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脳の世界モデル

8月24日の朝日新聞読書面の「売れてる本」欄において、脳科学者の毛内拡氏が補足説明しているヒトの脳のしくみの話がたいへん興味深く印象に残りました。説明によると、「脳はとにかく省エネがしたい臓器」とのこと。「過去の記憶や経験からあらかじめ『世界のモデル』を作っておき、その世界を見る」のだそうです。そのため、「私たちは脳が作った仮想世界を生きている。生の情報は使わずに、見たいと思ったものだけを見る。多くのすれ違いはここから始まる」といいます。それぞれの人が脳の中にもつ「世界のモデル」が違うのですから、そもそも分かり合えるはずもない、それよりも分かり合えないことを認め合うことが重要と書いてありました。
本稿ではありませんでしたが、もともと私たちの眼で捉えた映像情報が脳に伝わるまでは、時間差があります。地上波TVと衛星放送TVで同じライブ放送内容を視聴すると、衛星放送の映像が地上波のそれより遅れているのと同じで、常に過去しか実は見ていません。それだけではなく、脳の情報処理自体が仮想世界で実行されていると知って、ライブやリアルの世界は実は脳の外にしかないという気がして、これまた面白いと思いました。
ところで、本稿で紹介されている本は、日経BPから出ている、今井むつみ著の『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』。読んだことのない本でしたが、評者の毛内氏の上記の補足説明と提言(短絡的に答えを求める誤った効率主義ではなく、試行錯誤を許容する社会を求める)で十分満足したので、読むのはよそうと思います。
SNSに巣食う一部のレイシストや陰謀論者たちの脳の世界モデルあたりは、さぞかし最先端の省エネタイプ(※速い思考)なんでしょうけど、機知にとんだ言葉や視覚情報でもって上書きしてやるのを楽しんでみます。
※速い思考:心理学者のダニエル・カーネマンが指摘する概念。人間の脳は迅速で能率的な判断をするようにできていて、そのために一部の選択にバイアスがかかることを明らかにした。自分の脳がゆっくりと合理的に問題を考えていると自覚しても、私たちの頭は近道をし、感情に影響されている。自己中心主義(エゴセントリック)、可用性(アベイラビリティ)バイアス、確証バイアス、(快感を求め不快感を避ける)動機付け、情緒が特徴。対立概念は、意識的、論理的で、熟慮を伴う「遅い思考」。
さらに、昨夏読んだ、クリストファー・ブラットマン著『戦争と交渉の経済学 人はなぜ戦うのか』(草思社)に載っていた「平和工学者のための十戒」を以下に示します。
1.容易な問題と厄介な問題を見分けなさい
2.壮大な構想やベストプラクティスを崇拝してはならない
3.すべての政策決定が政治的であることを忘れてはならない
4.「限界」を重視しなさい
5.目指す道を見つけるためには、多くの道を探索しなければならない
6.失敗を喜んで受け入れなさい
7.忍耐強くありなさい
8.合理的な目標を立てなければいけない
9.説明責任を負わなければならない
10.「限界」を見つけなさい
※写真は記事と関係ありません。島根県観光キャラクター「しまねっこ」。

伝説ネタの物語に流されるのは無教養

8月14日の熊本日日新聞文化面に元NHKディレクターの馬場朝子さんと京都大学名誉教授の山室信一さんとの対談記事「昭和100年語る 中」が掲載されています。そのなかで満州国を研究してきた山室さんが、国家という空間と国家(えてしてそれは専制者そのもの)が国民に求める愛国心の物語の本質を突いた発言をされているのが、目に留まりました。
やや長い引用になりますが、重要なので以下に示します。「国家とは『想像の共同体』と定義されるように、基本的に想像の所産です。(中略)国家という空間は伸縮するわけで、どこが郷土で、何が守るべきものなのかということも社会変動とともに変わっていくはずなのに、あたかも古代から同じような国家があり、ずっと守ってきたという伝統の歴史が作られ、それを信じる子どもたちを作る愛国心教育が各国で行われています。伝統と見なされるものの多くは国民国家を形成するために『想像=創造』されたことは現在の歴史学界の通説です。」「国家というものは作られるものであり、滅び、消えて無くなるものだという視点の重要性です。(中略)日本人は、国家が古くから自然にあり、永久に続いていくと思いがちですが、国民が日々作っていくのが国家だというのが近代国家の前提なのです。」。
この発言を読んで感じるのは、しばしば伝統と称されるものが、伝説ネタに起因するものであり、日本の場合は明治以降に流布されたものが多くあるという事実です。それは、子どもたち向けの愛国心教育に限らず、日常生活のなかで目にするさまざまな言説のなかにしばしば顔を出します。この対談記事の冒頭には戦前の「京大俳句事件」で弾圧逮捕された俳人・渡辺白泉のことが山室さんによって取り上げられていますが、8月8日付け同紙の文化面に寄稿していた長谷川櫂氏の「故郷の肖像④第1章 海の国の物語 天皇と『海の民』の縁」は、同じ俳人の振る舞いとしては興ざめの連載回でした。今回稿では神話(現実の変容)の話と断りつつも景行天皇(西暦71年~130年在位? 143歳で崩御?)の九州巡幸路の図まで載せて想像たくましく海の民と陸の民との権力闘争関係を描いておられるのですが、その意図が正しく読者に伝わるだろうかと思いました。神話のエピソードが荒唐無稽の、換言すればエンターテイメント性の高いネタなのでウケを狙ったのかもしれません、考察文としては失敗作なのではなかろうかと感じました。これに留まらず、昨日届いた所属団体の広報誌に仁徳天皇(西暦313年~399年在位? 142歳で崩御?)の「民のかまど」の逸話を引き合いに書かれた文章を見つけてため息が出ました。都合のいい見立てを述べたいときに実在が疑わしい人物が描かれた神話に依拠して書くというのが、それなりに社会的地位を築いている人にも見られる現象をどう考えたらいいのか悩みますが、厳しい言い方をすれば無教養のそしりを免れないのではと思います。
そうこう朝から考えていたら8月14日の朝日新聞では、「海自実習幹部、靖国神社の『遊就館』を集団見学 今年5月に研修で」の記事が載っていて、失敗を失敗として捉えることができない非科学的な学びから作戦能力は養成できない現実も見てとれて、歴史学界の通説をもっと学んだらと感じました。
写真は、『「戦前」の正体』の裏表紙。

