歴史」カテゴリーアーカイブ

何がめでたいのやら

私の中学時代に出会った教師たちの記憶で残るものといえば、それぞれの専門教科以外での言葉ばかりです。中学1年のときの担任は英語の森田昌典先生でした。2月11日の前日放課後のホームルームで先生は、「明日は建国記念の日ですが、この祝日ついてはいろんな意見があるので、君たちもニュースや新聞を見て考えてみるといいよ」という趣旨の話をされました。紀元節が廃止となったのが1948年、建国記念の日が1966年の祝日法改正で祝日に加えられ、翌1967年の2月11日から適用されますから、まだ10年と経っていない時代です。
考えてみると、それからいつの間にか50年も経っています。ついでながら書くと、2年前にその中学校を訪ねた際には森田先生のご子息が教頭を務められていました。それはともかく、毎年、この日を迎えると、やはり先生の言葉を思い出します。そういうわけで本日の熊本日日新聞に目を通してみました。
同紙によると、八代宮において「八代建国記念日奉祝会」なるものがあったと、報じていました。どうも「建国記念の日」とは別モノの祝日をこしらえて神殿に向かって「万歳」を行う奇特な人々の集まりだったようです。地元首長もノコノコと宗教施設に出向いているのですが、これが公務扱いなのかどうか、記者は取材してなかったのか、記事では触れてありませんでした。
そのため、わざわざ前日の同紙の「首長の日程」を確認してみると、八代市長の公務予定は「建国記念の日奉祝会」(しっかり「の」入り)出席となっていました。
なお、本日の地元紙1面記事下には中国人留学生やクルド人に対するヘイト本の広告が載っていました。商業新聞といえばそれまでですが、カネがもらえればヘイト本広告を載せたり、勝手につくった祝日を祝う変な団体の記事を載せたりして、ずいぶんとおめでたいなあと思った次第でした。
おかげで、半世紀を経てもいろいろ考えさせられました。11日に公費の支出があっているのかどうかについては、八代市民のみなさんがお考えになればよろしいことです。
【追記】
ついでながら、八代市のホームページに掲出されている「市長スケジュール」では、参加する催事名が「建国記念日奉祝会」となっていました。したがって、2月11日の熊本日日新聞の「首長の日程」欄にある「の」入りの催事名は、新聞社側での加工(忖度?)ということになります。
選挙で選ばれたからといって首長の能力が必ずしもあるわけではありませんが、せめて役所の秘書職員は親分の行動にご注進するぐらいの器量はあってしかるべきなのではと思います。

【記録】・・・新聞社へも以下の問合せメールを送信してみました。
種類:記事の内容について
件名:「首長の日程」欄での行事名書き換えの理由について

貴紙2月12日18面掲載の「建国記念の日 県内各地で集会」の記事中、八代市長が八代宮で開かれた「建国記念日奉祝会」に参加したと載っていたので、公務で参加したのかを確認したく、11日2面掲載の「首長の日程」欄を読み返したところ、参加予定の行事名は「建国記念の日奉祝会」となっていました。
さらに、八代市ホームページ内の「市長スケジュール」も確認したところ、そこでも「建国記念日奉祝会」となっていましたので、なぜ11日の「首長の日程」欄には(12日の記事や市の公表情報通りとせず)「の」を入れて掲載されたのか、理由をお尋ねしたくメールしました。

あと別件ですが、12日1面の「ハート出版」の記事下広告についても質問いたします。東大・早稲田-有名大学が反日分子の供給機関にと決めつけた内容紹介付きで『中国の傀儡 反日留学生』というヘイトの恐れがある書籍の広告が載っています。中国人留学生全体に対する偏見を助長しかねないと懸念します。
なお、同出版社については、貴紙の昨年12月25日1面にも『埼玉クルド人問題』なるヘイトの恐れがある書籍の広告が載っており、重ねての蛮行を疑問に感じます。このような広告を掲載しても構わないとする貴紙の見解をお尋ねします。

牛若丸、ウィリー、ニッキー、トランプ

2月3日、阪神タイガースの監督を務めた吉田義男さんが亡くなったことが、報じられました。京都市出身で、享年91歳でした。私が大学時代に属したゼミの河合秀和先生が、吉田氏と出身地および生年が同じです。阪神ファンの河合先生のご自慢の一つ話が、後年「牛若丸」の異名を持つ吉田投手と府立一中時代に対戦し、ヒットを放ったことがあるというものでした。このことをつい思い出しました。
もう一つ、先生のことで思い出したことが、きょう「朝日新聞ポッドキャスト」の「昭和天皇が抗えなかった『勢い』 日米開戦の責任はどこに 100年をたどる旅(4)」を聴いていてありました。それは、限られた側近としか本音の話ができなかった昭和天皇に対して、欧州の王室間の情報交流の豊かさについて話されていたからです。2020年に中央公論新社から刊行された、河合先生の著書『クレメント・アトリー』のp.280には、日露戦争の時代の「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世は、ともにイギリスのヴィクトリア女王の孫であり、互いに英語でウィリー、ニッキーと呼び交わして手紙をやり取りして」いたことが紹介されています。
ついでながら、他国のトップですから余計なお世話と言えばそれまでですが、米国のトランプ氏の周辺環境が、かつての昭和天皇みたいになってはいないかと危惧します。忠誠心だけが高い人物だけで身の回りが固められていますので、大事な情報が集まってこずに政策面で誤った道を選んでしまわないかと思います。
https://omny.fm/shows/asahi/1747

