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国民の権利保障は行政の義務

昨日の投稿でHACCP導入の義務化について触れました。そこで、地元の飲食業組合の幹部に小規模飲食店での導入状況について聞いてみたのですが、多くの店主の反応はというと、導入の義務化について知ってはいるものの現下のコロナ対策で手いっぱいで、HACCPどころではないという空気が大勢ということでした。食品製造業であれば、販売先から導入が取引条件として求められることがあるかもしれません。しかし、小規模飲食店のお客にしてみれば、HACCPという単語自体を知りませんし、実際に取り組まれているのか知るよしもありません。つまり消費者アピールとしては弱い面があります。店側にとって毎日の業務の中でしかも限られた従事者にとって衛生管理の記録を付けることは煩雑ということもあります。記録方法については、IT化もあるかと思いますが、コストやリテラシーの課題もあります。さらには、行政現場の問題もあります。食品衛生管理については保健所がその最前線となりますが、こちらもコロナ対応で手いっぱいなのではないでしょうか。
法律は、国民に法律を守る義務を求めますが、国民の権利を保障するために行政に義務を課してもいます。話は変わりますが、現在、女子差別撤廃条約を批准していながら、個人通報制度の導入を定めた条約議定書の批准をしないままの政府に対して批准を迫る動きがあります。これなどは、表向きは女子差別撤廃をうたいながら、女性の権利を実際に保障する仕組みは働かせていないことになり、法律はあるけど守らないといっているようなものです。国民に義務を求める以前に行政が義務を果たさなければならない問題は、ずいぶんあります。

米国の不思議

米国の大統領選挙の州ごとの勝敗色分けを見てみると、驚くほど地域や都市規模の違いを鮮明にしています。東部や西部の海岸に面する州は民主党が強く、中部や南部といった内陸の農村を抱える地域は共和党が優勢です。支持者の宗教勢力にも違いが見られます。一口に聖書を絶対視する人々は、おおざっぱに言えば科学的に無知な人々です。聖書の記述の中には、時代考証的にさまざまな矛盾が含まれています。実際米国にある聖書を信奉する人々が設立した博物館では展示の中に進化の考え方ではありえない生物も登場させています。文化の多様性を尊重することも政治では重要ですが、その社会で生まれた子どもがどのような価値観を身に着けていくか、それを親が強いるとなれば、個人の権利の侵害となります。中国国内における同化政策のように強権的に行うと、この問題が発生します。しかし、米国では個人の権利を尊重するように見えてある社会の内部での同化が頑なに継続されているのだとすれば、それは個人の選択を潰すことになり、果たして人権擁護の観点からどうなのかと思ってしまいます。宗教を必要としない気楽さについては日本は比較的ある方なのかもしれません。

 

議論が必要な問題は何か

憲法に自衛隊の存在を書き込めば違憲論は鎮静化するから9条を変えようという議論がありますが、これは間違った前提から出発して間違った議論であることが、『戦争と法』で明快に説明されています。新型コロナ感染防止に効果が薄い布マスクを配っておけば、不安はパッと消えると考えて巨費を投じた対応ぐらいに程度の低い議論です。p.211では少しながくなりますが、以下のように書かれています。「憲法9条は、個別的自衛権の行使を否定していないからです。歴代の政府が「有権解釈」としてそう理解してきたというだけでなく、9条は、「国際紛争を解決する手段」としての戦争、つまり、勝ち負けで正しい方を決める「決闘」としての戦争で国同士の紛争に決着をつけることを禁止しているにすぎないからです。この目的を実現するために、「決闘」として戦争を遂行する能力である「戦力」も否定しています。しかし、自国が攻撃を受けた場合に武力でそれを撃退することも否定する非常識な規定ではありません。こうした発想の原点である不戦条約にまで9条の背後にある思想の起源を遡り、制定の経緯も勘案して、適確に条文を理解すれば、それで足りる話です。」。自衛隊の組織や活動の中身を問わずに丸ごと合憲か違憲かという議論は、思慮に欠けるものです。国際法原理を理解していなければ、9条が意味することを正しく理解することはできず、間違った議論に時間を浪費することとなりかねません。
一方、国際社会における「法の支配」が弱体化している問題や国連のような国際機関の判断に委ねるだけでは解決にならない現実もあります。サイバー攻撃や無人兵器、超速ミサイルの登場で、最初の一撃で壊滅に追い込み、撃退が困難な時代を迎えています。それらを考え合わせるも、改憲レガシー作りではなく、もっと議論すべき問題がほかにあるように思います。

