エッセー」カテゴリーアーカイブ

多文化共生vs.同化

中国国内でのモンゴル族やウイグル族など少数民族に対する同化政策へ国際社会の厳しい目が向いていますが、こうしたことはどこの国もかつて行ってきました。またそのことにより弾圧に動いた側の犠牲も大きいものがありました。たとえば、日本の台湾統治に伴い出した戦死者は日清戦争をしのぎます。アメリカがスペインから割譲を受けてフィリピン統治で払った犠牲者数は米西戦争のそれを上回ります。台湾、フィリピンそれぞれに独立志向が高い現地の人々の激しい抵抗を受けた歴史があるのですが、現代の日本人や米国人の多くはそれについて深く知らないのではないでしょうか。地上や海上にどんなに境界を引いても文化を一つに塗り替えることは、世帯内でも難しいことを知っているはずなのですが、国家や民族の偉大さという幻想に指導者が酔いしれてしまうと、言葉や宗教、法律の縛りを一元化します。すると必ずうまくはいかないものです。

8000代を経て

以前から名前は存じ上げていましたが、単独著書としては意外と初めて手に取った長谷部恭男氏の『戦争と法』が読み物として面白いと感じています。戦争の進み方と当時の指導者の描写が鮮やかで今さらながら頭脳のデキが凄いのだなと思いました。
先日の投稿で人類の起源は500万年前と書きましたが、現代の地球に暮らす人間であるホモサピエンスに至っては、わずかに20万年前ということでした。1世代が25年だとすると、1万年間では400代、さらにその前は世代の間隔年が短いかもしれませんが、せいぜい8000代前はみんなアフリカ大陸の樹から降り立ったばかりだというのに、頭脳のデキ、不デキは違うものですし、デキが良くても指導者にはならないから、戦争は起こり得るのだなと思いました。

信仰の自由と科学的真実との対立

偶像崇拝を禁じるイスラム教預言者の風刺画を授業で題材にしたために、フランスのパリ近郊の中学校教員が殺害される事件が先日起きました。信仰の自由も権利の一つですが、特に公教育の現場では、科学的真実と対立することがあります。同様の衝突は、先進国とみられている米国でも抱えています。人類の起源を突き詰めていくと進化の歴史に出会いますが、神が創造したとする反進化論の考えに立つ信仰の厚い人たちの勢力は意外に大きく、公教育で進化論を学ぶ機会がないのがほとんどとされます。日本においても先の大戦の時期まで特別科学学級に属するスーパーエリートの子どもを除いて神国日本を信じ込ませるでたらめな教育をしていたのですから、どこにでもあったともいえます。信仰の自由は権利の一つといいましたが、科学的真実を追求する学問の自由も同様に権利の一つです。あらゆる宗教には神話があり、科学的真実に照らすと、しばしば荒唐無稽な物語となりますが、尊重することも重要です。それを信じない人への攻撃がない限り権利を踏みにじらない寛容さが必要です。国家や民族・人種というのは約束事に過ぎなく地球上の人類はすべて同じ人間です。どう共存したらいいのか、難問です。

China Demonstration

けさの新聞で近藤等則さんの訃報を知りました。30年ほど前に八代であったライブを聴いたことがあります。その後に発表された「China Demonstration」が私の中では代表作です。第二次天安門事件へ抗議した数少ないアーティストの一人だったと思いますが、この点に触れた論評は見かけないです。享年71歳とあります、もっと年長に感じていましたが、一回りしか違わないというのも少し驚きでした。

