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「風よ あらしよ」は見て損はない

先日、本渡第一映劇まで「ほかげ」を観に行ったおりに予告編で「風よ あらしよ 劇場版」を知りました。熊本県内では2月16日からDenkikanで公開されるということでしたので、さっそく初日に鑑賞してきました。
この映画は、大正時代の女性解放運動家の伊藤野枝の生涯を描いたものです。彼女の最期は関東大震災後の混乱のなかでパートナーの大杉栄とともに憲兵大尉の甘粕正彦らの手によって殺害されるという悲劇に見舞われていますが、なんといっても100年前のことですし、あまり一般には知られていない人物かもしれません。私もどちらかというと、故・松下竜一さんの著書『ルイズ 父に貰いし名は』の影響もあって、大杉栄と伊藤野枝の遺児で1996年に亡くなられた伊藤ルイさんの活動についての方が、松下さんとルイさんが共に九州在住ということもあり、見聞する機会が多かったように思います。
ところで、映画作品についての感想ですが、安直な物言いですが、見て損はないと思いました。人間としての尊厳や自由について考えさせられますし、男性視点からするとなんだかんだいって女性のことを理解できてないダメさ加減をこれでもかと突きつけられる思いを受けます。映画の中で、足尾鉱毒事件における谷中村の棄民政策について大杉栄が「自分の原点」という意味合いの言葉を発しますが、どこかの県知事がやはりある公害事件を「政治の原点」といっていたのを連想し、軽々しく「原点」という言葉はつかえないなと思いました。
ほかにも「センチメンタリズム」「奴隷」「権力のイヌ」というキーワードが印象に残りました。ロシアや中国といった権威主義国家の外へ出て自国内にいる同胞へ発言を続ける知識人が数多くいますが、彼らが現在置かれている立場に近いものも感じました。
一方で、前述の「原点」に関連するのですが、差別の問題についていえば、やはり軽々しく理解した気に陥るのも危ないのではないかと思います。今読んでいる本は、中国系ベトナム人難民の娘としてオーストラリアで育ち、現在は米国の大学で哲学の教員をしているヘレン・ンゴ(呉莉莉)氏の『人種差別の習慣 人種化された身体の現象学』(青土社、2800円+税、2023年)なのですが、なかなか難解です。人種化する眼差しを持っている人はたいてい差別する意図はないと語りがちですが、身体行動には差別の現象があります。それを人種化される眼差しを受ける人は差別として確実に感じ取ります。世界をいかに解釈し、世界をいかにより良きものに変えていくか、それこそが哲学の役割なのですが、いつの時代も世界のどこでも課題はつながっているという思いもしました。

フタをすることだけが早業だった

現県知事が「政治の原点」とかつて口にした割には、こと水俣病問題解決に向かってこの16年間、県政の良き流れがあったとはとてもいえません。本日の熊本日日新聞1面の「点検 県のチカラ」の7回目記事にあるとおり、2013年の最高裁判決や国の不服審査会裁決が示した感覚障害のみの患者認定の判断、あるいは2023年の大阪地裁が示した水俣病特措法の救済漏れを認めた判決などに、一貫して背を向けてきたのは明らかでした。
その一方で、チッソが1968年まで有機水銀を垂れ流した、百間排水口の木製樋門(フタ)を水俣市が撤去する計画が持ち上がり、現地から反対の声が上がった際には、いち早く知事が県の予算で現場保存に昨年7月乗り出したことがありました。そのフタは、工場廃水が流れていた当時のものではありませんし、新たに設置されるレプリカのフタ自体には水理機能上の意味もないものです。被害拡大の事件史的視点から言えば、百間排水口から一時期変えた、水俣川河口近くのチッソ八幡プールの排水路からの有機水銀流出がより悪質だったわけで、私自身はフタ保存の必要性をさほど感じていません。むしろフタをすることで被害者に寄り添う格好のポーズ作りの材料にさせられただけだったと考えています。
※写真は記事と関係ありません。パリのポンピドゥーセンター(1991年12月撮影)。当時は広場で火を噴く大道芸人がいましたが、今はどうなのでしょうか。

本と美術の楽しみ

どのような社会づくりを私たちは目指すのか。それには技術発展の基礎となる理工系の学問は重要ですが、それとともに新しい価値を作り出す人文・社会科学系の学問も重要です。異文化が交錯するところ、多様な文化的背景をもつ人や土地との出会いから視野が広がり、さまざまな価値に気づくことがあります。その手っ取り早い方法は、旅行であるとか留学などがそうです。時間や金銭的制約を考慮すると、本や美術に接するのもいいと思います。食事は人が生きるために必要不可欠ですが、私にとっては読書や美術鑑賞もアタマのための食事です。つまり本や美術は食べ物です。
そんなこともあって他人がどんな食事をしているかよりも、どんな本を読んでいるのか、どんな美術作品に接しているのかという方に興味が湧きます。だいたいそれでその人となりが知れます。
昨日のBSフジの番組で、中国・南京出身のエコノミスト、柯隆さんが、都内にリベラルな中国関連書籍を扱う書店があって、中国出身の知識人が日本に呼び寄せられる要因になっているというようなことを言っていました。これまでそうした書店はロンドンやニューヨークにはありましたが、東京にも新しい華人ネットワークが形成されることは、むしろ望ましいことだと思います。
一方、ついこの前まで副知事を務めていた方の10代の頃の読書遍歴の記述を目にしたのですが、野村克也の『裏読み』と川北隆雄の『大蔵省』を挙げていて、ちょっとどうかなと思いました。対戦相手を出し抜く技量や財政を握って権勢(県政?)を振るうことへ憧れを感じて官僚を目指されたように感じました。
ちなみに私の10代の頃の読書遍歴で印象が強い作品としては、ソルジェニーツィンの『収容所群島』であるとか、五味川純平の『戦争と人間』あたりでしょうか。お互いヒネたガキだった点では似ているともいえますかね。
写真はロンドンのウィンストン・チャーチル像。1993年12月撮影。

