闘で当れ。
鋭:錐の如く突進し勇猛果敢なり。 → 伏:伏兵をもって、不意を突くべし。
【日本軍の短所】 → 【中国軍の対策】
小:兵力寡小、部隊大ならず。 → 衆:要点に兵力を集中する「専」。
短:速戦即決にあり。 → 久:消耗持久戦。
浅:敢て深入りせず300キロ以内。 → 深:縦深配備をもって迎えよ。
虚:後方に空虚多し。 → 実:虚隙を奇襲せよ。

・戦時糧秣の加給品。清酒1人1回の定量は0.4L(約2合2勺)=飯盒のフタ約1杯分。駄馬1頭当たりの駄載重量80キログラム。

・上巻p.468に偵察機から師団戦闘司令所へ落とされた通信筒についての記載がある。筆者らが斥候任務にあたっていた際に、地上から友軍の偵察機へ敵軍の集結状況を知らせるために、通信紙や枯れ草を燃やしてみたものの煙が細いために、斥候の騎兵分隊員の褌を外させて燃やし白煙を上げさせた逸話も載っている。

・上巻p.489においては、陸軍上層部の治安戦略の欠如を指摘している。筆者は「以漢治漢」でなかったこと、吃飯(チイファン)対策が疎かで民心収攬に実効が上がらなかったとしている。

・アルカリ土壌である山西省は馬の飼料牧草として栄養価が高い「ルーサン」(和名「苜蓿うまごやし」)が特産だった(上巻p.504)。蹄鉄を装着するために使用する蹄釘(ていちょう)は、スウェーデン製が硬くて粘りがあり良質であり落鉄することがなかったが、日中戦争開戦後は輸入できなくなった(上巻p.55)。スウェーデンでは制作方法は極秘とされ工場見学できなかったが、1935年ごろから陸軍で良質の蹄鉄を国産化(大阪・狭山と立川)できるようになった。

・1943年6月に捕虜となった当時7歳の中国人男児。師団将兵と南下作戦に随行し、タイで終戦を迎えた。面倒を見ていた加地正隆軍医中尉が熊本へ連れ帰り養育し、1969年「光 俊明」として帰化した。

・1944年4月22日に起きた第二十七師団の一大凍傷事故について下巻p.110で触れられていた。第二十七師団の徴募区は東京付近で、当時は一号作戦に組み込まれていた。この事故は、後年一橋大学教授となる藤原彰氏の著書でも触れられている。大黄河甲橋に向かい、約100キロの道中を行軍中に豪雨に遭い、膝を没する泥濘(ぬかるみ)の中で、立ち往生し、数十名の兵が凍死し、多くの軍馬が斃れている。約2000名の将兵が凍傷にかかった。

・第二十七師団の凍死者を出した記述は下巻p.306にもあり、166名とある。期日は1944年5月14日夜とある。驢(ろば)や牛は多く死んだが、馬だけは死ななかった。馬を捨てて逃げられない山砲隊・歩兵砲隊・大行李の馭(ぎょ)兵の損害が多かった。

・師団司令部の戦時作戦用の携行品について下巻p.125で触れられている。すべての装備を自動貨車で携行するには約20両を要した。機密書類と戦時公用行李について抜粋すると以下の通りとなる。
機密書類 戦時諸法規・野戦諸勤務令等一式で102冊のほか、下記を保有。前述の藤原彰氏は戦死比率が最も高い陸士55期卒だが、以前は履修科目であった戦時諸法規を学ぶ将校養成教育を受けなかったと、著書で記していた。
参謀部 作戦計画・同命令・編制表・兵器表・情報・人馬弾薬の補充計画運用・地図・秘密保全・通信計画運用・機密作戦日誌等。
副官部 司令部関係の戦時名簿・師団の人馬現員表・同死傷表・功績・将兵の人事・人馬補充事務・司令部物件補給・俘虜戦利品・陣中日誌・事務用品等。
各部 師団全般に関する各部主管業務の計画・補給・運用等書類。
戦時公用行李 乙 機密書類用で、規格は、高さ23.5cm×幅32cm×長さ66cmの防錆鍍金の錠つき金属製。参謀部11・副官部5・兵器部6・経理部17・軍医部5・獣医部5・師団司令部合計49個。 甲 金櫃(きんき)用で、規格は乙と同じであるが、錠は、内外各2個つき、物資調達用の聯銀券(華北)・儲備(ちょび)券(華中・華南)・金銭糧秣被服関係の証票書類を収納。経理部20個。

・行軍について下巻p.155で触れられている。敵との接触が多い場合を戦備行軍といい、日々の行程が多く休憩が少なく昼夜連続となる行軍を強行軍、短時間に目的地へ到着するために速度を増し休憩を減らす行軍を急行軍と言う。敵との接触が少ない場合を旅次行軍と言う。10~15分休憩を含む標準の行軍速度は歩兵中隊で時速4キロとされた。1日の行程は諸兵連合の大部隊で約24キロとされた。敵軍の航空機(米軍P-51ムスタング)からの攻撃や夏季炎熱を避けるため夜行軍を行うことが多かった。

・馬匹の負担量について下巻p.234で触れられている。乗馬の場合は馬体重の約4分の1以内、駄馬の場合は約3分の1以内を適当とし、輓曳(ばんえい)量は約4分の3以内を限度とされた。日本馬の馬体重平均は約470キロ、大陸馬は平均約270キロ以下だった。強行軍による過労や栄養不良、馬蹄の摩耗欠損などが多発し、使役不能となる馬匹も多かった。

・糧秣不足について下巻p.259で触れられている。糧食の1日基本定量は次のとおり。人糧 1人…精米660グラム・精麦210グラム・生肉類210グラム・生野菜600グラム・食塩5グラム・粉醤油30グラム・梅干45グラムなど。 馬糧 1頭…大麦5250グラム・乾草4000グラム・食塩40グラム。 中国人馬夫・俘虜 穀粉600グラム・肉類40グラム・生野菜300グラム・豆類20グラム・食塩20グラム。 師団(人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名)1日の糧秣総量 人糧 小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)。

