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今の時代に忠利がいたら

細川家の初代熊本藩主の細川忠利は、天草四郎の「首を取った」ことがよほど嬉しかったのか、その手柄話を親しい大名ら15人にも拡散していたのか。
しかも原城落城のわずか2日後(1638年3月1日)という早業。
今の時代に忠利がいたら、SNSのフォロワーはすごい数だったかもしれない。
https://kumanichi.com/articles/1561806

ちなみに天草四郎は、父親が小西行長の元家来ということもあって、現在は町中華の「大星」がある宇土市旭町(江部村)で幼少期を過ごしました。「大星」の店舗横に市指定文化財の標識とともに解説文が掲示されています。
https://www.city.uto.lg.jp/article/view/1101/1791.html

同朋同行

学生時代に当時立教大学教授だった栗原彬さんの「政治社会学」の講義を聴講しに同大学へよく行っていました。栗原さんの著書『管理社会と民衆理性』を持参し、先生に一度サインをいただいたことがあります。その際に浄土真宗の開祖・親鸞の言葉「同朋同行」を添えられました。なかなかに含蓄ある言葉で、40年以上ときおり脳裏に浮かんできて意味を考えさせられます。なんとはなしに、自分の行動指針の一つとなったことは間違いないと思います。栗原さんは、「水俣展」を企画する認定NPO法人水俣フォーラム評議員として今も活躍されています。
冒頭の立教大学での聴講の思い出としては、当時慶應義塾大学教授の内山秀夫さんが講師として講義されていた政治学もありました。内山さんにも著書の『民族の基層』にサインのお願いをしたことがありましたが、照れ隠しなのか「やだよ」とあっさり断られてしまいました。なお、この頃、内山さんと栗原さんの共著『昭和同時代を生きる』も出ていました。
それでなんでまた「同朋同行」のエピソードを持ち出したかというと、浄土真宗本願寺派(お西さん)の現門主が親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年にあたる2023年に発布した「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」をめぐって宗派内で混乱が生じている事象に接したからです。
文学の世界では、1000年以上前に書かれた『源氏物語』の現代語訳が複数あります。蓮如が生きた500年ほど前から用いられた『領解文』の現代語訳の必要性は一定あるかもしれません。ですが、文学の世界では訳者個人の解釈に基づいて大胆な表現が許されるでしょうが、宗派の教義にかかわる文章を門主だからと言って構成も含めて一方的に改変を定めると、確かに混乱をきたしかねないと思います。
会社に例えると、創業者が定めた社是社訓を、創業記念事業の一環で社長が社内に諮らずに広告プランナーに丸投げして今風にCIリニューアルして創業の精神が混乱してしまったようなものです。社史に業績として社長の名前を刻みたいだけとか、改憲したいだけの某総理みたいな…。
さすがに生成AIを使ってもデータが蓄積されていないと適切な文章にはならないと思いますし、教義宗教の場合は、唱和するので音楽的要素も重要だと思います。黙読で済む文学作品以上に難しいと思います。
同朋同行の精神に立ち返ると、門主も信徒も平等であるべきなので、ひとことで言えば門主だけの解釈を押し付けないことが大事なのではと眺めています。

新総裁の曽祖父は熊本出身の「今仙人」

石破茂新総裁と熊本の縁と言えば、何と言っても徳富蘇峰(現在の水俣市出身)らと共に熊本バンドのメンバーの一員だった、金森通倫(現在の玉名市出身、宗教家・牧師、晩年は「今仙人」と言われた)の曾孫であるということ。金森の孫にあたる母の影響もあって、石破氏はプロテスタントであると聞く。
(追加メモ)
2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』(綾瀬はるか主演)
徳富蘇峰役演:中村蒼、金森通倫役演:柄本時生
熊本バンドとは、1876年(明治9年)1月30日に熊本市の花岡山で、熊本洋学校の米国人教師ジェーンズの影響を受けた生徒34名が、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗して、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のことをいう。このできごとが問題になりジェーンズは解任され、同年に洋学校は閉鎖され、メンバーの一部が同志社英学校に転校して、明治以降の日本におけるキリスト教の源流の一つとなった。
ついでながら、写真のジェーンズ邸について触れると、もともとはジェーンズを熊本へ迎えるために1871年(明治4年)に建てられたもので、熊本県最初の西洋建築であり、県重要文化財に指定されていて、1877年(明治10年)西南戦争の際、佐賀の七賢人・佐野常民が征討大総督有栖川宮から博愛社(現在の日本赤十字社の前身)の設立許可を受けた場所でもある。最初は古城(現在の第一高校)に建てられたが、移転を繰り返し、水前寺成趣園の東側隣接地に移設された。しかし、2016年(平成28年)4月16日の熊本地震で倒壊し、2022年(令和4年)より、現在の水前寺江津湖公園の一角に移設復元されている。
日赤と言えば、細川元首相の実弟・近衞さんや皇族、その皇族にはやはりクリスチャン(カトリック)の麻生元首相も関係してくるので、なんともややこしい。

強制的夫婦同姓は「百端の紛雑」だ

共同通信が「選択的夫婦別姓」について全国の自治体首長に尋ねたアンケート集計結果に基づく、熊本県知事と県内市町村長の回答の一部が、けさの地元紙紙面に掲載されていました。しかし、残念なことにすべての首長個別の回答内容について紙面から知ることはできません。電子版会員のみスマホで紙面にあるQRコードで読み出すことによってしか知ることができないようになっていました。わずか46人分の図表なら10cm四方に満たないスペースで表示できそうなものです。反対の首長への忖度なのか、読者にたいへん不親切な報道だとまず感じました。
私自身の考えは、選択的夫婦別姓の実現には賛成です。現行の強制的夫婦同姓制度を採用している国・地域は、法務省が把握する限りにおいても世界で日本だけです。しかも、その夫婦同姓は明治民法の成立によって始まったもので、日本古来の伝統ではまったくありません。そもそも苗字強制となったのも1875年(明治8年)に陸軍省が兵籍登録を確実にするため、すべての人民に苗字を使用させることを建議したからです。しかし、ただちに夫婦同姓となったわけではありません。明治憲法や皇室典範、教育勅語などの起草の主軸を担った、熊本出身の法制官僚・井上毅は、明治民法成立前の戸籍法制定に向けた意見書案(1878年)において、「戸籍は一戸一籍とするを必とす、姓氏は必しも一戸一姓ならざるべし。……即ち数姓にして一家に過活するは世間常に有るの事なり」と述べ、戸籍法によって戸内の氏姓を統一しようとするのは社会における氏姓の慣習に適合せず、むしろ「百端の紛雑」を来たすものと理解していました。繰り返しになりますが、夫婦同姓の原則が法文化されるのは明治国家時代の民法の成立によってです。1890年制定の旧民法を経て、1898年制定の明治民法で、一家一氏の原則、一人一氏主義の原則となりました。家の標識として一つの氏の方が国として管理しやすいといった便宜主義から始まった側面もあります。それが戦後の家制度の廃止から氏(姓)の選択の自由だけが取り残された形となっています。
このたびの共同通信による全国首長アンケートによると、「選択的夫婦別姓」に反対は「どちらかといえば」を含めて17%となっており、理由は「家族の一体感を損なう」が最も多かったとあります。ですが、19世紀末の明治民法成立以前の日本では、夫婦同姓ではなかったので、それまでの家族は一体感が損なわれていたのでしょうか。それでよく日本人が古から存続できたことに考えが及ばないのでしょうか。歴史的な根拠もないのに反対するとか賛否を表明できない首長の知的レベルは、この際、大いに疑ってみるべきだと思います。
https://kumanichi.com/articles/1546866

