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『琉球・台湾とつなげて学ぶ日中全史』読書メモ

10年前あるいは今年発生した熊本地震のような巨大地震では、地殻変動により水平方向あるいは垂直方向に地表が移動します。たとえば、法務局で熊本県内の字図を取得するとほとんどの場合、「(注)国土交通省国土地理院が公表した座標補正パラメータ(kumamoto2016_BL.par)による」という注意書きが載っているはずです。これは地震前より数10cm~1m超動いたことを示しています。すでに今年発生の熊本地震による座標補正パラメータも9月25日に公開されていているので、今から取得する字図には、上記の注釈文がkumamoto2026_BL.parとなっているかもしれません。私の自宅付近だと今度は50~60cmは動いたことになっています。
https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/sokuchikijun41012.html
そんなわけで、地球の地表の位置が永久不変ということはありません。にもかかわらず一般人が所有地の微々たる境界の違いをめぐってもめ事を起こす姿ほど醜悪なものありません。同様に国家間の境界争いも似たような側面があって、歴史的に統治の範囲・境界線には曖昧なものがあるので、グレーな部分をあえて残した方が無益な紛争にならず平和が保たれていいのではと思うことがあります。ましてや海を挟んだ近隣の国・地域と無用な争いを起こすのはバカげています。
岡本隆司著『琉球・台湾とつなげて学ぶ日中全史』(東洋経済新報社、1800円+税、2026年)を読むと、海域でつながる東アジアの歴史を振り返る大切さを感じました。現在の国家の枠組みに縛られた思考では相隣関係に禍根をもたらしかねない危うさを感じます。

本書に出てきた言葉を以下にメモします。
「独立」…「地域以上・国家未満」で表現されるそれには一般的な意味合いとは違う文脈・含意がある。例:自治、自己決定、自律性。
「両属」…近代の1872-1880年、琉球は日中の両方に属した。ただし、日中双方が了解した、コンセンサスの取れた両属とは言い切れない。
「附庸(ふよう)」…近世の1609-1871年、琉球は薩摩に従属していた。しかし、明朝や清朝に対して隠蔽していた。
「港市(こうし)」…港での貿易に従事することに特化したような国家。
「互市」…明朝の朝貢一元体制に代わって、朝貢を残しながらある程度の交易を認めた清朝のシステム。
「北虜南倭(ほくりょなんわ)」…明朝に対する北のモンゴル遊牧民による脅威と東シナ海での倭寇による朝貢貿易の秩序破壊。
「因俗而治(いんぞくじち)」…在地在来のやり方に任せる清朝の統治姿勢。
「異国」…和製漢語。江戸幕府にとって朝鮮は対等の純然たる異国だったが、琉球は従属の関係にある異国だったので附庸とした。
「外国」…「中国」と対になる言葉。「中華」に対する「外夷」の言い換え。
「冊封」…「朝貢」と対をなす。君臣の上下関係を示す。1872年の明治天皇による琉球藩王への組み入れもそう称された。
「生蕃(せいばん)」…「化外(統治範囲外)」の生粋の野蛮人という意味。中華文明を多少なりとも持ている野蛮人は「熟蕃」と清朝では呼んでいた。
「両岸三地」…大陸と台湾、香港を指す。「一国二制度」が使われるようになってから死語化した。
「光復」…すっかり元どおりになる意味。
「藩部」…チベットや新疆ウイグル、モンゴルを指す。漢人の住地・明朝の流域は直省。
「瓜分」…スイカを切り分け割るように国土が分割されるという意味。

その他のメモ。
○17世紀の日本を世界史的に見れば、秀吉による九州平定と秀吉に続いて家康が受け継いだキリスト教の禁教が重要な出来事。海外と深くつながっていた九州を秀吉も家康も警戒していた。海外からの政治的または文化的な影響を阻止しながら、経済的な利益を確保しようとした。徳川日本の凝集性・一体性はきわだって奇異。
○清朝の中国ではアヘンが通貨の役割をはたしたという仮説(p.167)。塩取引のライセンス状が株券のように売買されていた(p.168)。
○英語の中国語表記は広東語に由来するものが多い。例:マクドナルド=麦当労(広東語読み:マック・トーン・ロウ、北京語読み:マイ・ダン・ラオ)。
○中国の中央政府にとって、やっかいなのが広東人。香港人がその典型。民族的には漢民族でありながら、発想や行動がほとんど西洋人と変わらない。明朝・清朝の時代から彼らが「倭寇」の一派となり、政府非公認の貿易に従事してきた。