・徴発、いわゆる強制買い上げ方式について下巻p.260-261で触れられている。住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。藤原彰氏の後を継いだ一橋大学教授だった吉田裕氏の著書にも同様の記述がある。下巻p.420では、事実上の掠奪と記述している。

・下巻p.292によると、在中米軍(第一二航空隊)による対日本土爆撃の第一次は1944年6月16日である。成都から発進したB-29・B-24重爆撃機47機によって九州八幡製鉄所が空襲を受けた。1944年5月末ごろの航空兵力は在中米空軍556機・重慶(国民政府)空軍111機合計667機に対して、在中の第五航空軍は217機であり、戦力比は3:1だった。第五航空軍の実働は約150機程度あり、戦力比の実際は5:1だった。

・1944年6月25日に重慶軍事委員会が発令した桂林防守軍の編成の中に桂林城北部に配置された第一三一師がある。その師長は関維雍少将。1944年11月10日、桂林城内の風洞山・中山公園独秀峰が包囲され力尽き、風洞山の洞窟内で拳銃自殺を遂げたと、下巻p.411にある。

・要塞・堡塁・砲台の区分について下巻p.489に記されている。要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。

・1945年3月11日のランソン捕虜虐殺事件について下巻p.541で触れられている。フランス領インドシナ(現在のベトナム)のランソン要塞を歩兵第二二五聯隊(主に熊本県出身者の兵で編成)が陥落させた際にフランス人の300名余の投降兵を収容したが、鎮目武治聯隊長(大佐)は小寺治郎平第一大隊長(少佐)と福田義夫第七中隊長(大尉)に対し、投降兵の処断を命じた。戦後、フランス軍軍法会議で約20名が戦犯容疑となりサイゴンチーホア刑務所に収容された。小寺少佐は1946年10月30日に同所内で自決。伊牟田義敏第四中隊長(大尉)は1948年11月21日にジュラル病院で病死。鎮目大佐・福田大尉・早川揮一大尉(歩二二五通信中隊長)・坂本順次大尉(歩二二七第八中隊長)は1951年3月19日に法務死についた。ほかにも投降兵射殺事件による戦犯法務死の記載がある。

・下巻p.621-629には付録第六として1944年6月30日調べの第三十七師団小隊長以上職員表が掲載されている。戦後、熊本で医師としてある程度知られた人物の名を見つけることができる。一人は光俊明氏を養育した加地正隆。師団司令部の防疫担当の軍医部員だった。階級は中尉。熊本市水道町交差点に面した加地ビルを覚えるいる向きもあると思うが、健康マラソン(天草パールマラソン大会を始めた)で長寿を目指して「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで記憶に残る「熊本走ろう会」の会長を永年務めた。第5代の熊本県ラグビー協会長も務めた。もう一人は、三島功。患者収容隊本部の衛生部見習士官として名が確認できる。水俣市民病院や明水園に勤務したし、水俣病認定審査会の会長も務めた。水俣病患者認定には厳しい姿勢で臨んでいたために患者・支援者からの評価は低い人物だった。

士官主導と初年兵主導との戦記の違い
第三十七師団歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』や同師団の山砲兵第三十七聯隊の初年兵だった松浦豊敏氏が書いた『越南ルート』と藤田豊著の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』とでは、同じ師団の戦記とはいえ、視点が大いに異なります。『地獄の戦場参千粁』や『越南ルート』では、行軍のつらさや隊内での人間関係に焦点が多く当てられています。糧秣不足と過労、厳しい気象環境で、戦病死が多い戦場でした。中には戦死扱いにされた例もあります。初年兵に理由もなく暴力をふるう古兵についてが敵軍よりも憎しみを込めて描かれています。将官を近くで見ていた若い士官だった藤田本では、将官に対して厳しい評価を下した記述が意外とありました。たとえば、行軍途中で師団長と参謀長だけのために毎日司令部付きの工兵が防空壕を掘らされたことなども明らかにしています。士官たちが残した記録は文字だけではなくスケッチが多いのが特長です。士官に求められる資質に西洋画技法があり、じっさい士官学校ではその教育がありましたので、戦地からスケッチを持ち帰られなかった場合でも当時の記憶から描き起こすことも可能だったかと思われます。

I go to Edo.

#長嶋茂雄 #立教大学 #長嶋一茂 #景浦将

昨日からの長嶋茂雄さん死去の報道に接していろんな思い出に浸った昭和世代は多いことと思います。小学生のときに、巨人ファンだった父のお伴で記録映画「燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3」を熊本市新市街にあった東宝で見た記憶があります。大学生時代には長嶋茂雄さんの母校・立教大学へよく通っていましたので、さまざまな伝説を見聞していました。たとえば、東京六大学野球でホームランを打ったら大学から単位をもらえたとか、英作文の試験で「私は東京へ行った」を「I went to Tokyo.」ではなく「I go to Edo.」と書いたとか…。江戸時代の東京へ行くことをもって過去形とする人並み外れたその思考力は、むしろ天才の領域です。

そうした数々の伝説は、何かの出版物で読んだ覚えがあったので、書架にあった『St.Paul’sCampus』(立教大学の現役学生が編集出版していた雑誌)を久しぶりに手に取ってみました。残念ながら長嶋茂雄伝説の記述は同誌にはなく、代わりに野球関連の記事では、菊池桃子推しだった長嶋一茂くん(当時在学中)や立教大学から大阪タイガースに進んだ景浦将(1943年戦死)がプロ野球50周年記念切手になった話題を見つけました。それと、当時の雰囲気を伝える広告や学生のスタイルを懐かしく振り返ることができました。スタジャン、ソアラ…。

そうこう思うと、長嶋茂雄さんのおかげで昨日からけさにかけて多くの昭和世代が、しばし高度経済成長期やバブル期の日本へ行ってみたのだなと思いました。

https://www.rikkyo.ac.jp/news/2025/06/mknpps00000388fa.html

つえーげんぞー

7か月前となる昨年10月に金沢駅で見かけた(写真パネルですが…)大の里は、ちょうど今の草野とみたいにまだマゲが結えないザンバラ頭状態。このたびの横綱昇進が、いかにスピード出世だったということが実感できます。🧐
石川県を訪ねると、街中で出合う55や8がラッキーナンバーに思えます。これから無限大(8)にイケイケ(55)の活躍が期待できそうです。😊
なお、金沢ゴーゴーカレースタジアムがホームのJ3ツエーゲン金沢のクラブ名は、金沢の方言「つえーげんぞー(強いんだぞ)」に由来するんだそうです。マスコットの名前もゲンゾー。🙂
大の里より1つ若い草野のシコ名には何がふさわしいか、地元で大喜利でもやってみれば。😅

