政治」カテゴリーアーカイブ

受け身でいいのか

表紙写真の本はまだ読んでいる途中ですが、中国と米国の国交正常化以降の史実は同時代人として経験しているだけに、特に新しく感じる見方はありませんでした。要は相手をよく知ること、それと受け身だけではなくてどうこの2つの大国に働きかけるべきかということが問われています。人権と核兵器については、日本も含めて当事者の問題としてあるので、もっと多角的に動く役割があると思います。

不正署名事件の覚書

愛知県知事へのリコール署名において大量の署名偽造が発覚したのを機会に、署名と署名活動の正否についてまとめてみます。署名偽造罪は3年以下の懲役か禁錮または50万円以下の罰金となります。
1.氏名の代筆・・・×
2.住所、生年月日の代筆・・・○
3.家族による同じ印鑑押印・・・○
4.本人ではない拇印・・・×
5.県内の選挙人名簿登録者が県外で応じた署名活動・・・○
6.請求代表者からの受任者である業者やアルバイトによる受任者が住む市町村内の選挙人に対する署名集め・・・○
7.請求代表者や受任者でない人による署名集め・・・×
今回の事件ではいくつもの不正があったと報道されています。まず他人が氏名を代筆したり拇印を押したりした形跡があることが確認されています。すでに死亡した人の不正署名も含まれているとのことです。請求代表者は県内に住む選挙人に対してだけ、受任者は自身が住む市町村内の選挙人に対してだけ、署名集めができますが、その要件を満たさない形での活動が行われています。
選挙においては、投票所内で投票管理者の管理の下で、投票事務従事者2名が立会い代筆(代理投票)が例外的に行われますが、極めて厳重な取り扱いがなされます。署名偽造は本人の意思の偽造ですから、こうした行為を何十万人分規模で行った悪質さは厳しく問うべきです。

ワクチン外交はありなのか

新型コロナのワクチン供給のあり方が現在の国際関係を表しています。先進国と発展途上国との格差がそのまま供給量に反映しています。供給国の外交戦略をどう見るか、日本の選択はどうあるべきなのか。いろいろ考えたいと思います。今度読む表紙写真の本の著者は、けっして米中の専門家ではありません。しかし、著者が整理した課題に沿って考えてみるのは意義がありそうです。

3.5%の力という希望

『人新世の資本論』の著者・斎藤幸平氏が以下のことを最近語っていました。「ハーバード大学のエリカ・チェノウェスという研究者が、ガンディーにも言及しながら、3.5%の人々が非暴力的な手法で、本気で動き出せば、システムを変えられるということを実証的に示しています。現代のグレタのアクションは、3.5%の運動を呼び起こしつつあるのではないでしょうか。」。少し希望が持てる研究の情報といえます。
昨日も総務省幹部の接待問題が国会で取り上げられていました。首相の長男が勤める衛星放送事業者から会食の案内だったので、誘いを断れなかった官僚側を気の毒だとする向きがありますが、私はそうは思いません。公正な行政を担うべき公務員が一部の利害関係者からの接待に応じるなど、その根性の劣化ぶりはみっともないとしかいいようがありません。相手方の事業者が利害関係者である認識はなかったのかと問われて、官僚側は知らなかったと答えていて、それが事実ならそんなことも知らなくて務まる仕事のレベルは何だと思いました。また、音声データの公表があるまで、会食時の話で衛星放送などの話題は出なかったとか、記憶にないとか答えていましたが、これも最近では昨年12月のことですから、すぐ話したことを忘れるぐらいの頭脳でこれまた仕事ができるのかと思わされました。
この問題の発端となったのは、おそらくは省内からのリークだと思います。幹部職員が公務員倫理に反することを繰り返し部署を通じて行っていたわけですから、当然まともな公務員の耳にも入るだろうと思います。どんな組織にでも3.5%ぐらいは声を上げる人はいるのではないでしょうか。こうした形であれ不公正なものを正していければと思います。