『モノに宿る真実』読書メモ

8月30日の熊本日日新聞読書面で、スポーツライターとして著名な澤宮優氏が、戦争の記憶を継承する著作(『モノに宿る真実 あなたの隣りにある戦争の記憶』弦書房、1800円+税、2026年)を刊行しているのを知り、さっそく読んでみました。同氏の新聞寄稿をこれまで何度か目にした覚えはありますが、著書を手にするのは初めてとなります。著者が宇土高校時代に「社会部」という考古学の部活動に参加していたのも同窓の縁で知っていましたが、進学した大学でも考古学を専門に学んだということは本書で知りました。同書の著者プロフィール紹介には「文化財保存全国協議会員」「肥後考古学会員」とあり、現在もその専門分野とのかかわりが深いことがうかがえます。
さて、本書のタイトルを象徴するのは、奈良県香芝市の屯鶴峯地下壕跡について触れた第三章の部分だと思います。この地下壕は、陸軍航空総軍司令所として使用するため、アジア・太平洋戦争末期の1945年6月に作られた戦争遺跡です。著者はこれを「戦争(戦跡)考古学」の視点から後世に伝えるべきと考えています。第四章では、広島市のサッカースタジアム建設が優先され、2021年に発掘された中国軍管区輜重兵補充隊施設の被爆遺跡の大部分が破壊された問題を批判的に取り上げています。
著者の姿勢は、あとがきの以下の部分に記されています。「これからは歴史を正しく伝えることの重要性がさらに増してゆくということである。近い未来に戦争体験者から証言を得ることは不可能な時代がやってくる。モノを通して戦争の真実や戦時下での人々の暮らし伝える方法が主流になる。しかしこれが政治的な力や時代の空気で別の歴史物語が作られていく心配もある。(中略)モノはありのままの真実を伝えもするが、何も言わない。だから目を光らせる必要がある。何かそこに秘匿されていることはないか、都合の悪い史実に触れずにいるのではないか、それを見逃さないことである。」(p.239)。さらにスポーツライターらしい表現(元ネタは水上勉の子息で無言館館主の窪島誠一郎氏)もあります。「(1964年生まれの著者を含む)私たち世代は戦争体験者からの話を聞いている。戦争体験者が外野手であれば、そのボールを内野で受け取り、ホームにいる次世代の人たちに投げる。私たちカットマンの責任は大きい。まずしなければいけないのは、モノから歴史を学ぶとき、秘匿や改ざんをあきらかにすることで、正しい歴史の真相を多くの場に伝えなければならないということである。」(p.241)。
冒頭紹介したように、澤宮氏は宇土高校卒業生ですが、本書の第一章では宇土高校の前身の旧制宇土中学を卒業した谷口睦生と美術教師だった佐久間修について記されていますので、同窓生にはぜひ知ってほしいと思いました。まず、現在の八代市鏡町出身の谷口睦生は、大学生時代の1936年ベルリン五輪に出場した陸上短距離ランナーであり、当時の200m走直走路の日本記録保持者(21.2秒)でしたが、兵役に取られて1943年10月2日にブーゲンビル島付近で戦死しています。なお、200m走は1968年以降、曲走路が公式記録となったので、現在も谷口の記録が直走路の日本記録となっているそうです。文政小の北隣りの八代市総合グラウンド正面には谷口の銅像が今も建っていて、八代陸上競技選手権大会には「谷口睦生杯」の冠名が残されています。次に、佐久間修は勤労学徒を引率した先の長崎県大村市で1944年10月25日、空襲に遭い命を落としました。妻の静子さんを描いた作品が長野県上田市の無言館に保管されています。佐久間は世界的に有名な版画家・浜田知明と同郷(御船町)・同窓(旧制御船中学、東京美術学校)であり、交流があったことも本書で示されています。戦後、北九州市で暮らした妻の静子さんは行政書士の資格を取って収入を得て子どもを育てたとも書いてありました。
最後に、出版社の編集者が気付いてやれよというレベルの、記述の誤りと違和感をメモしておきます。佐久間の引率先が「第二海軍航空廠」(p.55とp.56の2か所)となっていますが、正しくは「第二十一海軍航空廠」です。第二は千葉県木更津市、第二十一は長崎県大村市に設置されていました。本書には、旧満州や朝鮮半島からの引き揚げ者の歴史についての記述がありますが、「引き揚げ者は、ソ連や中国などの侵略に晒されたので犠牲者も多い。」(p.65)という部分も適切ではないと思いました。旧満州は実質的に日本が中国から収奪した植民地でしたから、ソ連(および衛星国のモンゴル人民共和国)の対日(満)参戦は侵攻といえます。しかし、日中間の戦争は日本による中国への侵略であり、その逆ではありません。日ソ戦争の全体像は、麻田雅文著の『日ソ戦争』(中公新書、2024年)が良好なテキストになると思います。
※9月2日の西日本新聞朝刊にも関連記事が載ったようです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b788b4a9f97c27305a81f09bfd9ea9e5aebe58f9
※9月12日の読売新聞オンラインに熊本地震後に実家を訪ねた澤宮氏についての記事がありました。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20260912-GYS1T00031/

海外に開かれた熊本の歴史

くまもと文学・歴史館10周年記念佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」を9月12日聴講してきました。海外交流というと、人の移動手段が発展してきた近現代をイメージしてしまいますが、この講演では古墳時代から語られました。その時代の九州は中国文明、ことに漢字文化が伝わる玄関口であって、それを示す出土品などの存在について学ぶことができました。
講演の中で紹介された一部の情報に関連情報を付加して以下に示します。講演では中世、近世、近代の歴史についても語られましたが、下記では割愛します。
○江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀…1873(M6)年、現在の熊本県和水町の江田船山古墳から出土。同年、東京国立博物館で保管された(窒素で錆を防ぐドイツ製のケースに現在保管されている)。刀身のみねの部分に銀象嵌の銘文がある。その内容からワカタケル大王(雄略天皇)のヤマト王権が肥後の地方豪族と連携して支配領域の拡大を進めた様子(5世紀後期)がうかがえる。当時は漢字を扱えること自体に呪力があったと考えられ、「長寿である」とか「支配権が安泰」であることを意味する文言が書かれている。渡来人とみられる「張安」の名が書者として刻まれている。
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J573
○日羅(にちら)…6世紀の百済王威徳王やヤマト王権の敏達天皇の外交顧問。父は肥後の地方豪族火葦北国造(ひのあしきたのくにみやつこ)刑部靱部(おさかべのゆげいべ)阿利斯登(ありしと)。『日本書紀』によれば、日羅は父とともに百済に渡って育ち、威徳王に仕えたのち、来日。朝廷へ百済に不利な内容を奏上したため、百済人によって難波で暗殺された。現在の八代市坂本町百済来に日羅の墓とされるものがある。
http://kumamoto-midori.com/rojumeiboku/100/100_detail.html
○浄水寺跡石碑…熊本県豊野町の浄水寺跡に奈良・平安時代の古代石碑群4点がある。延暦9年(790)南大門碑、延暦20年(801)燈籠碑、天長3年(826)寺領碑、康平7年(1064)如法経碑からなる。仏教とともに古代肥後へ漢字文化が広まったことを示す。
https://www.city.uki.kumamoto.jp/hihyoji0/hihyoji/2267777
※写真は、講演受講帰りに見た風景(砂取橋、水前寺児童公園、サクラマチクマモト)。