中国歴代王朝の財宝の意味

2月3日放送のNHK「映像の世紀バタフライエフェクト」の「ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」の回は、清朝最後の皇帝だった溥儀が紫禁城から持ち出した1200点以上の書画その他宝飾品を切り売りするなどして生き延びたエピソードを描いていて、たいへん興味深く視聴しました。現在は北京故宮博物院所蔵の御璽「乾隆帝三聯印」と絵画「清明上河図」や東京国立博物館所蔵の絵画「五馬図巻」も、溥儀がかつて持ち出した財宝なのだそうです。番組では流出した財宝の回収に中国政府は躍起になっている紹介していましたが、今も300点以上の書画財宝は所在が分からないそうです。
なお、歴代王朝の財宝の持ち出し数量においては、蒋介石の国民政府によるそれは溥儀の比ではなくかなり大規模です。家近亮子著『東アジア現代史』のp.256によれば、「国家は滅んで再興できるが、文物は一度失われたら永遠に元には戻らない」という理由から、日本軍の華北への介入が濃厚になっていった1931年から故宮博物院の宝物の疎開を計画し、1933年1月から南京、上海への移送を開始します。日中戦争開始後は四川省の峨眉山、巴県など国民政府下の奥地に移送し、様々な形で保管していました。1948年9月、上海から台北への移送が開始され、1949年半ばまでに断続的に行われました。故宮の宝物は蒋介石にとって正統政府のシンボルそのものでした。移送計画当初の目的は日中戦争の戦禍から文物を守る点にありましたが、戦後の1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文物の組織的破壊からも保護された側面もあります。
故宮の宝物は正統政府のシンボルそのものという考えは、溥儀が流出させた財宝の回収に躍起である今日の北京政府にも共通するものがあると感じます。
https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/N1JP3YW9NR/

『続・日本軍兵士』読後メモ

吉田裕著『続・日本軍兵士――帝国陸海軍の現実』(中公新書、900円+税、2025年)を読むと、機械化・自動化が立ち遅れて人的負担が過重な旧日本軍の姿が露になります。加えて泥沼化した日中戦争の戦場における兵士の食料事情も悲惨でした。飯ごう炊飯においては、後方からの補給が不十分なこともあって、まず水と燃料を確保し、適当な燃料がないときは、民家や家財道具を打ち壊して薪を手にいれてから、米や副食物も掠奪して手に入れて炊飯に入る蛮行が常態化していました。中国の民衆は、通過した後には何も残さない蝗(いなご)のような軍隊という意味で、日本軍を「蝗(こう)軍」と呼んだ、とありました。もともと太平洋戦争開戦前は米国から石油を、オーストラリアからは小麦や羊毛の輸入に頼り切っていましたし、戦争遂行の経済力・工業力はありませんでした。
ところで、本書を読み終わって考えたのは、日本では戦場の実態をテーマにした映画作品がなぜ少ないのだろうかということでした。それには資金力やロケ地、国際関係・情勢の問題が関係ありそうだと思います。
戦場の日本軍兵士を描いた邦画作品の中でまっさきに思い浮かべるのは、1960年前後の小林正樹監督『人間の條件』(2部毎×3作品)や1970年代前半の山本薩夫監督の『戦争と人間』(三部作、第一部の製作費が3億5000万円)です。いずれも原作は五味川純平であり、私の場合は映画よりも三一書房から出ていた原作本で中高生時代に親しんでいました。映画の『人間の條件』が描く舞台と時代は、旧満州の1943年から1945年で、終盤にはソ連の対日参戦が出てきます。同じく映画の『戦争と人間』が描くそれは、1928年の張作霖爆殺事件前夜から1939年のノモンハン事件までとなっていますが、原作の方はアジア・太平洋戦争末期までを含みます。
上記の映画2作品とも日本軍とソ連軍との戦闘シーンがありますが、ロケ地はそれぞれ異なり、『人間の條件』(第四部)では陸上自衛隊の協力を得て北海道で、『戦争と人間』(第三部)ではモスフィルムおよびソ連軍の協力を得てロシアのヴォルゴグラードとなっています。ロシアではソ連時代から独ソ戦をテーマにした映画作品は山のようにあります。「大祖国戦争」とロシア国民が今も称する通り、敵であるファシストと闘うのは正義で当然というプロパガンダに満ち溢れている制約がありますが、戦場は自国内であり、実際の兵器がふんだんに登場し使用されます(おそらく国家的支援もあったのでしょう)。徹底したリアリズムにこだわり多額の製作費を投入するやり方は、日本ではなかなかマネできなかったと思います。
アジア・太平洋戦争における地上戦の戦場のほとんどが、戦後しばらく国交がない占領地や旧植民地であり、沖縄も映画『戦争と人間』の製作当時のころまでは米国政府の施政下に置かれていました。戦争の実態を再現するのに適したロケ地がない事情もあったかと思います。それと、第二次世界大戦後もベトナム戦争のように世界各地で戦争が次から次へと現実に起こっていましたので、日本が関与した戦争の実態が映画で再現されなくても、ニュース映像の範囲内で国内ではなんとなく戦争を「わかった」気になってしまって、わがこと感がないまま、ただ海外に可哀そうな人たちがいるという程度でしか、戦争を見てこなかったのではないでしょうか。
実際の戦場では、机上の計画通り「国民保護」が可能になることは極めて困難だと思います。そのことも知らないまま過ごしているような気がしてなりません。実写映画がない分、やはり新聞書籍やセミナーといった言葉・文字の力で伝えるしかないのかなとも感じました。

『東アジア現代史』感想メール

家近亮子著『東アジア現代史』(ちくま新書、1400円+税、2025年)を先日、春節祭期間中でにぎわう長崎へ向かう電車中で読みました。内容は満足しましたが、最近は伝統ある出版社(ここ1カ月でも白水社や岩波書店)の著作物でも文中に誤記を発見することがたびたびあります。著者が出すデジタル原稿をどんなやり方で校正しているのかと、活字印刷時代から読書に親しんだ昔の青年は考えます。そんなわけで、おせっかいだと承知しつつ、下記のメールを出してみました。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076670/?fbclid=IwY2xjawIKkFRleHRuA2FlbQIxMQABHYNPThcn2SF14-RjEKN3se0amcNSu-qeD09VTeXul_a5el_p95ja2us0gA_aem_AH9vh1fEyDYKXsZJq-UKYw

放送大学テキストの『現代東アジアの政治と社会』と、そのラジオ講義聴講で、家近先生の研究テーマに馴染みを覚えていましたので、さっそく読ませていただきました。東アジアのみならず、米国やソ連、英国との関係やそれらの指導者の考えにも触れてあり、一層理解が進みました。慶応出身者でありながら福沢諭吉に対する評価も率直で、その点も学者として信頼できました。
p.341の4行目とp.364の3行目の2か所で、いずれも「副総統」とあるべきところが、「福総統」との誤字表記となっていました。

