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企業の名誉を保持する和解について

このところ、内田雅敏著の『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』(ちくま新書、880+税、2020年)を読んでいました。著者は、戦時下の中国人強制連行・強制労働問題(花岡、西松、三菱マテリアル)など戦後補償問題に取り組んだ弁護士ですが、同書を読むと、外交関係の歴史にも明るく、非常に目配りのいい著書だと思いました。弁護士業務という観点からすれば、元徴用工の損害賠償請求事件がお金にならないことははっきりしています。国内法の知識だけでなく、国際法や国際人権基準、歴史についても深く知っておかなければ、踏み込めない分野です。しかし、花岡(旧鹿島組=鹿島建設)、西松建設広島安野(旧西松組)、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)の和解は、被害者への謝罪・救済はもちろんですが、過去の歴史に向き合うことで、それらの企業の名誉も保持された面もあります。現在、中国人受難者数を大きく上回る韓国人の元徴用工問題の解決が問題になっていますが、これについても人権を侵害した日本企業にとって、過去の歴史に向き合い、国家とは別にでも謝罪・救済の機会を得られることは、むしろその企業にとって国際的な信頼を増す名誉を保持できる機会です。請求権協定を振りかざして日本政府が民間企業の自発的行動も妨害するとなると、日本国民の名誉をも貶めることになります。外交保護権の放棄や除斥期間などの法律論に逃げるのではなく、被害の実態があった史実がある以上、その解決を図る誠実な対応をむしろ積極的にとるべきです。
「日本は、戦後の国際情勢を巧みに利用して、本来、負わなくてはならない戦争賠償義務、植民地支配による賠償義務を免れてきた」(p.220)のは否めません。それにもかかわらず、ある歴史事件全体の中の一部の間違いを鬼の首を獲った如くに指摘し、その歴史事件全体を否定しようとする歴史ねつ造主義の残念な人々がいることも事実です。特に前政権はそれらの人々を利用した世論形成に熱心でした。このデマゴーグ手法は、ナチスがよく使った手口ですが、安全保障の観点からもたいへん危険です。

日本をどうしたいのか

『元徴用工 和解への道』の中で触れられている作家・高村薫氏の言葉が、日本の戦後処理の不完全さをうまく説明していることを、投稿で触れました。17日の地元紙に載った共同通信配信記事と思われる同氏の新首相に対する評価コメントもうまく言い当てていると思いました。いわく「総裁選で強調したのも携帯電話料金を引き下げるという話。国の方針についてこんなに何も語らない新首相は初めてだ。」「日本をどうしたいのか、確固たる指針を自分の言葉で語るべきだ。」。
私も同感です。新首相がビザ要件を緩和したのがインバウンド観光の増加につながったと手柄話をしていたのを耳にしましたが、あんまりビザ要件の緩和の効果は感じていなかったので、あまり出入国管理については知識がないのではと思ったことがあります。外国人の入国・在留許可については、労働者や難民への対応がしばしば人権上問題あるので、ここの是正が重要課題だと思います。世界から信任される国として人権水準の向上を高らかに示すべきだと思います。近隣の東アジアの国・地域との向き合い方もどうしたいのかがはっきりしていません。憲法問題も挑戦したいという言い方をするあたりは、内容よりも仕事を進めたかどうかに関心がある、雇われ人感覚が受け取れます。法律やら歴史の勉強をしてきたようには見えない点でも確かに前内閣を継承しているなとは思います。

正確な物言いをしているかを監視する

『元徴用工 和解への道』を読んでいます。長年、元徴用工の支援を行ってきた弁護士の著作ということで、豊富な情報に裏付けられています。ただ、世間一般の理解度は、政府の言説のミスリードや報道人の勉強不足もあり、きわめて貧弱です。その理解が進まない限り、韓国や中国との関係はおかしなものになると思います。本書で2019年2月3日号の『サンデー毎日』に載った、作家の高村薫氏の指摘がわかりやすいので、紹介します。「日本政府は、戦後賠償問題においても、正確な物言いをしていない。(中略)日本は首相も外務大臣も、1965年の日韓請求権協定により戦後賠償問題は両国間で最終的に解決済み、と声高に繰り返している。あたかも韓国の司法が国際法を無視していると言わんばかりだが、一方的な暴言は日本のほうではないだろうか。」。
まず確認しなければならないのは、日本の政府も最高裁も個人の請求権は失われていないという見解ですが、それがあまり知られていません。1965年当時のレートで金1080億円相当の無償3億ドル供与の請求権協定も、金1080億円が一括支給されたのではなく、10年の期間にわたって分割の現物支給でした。その現物というのは、日本政府が国内企業から買い上げたプラントなどであり、むしろ日本企業のアジア進出への手助けの意味が強かったといわれています。