『調査票のなかの「戦争」』読書メモ

『調査票のなかの「戦争」 京浜工業地帯の労働者一万四千人の記録から』(勁草書房、3000円+税、2026年)の著者・渡邊勉さんが同書をめぐって報告する「第51回空襲オンライン学習会」(9/26開催)に参加予定なので事前に読んでみました。本書は、横浜・川崎の事業所に勤務する労働者1万4千人を対象にした1951年実施の調査データを数理・計量社会学の手法で分析し、回答者のライフコースを描き出した稀有な著作です。年齢・学歴・職歴・居住歴・結婚歴・家族構成・戦争経験(徴兵・引揚・戦災)などさまざまですが、「戦争とは人びとを選別するシステムである」と結論付けています。たとえば、地方の農民出身者ほど前線へ送られた経験をもつ者が多く、逆に高学歴の軍需産業の技術者ほど前線へ送られた経験をもつ者が少ないといったことが解析できています。戦争で夫を亡くしたり婚期を逸したりするなど、女性労働者の生活にも大きな格差が生じました。戦争による影響は、回答者の子孫の世代にもおそらく格差をもたらしたのではと思います。しかし、何よりも終戦から6年後の調査であるため、当然のことながら戦死あるいは戦災死した者たちの記録はないわけで、死者の声を聴けないことにも思いを向けなくてはならないと感じました。

82年前の不発弾か

8月17日に長崎県大村市の郡川河川敷(福重橋付近)で発見された不発弾の処理作業が、9月6日、無事終了したとの報道がありました。今回発見処理されたのは、アジア・太平洋戦争期に米軍が使用していた250キロ爆弾と判断されています。米軍側での呼称は、「500ポンド通常弾 (AN-M64)」とされ、主にB29爆撃機などから投下されました。戦時中の大村市は第21海軍航空廠(現在の長崎空港の対岸)や海軍航空隊基地(現在のサンセット通りの西側)がある軍産都市であり、たびたび米軍機による空襲を受けました。うち5回の空爆で250キロ爆弾を使用したことが米軍側の記録に残っていますが、中でも大規模な空爆だったのが、1944年10月25日の「大村大空襲」でした。この日の攻撃では360発の250キロ爆弾が投下されています。さらに焼夷弾が初めて使われたのもこのときでした。この空襲での人的被害は死者300名以上、重軽傷者500名以上とされています。特に第21海軍航空廠では死者272人(うち、動員学徒70人)を出しました。その海軍航空廠跡地での最後の慰霊祭が昨年行われ、遺族の高齢化で主催団体も解散しています。
建物被害の一つとして今回の不発弾発見場所の近くにあった福重国民学校(現・福重小学校)の校舎焼失があります。この場所は第21海軍航空廠や海軍航空隊基地からは北方向に離れていますが、付近には米軍機を迎撃するための戦闘機部隊「草薙部隊」(1944年8月新設)や「皆同砲台」もありましたので、福重橋とともに攻撃目標となったかもしれません。福重国民学校が立ち退き移転した跡地の郡川北岸に、1945年5月、福重飛行場が急ごしらえで造られましたので、戦争末期の空襲なら同飛行場が標的となった可能性もあります。
結論としていつ投下された爆弾の不発弾だったのか特定できませんが、大村大空襲のときのものである可能性も排除できないと思います。慰霊祭という形で遺族(ヒト)による記憶の継承の場が開かれなくなっても、このたびの不発弾(モノ)が戦争の歴史を忘れるなというメッセージになったと受け止めています。

『戦争の世紀を読む』読書メモ

佐藤卓己著『戦争の世紀を読む――ナチズムと帝国日本を超えて』(岩波現代文庫、1600円+税、2026年)は、ドイツ現代史からスタートした日本メディア史の研究者による書評集であり、総力戦と国民支配(自発的協力体制づくり)を理解するためのブックガイドと言えます。収録された書評の初出時期は1991-2026年、評者の年齢が30-65歳の期間となります。評者と私は同世代とあって、書評が執筆された時代の雰囲気・体感(異世代との関係性を含む)をよく知るため、心なしか内容がすんなり入って来る感じを持ちました。
ところで、興味深いのは、収録された書評対象本の大部分が、評者自身が選んだのではなくて依頼原稿のために、つまり書評のために読んだという点です。それと、「あとがき」で著者が自身の書評を振り返り「35年間であまり進歩があったようには思えない。ただ、私は人類の進歩など信じない歴史家なので、それは以て瞑すべしなのだろう」と書いていた点が意外でした。私自身もここ35年間で何か進歩があったかと問われれば、自信はありません。それより気になるのは、年齢を重ねるごとに残りの人生は確実に短くなっていくので、できることなら読むに価する本だけに出合いたいという思いが強いです。読んでみないと、つまりある程度無駄読みしないと、その機会が生まれない点も重々承知しています。だからこそ、良き書き手へ誘ってくれる良き読み手の存在は、ありがたい限りです。
以下はメモ情報です。
○オイゲン・コーゴン『SS国家――ドイツ強制収容所のシステム』(ミネルヴァ書房、2001年)……収容所内の特権囚による自主管理システムについて書かれています。「過酷な生存競争の中で誰もが望む利権を手にした特権囚は、自分の地位=生命を守るためにはどこまでも冷酷にならざるを得なかった。収容者の憎悪をナチではなく同じ収容者に向けさせた自主管理システムの恐ろしさは、被差別者がより冷酷な差別者となる現代社会の多くの事例に見ることができる。」(p.60)
○ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学術文庫、1999年)……捕虜銃殺の汚れ仕事を担った親衛隊兵士たちには飲み放題のアルコールが支給されていましたが、精神的負担に耐えられず発狂したり自殺したりする者も多く深刻な問題であったと書かれています。そのため、収容所では精神を荒廃させる行為から親衛隊員が遠ざけられました。「そこでヘスが考え出した悪魔的なシステムが、ガス室や死体焼却炉の作業をまかされたユダヤ人「特別部隊」の利用である。遺品を分類し、死体から金歯を抜き取り、灰を処分した彼らは、秘密保持のため約4か月ごとに用心深く抹殺された。」「ユダヤ人自身に残忍な任務を押しつけることで、犠牲者自身に罪の重荷を移転したのである。自分たちの代わりに非人間的な汚れ仕事を行ってくれる特別部隊に対して、親衛隊はある程度仲間意識さえ感じていた。「仕事」の合間に、親衛隊警備チームとの間でサッカーの試合さえ行われている。」(p.68)
○林芙美子『戦線』(中公文庫、2014年)……本書は、1938年9月19日から10月28日にかけて陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行したときの朝日新聞社発行の従軍記などの復刻版です。林は内閣情報部が組織した「ペン部隊」に自ら望んで参加していましたし、従軍記掲載の契約を交わしていた朝日新聞社が取材に協力していました。1938年当時、東日・大毎(毎日新聞社)の発行部数は285万、東朝・大朝(朝日新聞社)のそれは248万でした。その後、朝日の戦争報道が優り、1941年には部数が毎日を抜いています。「文壇での成功に新聞社を利用した女性作家があり、彼女の野心を部数拡大イベントに利用した新聞社があったというだけだ。その共犯関係は明白である。」(p.186)と評者は記しています。
○山之内靖/J・ヴィクター・コシュマン/成田龍一編『総力戦と現代化』(柏書房、1995年)……「総力戦が格差是正、つまり社会的平準化を必然化させるのは、大衆に戦争への主体的参加を求めるためである。」(p.151)という指摘からは福祉国家の顔はファシズム国家でも覗かせることがあるという歴史が学べる思いがしました。
○若桑みどり『戦争がつくる女性像――第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(ちくま学芸文庫、2000年)……「市川房枝ほか「進歩的」女性指導者たちが、戦時動員を女性の社会参加の機会と信じて、積極的に戦争協力を行った事実も指摘されている。」(p.188)という記述からも国民から協力を引き出す体制づくりの巧妙さを感じます。