『暴力とポピュリズムのアメリカ史』読書メモ

11月に行われる米大統領選挙に向けた運動が今展開していますが、民主党の副大統領候補の経歴に州軍(ナショナル・ガード)勤務歴が20年あるとありました。しかし、他国の国民からすれば、この州軍がいったいどういう組織なのか、米国の歴史の中でどのような経緯で存在しているのか、ほとんど知らないと思います。そうした疑問に答えてくれるのが、専門の研究者であり、実にありがたいものだと思って、中野博文著の『暴力とポピュリズムのアメリカ史 ミリシアがもたらす分断』(岩波新書、940円+税、2024年)を読み終えました。
かつての帝国日本が満州へ送り込んだ初期の開拓移民は武装移民でしたが、米国の歴史をさかのぼると独立以前から武装の歴史があり、米国陸軍の始まりは独立前にあります。いわば、武装の権利がかなり強く保障される基盤があったようです。独立戦争や南北戦争、共和党と民主党、白人と黒人をめぐる歴史も、米国における武装組織とのかかわりで見ていくと、ずいぶん現代と見え方が異なる印象を受けました。現在は大きく分けて正規軍(連邦軍)、州軍、民間ミリシア(正規軍と国内外で行動を共にする民間軍事会社もあれば、国内での政治的主張をもった民間団体もある)とがあります。意外だったのは、正規軍は現在最小限の規模に留め、その人員確保のために一定の軍歴を果たせば大学学費免除や医療などの福利厚生の優遇を図っている点でした。米国では、軍隊が低所得層にとって社会保障が充実した職場の選択肢としてあるようです。ひとつに徴兵を行うと、地域社会で排除されやすい人材が集まりやすくなるため、その手段は避ける考えが定着しているようです。いずれ日本の自衛官募集も米国のように高等教育と福祉をエサに要員確保に動く政策が出てくるのではないでしょうか。

山僧活計茶三畝 漁夫生涯竹一竿

高校生たちの科学研究に協力している漁協の事務所に写真の扁額が掛かっているのを見つけて意味を調べてみました。
そうすると、禅林句集が元ネタのようです。下記の通り上下一対の句となっています。
山僧活計茶三畝 漁夫生涯竹一竿
物欲に超然として清貧簡素な生活に甘んじ、悠々と自適する禅者・真の風流人の境涯を、山僧と漁夫とに託して頌じたものであり、わびの真境をよく詠じた句とされます。
その大意は、「托鉢で得た財物で正常な毎日をすごす山僧には、これといった財産もないし、またいりもしない。財産といえばわずかに、庵前の三畝歩ほどの茶畑にすぎない。漁夫もまた同様でただ一本の釣り竿でのどかに暮しをたてている。それは一見まことに貧しく不風流にみえるが、心豊かな彼らはけっこう『風流ならざるとこ処、また風流』と、その自由な境涯を楽しみ味わっている。」というようなこと、と西宮市立中央図書館のレファレンス事例にありました。
扁額を書かれたのは、半世紀以上も前に当時文部大臣だった国会議員の方ですが、いまどきの裏金議員連中には到底思いも付かない言葉だなとしみじみ思いました。

キース・ヘリング展を堪能

お気楽な旅で重宝する「旅名人の九州満喫きっぷ」を利用して、現在福岡市美術館で開催中の「キース・ヘリング展」を昨日観てきました。往路の電車車中では、伊勢崎賢治著の『14歳からの非戦入門』(ビジネス社、1700円+税、2024年)を読了しました。ガザのジェノサイドその他紛争地域で日々生命が失われている愚行を一刻も早く止めるための交渉が必要です。それと、戦争が終わってからの統治がいかにたいへんかということを、本書で改めて学ばされました。有事を煽る勢力に乗せられることは危険です。在日米軍が自由に第三国へ出撃できる有事巻き込まれの危険性や自衛隊員の活動にかかわる法制の不備など、国内で論議すべき課題が多いことも指摘していました。
さて、「キース・ヘリング展」についてですが、彼は1980年代を代表するポップアーチストであり、同世代の人たちの記憶に残っている作品が多いのではないかと思います。リアルな肌の色や性別など外見の要素を取り払い、ベイビーや皮膚の下にある人間の姿を描いた作品からは、それこそ愚かな戦争や差別とは無縁の希望の力が感じられ、優しい気持ちになれます。
ニューヨークの地下鉄駅のポスター掲示板に残した初期の素描作品を紹介するコーナーでは、現地の街の音を流していて雰囲気を出していました。平日の昼間ということもあって意外と館内は空いていて、許可された写真撮影も楽しめました。
曲がりなりにも反核機運が高かった80年代初めの日本と、2000年に一度だけ訪ねたニューヨークを懐かしく思いました。

