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『水俣病が描く近代日本の自画像』読書メモ

葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。

88年前の伝単

昨日参加した「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」のおりに講話した高谷和生さんが、1938年5月20日に熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消した中国空軍2機による伝単20万枚の撒布について触れていました。これを、日本側では初空襲と捉えましたが、その作戦の実行を命じた蔣介石は、当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待していたため、「人道飛行」と名付けています。撒布された伝単の内容は、4種類の反戦ビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類の反戦パンフレット(「日本人民に告ぐ」)となっています。内容が内容だけに、伝単は官憲によって回収されたため、現存されているものはほとんどないとされてきました。
ところが、今年3月19日の熊本日日新聞によると、水上村で農業を営みながら、ロシアの文豪トルストイの翻訳を手がけた湯前町出身の故北御門二郎氏(1913~2004年)の遺品から、「日本人民に告ぐ」の伝単が発見され、遺族から熊本県立図書館へ寄贈されたという報道がありました。
https://kumanichi.com/articles/1970572
トルストイの研究家である北御門二郎氏は、良心的兵役拒否を貫いた人としても知られています。人道飛行があった1938年は、国家総動員法が公布(4/1)・施行(5/5)された年でもあり、北御門氏が徴兵拒否の意思を固めたきっかけにもなっています。東京帝国大学文学部英吉利文学科に在学中の同氏は、徴兵検査を受けるべき同年4月21日の前日に失踪し、父が警察で訊問を受けたり、消防団による山狩りが行われたりしています。翌日に、形の上では、出頭を催促されて母とともに出向いた徴兵検査の場で、北御門が徴兵忌避の申し立てを言い切るよりも先に、精神を病む者と「判定」されて、検査をまぬかれたことになっているようです。ともかく、検査を受けて結果的に兵役免除となりました。同年に大学を中退、球磨郡水上村で就農します。日本初空襲=人道飛行があった1938年5月20日には熊本へ帰っていたとすれば、本人が自ら伝単を手に入れ秘匿していた可能性があると思われます。
北御門二郎氏の名前を最初に知ったのは約50年前の高校時代のときでした。高1時の担任である美術教師の坂田燦先生が同氏と交流があり、トルストイの翻訳作品に版画を併載した版画集(『二老人』1978年。その後も『火の不始末は大火のもと』1980年、『愛ある所に神有り』1981年、『人には沢山の土地がいるか』1982年、『作男エメリヤンと空太鼓』1992年と続く)の共同出版をされていました。
熊本県立美術館でも要職に就かれていた坂田燦先生は、現在89歳。今も年賀状でいただく版画作品が楽しみです。写真は2026年のもの。

番外:日本で初めて伝単が登場したのは、九州で起きた藤原広嗣の乱(740年)
官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けたのが始まりと考えられています。

熊本空襲を語り継ぐ集い

平和憲法を活かす熊本県民の会が主催する「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」に今年も参加しました。1945年7月1日の第1回熊本大空襲の際に本荘国民学校(現・本荘小学校)3年、8歳の少年だった寺本さんの証言を、いつも子どもたち向けに語るときに使っているという紙芝居仕立てで聴いてきました。その内容については取材に来ていた地元民放TV局のキー局サイトに載っていましたので、紹介します。
https://news.ntv.co.jp/category/society/kkc1f05e115a344c56a713d0e2855eeb34
この証言の前に、集いの代表幹事である高谷和生さんから、熊本大空襲に先んじて1945年の3月・5月から陸軍健軍飛行場と爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工業熊本航空機製作所へ空襲があったのは、米軍側が出撃基地と兵器工場を叩くことを優先していたからと解説がありました。同年7月の熊本大空襲の米軍の攻撃目標は健軍へ送られる部品工場がある南熊本周辺でしたが、実際の攻撃では東側にずれたと見立てていました。
三菱重工業熊本航空機製作所があった場所は、現在陸自の健軍駐屯地であり、今年長射程ミサイル部隊が配備されています。先の大戦当時も現代も有事となれば、直接の脅威をもたらす敵の出撃基地を相手側がまず無力化しようというのは当然です。それがために、指揮所や装備・弾薬がある健軍駐屯地の地下施設化が進められようとしています。一方、駐屯地が狙われるということは、周辺の住民・民間施設も危険に晒されます。まさに81年前のような被災に遭わないと断言はできないと考えます。
ところで、昨年12月にはFIFAの会長が、トランプ氏に「FIFA平和賞」なるものを贈ったことがありました。その後、イラン攻撃で多くの無辜の子どもたちが殺されたのですが、W杯に浮かれる人たちからFIFAへ平和賞を取り消せという声は聞こえてきません。そんなこともあって今回のW杯放送はまったく見る気になれませんでした。
この集いに参加する前には、2つの美術展会場を訪ねて心穏やかな時間を過ごせました。
6/15-7/31「フェルメール蘇る全37リ・クリエイト作品展」(肥後の里山ギャラリー)…元勤務先の前社長が熊大薬学部へ寄贈したリ・クリエイト絵画展。
6/23-7/4「大和淳子」(画廊喫茶オアシス)…中高時代の同級生の初個展。

動画よりも紙面

辻田真佐憲氏が『文藝春秋』(2026年7月号)に連載中の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」の要約が動画で紹介されています。
動画では対談形式なので、相手からの話の振り方によって紙面では扱いがないエピソード(石牟礼道子の『苦界浄土』で記述される水俣の人の語りはノンフィクションか創作か。渡辺京二の解説をめぐって)へ飛ぶエンタメ性がある一方、文字数換算では圧倒的に紙面記事の情報量に劣るので、やはり原稿を読むべしと感じた次第です。
動画はある分野の知識を得るきっかけにはなりますが、知識事実を体系的に追い理解するには、やはり文字にはかないません。この動画の内容を別に過小評価しているわけではありません。内容的には水準が高いですし、動画の役割を認めた上で、読書が知の向上、ひいては社会の発展に寄与するという思いを強くしました。
https://youtu.be/7_oafo1eA7k?si=RG6ZAZAGTf3g8StX