『世界』(2026年9月号)読後メモ

○「対談 真の名で呼ぶ 金城美幸×奈倉有理」
若者を軍に入らせやすくするために進めたロシア政府による教育制度の改変について奈倉氏が語っていました。それによると、日本でいう中学校卒業時に、特に成績のすぐれない生徒に対し、高校に進学せずに職業専門学校に入って就職するよう指導する方針がとられるようになったといいます。進学せずに就職すれば徴兵の猶予もなくなります。女性に対しては早く結婚して子どもを産むことが奨励されています。ほかにも地方から都会の大学への進学を制限して、教育の機会を減らし軍隊に入らせやすくしています。大学に進学した学生に対しても、契約兵として前線に誘導する方針がとられているとのことです。
軍隊があり、それを用いる権力があり、容認する社会があって人が殺されていることをもっと可視化すべきだという考えから、トルストイの『殺すなかれ』を紹介していました。
アルジャジーラによると、日本国籍とイスラエル国籍を持ち、イスラエル軍に従軍している人が65人、日本、イスラエルに加え3つ以上の国籍を持ち従軍している人が11人いるそうです。この情報は、金城氏が述べていました。

○武田一義「余白を胸に抱いて『ペリリュー』との10年間」
白泉社から『ペリリュー――楽園のゲルニカ――』の本編11巻、外伝4巻が刊行されているそうです。機会があれば手にしたいと思います。

○中尾知代「天皇オランダ訪問 不可視化されたデモ」
オランダの兵士慰礼塔があるダム広場へ同国訪問中の天皇が来場するということで、アジア・太平洋戦争期のインドネシアにおいて日本軍と戦ったオランダの軍人遺族たちが、サイレント・スタンディングを行う予定でしたが、現地当局はこれを許可しませんでした。代わりに、広場に面するホテルのカフェ内でサイレント・スタンディングが行われました。しかし、その撮影も現地当局は許しませんでした。過去の歴史と今回のデモの実態を双方の国民が知らなければ、和解には近づけないと、筆者の中尾氏は記しています。

○南彰「消された声 「不屈」船長性暴力問題」
悪天候の中、辺野古沖に船を出し、転覆事故により乗船していた高校生と船長の2人が亡くなる事故がありました。この船長は、北海道出身で、南城市の佐敷協会の牧師をしている人物であり、2010年に性暴力事件を起こした人物でもあったそうです。

○酒井朗「インタビュー 不登校35万人「学びの保障」と支援の市場化」
不登校支援の市場化の実態を知って驚きました。通信制高校のサポート校というものがありますが、これを利用するスクーリングを含めた学費は年間100万円前後になるのだそうです。
学習塾が朝から子どもを受け入れるフリースクールをつくりスペースを活用する動きも見られます。フリースクールから系列の通信制高校へ進学させるルートもあるといいます。
地域で学校教育そのものが成り立たないというのも十分あり得るため、オンラインでの学びが標準化・常態化すると、酒井氏はみています。

○荻上チキ「「学校に行かなくていいの」の、その先で」
不登校を選べなかった子どもだった荻上氏が、不登校児童の親になる体験を書いています。

○高坂康雅「不適応ではなく生存戦略 不登校でも人生は詰まない」
このタイトルのとおりです。

伊万里散策

先週末は国スポの九州ブロック大会で鹿児島県へ行きました。熊本地震のため九州の真ん中を通る交通が寸断され、鹿児島県の観光業が打撃を受けていると報道されていました。
そして今週は、佐賀県で開かれた日韓中ジュニア交流大会に参加しました。宿泊先が伊万里市内だったので、1時間ほど街中を散策して古伊万里などを鑑賞しました。

『砕かれた神』読後メモ

『砕かれた神 ある復員兵の手記』(角川新書、1200円+税、2026年)の著者が渡辺清氏(1925-1981年)と知り、今夏手に取りました。同氏の著作との出会いは実に半世紀ぶりとなります。中学2年のときに中学校の図書室から借りて読んだ『海の城 海軍少年兵の手記』に、たいへん衝撃を受けた覚えがあります。『海の城』の舞台は、少年兵であった渡辺氏が実際に乗艦していた日本海軍の巨大戦艦「武蔵」。艦内での精神混入棒を用いたしごきにより、同年兵が亡くなる事件も描かれていました。敵軍との交戦だけでなく味方の上官の手によっても命を失うことがある軍隊という組織の歪さを知ることができました。著者自身の戦中の記憶が『海の城』であり、敗戦直後の20歳前後の記憶が『砕かれた神』となっています。戦後、著者の心の中で砕け散ったものは現人神であった天皇だけでなく、戦中までは沈黙していた学者であったり、権力に阿った言動を続けていた学校教師や地域の名士だったりが含まれます。少年兵たちは復員後、戦後にやすやすと手のひらを返した醜い大人の姿を知るのです。巻末の小熊英二氏による解説がいいです。