ほかげ

塚本晋也氏が脚本・監督・撮影・編集した映画作品「ほかげ」を観たさに、初めて本渡第一映劇という名の小さな映画館を訪ねました。席は50ばかり。昔ながらのカーテン幕が左右に開くスクリーン、左右の壁には高倉健主演作のポスターが掲示されています。塚本作品の上映にふさわしい味わいのあるミニシアターでした。
作品に登場するのは、戦争未亡人や戦争孤児、帰還兵。戦争は終わっても心に闇を持ちながら生きている人々です。79年前、誰しもがそういう境遇に置かれたわけですが、それは日本にとどまらず、アジアやヨーロッパほか世界各地の人間が受けた心の傷であったはずです。今まさに戦禍の真っただ中にある地域もあります。「ほかげ」で描かれた人々がこれからも常に存在する現実から目を背けてはならないし、そうした人々を生まない世界に変えなければならない責任が一人ひとりにある、作品のメッセージはただ一つなのではないかと感じました。
無理を承知で言えば、プーチンやらネタニヤフやらといった戦争犯罪人に観てもらいたい作品です。

おまけ。帰路にロフトという酒店で、天草クラフトビールを買ってきました。ロアッソ熊本の開幕戦の前祝で賞味してみたいと思います。

「世界」2024年3月号読後メモ

例年この時期は大学入試の真っ盛りです。来年度から大学入学共通テストの制度が変更されることもあって浪人回避の意識行動がいつもよりも強いようです。ですが、受験の根本にあるのは、将来どのような分野の世界に進みたいか、その準備としてどのような分野の理を学びたいかについてです。そのきっかけは何か、それは人さまざまだと思います。
私の場合は、当初社会学に関心があって現役生のときはそうした学科へ進みたいと考えていましたが、浪人生のときに大江健三郎さんの作品と出会ってから氏の同時代に対する発言に共感を抱くようになりました。それと同じころに共同通信配信の論壇時評を後に恩師となる河合秀和先生が書いておられ、社会の実態を知るだけでなく社会そのものを変えていく政治学に関心を覚えるようになってきました。
そんなこともあって大学は河合先生が所属する政治学科のある学習院へ進みましたし、入学当初から岩波書店の「世界」は欠かさず購読していました。実はここ10年ほど深い理由もなく定期購読をやめていましたが、リニューアルした2024年1月号を手に取り、同号で伝えていたガザにおけるジェノサイドは人道の危機というよりも「人類の危機」という思いを持ちましたし、やはり同号で再録されていた大江健三郎さんが大切にしている「持続する志」の必要を感じて購読を再開することとしました。
もともとこの「世界」の成り立ちには、安倍能成や清水幾太郎、久野収ら学習院関係者らがかかわっています。そのあたりのいきさつは2024年2月号の石川健治氏の「『世界』の起源」で明らかにされていますが、この部分でも今にして思えばつながるべくした縁かもしれません。
写真は「世界」とは関係ありませんが、博士号取得率の国際比較を載せておきます。人文・社会科学系の博士号取得者は人口100万人に対してわずかに10人程度。しかも減少しています。率でこそ中国を上回っていますが、人口規模が日本の10倍以上ですから絶対数では少ないのは明らかです。こんなありさまなので政治にかかわる人材の知的レベルが国際的にも劣っていると思われます。当然社会は良くなりません。博士号を取得する人材を増やすと同時に、そこまでは求めないにしても国民の学びが必要です。
さて、本題の最新号3月号の読後メモを記しておきます。
・コンスタンチン・ソーニンとゲオルギー・エゴーロフによる論文「独裁者と高官たち」によれば…「独裁の権力が個人に集中すればするほど、有能で機転のきく人間よりも無能で忠実な人間が高官になる。」
・日本は二流国へなりさがった。2023年、日本の名目GDPは、人口が日本より少ないドイツに抜かれて4位に下落。一人当たりGDPも24位(2020年)→27位(2021年)→32位(2022年)へと低下。労働生産性は、OECD38カ国中28位(2021年)→30位(2022年)へ低下。正社員の男女賃金格差は35位。世界経済フォーラムによるジェンダー・ギャップ指数は世界120位(2021年)→116位(2022年)→125位(2023年)と低迷。男性の平均賃金が韓国に抜かれ、ベトナムにも抜かれそうになった。日本は移民受け入れ国どころか、移民送出国になるかもしれない。
・TSMCは正式発表していないが、熊本進出に際して第四工場までは建設が既定路線で進んでいる。熊本の第一工場で製造される半導体は12ナノのオールド世代、第二工場では6ナノを生産する可能性がある。TSMCは最先端の2ナノの開発に成功しているとされるが、その製造はいま台湾高雄市(本誌中では「高尾市」と誤り?)で建設中の最新工場で量産化の計画。優秀な台湾人エンジニアがいる台湾でしか最先端の半導体製造ができない実情がある。台湾の新卒就職市場では、一流が平均年収2000万円超のTSMC、二流がその他の半導体メーカー、三流がシャープを買収した鴻海(ホンハイ)に行くといわれる。
・TSMCの生みの親は、蒋介石の息子で二代目総統の蒋経国。若いときは父親に反抗し、共産主義に傾倒しモスクワ留学した。結婚相手はロシア人。留学中に鄧小平と出会い親交があった。鄧小平が台湾の「一国二制度」を唱えていたのも、相手のトップが蒋経国だったため。蒋経国が、台湾が韓国のように高成長を続けるためにハイテク産業育成の号令をかけたのは1974年。工業技術院を作り、院長にテキサス・インスツルメンツ副社長の張忠謀(モリス・チャン)を招いた。
・TSMC創業者のモリス・チャン氏は浙江省寧波市生まれ。国共内戦中の1948年頃に香港に逃れ、米国留学した。ハーバード大学に進んだが、マサチュ-セッツ工科大学へ編入し、学士号および修士号を取得。テキサス・インスツルメンツ在職中にスタンフォード大学で博士号を取得。TSMCは官製プロジェクトから民間企業として1987年に起業された。製造受注型(ファウンドリー)としては初だが、第2号にあたる。第1号は半導体メーカーの聯華電子。TSMC躍進の要因は、製品の不良化率の低さにあった。委託元のAMD(CEOのリサ・スーは台湾系米国人)が一貫生産のインテルを脅かすまでになった。
・2023年11月に中国のファーウェイ製スマートフォンに7ナノの半導体が搭載されていることが判明した。それを製造したのは中国の中芯国際、開発したのはTSMCの元技師長・梁孟松。米国のF-35戦闘機には7ナノ半導体が搭載されている。米国が台湾へ中国への先端技術漏出阻止を求めるとともに、生産を米国内にするよう求めると考えられる。
・文化人類学者のD・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』で、仕事の社会的価値と支払われる報酬の間は「倒錯した関係」があると指摘している。実際に日本でも、エッセンシャルワーカーであるほど、」給与水準が低い状況が30年以上続いている。ドイツでは、日本のような正規・非正規といった処遇の区別がない、非正規雇用がそもそもない。何時間働くか、どの時間帯で働くかなど、働く側の希望で決められる。働く側の意に反した転勤を強いることも違法とされる。