死者の声を聴く

#やなせたかし展 #梯久美子 #やなせたかしの生涯 #戦争ミュージアム #熊本マンガアーツ #原哲夫 #北斗の拳 #ラオウ #ケンシロウ
熊本市現代美術館で現在開催中の「やなせたかし展」記念講演会を本日聴講してきました。講師は、やなせたかし氏と『詩とメルヘン』の編集に共にあたられた経験をお持ちの梯久美子さん。今年文春文庫から『やなせたかしの生涯』を出版された著者だけに、わずか定員100人の会場へ入れるか心配して訪ねましたが、幸い前から2列目の中央の席が空いていて、座ることができました。そしたら、すぐ後ろの席に地元紙の元論説主幹の高峰武氏がおられました。お会いしたのが、今年2月の『増補・新装版 企業の責任』出版記念フォーラム以来で、私からは先月訪ねた菊池恵楓園歴史資料館の展示のことなどを、講演の前に話したりしました。講演中は、私のような図体の者が前に座って視界を遮ってしまったのではと気になりました。
さて、梯さんの講演内容のほとんどは、上記の『やなせたかしの生涯』のエッセンスでしたが、講師としては「アンパンマン」原作者としてだけでなく、詩人や絵本作家としてのやなせたかし氏を評価すべきと強調されていたのが印象的でした。それと、誰に対しても怒らず責めない、やなせたかし氏の人格に対する強い信頼感が、講師の言葉から伝わりました。そのような人生の師に恵まれたことで、今日の梯さんの活躍も生まれてきたように思います。
やなせたかし氏が大切にする究極の自己犠牲の考えは、自身の戦争体験と弟の戦死の影響が大きいと言えます。
梯さんが昨年岩波新書から出した『戦争ミュージアム』のあとがきで、「戦争ミュージアムは、死者と出会うことで過去を知る場所であると私は考えている。過去を知ることは、いま私たちが立っている土台を知ることであり、そこからしか未来を始めることしかできない。」(p.210)と書いておられます。この言葉は、やなせたかし氏が戦死した弟の声を聴き続けてきた行為と重なる思いがしました。今回の「やなせたかし展」もある種の戦争ミュージアムを感じる展示でした。
一口に戦争ミュージアムといっても中には遺品や武器を展示しただけの単なる国威発揚の施設もあります(誤解がないように書き添えますが、『戦争ミュージアム』が取り上げた施設はまとなところだけです)。どのような死者の声を伝えようとしているミュージアムなのか、それらはやはり聴く耳をもった施設運営者の哲学によるところが大きいと思います。いずれにしても、『やなせたかしの生涯』と『戦争ミュージアム』を読んでいただければ、戦争の愚かさを伝える施設と単なる国威発揚の施設の区別はつくようになると思います。講演会後にサイン会の時間が設けられましたので、持参した上記2冊にめでたくサインを頂戴しました。感激です。ありがとうございました。
ところで、梯さんの経歴を知ると、私と同学年。共に熊本県生まれで父親が自衛官。北海道居住経験があります。私が先に北海道に渡り、梯さんはその3年後ぐらい。梯さんが北海道に渡った1年後の夏に私は熊本へ転出しますので、1年間だけ共に道民だったということがわかりました。
以下は、余談ですが、講演会の前に通りの向かい側にある「熊本マンガアーツ」で「北斗の拳」や「花の慶次」の原作者・原哲夫さんの作品展示もきょう観てきました。原さんの経歴を確認すると、生年月が梯さんと同じ、これまた私と同学年になります。「北斗の拳」では兄・ラオウと弟・ケンシロウという義兄弟関係がストーリーに登場します。こちらは柳瀬嵩・千尋兄弟とは異なり、一子相伝の北斗神拳伝承という目標が同じ者同士の関係です。原さんの場合はどういうきっかけがあって、この法定相続関係が複雑な兄弟設定の物語を創作したのでしょうか。未だにどんな内容の話なのか、理解できていません。

私は戦没者を顕彰しない

Facebookのタイムラインで「平和を願い戦没者を戦没者を慰霊顕彰する国会議員の会」(原文ママ)メンバー(以下、「本メンバー」と称す)が写った投稿を見かけました。戦没者を慰霊する気持ちは誰しもありますが、本メンバーと私とでは、認識の違いを感じる部分もありそうです。それについてメモを残してみます。
第一に、本メンバーと私とでは、「戦没者」の対象が異なるのだろうと思います。本メンバーが指す「戦没者」とは、靖国神社に祀られている日本の軍人・軍属の戦死者に限定されていると思われます(A級戦犯も合祀されていますが戦死者ではないのでここでは含めずに考察します)。私が考える「戦没者」とは、戦死・戦病死した軍人・軍属のみならず、戦争によって犠牲となった民間人を含みます(国籍や民族を問わず)。
第二に、本メンバーと私とでは、戦没者を「顕彰する」ことの是非について判断が異なるのだろうと思います。顕彰とは、特定の個人が成し遂げた功績や善行を世に広め、称賛する行為を指します。本メンバーは、戦闘に係ることやそれで命を落としたことを称賛に価すると考えているのでしょう。しかし、私は、いかなる理由があっても殺し・殺されることを称賛する気持ちになれません。繰り返しますが、死者を悼む気持ちはありますが、その死を称えたり、犠牲となられたことを感謝したりしようとは考えません。それよりも死者の無念を晴らすべく過ちに学び、それから得た知見を社会と共有したいと考えます。第一の「戦没者」の対象範囲が異なるので、便宜的に、本メンバーの考える「戦没者」を「(狭い意味での)戦没者」、私の考える「戦没者」を「(広い意味での)戦没者」として、以下のように違いを表してみました。
顕彰主体/対象 (狭い意味での)戦没者 (広い意味での)戦没者
本メンバー   顕彰する        ?
私       顕彰しない       顕彰しない
本メンバーの皆さんは、ひめゆり平和祈念資料館や徴用犠牲者慰霊碑を訪ねたことはあるのだろうかとも思います。