比較不能な価値の選択

長谷部恭男著『戦争と法』のp.205にイギリスの政治学者のバーリンがオックスフォード大学の同僚に宛てた手紙の一文が紹介されています。「複数の目的は衝突する。いずれを選択しようと、君は苦痛を味わい、人に苦痛を与える。衝突を乗り越え、高みに昇り、止揚し、すべてがすべてと究極的に調和する地平を目指すことは、大がかりな逃避だ。対立は現にそこにある。避けて通ることはできない。罪悪感と苦悶とを逃れようとしても、別の罪悪感と苦悶にさいなまれるか、虚偽と自己欺瞞と無意味な読経に陥るだけだ。傷はいずれ治る。傷を負わない人生が傷を負う人生より善いというわけではない。」。バーリンについては、オックスフォード大学で学んだ恩師が師事した学者でしたから、親しみがありましたが、これこそがまさに政治の本質を言い表していると思いました。本書p.206では、著者自身が「比較不能な価値観が衝突するこの世の中では、「正しいこと」「望ましいこと」をすべて同時に満足させることはできません。とりわけ暴力行使の場面では、そのジレンマが正面から突きつけられます。」と記しています。それと、本書ではp.195において比較不能な価値の選択の例としてクンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の一節に触れた記述がありました。私は、原作は読んでいませんが、映画の方では出演しているフランスの女優のジュリエット・ビノシュに魅了されたことがあって、人生の選択の集積が政治ということに激しく実感できる思いがしました。

多文化共生vs.同化

中国国内でのモンゴル族やウイグル族など少数民族に対する同化政策へ国際社会の厳しい目が向いていますが、こうしたことはどこの国もかつて行ってきました。またそのことにより弾圧に動いた側の犠牲も大きいものがありました。たとえば、日本の台湾統治に伴い出した戦死者は日清戦争をしのぎます。アメリカがスペインから割譲を受けてフィリピン統治で払った犠牲者数は米西戦争のそれを上回ります。台湾、フィリピンそれぞれに独立志向が高い現地の人々の激しい抵抗を受けた歴史があるのですが、現代の日本人や米国人の多くはそれについて深く知らないのではないでしょうか。地上や海上にどんなに境界を引いても文化を一つに塗り替えることは、世帯内でも難しいことを知っているはずなのですが、国家や民族の偉大さという幻想に指導者が酔いしれてしまうと、言葉や宗教、法律の縛りを一元化します。すると必ずうまくはいかないものです。

理論と応用

自然科学分野の理工学の理論と応用、医学の基礎と臨床のように、社会科学分野の法学の専門家でも学者と法律系士業・行政窓口では守備範囲の違いがあります。ですが、自己の領域にこもっている専門家は実は専門家ではないように思えます。ふだんさまざまな士業や行政窓口と接する機会がありますが、ルーティン業務しか受けられないというのでは、依頼者としては専門家として頼りないということになります。特に人権が絡む問題は、国内法だけでなく国際基準を十分知っておく必要がありますが、行政の末端職員等にそうしたことを求めるのが無理なのは承知なのですが、ないのもまた事実です。

GDPの伸びと幸福度は別

晴天が続いていて近隣では稲刈りが進んでいます。おかげでノドの調子が良くありませんが、農家にとっては絶好の収穫日和なわけで立場が異なると利害は衝突するものです。GDPの伸びも同じようなことがいえます。GDPが伸びると一般に経済成長をしていると考えられ歓迎されますが、GDPがカウントする消費には幸福なものもありますが、不幸なものもあります。たとえば、災害復興に伴う消費などはそうです。コロナ禍にあって今年は蔵書を再読する時間が増えました。これなども新刊書を買うことによるGDPアップへの貢献はありませんが、私的には知の充実という幸福度の高まりがあります。つまり、負の消費もGDPアップには貢献するのですが、GDPがアップしなくても不幸だとは限らないということです。一面的な捉え方をすると、政治を誤ることがこんなことからも言えます。また、多面的な捉え方を提示するのが社会科学の知見というものです。