忘れやすい主権者でいいのか

大学同窓にあたる田中信孝さんの著書『行政はあなたの命を守れない』(熊日出版、1500円+税、2023年)の紹介記事が本日(1月28日)の地元紙読書面に掲載されていました。これによると、球磨川水害における事前避難の重要性を訴えられているようです。本書を読んではいないので今後の減災対策についてはどう考えておられるのか不明ですが、少なくとも浸水リスクのある土地に住宅を再建する愚は避けたがいいと思います。しかし、現実はそうした土地に現防災担当相の兄が代表を務める建設会社が災害公営住宅を建てたとかいう話もあって、どんなものなのかなと感じます。
以前著者ご自身からは同書で県政批判も盛り込んだとお話を伺ったことがありましたが、本日は奇しくも現知事の77歳の誕生日になります。なぜそれを覚えているかといえば、ロアッソ熊本のホームゲーム観戦のためスタジアムへ来場されたおりは、必ずナンバー28のレプユニ着用だったからです。なんでもその数字は自分の誕生日であり、ラッキーナンバーだからだと伺ったことがありました。ともかく記事は隠れたバースデープレゼントになったようです。
それでもって、スタジアムといえば、隣県の長崎市においてサッカースタジアムを中心とした大規模複合施設「長崎スタジアムシティ」が今年完成します。施主はTV通販大手企業ですが、施工には「頭悪いね」発言で有名な、先日議員辞職した方が会長を務めたこともある建設会社も加わっています。本人がすっぱり辞めたのは定数減で次回は小選挙区から出られないのもあったでしょうが、創業会社の事業への悪影響を一番に考えたのではないかと思います。前議員は、政治資金パーティー収入において4000万円超の裏金のキックバックを受けたと、東京地検特捜部から政治資金規正法違反の容疑で略式起訴されたわけですが、冒頭の現防災担当相も熊本地震前の2016年1月に3500万円の寄付不記載で同法違反の疑いで告発を受けた報道があったことを思い出します。
大きな自然災害があると、その対応に紛れてその他の問題を忘れてしまうのもなんだかバカにされた話だなと思います。

学際的な改革の視点

憲法学者の木村草太氏著の『「差別」のしくみ』(朝日選書、1800円+税、2023年)は、法律家が陥りやすい、法制度の形式に注目する狭いギョーカイの視点に留まらず、社会心理学や哲学・法哲学の分野の研究成果を見渡した論述が豊富な本でした。おかげで、差別の仕組みの悪性がより複眼的に解明されて、政治や司法判断の足りない部分の理解も進みました。さまざまな法制度を所与のものとしてその枠内で斬った張ったの立ち回りも重要ですが、取りこぼされた正義はないのか、考察して社会を変革していく行動も一方において必要です。そのための材料を提供していくのが、研究者の務めですし、それを学んだり伝えたりする役割はフツーの市民にもできそうです。革命家とまではならないにしても、だれしも学際的視点をもった社会変革運動をもっと気軽に行いたいものです。

