4月に神田古書店街の文華堂書店で手に入れた、いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』(以下、上巻と称す)『夕日は赤しメナム河』(以下、下巻と称す)は、旧日本陸軍の実相を知るうえで貴重な史料だと思います(熊本県立図書館にもあります)。著者自身が1939-1943年の間、師団の戦列に加わっていた体験者でしたし、戦後、防衛研修所戦史部勤務の環境にあったため、師団が記録した各作戦の戦闘詳報に接することが容易でした。この詳報は戦後の1946年1月9日、進駐米軍に、他の陸軍史料とともに一括押収されて米本国へ渡り、ワシントンの国立公文書館に眠っていましたが、1958年4月10日、日本へ返還され未整理のまま、戦史部史料庫に収納されていたものです(下巻p.290)。加えて、出版した時期は戦後30年頃、生還者の回想証言も収集可能でした。史料と記憶証言が比較的充実したなかで出版されたのは幸いでした。
以下に本書で知った興味深い情報のメモを記します。
・日中戦争(支那事変)の発端となった蘆溝橋事件の発生は1937年7月7日。この当時の中国軍の兵力は184師・約130万名、極東ソ連軍は28個師団・約56万名いた。日本軍兵士の約90%近くは予・後備役兵であり、現役兵力が枯渇していた。そのため1939年、新たに10個師団、15個旅団等、約22万名の兵力が臨時編成された。そのひとつが第三十七師団。1939年2月に久留米で編成され、同年5月に山西省晉南(しんなん)に進駐した。当初は山地戦に不向きな編成だったため、1940年8月までに逐次改編された。輓馬→駄馬。野砲→山砲。
・第三十七師団の「七」は「しち」と読む。同師団の兵団文字符は「冬」。「作戦」とは、通常、戦略単位(師団)以上の兵団の某期間にわたる対敵行動の総称。
・一号作戦構想時の支那派遣軍の兵力は、25個師団、12個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団、1香港防衛隊で、人員約64万4000名・馬匹約13万頭。このうちの約79%にあたる14個師団、6個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団等、合わせて人員約51万名・馬匹約13万頭・戦車装甲車794両・火砲1551門・航空機154機・自動車1万5550両を、同作戦兵力とした。一号作戦の役割は、あくまでも太平洋戦域の主作戦の、背後を固める大陸での支作戦、対米持久戦の一環だった。一号作戦から第三十七師団の秘匿符号は「光」となった。
・軍馬の入隊は騸(せん)を標準とし、やむを得ないときに限り、牝(ひん)で代用していた。騸とは明け三歳の牡(ぼ)の去勢したもの(上巻p.174)。まれに去勢の時点で陰睾のため睾丸の片方が腹腔内に隠れて切除を免れた馬力絶倫の軍馬がいた。片睾の武こと武久号。
・蒋介石が率いる中国軍には日本軍の捕虜や兵器を捕獲した場合に懸賞金を与える定め「修正俘虜及戦利品処理弁法」があり、品目によっては中国軍将兵の給与(例:師団長180元)よりも高かった。暗号電報符号簿5万元、官兵の番号認識票1個500元。
・南進前に第三十七師団が駐屯していた山西省運城の警察署長は関鉄忱という元騎兵大佐で、漢代の英雄、関羽五十九代の後裔と伝えられていた(上巻p.268)。当時発行されていた中国聯合準備銀行券の十円札に印刷されていた関羽像と風貌が似ていた。
・華北の鉄・石炭・綿花・塩・小麦を日本国内へ還送するのが日本軍の任務だったが、広大な土地と中国人民の大海の中では、面ではなく点を占拠することしかできなかった。華南ではタングステンが垂涎の軍需資源だった。
・中国軍(蒋介石軍事委員長)による日本軍に対する観察と対策(1940年)。
【日本軍の長所】 → 【中国軍の対策】
快:軍用巧妙、動けば脱兎の如し。 → 穏:沈着固守で当れ。
硬:戦闘力と精神が堅強なり。 → 靭:持続性堅忍性ある戦闘で当れ。
鋭:錐の如く突進し勇猛果敢なり。 → 伏:伏兵をもって、不意を突くべし。
【日本軍の短所】 → 【中国軍の対策】
小:兵力寡小、部隊大ならず。 → 衆:要点に兵力を集中する「専」。
短:速戦即決にあり。 → 久:消耗持久戦。
浅:敢て深入りせず300キロ以内。 → 深:縦深配備をもって迎えよ。
虚:後方に空虚多し。 → 実:虚隙を奇襲せよ。
・戦時糧秣の加給品。清酒1人1回の定量は0.4L(約2合2勺)=飯盒のフタ約1杯分。駄馬1頭当たりの駄載重量80キログラム。