戦争、エネルギー、チッソ

歴史や社会の実相に対する目配りの鋭さをその発言から感じる若手の研究者の名を挙げるなら、私なら斎藤幸平氏と辻田真佐憲氏をまず思い浮かべます。2人には水俣病という公害事件を招いた歴史や社会構造にかなり注目している共通点があります。
その辻田氏が自身の動画チャンネル「辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ」(2026年6月14日配信)の冒頭15分過ぎまでにおいて、『文藝春秋』(2026年7月号)に同氏が連載の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」や相思社職員として水俣にて現地ガイドの経験を有する葛西伸夫氏の著書『水俣病が描く近代日本の自画像 新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2026年)を取り上げていました。そこで、戦争、エネルギー、チッソの関わりを語っていました。水俣病という事件を患者被害者に対する人権蹂躙や環境汚染の問題としてだけでなく、それをもたらしたもっと国策的な背景についても学ぶべきではと感じます。その素材としてチッソの歴史からさまざまな視座を得られると思います。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h12222?ref=innerLink
https://sekifusha.com/13046
https://www.youtube.com/live/Zm7mLEoCQC4?si=OaCpqPDXYmzQWxQe

工大の煉瓦門

戦後に開学した大学のキャンパスの敷地がもともとは軍用地だった歴史を持つ例をよく聞きます。熊本で言えば、熊本学園大学には陸軍歩兵第十三聯隊正門や食堂・酒保所跡(現・大学第二体育館)が現存しています。先日立ち寄った千葉工業大学津田沼キャンパスの通用門は、かつてその地にあった陸軍鉄道第二聯隊兵舎の表門として使用されていたものです。「工大の煉瓦門」として親しまれていますが、正真正銘の戦争遺産です。ちなみに同キャンパス3号館にある学食は外部の人も100円の食堂利用券を付加して食券を買えば利用できます。JR津田沼駅からほど近い場所にあります。

「國學院大學博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムの場合、入館料無料で日曜休館の施設が多いのですが、渋谷にある國學院大學博物館は月曜が休館なので、一般のミュージアムとハシゴ観覧しやすい施設です。ですが、日曜だとキャンパス内にある3カ所の学食がすべて休みなのでランチを楽しむことはできません。今回訪れたのは6月に入っての最初の日曜日にあたり、新卒採用シーズンでしたので休日にもかかわらずビジネススーツ姿の学生をかなり見かけました。同館へは渋谷駅からも恵比寿駅からも徒歩で迎えますが、それぞれの駅からバスも頻繁に出てますので、楽に行けました。
https://museum.kokugakuin.ac.jp/
博物館入口の前庭には同地周辺(東渋谷台地)の歴史の解説が表示されていて、朝鮮王族の李鍵公・李鍝公邸や朝鮮人女学生寮の鴻嬉寮などがあったとありました。(1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李鍝公は、原子爆弾に被爆しています。同日、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)によって救助されますが、翌日死去しています。広島の平和公園内に建つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文にもその名が刻まれています。)
同館の常設展示は、考古・神道・校史の3つの部門からなっていました。大学の設立母体は皇典講究所ということでコレクションも皇族由来や神道関連が多くを占める印象を受けました。ただ、学問としてこの分野を研究するとなると、科学的検証も必要なわけで皇国史観とここではどう折り合いをつけているのか、モヤモヤ感も覚えました。
もっとも、今回の狙いは開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」でした。2002年日韓W杯の際に熊本をキャンプ地に選んだベルギーのサッカー代表チームの愛称が「赤い悪魔」なので、勝手に赤のイメージを強く持っていましたが、同国の漢字当て字は「白耳義」、そのため白と略されます。ちょっとしたことですが、情報一つでイメージがずいぶん変わるものだなと思いました。先入観なしにふらりと博物館を巡ってみるのもいいもので、大日本帝国憲法のモデルはプロイセン憲法とばかり思っていましたが、起草者である熊本出身の井上毅は、プロイセン憲法のモデルであるベルギー憲法にも学んでいたことも知りました。その展示資料は、國學院大學図書館が収蔵する、井上毅が所有していた文書・図書からなる「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は、井上毅の号)によるものでした。同文庫の成り立ちは、1957年に井上毅の継嗣・井上匡四郎氏(工学博士・第一次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣)の篤志によって國學院大學に永久寄託され、その後、58年に寄贈へと切り替えられことにあるそうです。ベルギーと熊本の縁に寄せてその日はデザートに白熊を食べてみました。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/299808