行政書士制度70周年

本日2月22日は1951年の行政書士法施行にちなんで行政書士記念日となっています。今年は制度70周年にあたります。私自身が行政書士登録したのはこの10年近くにしかなりませんが、主権者である国民が行政と向き合う際の支援者でありたいと願っています。

https://www.gyosei.or.jp/news/info/ni-20201201.html

不正署名は住民への冒涜行為

愛知県知事の解職請求にかかわる署名の大半が組織的不正だったことは、同県民の意思を偽造する重大な犯罪行為であり、看過することはできません。そうした不正にかかわった連中は、住民に対する冒涜行為であることを理解できてなかったわけで、政治を語る資格以前の知的水準しかないのではと思わされました。
ある目的を達するためには、その過程も正当でなければなりません。五輪組織委員会の後任会長選びもしかり、新型コロナ対策のアプリ開発もしかりです。これが後任にふさわしい資質・過去の言動の検証や開発費用や手法が適正か、批判に耐えうるものなのか、判断できる人材で進めてほしいものですが、アスリートにしても官僚にしても大丈夫なのかと思わされる出来事が多いように感じます。

パブコメ回答を受けて

市政のさまざまな計画素案のパブリックコメント募集に際してときおり応じるようにしています。それは当局と住民それぞれが計画の正否を確認するために有効だからと考えるからです。コメントがあると後日その回答が公表されます。参考にされるもの修正に応じられるものと、これもさまざまあります。公表結果でもある程度は策定者の意識がわかりますが、実際にコメントをした側からすると、コメントの一部が削られて公表されることがあるのがわかります。つまり本当に痛い指摘は隠したいのだなというのは、コメントした本人にしかわかりません。特に計画策定手法において策定者側が楽した部分とか、見当違いの分析をした部分とかは、割愛されるものです。もし議員がパブコメ結果について本当に受け止めたいのであれば、コメント原文と照らし合わせて考えてみることを勧めます。

内政と内省

写真表紙の新書を次に読む予定です。日本にも中国籍のモンゴル人は在留しています。それらの人々の背景を知ることは重要です。しばしば内政問題から自国民の目をそらさすために、他国との権益が絡む領土・領海問題を利用することもあるのではないかと思います。

緊急事態なのは

例年通り早めにということで、本日当事務所の確定申告を提出してきました。今年は税務署入り口の外にカウンターが設けられており、いつもと違った光景でした。ところで新型コロナの緊急事態宣言は一部の県を除きあと1か月延長になる見込みという報道が出ています。熊本県独自の宣言の延長もどうなるのか気になります。移動を控えている今のような環境こそ脱炭素社会の実現を考えるには良い機会だと考えます。でなければ、ほんとうに緊急事態なのはこちらであり、もっと長期的に対応する必要があります。

1月も終わり

きょうで1月も終わりです。昨年1月半ばに東京へ行く機会があり、次男とは学内で会いました。ですからリアルでの対面は丸1年ありません。ときおりZOOMでネット越しに顔を合わせることはあります。この1年の行動変容には凄まじいものがあります。同時にこれまでの消費がほんとうに必要なものなのか、人類の将来にとって有益なものなのかどうか、経済を回すことの道義も問われた1年だったように思います。

人権第一に考えれば

人権を第一に考えれば、人権を侵害された人の国籍や民族で扱いを変えるべきではありません。政府同士が対立するのも不毛です。昨日の朝日新聞のオピニオン面で中国人強制労働問題で被害者と企業との和解に取り組んでいた弁護士の意見が傾聴に値すべきだと思いました。実際、日本政府は、中国人強制労働者と企業の和解では口をはさまなかったのに、韓国の元徴用工判決については国際法違反だと反発して見せ、互いに国家間対立を高める結果を招いています。国際法を持ち出すならそもそもの元徴用工が受けた人権侵害も国際法に反しており、不正義の原因を作った側が法律の手続き面のことであまり大きな顔をすべきではないと考えます。1965年の日韓国交正常化の実態でも日本側の資本でプラントを韓国側に建設してその後の利益を得たのは韓国以上に日本側ということもありました。1950年代前半に朝鮮半島の分断をもたらした朝鮮戦争の時期においても日本はずいぶん儲けさせてもらった負い目があることも忘れてはなりません。日本側も韓国の司法を判決に追い込むのではなく、和解に持ち込む知恵と贖罪が必要だと思います。