「虎に翼」と水俣病事件

本日(9月12日)放送回のNHK朝ドラ「虎に翼」では1970年3月に公害訴訟における過失論の新たな法解釈が最高裁で検討されている場面が出ていました。それと、9月9日放送回の1969年1月と9月12日放送回の1970年3月に出たTVニュースを伝えるアナウンサーの氏名が「宮沢信介」となっていました。
1969年と言えば、水俣病第1次訴訟が熊本地裁に提訴された時期。当時熊本大学助教授の富樫貞夫氏が裁判における原告支援のため、新たな過失論の構築に着手していましたし、NHK熊本放送局勤務の宮澤信雄アナウンサーが水俣病を積極的に取材し、日本全国に向けた朝のニュース番組「スタジオ102」において現地リポートしていました。そのこともあって、水俣病事件に深くかかわる富樫貞夫氏(熊本大学名誉教授・一般財団水俣病センター相思社前理事長)と宮澤信雄氏(2012年に76歳で死去)の業績が、頭に浮かびました。
水俣病第1次訴訟は、1973年に原告勝訴の判決(確定)を得ますが、それには1969年9月に結成された水俣病研究会に、法律学者としてはただ一人参加した富樫貞夫氏の貢献が、大いにモノを言いました。当時の不法行為の過失論は、結果発生に対する予見可能性があったかどうかによって過失の有無も決まるという考え方が支配的でしたので、チッソはそれに依拠して自己の無過失を主張することができました。そのため、従来の過失論を再検討して水俣病裁判に適合した新しい理論を構築することが、富樫氏にとっての課題でした。
同氏の著書『水俣病事件と法』(石風社、5000円+税、1995年)によれば、思想の転換のきっかけは、1969年11月発行の「朝日ジャーナル」掲載の座談会「農業の人体実験国・日本」における原子物理学者・武谷三男氏の安全性の考え方についての発言にあったと言います。それには「農薬に限らず、薬物を使うときは、無害が証明されない限りは使ってはいけないというのが基本原則。有害が証明されない限り使ってよいとはならない。」旨の言葉がありました。同じころ、工場廃水処理に関する米国の標準的な教科書(邦題『水質汚染防止と産業廃液処理』原書1955年刊)にも出合ったこともあり、注意義務を「安全確保義務」として理論の再構成したとあります。そして裁判ではその理論で企業の過失責任を問い、被告を糺していきます。
1973年の熊本地裁判決では、危害を予知・予見できなかった以上無過失とするチッソの考え方を、次のように批判しています。「被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立って被告には何ら注意義務違反がなかったと主張するもののようであるが、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害してもやむを得ないこととされ、住民をいわば人体実験に供することを容認することにもなるから、明らかに不当といわなければならない」。きょうの「虎の翼」の背景にはこのような現実のドラマがありました。
もう一人の宮澤信雄氏は、NHKアナウンサーとして水俣病を報じただけではなく、個人として長年にわたり事件史研究と患者支援を続けてこられた方です。熊本放送局に赴任したのは、1967年ですが、水俣病と出合ったのは初めて取材した1968年からでした。この社会の不条理に衝撃を受けた宮澤氏は、1969年4月、水俣病を告発する会(代表・本田啓吉氏 当時熊本第一高校国語科教諭)に参加し、同年9月結成の水俣病研究会にも同僚技術職員の半田隆氏とともに参加します。そして、前述の富樫氏らと水俣病第1次訴訟を理論面で支援していきます。熊本勤務は異例の10年間(1977年まで)に及び、その後は静岡、秋田、京都、大阪、宮崎と転勤しながらも熊本・水俣へ足を運び研究と支援を続けました。1997年に葦書房(現在廃業)から『水俣病事件四十年』という著書も刊行されています。研究会や同氏の蒐集・旧蔵資料は、下記の機関が保管しています。
熊本大学文書館水俣病研究会資料
http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Minamata/MD_240523.pdf
熊本学園大学水俣学研究センター水俣病研究会蒐集資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index3.php
熊本学園大学水俣学研究センター宮澤信雄旧蔵資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index4.php
本日の「虎に翼」では、家裁の父である多岐川が「法律っちゅうもんはな 縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が幸せになるためにあるんだよ。」と語った回想シーンを流していました。それを実効性あるものにするためには、やはり富樫貞夫氏や宮澤信雄氏のように最初から最後まで闘い続ける人間がいてこそです。ハシクレでもいいから私もそうありたいと思います。