『なぜ難民を受け入れるのか』読後メモ

橋本直子著の『なぜ難民を受け入れるのか――人道と国益の交差点』(岩波新書、1120円+税、2024年)は、著者が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)での実務経験を有することもあって、難民受け入れに際して表からは見えない世界各国の論理と戦略にかかわる有益な情報が得られた良書でした。まず難民の受け入れ方式が、「待ち受け方式」と「連れて来る方式」の2つに大別されます。前者は受入国まで自力でたどり着いた難民(本国ではエリートが多い)が庇護申請を行い、受け入れ国の政府が受動的に審査したうえで、何らかの在留資格を与える方法です。後者は他国にいる難民を、受け入れ国側が選んで能動的・積極的に連れて来て、何らかの在留資格を与える方法です。後者の具体例としては、第三国定住やウクライナ避難民のような本国からの直接退避があります。
特に日本の場合、国の規模と比較しても、第三国定住難民の受け入れが少なく、国際的に批判されていることをもっと知る必要があります。量質ともに拡充することが人道的にも国益的にもメリットが高く、日本よりもはるかに人口が少ない北欧諸国が脆弱な立場に置かれた多くの難民を受け入れて定住政策を成功させている実績に学ぶべきです。
本国からの直接退避の例としては、2021年8月のアフガニスタンのタリバン制圧に伴うアフガニスタン人現地職員の退避があります。しかし、その退避要件の厳格さ(通常の短期滞在査証発給要件よりもハードルの高い条件をわざわざ新規に創り出して要求)は非人道的な理不尽なものであり、来日後も難民申請阻止や帰国強要を疑われる行為があったと、著者は憤怒の念をもって日本政府の仕打ちを批判しています。そのこともあって本書の印税は著者の知人が身元保証人となって日本になんとか退避させたアフガニスタン人難民一家の女児2名の教育資金に充てると明らかにされていました。
印象に残った言葉として「生まれの偶然性」というものがありました。これは著者が学んだオックスフォード大学難民研究所の講師陣が繰り返し言及した概念だそうです。それを受けてp.254-255には次のように記されています。「たまたま日本に生まれ、もし日本が「いい国」だと思っていらっしゃる方がいるとしたら、日本がいい国であるということを、たまたま「悪い国」に生まれた方々と分け合っていただけないでしょうか。それがまさに難民条約の前文に謳う、難民保護を世界の国々が協力して責任分担するということです」。
さらに、日本の入管法第61条の2の9第4項第2号(2023年6月成立のノン・ルフールマン原則の例外規定)は、入管庁の幅広い裁量によって難民申請中の送還停止効を解除できる条文となっており、難民条約違反と言わざるを得ないと指摘しています。実際の条文では、在留資格が無い難民認定申請者はほぼ誰でも、(改正案審議中に問題視された)3回目どころか1回目の申請中でも送還の対象となり得る文言となっています。これは、難民認定制度において可及的速やかに改訂されるべき問題です。この改訂がなければ、日本が人権や人道に後ろ向きであるイメージを拡散し続けることになり、国益に反します。
他にも知ることができて重要な情報として、難民審査参与員制度の問題点がありました。この制度は2005年に30名程度で発足し、2023年末時点で110名程度いるそうですが、参与員の意見には法的拘束力が無く、参与員(著者自身も2021年から参与員の1人)の専門性に大きな差があり、組織が法務省から独立していない、とのことでした。この点は日本には行政から完全に独立した第三者機関である国内人権委員会が存在しない状態と併せて後進性を示すものであり、国際的に不名誉であることを国民は知った方がいいと思います。
最後にUNHCRの「難民認定基準ハンドブック」に記された有名なフレーズを本書が示していたので引用します。「認定の故に難民となるのでなく、難民であるが故に難民と認定されるのである」。
なんだかんだ言って自国第一主義のポピュリストやレイシストのみなさんほど国益を損なっている可哀そうな○○はいないなと考える次第です。

『結婚の社会学』読後メモ

阪井裕一郎著の『結婚の社会学』(ちくま新書、1000円+税、2024年)を読み終えました。振り返ると、今月、ちくま新書から刊行された本を3冊連続で手にしました。手ごろなボリュームなので気楽に読めるのが強い動機になったのかもしれません。
さて、「結婚」についてですが、民法では「婚姻」と称します。これにかかわる問題として、同性婚法制化や選択的夫婦別姓制度導入についての論議が出ていますし、少子化対策と結び付けて結婚を促す論調もあります。
そのようなことに関心を持って手に取るであろう読者に対して、著者は「本書の基本的な姿勢は、『結婚をめぐる常識を疑う』というものです。」と、序章で宣言しています。さらに、「社会のあり方や人間の行動を解明するために常識を疑うのが社会学である」と定義づけして見せます。また、「本書は少子化対策について論じた書ではない」ともあらかじめ断りを入れています。
まずこの点に好感を持ちました。政治家や行政に携わる人でなくても、だれしも社会政策に対する意見は持ち合わせていると思います。しかし、その意見を形作る上で各人が有する結婚や家族の姿・価値観はさまざまです。特定の理想像に固執すれば、それに引きずられた意見に当然なってしまいます。極端な例で言うと、特定のカルト宗教の教祖が示す結婚や家族の形態だけしかその存在を認めないと考える人たちは、どうしてもそれに沿った社会政策を求めようとします。
ただし、現実の社会にあっては、多くの国民の利益になるのかどうかを考えなければなりません。結婚や家族の現実の姿を知ったうえでないと、有益な政策にはならないということです。
海外との比較データを見ると、晩婚化や晩産化は必ずしも少子化の要因とは言えません。女性の就労が普及した国ほど出生率が相対的に高いデータもあります。結婚の規定は最小限にとどめたうえで、結婚を中心に据えるのではなく、それも人間の支え合いの関係のひとつの選択肢として位置づけなおす必要を著者は提言しています。
本書から紹介したいデータや論点はさまざまあるのですが、キリがないので、p.284から最後にひとつだけ紹介しておきます。「社会学者のジェニファー・グラスらは、OECD22カ国の分析から、子育て支援などワークライフバランス施策が充実している国ほど、子どもを持つ親の幸福度が高いことはもちろんのこと、子どもを持たない人たちの幸福度も高くなることを明らかにしています。」「ケアを幅広く対等に分担できる社会制度を構築することによって、はじめて個々人の自由なライフスタイルが可能になるという視点が重要です。」。
こうした視点を踏まえると、同性婚法制化や選択的夫婦別姓制度導入によって幸福度が高まる国民がいることがあっても、それで幸福度が低くなる国民はいないと思います。社会学は実に気持ちが明るくなる学問です。