明るい選挙啓発書道作品に接して

小・中学生・高校生に明るい選挙に関するポスターや書道、標語作品を作成してもらい、選挙に関心を持ってもらうコンクールが毎年開かれています。地元市での作品推薦選考会に参加しました。初めての参加でしたが、応募作品数が多いのにまず驚きました。秀作ぞろいでどれも選外にするのが心苦しいばかりでした。全応募者に記念品が贈呈されるので、がっかりせずに、有権者となったおりには、ぜひ投票をしてほしいと思いました。

審議会行政で見落とされがちなこと

地方自治体が地域福祉計画を策定するにあたっては、住民の意見を募る機会が設定されます。来月、地元の地区座談会に出席する予定ですが、こういう場に出てくる住民代表となる人たちは、比較的自助や共助が盛んな地区の方が多くなり、本当に福祉の支援を要する地区の意見が反映されるのかという思いがあります。そもそもそうした想像力が行政を運営する側にあるのかという思いにかられます。行政の施策にはやはり住民の意見を反映したという正当性が問われますから、審議会的な場の提供には熱心です。しかし、ただその場を提供しても、どのような人が出てくるのか、ほんとうにその当事者といえる住民なのかは、よく考える必要があります。それでないと、やってます感行政に過ぎないことになります。現役世代が移り住んでこない老人ホームのような地区、支援する住民がいない地区が、細かく見ていくとコマ切れ状にあります。そうしたところからは、各種団体の長が出てこないので、長が住む地区とそうでない地区との格差は大きいものがあります。

相互理解を深める

このところ読んでいた『現代東アジアの政治と社会』からはいろいろな知識を得ました。まず重要なのは、歴史認識です。これは言い換えれば、歴史を知るということです。自国の歴史を知り、周辺国・地域の歴史を知ることが非常に大切です。たとえば、戦後50年の1995年に出された村山談話の歴史認識は、中国が現在でも高く評価されており、日中の信頼関係の基礎になっています。しかし、1990年代半ばには日本の歴史教科書から従軍慰安婦の記述の削除を求める勢力の動きがありました。旧軍の不名誉な歴史を葬り去りたいのでしょうが、これは中国の歴史教科書で第2次天安門事件について記述しない中国共産党の意向に似ているものを感じます。まず自らそして相互に歴史を理解して東アジアにおける共生を図るべきだと思います。
次に大切なことは、人権です。米国のような黒人に対する白人による肌の色の違いからの人種差別は、東アジアでは顕著ではないかもしれませんが、同じ肌の色でありながら愚かしい民族差別・出身地差別が強い風潮は感じます。歴史的にも日本の場合は、旧植民地出身者に対する賠償について放置してきました。これも同様に中国では少数民族に対する同化政策という弾圧が続いています。人権侵害については、不干渉主義を強弁するのは誤りという認識を持つべきだと考えます。国や地域という枠組みを外して互いに人として尊重して交流することから力による対立がいかにばかげているかが自明のこととなると思います。

