歴史」カテゴリーアーカイブ

まさに腹が減っては

これから読む本は、丸川知雄著『現代中国経済〔新版〕』(有斐閣、2400円+税、2021年)。このところ台湾海峡の安定について注目が集まっていますが、大陸側がすぐにも力づくで獲りにくるかのような煽り方はどうかと思います。『キッシンジャー回想録 中国』の中では、毛沢東が三国志を好んで読んでいたことが紹介されていましたが、中国の外交手法を顧みると、「夷狄をもって、夷狄を抑え(以夷制夷)」や「夷狄に夷狄を攻撃させる(以夷攻夷)」を彷彿とさせる点があり、毛沢東に限らず漢民族が有する歴史的教訓として常に脳裏に刻み込まれているのではないかと思います。それと、三国志で描かれた戦いでは、兵糧の確保が重要だったことが理解できます。数十万の軍隊も食い扶持がなければ、まるで戦力にはなりません。それどころか、食えなければ餓死するか、反乱が起きてヘタすれば敵に寝返ってしまわれるリスクもあります。特に高齢化が著しい現代中国では大勢の老兵たちの老後の生活維持が社会的課題になってくると思います。台湾の取り込みどころではなくなってくるではないでしょうか。

東アジアの時空を知るには

今月、地元紙・熊本日日新聞の「わたしを語る」欄において、思想史家・京都大名誉教授 山室信一「熊本発 アジアの時空を歩く」が連載中です。同氏の功績を知るには、著書を読むか、謦咳に接するかが一番です。私が大学在学中の1983年度の1年間だけ非常勤講師として政治学科の専門科目を開講されていたのを知ったのはずいぶん後のことで惜しい思いをしました(コメント写真は当時の履修要覧より)。講演でナマの姿を拝見したのは、2013年に熊本市で一度だけあります。昨日の朝日新聞には切れ味の鋭い歴史の見方が載っていて、ほんとうはこういう視点を引き出す力を地元紙にも求めたい思いました。連載の後半に期待したいものです。

徳川思想小史

昨年100歳で亡くなられた近世日本思想史が専門の源了圓著『徳川思想小史』(中公文庫、1000円+税、2021年)を読んでいるところです。もともとは2007年に中公新書から刊行された著書ですが、文庫版ではエッセー「自分と出会う」と小島康敬筆解説、人名索引が追加されていて、著者の人となりや学術書としての利便性が増しています。一読して感じるのは、著者の博識です。執筆対象は主に江戸時代の日本の思想家ですが、東洋はもとより西洋の思想の流れにも明るいことがうかがえます。それと、当時の思想家を描く文体にも漢学の素養が随所に光り、心地よい感じがします。私は、かつて著者が執筆した高校の教科書で学んだ経験がありますが、それから40年以上経って今もこうして学べることをうれしく思っています。

世界の見取り図

今読んでいるのは、内田樹氏と姜尚中氏による対談本の『新世界秩序と日本の未来』(集英社新書、860円+税、2021年)。根拠も出所も不明な陰謀論に惑わされたくなかったら、顔出しして史実を踏まえながら流れを説明できる学者の意見に接した方が役に立ちます。立ち位置や相手とのかかわり方というのは、周辺への影響も考えながら決めていくべきだと思います。

独善主義と権威主義は同根

先日の中国共産党創立100周年での主席の演説を聴いてみると、強国志向の一点張りで他国からの説教は一切受け付けないという独善性が目立ちました。もともと党の存在自体を絶対的な指導組織と位置付けている中で、指導者個人も不可侵の存在として言っているようなもので、危なっかしいなあと思いました。『キッシンジャー回想録』を読むと、開放改革路線を築いた鄧小平がキッシンジャーに対して、毛沢東は7割は正しかったが、3割は誤っていたという評価を語っていたことが明らかになっています。鄧小平の見てくれは小柄なうだつの上がらない老人でしたが、若いころにフランス留学歴があり、英語も解していました。キッシンジャーもハーバードで教鞭をとっていた学者ですし、双方の資質と現主席を比べてみると、現主席の小物感は否めない気がしますが、それこそ我が国もどうかという話になりますので、この辺で止めておきます。