渋沢栄一の熊本に対する109年前の「愚見」が面白い

肥後銀行本店1Fの「肥後の里山ギャラリー」において開催中の「新しいお札とお金の歴史」展の会期が9月14日までなので、本日熊本市内へ赴いたついでに観覧してきました。展示のメインは、新千円札の肖像に採用された北里柴三郎についてで、それはそれで初めて知ったことがあり、興味深いものがありました。しかし、それよりも新一万円札の肖像に採用された渋沢栄一の、1915年(大正4年)10月6日に熊本県議事堂で開かれた歓迎会のときの発言が、より印象に残りました。今から109年前、当時75歳の第一銀行頭取である渋沢栄一は、同行熊本支店の開設披露に際して2度目のそしてこれが最後の来熊を果たしています。
このときの発言の一部がパネル展示されていましたが、その全文は公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版『渋沢栄一伝記資料』からも閲覧できます。渋沢栄一本人によると「我邦実業並に当熊本に対する愚見」(後掲)ということになりますが、なかなか面白いものがありました。
ひとつは後年公害企業となるチッソの前身・日本窒素肥料への言及です。同社自身の水力発電で賄った電気を利用して「空中の富」(=空気中の窒素成分を指す)から肥料を製造する化学工業への関心が高く、国策としても推進していることを熊本の名士へリップサービスしています。一方で、工業に重きを置くだけでなく、三池のように「地下の富」(=石炭を指す)はなくても「地上の富」(=米など農産物を指す)を産出する農業にも重きを置くよう述べています。米価の調節については市場経済に任せるべきであって、幕府時代の町奉行のように官吏に任せると失敗すると断言しています。言外に官吏の人智は人民よりも利口ではないと、その硬直性を指摘しています。
109年後の熊本でも工業と農業の両立が課題であり、農水省の備蓄米の扱いが論議を呼ぶなど、構造的には変わらない点を連想させられました。
【以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第50巻 p.105-106】
「従来御当地に事業関係を有ちませなんだ関係からしまして、御交際も薄かつた為めに、実際清正公と細川侯と肥後米に依つて御地を知つて居たと云ふに過ぎなかつたのであります、今日の熊本は全く面目を一新したと申して宜しからうと思ひます、現に私の関係ある九州製紙会社の如き、異常なる拡張の機運に向ひ、又日本窒素肥料会社の如き、豊富なる水電の動力を利用して農産物に関係の多い、肥料を製造して居りますが、之は空中の富を集めると申しても余り誇大な言葉ではなからうと思ひます、斯く事業を進むるは何れの向きも其途に依つて意を用ひましたならば、未だ種々有るだらうと思ひます、御当地は石炭の如き地下の富はないが、地上の富はある、即ち肥後米の如き夫れである、今は米の値段が安いので御地では一層お困りでしやうが、米の相場の高低の大なるは大に注意せざるべからざる問題であります、そこで応急の米価調節策も行はれ、今亦調査会組織せられ、私も其委員の一名たるべき内交渉に接したのでありますが、之は頗る重要問題で全国に取て考究すべきことでありますが、富を出す実業の進歩は一方面のみではドウモ行きませぬ、農業に進むか工業に走るか、一方計りを重んじて他を忘れることは不可であります、熊本は工商の方面に付いては或は一足後れて居つたかも知れんが、幸に二三の有力なる工業の発達を見つゝあるのは頗る喜ぶべき事であります、今や時勢は化学工業を重んずる時代に進みつゝあります、粗より精に入るは物の常であります、此の化学工業のことは議会の問題にも出で、染料会社の如き政事上より其の成立を応援することになつて居ります、昨日三池の炭山を視察しましたる節、コークス製造場を見まして、アニリン染料等、副産物製造の概況を模型により、技師の説明を求めて帰りましたが、斯の如き緻密なる工業にお互に注意せなくてはならないと思ひます、御当地に何が生ずるかは只今申上げることは出来ませんが、御注意になると何か事業があるかと思ひます。
最後に申添へたい事は米であります、此米に対して当県下では倉庫制度が行はれて居ります、此事には大に考究して此倉庫証券と金融とを結付けて、安全に信用が置ける様になると米価調節上此上なき策であります、幕府時代では米の相場を、町奉行所より触れて調節を政治上よりしたが、之は武断政治より来たのであります、此時代には左迄の害もありませんでしたが、今日の如き世界に、昔風の調節策を人智に依つて為さんとするは大なる誤りであります、官吏になれば人民よりも利口になつたと云ふ考へが出るが、之で行くといつも失敗であります、米価の調節策としては前も申したるが如く、当地の米券倉庫制は此の上なき策でありまして、自然と自家の節制を計り、余り安いと思へば売らない、自己の考へによりて調節し、誠に立派なことでありますから、考究したらば安全にして充分融通し得るのであります、尚今日は申上たい事は数々あります、即近い内亜米利加にも旅行しまするし、昨年支那にも旅行しましたから、其話もしたいのでありますが、先程申しました次第で長時間のお話をすることが出来ませぬので、御礼の為め一言申上げた次第であります。」

核兵器廃絶を口にもしない落ちぶれ方ではないか

NHKの朝ドラ「虎に翼」も残り4週となって今月27日には完結を迎えます。9月2日の放送回では原爆裁判の準備手続きが終わって1960年2月となって第1回の公判に入ったところでした。それから64年も経っていますが、被爆地・広島選出の総理大臣でさえ核兵器禁止条約の批准には後ろ向きで、世界の核兵器廃絶へ本気で立ち向かおうとはしませんでした。現首相の後任の座を狙う連中も同様のようで、だれひとりとして批准すべきだとは口に出しません。それどころか、数だけはいる裏金議員や声だけは大きい岩盤保守だか極右思想に染まった支持票の獲得で脳内がいっぱいなようで、党内選挙とは言え有権者平均の意識からかなりズレた政党に落ちぶれた体を示しています。結局、去り行く人もトップの座に登りつめたい人も、何をやりたいのかよく見えない人たちのレースになっている感じがします。ここまで政治の世界で人材が貧困になったのかと嘆息せざるを得ません。
写真は、福山市人権平和資料館の建物南側に植えられている被爆アオギリ二世(広島市)と被爆クスノキ二世(長崎市)。2023年11月撮影。