富山大空襲

富山県はまだ訪ねたことのない土地の一つです。それもあって1945年8月2日の富山大空襲の歴史や富山市が不二越という工作機械メーカーの企業城下町であることも、昨夜開催の第50回空襲オンライン学習会での報告を視聴するまでは知らずにいました。この空襲は、米軍の報告書によると、作戦目標エリア内の焼失率が99.5%と他の都市と比べても格段に高い攻撃を受け、徹底的に焼き尽くされたことがわかっています。死者数は2700人超とされます。しかも、その目標エリアというのが、県都であり住宅が多く占める地域であり、近接する陸軍施設や不二越は逆にエリア外とされ、実際、不二越は被害を免れました。
報告者は、北日本新聞を定年退職後に立教大学大学院で学ぶ鶴木義直氏です。もともとは地方自治を研究したくて大学院に進まれたのですが、ジェノサイド研究の教授からの勧めと新聞社時代に富山大空襲を研究している地元歴史家との出会いがあったことから、研究テーマを変更し、論文作成にかかっているとのことでした。「なぜ富山は徹底的に焼き尽くされたのか」「大惨事の記憶はなぜ継承されなかったのか(公共財化の動きは戦後30年近く経ってから)」を課題に準備を進めていると報告がありました。
※富山市公式ウェブサイト「未来に語り継ぐ富山大空襲の記録」
https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu/
※総務省ウェブサイト「国内各都市の戦災の状況」へは富山市から掲載がありません。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/index.html#shinetsu
報告を聞きながら意外に感じたのは、当時ベアリング製造にあたっていた不二越がなぜ作戦目標エリアから外されたかということでした。米軍側からすると、この時期には、工業生産設備を叩かずとも勝敗が決していたので、むしろ戦後の活用を見据えてあえて温存させたのではないかとさえ思わせます。
上岡伸雄著『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書、2025年)を参照すると、ルメイがワシントンからの指令で、満州の鉄鋼産業を標的にするのやめ、台湾と日本本土の軍需産業を標的にするようになったのは、1944年10月からです。出撃基地もインド(成都経由)からマリアナ諸島に変わっていきます。第1目標は軍事施設(軍需会社を含む)としながら、第2目標は市街地に設定され、そちらを爆撃することもありました。武器製造を支える小型部品の工場が住宅地の至るところにあるので、そういう場所を叩くためには住宅密集地への攻撃もやむなしと航空軍の上層部は考えていました。
1945年3月の、無差別爆撃といえる東京大空襲を前にルメイは、「民間人にある程度の死傷者を出すことなく戦争に勝つことはできない。(……)我々が戦争を始めたのではないのだし、早く戦争を終わらせれば終わらせるほど、たくさんの命を救うことになる――アメリカ人の命だけではない。できることなら民間人の殺害は避けたいが、これは頭に入れておいてくれ。兵器を製造する日本人の労働者も彼らの軍事機構の一部だ。私の第一の義務は、我々のクルーの命をできる限りたくさん守り、救うことなのだ」と語っています。この時期は東京、名古屋、大阪、神戸と大都市が中心で、焼夷弾が尽きて半月あまり空爆を休止してしまうほどでした。その間、機雷投下のミッションを行っています。空爆再開後、1945年6月中旬までに東京の150平方キロ、名古屋の32平方キロ、神戸の23平方キロ、大阪の40平方キロ、横浜の23平方キロ、川崎の9平方キロが炎上しました。
この時期、まだ米陸軍の一部であった航空軍は、まだ残っている中小の工業都市への空爆によって、日本本土侵攻前に日本を降伏に追いこめば、航空軍が戦勝に最大の貢献をしたことになり、空軍独立の悲願を果たせるのではないかと考えていました。7月の終わりには原爆がテニアン島に届く予定でしたが、原爆は陸軍の仕事であり、航空軍はその運び屋にすぎないとされたことから、航空軍としては原爆なしでも自分たちの手で戦争を終わらせたという実績を求めていたという見方もあります。それで、ルメイは標的を中小の都市に向け、7月終わりまでに60の都市を破壊していきました。
1945年7月20日、富山市内3カ所に模擬原爆が投下されています。7月26日、原爆がテニアン島に運びこまれ、ワシントンから航空軍へ8月3日以降に原爆投下の指令が届きました。ルメイは原爆と競い合うように中都市への爆撃を進めました。7月31日に富山市へ空襲警告ビラ(伝単)が撒布されます。8月1日から2日にかけては陸軍航空軍の第38回目の創立記念日に合わせて特段に激しい空襲が企画され、富山はこの作戦で八王子、長岡、水戸とともに爆撃されています。死者は合わせて約5千人に上りました。
葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像』(石風社、2026年)などによると、1944年1月に共に軍需会社に指定された化学産業である日窒水俣工場(防諜名:熊第7042工場)は同年3~8月に7回(最大規模は7月31日、26人死亡)、同延岡工場(現旭化成)は同年3月と6月、昭和電工川崎工場は同年4月に空襲を受けています。これら化学工場では爆薬原料の製造を行っていましたので攻撃目標となったのは頷けます。他の都市でも航空機製造拠点は早い時期から攻撃を受けています。それだけに富山の不二越がなぜ目標から外されたのかは興味あるテーマです。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_07.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_09.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