「赤羽」訪問メモ

「URまちとくらしのミュージアム」の見学ツアー参加のため、先日、東京都北区の赤羽界隈も少し散策してみました。1980年代前半の時期、私は赤羽台で暮らした経験があるので、久々に見る風景は一変していましたが、かつては軍用地が広がっていた場所でもあり、その痕跡を確認することもできます。
以下は写真メモです。
・1番街…昔は赤羽駅東口から今は北口から出るとアクセスできる駅前商店街です。昔はさまざまな業態の店舗がありましたが、今はすっかり「せんべろ」の街となってしまいました。通りも広くずいぶんと小ぎれいになっていました。昔は通り入口の下ではよく歌手の営業があり、研ナオコを見たことがあります。親知らずの歯4本中3本を抜いてもらった腕のいい歯科医院が入口に面した通り沿いにありましたが、それもどこかに移ったのかもしれません。
https://www.1bangai.org/
・うつり坂…鉄道線から陸軍被服本廠へ通じる登り坂。
・遺構レンガ…旧赤羽台団地のスターハウス近くにある、被服本廠の建物のレンガ。
・東洋大学赤羽台キャンパス…赤羽駅の西側の赤羽台にあります。2023年完成ということで、私が暮らしていた頃には当然ありませんでした。https://www.toyo.ac.jp/nyushi/about/campus/akabanedai/
・前田建設のクレーン…赤羽台一帯では今も再開発が進んでいました。550戸の共同住宅を建設中です。八代市からの指名停止があってもビクともしない建設会社の姿がありました。
・赤羽台東小学校の門柱…今は廃校になってしまいましたが、この学校も赤羽台団地の敷地内です。現在は更地ですが、北区児童相談所が近く着工のようです。設計は隈研吾事務所とありました。むき出しの木を使うのか気になります。
・師団坂…旧陸軍の第一師団工兵大隊と近衛師団工兵大隊に向かう坂道。第一師団工兵大隊兵営跡は星美学園の敷地となっています。
・赤羽八幡神社…神社が丘の上にあるので見晴らしが良く、その敷地から東北新幹線、東北本線、埼京線などの通過車両を見ることができます。日露戦役紀念碑が建っています。陸軍被服本廠へ通じる貨物線路もかつてはあった場所です。
https://ak8mans.com/
・赤羽駅西口のケバブ店…一駅北は埼玉県川口市。赤羽でもケバブが食べられるんだなと思いました。いつか買い求めてみたいものです。総じて西口側の激変ぶりがすごかったです。大型店舗が立ち並んでいました。45年前に最初に西口に降り立ったときはパチンコ店のチンドン屋が練り歩いていたのですが、その面影は微塵もありません。

「URまちとくらしのミュージアム」訪問メモ

国立歴史民俗博物館の「第6展示室(現代)」の解説パンフレット表紙には、東京都北区の赤羽台団地を空撮した写真が載っています。同団地は、日本住宅公団(現・UR)によって1959年から建設が始められ、1962年から入居が開始されました。当時、東京23区内では最大規模の3373戸を擁する「マンモス団地」として呼ばれました。もともとは被服本廠があった軍用地だったのですが、その広大な跡地には団地のほかにも3つの小中学校や公園、消防署、商店街などが設置され、高度経済成長の時代を象徴する最先端の生活の場所となりました。つまり、戦後復興の光の部分を代表する風景として表紙写真に採用されたのだと思いますし、その関連展示パネルも室内にありました。
1980年代前半の時期、団地内ではありませんが、私はこの赤羽台に住んでいました。そのため、個人的にも思い出深い街です。現在同団地は再開発され一部の建造物が残されているとともに、URまちとくらしのミュージアムが2023年に開館して集合住宅の歴史を伝えています。旧赤羽台団地の「41号棟(板状階段室型)」と「42,43,44号棟(スターハウス)」の外観は無料でいつでも見学できますが、同潤会代官山アパートや日本住宅公団黎明期の蓮根団地や晴海高層アパート、多摩平団地テラスハウスといった復元住戸を含むミュージアム棟は、事前予約制の90分間ツアー形式での無料見学となっています。
https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/
水・日・祝日が休館で、ツアーは1日3回組まれています。私が参加したときは、1組15人程度で年齢層は中高年が大部分でした。外国人観光客と思われる参加者もいました。1979年に欧米から日本の住宅の狭さを「ウサギ小屋」と揶揄されたのが、中高年層の頭の片隅には残っていると思いますが、実際に高度経済成長期の住宅のしつらえに接してみると、生活の温かさが感じられたり、将来への希望が持てた時代の明るさがよみがえってきたりします。
以下はツアーで得たマメ知識。ガイドは若い女性でしたが、解説はよどみなく、時間管理や見学者捌きもテキパキしていて仕事ができるなと感じました。
・同潤会代官山アパート時代の電気料金は使用量ではなく設置する電球数で決められていた。トイレには照明具を付けなかった。部屋番号は建物全体の通し番号で振っていた。たとえば148号室でも5階に所在。高い部屋の外壁には縄梯子を架けられるフックがあった。
・公団初期の蓮根団地の流し台は石製。一戸ごとに職人の手作りだった。風呂桶も木製。
・前川國男設計の晴海高層アパートにはエレベーターが設置されたが、着床する階が3階ごととなっており、階によってはアクセスが悪かった。各階廊下に共通電話があり着信を交換手が各戸へ知らせ受信をしらせるボタン設備が各戸にあった。流し台はステンレス製。トイレも洋式。
・昭和30年代の郊外の団地には専用庭のある長屋建てのテラスハウスと呼ばれる低層集合住宅が多く建設された。
※この赤羽周辺には戦跡や鉄道見物スポットもあるので、別に投稿します。