信頼と知性の有無についての簡易判別法

質問を受けても「その指摘は当たらない」と理由説明を拒否して「いずれにしても」と前置きして結論だけを繰り返す人物がいたら、信頼に値しないことを請け合います。また、そうとしか答えられないのに物事を進められないとしたら、そうした人物の知性を疑ってみることを勧めます。

ウォームハートとクールヘッド

日本学術会議会員への任命が拒否された学者6人のうちの1人である宇野重規氏が書いた本を読んだ経験としては、3年前に刊行された『大人のための社会科』があります。同書は4人の学者による共著です。宇野氏は「第6章 私 自分の声が社会に届かない」「第8章 信頼 社会を支えるベースライン」「第12章 希望 「まだーない」ものの力」の執筆を担当されています。希望という温かい心(ウォームハート)は、私たちのなかにすでにある力を顕在化させると、説いています。そしてそのような力をはっきり見定めるために、社会科学という冷静な頭脳(クールヘッド)の力が必要だとも説いています。希望が見えないと自助・共助はありませんし、希望を見えるためには社会の過去と現代の問題を正確にとらえる科学的思考が必要です。信頼もないのに上から自助・共助を求めても無理な話です。反知性主義に陥った政治に愛を感じるバカはいません。

クールに考えれば任命拒否は愚策

このたびの日本学術会議の会員への任命が拒否された加藤陽子氏の著作の読後感について記した投稿が4年前にありました。同氏は1930年代の日本近代史を専門とする歴史家です。学べば得ることが多いのですが、その気がない人が権力だけもって無学であるということは、不幸です。

反知性主義なのか

日本学術会議から新規会員として推薦された105人うち6人の学者が任命されなかったことが問題になっています。これまでこの機関の存在や役割をあまり承知していなかったのですが、これを機会に同機関のホームページを見てみると、さまざまな報告や答申、勧告、要望を出す活動をしていることを知りました。一例を挙げると、刑法改正についても国際基準と照らし合わせた傾聴すべき勧告を出していました。一般に行政運営の手法として審議会の活用があります。有識者とされる人をメンバーに入れて政策の方向付けをする際に使われます。こうした場合、行政としては望む結論が先にあるわけですから、空気を読める「御用学者」をメンバーに入れて審議会を構成するのが常道です。しばしば、その御用学者が座長となって事務局が作成したシナリオに沿って答申をまとめることが多いとされます。一応体裁を整えるために、というかガス抜きのために、反対意見を唱える学者をメンバーに入れることもありますが、御用学者だと思ってメンバーに入れていたら、あにはからんや反対意見を唱える「誤用学者」が紛れ込んでしまうということもあります。こうした手法は、行政学のテキストには載っているものですが、今回の問題は、政府から独立機関である同会議の会員を審議会と同等と扱ってしまったことにあります。学者のむき出しの知性に恐怖するコンプレックスさえ感じてしまいました。任命を拒否された学者は、それだけ恐れられたというわけで、逆説的な意味で名誉なことです。