バカも休み休みに言え

8月31日の熊本日日新聞2面掲載の「射程」欄の「台湾の英雄が結ぶ縁」は、現在宇土市で盛んに流布されている、湯徳章英雄視の言説を鵜呑みにした記事で、「バカも休み休みに言え」と思うほど浅慮なシロモノでした。TSMC進出の恩恵にあずかれない同市の関係者が、なんとか台湾との交流の接点を持ちたいばかりに頼総統がかつて市長を務めた台南市と結びつきを強めたがっているのは、承知しています。
しかし、徳章英雄伝説のネタ本の著者の日頃の振る舞いや同書の記述を考え合わせると、「待てよ」という問題を抱えています。ある研究者によれば、ネタ本の記述はノンフィクションではなくて半ばフィクションとまで指摘されています。たとえば、徳章の処刑場面は、まるで見てきたかのような小説風の作為的な描写であり、根拠に乏しいとされます。また、徳章一人が罪を被って本省人たちの身代わりとなって彼らを救ったかのような書かれ方をしていますが、一部の本省人が日本人の血が流れている徳章を裏切り、外省人の当局へ差し出したのが実際と言われます。
2024年3月16日の朝日新聞国際面で、台湾出身で日本在住の芥川賞作家の李琴峰さんが、日台の関係はいびつだと指摘していました。日本国内の保守派による台湾に関する言説についても冷ややかに捉えてました。やや長い引用となりますが、次のように述べています。「日本の保守派はよく「台湾が好き」と言いますが、その言説を観察すると「日本の植民地時代のおかげで台湾が近代化した」「だから台湾人は日本が好き」などと紋切り型の表現を使います。植民地支配の歴史を正当化するために台湾を都合良く使っているだけではないでしょうか。」。
このことからも、徳章英雄伝説は、植民地支配肯定論者にとっては、うってつけの美談とされがちです。さらに、始末に悪いのは、植民地支配に後ろめたさを感じる多少「良心的」な日本人にとっても、日台友好ムードのなか、湯徳章という「日本人」がすすんで台湾人のために犠牲になったとする物語は「贖罪」感をもたらす感動話として受け入れてしまっています。
結論:宇土市における徳章英雄伝説の流布のありようは、同伝説マンガを小学生へ配布するなど子どもまで巻き込んだ「集団思考(集団浅慮)」(※1)の典型的な動きとなっているというのが、私の見方です。実際、この動きにクギを刺そうという「デビルス・アドボケイト(悪魔の代弁者)」(※2)たりうる能力をもった市関係者は残念ながら見当たりません。
※1:「集団思考(集団浅慮)」…心理学者のアーヴィング・ジャスニスが作った用語。協調を重んじ、論争や異議を抑制し、結果的に融通が利かない間違った信念に至ってしまう組織文化。誤認識が改善されず、議論の結果が極端になる。
※2:「デビルス・アドボケイト(悪魔の代弁者)」…議論を活性化するために、あえて多数派に異議を唱える役割の人。
※写真は記事とは関係ありません。台湾交通部観光局のキャラクター「喔熊Oh!Bear」(オーション)。2023年9月30日撮影。

「兵士たちの記憶」観覧メモ

アジア太平洋戦争期の1944年11月から1945年8月にかけて5度にわたる空襲に遭った大牟田市では、これを「大牟田空襲」(※)と呼び、その記録を伝える活動が続けられています。たとえば、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館では毎年「平和展」が開催されています。今回の「平和展2024 兵士たちの記憶 戦場からのメッセージ」では、戦地において実際に兵士が使用した武器や装備品、生活道具などが展示されていました。展示品の大半は、荒尾市の戦時資料収集家の松山強氏から借りた品々ということでした。松山氏の所蔵品については、玉名市立歴史博物館こころピアのエントランスホールで開催されている「夏の平和展2024 子どもたちが見た戦争」でも観覧する機会がありました。
※大牟田空襲
①1944年11月21日 B29、7機が爆撃。死者31人。
②1945年6月18日 B29、116機が爆撃。死者260人。
③1945年7月27日 B29、124機が爆撃。死者602人。
④1945年8月7日 B24、23機、P47、18機が爆撃。死者240人。
⑤1945年8月8日 B29、1機が爆撃。死傷者8人。
大牟田市立三池カルタ・歴史資料館については昨夏、やはり平和展開催中の時期に行きましたので、今回が2回目になります。展示品が異なれば当然知り得ることもより広くより深くなります。展示品の中に海軍の水兵帽のペンネント(ハチマキ状に帽子に巻く前章リボン)があったのですが、それに刺繍される文字が1942年10月30日の改正を境に統一されたことを初めて知りました。それまでは艦船名が入っていたのが、改正以降は防諜のため、「大日本帝國海軍」(ただし文字の並びは右から左)に統一されたそうです。いつかその改正日をまたいで水兵が登場する映画や再現ドラマを見たら、ペンネントの表記をぜひチェックしてみたいと思います。
ところで、大牟田における戦争の記録・記憶を伝える活動は、平和展にだけにはもちろん留まりません。JR大牟田駅前に「おおむた観光案内所(大牟田観光プラザ)」があるのですが、そこではこの三池地方をエリアとする地方紙「有明新報」を読むことができます。同紙を読んでみると、大牟田空襲や戦争遺構関連の記事などが載っていました。
この「有明新報」は徹底してローカルネタだけを網羅する紙面構成となっていて、なかでも「こちら110番」のコーナーは地元警察署に寄せられた通報と出動対応記録が載っている特異な紙面でした。初めて目を通した新聞でしたが、6~8面立ての小規模な日刊紙ながらたいへん存在感あるおもしろいメディアだと思いました。大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の新マスコットの名前が「カルタン王子」というのも同紙を見たから知り得たことです。
なお、案内所では土産物も販売されています。どうしても買いたいというものはありませんでしたが、「石炭クッキー」や「せきたん飴」などは、やはり印象に残りました。

「高輪築堤」観覧メモ

「日本を拓いた鉄の道 高輪築堤」観覧メモ
佐賀県立美術館で開催中の特別展「ジパング 平成を駆け抜けた現代アーティストたち」の観覧が第一の目的で佐賀市を訪ねた旅でしたが、沿道からすると美術館に隣接して手前に位置する佐賀県立博物館が否応なく目に入りますし、観覧無料ということもあって、博物館1Fの「日本を拓いた鉄の道 高輪築堤」の展示も観てきました。高輪築堤とは、1872年に開業した日本初の鉄道である新橋-横浜間の海に築いた線路を通すための堤です。この築堤には佐賀出身の大隈重信が陣頭指揮にかかわりました。大隈の活躍を映像劇で伝えているほか、屋外には遺構の再現展示もなされています。
佐賀市中心部では明治維新の際に活躍した地元佐賀出身の人物像が設置されていてよく目にしました。こういう顕彰の仕方は九州では鹿児島市中心部でも見かけます。中でも大隈重信に対する佐賀の人たちの思いは相当の強さを感じさせられます。当展には江戸時代後期から明治時代に至る佐賀藩と全国の動きを表した年表も展示されています。その年表の中には「佐賀の七賢人」の名前と生没年が記されています。ちなみに、7人の名前は、鍋島直正(藩主)、島義勇(秋田県権令)、佐野常民(ウィーン万博副総裁、大蔵卿)、副島種臣(外務卿)、大木喬任(民部卿、文部卿、元老院議長)、江藤新平(司法卿)、大隈重信(大蔵卿)です。江藤と副島は1873年の政変で下野します。江藤や島は佐賀戦争で1874年に処刑されます。佐野は1877年の西南戦争に際してのちの日本赤十字社となる博愛社を設立しています。大隈は1881年の政変で下野します(その後、現在の早稲田大学の創設や2度の総理大臣就任もあり)。こうしてみると全員がずっと権力の中枢に居座ったわけではありません。賢人でありながら不遇な運命を辿った人物もいて、その名前を忘れまいとする愛郷精神の風土があるように思えました。わが熊本ではこういう文化はないように感じます(あるとすれば全県的なものではなく出身地周辺の狭いエリア限定?)。
それと、私もこの年表で初めて知ったのですが、佐賀県は1876~1883年の時期、長崎県に編入されていました。分離独立して141年ということですが、もしも編入されたままなら、西九州新幹線の佐賀県区間の工事がもっと進んでいたのではと勝手に想像します。
とにかく佐賀の県民性を垣間見た興味深い展示でした。