『継体天皇』読書メモ

河内春人著『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書、1000円+税、2026年)は、①継体天皇の即位が可能となった歴史的前提、②その治世をめぐる国際関係、③その死後の世襲王権の成立について論考された著作となっています。今日の皇位継承資格の論議にあたって大いに参考にしてみると面白い本だなと感じました。それと、私が在住する宇土とのゆかりもあります。
『国史大辞典』によれば、継体天皇とは、生没450-531年、在位507-531年、応神天皇の五世の孫と伝えられ越前(今の福井県)から迎えられた人物です。ただし、存命中は「オホト大王」だった、当人からすれば、「継体天皇って誰?」ということになります。「継体」とは8世紀半ばに淡海三船が歴代の天皇を漢字二文字で名付けた漢風諡号ですし、「天皇」も7世紀に成立した称号です。
なお、評価が定まらない天皇であるため、現行の歴史教科書で取り上げず教えない方向にもあるようです。確かに明治憲法の時代では、以下のようなことがありました。たとえば、喜田貞吉(1871-1939)は、「明治時代の終わりに文部省で国定教科書の編修に従事したが、1911年に南北朝正閏問題で責任を取って退官した。」(p.206)、「当時は古代史といえども天皇家の万世一系に異を唱える研究はタブーだった。1930年代になると皇国史観が世を覆い、天皇に関わる研究自体が低迷する。」(p.207)という具合です。したがって、研究や教育に対する時の権力の不当な介入(逆に受ける側の阿りにも)には敏感でありたいと考えます。
継体天皇ことオホト大王が王位継承する前世紀(5世紀)の倭王権は、中国王朝(宋)からの冊封体制にありました。古市集団(讃・珍)や百舌鳥集団(済・興・武)といった複数の王族集団のなかから適任者が大王即位後に宋へ遺使し倭国王に任命(唯一の例外が世子を名乗って要請した興)されていました。中国皇帝からの承認は即位した事実を補強するための手続きでした。また、新たな大王は他の豪族たちからの支持取り付けのため、豪族たちへの将軍号の授与を中国王朝に要請しました。
ところが、5世紀末に宋から南斉へ王朝が変わり、それが王朝簒奪した反乱に映った倭王権は外交関係を持つことを躊躇し479年を最後に中国への遺使を取りやめます。それまで大王を出したことがなかった王族である北陸集団から即位した継体天皇は、中国王朝という外部からの権威付けが得られないこともあって、仁徳天皇を出した古市集団の女性王族である手白香王女との婚姻によって即位の正当性を補強します。皇后の手白香王女は武烈天皇の妹とされますが、その武烈天皇については虚構と本書では見ています。たとえば、『日本書紀』は、それが完成した律令国家の時代に「かくあるべし」と設定した、きわめて作為的な編纂が行われていて、5世紀以前の記述は史実としてほぼ信用できないと著者は指摘しています。漢籍を下敷きにして武烈天皇の暴虐記事がありますし、血統よりは賢者であることを重く記した書物(北畠親房『神皇正統記』1343年)もあります。ちなみに、律令国家時代の「継嗣令」では皇位継承資格があるのは五世孫までとされていました。
在位中は朝鮮半島との外交失政や磐井の乱などが起きていますが、磐井の勢力基盤である八女集団も継体天皇の即位については支持していたと考えられています。その根拠の一つが現在の熊本県宇土市(当時は八女集団の勢力下)から産出する馬門ピンク石の存在です。この石は5世紀後半頃から畿内へ提供されていて、6世紀前半では最大の前方後円墳(墳丘の長さは190mに及ぶ)であり、継体天皇の真陵と推定される今城塚古墳(現在の大阪府高槻市に所在)の石棺の材質として用いられています。

『紙に描いた「日の丸」』読書メモ

『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店、2500円+税、2021年)の著者である加藤圭木氏について知ったのは、つい1か月前のこと。安田菜津紀さんがMCを務めるラジオ番組のテーマが、「朝鮮と水俣」であり、その配信回のゲストとして出演されていたからでした。よって氏の肉声に接したのが最初の出会いとなりました。そこでぜひ著書も読みたいと手に取りましたが、当然のことながら番組では語り尽くされなかった情報に触れることができて貴重でした。
著者は同書を通じて、足下から歴史を考えるということと、他者にとっての足下を想像してみることを目指したと述べています。日本の朝鮮侵略と植民地支配の歴史を取り上げています。国家と国家の関係だけでなく、その中で朝鮮人がどのような状況に置かれたのか、そうした困難に直面する中で朝鮮人が足下からどのように行動したのかについて目を向けています。
以下は、私が印象に残った記述のメモです。不知の情報を多数得た学びとなりました。
・1928年11月の昭和天皇の即位の礼に際しては、日本側が警察を通じて圧力をかけ、朝鮮人に「国旗」(日の丸)を掲げさせようとし、掲揚戸数を徹底的に調べ上げた記録が残っている。
・水俣病の原因企業のチッソ水俣工場が立地する町名は創業者の野口遵に由来する「野口町」。そのことをもっても企業城下町であることが明らかだが、チッソ(当時の社名は日窒)が朝鮮へ進出するにあたっては朝鮮総督府の権力を背景に土地買収が進められ、多くの朝鮮人が立ち退きを迫られた。化学肥料工場用地となった地域は元々、雲田面と西湖面という2つの行政区画だったが、合わせて新しく興南面という地域がつくりだされ、1930年10月、野口遵は初代面長となった。1931年11月、興南面が興南邑に昇格したことに伴って、野口は同邑長となった。企業のトップが地方行政の長も兼ねた。(p.70)
・支配意識は水俣から興南へ移り住んだ日本人男性たちにもあった。1930年代にはチッソ興南工場周辺には性買売がおこなわれていた貸座敷や料理屋などが立ち並ぶようになった。日本人による民族差別と性差別があった。
・植民地期の朝鮮は農業社会であり、人口の大部分を農民が占めていた。そうした朝鮮農民の多くにとって、日本による植民地支配の時代とは、自らの生活基盤を脅かされ、絶対的な貧困を強制された時代だった。1920年代には日本人が食べるための米を、朝鮮人に増産させる「産米増殖計画」がおこなわれ、朝鮮人は自らつくった米を消費できない飢餓輸出状態となった。(p.133)
・1934年以降は朝鮮農村の貧困層に対する「人口調整」の意味から北部における土建労働者への「移動紹介事業」という棄民政策がおこなわれた。(p.125)
・植民地期の朝鮮における日本人の大地主としては、三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎の長男である岩崎久彌や、大倉財閥を経営した大倉喜八郎、細川家の第16代当主であり大物政治家の細川護立などがいた。彼らは高額の小作料を課し、大きな利益をあげた。(p.133)