これほど相応しい仕事はない

愛子内親王が学習院大学卒業後の2024年4月より日本赤十字社に就職することが昨日報じられました。これほど相応しい仕事はないと思います。たいへん気の早い話ですが、国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長を歴任された、現・日本赤十字社名誉社長の近衞忠煇氏のように、将来、国内外において社会の協調と平和の実現・維持に貢献できる役割を果たしていただけないかと期待しています。
東日本大震災翌年の12年前に学校法人学習院主催の公開講演が熊本県で開催されましたが、当初、講師の候補として学習院大学卒業生であり当時IFRC会長だった近衞忠煇氏から一旦内諾を得ました。しかし、その後、突発的な海外出張が多い要職にあることから、迷惑をかけてはならないと辞退されてしまいました。その頃の同氏の関心が強かったのは「原発事故を想定した国際支援への取り組み」でした。「国際赤十字としては政治的に中立を保ち、原発については賛否を示さない」とも発言していました(毎日新聞2011年12月10日)。ちなみに同氏の実兄である元首相の細川護熙氏は、同時期に『世界』(2012年1月号)に「政府は「脱原発」に舵をとれ」のタイトルで寄稿していました。
それで、近衞氏から講師内諾を得た直後の時期に、日本赤十字社熊本県支部へ挨拶のため訪ねたことがあります。その際応対してもらった同支部参事の梶山哲男氏から支部創立120周年記念事業として2010年に編集出版された『西南戦争と博愛社創設秘話』を贈られ、読む機会を得ました。それによると、西南戦争において小松宮彰仁親王殿下率いる官軍が、激しい戦闘のすえ熊本県北に残っていた敵軍の薩軍傷者の治療を借りた民家で始めており、それを引く継ぐ形で、佐野常民らが総督の有栖川宮熾仁親王殿下の許可を洋学校教師館(ジェーンズ邸)で得て、日赤の前身である博愛社を設立させたとあります。そのため、県北には複数箇所で救護の言い伝えや日赤発祥地標示(正念寺、玉名女子高=仮県庁跡地、徳成寺)があります。

自分が決める・変える

きょうは台湾総統選の投開票日です。日本の選挙と異なるのは、その投票率の高さです。日本の国政選挙では期日前投票や在外投票の制度がありますが、台湾ではそれがないにもかかわらずはるかに上回る要因はどこにあるのか、学ぶべき点が多いと感じます。
先日読んだ「世界」(2024年1月号)で、上智大学法学部教授の三浦まり氏が「法学部で政治学を教えて20年になるが、法律を自分たちで作り替えることができる、政治によって社会が良くなる、自分たちも政治を良くすることができる、と思っている学生はほとんどいない。法秩序は学び、受け入れ、守るものであり、それをおかしいと疑ったり、まして変えてもいいものだとは思っていないのである。どうやらわたしたちの社会は、根本的なところで政治主体性をもつ市民を育成することに失敗し続けているようだ。」と書いていました。法学部の学生のなれの果ての一類型である法律専門職に就いている方の中にもそういう傾向が見られますから、ハナから主権者意識が学校教育で身に付いていないのかもしれません。
それどころか社会的弱者を蔑む冷笑的なレイシストに身をやつした大人に出くわすこともあります。そういえば、先日、山口市の「はたちの集い」には、アイヌの民族衣装を着用した人を揶揄して札幌や大阪の法務局から人権侵犯を認められた女性国会議員が、招かれていました。そして何をその場所で話したかというと、臣民意識を求めて先の大戦を美化する内容でした。こういう大人になりたくないなという思いを抱いた参加者がいてくれたら、反面教師の意味もあったかもしれませんが、それを望むのは淡い期待でしかありません。権力者に操られるのではなく自分で決める・変える大人が増えないと社会は良くならないと、言い続けていくしかありません。
写真は台北市。2018年7月撮影。

ダンバー数と年賀状、宗教的無色、CF

高齢者が終活のために年賀状を差し出すのを取りやめる一方、現役世代のなかにもインターネットを介した連絡手段の普及を理由にやはり取りやめる動きが出ているのを、今年は特に感じました。私の場合は、今のところ、自分自身の生存証明の意味合いもあって、お知らせしたい方に絞って差し出しています。宛先には後期高齢者の方が多いので、返信はもともと期待していません。こちらが気づかないうちに鬼籍に入られた場合で気の利いた身内がいれば、その旨を知らせてくれることもあります。当方側が一方通行の顧客にあたる取引先関係にはこちらから差出も返信も行いません。そんなわけでだいたい例年150通(人)以内に収まっています。この150人というのは、英人類学者のロビン・ダンバーの名前に由来する「ダンバー数」と言われます。ダンバーは、現世生存人類(ホモ・サピエンス)が社会的信頼関係を築けるのはせいぜい150人ほどと言っています。
本日の朝日新聞の社説のなかでも、この「ダンバー数」に触れた記述がありましたので、アレと思いました。社説では、大企業における不正の温床について書かれていたのですが、大学や高校の運動部でも部員が300~400人もいるところで、昨年不祥事が明るみになったことを思い出します。
昨年は、ダンバー氏の著書の『宗教の起源』を読み、ずいぶん刺激を覚えました。それで、本日の朝日新聞紙面に話題を戻すと、社説の対向面のオピニオン欄「交論」コーナーで、紛争解決研究者が、日本は紛争解決にどういう貢献ができるかという記者の問いに、「日本は宗教的な色がほとんどない。(中略)仲介役に適しています。」と答えているのが、なるほどなと感じました。さらに同じコーナーで、国際人権法研究者が、「クリティカル・フレンド」(=相手のために耳の痛いことでも忠告してくれる友人)を大切にする重要性を述べていました。
同じ価値観だけの居心地のいい関係も大事ですが、それを超える異質な集団との良好な関係も大事です。けさはいろいろ考えさせられました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15834482.html
写真は記事と関係ありません。イギリス、ロンドン動物園(1994年1月)