【追記】
2月1日の朝日新聞読書面で、これから読む予定の吉田裕著『続・日本軍兵士』(中公新書)とともに紹介されていました。
吉田裕氏の師匠の藤原彰著『中国戦線従軍記 歴史家の体験した戦場』(岩波現代文庫)もお勧めです。同書のp.217で触れられていますが、藤原氏は、戦後、岩波書店内に事務局を置いた「歴史学研究会」でアルバイトしていますが、そのころ同じ事務局で後年学習院大学教授となる斉藤孝先生(学生時代に「国際政治史」の講義を受けたことがあります。)もおられました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S16139787.html

声を聴いているか、説明を尽くしているか

春節祭で賑わう長崎への行きかえりの電車の中で、戦後、戦争史研究を切り拓き、牽引した藤原彰著の『中国戦線従軍記 歴史家の体験した戦場』(岩波現代文庫、1120円+税、2019年)を読みました。本書の大部分は書題の通り著者の従軍経験に基づいた兵士論・戦場論となっています。著者が中国との戦争に決定的な疑問を持つようになったのは、華北に駐留中の1943年3月、飢えてやせ細った中国人の母子の姿を目の当たりにしたときの体験です。「日本軍はアジア解放のため、中国民衆の愛護のために戦うのだと教えられたのに、貧しい農民たちは飢えに追いやられているではないか。それを討伐するのが皇軍の姿なのか、という疑問をもった」と記しています。大陸打通作戦に参戦した第二十七師団から転属して、敗戦間際には米軍の九州上陸を迎え撃つ機動師団の大隊長に任じられます。そのため、現在の熊本県山鹿市来民地区(敗戦直後の混乱で276人の集団自決した満州開拓民を出した地域でもある)において武装解除と復員の命令を受けたという熊本との縁もあります。
著者が歴史を学ぶことにしたきっかけは、戦場での体験にほかならず、誤った戦争をなぜ起こしたのか、その原因を究明したいという一念に駆られたからでした。軍事史研究においては旧陸海軍の資料が重要となりますが、これらの資料は敗戦後、米国が押収します。一部は後に返還されますが、これが防衛庁の戦史室に入ったままで、一部の人間以外には非公開とされます。このため、「新憲法のもとで、旧軍とは何の関係もないはずの防衛庁が、旧軍の文書を抱え込んで独占していることは筋違い」だとして、著者は米国に対する押収文書の返還と防衛庁に対する史料公開を要求する運動を1970年代の初めごろ起こします。この運動の成果で返還文書が国立公文書館に入るのですが、今度は「プライバシー」などと理由が付けられて相当の部分が非公開になってしまうといういきさつがありました。
こういった流れを見てみると、政治というか行政機関はというものは、声をあげないと動かないし、情報は出さないということが、よく分かります。最近、熊本県内においても熊本市や八代市で住民投票を求める声が上がりましたが、いずれもその実施が否決されました。ことにワンイッシューについては住民の大多数の声と首長や議会構成の多数とズレが出る可能性はあると思います。首長や議会の多数は住民投票の結果を恐れて実施しないのではなく、まず住民に賛否を問うという姿勢があってしかるべきなのではないかと思います。住民投票の結果が、首長や議会多数派の意向通りの結果となれば、手順的には最もわだかまりが残らないことになるわけで、住民投票実施の直接民主主義コストを惜しむよりも、まず声を聴く姿勢が大切だと思います。
もうひとつは政治・行政機関の説明責任です。それらが保有する情報は国民(住民)の共有財産です。可能な限り開示して、説明責任を果たすべきです。これも最近の地元の例ですが、熊本県がTSMCの工場稼働に合わせて実施する水質調査について、調査対象とするPFAS名の開示を「差し控える」などと、ふざけた回答をしたとの報道がありました。不都合なことを隠す政治や行政機関は必ず過ちを繰り返すというのが、歴史の教訓です。「声を聴いているか」、「説明を尽くしているか」が肝要だと思います。

『歴史的に考えること』読後メモ

宇田川幸大著『歴史的に考えること 過去と対話し、未来をつくる』(岩波ジュニア新書、990円+税、2025年)を読み終わりました。中高生といった若い世代が日本近現代史の流れをつかむには読みやすい良書だと思いました。著者は現在中央大学商学部准教授の任にいますが、研究は一橋大学社会学研究室で積まれたとのこと。同研究室と言えば、藤原彰-吉田裕の系譜をたどるだけあって、本書に接してすぐにそのレベルの高さを感じました。
著者は、「東京裁判」の研究で博士号を得ています。その筆頭審査委員は、やはり今月中公新書から『続・日本軍兵士』を刊行した吉田裕氏となっていて、「この裁判がアジアの民衆に対する戦争犯罪を軽視したことを具体的に明らかにしたことが指摘できる。その際、同じ帝国主義国である日本と連合国とが、ある種の共犯関係にあったことに注目している点に本論文のユニークさがある。」と評しています。ただ本人の言葉によれば、研究の原点は、祖父母から戦争体験を聴いて育ったことだと言います。上記書を手に取る機会がなければ、インタビュー音声もありますし、2024年7月27日の朝日新聞「交論」欄(聞き手は私の大学時代の先輩・桜井泉記者)もあります。
本書の内容は申し分ないのでここではあまり触れません。もっとも痛切に感じたのは、私たちが権力者に騙されずに平和に暮らしたいなら、優れた歴史家が必要であり、変(しばしばエセ歴史の構成作家である)な政治家や宗教家の声ではなく、確かな歴史家の考えに耳を傾けたが良いということでした。さらに言えば、そうした歴史家が生まれるには、それを導く優れた師匠の存在がなければ可能にはならないということです。私が大学生時分には、藤原彰氏が活躍されており、その名前は他大学の学生である私も承知していました。思えば、その頃は先生方も戦争体験者(藤原氏は中国戦線で従軍歴あり)が多く、まさにわがこととして研究していたのだと思います。一方で、1985年生まれという戦争体験がまったくない宇田川氏にあっても優れた研究が生まれるのですから、実に歴史家ってやつの仕事は尊いものです。
関連情報リンク
https://www.bookloungeacademia.com/283/
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/27136/soc020201400802.pdf
https://www.iwanami.co.jp/book/b458078.html
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/01/102838.html

※1993年8月4日の「慰安婦」制度に関する河野談話の問題点
著者は大きな進展と評価しつつも問題点を指摘している(p.171)
・主語が曖昧である。歴史学の多くの研究によって、慰安所を作り、「慰安婦」を集めた主体は日本軍であったことがはっきりしている。
・談話にある「軍の関与の下」ではなく、「軍が、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた」とすべき。
・軍だけでなく、総督府、外務省、内務省、警察などの官僚組織も「慰安婦」制度を支えていた。「慰安婦」制度が日本という国家が引き起こした組織的な性暴力であった、という点にまで踏み込む必要がある。