やなせたかしの生涯読後メモ

#やなせたかしの生涯 #梯久美子 #朝ドラあんぱん
今度の土曜日に熊本市現代美術館で梯久美子さんを講師に迎えて開かれる、やなせたかし展・開催記念講演会「光のほうへ ぼくは歩く――アンパンマンが生まれるまで」の聴講を楽しみにしています。とはいえ、会場定員は100人。やなせたかし氏が編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者として身近で働き、同氏の生涯をよく知る梯さんの講演だけに果たして聴講可能か心配です。それもあって、本年3月に書き下ろしで文春文庫から出た『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を読んでみました。
同書を読むと、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど多彩な仕事をこなした同氏の稀有な才能に驚かされます。一方で、理不尽な軍隊生活の初期に何も考えずに過ごした経験や身近な人の死で受けた影響には、戦争体験をもつ世代の誰にでもある共通性を感じました。
今年は戦後80年ということで、新聞紙上では、さまざまな戦没者慰霊の式典の報道が取り上げられます。その中で、しばしば遺族が「今の平和は戦没者の犠牲の上にある」と語りますが、それには強い違和感を覚えます。今日まで平和が保たれたのは戦争の過ちを学んだ者たちによる非戦に向けた不断の努力があったことに他ならないと考えます。戦没者たちは平和構築のため犠牲となったのではなくあくまでも戦争遂行に加担するか、巻き込まれて落命したのであって、戦争が起こらなければ犠牲にならずに済んだ者たちです。つまり犠牲者を出さずに済むする社会にするため、どのような政治の道を選択すべきだったかを考え行動することが、慰霊ではないかと思います。
きょう放送の朝ドラ「あんぱん」では、主人公・朝田のぶと商船の一等機関士・若松次郎とのお見合いシーンが出てきました。ドラマでモデルとされる小松暢さんは、やなせたかし氏との前にも結婚歴がありました。暢さんは、大阪の高等女学校卒業後、しばらく東京で働いた後、21歳のときに最初の結婚をします。その相手が6歳上で、高知県出身の小松總一郎氏。日本郵船に勤務していて、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死されています。ひとり残された暢さんは、自活の道を求めて高知新聞社に入社しました。
海軍に入り、戦死したのは、やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏です。1943年9月に京都帝大法学部を半年繰り上げ卒業し、海軍予備学生兵科三期を経て、翌年5月に駆逐艦「呉竹」の水測室(米潜水艦の水中音を探知するため船底に近い位置にある)に配属されます。千尋氏が乗った同艦は、1944年12月30日、バシー海峡で米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没、同氏も22歳で戦死します。やなせたかし氏は、1946年1月に中国・上海港から佐世保港へ復員、高知へ帰る途中、原爆で街が消えた広島の風景を目にしています(私の父方の伯父も外地から終戦の翌年に復員したら実家が1945年8月10日の松橋空襲で焼失していたのを知りました)。
私の母方の祖父が小松總一郎氏と同じく日本郵船勤務の船員でしたし、1944年1月に乗り組んでいた輸送船がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け、柳瀬千尋氏と同様、船と共に海へ沈み戦死しています。きょう放送の朝ドラ「あんぱん」の最後には、兵事係から戦死公報を受け取る留守宅のシーンがありました。私の母が、自身の父の戦死の知らせが届いた日のことを手記に残していますが、悲報を受けたときの留守家族(当時の居宅は同年7月の熊本大空襲で焼失)のさまが、本日の「あんぱん」の映像と重なって見えました。
国内外に膨大な犠牲者を出さなくてもよい道がきっとあったはずなのに、どこから過ちは始まったのか、それを止めることはできなかったのか、今を生きる人間が考えなければならないのはそこです。