東アジアの人口問題

人口問題は、そこに暮らす人々の将来社会を左右する重要な要素です。『現代東アジアの政治と社会』に記載のデータから触れてみたいと思います。まず世界全体の人口は飛躍的に増加しています。1800年:約10億人→1930年:約20億人→1975年:約40億人→1999年:約60億人→2019年:約75億人→2030年予測:約86億人→2050年予測:約98億人→2050年予測:約98億人→2100年予測:約112億人という具合です。当然地球の生態系に深刻な影響を及ぼすと考えられます。地域別には、アフリカとアジアではインドとパキスタンが人口増加の中心になるとみられています。一方で、東アジアでは少子高齢化が進むと見られています。
日本は、2004年をピークに人口自然減少へ転じていて、人口構成で65歳以上の高齢者率が21%を超える超高齢社会となりました。東アジアでは、2022年過ぎに韓国、台湾、香港が、2030年前後には中国が超高齢社会に突入すると予測されています。生産年齢人口の増加率が人口増加率よりも高くなる、いわゆる人口ボーナスの状態であれば、自然と高度な経済成長が望めますが、この逆である人口オーナスの状態であれば、GDPは下がり、国民は貧困化し、高齢者に対する医療費と年金の負担が生産年齢人口を直撃することとなります。
東アジアでは非婚率の向上と晩婚化現象により少子化が加速していますが、それへの対策が貧困です。これには旧態依然とした家族主義から脱却できていない未成熟な社会という側面もあります。先進国は概ね少子化に悩んでいますが、フランスは「子どもは社会が育てる」という思想と支援による少子化対策が進んでおり、先進国の中では出生率が高いとされています。
もう一つ考えなければならないのが、格差問題です。特に教育の格差は社会的な格差につながります。東アジアにおいて日本の高等教育機関への進学率(2017年度大学短大進学率57.9%)は、台湾の約90%、韓国の約93%と比較すると低い位置にあります。台湾では仕事に就いている女性は90%超ですし、会社の幹部に昇進している数も多い特長があります。
これらのことを考えると、これから先、どういう社会を作っていくべきなのか、たいへん悩ましく思います。近隣の超高齢社会の国・地域でお互い覇権主義的行動をとるのはまずたいへん愚かしいといわざるを得ません。子育て負担を軽くしないことには生産人口の増加は望めません。そのためには保育に始まり高等教育まで含めた完全無償化を進めるしかありません。無駄な軍事的な力の負担を減らせば、それはすぐにでも可能ですし、教育の無償化は子どもの人権のためにも実現しなければならない、もともと国際基準です。

歴史証拠への向き合い方

『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』は、同紙を敵視する人々による、いくつもの強弁例が紹介されています。たとえば、割と新しい出来事ですが、2018年3月28日の衆院外務委員会での外務省大臣官房参事官の「政府発見の資料に強制連行を示す記述は見当たらなかった」という趣旨の国会答弁をもってして「強制連行はなかった」と主張するケースがそうです。強制連行の事実が証拠として残る公文書は戦争裁判の中でもあるので、日本政府が持っている公文書の中に記述がなかったとしても、強いられた女性の証言という証拠もあれば、総合的に検証するのが歴史への向き合い方となるものです。なかったものにしたい気持ち優先で自らを洗脳していると言われても過言ではありません。
歴史というものは、その真実に迫り学んでおかないと、現在の行動を誤りかねないものです。『現在東アジアの政治と社会』からは、日本と国交を結ぶ前の中華人民共和国の指導者の足跡をよく学べます。中国では1953年から農業集団化が行われ、1958年8月から全国に「人民公社運動」が展開されました。これは、かえって生産を低下させ、2538万人前後の餓死者を出す毛沢東の失策となりました。今日の都市(非農戸=都市戸籍)と農村(農戸=農業戸籍)の格差問題の原因となった戸籍制度ができたのもこの時期(1958年)でした。1962年以後、農村から都市への厳しい人口移動制限がなされて、閉鎖的二元的身分社会が出現することとなりました。
毛沢東が招いた混乱は1966年に発動した文革もありますが、この時期は中ソ対立の時期でもありました。プラハの春を経て1968年8月に起きたチェコ事件はソ連による侵略行為として、ソ連を「社会帝国主義」「覇権主義」として中国共産党は激しく(今日の歴史的視点では正しく)非難していました。
一方、外交で手腕を発揮したのは周恩来です。「小異をすてて大同につく」と「外交無小事(外交ではどのような小さな事も小国も大事にする)」方針でアジア・アフリカ外交を展開して、後に米中接近、日中国交正常化を果たしていきます。
現代の中国が進める少数民族の同化政策や周辺地域への覇権行動がもたらす危機をどう回避して相互に恩恵が得られる道は何かもっと気づくべきではないかと思います。相手が気に入らないからといって強弁したり、荒々しい力で押す行動はスマートではありません。