伝説ネタの物語に流されるのは無教養

8月14日の熊本日日新聞文化面に元NHKディレクターの馬場朝子さんと京都大学名誉教授の山室信一さんとの対談記事「昭和100年語る 中」が掲載されています。そのなかで満州国を研究してきた山室さんが、国家という空間と国家(えてしてそれは専制者そのもの)が国民に求める愛国心の物語の本質を突いた発言をされているのが、目に留まりました。
やや長い引用になりますが、重要なので以下に示します。「国家とは『想像の共同体』と定義されるように、基本的に想像の所産です。(中略)国家という空間は伸縮するわけで、どこが郷土で、何が守るべきものなのかということも社会変動とともに変わっていくはずなのに、あたかも古代から同じような国家があり、ずっと守ってきたという伝統の歴史が作られ、それを信じる子どもたちを作る愛国心教育が各国で行われています。伝統と見なされるものの多くは国民国家を形成するために『想像=創造』されたことは現在の歴史学界の通説です。」「国家というものは作られるものであり、滅び、消えて無くなるものだという視点の重要性です。(中略)日本人は、国家が古くから自然にあり、永久に続いていくと思いがちですが、国民が日々作っていくのが国家だというのが近代国家の前提なのです。」。
この発言を読んで感じるのは、しばしば伝統と称されるものが、伝説ネタに起因するものであり、日本の場合は明治以降に流布されたものが多くあるという事実です。それは、子どもたち向けの愛国心教育に限らず、日常生活のなかで目にするさまざまな言説のなかにしばしば顔を出します。この対談記事の冒頭には戦前の「京大俳句事件」で弾圧逮捕された俳人・渡辺白泉のことが山室さんによって取り上げられていますが、8月8日付け同紙の文化面に寄稿していた長谷川櫂氏の「故郷の肖像④第1章 海の国の物語 天皇と『海の民』の縁」は、同じ俳人の振る舞いとしては興ざめの連載回でした。今回稿では神話(現実の変容)の話と断りつつも景行天皇(西暦71年~130年在位? 143歳で崩御?)の九州巡幸路の図まで載せて想像たくましく海の民と陸の民との権力闘争関係を描いておられるのですが、その意図が正しく読者に伝わるだろうかと思いました。神話のエピソードが荒唐無稽の、換言すればエンターテイメント性の高いネタなのでウケを狙ったのかもしれません、考察文としては失敗作なのではなかろうかと感じました。これに留まらず、昨日届いた所属団体の広報誌に仁徳天皇(西暦313年~399年在位? 142歳で崩御?)の「民のかまど」の逸話を引き合いに書かれた文章を見つけてため息が出ました。都合のいい見立てを述べたいときに実在が疑わしい人物が描かれた神話に依拠して書くというのが、それなりに社会的地位を築いている人にも見られる現象をどう考えたらいいのか悩みますが、厳しい言い方をすれば無教養のそしりを免れないのではと思います。
そうこう朝から考えていたら8月14日の朝日新聞では、「海自実習幹部、靖国神社の『遊就館』を集団見学 今年5月に研修で」の記事が載っていて、失敗を失敗として捉えることができない非科学的な学びから作戦能力は養成できない現実も見てとれて、歴史学界の通説をもっと学んだらと感じました。
写真は、『「戦前」の正体』の裏表紙。

『暴力とポピュリズムのアメリカ史』読書メモ

11月に行われる米大統領選挙に向けた運動が今展開していますが、民主党の副大統領候補の経歴に州軍(ナショナル・ガード)勤務歴が20年あるとありました。しかし、他国の国民からすれば、この州軍がいったいどういう組織なのか、米国の歴史の中でどのような経緯で存在しているのか、ほとんど知らないと思います。そうした疑問に答えてくれるのが、専門の研究者であり、実にありがたいものだと思って、中野博文著の『暴力とポピュリズムのアメリカ史 ミリシアがもたらす分断』(岩波新書、940円+税、2024年)を読み終えました。
かつての帝国日本が満州へ送り込んだ初期の開拓移民は武装移民でしたが、米国の歴史をさかのぼると独立以前から武装の歴史があり、米国陸軍の始まりは独立前にあります。いわば、武装の権利がかなり強く保障される基盤があったようです。独立戦争や南北戦争、共和党と民主党、白人と黒人をめぐる歴史も、米国における武装組織とのかかわりで見ていくと、ずいぶん現代と見え方が異なる印象を受けました。現在は大きく分けて正規軍(連邦軍)、州軍、民間ミリシア(正規軍と国内外で行動を共にする民間軍事会社もあれば、国内での政治的主張をもった民間団体もある)とがあります。意外だったのは、正規軍は現在最小限の規模に留め、その人員確保のために一定の軍歴を果たせば大学学費免除や医療などの福利厚生の優遇を図っている点でした。米国では、軍隊が低所得層にとって社会保障が充実した職場の選択肢としてあるようです。ひとつに徴兵を行うと、地域社会で排除されやすい人材が集まりやすくなるため、その手段は避ける考えが定着しているようです。いずれ日本の自衛官募集も米国のように高等教育と福祉をエサに要員確保に動く政策が出てくるのではないでしょうか。