夫婦同氏の強制は何のため

一昨日、最高裁大法廷は夫婦別姓を認めない判断を出しました。家事審判の申立者の訴えは、夫婦同姓を求める規定は「法の下の平等」を保障する憲法14条と「婚姻の自由」を定めた24条に反するというものでした。裁判官のうち4人は、現在の仕組みは「婚姻を希望する者に夫婦同氏(姓)を強制している」と指摘し、24条違憲としました。夫婦同姓を強制されるなら婚姻ができない人が生じるなら、やはり婚姻の自由を阻害することになると思います。イソノ姓とフグタ姓の別姓家族が同居するサザエさん一家の一体感については、国民的理解があるのに、なぜ夫婦が別姓なら一体感が失われると勝手に判断する勢力があるのか、まったく合理的ではありません。日本において夫婦同姓が強制されるようになったのは、明治初期のころです。徴兵制度の導入など、国民管理の都合上、そうなったに過ぎません。紙でしか管理ができない当時と異なり、デジタル管理の時代ともなれば行政が家族関係を把握することは、たとえ別姓でもたやすいことですし、今後同性婚も認められるようになるなら、なおさら別姓を選びたい人が多くなるはずです。個人情報保護が浸透している今日では、社会生活において家族全員の氏名を対外的に示す機会はほとんどありません。根拠希薄の伝統・家族感議論は何に怯えているのでしょうか。婚姻を後押しせずためらわさせることの方がはるかに亡国に向かわさせることになると考えます。

船場蔵屋敷周辺古地図より

宇土の中心市街地の船場川岸のアジサイが見頃です。船場橋のたもとに周辺の古地図が表示されています。つながりがあるのかどうかわかりませんが、私と同姓の屋敷の表示があります。長柄(槍)衆、弓衆、鉄砲衆の屋敷が蔵の周辺にあったのがわかります。

オリパラは国威発揚の場ではない

党首討論で首相が語った1964年の東京五輪の感動話を聞いていたら、結局はオリパラを国威発揚の場と考えているのではないかと、思いました。これでは2022年の冬季五輪の開催を熱望しているどこぞの政府と近しいと思いました。選手はワクチン接種を済ませていても、接触する機会のある大半のボランティアやドライバー、ホテル従業員の接種は五輪開催中に間に合いません。これだけでも大丈夫かという話です。日本人選手の活躍が見たいなら国内大会だけで十分です。広く海外からの参加が困難な状態で最高の国際大会が実施できるか甚だ疑問です。
歴史学はしばしばそれぞれの国の視点から発展してきましたので、国威発揚の学問としてもあったのですが、グローバルに見ていけば、必ず負の歴史も学ぶ必要があります。五輪への向き合い方は歴史への向き合い方から学ぶべきだろうと思います。

戸籍や租税台帳の復元資料を見て

九博で現在開催中の特別展「正倉院宝物」では楽器や武具、衣服等の工芸技術を生かした模造の展示がメインでしたが、復元された戸籍や租税台帳といった公文書の資料展示も興味深いものがありました。現在の福岡県や鹿児島県で記録された情報が1000年以上も前の当時の中央政府に寄せられていたわけで、現在の行政の仕組みと近いものを感じます。文書には改竄防止のためにこれも当時の首長の印がくまなく押されています。きっちりとした仕事が行われていたことがうかがえます。その点でいえば、現代の中央官庁においてさまざまな文書記録が改竄された事件もあったわけで、後世の役人の資質が必ずしも高くはないことにも考えが及びました。まずはこうした復元資料を役人連中にも見てもらって志を感じてほしいと思いました。

模造も技術

会期が残り少なくなってきた、九州国立博物館で開かれている特別展「正倉院宝物」を見てきました。展示されているのは収蔵品の実物ではなく、それらを模造したものです。実物によっては、毀損したり退色していたりと、原形を留めていないものがあります。模造は、実物を忠実に復元する目的と、実物を修復するための技術を継承する意味合いがあり、行われてきました。模造には相当の工芸技術が要求されます。常設展示室には、九州の古い焼き物もありますが、これらは海外に輸出され、その地でも日本の焼き物を真似た作品が生まれました。模造を通じてオリジナルの良さを作り手は認識するようです。