「明治大学博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムは日祝日休館の所が多いですが、一般に無料見学できることも多く、何よりも解説が充実していて結構見応えがあるものです。昨年10月には川崎市の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪ねて同館が考察対象とする「第九陸軍技術研究所」(秘匿名「登戸研究所」)が研究・開発していた秘密戦兵器・器材の記憶をじっくり受け止めてきました。とりわけ戦争の歴史については、被害や戦功は表の記憶としてまだしも語りつがれやすいのですが、加害の部分に加えて秘匿すべきとされた裏の記憶はどうしても消されやすいので、それを継承する意義は大きいと言えます。
さて、今回は神田駿河台にある明治大学が運営するミュージアム「明治大学史資料センター大学史展示室」「明治大学博物館」「明治大学阿久悠記念館」「明治大学米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館」の4施設を初めて訪ねてみました。
以下は各展示の一口メモです。
・大学史展示室…卒業生の紹介コーナーなどがあります。しおりの表紙にはNHK朝ドラ「虎に翼」の主人公モデルで日本初の女性弁護士となった三淵嘉子さんが載っていて今も力が入っているなと思いました。総理大臣経験者の三木武夫氏については在学中の弁論写真も展示されていましたが、昨年亡くなった村山富市氏の紹介がないのは少し残念に思いました。1936年のベルリン五輪の金メダリスト・孫基禎氏に関連して日章旗抹消事件は承知していましたが、同氏が翌年明治大学に進学したことや卒業生だったことはここの展示で初めて知りました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/university/daigaku.html
・明治大学博物館…商品部門、刑事部門、考古部門の3つの展示コーナーに区分されています。商品部門では午年にちなみ、ことわざの「瓢箪から駒」を表した縁起物のコレクションが特集展示されていました。「瓢箪から駒」の語源は、驢馬に乗って移動していた中国の仙人が、乗らないときは瓢箪の中に驢馬をしまっていたいたという昔話だと言われているそうです。「現実には起こりえない、ありえないこと」あるいは「思いがけない出来事が実際に起こること」の例えとして用いられ、転じて「思いがけない幸運に恵まれる」という縁起物が生まれたというわけです。刑事部門では拷問具や死刑罰具のゾッとする展示が目を引きました。考古部門の特集展示では中国鏡のコレクションが見られました。常設展示では関東地域から出土した収蔵品が多い印象を受けました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/
・阿久悠記念館…5000曲以上の作詞を手掛けた稀代のヒットメーカーのメモリアル施設です。受賞トロフィーや年表を眺めると1970年代は阿久悠氏の30-40歳代の働き盛りであり、人の出来不出来はだいたいこの年齢で決まるよなと感じました。特に注目した展示は、氏が執筆には「ぺんてる社」のサインペンを愛用していたということと、作品を納品する際の原稿用紙には絶対に推敲修正の跡を残さないということと必ずタイトルをデザインした表紙を付けていたという仕事の完璧さです。父親は淡路島内を転勤する警察官で、元々は宮崎県の出身だったそうです。そのため一時期は宮崎県での教員を目指したそうですが、大学卒業後は広告会社に就職しています。また、戦争では兄が19歳で戦死しています。
https://www.meiji.ac.jp/akuyou/
・米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館…明治大学博物館や阿久悠記念館が入るビル「アカデミーコモン」の裏手には明治大学が所有する「山の上ホテル」があり、改装工事中でした。そこから近いところに当館はあります。ここは火・水・木が休館なので、明治大学博物館とハシゴして訪問したいと場合は注意が必要です。それに開館時間も午後以降と遅めです。展示室は無料ですが、図書閲覧室利用は有料です。訪問したときは「コミケ50周年展」が開かれていて、入館者数は明治大学博物館よりも多かったです。館名にその名を冠する米沢嘉博氏は1953年、熊本市に生まれ、明治大学理工学部を卒業しています。1980年から亡くなる2006年までコミックマーケット準備会代表を務めました。コミックマーケット(略称:コミケ)とは、世界最大の同人誌即売会です。直近(2025年12月、東京ビッグサイト開催)の「C107」の2日間の入場者数は30万人、海外からの参加者は少なくとも75カ国といいますから、相当なものです。普段は縁遠い世界ですが、これがこれからも続けられることを切に望みます。
https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/
※番外:今年3月にリニューアルオープンした三省堂書店神田神保町本店ものぞいてみました。オープン記念のノベルティグッズ欲しさに、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎新書、960円+税、2026年)を買い求めました。
https://jinbocho.books-sanseido.co.jp/
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344988057/

「港区立郷土歴史館」訪問メモ

「港区立郷土歴史館」の開館は2018年のこと。開館して10年も経っていない比較的新しい施設であるため、今回初めて訪問しました。同館が入居する建物自体は、1938年竣工の歴史的建造物である「旧公衆衛生院」です。展示室は有料ですが、無料で建物見学できるエリアもあります。建物は東大キャンパスの時計台をすべてデザインした内田祥三の仕事だけに、権威オーラをたっぷり放つ存在感は圧が強いです。この建物の6階には「白金台学童クラブ」が入っていて、いったいどんな子どもらが利用しているのだろうと、下世話な興味をかき立てられます。さすが1人あたりの納税額日本一の自治体である港区だなと感じさせられました。「旧公衆衛生院」の隣りには同じく内田がデザインした「東大医科学研究所」の建物があり、そちらも対で見る価値があります。
さて、その港区の歴史ですが、6000年前は温暖化により海面が上昇しており、海岸線は現代よりも内陸にありました。そのため、港区内には縄文時代の貝塚が8カ所あるそうです。江戸時代になると、伊皿山貝塚の上には寺があり、同時代のネコの墓石が出土しています。ほかに地方の各藩の屋敷が数多くありました。熊本の細川藩の中屋敷もその中にありました。明治以降は広大な藩屋敷の跡地が軍用地として使われました。戦後の1962年に漁業権が放棄されるまでは漁業も盛んでした。その後も自主漁業がおこなわれていましたが、PCB汚染問題が出てからは自主規制となりました。
企画展では、「おもちゃ絵」が開催中でした。展示されている絵を眺めると、明治というと近代化の時代と考えがちですが、人々の暮らしや風俗について言えば、江戸時代と大きな違いを感じさせないものがありました。
特別区の歴史館とはいえ資料が充実しコンパクトに見やすい展示が施されていて堪能できました。『常設展示図録』(1冊1000円)もいい作りなので買い求めました。
この日は、東大医科学研究所、日東坂を通って恵比寿の東京都写真美術館まで歩き、「W.ユージン・スミスとニューヨークロフトの時代」を鑑賞しました。さらにその後、渋谷へ向かい、國學院大學博物館で開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」とハシゴしました。これについては別稿をアップします。