※「一国史などというものは本来成立せず、歴史の縦割りは、意味をなさない。歴史は輪切りにし、それを積み重ねてこそ真の理解ができる。(家近亮子『東アジア現代史』ちくま新書 p.18)

熊本になぜ民間の戦争ミュージアムが必要か

1月26日の熊本日日新聞に、菊池恵楓園入所者のハンセン病患者へ投与されていた薬剤「虹波」の人体試験が、旧陸軍の七三一部隊においても凍傷患者に対して行われていたことが載っていました。七三一部隊といえば、毒ガスや細菌兵器の開発を行う過程で人体実験を行い、多くの被験者を殺害した部隊として知られます。細菌兵器の使用や人体実験については、アジア太平洋戦争期における国際法でも違反とされていましたので、敗戦間際に書類や標本の焼却、施設の破壊を行い、徹底的な証拠隠滅を図ったとされています。
一方、冒頭の記事では触れられていませんが、七三一部隊関係者の中には、戦後、陸上自衛隊衛生学校長を務めた園田忠雄という人物もいます。しかもこの人物は、同学校が1970年1月にまとめた「大東亜戦争陸軍衛生史」(全九巻)の「監修の辞」として、「敗戦とともに消えた陸軍衛生部は、今や陸上自衛隊衛生科としてその伝統を継承することとなり、その責任も極めて重大と言わなければならない。温故知新、それは事象発展の道程であり、大東亜戦間はもとより終戦時の衛生部活躍の跡を尋ね、その業績を偲び世界に誇りうべき軍陣医学の真髄に触れることはまことに有意義である」と、書いています(参照:1973年6月19日、内閣委員会における横路孝弘委員の質問)。なお、七三一部隊所属歴がある自衛隊関係者としては、園田陸将の前任の衛生学校長である中黒秀外陸将ほか複数いることが、実名で政府委員より答弁で明らかになっていました。
横路委員の質問では、上記の「大東亜戦争陸軍衛生史」の第二巻の中に七三一部隊における凍傷に関する実験報告が出ているとの指摘もありました。その報告者の一人は戦後、京都府立医大学長を務めた吉村寿人と名指しされています。吉村は1930年に京都帝国大学医学部を卒業しています。吉村の研究班では、「虹波」の投与ではなく、民族による耐寒性の違いを調べるため、塩水に手を入れさせ水温を零下20度まで下げるなどして、異なる民族の人の手足に凍傷を発生させる実験を行ったとされています。
さらに、横路質問では「大東亜戦争陸軍衛生史」の第七巻には1月26日の熊本日日新聞の記事で氏名が出た北野政次部隊長についても触れられています。この北野部隊長自身が流行性出血熱の生体実験を行ったと記述されているようです。
菊池恵楓園入所者・長州次郎氏(山口県出身者であるための仮名?)の2015年の証言(三菱総合研究所ヘルスケア・ウェルネス事業本部まとめによる報告書)によると、1942年から「第六師団の結核の薬」という話で、宮崎松記園長の目の前で「虹波」を1日3錠飲まされたとありました。その他、注射や塗り薬などあらゆる投与方法を園長が試したことも証言しています。
宮崎は吉村と同じ京都帝国大学医学部の卒業ですが、卒業年は1924年ですので大学での接点はないようです。京都帝国大学医学部卒業の人脈と言えば、「虹波」の「波」に名前の一部が入る開発者の波多野輔久(1927年卒)もそうです。波多野は、1930年代に満州医科大学で写真感光増感用シアニン系感光色素を用いた研究を行い、これを体質改善薬として応用するという着想を得て、1939年に熊本医科大学教授に就任します。波多野輔久(はたの すけひさ)は、1930年代に満州医科大学で写真感光増感用シアニン系感光色素を用いた研究を行い、これを体質改善薬として応用するという着想を得ます。1939年に熊本医科大学教授に就任し、熊本で感光色素の研究を続けます。それが1941年、陸軍第七技術研究所の目に留まり、1942年12月から菊池恵楓園における臨床試験となっていきました。
しかし、虹波研究についての医療倫理上の問題点が指摘され、新聞報道で大きく取り上げられるようになってきたのは、2022年12月から。2010年代に行政が出した報告書が一部にあったにせよ、つい2年前からです(2006年に国立資料館の社会交流会館としてオープンした恵楓園歴史資料館に学芸員が配置されたのも2010年になってからです)。
「虹波」の人体試験をめぐる資料や証言、遺構は、戦争とリンクしたまさしく負の遺産そのものです。その厳粛な実相が指し示すのは、戦争で何が失われるのかという問いです。今を生きる人間は、その教え導きから平和堅持と人権擁護の正しい答えを出していかなければならないと考えます。
それと負の遺産と言えば戦争と同じく公害といった環境破壊もそうですが、ともすれば歴史は権力者側から見たものだけが残ります。権力者側にとって不都合な情報はたとえ残っていても個人情報保護を盾に非公開とされたり、被害者や研究者、報道機関が知らない間に廃棄されたりすることが懸念されます。そのためにも民間の戦争ミュージアムが熊本に必要だと感じています。

無知ほど怖いものはない

1月26日の熊本日日新聞「くまにち論壇」欄に北海道大学教授の岩下明裕なる人物が、日本被団協のノーベル平和賞受賞をめぐって以下の通り書いていました。「私は彼らの平和賞受賞スピーチに違和感をもった。政府に原爆被害者への補償を求め、世界にアピールしたからだ。国家の非常事態たる戦争では、皆、被害を受けたのだから我慢せよという、いわゆる受忍論を、彼らは批判したとされる。」。
これを読んで嘆息せざるを得ませんでした。昨年放送の朝ドラ「虎に翼」を視聴した方なら原爆裁判でなぜ原告が日本政府に対する国家賠償請求にいたったか、つまりサンフランシスコ講和条約によって米国に対する賠償請求権を放棄した経緯を、よく承知しておられると思います。しかし、上記の人物はこれぐらいの常識さえも持ち合わせていないようで、思いっきり無知を晒しています。
加えて本欄には「戦争を始めた国や政府の戦争責任を追及するのは当然である。だが、いかに軍国主義下だろうと、(一時期とはいえデモクラシーを経験した国の)戦争責任が100%国民にはないとは言えないと思う。自国政府の戦争責任への責めは国民もある程度は背負うべきだろう(私はウクライナ侵略に対するロシア国民の責任についていつも考えている)。」と続きます。どうやらこの人物には、先記引用文と含めて国策の過ちを国民は受忍すべきとの考えがあるようです。
当時の日本には未成年者はもちろんですが、成年女性には国政に関与する選挙権・被選挙権がありませんでした。原爆に限らず空襲などによる無辜の国民の死傷者数も膨大です。これらの人々にどのような戦争責任があったというのでしょうか。まったくもって怒りを禁じ得ません。
このような不見識な寄稿を載せる新聞社の編集の見解もぜひ聞いてみたいものです。