チャンゴから黙鼓子まで

先日水俣の相思社を訪ねた際、掲載写真のチャンゴという朝鮮半島由来の太鼓があるのを知りました。砂時計の形に桐の木をくり抜いた両面締めの楽器で、右面(馬の薄い革)を細い竹の棒で叩いて高音を出させ、左面(牛の厚い革)を左手か先端に丸いものが付いたバチで叩いて低音を出させます。宮廷音楽から、民衆の音楽である風物(プンムル)・農楽まで幅広く使われる伝統楽器だそうですが、左右それぞれの面を打って奏でるため、認知症予防に相当役立ちそうだなとは思いました。
一方、スペイン語で同音の「chango」というと、うるさいという意味があるくらい、確かに賑やかな音を出します。これは太鼓だから仕方がありません。私の地元では雷神のカミナリ太鼓に負けじと打ち鳴らす雨乞い太鼓というのがあって、これまた祭りの時期近くの夜になると練習の音が騒々しいものです。また鼓舞するという言葉があるくらい戦場と太鼓は密接な関係があります。地元のJリーグチームの胸スポが「陣太鼓」ということがありました。そういえば、「chango」と語感が近い英語の「chant」(チャント)とは、サッカーのゲーム中にサポーターが発する応援歌・応援コールのことを指しますが、一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式を意味する古フランス語に由来する言葉だそうです。
そんなわけで、太鼓に何を私は連想するかというと、宗教的な祈りであったり、戦いや運動会・応援団的なものであったりします。そして私は総じてそれらを苦手に感じています。もっとも、これはあくまでも個人的な感覚ですから他人に共感を求めるものではありません。
もう一つ、太鼓と言えば、ドイツ人作家のギュンター・グラスの文学作品『ブリキの太鼓』を思い浮かべます。同作品を読んだのは、やがて半世紀前近くの中2時代の頃だったと思いますが、ナチス台頭により戦争へ向かう時代に少年期を迎えたグラスの半ば自伝的な小説です。永遠の3歳として成長を拒否して生きていく主人公・オスカルが大切にする、ブリキの太鼓がなんとも不気味な隠喩となっています。グラスと同じノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の作風と勝手に重なりを覚えます。
さて、以下はロビン・ダンバーの『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)がネタ本ですが、歴史的に見ても宗教や戦争が成立するには、共同体意識が生まれることが必要になります。ヒトの脳にエンドルフィンが出やすい、いわばトランス状態をもたらすことが重要になります。その前提条件としては、言語や出身地、学歴、趣味と興味、世界観、音楽の好み、ユーモアのセンスといった面で共通点が多いメンバー構成にすると、信頼感が強固になるものです。さらに、その効果を増させる儀式が重要となります。儀式の例としては、歌や踊り、抱擁、リズミカルなお辞儀、感情に訴える語り、会食が挙げられます。儀式に参加することでメンバー間がより向社会的に接したくなるように仕向けます。政治運動やビジネス活動にも同じことが言えるかと思います。
あと必要なことは、カリスマ指導者の存在です。これも歴史的に見ると、親を早くに亡くしていたり、恵まれない境遇で育ったりした人物がなる傾向があります。そうした人物には、人生の早い段階から多くを学び、逆境に立ち向かい嘲笑をはねのける精神的な強靭さが身についています。極端な例としては、精神的疾患を抱えたシャーマン的人物がその立場に就くこともあり、それがトランス状態に入りやすい素因になります。周囲からは狂人扱いされますが、案外人々はそうした人物を信じます。なぜかといえば、その他大勢に埋没しない、突出した存在を頼みにしたいと思う気持ちが人々にはあるからです。
チャンゴをきっかけにしてあれこれ思い付いて見ましたが、結局、太鼓持ちは自分に向かないということなのだろうと思います。つくづく熊本でいう偏屈な黙鼓子(もっこす)気質が染みついている気がします。ところで黙鼓子とは、「もくこし」と呼ばれる、仏教の儀式で使用される楽器のこと。特に、禅寺などでよく見られるそうですが、仏教の修行や礼拝において、心が静まり、法に集中するために用いられるとか。また、黙鼓を叩くことで、煩悩や欲望を浄化し、心の平静を得る効果があるとも言われているようです。これを当て字に使い始めた熊本の人も相当アイロニー豊かなモッコスさんだったのではないでしょうか。

GWは陶器市を楽しみました

先日初めて「波佐見陶器まつり」と「有田陶器市」へ行ってみました。イベント期間が同一ですし、臨時列車の有田陶器市号や有田駅~波佐見やきもの公園間のシャトルバスが出ているため、十分ハシゴして楽しめました。これがマイカーで行くとなると、会場周辺での駐車時間待ちに見舞われるので、そうはいかなかったと思います。私はもともと鑑賞オンリーですから帰りに荷物が増えることもありませんでしたが、もしも陶磁器を買い込むなら現地から発送する手があるので、断然公共交通機関を利用するのがお勧めだと感じました。
まず長崎県波佐見町(ここは長崎県で唯一海に面していない自治体)の波佐見焼に関心をもったのは、朝日新聞経済面の「けいざいプラス」欄で2023年12月に「波佐見焼 小さな町の奇跡」というタイトルの5回シリーズの記事によります。隣の有田のような高級品ではなく大衆向けのデザインで勝負する製品づくりや問屋を通さない流通への移行などを行い、この十数年でブランド化に成功したと言われます。作り手も客層も若い感じがします。「波佐見陶器まつり」期間中は、やきもの公園に窯元がまとまってテント出店しているため、目当ての焼き物を探しやすい形態となっています。それと、私は立ち寄りませんでしたが、高速の波佐見IC近くにも第2会場が設けられていました。
対する「有田陶器市」は今回が第121回を数えるだけあって伝統を誇っていますが、逆に波佐見焼を意識したデザインの店も見受けられました。こちらは1カ所集中方式ではなく、既存の店舗が通り沿いに軒を連ねているので、有田駅~上有田駅間だけでも約3kmを歩くこととなります。すべて見て回るとなると、時間と体力が要求されます。この通りに面した有田焼で最も名高いのは今右衛門窯だと思います。今右衛門陳列館は無料で入館できて当代の作品を堪能できます。今右衛門古陶磁美術館は入館料500円ですが、ここは製造工程や先代・先々代との作風比較が理解できます。別格です。
一方、期間中のグルメ出店は、波佐見も有田も共通していて、九州内のみならずさまざまな飲食が楽しめるようになっていました。私は、有田の通りに出店していた村岡総本舗の小城羊羹を買い求め、上有田駅内のカフェで佐賀牛しぐれ煮弁当を食べてみました。
ともかくどちらも町単独で地産経済を回しているわけですから大したものです。豊かさを感じてきました。

日本が潤うという理解のされ方もあるのでは

「増える中国人の“日本移住” なぜ日本が選ばれる?」と題した、昨夜放送のNHK「クローズアップ現代」をついつい視聴しました。番組では、受験競争が厳しい中国の教育環境を避けて子どもに日本の教育を受けさせたいと願う中国の富裕層が、「経営・管理」の在留資格を得て来日移住する傾向を重点的に取り上げていました。中国における大学入試は確かに過酷で難関大学の学費も日本のそれより高いですし、中国では認められない不動産の私的所有も可能で低コストの住みよい現状からすれば、そうした選択へ走る(run)のは納得できます。
この番組では取り上げられていませんでしたが、ちょうど1年前あたりから、中国から日本へ経営や高度人材職就労の在留資格を得て移住する「潤」という言葉に触れた報道を見かけるようになりました。「潤」の中国語の発音のローマ字表記は「run」であり、これは「(生活が)潤う」とともに「(国外に)逃げる」という意味に重なるといいます。
こうした「潤」と呼ばれる行動をとる人の中には、権威主義体制下の人権抑圧から逃れたいという思いをもった知識人もいます。
このあたりの事情を幅広く取材した舛友雄大著の『潤日(ルンリィー) 日本へ大脱出する中国人富裕層を追う』という書籍が今年、東洋経済新報社から出ていて、私も先日読んでみましたが、中国国内の体制に疑問を持つ富裕層や知識人の考え方や文化習慣を理解する助けになり有益です。生活自立した中国の中間層の移住は、同書のタイトルにもある通り、日本の国益になる効果が高く、日本が潤うことになる面が確実にあります。当然のことながら納税・保険料納付への貢献もあります。移住する側、受け入れる側双方にとってプラスの道を模索するべきだと思います。
特にこれから高齢となる就職氷河期世代の日本人は、このままでは先細りする現役世代に食わせてもらう立場ですから、なおのこと潤日歓迎であるべきではないかと思います。
https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/episode/te/B3LRKVJ872/
https://toyokeizai.net/list/video/WCgKzSDwhas