『水俣病が描く近代日本の自画像』読書メモ

葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。

88年前の伝単

昨日参加した「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」のおりに講話した高谷和生さんが、1938年5月20日に熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消した中国空軍2機による伝単20万枚の撒布について触れていました。これを、日本側では初空襲と捉えましたが、その作戦の実行を命じた蔣介石は、当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待していたため、「人道飛行」と名付けています。撒布された伝単の内容は、4種類の反戦ビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類の反戦パンフレット(「日本人民に告ぐ」)となっています。内容が内容だけに、伝単は官憲によって回収されたため、現存されているものはほとんどないとされてきました。
ところが、今年3月19日の熊本日日新聞によると、水上村で農業を営みながら、ロシアの文豪トルストイの翻訳を手がけた湯前町出身の故北御門二郎氏(1913~2004年)の遺品から、「日本人民に告ぐ」の伝単が発見され、遺族から熊本県立図書館へ寄贈されたという報道がありました。
https://kumanichi.com/articles/1970572
トルストイの研究家である北御門二郎氏は、良心的兵役拒否を貫いた人としても知られています。人道飛行があった1938年は、国家総動員法が公布(4/1)・施行(5/5)された年でもあり、北御門氏が徴兵拒否の意思を固めたきっかけにもなっています。東京帝国大学文学部英吉利文学科に在学中の同氏は、徴兵検査を受けるべき同年4月21日の前日に失踪し、父が警察で訊問を受けたり、消防団による山狩りが行われたりしています。翌日に、形の上では、出頭を催促されて母とともに出向いた徴兵検査の場で、北御門が徴兵忌避の申し立てを言い切るよりも先に、精神を病む者と「判定」されて、検査をまぬかれたことになっているようです。ともかく、検査を受けて結果的に兵役免除となりました。同年に大学を中退、球磨郡水上村で就農します。日本初空襲=人道飛行があった1938年5月20日には熊本へ帰っていたとすれば、本人が自ら伝単を手に入れ秘匿していた可能性があると思われます。
北御門二郎氏の名前を最初に知ったのは約50年前の高校時代のときでした。高1時の担任である美術教師の坂田燦先生が同氏と交流があり、トルストイの翻訳作品に版画を併載した版画集(『二老人』1978年。その後も『火の不始末は大火のもと』1980年、『愛ある所に神有り』1981年、『人には沢山の土地がいるか』1982年、『作男エメリヤンと空太鼓』1992年と続く)の共同出版をされていました。
熊本県立美術館でも要職に就かれていた坂田燦先生は、現在89歳。今も年賀状でいただく版画作品が楽しみです。写真は2026年のもの。

番外:日本で初めて伝単が登場したのは、九州で起きた藤原広嗣の乱(740年)
官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けたのが始まりと考えられています。

熊本空襲を語り継ぐ集い

平和憲法を活かす熊本県民の会が主催する「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」に今年も参加しました。1945年7月1日の第1回熊本大空襲の際に本荘国民学校(現・本荘小学校)3年、8歳の少年だった寺本さんの証言を、いつも子どもたち向けに語るときに使っているという紙芝居仕立てで聴いてきました。その内容については取材に来ていた地元民放TV局のキー局サイトに載っていましたので、紹介します。
https://news.ntv.co.jp/category/society/kkc1f05e115a344c56a713d0e2855eeb34
この証言の前に、集いの代表幹事である高谷和生さんから、熊本大空襲に先んじて1945年の3月・5月から陸軍健軍飛行場と爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工業熊本航空機製作所へ空襲があったのは、米軍側が出撃基地と兵器工場を叩くことを優先していたからと解説がありました。同年7月の熊本大空襲の米軍の攻撃目標は健軍へ送られる部品工場がある南熊本周辺でしたが、実際の攻撃では東側にずれたと見立てていました。
三菱重工業熊本航空機製作所があった場所は、現在陸自の健軍駐屯地であり、今年長射程ミサイル部隊が配備されています。先の大戦当時も現代も有事となれば、直接の脅威をもたらす敵の出撃基地を相手側がまず無力化しようというのは当然です。それがために、指揮所や装備・弾薬がある健軍駐屯地の地下施設化が進められようとしています。一方、駐屯地が狙われるということは、周辺の住民・民間施設も危険に晒されます。まさに81年前のような被災に遭わないと断言はできないと考えます。
ところで、昨年12月にはFIFAの会長が、トランプ氏に「FIFA平和賞」なるものを贈ったことがありました。その後、イラン攻撃で多くの無辜の子どもたちが殺されたのですが、W杯に浮かれる人たちからFIFAへ平和賞を取り消せという声は聞こえてきません。そんなこともあって今回のW杯放送はまったく見る気になれませんでした。
この集いに参加する前には、2つの美術展会場を訪ねて心穏やかな時間を過ごせました。
6/15-7/31「フェルメール蘇る全37リ・クリエイト作品展」(肥後の里山ギャラリー)…元勤務先の前社長が熊大薬学部へ寄贈したリ・クリエイト絵画展。
6/23-7/4「大和淳子」(画廊喫茶オアシス)…中高時代の同級生の初個展。

動画よりも紙面

辻田真佐憲氏が『文藝春秋』(2026年7月号)に連載中の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」の要約が動画で紹介されています。
動画では対談形式なので、相手からの話の振り方によって紙面では扱いがないエピソード(石牟礼道子の『苦界浄土』で記述される水俣の人の語りはノンフィクションか創作か。渡辺京二の解説をめぐって)へ飛ぶエンタメ性がある一方、文字数換算では圧倒的に紙面記事の情報量に劣るので、やはり原稿を読むべしと感じた次第です。
動画はある分野の知識を得るきっかけにはなりますが、知識事実を体系的に追い理解するには、やはり文字にはかないません。この動画の内容を別に過小評価しているわけではありません。内容的には水準が高いですし、動画の役割を認めた上で、読書が知の向上、ひいては社会の発展に寄与するという思いを強くしました。
https://youtu.be/7_oafo1eA7k?si=RG6ZAZAGTf3g8StX

戦争、エネルギー、チッソ

歴史や社会の実相に対する目配りの鋭さをその発言から感じる若手の研究者の名を挙げるなら、私なら斎藤幸平氏と辻田真佐憲氏をまず思い浮かべます。2人には水俣病という公害事件を招いた歴史や社会構造にかなり注目している共通点があります。
その辻田氏が自身の動画チャンネル「辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ」(2026年6月14日配信)の冒頭15分過ぎまでにおいて、『文藝春秋』(2026年7月号)に同氏が連載の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」や相思社職員として水俣にて現地ガイドの経験を有する葛西伸夫氏の著書『水俣病が描く近代日本の自画像 新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2026年)を取り上げていました。そこで、戦争、エネルギー、チッソの関わりを語っていました。水俣病という事件を患者被害者に対する人権蹂躙や環境汚染の問題としてだけでなく、それをもたらしたもっと国策的な背景についても学ぶべきではと感じます。その素材としてチッソの歴史からさまざまな視座を得られると思います。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h12222?ref=innerLink
https://sekifusha.com/13046
https://www.youtube.com/live/Zm7mLEoCQC4?si=OaCpqPDXYmzQWxQe