ホントおめでたい

熊本県の公式LINEの今年初(1月4日)の投稿が阿蘇神社参拝を勧めるものでした。これをおかしくはないかと気づける素養が関係者にはないのかと残念に感じました。巷のSNS投稿においては、還暦過ぎのいい大人が陰謀論者の駄本をありがたがっているのもよく目にします。そういうマーケットがあるからこそ、荒唐無稽の歴史言説が商品になるのかもしれませんが、踊らされている人たちもそれなりの教育は受けてきただろうに、今になって身に付いていないのはなぜなんだろうと思います。その程度の知性で、変な使命感から政治家になったりすると、余計始末に悪いものです。
過去についても正しく学べていなければ、当然のことながら未来への対処も誤ります。昨年11月に、運転停止中の石川県志賀町(このたびの能登半島地震で震度7を記録)にある北陸電力志賀原発を訪問した経団連会長が、「一刻も早く再稼働を望む」と述べていましたが、昨日(1月4日)にあった賀詞交歓会では、なんらその発言について釈明をせず、それを問い質して報道したマスメディアも確認できませんでした。経済界トップですらこうした塩梅です。
ホントおめでたい人材に恵まれたわが国において、教育やジャーナリズムの役割が重要だなあと感じます。

いっそ四重構造ぐらいがいい

昨晩NHKBSで放送の「日本人とは何者なのか - フロンティア」は、最先端のDNA解析技術によって、今の日本人の祖先を考察する、興味ある番組でした。現存する人類であるホモ・サピエンスの源流はすべてアフリカにあり、その意味で現在どこの地域暮らしていようが、みな遠い遠い親戚です。最新の研究成果では古墳時代の日本人の骨からは、縄文人と弥生人に加えてそれとは異なるユーラシア大陸由来のDNAが6割程度ある、三重構造になっているそうです。従来は氷河期が終わって大陸と断絶した縄文人の時代のあと、稲作と金属器をもたらした渡来人との混血による弥生人との二重構造説だったのが、古墳時代に弥生時代の渡来人とは異なる人々との交流があったと考えられています。ちなみに縄文人特有のDNA構造を今の人たちで最も残しているのは、アイヌの人たちで7割、沖縄の人たちで3割、今の東京の人たちで1割なのだそうです。
ところで、巷では縄文ブームがあるらしく、縄文時代は争いもなく暮らしていたと、あたかもそれが日本人の伝統であるかのようにもてはやす向きがありますが、違和感を覚えます。縄文時代の人口密度は現在と比べようがないくらいに低く、外部との交流はないと考えられています。寿命も短く明日食べられるか非常に不安定な暮らしだったわけで、他の集団と出合い、争いになる機会がなかっただけだと思われます。文化あるいは文明の発達には外部との交流なくしてありえないわけで、縄文よりも弥生、弥生よりも古墳の時代という具合に時代が下るほどに技術が進化し食べていくことが安定化していったのではないかと思います。したがって、当然のことですが、現代においてもさまざまな人たちとの交流が進むことが、文化や文明をより発達させることにつながっていくはずです。
ともかく、○○人は何々という具合に固定観念で判断するのは無意味だと思います。言葉や身体的特徴は異なってもホモ・サピエンスに変わりはありません。そうした考え方は科学の発展に伴って生まれてきたことで、つい200年足らず前までの人たちはそうした思考を持ち合わせていませんでした。今読んでいるのが、木村草太著の『「差別」のしくみ』(朝日選書、1800円+税、2023年)なのですが、米国の建国当初の独立宣言や連邦憲法の文言をsy紹介していておもしろい指摘を見つけました。たとえば、1776年アメリカ独立宣言には、「全ての人は生まれながらにして平等である」として、1788年発効の連邦憲法でも「国民の身分の平等」を定めました。ですが、当時は奴隷制があり、米国へ連れてこられたアフリカ系の人たちならびにその子孫は、奴隷主の動産とされ、国民でも人間でもない存在とされていました。奴隷制廃止の連邦憲法の修正が成立するのは1865年になってからです。158年前の人権意識はその程度だったことに改めて驚きを覚えますし、今日の日本の政治家のなかにも人権侵犯の言動を行う愚か者がいるわけで、まだまだなのかもしれないとつくづく憂いを覚えます。
https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/episode/te/XRL92XPWX2/