「漱石山房記念館」訪問メモ

夏目漱石(1867-1916)が亡くなるまでの9年間を過ごした旧居は「漱石山房」と呼ばれ、1945年5月25日の空襲で焼失するまで早稲田南町の地にありました。2017年、その地に「新宿区立漱石山房記念館」が開館しました。一度ぜひ訪ねてみたいと思っていましたが、最近初めて観に行きました。館内の展示は有料ですが、図書室やブックカフェだけの利用も可能ですし、建物の周囲の植栽や裏手の「猫の墓」(猫の名前は「福猫」)がある漱石公園、あるいは早稲田駅からそこへ至る「漱石通り」、夏目坂、生誕の地碑など、見どころがたくさんあり、楽しめること請け合いです。近くには予約制になりますが、草間彌生美術館もあります。
https://soseki-museum.jp/
さて、訪ねたときには企画展「夏目先生 漱石の教師時代」が開催中でした。漱石の孫にあたる夏目房之介氏が2008~2021年、学習院大学教授を務めていましたが、漱石自身も学習院へ英語講師としての就職を希望し、一高時代の同輩で先に学習院教授を務めていた立花銃三郎(三池藩家老の三男)宛に送った書簡が展示されていました。ですが、残念ながら不採用になってしまいます。このときのいきさつは下記の論考が参考になります。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/12070/p001.pdf
熊本の五高教師時代にやはり立花銃三郎へ出した書簡も展示されていました。ここでは、腸チフスにかかり学費も払えずに退学処分となった漱石の教え子を、学習院へ転入学させてほしいという内容でした。かなり教え子思いだった漱石の人柄がうかがえました。
漱石は五高勤務、英国留学を経て東京帝大と一高の英語教師に転じますが、一高での教え子に後に学習院長を務める安倍能成がいます。夏目坂通りに「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っていますが、これを揮毫したのが安倍能成です。「遺弟子安倍能成書」と刻まれています。このように漱石と学習院の縁を感じました。

「国立歴史民俗博物館」訪問記

千葉県佐倉市にある佐倉城址の一角に建つ「国立歴史民俗博物館」が開館したのは1983年のこと。都内に在住していたその時分に一度行ったきりで、以来足が遠のいていましたので、先ごろ40年以上の時を経て2度目の訪問を行いました。沿革で振り返ると、前回訪問時の展示規模は現況の半分以下でしたし、リニューアルもあって、今回訪ねてみると、まったくの別モノ、初めての施設といった印象を持ちました。それと、急に思い立って向かったので、着いたのが閉館まで残り1時間という状況でした。第1展示室(先史・古代)だけで気付いて見ると30分を費やしてしまい、続く第2(中世)・第3(近世)・第4(民俗)・第5(近代)・第6(現代)の展示室については相当駆け足の見学となってしまいました。本来朝から夕方まで終日通しで観に行くつもりで予定を立てるべき施設だったと思いました。
さらに、同地は、佐倉城址であるとともに、先の大戦まで旧日本陸軍の歩兵第五十七聯隊(1944年、フィリピン戦で壊滅)の兵営があった戦跡の場所でもあります。近現代史のオープンミュージアムの地でもあることを踏まえると、第6展示室だけでももっと丁寧に観たかったと悔やみました。熊本関連ではチッソと水俣病の展示がありました。
https://www.rekihaku.ac.jp/

『日露戦争』に登場する熊本ゆかりの人びと

本書では、日露戦争時の著名人たちがどのような言動をとったのかを振り返っています。熊本にゆかりのある人物のそれを紹介してみます。

夏目漱石…「開戦当初は他の文学者同様、講談調で月並みな新体詩「従軍行」を発表した。しかし、当初の興奮が冷めると戦争を賛美して軍人や国民を鼓舞する軽率さに気づき、たとえ世間の関心や社会問題と遊離しようとも、自分自身にとって切実な問題だけを書こうと決心した。それが『吾輩は猫である』である。(中略)漱石は、国民的な流行語になった「大和魂」を徹底的に茶化しているのである。」(p.132)

矢島楫子…「キリスト教界の大多数は戦争に協力する態度を示した。(中略)全国各地の教会では戦勝祈禱会が開かれ、祈りや献金が捧げられる。日本基督教婦人矯風会の会頭矢島楫子も戦争支援体制を取り、同会は慰問袋の送付や出征兵士宅の訪問や生活援助、出征・帰還兵の送迎など、幅広い活動を展開した。」(p.112)

徳富蘇峰…「新聞社の中でも桂内閣寄りの『国民新聞』のオーナー徳富蘇峰は醒めていた。「国民の熱心」は、実は日清戦争当時の半分もないと断言する。しかし、その冷めた意識は国民が大いに責任を感じるがゆえであって、その方がよい。逆に、現在「突飛の議論」を行う者こそ、「畢竟二、三の飛び上り者流」にほかならないという。すなわち、蘇峰は浮ついた国民意識を警戒していたのである。奉天会戦後の1905年6月時点でも蘇峰は、日本は表面上強がっているが、実際は今回の戦争で「総ての力は殆んと出し尽し」たという。戦費は外債でまかなうことはできても、取り替えのきかない兵力量の問題はどうしようもない。よって、蘇峰は「完全の戦争」よりも「不完全な平和」を喜ぶと断言した。」(p.121-122)