東京大空襲から80年

本日読了。
本書p.134-135に、ルメイが指揮した東京大空襲に加わった爆撃機搭乗員による次の回想が載っています。「上昇気流は気持ちの悪くなるにおいを一緒にもたらした。鼻について離れないにおいだった――焼かれた人間の肉のにおいだ。あとになって、乗組員たちのなかにはこのにおいのために息を詰まらせたり、吐いたりした者がいたという話を聴いた。気絶した者もいたらしい」。
ルメイ自身はいかに合理的に作戦を進めるかの一点に徹底し、下界で生きたまま火あぶりにされる人間を想像することはなかったようです。味方の損失をできるだけ少なくし、いかに敵を効率的に破壊するかだけを究めて、軍人の頂点に立つ人生を送りました。こういう軍人を重宝する面が軍隊の性分としてあることを忘れてはならないと思います。

メモ:初版p.262の11行目 (誤)陸相→(正)陸将

https://www.hayakawabooks.com/n/naa07a0c95200?sub_rt=share_pw&fbclid=IwY2xjawKOpEtleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFwY2hjT1VEU3VXVHNFRlVBAR7shPHJNUvD3Ch_2lRQHLZvRws9ABmVOVUG1Byt_TNgHxPkC5OeWL986HjhPA_aem_2Ppw5ny4rdUPQ7XXNU9nmw

政治家と政党の落ちぶれ方が凄い

某党の参院議員が、現在も過去の展示説明にもない自身の妄想を根拠にした発言を行いました。ある史実に基づいてさまざまな歴史観を抱くのは自由ですが、根拠自体がありもしないことで発言するのを厭わないとなれば、当人の認知能力つまり公人たる政治家の資質そのものが欠如していると思います。当該議員は、発言6日後の記者会見の場においてもなお発言の根拠とした展示説明を過去に見たとの主張は変えておらず、そのダメさ加減は相当に重症なようです。潔く政界から身を退いてもらいたいものです。
さらに言えば、こうした資質に欠ける人物しか抱え込めない政党の側にも問題があります。複数の法務局から自身の行為が人権侵犯と認定された事実をその後も否定し続けている破廉恥な前衆院議員がいましたが、その人物にも冒頭の参院議員同様、認知能力に問題ありと感じています。ところが、夏の参院選比例代表の党公認候補に据えられているということですから、この政党の落ちぶれ方も相当重症です。こうしたポンコツを集めてはたして内外の政治課題の解決に対処できるのか、私は大いに疑問です。
もっとも、わが地元にもポンコツもどきが市議なんぞにいて、3月に人権侵犯認定の前衆院議員を呼んで講演会やら宴席を設けているのですから、やれやれと嘆息するばかりです。
https://kumanichi.com/articles/1767951

大仏造立を可能にした資源開発と輸送

佐藤信くまもと文学・歴史館長による講演「大仏開眼―聖武天皇が夢見たもの」を本日聴講してきました。佐藤館長による講演受講は3月に行われた「藤原広嗣の乱」以来でしたが、今回も興味深い内容でたいへん満足しました。
聖武天皇(724年即位)が在位した天平の時代は、長屋王の変(729年)や天然痘の流行(737年藤原四兄弟病没)、天候不順による不作、藤原広嗣の乱(740年)、度重なる遷都といった、政界ばかりか民衆を含めて国家・社会が混乱した時代でした。その混乱を「国家仏教」によって国家の安定と社会の平和を図ろうとした聖武天皇が発したのが、大仏造立の詔(743年)です。そして大仏が9年後に完成し大仏開眼供養会(752年)に行われます。その際はインドや唐の僧も参加する総勢1万人余の国際的イベントだったことが正倉院に保管された参加者名簿の文書で明らかになっています。
聖武天皇の思いとして大仏造立という国家プロジェクトを通じて諸氏族や民衆の結集を図ることにあったのですが、結果としては諸国から富を集中させる集権的な律令国家の基盤が整えられたという見方ができます。
私が大仏造立の過程で興味をもったのは、当時の資源開発とその輸送の点でした。古今東西を問わず帝国と称されるような覇権国家の歴史をひも解くと、必ず資源獲得とその輸送ルートの安全確保(騎兵や海軍)が重要になります。それらを可能にする技術力も必要となります。アジア・太平洋戦争期に日本軍が進出した地域・海路もだいたい資源絡みです(鉄、石炭、小麦・米、塩、ゴム、石油、ボーキサイト…)。中国が海洋進出に熱心なのも海上の資源輸入ルートを塞がれる恐怖心から。米国がウクライナの鉱物資源権益に熱心なのも同様。
では、東大寺の大仏に使われた500トンもの銅はどこからもたらされたのかということですが、これは現在の山口県美祢市にある長門国長登銅山において採鉱・製錬されたということがわかっています。これが確定したのも化学分析のおかげでつい40年ほど前のことです。それと渡来系の土器や渡来氏族の名が入った荷札の木簡も発見されたことが決め手になっています。銅山は国直轄の管理となっていて、銅は陸上は馬に運ばせますが、大半は船で海上輸送させます。
もう一つ、大仏造立が始まった頃までは国内では金を産出しないとされていましたが、大仏完成の3年前の749年に、聖武天皇から信任を受けていた陸奥国の守の百済王敬福から金900両(13kg)が金メッキ用に献上されました。これは現在の宮城県湧谷町の黄金山産金遺跡から採掘されたものですが、百済系渡来人の技術があって可能になったといえます。この金産出を聖武天皇は破格に喜んだ詔書を出します。その時代に天皇を軍事面で支えたのは大伴氏ですが、当時越中守だった大伴家持は「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」を詠みます(万葉集所収)。その長歌の中に「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍…」の歌詞が詠み込まれています。資源と軍事のかかわりをここにも覚えることができます。
佐藤館長の講演は来月以降の今年度内に4回あります。引き続き受講する予定に入れていて楽しみです。
https://www.c-able.ne.jp/~naganobo/douzanato.html
https://tenpyou.jp/
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki

「大学生以下」発言の背景を知らないと危険な報道では?