自分たちの歴史をつくる

君塚直隆著『悪党たちの大英帝国』を読了しました。帝国を形作った7人の人物に焦点をあてた著書でいわばこうした伝記は読んでいて非常に面白いと感じました。特に今年はチャーチルとも政治家としての活躍期間が重なるクレメント・アトリーについての書籍を手にしたことがあるだけにより重層的に英国の政治を学ぶことができました。
ところで、本書の「おわりに」の章でカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1869年)のなかで述べられた以下の言葉が紹介されていました。なるほどと思いましたので、触れてみます。「人びとは自分たちの歴史をつくる。けれども好きな材料でつくるわけでも、自分で選んだ状況でつくるわけでもない。自分たちの目の前にあり、自分たちに与えられ、手渡しされた状況でつくるのである。」。
現実的にはそうだろうと思います。そして作られた歴史を修正する行為もしばしば発生します。「女性はいくらでもウソをつける」と発言したことを最初は言ってないとしていた女性国会議員が、その発言を認めたニュースがありました。これなどは、図らずも自分がそうであると実践してみせたケースで、こうした歴史の作り方もあるようです。また、少子化対策担当の新大臣が婚外子の存在を週刊誌で指摘されましたが、否定しています。否定することで、さらに不名誉な歴史を作っているわけで、認めても不利益はないのに不思議でなりません。
さて、宇土市内の正代関の大関昇進を祝う懸垂幕が昨日から掲げられました。優勝祝賀の懸垂幕よりも少し大きくなりました。一方所属部屋の親方が不祥事で二階級降格の処分を昨日受けました。この部屋にはほかにも今年7月に二階級降格の処分を受けた年寄がいます。それこそ新大関本人が選んだ状況にはない環境で歴史をつくっていくことになります。十分に気をつけてほしいと思います。

コロナ禍の国勢調査

コロナ禍の国勢調査では、回答者と調査員の対面機会をなくすことに焦点があたっていますが、ふだんの生活とは異なるため、たとえばオンライン講義ばかりで実際には通学できていない大学生の場合の回答の仕方も話題になっています。通常通りで言えば通学しているとして通学先の所在地や交通手段をその通り回答すればいいのですが、オンライン講義だと一時帰郷していることもあります。調査の趣旨から言えば現実ではなく通常の生活を想定して回答した方が良さそうです。それは統計局のQ&Aの一時的実家住まいや就活学生の項を見ても判断できます。国民のふだんの生活での通勤通学の移動人口の情報は交通インフラ政策に反映されるので、今の異常な時期の移動人口をもとにすると政策を誤ってしまうと思います。ここらあたりのPRもほんとうは必要だと思いました。

企業の名誉を保持する和解について

このところ、内田雅敏著の『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』(ちくま新書、880+税、2020年)を読んでいました。著者は、戦時下の中国人強制連行・強制労働問題(花岡、西松、三菱マテリアル)など戦後補償問題に取り組んだ弁護士ですが、同書を読むと、外交関係の歴史にも明るく、非常に目配りのいい著書だと思いました。弁護士業務という観点からすれば、元徴用工の損害賠償請求事件がお金にならないことははっきりしています。国内法の知識だけでなく、国際法や国際人権基準、歴史についても深く知っておかなければ、踏み込めない分野です。しかし、花岡(旧鹿島組=鹿島建設)、西松建設広島安野(旧西松組)、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)の和解は、被害者への謝罪・救済はもちろんですが、過去の歴史に向き合うことで、それらの企業の名誉も保持された面もあります。現在、中国人受難者数を大きく上回る韓国人の元徴用工問題の解決が問題になっていますが、これについても人権を侵害した日本企業にとって、過去の歴史に向き合い、国家とは別にでも謝罪・救済の機会を得られることは、むしろその企業にとって国際的な信頼を増す名誉を保持できる機会です。請求権協定を振りかざして日本政府が民間企業の自発的行動も妨害するとなると、日本国民の名誉をも貶めることになります。外交保護権の放棄や除斥期間などの法律論に逃げるのではなく、被害の実態があった史実がある以上、その解決を図る誠実な対応をむしろ積極的にとるべきです。
「日本は、戦後の国際情勢を巧みに利用して、本来、負わなくてはならない戦争賠償義務、植民地支配による賠償義務を免れてきた」(p.220)のは否めません。それにもかかわらず、ある歴史事件全体の中の一部の間違いを鬼の首を獲った如くに指摘し、その歴史事件全体を否定しようとする歴史ねつ造主義の残念な人々がいることも事実です。特に前政権はそれらの人々を利用した世論形成に熱心でした。このデマゴーグ手法は、ナチスがよく使った手口ですが、安全保障の観点からもたいへん危険です。