『アッシリア 人類最古の帝国』読書メモ

山田重郎著の『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、1100円+税、2024年)は、実に痛快な読み物でした。紀元前3000年頃から栄えた楔形文字文明が残した遺物や文書は空前の規模であり、研究によって解明された古代の事実にはさまざまな興味深いものがあります。117人の王名と統治年数が判明しています。旧約聖書の歴史書と預言書には、前8世紀から前7世紀のアッシリア帝国によるイスラエル・ユダ王国への侵攻の一側面が伝えられているとされます。
本書で知った史実のなかでも、「身代わり王」の儀礼はたいへん衝撃的な厄払いなので、メモしておきます。紀元前680年から前666年の間に8回の日蝕・月蝕が起きたそうですが、日蝕・月蝕はアッシリアとバビロニアの王の死を予見する最も深刻な凶兆とされていたそうです。通常の厄払いでは粘土の小像に厄を移す方法がとられていましたが、最悪の凶兆に対しては邪悪なものを王の代わりに引き受ける人物が用意されました。身代わりには、戦争捕虜、死刑囚、王の敵対者などが選ばれ、王の装備品を一通り持たされて、身代わり王妃に付き添われ、玉座に座らされます。天体蝕の程度により最長100日間、本物の王は、公の場から退き、「王」の称号を使うことを控え、「農夫」と自称して仮小屋に住み一介の農夫を装います。かといって、「身代わり王」に実際の王権はなく、本物の王である「農夫」が行政の実権を握ります。
やがて天体蝕の期間が明けると、身代わり王と身代わり王妃は殺され、本物の王と王妃のように扱われるとともに、玉座と装備品も燃やされます。凶兆は身代わり王らと共に消え去るというわけです。
現代人から見るとこのようなオカルト的な振る舞いは滑稽に感じるかもしれません。しかし、当時の為政者からすれば、自身の生命を脅かしかねない国の中枢での反乱や背信行為も警戒すべき事態であり、その予兆を知るために天体運行や天候変化を観察し、卜占を重視して、呪術・祈禱で念入りに対策を施しました。
そのため、帝国の王たちは、卜占や呪術に長けた知識人たちの意見を頻繁に求めました。その一方で、政治や軍事に優れた有能な在地エリートを政権内部から排除して、その代わりに王権に無批判で忠実な宦官を重用していきました。結果、有能な人材が王の周囲から離れていったことが帝国滅亡の流れを導いた可能性もあると、著者は考えています。
オカルトは別にしても政治のリーダーとブレーンとの関係については古代メソポタニアと現代に共通するものを感じます。現実の政治家やコメンテーター連中を指して「身代わり王(妃)」や「呪術師」呼ばわりしてしまわないかと内心ヒヤヒヤです。
写真はアッシリア帝国時代の粘土板や浮彫石板を多数所蔵する大英博物館。1993年撮影。

政治の原点は水俣にある

6月26日の朝日新聞オピニオン面見開き右側の「社説」欄には「ハンセン病 『負の歴史』徹底検証を」とあり、左側の「耕論」欄には「水俣病 切られたマイク」とありました。いずれも熊本県内の出来事についての記事が、全国紙の紙面で大きく取り上げられていました。蒲島前知事がかねがね水俣病問題は「私の政治の原点」と語っていましたが、いまもってハンセン病と水俣病は、政治とは何かを考えるうえで大きな歴史的テーマであり、政治の原点は熊本にあるかもしれないとさえ感じます。
「耕論」欄に掲載されたひとりは元環境事務次官の小林光氏でした。同氏は、現在の環境大臣や特殊疾病対策室長と同じく慶應義塾大学卒業の方です。慶応出の大臣や室長には患者の気持ちは分からないという報道も一部で目にはしましたが、小林氏の退官後の行動もフォローしている私の目から見ると、学歴で人物を評価するのは間違っていると思います。試しに興味のある方は、東大先端研の「小林光・研究顧問の部屋」に所収の論文・コラムを読んでみられるといいかと思います。環境問題にかかわる熱い想いが伝わります。
なかなか今の環境省には水俣病問題について理解している官僚は少ないのかもしれません。しかし、1990年12月に自ら命を絶たれた、当時の環境庁企画調整局長(事務方のナンバー2)だった山内豊徳氏のような存在を忘れることはありません。個人の気持ちは常に患者側にあるのに、権力を有する組織の一員としては苦悩された方でした。この方が遺された詩が生命誌研究者の中村桂子氏のコラムで読めますので、こちらもご覧ください。映画監督の是枝裕和氏の初著書『雲は答えなかった 高級官僚 その生と死』でも山内氏について描かれています。
環境省(庁)の歴史を振り返ると、親分として最も水俣病問題解決に理解があったのは、実質的に初代長官を務めた大石武一氏だっただろうと考えています。1971年からのわずか1年間の任期に終わりましたが、現在の環境疫学の常識的知見に沿った患者認定を進めました。大石氏という政治家は、地球環境保護や国際軍縮平和運動にも積極的にかかわった先進的な人物でもありました。
してみると、国民にとっても官僚にとってもその人権を護れる政治家こそを政治の舞台へ送り出すことが、結局のところ最重要なんだよなあと思わされます。

生まれながらの戦争協力者という悲しみ

6月25~30日という短い期間ですが、一般社団法人くまもと戦争と平和のミュージアム設立準備会主催による「うき 戦争の記憶展」が宇城市不知火美術館で開かれています。本日の熊本日日新聞紙面で知り、準備会幹事の高谷和生氏(現在同紙「私を語る」連載中)の講話には間に合いませんでしたが、さっそく会場を訪ねてみました。1945年の宇土・松橋空襲といった宇城地方の戦禍を伝える展示のほか、特に私が注目したのは現在の講談社が子ども向けに発行していた戦意高揚を目的とする出版物の展示でした。
それで、それら出版物は、準備会事務局補佐の上村真理子氏の収集したものなのだそうです。その内容は現代のほとんどの国民からすれば狂気としか言いようがないものでした。しかし、生まれたときから国家に忠誠を求められ侵略戦争も厭わないことが是とされていれば、子どもたちにとっては狂気ではなく、当たり前の常識であり、疑うことなく育っていったのだろうと思います。戦争協力者・遂行者として死ぬことが美徳ですらあると、信じ込まされていたわけです。もちろん当時の大人の一部は、子どもたちにそうした洗脳教育を行うことに反対したかもしれませんが、大勢としては多くの大人が非戦・反戦に立ち上がることなく戦争に順応・協力したのだと思います。
なぜこの狂気に気付けなかったのか、なぜ止められなかったのか。さらに言えば、ただいま今日においても戦争へ向かう狂気のサインを見落としていないか、知らずに加担していないか、過ちを止めさせる行動を起こしているかと、展示は問いかけてきます。
関連企画が下記の通りありますので、併せて紹介します。
○第16回熊本空襲を語り継ぐ集い~空襲の記憶を次世代へ~
◆主催:平和憲法を活かす熊本県民の会 くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク
◆日時:7月1日(月)13:30~15:30
◆会場:くまもと県民交流会館パレア 10F会議室7
◆資料代:500円
○夏の平和展2024 子どもたちが見た戦争
◆日時:7月23日(火)~8月31日(土)の9:00~17:00 月曜・祝日の翌日は休み
◆会場:玉名市立歴史博物館こころピア エントランスホール
◆観覧:無料
○第5回くまもと戦争遺産の旅~天草海軍航空隊、本渡空襲と軍人像をめぐる旅~
◆旅行企画実施・申込先:旅のよろこび株式会社 TEL096-345-0811 月-金・9-18時営業
◆日時:8月6日(火)8:15~19:00 熊本駅新幹線口発着 貸切バス
◆案内ガイド:くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表 高谷和生氏
◆旅行代金:10800円 7/26申込締切り 24名募集 最少催行人員15名
※昨年実施の第4回の旅には私も参加しました。お薦めします。