『「戦前」の正体』読書メモ

神話に支えられた明治維新から戦前までの近代日本の国民的ナラティブを一望し理解できる著作として、辻田真佐憲氏による『「戦前」の正体』(講談社現代新書、980円+税、2023年)は、たいへん読みやすく、広く教養書として手に取ってほしいと思っています。著者の辻田氏の名前は、私の地元・熊本県の熊本日日新聞の読者であれば、月1回「くまにち論壇」欄に登場しているので、見知った方も多いのではないでしょうか。年齢的にも30代でありながら近現代史研究者として熊本にかかわりのある人物の足跡を深く掘り下げていて、いつも「お主デキるな」と、その切れ味ある論考に魅了されていました。
本書のp.268には「明治の指導者たちは、神話を一種のネタとわきまえたうえで、迅速な近代化・国民化を達成するために、あえてそれを国家の基礎に据えて、国民的動員の装置として機能させようとした。その試みはみごとに成功して、日本は幾多の戦争に勝ち抜き、列強に伍するにいたった。しかるに昭和に入り、世界恐慌やマルクス主義に向き合うなかで、神話というネタはいつの間にかベタになり、天皇や指導者たちの言動まで拘束することになってしまった。」とあります。その明治の指導者として共に熊本出身であり、やはり共に教育勅語の起草に携わった井上毅と元田永孚がいます。本書ではp.98-100で今も熊本県内の主要な神社には教育勅語の記念碑が建てられており、教育勅語に熱心な熊本県としての紹介記述もあります。井上や元田はたいへん実直な人物でありその人間性には好印象を持っていますが、後年、ネタがベタとなる利用のされ方をしてしまった点は、起草当時の両人らにとっては思いもよらないことで、今も熊本県内で続けられている顕彰をどう思っただろうと気になります。
最近、戦時下の子どもたちの周囲に存在した資料展示を観る機会があったのですが、神話国家を支えたのは「上からの統制」だけでなく「下からの参加」もあり、そのことを資料から強く感じました。本書p.284では時局に便乗して軍歌を多数世に出したレコード産業を例にとり、プロパガンダをしたい当局と、時局で儲けたい企業と、戦争の熱狂を楽しみたい消費者という3者にとってWIN・WIN・WINな利益共同体の存在を指摘しています。なお、本書の出版元の講談社の前身も子ども向けに国威発揚の教育雑誌を盛んに刊行し儲けていました。
けっきょく日本神話に登場する伝説をネタとして知ること自体は一つの教養と言えるかもしれません。しかし、南九州に金属器が存在しない時代に鏡や剣の鋳造、造船(木の切り出しを伴う)をなし得ることはできません。渡来系弥生人が伝える前の時期に稲穂が登場するのも辻褄が合いません。神話を史実だとベタに信じ込んでいる人がいたら、はなはだ失礼ながら無教養人だと言わざるをえません。
今後ルーツが異なる人々との共生が必然になる中で、どのような統合の物語が必要なのか、戦前の有り様から学ぶことは多いと思います。

熊本に設立が必要な戦争ミュージアム

8月7日、「2024年夏の街かど戦時資料展」が開かれている街角サロン「馬空」を1年ぶりに訪ねて、展示品を提供されている高谷和生さんにこれも1年ぶりにお会いし、楽しい時間を過ごすことができました。
私は、高谷さんたちが構想されている「くまもと戦争と平和のミュージアム」の設立実現を切に望んでいます。
高谷さんにも紹介させていただきましたが、7月に岩波新書から刊行された、梯久美子著『戦争ミュージアム』を最近読みました。同書で感じたのは、戦争体験者が減ってきていますので、「戦争を伝える物の展示」と「展示物がもつ意味を解説できる学芸員の存在」の重要性です。そうした機能を有するのが、まさに戦争と平和のミュージアムであり、まだそれがない熊本にぜひとも必要だと考えています。
高谷さんによれば、10月13日(日)に、隈庄飛行場や松橋空襲の戦争遺産を巡るツアーを計画されているということでしたので、そちらも参加したいと思います。
『戦争ミュージアム』では、14館のミュージアムを取り上げていますが、そのうちの一つに長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」(1997年開館)があります。そして、同館に展示されている佐久間修さんの絵や手紙のことが紹介されています。東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校の油画科を出て熊本県立宇土中学校教諭となった佐久間さんは、生徒を引率した勤労動員先の第21海軍航空廠(現在の長崎県大村市)で、B29の直撃弾を受け、妻と2人の子どもを残し、29歳の若さで亡くなっています。展示されている油彩画とデッサンはいずれも妻の静子さんを描いたものであり、静子さんが戦後50年間、自宅に飾っていたものが同館へ託されたのだそうです。

『写真が語る満州国』読書メモ

私の小中学生時代は戦後30年足らずということもあって満州からの引き揚げ経験がまだ遠くない教員がいました。特に中学時代の数学の先生が授業中に語った混乱の最中の体験談は壮絶で今も記憶が残っています。中学生時代に読んだ五味川純平の『人間の條件』『戦争と人間』もその時代を描いています。後年読んだ熊本出身の山室信一氏の『キメラ 満洲国の肖像』(中公新書)や一昨年に読んだジャニス・ミムラ著の『帝国の計画とファシズム』(人文書院)も満州国の実像を理解するのに大いに役立ちました。
さて、太平洋戦争研究会が著した『写真が語る満州国』(ちくま新書、1200円+税、2024年)は先月刊行されたばかりの新書ですが、これまで満州国の歴史を知らない世代にとっては、理解が進む格好の歴史教科書的存在の本だと思いました。関東軍や日系官吏、新興財閥の中心人物「二キ三スケ」(東条英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)をはじめ戦後の日本に大きな影響を及ぼす実力者たちは、俗に「満州人脈」と称せられます。本書では触れられていませんが、その人脈は9000人以上の開拓移民を送った熊本にも残っています。前熊本県知事の蒲島郁夫氏の父は満州で警察官でしたが、無一文で引き揚げて蒲島氏の祖母の家に転がり込みます。その家の地主は、父の同級生であった元熊本市長の星子敏雄氏でした。星子氏自身は満映理事長で敗戦時に服毒自殺した甘粕正彦(憲兵大尉時代に関東大震災が起きその混乱の中で大杉栄・伊藤野枝らを虐殺した)の妹を妻にもち、満州国警察トップを務めました。蒲島氏の父の満州行きも星子氏の誘いがあったからだそうです。
本書の内容に話を戻すと、大戦勃発で頓挫したとはいえユダヤ人定住計画があったことは、初めて知りました。それと、100万戸・500万人の農業移民計画の目的が、当時の貧困な日本の農村の人減らし対策であったことも理解できました。しかし、先住農民の土地を安く買い上げていわば追い払うようにして入植したわけですから、追い払われた側に憎しみが生まれたのは否めません。そのことが敗戦時に被害者から加害者である開拓団民が受けた悲劇を増幅させた面があります。