中抜き計画では困る

この一週間は所用が立て込み本ブログの連日投稿が途切れてしまいました。さまざまな経験を積む機会を得ていますが、市の地域福祉計画策定に伴う地区座談会へ地区の民生委員代表として参加したのですが、座談会の意義について大いに疑問を持ちました。市の意向としては、すでに計画策定委員会のメンバーを決めて、市民アンケート結果や各地区座談会結果を反映して計画を策定するということでしたが、せっかくの座談会には委員の出席がなく、民間事業者の仕切りでブレインストーミング方式のグループワークをさせるというものでした。まずアンケート結果の分析の切り口が雑でした。分析についてはともかく、座談会参加者へアンケート結果を事前配布するだけでも座談会の議論の深まりが期待できるのにそれがありませんでした。委員へ生の意見や提案を伝える機会がなく、いわばその場限りの頭脳ゲームに過ぎないグループワークでは適切な議事録としても残らない恐れを感じました。もともとが、法律に基づいて地方自治体が計画を策定しなければならないのですが、現場の行政職員はルーティンの業務の処理に手いっぱいで、こうした計画策定の仕事は能力的にも時間的にも無理なのではと思いました。だから、民間事業者に計画策定の流れの管理を任せてあまり独自性のない通り一遍の作文しか出来上がらないのだろうと思いました。コロナ対策でさまざまな給付金・補助金制度の運営事務が民間事業者に任され、中抜きビジネスとの批判を浴びましたが、地方でもこうした仕事の進め方の一端に触れると、計画段階から中身のないまさしく中抜きになるのではと思わされました。

定住と遊動

昨日、自身の結婚記念日の小旅行をこのところしていないと投稿しましたが、昨年は太宰府の九博で開かれていた三国志展を観に行ったことを、連れ合いからの指摘で思い出しました。このように1年前のことでさえ忘れているのですから、かなりいい加減です。けさは、地元農業委員会が遊休農地に植え付けているジャガイモのめかき作業に参加しました。委員の多くはプロの生産者ということもあって作業は20分ほどで終了しました。12月初めの収穫が楽しみです。
人類学は面白い学問分野だと思いますが、昨日たまたま視聴した放送大学の講座では定住と遊動について語られていました。人類の歴史は500万年前から始まりますが、最初は狩猟民や遊牧民であって農耕を始めたのはつい最近の1万年前からなのだそうです。日本列島で稲作が始まったのは渡来弥生人によってですから3000~2000年前くらいに過ぎません。つまり、農耕を行うようになってから定住があるようになったわけで、それまでは遊動でした。いわゆる焼き畑農業は遊動を伴う定住ですから、人類が定住という味を知った歴史は浅いようです。そして社会が生まれるとさまざまな軋轢が発生し、憎しみや妬みも出てきます。悪いことは「呪い」で発生するという考え方も出てきます。遊動生活であれば、ウマが合わない人と無理に暮らす必要がなく、互いに離れればいいのですが、定住社会になると排除あるいは征服という行動になりがちです。もちろん現代社会では、定住していても社会的孤立、ひきこもりという形態もあります。ともかく面白いなと思ったのは、人類はもともと定住しない生き方をしていたので、社会でストレスを感じるのは不思議ではないということです。たまに仕事(職場)を変えて自由になりたいと思うのは当然のことなのだと思います。ということで、農業というのも人類学的視点ではかなり新しい産業なのだなと思った次第です。

24年経って

私事ながら本日は結婚記念日にあたります。1年後は銀婚となります。ひところは記念日に合わせて小旅行をしていたのですが、このところはそういう機会も減ってきたように思います。昨今のGoToキャンペーンは無理やり感があって利用する気になりません。GDPのことだけを考えれば、先日の投稿でも触れた通り負の消費も貢献します。医療や介護のサービスは、地域に大きな雇用や消費を生みますから、医療機関や介護施設の利用者の存在は、それだけでありがたいと思わないといけません。利用者の方は、社会や家族等に迷惑をかけていると恐縮する必要はまったくなく、感謝されなければなりません。医療や介護のサービスと宿泊飲食保育のサービスを結ぶ優遇政策はもっと考えられてもいいかもしれません。

理論と応用

自然科学分野の理工学の理論と応用、医学の基礎と臨床のように、社会科学分野の法学の専門家でも学者と法律系士業・行政窓口では守備範囲の違いがあります。ですが、自己の領域にこもっている専門家は実は専門家ではないように思えます。ふだんさまざまな士業や行政窓口と接する機会がありますが、ルーティン業務しか受けられないというのでは、依頼者としては専門家として頼りないということになります。特に人権が絡む問題は、国内法だけでなく国際基準を十分知っておく必要がありますが、行政の末端職員等にそうしたことを求めるのが無理なのは承知なのですが、ないのもまた事実です。