なにやら姜尚中氏に問題がありそうな書きぶりの報道なので、実際に学校法人のホームページで公開されている一連の関係情報を読んでみました。
姜氏から「大学生以下」「失格だ」とパワハラ的(?)に言われた前監事は、監事就任にあたり、それまで務めていた当該学校法人の顧問弁護士を辞任することなく引き受けていたということがまず気になりました。法人の機関運営に詳しい方であれば、イロハのイにあたることですが、顧問の職務と監事の職務を同時に受けるということは、利益相反になります。つまり法律家の業務上の倫理に反する立場になります。
発端は、法人側からの前監事の顧問契約解除にありそうです。実際、その直後の決算年度の監査報告書で姜氏を標的とした攻撃が行われています。しかも、それ以前の監査ではまったく指摘してこなかった事項も取り上げています。時系列でみると、監事の立場を利用した個人的な不満の仕返しという印象を受けました。
報道にある第三者委員会の報告書が記述する姜氏の発言はその通りですが、そのネガティブな点を大きく取り上げるあまり、本来問題にしなければならない背景事情がこれでは読者が理解できないことになります。わざわざ興味を覚えて原資料にあたる私のような物好きな人はいないと思います。誤ったイメージを持たれかねない危なさを感じる記事だなと思いました。

カレンダー誤表記問題という名称でいいのか

昨日の投稿で、菊池恵楓園歴史資料館の展示では「龍田寮事件」と表記されている事件名が、同園入所者自治会が発行する見学のしおり内では「黒髪小学校通学拒否事件」と表記されている点に着目したのを触れました。繰り返しますが、事件の実相を鑑みると、私は自治会側の事件呼称が相応しいと考えます。親が入所者であってもハンセン病患者ではない児童たちが居住していた龍田寮で差別があったのではなく、通学を拒否した小学校のPTAや校区住民の側に不当な差別、人権侵犯があったとしか考えられないからです。
先月明るみになった、水俣病を感染症とした「宇城市カレンダー誤表記問題」にしても、果たして問題の本質を突いた名称なのか、疑問です。当該啓発文章を起案したのは同市の人権啓発課であり、市内全世帯に配布されるまでの間、同課職員全員はもちろん他課職員の目に触れる機会はあったといいます。水俣病の原因については熊本県内の小学5年生全員が現地で学ぶ常識ですが、それすら身に着いていない軽薄さを露呈してしまった、救いようがない恥ずかしい事件ともいえます。
たとえばの話、「宇城市の人権啓発は形ばかりだった露呈事件」とするなど、市長自らが教訓を絶対に忘れず継承できる適切な名称を定めるよう動くべきではないかと思います。水俣病事件の歴史においても、原因企業のチッソを守り患者を弾圧していたチッソ労働者の一部が、患者支援へ立ち上がった際に出した「恥宣言」があります。うっかりミス問題に矮小化せず、その人間性全体が問われた事件だという出直しの覚悟が求められていると思います。
https://kumanichi.com/articles/1758474

菊池恵楓園歴史資料館見学記

ロアッソ熊本vs.ジェフユナイテッド千葉の観戦の前に、初めて菊池恵楓園歴史資料館を訪ねてみました。場所は、熊本電鉄御代志駅の近くにあり、特に電車旅が好きな私には意外と気軽に行ける場所にあると感じました。電車旅がなぜ好きかというと、本を集中して読めるからです。ましてや地方私鉄の休日の電車ですから混んではいません。楽々座って読めます。逆にマイカーの運転ほど読書のじゃまになる無益な時間はありません。
上熊本駅から北熊本駅で乗り換えて御代志駅へ行くのですが、北熊本駅ではわざと目黒行き表示の青ガエル電車を見ることができます。昔の東急や地下鉄銀座線を走っていた電車が現役で走っているのを見られるのも感動モノです。
それで、本日携行した本は、斎藤健一郎・西上治・堀澤明生編『図録 行政法』(弘文堂、2700円+税、2025年)。今秋に専修大学大学院で受講する行政救済法の予習代わりに買ってみた本です。国家賠償請求訴訟においては、それこそハンセン病の元患者やその家族が勝訴した熊本地裁平成13年5月11日判決、熊本地裁令和元年6月28日判決が代表例ですから、資料館見学の予習にもなりました。
さて、資料館の方ですが、HPから事前予約して行ったのですが、ほぼ貸切状態で見学できました。まず11分か13分のガイダンス映像を見てから常設展示コーナー、企画展コーナーと進みます。常設展示で衝撃を受けたのは、2003年の黒川温泉ホテル宿泊拒否事件のおりに入所者へ匿名で送り付けられた差別と偏見に満ちた手紙です。昨年5月1日の環境相と水俣病患者団体との懇談会のマイクオフ事件があった後に、やはり心ない愚か者たちが匿名で患者団体へ中傷の電話をかけてきたことを思い出して憤りを禁じ得ませんでした。
ひとつ気になったのは、資料館では「龍田寮事件」と称し、恵楓園入所者自治会では「黒髪小学校通学拒否事件」と称している1953~1955年に起きた事件の名称のことです。この事件を題材にした中山節夫監督の映画「あつい壁」(1970年公開)でご存知の方もいるかと思いますが、恵楓園入所者を親にもつだけの患者でもない児童たちが、当時黒髪小学校区にある龍田寮に居住していて、同寮から黒髪小へ通学することを同小PTA・住民からの反対に遭い、拒否されたというものです。
通学に賛成したPTA・住民もいましたが、この不当な差別の歴史を忘れずに伝えていくためには、自治会が称する事件名の方がふさわしいと思いました。なお、国立ハンセン病資料館や厚生省のサイトでは、「黒髪小学校事件」と表記したものもあります。
企画展「戦争と医学 虹波臨床試験の深層」についてですが、当時の所長の関与や他の療養施設や七三一部隊での臨床試験の実態についての掘り下げ方が足りないように感じました。
それと事前に申請すれば園内の一部も見学できました。隔離政策の痕跡を示すものと同時に皇室と園とのかかわりを示す部分もマップや展示にもっと盛り込んでみると深みが増すのにとも思いました。自治会がまとめた年表には皇族の来訪歴が逐次載っていてそのことへの感謝の念の強さ・高さを覚えました。