日本をどうしたいのか

『元徴用工 和解への道』の中で触れられている作家・高村薫氏の言葉が、日本の戦後処理の不完全さをうまく説明していることを、投稿で触れました。17日の地元紙に載った共同通信配信記事と思われる同氏の新首相に対する評価コメントもうまく言い当てていると思いました。いわく「総裁選で強調したのも携帯電話料金を引き下げるという話。国の方針についてこんなに何も語らない新首相は初めてだ。」「日本をどうしたいのか、確固たる指針を自分の言葉で語るべきだ。」。
私も同感です。新首相がビザ要件を緩和したのがインバウンド観光の増加につながったと手柄話をしていたのを耳にしましたが、あんまりビザ要件の緩和の効果は感じていなかったので、あまり出入国管理については知識がないのではと思ったことがあります。外国人の入国・在留許可については、労働者や難民への対応がしばしば人権上問題あるので、ここの是正が重要課題だと思います。世界から信任される国として人権水準の向上を高らかに示すべきだと思います。近隣の東アジアの国・地域との向き合い方もどうしたいのかがはっきりしていません。憲法問題も挑戦したいという言い方をするあたりは、内容よりも仕事を進めたかどうかに関心がある、雇われ人感覚が受け取れます。法律やら歴史の勉強をしてきたようには見えない点でも確かに前内閣を継承しているなとは思います。

正確な物言いをしているかを監視する

『元徴用工 和解への道』を読んでいます。長年、元徴用工の支援を行ってきた弁護士の著作ということで、豊富な情報に裏付けられています。ただ、世間一般の理解度は、政府の言説のミスリードや報道人の勉強不足もあり、きわめて貧弱です。その理解が進まない限り、韓国や中国との関係はおかしなものになると思います。本書で2019年2月3日号の『サンデー毎日』に載った、作家の高村薫氏の指摘がわかりやすいので、紹介します。「日本政府は、戦後賠償問題においても、正確な物言いをしていない。(中略)日本は首相も外務大臣も、1965年の日韓請求権協定により戦後賠償問題は両国間で最終的に解決済み、と声高に繰り返している。あたかも韓国の司法が国際法を無視していると言わんばかりだが、一方的な暴言は日本のほうではないだろうか。」。
まず確認しなければならないのは、日本の政府も最高裁も個人の請求権は失われていないという見解ですが、それがあまり知られていません。1965年当時のレートで金1080億円相当の無償3億ドル供与の請求権協定も、金1080億円が一括支給されたのではなく、10年の期間にわたって分割の現物支給でした。その現物というのは、日本政府が国内企業から買い上げたプラントなどであり、むしろ日本企業のアジア進出への手助けの意味が強かったといわれています。

明るい選挙啓発書道作品に接して

小・中学生・高校生に明るい選挙に関するポスターや書道、標語作品を作成してもらい、選挙に関心を持ってもらうコンクールが毎年開かれています。地元市での作品推薦選考会に参加しました。初めての参加でしたが、応募作品数が多いのにまず驚きました。秀作ぞろいでどれも選外にするのが心苦しいばかりでした。全応募者に記念品が贈呈されるので、がっかりせずに、有権者となったおりには、ぜひ投票をしてほしいと思いました。

審議会行政で見落とされがちなこと

地方自治体が地域福祉計画を策定するにあたっては、住民の意見を募る機会が設定されます。来月、地元の地区座談会に出席する予定ですが、こういう場に出てくる住民代表となる人たちは、比較的自助や共助が盛んな地区の方が多くなり、本当に福祉の支援を要する地区の意見が反映されるのかという思いがあります。そもそもそうした想像力が行政を運営する側にあるのかという思いにかられます。行政の施策にはやはり住民の意見を反映したという正当性が問われますから、審議会的な場の提供には熱心です。しかし、ただその場を提供しても、どのような人が出てくるのか、ほんとうにその当事者といえる住民なのかは、よく考える必要があります。それでないと、やってます感行政に過ぎないことになります。現役世代が移り住んでこない老人ホームのような地区、支援する住民がいない地区が、細かく見ていくとコマ切れ状にあります。そうしたところからは、各種団体の長が出てこないので、長が住む地区とそうでない地区との格差は大きいものがあります。