・上巻p.468に偵察機から師団戦闘司令所へ落とされた通信筒についての記載がある。筆者らが斥候任務にあたっていた際に、地上から友軍の偵察機へ敵軍の集結状況を知らせるために、通信紙や枯れ草を燃やしてみたものの煙が細いために、斥候の騎兵分隊員の褌を外させて燃やし白煙を上げさせた逸話も載っている。
・上巻p.489においては、陸軍上層部の治安戦略の欠如を指摘している。筆者は「以漢治漢」でなかったこと、吃飯(チイファン)対策が疎かで民心収攬に実効が上がらなかったとしている。
・アルカリ土壌である山西省は馬の飼料牧草として栄養価が高い「ルーサン」(和名「苜蓿うまごやし」)が特産だった(上巻p.504)。蹄鉄を装着するために使用する蹄釘(ていちょう)は、スウェーデン製が硬くて粘りがあり良質であり落鉄することがなかったが、日中戦争開戦後は輸入できなくなった(上巻p.55)。スウェーデンでは制作方法は極秘とされ工場見学できなかったが、1935年ごろから陸軍で良質の蹄鉄を国産化(大阪・狭山と立川)できるようになった。
・1943年6月に捕虜となった当時7歳の中国人男児。師団将兵と南下作戦に随行し、タイで終戦を迎えた。面倒を見ていた加地正隆軍医中尉が熊本へ連れ帰り養育し、1969年「光 俊明」として帰化した。
・1944年4月22日に起きた第二十七師団の一大凍傷事故について下巻p.110で触れられていた。第二十七師団の徴募区は東京付近で、当時は一号作戦に組み込まれていた。この事故は、後年一橋大学教授となる藤原彰氏の著書でも触れられている。大黄河甲橋に向かい、約100キロの道中を行軍中に豪雨に遭い、膝を没する泥濘(ぬかるみ)の中で、立ち往生し、数十名の兵が凍死し、多くの軍馬が斃れている。約2000名の将兵が凍傷にかかった。
・第二十七師団の凍死者を出した記述は下巻p.306にもあり、166名とある。期日は1944年5月14日夜とある。驢(ろば)や牛は多く死んだが、馬だけは死ななかった。馬を捨てて逃げられない山砲隊・歩兵砲隊・大行李の馭(ぎょ)兵の損害が多かった。
・師団司令部の戦時作戦用の携行品について下巻p.125で触れられている。すべての装備を自動貨車で携行するには約20両を要した。機密書類と戦時公用行李について抜粋すると以下の通りとなる。
機密書類 戦時諸法規・野戦諸勤務令等一式で102冊のほか、下記を保有。前述の藤原彰氏は戦死比率が最も高い陸士55期卒だが、以前は履修科目であった戦時諸法規を学ぶ将校養成教育を受けなかったと、著書で記していた。
参謀部 作戦計画・同命令・編制表・兵器表・情報・人馬弾薬の補充計画運用・地図・秘密保全・通信計画運用・機密作戦日誌等。
副官部 司令部関係の戦時名簿・師団の人馬現員表・同死傷表・功績・将兵の人事・人馬補充事務・司令部物件補給・俘虜戦利品・陣中日誌・事務用品等。
各部 師団全般に関する各部主管業務の計画・補給・運用等書類。
戦時公用行李 乙 機密書類用で、規格は、高さ23.5cm×幅32cm×長さ66cmの防錆鍍金の錠つき金属製。参謀部11・副官部5・兵器部6・経理部17・軍医部5・獣医部5・師団司令部合計49個。 甲 金櫃(きんき)用で、規格は乙と同じであるが、錠は、内外各2個つき、物資調達用の聯銀券(華北)・儲備(ちょび)券(華中・華南)・金銭糧秣被服関係の証票書類を収納。経理部20個。
・行軍について下巻p.155で触れられている。敵との接触が多い場合を戦備行軍といい、日々の行程が多く休憩が少なく昼夜連続となる行軍を強行軍、短時間に目的地へ到着するために速度を増し休憩を減らす行軍を急行軍と言う。敵との接触が少ない場合を旅次行軍と言う。10~15分休憩を含む標準の行軍速度は歩兵中隊で時速4キロとされた。1日の行程は諸兵連合の大部隊で約24キロとされた。敵軍の航空機(米軍P-51ムスタング)からの攻撃や夏季炎熱を避けるため夜行軍を行うことが多かった。
・馬匹の負担量について下巻p.234で触れられている。乗馬の場合は馬体重の約4分の1以内、駄馬の場合は約3分の1以内を適当とし、輓曳(ばんえい)量は約4分の3以内を限度とされた。日本馬の馬体重平均は約470キロ、大陸馬は平均約270キロ以下だった。強行軍による過労や栄養不良、馬蹄の摩耗欠損などが多発し、使役不能となる馬匹も多かった。
・糧秣不足について下巻p.259で触れられている。糧食の1日基本定量は次のとおり。人糧 1人…精米660グラム・精麦210グラム・生肉類210グラム・生野菜600グラム・食塩5グラム・粉醤油30グラム・梅干45グラムなど。 馬糧 1頭…大麦5250グラム・乾草4000グラム・食塩40グラム。 中国人馬夫・俘虜 穀粉600グラム・肉類40グラム・生野菜300グラム・豆類20グラム・食塩20グラム。 師団(人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名)1日の糧秣総量 人糧 小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)。