鉄と馬

九州国立博物館で開催中の特別展「はにわ」を観てきました。同展の目玉は「挂甲の武人」や「踊る人々」ということになるかと思いますが、見方を変えれば日本列島における「鉄と馬」の起源、武力を伴った権力の出現の歴史を実感できる展示だと言えます。
まず「挂甲(けいこう)」とは何かということですが、解説によると「古墳時代・5世紀に登場した甲(かぶと)の一種。小さな鉄板(小札)を紐で綴り合せて、人の動きに合わせたワンピース型に作り上げる。着用者は動きやすく、馬の騎乗にも適していたので、6世紀にかけて普及した。」とありました。つまり、実物は現代でも貴重な鉄からなるものです。当時は激レア資源だったので、王の墓なんかに添えるにはさすがにもったいなくて土器(埴輪)なのは自然です。それでいくと、いずれも古墳時代・5 -6世紀の鉄製品(すべて東京国立博物館蔵)であり、さりげなく展示されていた、熊本県和水町の江田船山古墳から出土した国宝3点セット 「衝角付冑」「頸甲」「横矧板鋲留短甲」の価値が、数段上とも正直感じました。
次にその形状から「踊る人々」と名付けられた古墳時代・6世紀の埴輪ですが、これも解説によると「儀礼に際して踊る姿とされるが、近年は馬を曳く姿(馬子)である説も根強い。」とありました。「挂甲の武人」が馬の騎乗に適した甲を着用していることと合わせて、ここにも馬とのかかわりが感じられます。
さて、この鉄と馬にかかわる技術・風習がどこに由来し、いつ頃からなのかというと、朝鮮半島南部からの渡来人によっておおむね5世紀ころから伝わったとされます。倭は百済や加耶からさまざまな技術を学び、多くの渡来人が海を渡って、多様な技術や文化を日本列島に伝えました。乗馬の風習も朝鮮半島から学んだもので、日本列島の古墳に馬具が副葬されようになったのも5世紀になってからです。より進んだ鉄器・須恵器の生産、機織り・金属工芸・土木などの諸技術、漢字の使用や水筒・外交文書の作成、6世紀以降の儒教や仏教の伝来など、渡来人の役割は大きいものがあります。
設楽博己編『日本史の現在1考古』(山川出版社、3300円+税、2024年)のp.161には、「日本史を学ぶ場合、いつの時代についても、周辺の国々をはじめとする各地域の歴史や、日本と諸外国との関係に目を向けていく必要がある」とありましたが、「はにわ」にも様々な地域との交流と、その影響を受けた展開を感じることができます。5世紀の鉄と馬にかかわる技術・風習の学びがなければ、王権や戦争の出現はありえなかったと思います。
戦争と馬との関係で言えば、つい80年前の近代戦争でも密接でした。山砲1門を分解した部品の輸送に際して馬6頭を必要としました。大陸打通作戦で中国・山東省からタイ・バンコクまで踏破した、日本一歩いた軍隊である第三十七師団(冬兵団)を例にとると、師団を解団する時点で、主力がいたタイで人員約1万名、日本馬約1500頭、大陸馬約2050頭、先遣部隊がいたマレー州で人員2890名、日本馬約330頭、大陸馬約220頭いたとされます。タイでは武装解除にあたった英軍から命じられてほとんどの馬を銃殺ないしは撲殺しています。一方、マレーではすべての馬が英軍に渡され、近くのゴム林へ連れて行き殺すことなく放されたとありました。
馬耳東風、馬の耳に念仏、馬子(これは人)にも衣装、馬脚を露わす、泣いて馬謖(これも人)を斬る…。古来権力者は馬に世話になりながら、なぜかネガティブなイメージのことわざに多用されている印象があります。そんなこともありまして、せめて熊本のロアッソ(これはJクラブ)は温かく応援してあげたいものです。最後はそれかいと言われそうです。

『少数派の横暴』読後メモ

平日ならさして混まないだろうと、九州国立博物館で開かれている特別展「はにわ」を観に行った往復の電車内で、共にハーバード大学教授のスティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットが著した『少数派の横暴―民主主義はいかにして奪われるか―』(新潮社、2700円+税、2024年)を読み終えました。世界はトランプ政権の再登場に揺れているわけですが、それだけにそれを可能にした要因を歴史的に知り、どう対処していくべきかを知ることは、米国に限らずどこの国民にも必要なことだと思いました。
著者の見立てによると、米国は世界的に例を見ない反多数決主義的な民主主義国家になっているといいます。少数派がルールを悪用して政治を支配することが可能になっているというわけです。たとえば以下の点があります(p.227-228の記載参照)。
・有権者による直接選挙ではなく、選挙人団を経由した大統領選出なので、有権者が投票で示した多数派とは異なる候補者が大統領に選ばれる可能性がある。ゴアやヒラリー・クリントンが敗れた例が実際にあった。
・同等ではない規模の州に同等な代表権が与えられた、つまり小州バイアスが強力な定数不均衡の上院がある二院制に加えて、議会での少数派の拒否権(フィリバスター)がある。銃規制世論と議会との乖離があり、法改正につながらない。
・単純小選挙区制を採用しているため、相対多数の票を得た者たちによって多数派が形成され、ときには全体として得票数の少ないほうの政党が議会の多数派となる場合もある。恣意的な区割り(ゲリマンダー)や農村部バイアスも指摘できる。
・最高裁判事に終身在職権が与えられているため、判断が社会の変化に対応していないし、認知症となっても辞めさせるのが難しい。もともと有権者に選ばれるわけでもない。
・合衆国憲法は改正へのハードルが高い。改正のためには議会両院における絶対的多数の賛成(3分の2)に加え、4分の3の州の承認が必要。
その他にも有権者登録や期日前投票などについても問題があると指摘しています。本書では問題点を指摘するだけでなく、p.243-246にかけて具体的な処方箋も示していますし、国民の行動にも期待をかけていますから、まったく絶望の書というわけでもありません。米国建国以来の共和党と民主党の歩みの歴史(これは同時に選挙制度や議会制度の歴史でもある)を学べた点でも大いに参考になりました。