民意の指標

『現代東アジアの政治と社会』の中に、日本における選挙権の広がりのデータが載っていましたので、興味をいだきました。言い換えれば、この国における物を言ってもいいとされた国民の資格の歴史です。過半数を超えるようになったのは、戦後のことということがよくわかります。ただし、現在においても実際に国政選挙が行われたときの投票率からいえば、国民の半数以上が政治に白紙委任状態になっていて、属性の違いはありますが、政治的市民の意思の反映は戦前並みなのかもしれません。
(施行年/条件(直接国税)/性別/人口比/備考)
1889年(M22)/15円以上/男25歳以上/1.1%/制限選挙
1900年(M33)/10円以上/男25歳以上/2.2%/制限選挙
1919年(T8)/3円以上/男25歳以上/5.5%/制限選挙
1925年(T14)/制限なし/男25歳以上/20.8%/男子のみ普通選挙
1946年(S21)/制限なし/男女20歳以上/48.7%/男女平等の普通選挙
2016年(H28)/制限なし/男女18歳以上/83.3%/男女平等の普通選挙

歴史総合科目の時代

今読んでいる『現代東アジアの政治と社会』のまえがきで知ったのですが、これまで「世界史」と「日本史」に分けられていた高校の歴史教科書は、2022年から「歴史総合」として生まれ変わるそうです。本書の著者自身も、「一国史は本来成立せず、輪切りにした歴史を積み重ねてこそ真の理解ができる。」と書いています。たとえば、日中戦争の要因を見ていくなら、当然、日本側だけの視点だけでは追えません。当時の中国にはさまざまな政権勢力があり、それぞれの指導者の考えを振り返ると、いかに日本側の指導者の読みが浅かったかということも分かります。一言で指せば複雑怪奇です。軍事力だけで渡り合えば道を誤るということも歴史が示しています。逆に言えば外交手腕が軍事力に優る結果をもたらした歴史もあります。そうこう考えると、現代における外交をどう進めるべきか、学ぶ点は大いにあります。

教育の無償化という国際人権問題

何度も繰り返しますが、『国際人権入門』では、さまざまなことを学びました。条約機関の審査において協議資格をもつ国際NGOが活躍していることもその一つでした。条約機関へ寄せられる締約国の政府による報告というのはどうしても甘口になります。その報告内容が実態を正しくとらえていないことには、条約機関も適正な審査が行えません。ここに国際NGOの出番があるわけです。条約機関からの勧告を締約国は尊重しなければなりません。たとえば、かつての日本政府は、国内には少数民族がいないとしていたのですが、今ではアイヌの人々や朝鮮半島にルーツをもつ人々の存在を認め、少数民族の存在を認めています。
さて、昨日は連続在任日数の最長記録を立てた日本の首相が辞任を表明しましたが、自らの実績の中に「不完全な」高等教育の無償化を上げていました。実は、教育の無償化も国際人権問題となっています。日本では貸与型の給付金も「奨学金」と称されていますが、金融機関が扱う同様のサービスが「学資ローン」あるいは「教育ローン」と称しているとおり、国際基準では「奨学金」には当たらず、あくまでも「借金」です。本当の「奨学金」である2018年度の給付制奨学金(毎年2万人)の予算は105億円とされていますが、これは米国から買わされる(?)最新鋭戦闘機F35Aの1機約116億円に満たない額です(空母に離着できるF35Bはさらに高額)。
国際人権規約の一つである社会権規約は13条で、「教育についてのすべての者の権利」を認め、教育が人格の完成と人格の尊厳についての意識の発達を指向するものだということに締約国は同意するとしています(1項)。そして、2項では、この権利の完全な実現を達成するため締約国は次のことを認める、として、初等教育については義務的かつすべての者に無償とすること((a))、中等教育(中学・高校)については「すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものにすること」((b))、高等教育については「すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」((c))と規定しています。子どもの権利条約の28条でもほぼ同様の規定が置かれていますが、社会権規約2条1項は、「締約国は、立法措置などのすべての適当な方法によりこの規約で認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な資源(左記は著者訳。日本公定訳は「手段」)を最大限に用いることにより(中略)措置を取る」としています。
ところが、日本で2020年4月から実施されている「高等教育無償化」は、世帯の年収で支援率が異なり、大学院生は対象とはしていません。低水準で不完全な導入に留まっています。
こうして見ると、国内向けには「施し」として「高等教育無償化」が実施されていますが、国際的には完全実施しなければならない義務があることを国民の目から隠しているといってもいいかもしれません。教育を受ける権利が家庭の所得の違いによる自己責任とされるのは間違っています。