重要記録は粘土板か石碑に残せ!?

行政機関であれ議員であれ、重要記録はこれから粘土板か石碑に残しておけよ、と本気で思いたくなるぐらい史資料が豊富に残っている古代西アジアの世界はたいへん興味深いものです。今月出版されたばかりの山田重郎著の『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、1100円+税、2024年)を読み進めているところですが、現在のイラク南部に紀元前3500~3000年頃に粘土板に文字記録を残す都市文明が栄えていたことに、改めて驚きを感じます。その文書記録の内容は、行政や経済(生産・流通)は言うに及ばず、法、契約、書簡、祈祷、儀礼、文学、科学、建築、歴史と多岐にわたる分野からなります。古代中国では紙、古代エジプトでは羊皮が記録媒体として用いられてきましたが、粘土板文書はそれらのように朽ちることなく火災に遭っても焼き締められて残るほど極めて保存力が高い特性を持ちます。現代は電磁的記録媒体が多く用いられていますが、初期の頃の光磁気ディスクの寿命は10~30年くらいと言われていましたから、性能の良い別媒体(それでも1000年?)へ代替保存していなければ、知らない間に消失劣化しているかもしれません。ある意味、人類最古の帝国が人類最強の記録媒体である粘土板を開発したと言えるかもしれません。
それでも紀元前612年にこの王国は滅亡します。滅亡の原因としては、軍事拡大する国家経営つまり政治の行き詰まりや人口の都市一極集中による食料調達不足、紀元前675~550年頃の降雨の少なさ・干ばつの影響が考えられています。戦争、食糧サプライチェーン、気候変動となると、人類の課題は現代と大差ないとも言えます。
さらに古代西アジアの歴史といえば、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁親王が古代オリエント史の研究者でありました。私の学生時代に学習院大学内で同親王の古代オリエント史をテーマにした講演会があり、会場で聴講させてもらった思い出があります。
エセ歴史を信奉する無学な人たちは紀元前660年2月11日に初代天皇が即位したなどとしていますが、それは史実ではないとした歴史学者である親王にとっては断じて許しがたい思いがあって、古代オリエント史研究に打ち込まれたのだと察します。親王は2016年10月27日に亡くなられ、同年11月4日に葬儀が行われました。その日、たまたま学習院を訪ねた私は、正門前を通る柩の車列をお見送りする機会がありました。それも思い出深い記憶です。

それは科学か歴史かの思考と行動

一昨日(6月19日)は「東京大学先端物流科学寄付研究部門設置5周年記念シンポジウム サプライチェーン全体最適へのアカデミアの貢献」のオンライン受講、そして昨日(6月20日)は熊本県防災センター見学会参加とともに「共創の場形成支援プログラム(COI-NEXT)拠点連携シンポジウム2024~豪雨から学ぶ気候変動時代の『地域気象データ活用』と『緑の流域治水』」の会場受講と、いずれも東京大学先端科学技術センター主催のシンポジウムに参加する機会を得ました。参加して共通して感じたことは、後者のシンポジウム会場で配布されたパンフレットに記載されていた「過去を識り、今を理解し、未来を共に創る。」の思考と行動の大切さでした。これは換言すると、温故知新ということですし、さまざまな事象を捉えて「それは科学か」あるいは「それは歴史か」と問うことに始まると思います。
先端科学技術の発展により、さまざまなデータを観測蓄積し、それを再解析することで、予測再現することが可能になってきています。それらの精度は高まってきています。そのようなデータを全体共有し利活用することが、大げさに言えば人類の共通課題に対処するうえで必要不可欠で利益となります。
もちろん先端科学技術を悪用すれば、私的な経済的利益を得ることも不可能とは言えません。一例を挙げると、港での自動車の輸出入状況を人工衛星でリモートセンシングすると、自動車メーカーの業績の先行指標を得られますから、それによって株式売買で稼ぐことも可能であるという研究もあるぐらいです。一方、低価格なIoT技術を活用した水位モニタリングが人の顔まで識別してしまうとプライバシー侵害になるリスクもあります。公正さや正義を保全するためには法や慣習、人権の歴史的積み重ねに通じていなければなりません。
最後に伝えておきたいのは、こうした催しで必ず場違いな言動を行う人を発見できるのも特典です。「緑の流域治水」においては、ダムやコンクリート堤防に重きを置かない治水が思想の根底にあり、昨日のシンポジウムで登壇した講師はだれもダム治水について有用性を言いませんでした。唯一ビデオメッセージを寄せた前知事が「緑の流域治水」の転換として「流水型ダムで守る」と口にしていました。プログラム最後のパネルディスカッションになってから土木部長上がりの副知事が登壇したのですが、その副知事の自己紹介の後に他の講師から「緑の話がない」と突っ込みを受けていました。さらに閉会のときだけ知事が、くまモンを伴ってあいさつしましたが、これもどちらかというと「くまモン」の人気に頼ってお茶を濁したような内容でした。県議会中でもあり、あまり見識がないのなら無理に出てこなくても良かったのではと思いました。
写真は、防災センターの指揮台付近の本部室長席の背もたれ。