工大の煉瓦門

戦後に開学した大学のキャンパスの敷地がもともとは軍用地だった歴史を持つ例をよく聞きます。熊本で言えば、熊本学園大学には陸軍歩兵第十三聯隊正門や食堂・酒保所跡(現・大学第二体育館)が現存しています。先日立ち寄った千葉工業大学津田沼キャンパスの通用門は、かつてその地にあった陸軍鉄道第二聯隊兵舎の表門として使用されていたものです。「工大の煉瓦門」として親しまれていますが、正真正銘の戦争遺産です。ちなみに同キャンパス3号館にある学食は外部の人も100円の食堂利用券を付加して食券を買えば利用できます。JR津田沼駅からほど近い場所にあります。

「國學院大學博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムの場合、入館料無料で日曜休館の施設が多いのですが、渋谷にある國學院大學博物館は月曜が休館なので、一般のミュージアムとハシゴ観覧しやすい施設です。ですが、日曜だとキャンパス内にある3カ所の学食がすべて休みなのでランチを楽しむことはできません。今回訪れたのは6月に入っての最初の日曜日にあたり、新卒採用シーズンでしたので休日にもかかわらずビジネススーツ姿の学生をかなり見かけました。同館へは渋谷駅からも恵比寿駅からも徒歩で迎えますが、それぞれの駅からバスも頻繁に出てますので、楽に行けました。
https://museum.kokugakuin.ac.jp/
博物館入口の前庭には同地周辺(東渋谷台地)の歴史の解説が表示されていて、朝鮮王族の李鍵公・李鍝公邸や朝鮮人女学生寮の鴻嬉寮などがあったとありました。(1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李鍝公は、原子爆弾に被爆しています。同日、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)によって救助されますが、翌日死去しています。広島の平和公園内に建つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文にもその名が刻まれています。)
同館の常設展示は、考古・神道・校史の3つの部門からなっていました。大学の設立母体は皇典講究所ということでコレクションも皇族由来や神道関連が多くを占める印象を受けました。ただ、学問としてこの分野を研究するとなると、科学的検証も必要なわけで皇国史観とここではどう折り合いをつけているのか、モヤモヤ感も覚えました。
もっとも、今回の狙いは開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」でした。2002年日韓W杯の際に熊本をキャンプ地に選んだベルギーのサッカー代表チームの愛称が「赤い悪魔」なので、勝手に赤のイメージを強く持っていましたが、同国の漢字当て字は「白耳義」、そのため白と略されます。ちょっとしたことですが、情報一つでイメージがずいぶん変わるものだなと思いました。先入観なしにふらりと博物館を巡ってみるのもいいもので、大日本帝国憲法のモデルはプロイセン憲法とばかり思っていましたが、起草者である熊本出身の井上毅は、プロイセン憲法のモデルであるベルギー憲法にも学んでいたことも知りました。その展示資料は、國學院大學図書館が収蔵する、井上毅が所有していた文書・図書からなる「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は、井上毅の号)によるものでした。同文庫の成り立ちは、1957年に井上毅の継嗣・井上匡四郎氏(工学博士・第一次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣)の篤志によって國學院大學に永久寄託され、その後、58年に寄贈へと切り替えられことにあるそうです。ベルギーと熊本の縁に寄せてその日はデザートに白熊を食べてみました。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/299808

「赤羽」訪問メモ

「URまちとくらしのミュージアム」の見学ツアー参加のため、先日、東京都北区の赤羽界隈も少し散策してみました。1980年代前半の時期、私は赤羽台で暮らした経験があるので、久々に見る風景は一変していましたが、かつては軍用地が広がっていた場所でもあり、その痕跡を確認することもできます。
以下は写真メモです。
・1番街…昔は赤羽駅東口から今は北口から出るとアクセスできる駅前商店街です。昔はさまざまな業態の店舗がありましたが、今はすっかり「せんべろ」の街となってしまいました。通りも広くずいぶんと小ぎれいになっていました。昔は通り入口の下ではよく歌手の営業があり、研ナオコを見たことがあります。親知らずの歯4本中3本を抜いてもらった腕のいい歯科医院が入口に面した通り沿いにありましたが、それもどこかに移ったのかもしれません。
https://www.1bangai.org/
・うつり坂…鉄道線から陸軍被服本廠へ通じる登り坂。
・遺構レンガ…旧赤羽台団地のスターハウス近くにある、被服本廠の建物のレンガ。
・東洋大学赤羽台キャンパス…赤羽駅の西側の赤羽台にあります。2023年完成ということで、私が暮らしていた頃には当然ありませんでした。https://www.toyo.ac.jp/nyushi/about/campus/akabanedai/
・前田建設のクレーン…赤羽台一帯では今も再開発が進んでいました。550戸の共同住宅を建設中です。八代市からの指名停止があってもビクともしない建設会社の姿がありました。
・赤羽台東小学校の門柱…今は廃校になってしまいましたが、この学校も赤羽台団地の敷地内です。現在は更地ですが、北区児童相談所が近く着工のようです。設計は隈研吾事務所とありました。むき出しの木を使うのか気になります。
・師団坂…旧陸軍の第一師団工兵大隊と近衛師団工兵大隊に向かう坂道。第一師団工兵大隊兵営跡は星美学園の敷地となっています。
・赤羽八幡神社…神社が丘の上にあるので見晴らしが良く、その敷地から東北新幹線、東北本線、埼京線などの通過車両を見ることができます。日露戦役紀念碑が建っています。陸軍被服本廠へ通じる貨物線路もかつてはあった場所です。
https://ak8mans.com/
・赤羽駅西口のケバブ店…一駅北は埼玉県川口市。赤羽でもケバブが食べられるんだなと思いました。いつか買い求めてみたいものです。総じて西口側の激変ぶりがすごかったです。大型店舗が立ち並んでいました。45年前に最初に西口に降り立ったときはパチンコ店のチンドン屋が練り歩いていたのですが、その面影は微塵もありません。