日本を現場とする国際人権問題

今読んでいる『国際人権入門』を読むと、日本社会で起こっている国際人権問題についていかに無自覚であったかと思い知らされます。私のような行政書士の立場にある人でもそうだと思います。たとえば、行政書士試験に合格して行政書士になる人は、憲法や民法などは学習経験があるはずですが、入管法もヘイトスピーチ解消法もそれらの各法について知るのは行政書士になってからだと思います。ましてや人権問題の国際基準について学ぶのはよほどの機会がなければありません。本書では、国際人権条約の条約機関の活動の中身の解説だけでなく、日本の入管収容施設における外国人の人権侵害問題、ヘイトスピーチ解消法の限界など、なかなか実情を知り得ない部分に光を当てて教えてくれます。中国その他の海外の人権問題もそうですが、足元の人権問題が、なぜ国際人権問題なのかを知ることは、なぜ日本政府の取り組みが及び腰なのかを知ることにもつながってくる思いがします。

共存への英知はあるか

けさの朝日新聞のオピニオン面のコラム「あすを探る 政治・外交」で上智大学教授の宮城大蔵氏が見立てている外交の思想が鮮やかで納得しました。
まず現在の日本の外交戦略は、「強引な海洋進出を含めた中国の膨張主義的な行動を前に、日米同盟の結束を一層固め、また、インド太平洋戦略などによってその拡充を図る。(中略)日米の結束に揺るぎがないことを示し、それを具現化するために日本もアメリカの世界戦略により深く関与することが重要となる。」こととなっています。
しかし、これには難点があります。「中国との軍拡競争に陥った場合、深刻な財政難の日本には圧倒的に不利になること」や「一見頼もしく映る「力と力」の外交路線は、それに特化するのは日本に有利とはいえまい。また、完全な日米一体化路線を追求すれば、逆に日本独自の存在感が希薄化し、他国からすれば、それならアメリカだけを見ておけばよいとなりかねない面もある。」と宮城教授は示しています。そこからは米国だけの繁栄の道しか見えてきません。
そこで、現在の外交戦略の行き詰まりに備えるヒントとして1950年代のインドのネール首相が展開した「友好による封じ込め」を同教授は紹介しています。これは、国境紛争も抱える中印の友好関係を世界に喧伝し、そのことによって中国がインドに対して敵対的な姿勢をとりづらくするものでした。
ともかく「力と力」の外交という発想は幅が狭く、行きつく先は現実の戦火となりかねません。日本と中国の共存と繁栄は周辺アジア地域にとっても互恵的なことです。人権や軍縮など国際社会が広く利益を得る外交を掲げながら日中の友好により膨張主義を封じ込める英知が国民に必要です。

現代東アジアの政治と社会

前にも書きましたが、先々に読みたい本があることほど、うれしいことはありません。今の中国の不運は周恩来のような寛容力のある政治家がいないことではないかと思います。それは、日本やロシアなど周辺国にもいえることです。周恩来については、かつて読んだ野田正彰著『戦争の罪責』で、日本人B級・C級戦犯を赦した懐の深さが描かれていました。一方で、「迷惑」と通訳された田中角栄の言葉を聴いた際には激怒した歴史もあります。