町内会と政治参加

ふだんさまざまな地域団体の担い手と顔を会わせる機会が多いのですが、年々感じることはそうした担い手の層が薄くなり、地区によっては団体そのものが解散した例をたびたび耳にしています。そのなかにあって町内会(私の地元では行政区と称しています)がいわば最後の砦的存在になっています。
玉野和志著『町内会――コミュニティからみる日本近代』(ちくま新書、840円+税、2024年)を最近読み終わったところですが、同書の「第5章 町内会と市民団体――新しい共助のかたち」で展開される戦後政治と住民の政治参加とのかかわりの部分の著者の見立てが、私の実感値と近くしっくりきました。かつての中選挙区制時代の自民党は、各候補者が個人後援会組織をもつ必要があり、この組織を支えていたのが、町内会を支えていた自営業者層だったので、その意味で大衆政党とも言えました。しかし、大店法の規制緩和による自営業者の衰退、食管法撤廃による農家の衰退とともに、小選挙区制導入もあり、自民党は大企業・グローバル企業の経営者層と被雇用者層からの支持を重視する政党に変貌していきました。同時に町内会を支えてきた自営業者層の中心世代の高齢化も弱体化の理由に挙げられます。
著者の町内会に対する意見は、このままでは消滅可能性が高いが、潰すには惜しく、役割を絞り込んで住民による政治参加・協議の場に徹することに持続可能性を見出しているように思えました。活動時間の融通が利く自営業者層がほとんどいない地区もありますし、被雇用者層のリタイア年齢はこれからますます高齢化します。行政の下請け的な仕事を担う余裕はないと思います。
本書では取り上げてはいませんが、介護報酬の引き下げにより全国で4分の1の訪問介護事業者がここ5年間で廃業しているのだそうです。世帯に介護が必要な人がいれば、町内会どころではないという声も聞きます。負担感が軽い共助でなければ機能しない状況にあると思います。

どちらの記憶が信じられるか

6月13日の熊本日日新聞文化面に宇城市小川町出身で現在は神奈川県藤沢市在住の俳人・長谷川櫂さんのエッセー「故郷の肖像② 第1章 海の国の物語」が掲載されていました。熊本県の北を阿蘇山の地下水が潤す「泉の国」阿蘇国、南は九州山地をえぐるように海を取り巻く「海の国」不知火国と、風土や地名由来からユニークな見方を示していました。
ですが、私がもっとも印象深かったのは、文章の結びに読まれた句の中に織り込まれている「海ほほづき」(ある種の巻貝の卵嚢だそうです)を子ども時代の長谷川氏へくれた、行商人についての思い出の部分です。「子どものころ、松合から行商のおばさんがバスを乗り継いで小川町まで魚を売りに来ていた。」とありましたから、1954年生まれの長谷川氏にとっては60年ほど前の話なのだろうと思います。松合というのは、不知火海沿岸部の北端にある地域です。その当時の不知火海沿岸部の南端に近い水俣では、チッソがメチル水銀を海へ垂れ流していました。この時代、漁民ではない普通の生活者が食卓に出す魚を行商人から買うことは、ごくありふれた行為だったことが、長谷川氏の記憶からうかがえます。
そこで思い出すのが、水俣病特措法の救済から漏れた被害者たちの存在です。不知火海沿岸部から離れた山間部地域で暮らす人たちのなかにもメチル水銀曝露による症状が多数見られました。この方々は、水俣・芦北地域からやって来る行商人から魚を買い求めていたのです。しかし、60年前の行商人からの魚購入の領収証がないことを理由に、熊本県は山間部地域の申請者を被害者だと認めませんでした。魚の行商に限らず一般個人の現金取引において領収証を発行する商習慣自体が60年前はなかったと思います。それより確実に残っているのは、長谷川氏のように子どもの記憶であり、その証明力が高いと思います。さらに言えば、水俣の魚の行商人の子にあたる人でさえ被害者として認められていない例があると聞きます。行商人の家庭内で商品である魚を自家消費することは十分ありえますし、自家消費であればなおさら領収証を出すということは、某政党国会議員たちによる自己の政治団体への政治資金付け替えでもない限りありえません。シンプルに考えて、魚の行商人の子どもの記憶が確かであり、証明力が高いと思います。
以上のことを考えていたところに、昨日(6月14日)の熊本日日新聞において、わが熊本県知事が講演を行った記事が載っており、その中の「木村知事はTSMCの『誘致』に自身も関わった経緯に触れ、」というくだりを見つけて、「はて?」と思いました。『進出』には関わっているかもしれませんが、『誘致』に関わったとは、初耳だったからです。
記者の捉え方で『誘致』と書かれたのか、木村知事の発言で『誘致』という言葉が発せられたのか、今一つ不明ですが、仮に後者であれば、自らの手柄話として神話化を始めたことになり、その記憶の信頼性をちょっと疑いたくなります。
私の理解では、TSMCの『誘致』には経産省と東大が大きな役割を果たしており、熊本県はTSMCの『進出』が方向づけられた後から動き回っているに過ぎません。一般論として書きますが、ドサクサ紛れに他人の手柄を自分の手柄話にすり替えるような人物を私は信用していません。
参照記事 朝日新聞電子版2024年2月27日