ルポ無縁遺骨読書メモ

森下香枝著『ルポ無縁遺骨 誰があなたを引き取るか』(朝日新聞出版、1600円+税、2023年)を読んでいるところです。ちょうど昨日のNHKニュースでも「『相続人いない財産』過去最多768億円が国庫へ 昨年度」(※)と報じていました。現在、身元がわかっている人でも相続人がいない方が亡くなった場合、その方の葬送をどうするのか、残された財産をどうするのかが問題になっていて、その対象人数と遺産額は年々増えているようです。また、そうしたケースの場合に一線で対応にあたるのは市町村行政ということになっていて、その負担もたいへん重いものになっています。もちろん、そうならない手立てとして相続人がいない方が遺言書で遺贈先や遺言執行者を定めたり、死後事務委任契約を結んでおいたりする方法もあります。専門家はそういって済ませますが、本人がよほど終活に関心を持たない限り、そうした準備を行う人は増えないのではないかと思います。実際、孤独死者の平均年齢は62歳と意外に若いそうです(p.109 日本少額短期保険協会など2022年11月発表「孤独死現状レポート」)。
死は予期せずに到来するわけですから、それを前提に市町村に財政的負担をかけない葬送システム・遺産活用の制度設計があっても良さそうなものと考えます。市町村が、引き取り手のない死者の埋火葬のために適用する法律としては、葬祭扶助(生活保護法)と墓地埋葬法の2つがありますが、適用比率は9:1と極端に前者に偏重しています。そのカラクリは以下のようになっています(p.85-86参照)。
葬祭扶助…費用は国が4分の3負担、地方公共団体は4分の1で済む。
墓埋法…市区町村が全額立替払い。遺族が弁済請求に応じない場合は都道府県に弁済請求できる建前だが、支払ってもらえず市区町村が結局かぶるケースが多い。
死をめぐる費用負担の自治体ごとの違いは他にもあって、異状死の検案・運搬の費用が都内ほかでは公費負担ですが、神奈川県内だと遺族が全額負担となります。
また自治体の違いではなく地域の違いとして遺骨を骨つぼに入れる収骨のスタイルの情報も興味深いものがあります。東日本では「全収骨」、西日本では「部分収骨」のため、骨つぼの大きさも東日本の方が大きいようです。
あとは未整理のメモです。
横須賀市…「わたしの終活登録」事業。それをモデルに豊島区社協なども同様の事業を提供。
Casa…「家主ダイレクト」(孤独死保険付きの家賃保証サービス)
本寿院…ゆうパックで送骨する遺骨ビジネス。費用は1柱3万円。年会費・管理費は不要。
NPO法人つながる鹿児島…「つながるファイル」
長野市…「『おひとりさま』あんしんサポート相談室」。厚労省の「持続可能な権利擁護支援モデル事業」の指定を受けている。九州では古賀市が指定されている。
大田区…「見守りキーホルダー」(愛称:「みま~も」)。厚労省の「地域包括ケアの実現可能なモデル事業」の指定を受けている。都内各地で導入が進んでいる。九州では、日田市や小城市が導入済み。
いろいろ事例を知ると、自治体間の取組み格差を感じます。担当者の問題意識や政策実現能力の違いがあるかもしれません。それと財政負担能力の問題です。国庫に帰属する遺産を基金として国が管理して葬送や死後事務について発生する費用を市町村へ渡す、あるいは遺留金を金融機関から解約引き出す権限を市町村へ持たせる仕組みを構築した方が効果的にも思います。
先日観た映画『PERFECT DAYS』の主人公・平山の場合は、妹(または姪)が相続人となってくれる可能性がある続柄設定でしたが、「ほんとうにトイレ掃除(の仕事)をやってるの?」と兄に問いかける、裕福な妹がわざわざ面倒を引き受ける可能性は低く感じさせるところもありました。相続人がいてもアテにはならないという社会を前提に福祉政策を考える必要がありそうです。
(※) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231224/k10014298341000.html

二刀流より文武両道が凄いと思う

熊本との縁が深い黒田武一郎元副知事が今度宮内庁次長に就かれるそうです。皇室の諸問題でどういう働きをされるのか興味あります。
その名の通り剣道のたしなみがあり今も明治神宮の道場に通っておられるという報道もありましたし、小説『ステップ』(2005年)・『時のはざまに』(2011年)も書かれて出版されています。まさに文武両道。ネット古書店では3万円超の値がついています。
ご本人とは20年以上前にグランメッセ熊本で開かれたIT系の展示会場でブースを訪ねていただきお目にかかったことがあります。
写真は記事と関係ありません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0760fb9509e4c8081e4d273afcb2eaa2e454f79a?fbclid=IwAR1iXl9XRAetkR3JJYFpn8Ahvz6AfPto4Hmoxod0eY0mswQecF7ncHYd0fI
https://item.fril.jp/cd662d65b9eff63107640e1d7da6846a

自分で勉強すればいいんだよ

本日(12月15日)の熊本日日新聞に、渡辺京二さんの連載「小さきものの近代」の編集を担当した記者の手記が掲載されていました。その中で、生前の渡辺さんが「(自己の文章を読んで)分からなかったら、自分で勉強すればいいんだよ」と語っていたことが紹介されていました。手記の執筆者は、「分からないことにぶつかり、思考を促される文章こそが読み手を鍛えていくと言いたかったのだろう」と、捉え直していました。
状況をどう認識するかは、人によってさまざまですが、その違いはどう学び続けてきたかによって形成されていくものだと思います。直に渡辺京二さんのような知識人と出会う機会は限られていますから、多くは確かな著作や報道で学ぶしかありません。学び続けることで、たとえば読むに値する著作や報道かどうかという判断力も備わってくると思います。思考が鍛錬されることで、自分はどのように生きていきたいかも定まっていく気がします。
今、政界では裏金疑惑が取りざたされていますが、政治資金規正法を正しく理解していれば、収支の不記載を派閥から指示されたとしても、それは違法だと簡単に判別できるものなのですが、よほど日頃から考えることや調べるといったことをしない人たちの集まりなんだなあと、驚きました。法を犯すような人たちが法をつくる国会議員の仕事に就いてはなりません。即刻国会議員を差し控えていただきたいものです。
写真は佐世保駅の「貧乏が去る像」ですが、国会議事堂内の一つ空いている台座上には「不勉強が去る像」でも置いておく必要があります。