国際人権入門

自分が読みたい本が出版される環境があるのは、実に爽快です。けさの新聞広告で、申惠ボン著『国際人権入門』(岩波新書、800円+税、2020年)が目に留まりました。近いうちに読んでみようと思います。世界的なコロナ禍においてこれほど人権問題を身近に感じることはありません。すべて国際人権条約にかかわってきます。日本で実現が遅れている個人通報制度や国内人権機関の必要性を感じます。残念ながら多くの法律家はこうした国際環境について疎いように思います。人権擁護についての国際水準を理解している政治家や支援者が必要です。

インボイス制度について

令和5年10月1日から消費税の仕入税額控除の方式は適格請求書等(いわゆるインボイス)保存方式になります。昨日、所属団体の研修会でこの制度についての解説を聴く機会がありました。大きな影響を受けるのは、課税事業者に対する売上比率が多い免税事業者となります。課税事業者としては、インボイスを発行できない免税事業者から仕入れをすると、支払った税額控除が受けられなくなるので、消費税納税の際に納める額が多くなります。そうなると、課税事業者はできるだけインボイスを発行してくれる課税事業者から仕入れしようということになります。免税事業者としては、課税事業者との取引が減ってきますので、収入減となります。悪くすると、廃業の危機に追い込まれるかもしれません。現在免税事業者がインボイスを発行できるようにするためには、自ら課税事業者になる必要があり、そうなると消費税納税負担も出てきます。免税事業者の選択が迫られています。しかし、国税庁という役所はいかにして税収を上げるか考えているのだなと妙に感心しました。

混迷する隣国を知る

岡本隆司著『「中国」の形成』(岩波新書、820円+税、2020年)の読書メモを残しておきます。
・「因俗而治」という対症療法を通じた多元共存ではあったが、清朝は明代のカオスに学び東アジアの多元勢力をとりまとめて一定の平和と繁栄をもたらした。
・歴史をたどると、「一体」の「中華民族」は存在しない。元来「多元」なのであるから、「多元一体」は「夢」でしかない。
・「中国」のトップにいる習近平国家主席は「中国夢」を唱えているが、その根幹にあるのは「中華民族の偉大な復興」である。しかし、(漢人社会は存在したが)かつて存在しなかった「中華民族」の回復はありえないので、「復興」は現実ではない。「夢」の実現に固執するのは、さらなる混迷を招きかねない。政権の宿命的な弱さともいえる。

勉強になったこと

まだ途中ですが、北野隆一著『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日選書、1900円+税、2020年)を読んでいます。
まず朝日新聞が2014年8月5-6日に出した、戦時中の済州島で女性を慰安婦にするために強制連行をしたとする故・吉田清治証言を虚偽と判断し、過去の同証言を引用した記事を取り消すとともになぜそうなったかを検証した記事があります。検証記事には挺身隊と慰安婦の用語の混同についても触れてあります。本書では著者自身が社内の検証チームに所属したこともあり、社内での検証過程が克明に記録されています。検証記事の中身については、きわめて真っ当な内容だと思います。吉田証言の舞台となった済州島へ赴いての取材も行われています。
ところが、この検証記事をネタに翌2015年1-2月に朝日新聞を敵視する3グループによる集団訴訟が同社に対して起こされます。私も2014年の検証記事についてはそれなりに覚えがありましたが、3つの裁判の内容については、あまり承知はしていませんでした。一つは、判決時期が2016年の熊本地震以降でもあり、正直なところ身近な関心事ではありませんでした。
そこで、原告の訴えの内容や裁判の経過、判決の詳細を、今回、まとめて知ることができました。実際、この裁判は3つとも原告が敗けましたが、敗けるべくして敗けた、荒唐無稽の訴訟でした。本来、民事訴訟において被告の不法行為によって被った原告の損害を裁判官に認めてもらうために、原告は因果関係を立証していくものなのですが、これら3つの訴訟は進め方がまるでなっていませんでした。「因」と「果」を言い立てるだけで、「関係」についての立証はまったくできていませんでした。よくそうした裁判の原告代理人を務める弁護士や原告として名前をさらす蛮勇がある学者がいたものだと不思議に感じました。著者は原告らの集会での発言も取材して、その内容も本書で知ることができますが、どうも原告らの願望は朝日新聞を潰すことにあり、裁判はそのための原告らの売名行動に過ぎなかったのではないかと思われます。目的と手段が合っていないので賢しさが感じられませんでしたし、朝日新聞にとっては迷惑この上ない出来事だったと思います。
私も朝日新聞を長らく読んでいますが、そんなに影響力のあるメディアだとは感じていません。地方だと、新聞報道ネタについて地域住民が話題にするとなると、ネタ元のほとんどは地方紙になります。ましてや海外で朝日新聞なる日本の新聞の報道に接する人は、ごくわずかでしょう。朝日新聞の報道がなくても従軍慰安婦の存在は史実として消えません。それで名誉が棄損されたとか、同紙が憎いと考える人の中では、あまたあるメディアの中でそこまで国内外での影響が大きいと言い切るその思い込みの激しさに驚きました。
もしも原告グループが言うように日本の裁判制度が信用ならないのなら、ぜひ日本政府に働きかけてもらいたいことがあるので、ここに提案します。それは、日本が加盟している国際人権条約で選択的議定書の批准を進めてもらい、条約機関への個人通報制度の導入と国内人権機関の設置を働きかけてもらいたいと思います。