a Trump

経歴詐称疑惑の都知事の出馬のニュースが話題になる一方で、パワハラ・おねだり体質が元県幹部から告発された兵庫県知事の資質が、百条委員会設置の動きもあって、昨日から報道で問われ始めているようです。同県知事は総務省官僚出身の46歳、経歴的に本県知事と似通っていることもあり、興味を引きました。
報道によると、たとえば以下のような疑惑があるそうです。「訪問先の20m手前で公用車から歩かされたことに激怒し、知事が職員を怒鳴りつけた」、「政治学者の五百旗頭真氏が理事長を務める法人の副理事長2人を解任すると、副知事に通告させた。その仕打ちに憤慨した五百旗頭氏は翌日倒れて急逝した」などなど…。これが事実であれば、なんと器の小さい人物かと思いますし、熊本県とも縁が深かった五百旗頭氏を亡くす仕打ちには憤怒の気持ちを抱きました。
これは、まさしく「a Trump」(「Trumps(=世界に複数いるトランプ的人物)」のひとり)の典型的な人物なのではないかと思います。「a Trump」は、ポピュリズム権威主義の統治術を志向し、民主主義にとって極めて敵対的な言動をとる独裁者と評して差し支えないと考えています。独裁者の特徴を、シグマンド・ノイマンの著書『大衆国家と独裁――恒久の革命』から借りると、「あらゆる独裁者には、友もなく同輩もいない。…彼は何者をも信頼しない。ある意味で世を捨てているのである。これこそ『超人間的指導者』となるために彼の払う代償である。彼はあまりにも大きく、あまりにも強く、そのために、またあまりにも孤独である」となります。
彼らは、一口で言うと、「お山の大将」でもあります。彼らには、相手のために耳の痛いことでも忠告してくれる友人である「クリティカル・フレンド」がいません。近づいてくるのは利権を貪るさもしい人ばかりとなります。そして、表面上の学歴がどうであれ、トランプ氏のように歴史や科学に無知な傾向を感じます。
こうした人物の存在は、けっして首長だけにいるのではなく、地方議員のなかにもいくらでも確認することができます。つい最近も気候変動や生物多様性喪失の大きな原因となる温室効果ガス排出削減に背を向ける論者や神話上の天皇の存在を歴史と謳う教科書作成者に賛意を示す不勉強な人物の投稿を見かけて嘆かわしく思いました。幸い選挙区が異なるので、資質を追及することは当該選挙区の市民にお任せします。
写真は記事と直接関係ありません。ソ連時代のモスクワ。クレムリン宮殿。

神宮外苑再開発の闇

坂本龍一さんが生前に都知事に神宮外苑再開発の見直しを訴える手紙を出したことで、外苑のいちょう並木が危機に瀕していることが広く知られるようになりました。それでも、地方に住む者からすると、都内の一角の環境問題とだけしか正直捉えていませんでした。
しかし、『世界』(2024年7月号)の大方潤一郎氏・佐々木実氏による対談記事「神宮外苑再開発とスポーツ利権を問う」を読むと、事業には森喜朗氏や同氏の名代である萩生田光一氏が暗躍していたことが明らかになっています。東京都幹部、三井不動産、日建設計とのつながり、文科省(萩生田文科相時代の事務次官は元JSC理事)やその所管下にある日本スポーツ振興センター(JSC)への影響力、地代が入るようになる明治神宮(2012年当時の三井不動産会長が総代に就任)・JSC・伊藤忠商事の目論見。三井不動産へは行政手続きの骨抜きに関与した都幹部が多く天下りしており、公共空間の私財化に向かった蜜月関係も指摘されています。
詳しくは『世界』の記事を読むことを勧めますが、「貴重な歴史と緑の公共空間を劣化させ、営利企業や宗教法人を儲けさせる事業を東京都が主導している事態を見過ごすわけにはいきません。」と結ばれています。来月の都知事選で「緑のタヌキ」を萩生田氏が推すのも10年以上前から進めていた利権案件があればこそというワケで、この動きはもっと関心をもって見ていく必要を感じました。

分がらない奴は分がらない

地域の会合で地元市議の説明資料による活動報告や懇談の機会に接しました。
まず説明資料では地区の広がりを持つ農地の宅地開発等を行うことで、税収と人口が増えることが示され、増えた財源で独自の子ども手当や給食費無償化、子ども医療費の拡充にあてると書かれていました。しかし、収入は人口増で試算していながら、支出は対象の子どもの増加を見込まず現在の人口に基づく試算となっていました。そこで、子どもの人口増を加味した支出額で差し引きしてみると、収入増を支出増が上回りかえって赤字になる内容となっていました。いったいどのようなアタマの構造でこうしたプランを出してくるのか疑問に思いました。
さらに懇談の場で、ある市議と在日外国人のことが話題になったのですが、ネトウヨ界隈のデマを真に受けた認識に侵されているようで、閉口させられました。同市議が言うには「埼玉でハングルの人たちが暴動を起こしている」とのことでした。おそらくクルド人のことを言っているのだと思いましたがデマです。他にも健康保険や年金保険料、生活保護、犯罪に関して間違った情報を次から次へ語ってくれたので、呆れるしかありませんでした。いわゆる「在日特権」なるものは、日本人以上に誠実に義務を果たして日本に在留資格を有する外国人にはありません。だいいち、在留資格を取得・更新するためには納税義務・社会保険料納付義務を果たしていなければなりません。年金保険料の未納率について在日外国人よりも日本人が断然高いことは最近の国会答弁でも明らかにされたところです。「在日特権」なるものがあるとすれば、在日米軍にしかないというのが、外国人と接する機会がある日本人の常識だと思います。
朝ドラの「虎に翼」に婦人代議士の立花幸恵役で出ている伊勢志摩さんが、11年前に放送された「あまちゃん」(1年前に再放送あり)で漁協事務員の花巻珠子役で出ていて、「分がる奴だけ分がればいい」とたびたび名ゼリフを吐いていました。その逆で「分がらない奴は分がらない」のだなとつくづく感じました。一方、昨日放送回の「虎に翼」では、立花代議士から「あなたもお偉い先生方にビシッと言っておやりなさいな!」というセリフがあったので、いつか「ビシッと」言ってやろうかとも思わないでもありません。
写真はネットからの拾い物です。あしからず。