それぞれの百年

12月2-3日と水俣病センター相思社で開かれている「百年芸能祭in水俣」の初日イベント「百年座談in相思社」に参加しました。通常は休館日にあたる水俣病歴史考証館に展示されている丸木作品も観覧することがかないました。座談会の前に千葉明徳短期大学の明石現教授による11弦ギター演奏があり、明石ゼミ学生8名による手話合唱もありました。特に普段の生活では無縁の若い女性たちの歌声には、さすがに日頃シニカルな自身の心も洗われる思いを抱きました。これまで何度も相思社を訪ねたことがありましたが、これほど清々しい気持ちにさせられたのは初めてでした。
この後の座談会の最後で、本祭の「口先案内人」を務める姜信子さんが、権力者が怖れるのは、人々が歌うこと、踊ることというようなことを述べていましたが、世の中の不条理に異議申し立てを行う手段としては、確かに力を覚えます。最近読んだ、ロビン・ダンバーの『宗教の起源』でも、笑う、歌う、踊る、感情に訴える物語を語る、宴を開くといった、社会的グルーミングにはエンドルフィン分泌をうながす効果があり、結束社会集団の規模を大きいものにするとありました。法事なんかで経本をみんなで声を合わせて詠まされるように宗教儀式にはそうした要素が仕込まれています。
さて、「百年座談会 私たちのつながりあう百年」では、(一社)ほうせんか理事の愼民子さんから「在日の百年」、宮城教育大学准教授の山内明美さんから「東北の百年」、相思社職員の葛西伸夫さんから「水俣の百年」をテーマにトークがありました。今から100年前の1923年に関東大震災があり、水俣では日窒(チッソ)に対する漁民の最初の闘争が起きています。
座談会では、以下のキーワードがありました。関東大震災直後の朝鮮人虐殺(中国人や標準語を話さない日本人も犠牲になっています)、コメのナショナリズム(植民地での日本米増産)、放射線育種米(あきたこまちR12)、六ケ所村、寺本力三郎、大間原発、三居沢水力発電所、日窒興南工場、野口遵、半島ホテル(現在はソウルのロッテ百貨店が建つ)、水豊ダム、福島第一原発、復興庁、ハンフォード・サイト、朝鮮籍。
今回の座談会を聴いてこの百年を理解する手引きとして、以下の2つの書籍を個人的に挙げてみたいと思います。1冊目は、遠藤正敬『新版 戸籍の国籍の近現代史 民族・血統・日本人』(明石書店)です。「日本人」の定型、「臣民」への画一化が如何に形成されてきたかを知るには良著です。朝鮮籍・韓国籍・琉球籍の経緯を知る価値があります。旧満州国の日本人は満州国人ではなく内地人(日本人)であり続けたことも学んだことがない国民が大部分だと思います。2冊目は、ジャニス・ミムラ『帝国の計画とファシズム 革新官僚、満洲国と戦時下の日本国家』(人文書院)です。先進技術や資源をめぐる利権に蠢く権力者たちが、外国人だけでなく自国民の人権を如何に蔑ろにしてきたか、その手口を知るのに適しています。かつてのテクノファシズムには、今日のテクノソーシャリズムにも近しいところがあり、それも国民は監視すべきだとは思います。ついでに挙げると、これからの百年を考えるには、ブレット・キング、リチャード・ペティ『テクノソーシャリズムの世紀 格差、AI、気候変動がもたらす新世界の秩序』(東洋経済新報社)もお勧めです。
ところで、私の百年では、祖父の兄が大工だったそうですが、関東大震災後の復興特需で横浜へ移住します。その兄を頼って祖父も横浜へ行き、当地で商船会社の社員の職を得ます。北米航路の豪華客船にも乗っていましたが、アジア太平洋戦争中は軍の傭船に乗務し、南方と内地との物資輸送にあたっていました。最期はインドネシアから出港した油槽船に乗っていましたが、マニラから基隆へ向かう途中で米軍潜水艦からの攻撃に遭い亡くなりました。その命日は、偶然ですが、日窒創業者の野口遵と同じ1944年1月15日です。野口遵は電気化学を学んだ人物ですが、私の息子(COP3京都会議の期間中生まれ、私の祖父からすると曾孫)は、現在まさしく電気化学の分野の研究(※)を進めており、脱炭素社会の一翼を担っています。なにかしらつながるものだなと思わざるを得ません。
※一口で言えば、二酸化炭素還元反応。CO2(二酸化炭素)からCu(銅)を電極触媒として用いてCH4(メタン)やC2H4(エチレン)、C2H5OH(エタノール)といった有用物質を得る電解還元の研究。CO2排出抑制につながるものです。

 

 

 

キッシンジャー回想録ぐらい読んどけよ

SNSなんかで坂本龍馬気取りの政治家の投稿にたまたま触れると、ロクな奴はいないなというのが、私個人の偏見に基づいた感想です。企業経営者にしても、理論も何もない成り上がり者の自慢話をありがたがっているのは、得てして小物ばっかりというのが、これまた私個人の偏見に基づいた感想です。
さて、11月29日、米国の元国務長官だったヘンリー・キッシンジャー氏が100歳の生涯を終えました。その外交の成果はダイナミックであり、常人では得られないのは、衆目の一致するところだと思います。2年前に岩波現代文庫から上下巻で刊行されている『キッシンジャー回想録 中国』を読みましたが、同氏自身の能力もさることながら、当時の中国の指導者の器の大きさも感じます。読んだときの感想をブログに何度も記しています。
https://attempt.co.jp/?p=9670
https://attempt.co.jp/?p=9690
https://attempt.co.jp/?p=9728
https://attempt.co.jp/?p=9737
https://attempt.co.jp/?p=9749
https://attempt.co.jp/?p=9963
https://attempt.co.jp/?p=10022