熊本大空襲

今月は5日まで長崎県諫早市に滞在していました。熊本へ戻って感じるのは過酷な暑さ。初老の身にはこたえます。
そんななか、熊本市役所本庁舎1階ロビーで開催中の熊本大空襲「平和啓発パネル展」を観てきました。1945年7月1日深夜の「熊本大空襲」による死者は469人、罹災者は4万3千人とのことですが、私の母たちは、その空襲の前に当時住んでいた水前寺から現在の宇城市不知火町へ避難していたので、かろうじて難を逃れました。放送局勤務の親族らから軍都・熊本の中心部に留まるのは危ないので疎開するよう強い勧めを受け、私の祖母(祖父はすでに戦没)がそれを受け入れたからと聞いています。
避難した先の宇土・松橋地域もその後(1945年8月10日)に空襲を受けましたので、どこに住んでいても落命の危険はありました。じっさい現在の宇土市にあった父の実家はそのときに焼失しています。戦後、父方の私の祖母は、焼夷弾の部品を漬物石代わりに使っていたのが、今も私の記憶に強く残っています。今回のパネルで確認すると、漬物石として再利用していたのは、「M69焼夷収束弾(親焼夷弾)」の尾翼部分か先端部分にあたるドーナツ状の金属でした。私の父方の祖母はブラジル移民帰りのたくましい人でしたので、災いをもたらした敵の落とし物を生活の道具に利用して生き抜くしたたかさがあったように思います。
パネルの説明文で初めて知ったことは他にもあります。空襲があった当時、現在の熊本市役所本庁舎が建つ場所は、一面焼け野原となった花畑町や安政町一帯よりも一段低い場所であったため、瓦礫が持ち込まれて埋め立てられたとありました。つまり、現在の熊本市役所本庁舎は、戦禍の瓦礫の上に建っているというわけです。これはこれで戦後復興のシンボルなのかもしれません。

古気候学や人類学の知見

藤尾慎一郎著の『弥生人はどこから来たのか』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1700円+税、2024年)を読み進めてみると、先史日本の姿を知るには、古気候学や人類学(しかも形質人類学から分子人類学へ)の分野の貢献が大きいことが理解できます。歴史というと、つい人文科学というイメージが強いのですが、自然科学の手法を使って解明できる点が多く、もっと学際的なものなのだなと認識を新たにできました。昭和やへたすると平成年代に先史日本の歴史教育を受けた国民の知識と令和以降に受けた国民のそれとでは大いに常識が異なることがあるかもしれません。
本書で出てくる科学用語と中身を以下にメモしてみます。
・AMS-炭素14年代測定法…炭素14という、時間の経過とともに規則的に窒素14(N14)に変化していく放射性炭素(C14)を使って年代を測定する方法。炭素14は約5700年で濃度が半分になるので、炭化米や土器に着いたススなどの炭化物中に残っている炭素14の濃度を調べることによって、何年前(ただし数十年から数百年単位)にできた炭化物なのかを知ることができる。
・酸素同位体比年輪年代法…時間の経過とともに変化することのない、安定同位体である酸素16と酸素18の比率の1年ごとの変化をもとに湿潤の変化を調べ、気温の変化を知る方法。特にその年の梅雨が空梅雨だったか、雨が多い梅雨だったのかを知ることができる。現在、約4000年前の縄文後期から現代までの酸素同位体比の標準年輪曲線が1年単位で整備されている。
・DNA分析…ミトコンドリアと核にあるDNAを使う。骨や歯の中に残っているコラーゲンからDNAを抽出し、ミトコンドリアDNA分析では母系を、核ゲノムでは母系に加えて父系とY遺伝子の関係を知ることができる。縄文人(=日本列島で最も古い約3万7000年前の後期旧石器人(※熊本の「石の本遺跡群」)はつながっていない可能性がある)のミトコンドリアDNAには、西日本型、東日本型、北海道型という3つのハプロタイプがあること、渡来系弥生人と同じミトコンドリアDNAをもつ縄文人は1人も見つかっていないことが知られている。
※DNA:アデニン・グアニン・シトシン・チミンの4つの塩基からなり、それらの配列がタンパク質の種類を決める情報となった二重螺旋状の構造体。ミトコンドリアと核にあるので、それぞれミトコンドリアDNA(約1万6500の塩基の連なりからなる:数が少ないので解析が容易)と核ゲノム(32億の塩基の連なりからなる:集団比較に効力を発揮するSNP(1塩基多型)解析が主流、全ゲノム解析はまだ費用が高く解析に長い時間がかかる)と区別して呼ぶ。
※ゲノム:ある生物がもっている遺伝子(ヒトは約2万2000からなる)の総体。
・レプリカ法…縄文土器や弥生土器の表面に見られる凹みや孔に樹脂を詰めて、樹脂に写し取られた圧着面の模様を電子顕微鏡で観察することによって、土器に着いていたのが何かを推定する方法。コメ・アワ・キビといった穀物に限らず昆虫も考察の対象になる。

観覧予定の展示

来月観覧したいと考えている3つの展示です。

○夏の平和展2024 子どもたちが見た戦争
◆日時:7月23日(火)~8月31日(土)の9:00~17:00 月曜・祝日の翌日は休み
◆会場:玉名市立歴史博物館こころピア エントランスホール
◆観覧:無料

○2024年夏の街かど戦時資料展
◆日時:7月31日(水)~8月19日(月)の11:00~17:00 火曜は休み
◆会場:街角サロン「馬空(ばくう)」
◆観覧:無料
※リンク先は2023年の紹介記事

○熊本大空襲「平和啓発パネル展」
◆日時:8月5日(月)~8月16日(金)の8:15~17:15 土曜・日曜・祝日は休み
◆会場:熊本市役所本庁舎(中央区手取本町1番1号)1階ロビー (正面玄関横)
◆観覧:無料

パレスチナのガザ地区で現在も続くジェノサイドが示す通り戦争の犠牲者は、戦闘員だけでなく子どもたちも例外ではありません。たとえ命を失わなくとも心に負った傷が消えることはありません。
わが宇土市では例年4月に「戦没者合同慰霊祭」と称して軍人軍属の戦死者だけを対象にした慰霊式典が開かれています。なぜ式典の名称が「追悼式」や「平和祈念式典」ではなく「慰霊祭」であり、その開催時期が8月ではなく4月なのかというと、靖國神社の春の例大祭に合わせているからです。先の大戦では空襲などにより居住地で命を落とした民間人も多数いますが、それらの人々が追悼されることはなく、忘れられています。

『弥生人はどこから来たのか』読書メモ(巻頭部分)