「差別」のしくみ第13章再読

憲法学者の木村草太さんの5月31日のX投稿に、朝ドラ「虎に翼」を巡り以下の記載がありました。「新憲法ができて、いよいよ来週は、戦後家族法改正の話になりそうですね。私の考える家族法改正ハイライトは、『差別の仕組み』(朝日選書)第10章から13章「憲法24条と家制度」をご覧いただければ幸いです。」。それを受けてせっかく蔵書にもあるので、『「差別」のしくみ』(←これが正確な書名です)の「第13章 憲法24条と家制度(その4)――新民法と家事審判」の部分を読み直してみました。
印象に残った2点についてメモをしておきます。
まず、1点目は、「入籍」という用語を婚姻の意味で今日においても使うのはやはりふさわしくないということです。よく芸能人の結婚報告でこの用語が使用され、報道機関でもそのまま流されることがありますが、私はかねてから違和感を覚えていましたし、本書初読ならびに今回の再読でもますますその思いを強くしました。実際、同書p.151においても「なお、旧民法では、嫁入り(婿入り)する妻(夫)が相手の家の戸籍に「入る」ので、婚姻のことを「入籍」と言った。しかし、新民法では、婚姻する際には、新しい核家族を形成し、新しい戸籍を創ることになる。こうした現象を正確に表現したければ、「創籍」とでも言うべきだろう。」。新民法になってやがて80年近くも経つのに旧民法下の現象を指す用語が生きているのがなんとも不思議です。不思議と言えば、戸籍や夫婦同姓強制の制度があること自体、世界では珍しいのですが、そんな制度がない国でも家族は成立しているのに、その制度がないと家族が離散するかのような物言いをする人がいるのがそうです。家族が離散する可能性が高いのは、旧民法下においても戦争がもっとも高い原因であったことは間違いありません。
次に、2点目は、再読によって注目することになった、初の女性高裁長官を務めた野田愛子氏の思い出話です。この方は1947年に司法試験に合格するとともに明治大学を卒業しています。本書p.160に野田氏が先輩の立石芳枝先生(日本女性初の法学博士号取得者)に試験合格の報告をした際にかけられた、立石先生の言葉が紹介されています。それは、「憲法が変わって男女平等になったのよ。素晴らしいわね。」というものでした。野田氏は自著『家庭裁判所とともに』にも「家族制度のもとでの女性の劣悪な法律上の地位について、毎日のように講義をしておられた立石先生にとって、憲法改正に続いて改正民法が宣言した家族法上の男女の平等が、どれほどの解放感と感動をもたらしたか、痛いほどよくわかるのである。」と記しています。初読は、「虎に翼」の放送スタート前の時期でしたので、再読によって野田愛子氏や立石芳枝先生をモデルにした登場人物が現れないかと、楽しみが増えました。反面、皮肉なことに、当時の法律家にとってこれだけの感動をもたらした憲法を、今の自民党改憲案では徴兵制導入合憲と読めるように劣悪なものに変えようという動きすらあり、複雑な気持ちもあります。

飼い犬か義勇兵か

朝ドラ「虎に翼」の本日放送回での主人公の「寅子」による「生い立ちや信念や格好で切り捨てられたりしない男か女かでふるいにかけられない社会になることを私は心から願います。」との毅然とした決意表明と、女性の服装を揶揄する司法試験の面接官に「トンチキなのはどっちだ。はっ?」と言い放った「よね」の信条の崇高さには、たいへん感動しました。司法の分野はもちろんですが、当時は女性に選挙権がありませんでしたから立法分野の国会議員、行政分野の大臣として女性が活躍できる場はなく、そのことだけでも国民の半数以上が虐げられていた時代がつい80年ほど前まであったことを思い起こさせました。しかしながら、現在の立法や行政の分野に携わる者の資質に接すると、ガッカリさせられることが多いですし、そのような資質の人物をのさばらせる国民の資質も問わなければなりません。
じっさい、水俣病患者団体と環境大臣との懇談会で、環境省職員がマイクの音声を切り団体側の発言を封じた、いわゆる「マイクオフ問題」を巡って、あろうことか患者団体側に非難の電話をかけるトンチキな方々がいることを、本日(5月10日)の熊本日日新聞が報じていました。環境大臣やその場にいて善処に動かなかった熊本県知事の「飼い犬」を自ら買って出るとは、なんとも下劣で哀れな行動としか言えません。おそらくは、水俣病の被害がいかに拡大し、多くの被害者が救済されずに死ぬのを待たされ続けている歴史に無知なのだと思います。
たとえば、3月の熊本県知事選挙を前に、水俣病の患者・被害者計7団体でつくる連絡会が知事選立候補表明者へ公開質問状を出したことがありました。その際の現知事の回答を要約すると、「国の患者認定制度の見直しは求めない」「公害健康被害補償法で対応し、特措法での救済漏れには対応しない」「健康調査の実施は考えない」の「ないないづくし3点セット」でした。そのときこのような環境省の意向に沿ったゼロ回答をした候補は他にいませんでしたが、この回答が何を意味するかも先の飼い犬たちには理解する力がないのだと思います。
一方で、冒頭の「寅子」や「よね」と同様に、世の中の不条理に対して闘う人物が常にいるのも希望です。水俣病裁判闘争の初期のころ、「義によって助太刀いたす」と患者支援に行動した、水俣病を告発する会の代表だった本田啓吉先生(2006年没)を、私は思い起こします。先生とは機関紙『水俣』編集を通じて生前お会いする機会がたびたびありましたが、いつも穏やかで激しい物言いをされる方ではありませんでした。だからなのか、時折この「義勇兵宣言」が気になります。何の義理がなくても不条理な環境に置かれた出来事があれば、黙って見過ごさない人間でありたいと思います。
なお、熊本県知事の職分の名誉のために付言すると、福島譲二知事(1999年没)と本田啓吉先生は、旧制五高時代に学生寮で同室の仲でした。片や大蔵官僚、片や高校国語教師と、進まれた道は異なりましたが、大義とは何かを思索し行動に移す真のエリート知識人の気概は共有していたと思います。

よく言った

本日(5月9日)の熊本日日新聞社説より。
よく言った。「虎に翼」の笹寿司のおやじさんのセリフに、そんなのがありましたね。
「懇談には熊本県の木村敬知事ら県幹部も同席していた。だが、環境省の対応に異は唱えなかったという。国はもちろん、熊本県も水俣病問題の当事者だ。適切な対応だったとはとても言い難い。」