貶めるということ

25年前の8月15日に当時の首相が出した「村山談話」は、アジア・太平洋戦争についての日本政府の歴史認識を示した、公式見解として歴代内閣に引き継がれています。しかし、その後も、その歴史認識を受け入れず誤った言動をする国民がいることも事実です。こうした動きについて、村山元首相が今年の8月15日に出したコメントのなかで、「日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶めるのでは、ないでしょうか」と言っていました。これについては、全面的に賛同します。
昨日から読み始めた北野隆一著『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』のなかで、まさに国を貶める動きを思い起こしたので、紹介しておきます。一つは、2007年6月14日付け「ワシントン・ポスト」紙に掲載された、櫻井よしこ氏らによる意見広告「THE FACTS(真実)」です。この広告は、日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかってはいない、慰安婦はセックス・スレーブではなかった、などと訴えるものでした。慰安婦=公娼だから問題ないとするこの意見広告は米国内から強烈な批判を浴びました。同書では直接的な記載はありませんでしたが、2013年5月13日の橋下徹大阪市長(当時)の「慰安婦制度は必要だった」「米軍、風俗業活用を」の発言も、やはり国内外から多くの批判の声が上がった動きとして記憶に残る出来事でした。櫻井・橋下両氏の主張は、歴史認識以前に女性の人権を何も考えていません。この一点をもってして、国際的な常識でいう知識人の水準には達していないことを示していると私は考えています。ましてやこの程度の人物が政治の諸課題に意見する資格はないのですが、今日なおテレビ等でご活躍なのを見かけるたびに、なんと自虐的・反日的メディアが多いことかと思わされます。

それぞれの戦没者観

私自身は一度も参列したことはありませんが、昨日(8月15日)は日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれました。この式で追悼の対象となるのは、75年前のその日に終戦を迎えたアジア・太平洋戦争の犠牲者約310万人とされています。天皇の言葉にある通り「さきの大戦において」「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」なので、旧日本軍軍人・軍属約230万人、市民約80万人がその内訳です。靖国神社に1978年以来合祀されているA級戦犯がその対象者に含まれるか、政府は明らかにしてはいません。会場は1965年以来ずっと日本武道館となっていますが、1964年に一度だけ靖国神社境内で開かれています。
ところで、「過去を顧み、深い反省の上に立って、」追悼する際に、310万人の犠牲者だけが対象でいいのかという疑問は残ります。外国の軍人や民間人の失われた命にも思いを寄せなくていいのかという思いです。逆に旧日本軍軍人・軍属の戦没者が祀られている神社の参拝だけをもってしてすべての戦没者を追悼しました、平和を祈念しましたという姿勢に、民間人の死や外国人の死を考えていない、戦争の惨禍への思いの欠如を感じてしまいます。
空襲、沖縄戦・南洋戦、外国籍軍人・軍属、抑留者など、戦後補償からもれた戦没者の問題は75年経った今も残ったままです。ほんとうに私たちはすべての戦没者を追悼してきたのか、まだそこから考えてみるべきです。