鳥居素川…「従軍記者たちは、ジャーナリストとしてニュースを追うことより、戦争を素材に名文・美文を書くことを競いあった。朝日新聞の鳥居素川・半井桃水、毎日新聞の大庭柯公などが渡航、田山花袋が博文館から、志賀重昂が毎日新聞から派遣され、名文を競った。また、さまざまに文体を工夫した観戦記の通俗読み物が数多く登場、読者を魅了した。こうした従軍記者の書く記事は、日露戦争の戦場を悲壮美の世界として描くものであり、実際の戦場とはかけ離れたものであった。」(p.124)

『日露戦争』読書メモ

千葉功著『日露戦争』(吉川弘文館、3000円+税、2026年)を手に取ったきっかけは、4月4日の朝日新聞読書面に載っていた吉田裕氏による書評でした。同書評の言葉を借りれば、日露戦争の全体像を解明した意欲作で、政治史・外交史の分野での通説批判が鮮やかとありました。本書の目配りは多岐にわたり、アイヌや沖縄出身を含む兵士の立ち位置から浮き彫りにした戦場の記憶、教育や文化を通じた戦争観の変遷などに触れてあります。それこそ大半の国民が「坂の上の雲」のイメージに留まっている歴史観を洗い流す、研究者の視点の広がりを存分に感じる著書でした。本書は吉川弘文館の「日本歴史叢書(新装版)」シリーズの一角ですが、巻末に当時の日本歴史学会の代表者・児玉幸多氏による同シリーズ刊行時の辞が載っています。著者の千葉氏は学習院大学教授なのですが、児玉氏はかつて学習院大学の学長を務めておられたのを思い出しました。
それはさておき、「日露戦争は日清戦争と違って、日本が西洋の帝国主義列強と本格的に戦った最初の事例」(p.4)です。だからこそ、「日本が戦争を遂行するにあたり、どのような軍事・政治・経済的施策が取られたのか」「どのような戦時国民動員が行われて、それが社会にどのような影響を与えたのか」「日本の帝国化ないし一種の大規模な異文化接触がどのような現象として表れたのか」(p.5)を知る意味は大きいと思います。
戦争のリアルさという点では、かなり無謀な戦争であったということが改めて理解できた思いがしました。とりわけ陸軍の戦死者・戦傷病者といった損耗率は高いものがありましたし、戦費の調達のため国内経済にも多大な負担を与えました。一方で、メディアの戦意高揚ぶりや兵士の日記・手紙に見られる戦地での朝鮮人や中国人に対する蔑視記述など、現代にも共通して懸念される武力重視の対外強硬思想や外国人差別感情といった醜悪な国民統合の土壌を見る思いがしました。
81年前の敗戦だけでなく120年前の戦争の実相からも学ぶべき点が多々あるのを感じます。

菊池事件の真実を求めて

5月24日、菊池恵楓園ボランティアガイド・ハンセン病問題を考える会の主催により岱明防災コミュニティセンターで開かれた、自主映画上映と講演「新・あつい壁」inたまなへ参加しました。この催しは、①ハンセン病問題を正しく理解し、偏見や差別を解消する機会とする、②菊池事件・F事件を、正しく理解する機会とする、の趣旨で行われたものです。プログラムは3部構成となっており、①ハンセン病を理由に憲法違反の「特別法廷」で裁かれ死刑執行(1962年)された冤罪事件である菊池事件をモデルにした中山節夫監督の映画「新・あつい壁」上映、②菊池事件国民的再審請求人団・菜の花法律事務所の国宗直子弁護士による講演「菊池事件の真実を求めて」、③菊池恵楓園ボランティアガイド11期生の方による活動紹介「こだわりたいこと ―ガイド活動を通じて学んだこと―」でした。
菊池事件については、①憲法違反の裁判(2020年2月26日菊池事件国賠訴訟判決)と②本件犯行とFさんとをつなぐ客観的(物的)証拠ない+新証拠2件を争点に熊本地裁へ再審請求されましたが、2026年1月28日に①憲法違反の可能性ありとしながら、②新証拠に明白性ないとして棄却決定が出ました。現在、福岡高裁での審理(次回は7月17日、13時半門前集会あり)に移っています。弁護士の講演では、この再審請求の支援のため、署名活動や上映運動(上映費用5.5万円)、学習会を行っているので、協力可能であれば菊池事件国民的再審請求人団事務局(熊本中央法律事務所)へ連絡してほしいとのことでした。
https://www.facebook.com/kikutijiken
講演を聴いて証拠捏造の不公正な捜査と杜撰な裁判だったことを改めて感じました。司法の過ちを司法が自ら正せるかどうかは、主権者である国民からの信頼が得られるかどうかにもかかわることです。
※事件の概要と2026年1月28日熊本地裁再審請求棄却決定など司法判断の問題について簡潔に知りたい場合は、岩波書店発行の『世界』(2026年4月号)に掲載された西日本新聞記者の久知邦氏による「菊池事件「憲法違反」としながら再審を認めず――ハンセン病差別と司法」も参考になります。
菊池恵楓園ボランティアガイドの談話では、2022年にリニューアルした国立の菊池恵楓園歴史資料館で隔離政策を推進した園長の証言の展示がなくなったことや、自治会およびガイドは黒髪小学校通学拒否事件と称している事件名表記が同館では竜田寮事件の名称で展示されている問題について触れられました。ここにも過ちをいまだ矮小化しようとする国の姿勢が見てとれます。