政治家は戦争体験者に学べ

太平洋戦争末期に鹿児島県曽於市大隅町月野の海軍岩川基地から出撃した芙蓉部隊の戦没者をまつる慰霊碑「芙蓉之塔」の揮毫者が、同地を選挙区とする衆議院議員だった故・山中貞則氏であるのを、南日本新聞電子版でたまたま見かけて知りました。
同氏は、1942年に陸軍の第六師団に入営し、中国戦線で従軍します。その第六師団は、1942年暮れに南方戦線へ転出し、ブーゲンビル島(パプアニューギニア)において壊滅的な戦死者を出しますから、そのままだったら戦後の人生はなかったかもしれません(私の母方の親族も同島で戦死しています)。
氏は、第三十七師団の山砲兵中尉として終戦を迎えたようです。同師団は通称「冬兵団」と呼ばれ、大陸打通作戦で中国・山東省からタイ・バンコクまで踏破した、そのため戦病死が多い、日本一歩いた軍隊と言われています(私の父の長兄も所属しており幸い終戦翌年に復員できました)。戦後、解団して師団旗を焼いたタイ・ナコーンナーヨック県の駐屯地跡近くのプランマニー寺に慰霊碑奉賛会が納めた石碑がありますが、その碑には奉賛会長であった同氏の名前が刻まれているのを、資料でみたことがあります。
自民党「税調のドン」としての記憶が強い氏ですが、戦争体験者であることから県民の4人に1人が犠牲となった沖縄への思い入れがあり、返還や振興に尽力して鹿児島県出身者ながら沖縄県初の名誉県民にもなった人物です。今回、慰霊碑の報道で久々にその名を見たわけですが、戦争体験者から学んでいる政治家がつくづく少なくなったと思うばかりです。

みなが知る必要のあること

最近立て続けにオックスフォード大学出版局が手掛ける「みなが知る必要のあること(What Everyone Needs to Know)」シリーズの翻訳書を2冊読みました。1冊は、ブルース・W・ジェントルスン著『制裁 国家による外交戦略の謎』。もう1冊は、ジェイムズ・カー=リンゼイとミクラス・ファブリーとの共著による『分離独立と国家創設 係争国家と失敗国家の生態』。どちらも2024年に白水社から刊行されています。
書籍の内容をここでは詳しく記しませんが、国際情勢や国際関係の報道に接したときにその背景を理解して動向の成否を考えるうえで役立つ貴重な知見を示してくれます。先を読むには豊富な歴史の知識・教訓を知らなければならないとつくづく思わされます。
ネットユーザーにとっては大変ありがたいことに、『分離独立と国家創設』の筆頭著者のジェイムズ・カー=リンゼイ氏(英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス欧州研究所研究員)は、国際関係の時事問題を短時間で解説したユーチューブ動画チャンネルの配信を行っています。無料で視聴できるので興味を持たれた方は、この動画へアクセスしてみるのもいいと思います。
https://www.youtube.com/c/JamesKerLindsay/Join

成人の日の様変わり

新たに20歳になる住民のうち、東京都新宿区は45%、東京都豊島区は42%が外国籍の人なのだそうです。豊島区には学習院大学や立教大学がありますが、外国人留学生が増えているようで、豊島区の「20歳の集い」を取材した記事にはそれらの大学の留学生が登場していて成人の日の風景がずいぶん様変わりしているのを感じました。加えて留学生の進路希望として引き続き日本に滞在して仕事に就きたいと答える人が目立ちました。日本の世界における経済的地位はこれから先も下がる一方なのは確実ですから、こうした外国人留学生の存在はありがたい限りです。
私が成人の日を迎えたのは40ン年前で、東京都北区の式に参加しました。北区在住の有名人「ケンちゃん」こと宮脇康之さんが同じく新成人として特別に壇上で紹介されたのと、やはり壇上に陣取る全区議がいちいち紹介されていたのが退屈でしょうがなかった思い出があるだけでした。
当時は外国人留学生を見かけることはありませんでした。街中で見かける若い外国人といえば、モ○モ○教の布教活動(「クイズダービー」に出ていた外国人弁護士もやっていたやつ)をしている連中というのが通り相場でした。
外国人留学生と交流した経験と言えば東海大学にソ連政府から派遣されてきていた諸君(モスクワ大学等出身のエリートたち)を訪ねる機会があっただけです。後日その留学生の一人が米国亡命したので、交流はそれで沙汰止みとなりました(まだ冷戦下の時代だった)。