GDPの伸びと幸福度は別

晴天が続いていて近隣では稲刈りが進んでいます。おかげでノドの調子が良くありませんが、農家にとっては絶好の収穫日和なわけで立場が異なると利害は衝突するものです。GDPの伸びも同じようなことがいえます。GDPが伸びると一般に経済成長をしていると考えられ歓迎されますが、GDPがカウントする消費には幸福なものもありますが、不幸なものもあります。たとえば、災害復興に伴う消費などはそうです。コロナ禍にあって今年は蔵書を再読する時間が増えました。これなども新刊書を買うことによるGDPアップへの貢献はありませんが、私的には知の充実という幸福度の高まりがあります。つまり、負の消費もGDPアップには貢献するのですが、GDPがアップしなくても不幸だとは限らないということです。一面的な捉え方をすると、政治を誤ることがこんなことからも言えます。また、多面的な捉え方を提示するのが社会科学の知見というものです。

警戒レベルの差

新型コロナの警戒レベルがここに来て熊本県では2、政令市の熊本市では4と差が出ています。居住している市は、熊本市と隣接していますので、この差には違和感があります。市独自の判断によるレベル判定があってもいいのではないでしょうか。

前季の轍を踏むな

J3ロアッソ熊本がリーグ後半戦に入り3連敗と勝ち点を積み上げられないでいます。昨日の敗戦で昇格圏外の3位に後退してしまいました。前季も前半は首位で折り返しながら昇格を逃してしまいましたので、その轍を踏んでいるようでやきもきしています。正代の優勝と昇進、阿蘇への国道開通と少し明るいニュースも出てきたところに水を差す戦いぶりです。ぜひ跳ね上がってもらいたいものです。

国連人権理事会の意見書は重い

昨日の朝日新聞社会面に載っていましたが、日本の弁護士が通報した入国管理収容の措置は、国際人権規約が禁じる恣意的拘禁にあたり違反するとの国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会の意見書が日本政府へ送られたことが明らかになりました。この意見書の判断を政府は重く受け止めるべきです。

信頼と知性の有無についての簡易判別法

質問を受けても「その指摘は当たらない」と理由説明を拒否して「いずれにしても」と前置きして結論だけを繰り返す人物がいたら、信頼に値しないことを請け合います。また、そうとしか答えられないのに物事を進められないとしたら、そうした人物の知性を疑ってみることを勧めます。

ウォームハートとクールヘッド

日本学術会議会員への任命が拒否された学者6人のうちの1人である宇野重規氏が書いた本を読んだ経験としては、3年前に刊行された『大人のための社会科』があります。同書は4人の学者による共著です。宇野氏は「第6章 私 自分の声が社会に届かない」「第8章 信頼 社会を支えるベースライン」「第12章 希望 「まだーない」ものの力」の執筆を担当されています。希望という温かい心(ウォームハート)は、私たちのなかにすでにある力を顕在化させると、説いています。そしてそのような力をはっきり見定めるために、社会科学という冷静な頭脳(クールヘッド)の力が必要だとも説いています。希望が見えないと自助・共助はありませんし、希望を見えるためには社会の過去と現代の問題を正確にとらえる科学的思考が必要です。信頼もないのに上から自助・共助を求めても無理な話です。反知性主義に陥った政治に愛を感じるバカはいません。

クールに考えれば任命拒否は愚策

このたびの日本学術会議の会員への任命が拒否された加藤陽子氏の著作の読後感について記した投稿が4年前にありました。同氏は1930年代の日本近代史を専門とする歴史家です。学べば得ることが多いのですが、その気がない人が権力だけもって無学であるということは、不幸です。