相互理解を深める

このところ読んでいた『現代東アジアの政治と社会』からはいろいろな知識を得ました。まず重要なのは、歴史認識です。これは言い換えれば、歴史を知るということです。自国の歴史を知り、周辺国・地域の歴史を知ることが非常に大切です。たとえば、戦後50年の1995年に出された村山談話の歴史認識は、中国が現在でも高く評価されており、日中の信頼関係の基礎になっています。しかし、1990年代半ばには日本の歴史教科書から従軍慰安婦の記述の削除を求める勢力の動きがありました。旧軍の不名誉な歴史を葬り去りたいのでしょうが、これは中国の歴史教科書で第2次天安門事件について記述しない中国共産党の意向に似ているものを感じます。まず自らそして相互に歴史を理解して東アジアにおける共生を図るべきだと思います。
次に大切なことは、人権です。米国のような黒人に対する白人による肌の色の違いからの人種差別は、東アジアでは顕著ではないかもしれませんが、同じ肌の色でありながら愚かしい民族差別・出身地差別が強い風潮は感じます。歴史的にも日本の場合は、旧植民地出身者に対する賠償について放置してきました。これも同様に中国では少数民族に対する同化政策という弾圧が続いています。人権侵害については、不干渉主義を強弁するのは誤りという認識を持つべきだと考えます。国や地域という枠組みを外して互いに人として尊重して交流することから力による対立がいかにばかげているかが自明のこととなると思います。

東アジアの人口問題

人口問題は、そこに暮らす人々の将来社会を左右する重要な要素です。『現代東アジアの政治と社会』に記載のデータから触れてみたいと思います。まず世界全体の人口は飛躍的に増加しています。1800年:約10億人→1930年:約20億人→1975年:約40億人→1999年:約60億人→2019年:約75億人→2030年予測:約86億人→2050年予測:約98億人→2050年予測:約98億人→2100年予測:約112億人という具合です。当然地球の生態系に深刻な影響を及ぼすと考えられます。地域別には、アフリカとアジアではインドとパキスタンが人口増加の中心になるとみられています。一方で、東アジアでは少子高齢化が進むと見られています。
日本は、2004年をピークに人口自然減少へ転じていて、人口構成で65歳以上の高齢者率が21%を超える超高齢社会となりました。東アジアでは、2022年過ぎに韓国、台湾、香港が、2030年前後には中国が超高齢社会に突入すると予測されています。生産年齢人口の増加率が人口増加率よりも高くなる、いわゆる人口ボーナスの状態であれば、自然と高度な経済成長が望めますが、この逆である人口オーナスの状態であれば、GDPは下がり、国民は貧困化し、高齢者に対する医療費と年金の負担が生産年齢人口を直撃することとなります。
東アジアでは非婚率の向上と晩婚化現象により少子化が加速していますが、それへの対策が貧困です。これには旧態依然とした家族主義から脱却できていない未成熟な社会という側面もあります。先進国は概ね少子化に悩んでいますが、フランスは「子どもは社会が育てる」という思想と支援による少子化対策が進んでおり、先進国の中では出生率が高いとされています。
もう一つ考えなければならないのが、格差問題です。特に教育の格差は社会的な格差につながります。東アジアにおいて日本の高等教育機関への進学率(2017年度大学短大進学率57.9%)は、台湾の約90%、韓国の約93%と比較すると低い位置にあります。台湾では仕事に就いている女性は90%超ですし、会社の幹部に昇進している数も多い特長があります。
これらのことを考えると、これから先、どういう社会を作っていくべきなのか、たいへん悩ましく思います。近隣の超高齢社会の国・地域でお互い覇権主義的行動をとるのはまずたいへん愚かしいといわざるを得ません。子育て負担を軽くしないことには生産人口の増加は望めません。そのためには保育に始まり高等教育まで含めた完全無償化を進めるしかありません。無駄な軍事的な力の負担を減らせば、それはすぐにでも可能ですし、教育の無償化は子どもの人権のためにも実現しなければならない、もともと国際基準です。