ミュージアム展示も学芸員次第

熊本県宇城市の不知火美術館で現在「元寇750年特別企画展 蒙古襲来絵詞のリアル」が開かれています。観覧料無料ということもあって2回も観覧しました。今回の展示のメインは、「蒙古襲来絵詞」の複製品ですが、正確に言えばカラーコピーとなっています。どうせ見るなら同時期に福岡県太宰府市にある九州国立博物館でまさしく東京国立博物館蔵の江戸時代の模本実物が展示されていますのでそちらがお勧めです。
不知火美術館の展示で目を引いたのはむしろ長崎県松浦市から貸し出された海底からの出土物の方で、展示解説も整っていました。これはおそらく松浦市側からの支援を受けたからだと思われました。それと、地元関連で言えば、小川町海東の塔福寺所蔵の「竹崎季長寄進状」と「竹崎季長置文」、松橋町竹崎の秋岡氏所蔵文書の「沙弥法喜寄進状」(昭和53年2月2日、県重要文化財指定)が展示されていたのですが、これらはいずれも竹崎季長本人が書き記した書状でしかも実物展示でしたからはるかに観覧価値が高いものでした。しかも熊本県立美術館の監修を受けたと思われる解説表示も備えられていました。
特に「竹崎季長置文」は、海東阿蘇神社の運営規則を季長が自ら書き定めた文書で、その口うるさい決めごとの数々は、策定者の人柄が伝わり、読むと思わずニヤリとさせられます。神社の管理がずさんな者はすぐに辞めさせて交代させろなどと書かれています。
話は飛躍しますが、現在の多くの神社が属する神社本庁の政治団体「神道政治連盟」ではLGBTの人々を不当に差別する冊子を発行しています。多くの神社(実態はスピリチュアルグッズ販売ビジネス)はこのように愚劣きわまりない者によって管理されていますので、季長の置文の精神を少し見習ったがいいかもしれません。
なお、「沙弥法喜寄進状」を所蔵する秋岡氏の現当主・廣宣氏は、県内の私立女子大の尚絅学園理事長です。30年以上前になりますが、当時熊本放送のテレビ営業課長だった同氏らとインドネシアへシンガポール経由で旅行した縁があり、今も年賀状のやりとりが続いています。廣宣氏の父・隆穂氏は旧・松橋町長。三島由紀夫を見出した蓮田善明(慈恵病院の現院長の祖父)と戦時中、同じ部隊にいました。シンガポールで迎えた敗戦後に「中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と変節ぶりに多くの青年将校らは憤ったが、中でも蓮田の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉長殿! 無念であります」と哭泣した。その上、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐(注:蓮田に射殺される、その後蓮田は自決)を国賊と判断した。」と、その名があります。小高根二郎編集の『蓮田善明全集』(島津書房)の中にも小高根による「昭和四十四年八月十九日、大隊長秋岡隆穂大尉、聯隊副官鳥越春時大尉出席のもと 熊本は水前寺で催された善明二十五回忌追悼會の席で、」の記述があり、名前を確認することができます。
いろいろ話が横道にそれましたが、不知火美術館の場合、施設の器は新しく小ぎれいでスタバなんかもあって集客力は優れているのですが、展示方法はどこかシロウトっぽい気がします。しっかりした学芸員がいないのかなと思わされました。
https://www1.g-reiki.net/kumamoto/act/print/print110001190.htm
https://www.city.uki.kumamoto.jp/hihyoji0/hihyoji/2268958

篠沢教授に全部ではなくて

昨夜、Xで「はらたいら」がトレンドワード入りする珍現象が発生したのだそうです。平成世代には漫画「かいけつゾロリ」の原作者・原ゆたか先生と間違えそうな名前かもしれませんが、はらたいらさんといえば、昭和の名物クイズ番組「クイズダービー」のレギュラー出演者として有名なナンセンスギャグ漫画家さんです。新聞・雑誌を多読した豊富な知識に基づく正答率の高さが評判でした。
ついでに言うと、この報道のおかげで私の脳内には、やはり同番組のレギュラー出演者であった、篠沢教授の名前がトレンドワード入りしてしまいました。同番組で一発逆転を狙うときの「篠沢教授に全部」も当時は流行ったかと思います。今から41年前になりますが、その研究室におじゃまして教授にお話を伺った経験があります。このときの一番の思い出は、取材を終えて研究室から退室する際に、ドアにこれまた同番組の出演者である斉藤慶子のサイン入りセミヌードカレンダーが貼られてあったのに気付いた点でした。つまり、「斉藤慶子に全部」もっていかれたというわけです。

関さんは悶々としている

昨年は「虎に翼」や「光る君へ」といった国内のテレビドラマに親しむ数少ない機会がありましたが、いまはそれがないので、無料のネット動画でロシアのテレビドラマをもっぱら視聴しています。大学生のときに少しロシア語を学習した経験があるので、いまでもキリル文字の字面から発音を読み取る程度はできますが、さすがにロシア語字幕では筋を追うのは困難なので、基本は英語字幕に頼っています。
自動生成のおかげでロシア語音声によるドラマであっても、英語変換だと割と正しく翻訳されますが、これが日本語変換だとちょっと使い物にならなくて、ドラマの本筋から離れてすっかり空耳アワーに陥ってしまいます。
自動生成といっても翻訳対象がテキスト(文字)データであれば、なんとかなります。しかし、対象が音声データであれば、AIくんが空耳状態に陥ると、変換された原語テキスト自体のスペルが別のものになるので、当然のことながら外国語の変換テキストも空耳翻訳になってしまうのだろうと思います。
下記に空耳翻訳事例を示してみます。
ロシア語:Секи за ней кулис фраерсуется
英語:Seki behind her in the wings is being a jerk
日本語:関さんは楽屋裏で悶々としている
このように音声言語に関してAIくんが本領を発揮してくれるのはどうしても英語中心なのだろうとは思いますが、海外のテレビドラマを見ると、その土地の歴史や文化、国民性の深い部分がつかめるので、新鮮です。
ところで、特にソ連時代のロシア社会では家庭内で市民が政治的な活動をしないためにテレビでは盛んに娯楽番組(市民が良からぬことを考える時間を奪うため)を流していました。私もその当時、宿泊先のホテルでそうした番組(写真=右下は現在のウクライナ、キーウのホテルのテレビ 1989年)を見た覚えがあります。
現在は海外各地の英語ニュース番組が視聴できますので、国の権力がテレビでいくら娯楽番組を流しても市民がそれに釘付けとなるのは難しい時代になったのではとも思います。

戦場体験者としての源了圓

アジア・太平洋戦争期の大陸打通作戦に参加した冬兵団の初年兵だった松浦豊敏氏について昨日投稿しましたが、旧制宇土中学校で松浦氏の5年先輩にあたる東北大学名誉教授・源了圓氏の戦場体験についてもメモを留めたくなりました(松浦氏1943年3月卒業、源氏1938年3月卒業)。
2020年9月に100歳で亡くなられた源了圓氏の専門は、近世日本思想史。没後翌年の2021年に中公文庫から出た著書『徳川思想小史』には、初出の2007年刊の中公新書版にはないエッセー「自分と出会う」が増補されています。氏は、京都大学在学中に学徒出陣により兵役につくのですが、海岸を歩いていたときに背面から米軍機が接近し、一瞬かがんだ頭の先に機銃掃射を受け、危うく命を失いかける体験をしたことを、そのエッセーの中で明かしていました。
20代前半で「死」を強いられかねない体験が、その後の人生に大きく影響を与えたことは、エッセーのタイトルからも容易に感じ取れます。
戦後復学し、歴史学者の道に入られて、おかげで私が高校生のときは、氏が執筆された「倫理・社会」の教科書で、しかも氏と旧制中学時代の同級生の法泉了昭先生から学びましたが、このエッセーに書かれたことについてももっと早くに学べていれば良かったとも感じます。