パブコメは重要

地方自治体等の行政が計画策定にあたり、素案を住民へ開示しパブリックコメントを求めることがあります。その素案があまりにも質が悪いものであっても、呆れて何も言わないのではなく、あえて指摘すべきだと思います。策定委員がいながらほとんどが民間のコンサルタント任せでどこかで見たようなキャッチフレーズだけの願望をとりまとめた実現性の見えない計画は単なる作文にすぎません。職員に襟を正してもらうためにパブコメは大いに活用したいと思います。

どう学ぶべきか

昨日の首相の記者会見を聴いていたら、核兵器禁止条約への日本政府の対応を質問していた記者がありました。答えは予想された通りの後ろ向きの内容でしたが、いい質問でした。コロナと同じく全人類に対する危機への向き合い方、つまりリーダーとしての資質をあぶりだすことに成功したと思いました。翻って権力を監視するジャーナリズムの資質も示されたと思います。
ところで、緊急事態宣言によって首都圏の大学では休校こそありませんが、対面での授業や課外活動が制限され、異常な大学生活がやがて1年間となります。実際、私の家族もその弊害を受けています。私が大学生当時だった1980年代前半は今よりももっと反核運動が盛んだった覚えがあります。大規模な集会や原子力空母の入港についての社会の関心も高かったと思います。関連する場所を訪れたり、冷戦時代の旧ソ連から日本へ留学していて交流したことのある大学生が米国へ亡命したこともありました。そういうナマの体験や議論の機会が減っている中で学ぶことの制約はいかがばかりかと思います。一方で、技術の進展はありましたが、人の考える能力というのは当時と今とでもそう変わりはないのではと思います。

丑年の鼻ぐり見学

丑年生まれの家族を空港へ送る途中、菊陽町の鼻ぐり井手公園に数分立ち寄りました。ヨナが堆積しないように流水を工夫した構造はたいへん興味深いのですが、一方で水理を理解しない後世の役人によって破壊された痕跡も残されているわけで、善政と失政の両方の見本を学べる場所だと、いつも思わされます。

 

経済成長は約束できない

『人新世の「資本論」』を読むと、これからの政治家は安易に経済成長を約束することはできないとの思いを強くします。どうしてもバラ色の将来を見せなければ、人気を取ることはできないかもしれませんが、こうした強迫観念から出た言葉は、いずれウソをついていたということになるのが、自明のものになるかもしれません。ただいつの世も見たくないものを見ない、知りたくないものを知ろうとしない、先送りに終始する人が多いのも事実です。

ウェーバーの主張

宇野重規著『民主主義とは何か』のp.180~p.181にドイツの社会学者マックス・ウェーバーが政治家に対して求めたことがコンパクトにまとめられています。ウェーバー自身はワイマール憲法の起草にも影響を及ぼした人物でしたが、ナチスの台頭を見る前に当時流行していたスペイン風邪で亡くなっています。彼は、政治家に3つの資質を求めます。それは、情熱と責任感と判断力です。政治家は他人を動かす権力をもっていることを自覚し、それに溺れることなく、責任を果たさなければならないと考えました。政治家には、自らの職務に対する献身を求めています。政治家は、自分の行為の結果に対して責任をもつ必要があるとしています。自分の信じていることは正しかったが、結果がたまたまうまくいかなかった、という言い訳は、政治家には通用せず、重要なのは結果であるとしています。主観的に自分が正しいと思う信条(心情)倫理だけではなく、結果に対して責任をもつ責任倫理が不可欠だと強調しています。政治によって生きる、つまり生活の糧として政治に携わる職業政治家ではなく、政治のために生きる、政治を使命として政治にかかわること自体を目的とする政治家を重視しています。やはり著者は日本学術会議会員としてふさわしいのではないでしょうか。