・徴発、いわゆる強制買い上げ方式について下巻p.260-261で触れられている。住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。藤原彰氏の後を継いだ一橋大学教授だった吉田裕氏の著書にも同様の記述がある。下巻p.420では、事実上の掠奪と記述している。
・下巻p.292によると、在中米軍(第一二航空隊)による対日本土爆撃の第一次は1944年6月16日である。成都から発進したB-29・B-24重爆撃機47機によって九州八幡製鉄所が空襲を受けた。1944年5月末ごろの航空兵力は在中米空軍556機・重慶(国民政府)空軍111機合計667機に対して、在中の第五航空軍は217機であり、戦力比は3:1だった。第五航空軍の実働は約150機程度あり、戦力比の実際は5:1だった。
・1944年6月25日に重慶軍事委員会が発令した桂林防守軍の編成の中に桂林城北部に配置された第一三一師がある。その師長は関維雍少将。1944年11月10日、桂林城内の風洞山・中山公園独秀峰が包囲され力尽き、風洞山の洞窟内で拳銃自殺を遂げたと、下巻p.411にある。
・要塞・堡塁・砲台の区分について下巻p.489に記されている。要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。
・1945年3月11日のランソン捕虜虐殺事件について下巻p.541で触れられている。フランス領インドシナ(現在のベトナム)のランソン要塞を歩兵第二二五聯隊(主に熊本県出身者の兵で編成)が陥落させた際にフランス人の300名余の投降兵を収容したが、鎮目武治聯隊長(大佐)は小寺治郎平第一大隊長(少佐)と福田義夫第七中隊長(大尉)に対し、投降兵の処断を命じた。戦後、フランス軍軍法会議で約20名が戦犯容疑となりサイゴンチーホア刑務所に収容された。小寺少佐は1946年10月30日に同所内で自決。伊牟田義敏第四中隊長(大尉)は1948年11月21日にジュラル病院で病死。鎮目大佐・福田大尉・早川揮一大尉(歩二二五通信中隊長)・坂本順次大尉(歩二二七第八中隊長)は1951年3月19日に法務死についた。ほかにも投降兵射殺事件による戦犯法務死の記載がある。
・下巻p.621-629には付録第六として1944年6月30日調べの第三十七師団小隊長以上職員表が掲載されている。戦後、熊本で医師としてある程度知られた人物の名を見つけることができる。一人は光俊明氏を養育した加地正隆。師団司令部の防疫担当の軍医部員だった。階級は中尉。熊本市水道町交差点に面した加地ビルを覚えるいる向きもあると思うが、健康マラソン(天草パールマラソン大会を始めた)で長寿を目指して「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで記憶に残る「熊本走ろう会」の会長を永年務めた。第5代の熊本県ラグビー協会長も務めた。もう一人は、三島功。患者収容隊本部の衛生部見習士官として名が確認できる。水俣市民病院や明水園に勤務したし、水俣病認定審査会の会長も務めた。水俣病患者認定には厳しい姿勢で臨んでいたために患者・支援者からの評価は低い人物だった。
士官主導と初年兵主導との戦記の違い
第三十七師団歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』や同師団の山砲兵第三十七聯隊の初年兵だった松浦豊敏氏が書いた『越南ルート』と藤田豊著の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』とでは、同じ師団の戦記とはいえ、視点が大いに異なります。『地獄の戦場参千粁』や『越南ルート』では、行軍のつらさや隊内での人間関係に焦点が多く当てられています。糧秣不足と過労、厳しい気象環境で、戦病死が多い戦場でした。中には戦死扱いにされた例もあります。初年兵に理由もなく暴力をふるう古兵についてが敵軍よりも憎しみを込めて描かれています。将官を近くで見ていた若い士官だった藤田本では、将官に対して厳しい評価を下した記述が意外とありました。たとえば、行軍途中で師団長と参謀長だけのために毎日司令部付きの工兵が防空壕を掘らされたことなども明らかにしています。士官たちが残した記録は文字だけではなくスケッチが多いのが特長です。士官に求められる資質に西洋画技法があり、じっさい士官学校ではその教育がありましたので、戦地からスケッチを持ち帰られなかった場合でも当時の記憶から描き起こすことも可能だったかと思われます。