記憶遺産の対象とするべき

世界史における32年前の6月4日の出来事といえば、中国の天安門事件を忘れることはできませんが、自国民の命に手を下した軍隊を有する党の指導下での教科書にはまったく出てこないといいます。1980年に韓国で起きた光州事件でも自国の軍隊が自国民を多数殺害した歴史がありますが、事件から38年後に公開された映画「タクシー運転手」のように、負の歴史を記憶することは行われています。日本においては市民が外国人を集団的に殺害した関東大震災の例もあります。世界のどこであれ、時代がいつであれ、記憶することが過ちを繰り返さないために大切です。

記録をどう読むか

『グローバル・ヒストリー』を読んでいる途中ですが、歴史学の手法についての記載が多く、業界事情を知っていないと難解な面があります。少なくとも言えるのは、記録を読むときに書かれたものが必ずしも真実とは限らないことがあるということだろうと思います。その時代、その地域という書き手の環境にも注意を向けるべきです。わかりやすい例でいえば、数千年前の歴史書はその当時の権力に近い書き手によるものが残されているわけですから、どうしても当時の権力の正当性の弁明に重きが置かれ、ヘタすると神話として後世に伝えるために残された可能性もあります。現在はSNSの発達により職業的歴史家のみならずそうでない人の手による記録も目にすることができます。もちろんそれらの記録にも当人の思い込み・誤解が含まれて正確ではない記述も多いと思われますが、多面的というか多層的というかその数量によって真実への接近は容易に思えます。

グローバル・ヒストリー

梅雨の時期とはいえ雨天が続くと外出を控えてしまいます。コロナ対策上は人流の抑制につながり望ましいのかもしれません。どうせなら読書の時間を増やすのもいいと思います。以前の新聞の政治面では首相が書店を訪れてどんな書籍を買い求めていたか載ることがありました。人並みの政治家は読書家であるのが常でだいたい10冊くらいはまとめ買いをしていたように思います。新聞記事では書名も紹介され、時の首相がどのような問題意識を持っているのか、知的水準はどの程度かも推し量れたものでした。しかし、近年はこうした記事を見かけることがなくなりました。本を書店では買わずにネットで注文しているかもしれませんし、もともと本を読まないのかもしれません。それと、就職における採用面接で読書傾向についての質問が思想信条を明らかにすることから禁じられているように、そうした情報を探られるのを取材される側が嫌っているのかもしれません。あるいは取材者側がそれを明らかにすることを忖度しているのか。かつてアフリカのウガンダの大統領だったアミンは、文字が読めない人物であったため、政治エリートを周囲から遠ざけながら権力を維持しました。それはそれで権力者の本能知ですが、被治者は必然的に不幸を強いられます。権力者がバカである場合、国民はそれをどう取り除くか知らなければ幸福はつかめません。次は、表紙写真の本を読んでみます。

民主主義の後退サインを見落とさない

エリカ・フランツ著の『権威主義』は、民主主義の後退サインを知るうえでたいへん役に立つテキストでした。第二次世界大戦後から今日にいたるまでに登場した世界の権威主義政体を分析してその登場形態から生き残り戦略、崩壊形態について解き明かしています。権威主義体制の政体としては、中国のような支配政党独裁、北朝鮮のような個人独裁、ミャンマーがさらされている軍事独裁などがあります。その独裁体制の継続期間の平均は前述の順となっています。体制の維持には抑圧と抱き込みの両面があります。抑圧一辺倒では体制を転覆させたい人々が多くなるのは当然になります。政党幹部・党員やリーダー親族への恩恵を与えることが抱き込みになりますが、軍事独裁の場合は抱き込み手段が限られ内部に派閥ができやすく、クーデターでさらに体制が変わることが多いようです。天然資源に恵まれた産油国では国民への経済的恩恵が高いため、王族独裁体制が安定している例もあります。権威主義体制ではとても公正とはいえない選挙制度や議会制度を採り入れ民主主義の擬態を見せることが好まれます。まやかしなのですが公正な選挙への参加の権利を奪っている点でそれは人権を蔑ろにしていて支配者と被治者という不平等状態にあると考えるべきです。世界の人口の多くが実はこの権威主義体制下に置かれています。そして、民主主義体制はいつでも後退する危うさもあります。それは抑圧ではないか、それは抱き込みではないかと、一つひとつの事象を丹念に判断する必要があります。