道徳が教科なのはおかしい

地元の小学校教員が児童の個人情報が入った私物のUSBメモリを勤務先の学校で紛失事件が10月にありました。本来はそうした私物のUSBメモリに校内の情報を入れて持ち帰ること自体が服務規定に反しているため、それらことが報道発表されました。発表時には教育委員会側から再発防止に努めるとの発言があったそうですが、現場の教員が自宅に児童の個人情報を持ち帰って仕事をしないと、終わらない実態を見ないでそうした発表の仕方をするのが茶番劇に見えて仕方がありませんでした。事実、その後の市議会で明らかになったことは、教員にアンケートをとった結果、実に44%の教員が私物のUSBメモリを使って情報の自宅持ち帰りを行っていると回答していました。これも正直に答えた教員の数字がそうであって、実際はそれ以上、つまり虚偽の回答も多かったと思います。つまり、規定違反ということと、虚偽回答ということが、教員の中に日常的にあると思われることです。そうした人に「決まりを守る」とか「嘘をついてはいけない」とかいう道徳教科を扱わせることほど不道徳な話はないのではないかと思います。あまりにも滑稽な話です。まず行わなければならないのは、規定や働き方の見直しです。ハナから守れない規定の下で働かせられて何も言わない被治者しか育てられない学校はいらいないと思います。

レイシズム政策としての入管法

『レイシズムとは何か』でいう「1952年体制」について読書メモとしてまとめてみました。日本政府による在日コリアンへ対するレイシズム政策としての入管法制としての視点に立っています。
まず戦後日本がGHQ占領下から独立したのは、サンフランシスコ講和条約の発効日である1952年4月28日です。この日をもって在日コリアンや台湾出身の漢民族は、日本国籍を喪失しました。しかし、本書の著者はこの1952年からの体制は、それ以前の植民地支配時代のレイシズム体制の継続と考えます。
植民地支配時代の朝鮮人支配の法的枠組みは次の3つになります。1.1910年の韓国併合を根拠にした帝国臣民への包含。2.朝鮮に国籍法を施行しないことによる朝鮮人の日本国籍離脱防止。3.朝鮮人戸籍と日本人戸籍とを峻別することによる被支配民族と支配民族との差異づけ。国籍の壁に囲い込むことで義務は押し付けながら戸籍の壁によって権利ははく奪して差別するやり方をとったというのです。戦後の1945年12月の選挙法改正で戸籍法の適用を受けない者は参政権が停止されます。旧植民地出身者(沖縄も)は排除されることになりました。新憲法施行前日の1947年5月2日に天皇最後の勅令として制定された外国人登録令は、朝鮮戸籍令の適用を受けるべきものを当分の間外国人とみなすとされました。
サンフランシスコ講和条約発効時に日本政府は外地戸籍者を一律日本国籍喪失させたことは、冒頭触れた通りですが、その根拠は1952年4月19日付の法務府民事局長通達によるものです。通達は条約が朝鮮の独立を認めているから原状復帰の必要があり国籍も元に戻すとしていますが、そもそも条約にはなんら在日コリアンの国籍規定がありませんし、講話会議に一人の朝鮮人も出席しておらず意思の反映はありませんでした。国籍選択権が一切認められていませんし、法律で国籍を定めるとした憲法10条にも違反するものでした。
結果、在日コリアンは無国籍者扱いの外国人となり、在留すれば指紋押捺と外国人登録証常時携帯が強制され、些細な口実で強制送還を強いられる難民以下の法的地位に落とされました。国籍と戸籍を恣意的に使い分けられ、官憲の広範な裁量に依拠した不安定な立場に置かれ続けることとなりました。2009年の改正で外登法が廃止となり、入管法に一本化されました。現在、指紋押捺はありません。特別永住者という在留資格をもつ外国人ということになります。