藤尾慎一郎著の『弥生人はどこから来たのか』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1700円+税、2024年)を手に取ってわずか1割程度しか読み進めていないところの投稿なので、本稿は正確には読書メモとは言えないシロモノです。ですが、初っ端から何かメモを残しておきたい衝動に駆られるほど、本書は新しい知見を示してくれて大いに刺激感を覚えさせてくれました。
本書は冒頭、2023年4月から高校で使われている日本史教科書が60年ぶりに大きく改訂されたことを明らかにしています。具体的には、土器の出現を指標とする縄文時代と水田稲作の始まりを指標とする弥生時代の開始年代が大きく引き上げられ、それぞれ約1万6000年前(約3500年古くなる)と約2800年前(約400年古くなる)となったということでした。この時代の開始年代が大幅に遡ることになった要因は、AMS-炭素14年代測定法や酸素同位体比年輪年代法、DNA分析、レプリカ法といった先端科学技術の手法の導入によるものとされます。ちなみに弥生時代の前半期は前10世紀~前4世紀の約600年間にあたりますが、わずかな青銅器の破片を除き金属器はほぼ存在せず、基本的に石器だけが利器とされた石器時代だったとされます。なお、この時代の韓半島南部社会はすでに青銅器時代でしたし、メソポタミアでは楔形文字文明で知られるアッシリア帝国が滅亡へ向かっていた時期が含まれます。
ここでふと珍妙に感じたのは、歴史学の非専門家が出版にかかわった『国史教科書 第7版』(売価税込2000円)なる書籍が、紀伊國屋書店新宿本店の7月24日調べの週間売上ランキング3位に名を連ねている現象でした。第6版までのそれは文科省の中学歴史教科書検定不合格を続けてきたようなのですが、第7版になって初めて表紙に「合格」の宣伝文句が刷り込めたようです。同書の版元によると、今のところ紀伊國屋書店とアマゾンでしか取り扱われていない同人誌扱いの出版物とのことですが、皇統譜など伝説のたぐいの資料を掲載してそれを史実と思わせることを目的とする実に変わった読み物です。しかし、まともな歴史教育に接したことがない読者には、めでたくも歴史を学べたと喜ばれているのでしょう。
すでに触れたとおり弥生時代前半期半ばの前7世紀頃の日本列島には青銅の鏡も鉄の剣もない時代です。三種の神器どころか文字もなかった時代に覇権をなした勢力が存在しようもありません。要するに国史とは呼べず先史にあたる時期を、ある方向へ無理やり導くことが果たして学問と言えるのかということです。
自称「国史」に税込2000円を捨てるような愚かなマネは止めて、2000円もしない『弥生人はどこから来たのか』を読んで、未来ある中学生が歴史学習の道を踏み誤らないよう賢明な大人が導いてあげたいものです。

『食べものから学ぶ現代社会』読書メモ(前半)

平賀緑著『食べものから学ぶ現代社会』(岩波ジュニア新書、940円+税、2024年)の副題は「私たちを動かす資本主義のカラクリ」とある通り、食べものを通じて現代社会のグローバル化、巨大企業、金融化、技術革新を解明してくれた書です。私たちの食事のありようは食料安全保障とも密接なのですが、本書を読むとそれらはなるべくしてなった、つまりそう行動させられているワケがあるのだなと思いました。
以下、本書の前半部分から印象に残った記載をメモしておきます。近代日本において軍部と財閥系総合商社や食品製造業が密接に関与していた歴史とそれに現在も連なる業界地図の風景には興味深いものがありました。本書後半についてはここには記していません。どのようなパラダイムへのシフトが望ましいかを著者は提言していますが、私自身でも答えを考えてみようと思います。
・はじめにⅵ:ジョーン・ロビンソンという有名な経済学者は、経済学を学ぶ目的は、経済を語る者にだまされないようにするためだと言った。
・はじめにⅸ:「経済学」の世界に入ったら、どうもセオリーとリアル社会との間にズレがあるように(著者は)感じている。巨大企業が圧倒的に強い、競争なんてできない社会。経済の「金融化」、取引のマネーゲーム化。
p.9:「使える」価値より「売れる」価値。
p.13:売らなくては儲からない、売り続けなくては成長できない。
p.19:需要は供給側が促し、取引はマネーゲーム化。「投機筋」が9割方動かしている。
p.20:資本主義的食料システム~食も農も資本主義のロジックで動いている。
p.31:小麦、コメ、トウモロコシという、たった3種類の作物が、世界人口のカロリー摂取の半分以上を占めている(2022年)。
小麦生産割合% 中国18,欧州連合17、インド14、ロシア11、米国7、カナダ5、パキスタン3、ウクライナ3
トウモロコシ生産割合% 米国31、中国22、ブラジル9、欧州連合6、アルゼンチン5、インド3
p.40、94:日本では1885年ごろから機械製粉の小麦粉輸入が急増。主要商品は軍用パンやビスケット。現在まで続く製パン業・製菓業の大企業が誕生。明治製糖(1906年)、森永商店(1910年)、味の素(1907年 創業時は鈴木製薬所)、日清豆粕製造(1907年 現・日清オイリオグループ)
p.41、95:日本の製粉業や製糖業、製油業(植物油)における財閥系大企業による寡占(1937年)。
製粉業% 日清製粉(三菱)38、日本製粉(三井)30、日東製粉(三菱)7
製糖業% 台湾製糖(三井)27.8、明治製糖(三菱)20.2、大日本製糖(藤山)26.4
製油業 日清製油(大倉)、豊年製油(南満州鉄道中央試験所→鈴木商店)
p.96-97:日本の食料自給率が低い要因には、日本の大企業が輸入原料を多用する食料システムを牽引していたことが影響している。輸入には総合商社が参画。
製粉業 日清製粉(←丸紅が投資)、ニップン(元・日本製粉←伊藤忠商事・三井物産が投資)
製糖業 DM三井製糖HD(←三井物産・三菱商事が投資)、日新製糖(←住友商事が投資)
製油業 日清オイリオグループ(←丸紅が投資)、J-オイルミルズ(←三井物産)
三菱商事…(三菱食品、日本食品化工、東洋冷蔵、伊藤ハム米久HD、ローソン、ライフコーポレーション、日本KFC)
三井物産…(三井食品、三井農林、DM三井製糖HD、)
伊藤忠商事…(伊藤忠食品、日本アクセス、ドール・インターナショナル、プリマハム、不二製油グループ、ファミリーマート)
p.98-99 巨大企業が求めた、原料の大量調達と商品の大量販売
明治期~帝国日本 近代化を急ぐ政府が新旧財閥を保護しながら大企業を中心に発展→帝国日本が支配していたアジア地域を含む海外から調達した原料を多用しながら築き上げる。
第二次世界大戦後 その多くが総合商社と大手食品企業として存続→主に米国産の穀物・油糧種子を輸入しながら再強化→輸入原料に依存した加工食品・畜産・外食の一体化(集積)を形成。