8月17日に長崎県大村市の郡川河川敷(福重橋付近)で発見された不発弾の処理作業が、9月6日、無事終了したとの報道がありました。今回発見処理されたのは、アジア・太平洋戦争期に米軍が使用していた250キロ爆弾と判断されています。米軍側での呼称は、「500ポンド通常弾 (AN-M64)」とされ、主にB29爆撃機などから投下されました。戦時中の大村市は第21海軍航空廠(現在の長崎空港の対岸)や海軍航空隊基地(現在のサンセット通りの西側)がある軍産都市であり、たびたび米軍機による空襲を受けました。うち5回の空爆で250キロ爆弾を使用したことが米軍側の記録に残っていますが、中でも大規模な空爆だったのが、1944年10月25日の「大村大空襲」でした。この日の攻撃では360発の250キロ爆弾が投下されています。さらに焼夷弾が初めて使われたのもこのときでした。この空襲での人的被害は死者300名以上、重軽傷者500名以上とされています。特に第21海軍航空廠では死者272人(うち、動員学徒70人)を出しました。その海軍航空廠跡地での最後の慰霊祭が昨年行われ、遺族の高齢化で主催団体も解散しています。
建物被害の一つとして今回の不発弾発見場所の近くにあった福重国民学校(現・福重小学校)の校舎焼失があります。この場所は第21海軍航空廠や海軍航空隊基地からは北方向に離れていますが、付近には米軍機を迎撃するための戦闘機部隊「草薙部隊」(1944年8月新設)や「皆同砲台」もありましたので、福重橋とともに攻撃目標となったかもしれません。福重国民学校が立ち退き移転した跡地の郡川北岸に、1945年5月、福重飛行場が急ごしらえで造られましたので、戦争末期の空襲なら同飛行場が標的となった可能性もあります。
結論としていつ投下された爆弾の不発弾だったのか特定できませんが、大村大空襲のときのものである可能性も排除できないと思います。慰霊祭という形で遺族(ヒト)による記憶の継承の場が開かれなくなっても、このたびの不発弾(モノ)が戦争の歴史を忘れるなというメッセージになったと受け止めています。