長平の戦い

数は力であるのは確かですが、中国古代史上最大の戦いとして知られる、長平の戦いを振り返ると必ずしもそうではありません。紀元前3世紀の戦国時代、全国制覇を競った大国・秦と趙との戦いでは、数で劣った秦軍側による地形を生かした知略により、補給路を断たれた趙軍側が40万人の戦死者(その大半が餓死者)を出したとされています。現代のミャンマー国軍の勢力がやはり40万人といいますが、彼らの補給路は軍幹部を据えている多くの国有企業からの利益です。多くの公務員が職場放棄を行い行政が停滞していますが、それだけでは国軍の横暴を止めることはできません。軍へ資金を送っている企業との取引を止める国際的な制裁が必要ですし、それを抜け駆けしようとする者への監視も求められます。

まだ再建途上

昨日、地元市の仮庁舎へ立ち寄った帰りに新庁舎建設工事現場の脇を通りました。くい打ち機が備えられていました。今日も大津町の江藤家住宅(ここも最近主屋が解体組直しで再建が完了)の前を通って阿蘇へ向かいました。初めて大津と阿蘇とを結ぶ北回り復旧道路を走行しました。阿蘇神社では拝殿がこれまた再建中でまだ白い木材や光る銅板屋根を見ることができました。

時代考証力の判断材料になる研究

尾脇秀和著『氏名の誕生』(ちくま新書、940円+税、2021年)は、日本国民の氏名の形が実は150年足らずの歴史しかない固有の伝統でもないものだということを明かしている学術研究の成果を示してくれます。江戸時代における武家社会と朝廷社会の人名の成り立ちの違いが明治の新政府の時代になってぶつかり合い、国民管理の都合上、現在の形に決めた過程が丁寧に実証されています。江戸時代の一般の人たちにとっては、苗字がなくても何ら差しさわりがなかったのですが、極端に言えば兵籍簿を備えるにあたってなんかあった方が管理上便利だったということに過ぎません。
江戸時代は一生の間に幼名・成人名・当主名・隠居名のように名前を変えることがむしろ自然でした。今のように親に付けられた名前に縛られる必要はありません。位が高い武士は官名由来のかっこいい名前を通称として使用していて、それがために本来の職名、たとえばどこそこの地域の長官という意味とは関係ない名前で普段は呼ばれていて、実名は手紙で使うなどして周囲の人から呼ばれる名前としては使われていません。位の低い武士や一般の人も官名由来の字を名前に取り入れていますが、勝手に使ってはならない表記もあるので、そうした決まり事を知っていないと時代小説・ドラマでありえない人物名が登場するハメになります。たとえば「必殺仕事人」の「中村主水」は時代考証的にはアウトになるようです。
氏名で国民管理を行う必要はあると思いますが、どう名乗るかという点については本人に決めさせることをもっと緩やかにしてもいいのではと思わせる本でした。それでいくと、家族で苗字が異なっていても関係そのものには変わりはありませんし、さらに言えば苗字は不要という選択があってもいいという議論さえ考えられます。

相互監視による自浄作用

昨夜放送のNHK・Eテレの番組「ズームバックオチアイ」が取り上げていた環境論に石牟礼道子さんの作品が紹介されると知って見ました。その作品のインパクトから生まれた環境運動についてはそうなのかもしれませんが、現代のSNS社会で生じる「相互監視による自浄作用」についての言明が印象に残りました。たとえばSDGsに反した企業活動を行っている企業の商品を買わないというのは大きな力です。環境汚染はつまるところ生命への危機、これは人権侵害にほかなりません。したがって環境汚染につながらなくても人権を侵害された労働者が製造している製品を利用した商品を売っている企業もなくしていかなくてはなりません。汚染水と処理水、廃水と排水のようにちょっとしたカムフラージュに国民は騙されやすいものです。相互監視といえば聞こえはよくありませんが、相互学習につながるものだと思えば効用に対する見方も変わります。
こうした用語の問題と伝統かどうかの問題もあります。婚姻カップルの氏のことを考える際も安易に「伝統」に依拠してはならないと思います。本当にそれは伝統なのか、守るべき価値があるのかどうかを、学問的に考える必要があると思います。そんなわけで、次に表紙写真の本を読む予定です。