「URまちとくらしのミュージアム」訪問メモ

国立歴史民俗博物館の「第6展示室(現代)」の解説パンフレット表紙には、東京都北区の赤羽台団地を空撮した写真が載っています。同団地は、日本住宅公団(現・UR)によって1959年から建設が始められ、1962年から入居が開始されました。当時、東京23区内では最大規模の3373戸を擁する「マンモス団地」として呼ばれました。もともとは被服本廠があった軍用地だったのですが、その広大な跡地には団地のほかにも3つの小中学校や公園、消防署、商店街などが設置され、高度経済成長の時代を象徴する最先端の生活の場所となりました。つまり、戦後復興の光の部分を代表する風景として表紙写真に採用されたのだと思いますし、その関連展示パネルも室内にありました。
1980年代前半の時期、団地内ではありませんが、私はこの赤羽台に住んでいました。そのため、個人的にも思い出深い街です。現在同団地は再開発され一部の建造物が残されているとともに、URまちとくらしのミュージアムが2023年に開館して集合住宅の歴史を伝えています。旧赤羽台団地の「41号棟(板状階段室型)」と「42,43,44号棟(スターハウス)」の外観は無料でいつでも見学できますが、同潤会代官山アパートや日本住宅公団黎明期の蓮根団地や晴海高層アパート、多摩平団地テラスハウスといった復元住戸を含むミュージアム棟は、事前予約制の90分間ツアー形式での無料見学となっています。
https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/
水・日・祝日が休館で、ツアーは1日3回組まれています。私が参加したときは、1組15人程度で年齢層は中高年が大部分でした。外国人観光客と思われる参加者もいました。1979年に欧米から日本の住宅の狭さを「ウサギ小屋」と揶揄されたのが、中高年層の頭の片隅には残っていると思いますが、実際に高度経済成長期の住宅のしつらえに接してみると、生活の温かさが感じられたり、将来への希望が持てた時代の明るさがよみがえってきたりします。
以下はツアーで得たマメ知識。ガイドは若い女性でしたが、解説はよどみなく、時間管理や見学者捌きもテキパキしていて仕事ができるなと感じました。
・同潤会代官山アパート時代の電気料金は使用量ではなく設置する電球数で決められていた。トイレには照明具を付けなかった。部屋番号は建物全体の通し番号で振っていた。たとえば148号室でも5階に所在。高い部屋の外壁には縄梯子を架けられるフックがあった。
・公団初期の蓮根団地の流し台は石製。一戸ごとに職人の手作りだった。風呂桶も木製。
・前川國男設計の晴海高層アパートにはエレベーターが設置されたが、着床する階が3階ごととなっており、階によってはアクセスが悪かった。各階廊下に共通電話があり着信を交換手が各戸へ知らせ受信をしらせるボタン設備が各戸にあった。流し台はステンレス製。トイレも洋式。
・昭和30年代の郊外の団地には専用庭のある長屋建てのテラスハウスと呼ばれる低層集合住宅が多く建設された。
※この赤羽周辺には戦跡や鉄道見物スポットもあるので、別に投稿します。

『継体天皇』読書メモ

河内春人著『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書、1000円+税、2026年)は、①継体天皇の即位が可能となった歴史的前提、②その治世をめぐる国際関係、③その死後の世襲王権の成立について論考された著作となっています。今日の皇位継承資格の論議にあたって大いに参考にしてみると面白い本だなと感じました。それと、私が在住する宇土とのゆかりもあります。
『国史大辞典』によれば、継体天皇とは、生没450-531年、在位507-531年、応神天皇の五世の孫と伝えられ越前(今の福井県)から迎えられた人物です。ただし、存命中は「オホト大王」だった、当人からすれば、「継体天皇って誰?」ということになります。「継体」とは8世紀半ばに淡海三船が歴代の天皇を漢字二文字で名付けた漢風諡号ですし、「天皇」も7世紀に成立した称号です。
なお、評価が定まらない天皇であるため、現行の歴史教科書で取り上げず教えない方向にもあるようです。確かに明治憲法の時代では、以下のようなことがありました。たとえば、喜田貞吉(1871-1939)は、「明治時代の終わりに文部省で国定教科書の編修に従事したが、1911年に南北朝正閏問題で責任を取って退官した。」(p.206)、「当時は古代史といえども天皇家の万世一系に異を唱える研究はタブーだった。1930年代になると皇国史観が世を覆い、天皇に関わる研究自体が低迷する。」(p.207)という具合です。したがって、研究や教育に対する時の権力の不当な介入(逆に受ける側の阿りにも)には敏感でありたいと考えます。
継体天皇ことオホト大王が王位継承する前世紀(5世紀)の倭王権は、中国王朝(宋)からの冊封体制にありました。古市集団(讃・珍)や百舌鳥集団(済・興・武)といった複数の王族集団のなかから適任者が大王即位後に宋へ遺使し倭国王に任命(唯一の例外が世子を名乗って要請した興)されていました。中国皇帝からの承認は即位した事実を補強するための手続きでした。また、新たな大王は他の豪族たちからの支持取り付けのため、豪族たちへの将軍号の授与を中国王朝に要請しました。
ところが、5世紀末に宋から南斉へ王朝が変わり、それが王朝簒奪した反乱に映った倭王権は外交関係を持つことを躊躇し479年を最後に中国への遺使を取りやめます。それまで大王を出したことがなかった王族である北陸集団から即位した継体天皇は、中国王朝という外部からの権威付けが得られないこともあって、仁徳天皇を出した古市集団の女性王族である手白香王女との婚姻によって即位の正当性を補強します。皇后の手白香王女は武烈天皇の妹とされますが、その武烈天皇については虚構と本書では見ています。たとえば、『日本書紀』は、それが完成した律令国家の時代に「かくあるべし」と設定した、きわめて作為的な編纂が行われていて、5世紀以前の記述は史実としてほぼ信用できないと著者は指摘しています。漢籍を下敷きにして武烈天皇の暴虐記事がありますし、血統よりは賢者であることを重く記した書物(北畠親房『神皇正統記』1343年)もあります。ちなみに、律令国家時代の「継嗣令」では皇位継承資格があるのは五世孫までとされていました。
在位中は朝鮮半島との外交失政や磐井の乱などが起きていますが、磐井の勢力基盤である八女集団も継体天皇の即位については支持していたと考えられています。その根拠の一つが現在の熊本県宇土市(当時は八女集団の勢力下)から産出する馬門ピンク石の存在です。この石は5世紀後半頃から畿内へ提供されていて、6世紀前半では最大の前方後円墳(墳丘の長さは190mに及ぶ)であり、継体天皇の真陵と推定される今城塚古墳(現在の大阪府高槻市に所在)の石棺の材質として用いられています。