『〈平等〉の人類史』読書メモ

米国カリフォルニア州にあるダートマス大学の歴史学者である、1965年生まれのダリン・M・マクマホン著の『〈平等〉の人類史』(作品社、4500円+税、2026年)は、人類史というだけあって類人猿や原始時代まで遡って「平等」の概念のありようを辿った、日本語版では518ページに及ぶ大作です。原書では「Equality」とあり、訳者あとがきでは、日本語本来の意味では「同等」が近いとありました。それはともかく、通常「平等」といえば、日本国憲法第14条の「法の下の平等」を思い浮かべると思います。同条第1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とあり、政治的、経済的又は社会的平等を保障しています。ここでは、すべての個人の機会の平等であって、結果の平等を指しているものではないとされます。しかし、現実の社会では、日本国内に限らず、ことに経済的な格差=不平等とそれに起因する序列化が問題になっていて、これはどうにかしないといけないという意識は高まってきているのではと思います。
著者によれば、霊長類の近縁種の研究から言っても、支配の序列の底辺にいる個体には、ストレス、炎症、免疫反応の衰弱など、健康に悪影響を与えるさまざまな変化が引き起こされることが明らかになっています。そのため、序列に抵抗することは、ヒトとしての本質の一部なのですが、序列を築くことにもヒトはどんな動物よりも長けています。いわば、ヒトの歴史は、築かれる支配とその序列への抵抗の繰り返しと見ることができます。その過程で国家や資本が生まれたり、さまざまな宗教や思想が形成されたりしたように思えます。ただし、平等の観念は非常に複雑で、平等を掲げながら新たな序列が作り上げられた歴史もあって、そう単純に時代は進んでこなかったことも理解できます。
本書を読む前に、柄谷行人著の『定本 力と交換様式』に接し、そこでは「交換様式」を手掛かりにさまざまな思想家が登場しました。それで、「平等」を手掛かりにした本書に登場する思想家との重なりが多い印象も受けました。その時代にあって「何をなすべきか?」と考える人こそ、ホモ・サピエンスそのものですから、注目すべき思想家が重なるのは当然と言えば当然かとも思いました。
加えて本書の読書期間中に、立教大学特任教授と一般社団法人UNLEARN理事である、西井開氏による法人向け脱ハラスメントプログラムの一つバイスタンダー研修を受講する機会に恵まれました。この研修では、最初にハラスメントが起こる背景には加害者と被害者間に優劣の力関係があることが示されました。力を持たない人が持つ人に対しては、忖度や我慢があります。一方、力を持つ人が持たない人に対しては、抑圧的な態度をついとる、相手から指摘されにくくなる、気づきにくくなる、好意を持ってくれていると勘違いしてしまう、となります。被害者は孤立状態になることからも、この場合、正確な知識を持った第三者による介入が大きな役割を果たします。ここでは紹介しませんが、介入の選択肢は豊富にあり、最終的には再発防止と加害者による謝罪を求めます。ハラスメントのことを考えたら、平等や力と交換様式の概念にも通じる話だなあという気がしてきましたし、実績ある学者が公表するまでに至ったモノの考え方にはその学者仲間による査読を経ているので、信頼度が高いと思います。何よりもハラスメントに抵抗することは、ヒトとしての本質の一部という見方ができると思いました。
以下は本書からの、ちょっとした豆知識メモです。他にもいろいろありましたので、ほんの一部です。
・1864年にヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が中国語に訳されるまで、中国語に平等に相当する語がなく、代わりに「平行」という語が用いられた。仏教用語としての「平等」は遣唐使(804-805年)の最澄が日本に伝えた(1052年、宇治の平等院建立)。
・古代ギリシャ・ローマ時代の平等は市民の間だけに通用するもので奴隷(戦争奴隷)は除外された。
・宗教における神の前の平等も、異教徒や不信心者は同等に扱われなかった。
・イタリアのファシストが名称やシンボルに使ったのは古代ローマ時代の権威の道具「ファスケス」に由来する。斧の柄を囲むようにニレまたはカバノキの棒で束ねた形状をしている。法に違反した者を打ちのめしたり、断頭したりするために使われた。結束され分割されない絆のシンボルとしてファシスト以前は使われた。米国ワシントンDCのリンカーン記念堂のリンカーン像はファスケスの上に手を置いて腰かけた姿となっている。米国下院議長席の後ろの壁も飾っている。
・1919年、国際連盟規約の前文に日本が提出した人種的平等条項を入れる動議を握りつぶしたのは、英国や米国などだった。1944年、国連憲章を起草するダンバートン・オークス会議で「完全な人種的平等」と「すべての国家とすべての民族の平等」を力説したのは、当時、中国の駐英大使に率いられた中国代表団だった。

肥後の猛婦

NHKの朝ドラ「風、薫る」に出てくる、伊勢志摩さんが演じる梅岡女学校校長兼看護婦養成所長についてですが、史実では熊本県出身であり、女子学院初代院長や日本キリスト教婦人矯風会初代会頭となった矢嶋楫子(やじま かじこ)です。大宅壮一がかつて「肥後の猛婦」あるいは「四賢婦人」と称した矢嶋姉妹の一人です。矢嶋家は、幕末の思想家・横井小楠との関係が深く、楫子の姉の子に徳富蘇峰、蘆花がいます。出身地の熊本県益城町には四賢婦人記念館もあります。
「風、薫る」の主役2人のモチーフとなった大関和と鈴木雅の実際の経歴は、共に子を2人ずつ抱えるシングルマザーという境遇にあって、英語力を使って看護学を学んだそうですが、矢嶋楫子はDV夫と断髪して離婚し、末娘とともに長崎から船で上京、船上で自ら改名、後に教育者へ転じたという経歴を持っています。彼女を主役に据えた朝ドラを創ってもいいぐらい波乱万丈の人生を送っています。
今週から登場シーンは見られませんが、地元熊本のNHKや新聞もあんまり話題にした様子はなく惜しいなあと思います。
https://kumamoto-museum.net/shikenfujin/
https://www.joshigakuin.ed.jp/ozekichika_specialsite/
https://news.yahoo.co.jp/articles/f29cfb935eea43f10a253eb528ebf4605f02138b?source=fb&fbclid=IwY2xjawRxALpleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFCaEVraUxjVkJMZm51d29Vc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHqWUtJIxccB4egsLDFu6vLSnDtmxv-W-EWO0gOjHmUgwSD_erlDbLFpmTeEg_aem_YQG7Ku26gnRY70-uBGJCWQ