社会的グルーミング

ここ1週間ばかり所用で県外に出かけていてその間せわしなかったので、オックスフォード大学進化心理学名誉教授のロビン・ダンバー著の『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社、3000円+税、2023年)の読書は、行きがけの列車の中で読み進めたところで止まったままです。というわけで、読みかけの感想なのですが、タイトル通り宗教の起源の考察という側面もありますが、人間の脳と共同体の規模感とのかかわりの考察が面白く思えました。
第4章共同体と信者集団(p.119)で以下の通り要点がまとめられています。
1霊長類が結束の強い社会集団で生活するのは、外的脅威から身を守るためだ。
2特定の種の集団規模は、脳の大きさによって制限される(次いでその規模は、居住と採餌の環境が良好であるかぎり、その種が通常経験する脅威のレベルに順応している)。
3人間の自然な社会集団と個人の社会ネットワークにもこのパターンが当てはまる。
4人間の自然な共同体、個人の社会ネットワーク、そして教会の信者集団には、約150人というはっきりした上限が存在する。
5この上限は、構成員の帰属意識、ほかの構成員との個人的なつながり、集団所属による利益に対する満足度といった、集団規模が与える影響によって決まっていると考えられる。
1974年にデヴィッド・ワスデルが発表した「自己限定的教会」の研究というのがあって、英国内の1万超の教区を対象に毎週の日曜礼拝に出席する信者数は、地域の人口規模に関係なく、175人前後という結果が得られています。別の研究でも信者数はおよそ200人ではっきりと頭打ちになるそうです。信者が150人から250人の教会は安定を失いやすいという、「バスター(牧師)とプログラム(事業運営)の中間圏」を突きとめた研究もあります。それによると、50人までのファミリー・サイズの教会であれば指導者を持たない民主体制でも機能しますが、150人までのバスター・サイズになると誰かが指導者を務める必要があり2~3のサブグループを作ってそれぞれに精神的支柱のような存在も求められます。さらに350人までのプログラム・サイズになると牧師ひとりでは手に余り集団指導体制が求められます。これも1970年代のアラン・ウィッカーの研究ですが、構成員が約340人と約1600人の教会を比較すると、小さい教会の信者集団のほうが日曜礼拝への出席率や収入に対する寄付額が高いことが確認されています。
直接触れ合うグルーミングを行うサルと類人猿の場合、結束社会集団の大きさはおよそ50頭で頭打ちになりますが、ヒトは直接ふれることなくエンドルフィン分泌をうながす社会的グルーミングを獲得することで、より大きな社会集団を構成することが可能になりました。笑う、歌う、踊る、感情に訴える物語を語る、宴を開くなどがそうです。宗教儀式にはそれらの要素を含むことからトランス状態に通じるものがあります。
どうしたらヒトは満足感・高揚感を得られるのか、そのヒントは音楽やスポーツ、宗教にありますから、政治や企業経営がその手法を取り入れるのは自然の流れとも思えます。

公教育の義務は

10月17日、滋賀県東近江市の市長が、子どもの不登校対策について同県内の首長会合や、その後の報道陣の取材で、フリースクールへの公的支援について「国家の根幹を崩しかねない」「不登校の大半は親の責任」などと発言したことがニュースになりました。これを受けた同月25日の定例記者会見で、二つの発言は「保護者や運営団体などを傷つけた」として陳謝し、その2日後の27日には、県内のフリースクールや親の会などでつくる市民団体側と面会して謝罪したことも報じられました。
現在不登校の子どもたちの受け皿として一定の役割を担っている民間のフリースクールがあることは認めますが、前述の市長発言の騒ぎに乗じて質の悪いフリースクールへも公金注入を進めるのは疑問だと考えます。私自身は市長の持論にはくみしません。しかし、子どもの不登校対策は公教育の枠組みで行うのが筋で、安易に民間へ丸投げするものではないと思います。自治体には子どもたちへ教育を受けさせる義務がありますから、不登校の子どもたちにも教育を受けさせる機会を提供しなければなりません。よって公の運営によるフリースクール形態の場を用意することはありえます。
ところが、民間の自称フリースクールの質はさまざまで、学習指導要領を無視した体験活動が主体のところも見受けられます。運営者の思想信条や歴史認識が極端な例も見受けられます。またそうした運営者が不勉強な議員へ近づいて自らへ有利な質問を議会で行うよう働き掛けないとも限りません。
地元の直近の市議会だよりを見ると写真画像のような質疑もすでにあっています。まずは公教育が文字通り公自身の手で義務を果たすことが先決です。民間のそれはあくまでも事業であって公教育の義務を負った存在ではありません。

家族法の知識の再確認

まだ読み始めですが、呉明植著の『伊藤塾呉明植基礎本シリーズ9 家族法(親族・相続)』(弘文堂、2300円+税、2023年)は、自分の知識を再確認するために役立ちそうです。著者を始めとする伊藤塾講師による講義には、日本行政書士会連合会中央研修所のVODでもたびたび視聴したことがあり、馴染みを覚えていましたし、もともと司法試験受験生向けに書かれた本なので、判例・通説に基づいて重要部分が図解を交えながら丁寧に解説されています。せっかく学習しても体系を正しく理解していなければ実務にも対応できない訳で、あやふやな記憶がクリーンアップされていく感覚はたいへん心地よいものです。それと、法律自体も年々アップデートされています。本書は2022年12月の親族法改正(例:女性の再婚待機期間がなくなる)にも対応しています。今後たとえば同性婚が法的に認められていけば、同性カップルの財産や連帯債務、債権者代位権などについても見直しが迫られます。現在地を理解することが、先にある目標地の適切な設定の議論にもつながります。
本書内の事例記述で登場人物に「山田太郎」の名前がありましたが、婚姻中の「不貞行為」の解説でも使用されておれば、なお学習者の理解が進むのではないかと思ったことでした。