反知性主義なのか

日本学術会議から新規会員として推薦された105人うち6人の学者が任命されなかったことが問題になっています。これまでこの機関の存在や役割をあまり承知していなかったのですが、これを機会に同機関のホームページを見てみると、さまざまな報告や答申、勧告、要望を出す活動をしていることを知りました。一例を挙げると、刑法改正についても国際基準と照らし合わせた傾聴すべき勧告を出していました。一般に行政運営の手法として審議会の活用があります。有識者とされる人をメンバーに入れて政策の方向付けをする際に使われます。こうした場合、行政としては望む結論が先にあるわけですから、空気を読める「御用学者」をメンバーに入れて審議会を構成するのが常道です。しばしば、その御用学者が座長となって事務局が作成したシナリオに沿って答申をまとめることが多いとされます。一応体裁を整えるために、というかガス抜きのために、反対意見を唱える学者をメンバーに入れることもありますが、御用学者だと思ってメンバーに入れていたら、あにはからんや反対意見を唱える「誤用学者」が紛れ込んでしまうということもあります。こうした手法は、行政学のテキストには載っているものですが、今回の問題は、政府から独立機関である同会議の会員を審議会と同等と扱ってしまったことにあります。学者のむき出しの知性に恐怖するコンプレックスさえ感じてしまいました。任命を拒否された学者は、それだけ恐れられたというわけで、逆説的な意味で名誉なことです。

自分たちの歴史をつくる

君塚直隆著『悪党たちの大英帝国』を読了しました。帝国を形作った7人の人物に焦点をあてた著書でいわばこうした伝記は読んでいて非常に面白いと感じました。特に今年はチャーチルとも政治家としての活躍期間が重なるクレメント・アトリーについての書籍を手にしたことがあるだけにより重層的に英国の政治を学ぶことができました。
ところで、本書の「おわりに」の章でカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1869年)のなかで述べられた以下の言葉が紹介されていました。なるほどと思いましたので、触れてみます。「人びとは自分たちの歴史をつくる。けれども好きな材料でつくるわけでも、自分で選んだ状況でつくるわけでもない。自分たちの目の前にあり、自分たちに与えられ、手渡しされた状況でつくるのである。」。
現実的にはそうだろうと思います。そして作られた歴史を修正する行為もしばしば発生します。「女性はいくらでもウソをつける」と発言したことを最初は言ってないとしていた女性国会議員が、その発言を認めたニュースがありました。これなどは、図らずも自分がそうであると実践してみせたケースで、こうした歴史の作り方もあるようです。また、少子化対策担当の新大臣が婚外子の存在を週刊誌で指摘されましたが、否定しています。否定することで、さらに不名誉な歴史を作っているわけで、認めても不利益はないのに不思議でなりません。
さて、宇土市内の正代関の大関昇進を祝う懸垂幕が昨日から掲げられました。優勝祝賀の懸垂幕よりも少し大きくなりました。一方所属部屋の親方が不祥事で二階級降格の処分を昨日受けました。この部屋にはほかにも今年7月に二階級降格の処分を受けた年寄がいます。それこそ新大関本人が選んだ状況にはない環境で歴史をつくっていくことになります。十分に気をつけてほしいと思います。

至誠一貫か

正代関の大関昇進伝達式での口上の四字熟語が「至誠一貫」ということでニュースになっていました。これから先に横綱という現役最高峰の目標もありますが、角界にあっては親方というキャリアもその先にあります。相撲以上に難しいのが、特に名声ある人に近づいてくる善からぬ輩をどう対処するかという人間力です。親方といえば後進の指導という教育力や部屋の運営といった経営力も問われます。所属部屋にはパワハラで最近部屋を手放して転がり込んできた部屋付き年寄もいるようですから、そうした面での節制について後援者は見守る姿勢が大切だと思います。

明るい話題

昨日のロアッソ熊本のゲームは終始攻勢でしたが得点につながらず敗戦でした。団体スポーツの難しいところです。一方、大相撲は地元出身力士が優勝しました。取組直後には行政放送で市からお知らせもありました。もっとも在宅の市民はみんなテレビ観戦していたでしょうから、放送されるでもなく知っていたのでないかと思いましたが、久々に明るい話題に市内が包まれました。

スポーツ観戦日和

現在J3で昇格圏内の単独2位に付けているロアッソ熊本のゲームが午後2時からあります。リーグ後半戦の初戦となりますが、勢いを続けてぜひ勝ってもらいたいと思います。そのゲーム終了後は大相撲の結果が気になります。地元出身力士の優勝と大関昇進が期待されます。どちらもワクワクする出来事です。