「働正がのこしたもの」を鑑賞しました

宇城市の不知火美術館の近くできょうの午後に用向きがあるので、同館のサイトをのぞいたところ「九州派」の美術家として知られた働正さん(はたらき・ただし 1934-1996)の活動を回顧する企画展「働正がのこしたもの 海にねむる龍」を開催中と知り、さっそく用向きの前に鑑賞してきました。
働正さんは、後半生を大牟田市で送られましたが、宇城市不知火町松合の出身ということもあってか、同じく宇城市松橋町出身の松浦豊敏さんが熊本市内で営んでいた喫茶「カリガリ」へ生前よく来店されていました。なので私もカリガリで何度かお姿を見かけしたことはありました。それと、松浦さん、石牟礼道子さん、渡辺京二さんが編集する同人誌『暗河』(くらごう)の表紙や原稿挿入カットで、やはり「九州派」の菊畑茂久馬さんと共に働さんの作品が掲載され、よく目にしていたので、なじみ深さも勝手に覚えていました。『暗河』は、創刊号から終刊号まで私は全巻所蔵していますが、本展では働さんの作品が載った同誌の一部が出品されていました(ですが、出品目録には同誌を「機関紙」と表記してあり、これは明らかにミス)。
働さんのことについてはこれまで絵画作品しか知らなかったのですが、美術教育運動を通じて子どもたちとのかかわりがあったことや舞踏家の田中泯さんとの交流など知らなかった面もたどれて鑑賞したかいがありました(それにしても齢80の田中泯さん以外、上記に名前を挙げた方々はすべて鬼籍に入られたわけで、自分も歳とったと感じます…)。
そして、数は少ないながらも本館で絵画を所蔵しているとのことですから、また何かの機会に展示してもらえればなあと期待しています。
先日、ミロ展を観てきたばかりで、ミロの星座シリーズを堪能してきました。今回展示の働作品にも「星摘みNo.1」「星摘み」(ともに1986年制作)と、星をモチーフにした絵があって、働さんは星に何を託したのだろうかと想像してワクワクしました。

ブライトンつながり

先日の投稿で私の遠戚が米国コロラド州のブライトン(Brighton)に住んでいることを触れましたが、日本でブライトンと言えば、英国プレミアリーグに属するサッカークラブ、そう三苫薫選手がプレーしている「ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。それで、地名の由来を下記にまとめてみました。
結論から言うと、コロラドのブライトンとイギリスのブライトンは、米国ニューヨークのブライトン・ビーチを間に挟んでつながっていました。
・コロラドの「ブライトン」
1881年、鉄道駅(鉄道の創始者ベラ・M・ヒューズにちなんでヒューズ駅)の開設に合わせて土地の分譲が行われました。名称は、測量技師D・F・カーマイケルの妻の故郷であるニューヨーク州ブライトン・ビーチに由来しています。駅ができたことで農作物の集積地となり、缶詰などの食品加工業が発達しました。
同地の日系人社会の歴史が下記のサイトに記されています。
https://history.weld.gov/County-150/People-of-Weld-County/Canning

・ニューヨークの「ブライトン・ビーチ」
1868年、ウィリアム・A・エンゲマンがこの地にリゾートを建設しました。1878年、ヘンリー・C・マーフィーと一団のビジネスマンが、イギリスのリゾート都市ブライトンを暗示してこのリゾートに「ブライトン・ビーチ」という名前を与えました。1970年代半ば、ソ連系移民、特にロシアとウクライナ出身のアシュケナージ系ユダヤ人にとって人気の居住地となりました。1991年のソ連崩壊後も旧ソ連出身の、主にロシア語を話す多くの移民が、居住地として選びました。これには、ジョージアやアゼルバイジャンなどのコーカサス地方からの移民の流入も含まれていました。2010年代初頭以降も、多くの中央アジア系移民も同地を定住地として選ぶようになりました。
・豪メルボルンの「ブライトン・ビーチ」 ※おまけ情報
健康に良いと信じられ、英国のブライトンで人気の海水浴文化を、1850年頃からメルボルンに流入した英国移民が広めたことに由来する説があります。メルボルンから11キロ南東にブライトン・ビーチがあります。

・イギリスの「ブライトン」
ブライトンは、イギリスのイングランド南東部に位置する都市です。行政上はイースト・サセックス州ブライトン・アンド・ホーヴに所属します。知名度・規模ともにイギリス有数の海浜リゾートです。LGBTコミュニティの多い街であり、しばしば「イギリスにおける同性愛者の首都」とも呼ばれています。ブライトンの語源は、古英語のBeorhthelmes tūn(ベオルテルムの農場)です。この名称は、Bristelmestune(1086年)、Brichtelmeston(1198年)、Brighthelmeston(1493年)、Brighthemston(1610年)、Brighthelmston(1816年)と変化しました。ブライトンという名称が一般的に使われるようになったのは19世紀初頭です。

パパイヤとイチジクの苗を定植

宇土市農業委員会の面々は、これまで地区持ち回りで休耕農地解消に取り組み、主にジャガイモの植え付け収穫をしていましたが、今年度からもっと長期的な耕作に挑戦することになりました。そこで選ばれた作物が、パパイヤとイチジクです。昨日はそれらの苗の定植作業に私も参加しました。イチジク生産の経験者の委員もいますので、作業自体はテキパキと短時間で済みました。周囲には獣害防止のための電気柵も張られました。今後はイチジクを覆うハウスも設置されます。

昨夏は多伎イチジクが特産の島根県の道の駅キララ多伎へも行きましたので、そのときの写真もアップします。生産者が増えれば、本市でも有望な品目になるかもしれません。