地獄の戦場参千粁

先月菊池市内で開催された「空襲・戦跡九州ネットワーク」の集まりに参加した際に、事務局の高谷和生さんから歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』を頂戴し、さっそく読ませていただきました。同連隊は、旧日本陸軍の第三十七師団(本拠地は山西省に置く通称「冬兵団」、1944年4月からの大陸打通作戦参加時より防諜名「光兵団」)に属し、主に熊本県出身者からなる部隊です。記録をまとめた初年兵たちは1944年11月に熊本で入営し、中国に渡った後は先行して南下する本隊を追いかける形で行軍を続けます。最終的に初年兵たちは編入を果たせず、終戦をベトナムで迎えます(本隊はタイで迎えたので延べ8000km、日本一歩いた部隊の一つです)。ベトナムやタイからは終戦翌年に復員しますが、戦死者以上に戦病死者が多く合わせて1629名が命を落とすほど損耗が過酷だったと記録されています。
本書を読んで身近だった2人の人物を思い浮かべました。ひとりは6年前に亡くなった伯父です。亡伯父は、本書執筆者と同じく歩兵第二二五聯隊の通信中隊に所属していましたが、この方々より入営が早かったので終戦時はタイにいたようです。復員してみて終戦直前に実家が空襲で焼失していたことを知ったと聞いています。こうした例は本書に登場する初年兵の郷里でもあり、八代の王子製紙や水俣の日本窒素(初年兵の父が従業員で機関砲を受け亡くなったことも書かれていました)の空襲被害の話が触れられています。
そして、もう一人は、私と交流があった故・松浦豊敏氏。本書内に参考文献として同氏著の『越南ルート』が紹介されています。現在の宇城市松橋町出身の松浦氏は、私の伯父と同じく1925年(T14)5月生まれですが、入営したのは上記書執筆者の歩兵砲中隊の方々と同じ1944年11月でした。所属はやはり冬兵団の山砲兵第三十七連隊の初年兵で、終戦はベトナムで迎えられました。そのため、歩兵砲中隊の初年兵らと同じ船で復員されていたことを本書で知りました。松浦氏の場合は、入営までの経歴が特異です。旧制宇土中学卒業してすぐに山西省太原に渡り、山西産業に入社します。同社は鉄鉱・軽工業製品を扱う国策会社で、諸勢力の動静を探る特務機関でもあり、松浦氏は同社の特務課に所属していました。なお、同社の社長は張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作です。『越南ルート』の初出は1973年刊の同人誌「暗河」ですが、2011年に石風社から出した同名の単行本に所収の自伝的小説「別れ」においてこの山西産業時代のことを描いています。
復員当時20歳前後の青年たちにとって「死」はすぐ傍にあり、しかもそれが国策で強いられたものであったことを命がけで日々体感したと思います。それだけにこの世代の方々のその後の人生の歩みを見ると、分野の違いはあっても、物事を所与のものとして捉えない精神が強靭だと思える面があります。いまさらですが、もっともっと学べることがあったのだろうと思います。

戦争遺跡が語るもの

設楽博己編『日本史の現在1考古』(山川出版社、3300円+税、2024年)は、タイトル通り考古学研究の最前線を教えてくれる本なのですが、20本からなる章立てのなかに、菊池実氏による「近代日本の戦争遺跡を考える」論考が掲載されています。近代日本の戦争遺跡が、考古学的な発掘調査によって国内で初めて確認されたのは、2008年から2011年にかけて調査実施された熊本市山頭遺跡だそうです。これは1877年に勃発した西南戦争の遺構で、政府軍陣地跡からはスナイドル銃薬莢、薩摩軍陣地跡からは雷管といった遺物が出土しています。熊本県西南戦争遺跡は2013年に国指定史跡にもなっています。このように遺構や遺物は近代ですが、調査手法において考古学も活用されるので、本編に掲載されたようです。
近代日本の戦争遺跡の中でもとりわけ旧日本軍施設は、戦災による消滅だけでなく、敗戦時における意図的な破壊や関連資料の焼却、毒ガス弾に代表される砲弾類の処分など、証拠隠滅が徹底的に行われました(特に国外で多い。例:満州第731部隊跡)。そのような特殊な残存状況もあるので、考古学的調査研究の対象となりえる面があります。
本書では触れられていませんが、執筆者の菊池実氏は、「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の共同代表を務めておられます。同会の目的は、「日本近代史における戦争の実相を調査研究して記録し、戦争遺跡を史跡、文化財として保存し、もって平和の実現に寄与しようとする団体・個人の連絡・協議を推進すること」とあります。本書p.241においても「戦争遺跡は過去の文化における負の遺産、しかも忘れてはならない事実の厳粛なる遺構でありモニュメントである。さらに地域が戦争で失った貴重なもの(それは人命であり、地域の自然や文化である)、そして地域が戦災のあと復興し生きてきた歴史(地域の開拓など)を考えるうえからも、戦争遺跡の調査研究・保存活用は重要なのである。」と書いておられます。
上記の全国ネットワークの運営委員の一員である高谷和生氏が実行委員を務める「空襲・戦跡九州ネットワーク」の第11回菊池集会が11月23-24日に開かれましたので、受講参加しました。率直な感想として発表者のレベルがまちまちでした。軍事史研究に傾倒している報告や発表者の問いが何で結局何を伝えたいのか分かりにくい報告もありました。いろんな調査研究の切り口があるのですが、単に調べましたで終わって歴史の中にその事実をどう位置づけるのかまで至っていないと感じるものもありました。たとえば発表スタイルをフォーム化したり、要約を事前提供してもらい査読修正の機会を設けたりするだけでも、質が高まるように思いました。
もっとも発表者のすべてがアカデミア出身ではありませんし、そういう発表の体裁に対して意見するよりも、まず活動を行っていることに対して敬意を払うべきという考えもあります。今回の開催地の菊池(花房)飛行場ミュージアムの運営を行っている団体では、地元の方のボランティアでその活動が成り立っています。ミュージアムの建物は菊池市の所有ですが、光熱費その他経費はすべて団体からの支出と聞いてなかなか継続できることではないと感心しました。