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上野三碑と渡来人

2025年度くまもと文学・歴史館館長佐藤信連続講演会「地域と交流の古代史」の1回目「上野三碑と渡来人」を6月14日、受講しました。上野三碑とは、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録された、特別史跡の山上碑(681年)および古墳、多胡碑(711年)、金井沢碑(726年)からなり、いずれも群馬県高崎市に位置しています。
今回の講演を聴いて現在の群馬県にあたる上野(読みは「こうずけ」)地域が、7-8世紀の時代に異国人を排除することなく迎え入れた渡来人と密接な関係があり、仏教・漢字文化や建築・繊維その他の先端技術を受容して東アジアと交流してきた開明的な社会であったことを学べ、大いに刺激を受けました。高崎市では無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」を運行しているとのことですから、機会があればぜひ訪ねてみたいと思います。
上野三碑の存在については私も不勉強でしたが、その価値が日本で再発見されたのは、明治時代になってからなのだそうです。近世に、朝鮮通信使が多胡碑拓本を持ち帰って中国清に伝え、清の書家により楷書の手本として評価されていました。それが、明治時代になってから、清の外交官より日本の書家へ多胡碑の存在が教示されて、日本側で注目されるようになったということでした。
講師の佐藤館長は文化庁勤務歴もあるため、文化財保護行政についても詳しく、史跡がある自治体へは1件あたり240万円の交付金があると明かしていました。交付の趣旨は史跡保存のためということですが、地方財政にとっては歓迎なので、1991年から2003年まで群馬県知事を務めた小寺知事の時代は、本人が文化財を大切にする人物だったので、県民の協力も得て史跡を増やすことに奔走した逸話を紹介していました。
さらに、この講演を聴いて次のことも思い浮かべました。高崎市といえば県立公園「群馬の森」があり、2025年1月29日に朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去した知事がいます。このような人物だと、戦争遺跡を史跡として保存しようという意識は到底望めないだろうなと思いました。知事次第で歴史的価値評価や財政の目の付け所に差が出てくるものだなと感じます。
ところで最近は中国関連の情報に関心を持ちます(写真画像の書籍は近頃読んだものです)。中国のことは中国発の情報ではなかなかうかがい知れなくなっていると感じます。そうなってくると、時代を越えて見たり、関係先を通じて見たりすることが必要になります。中国の国土は広大ですが、国民の多くが住むのは沿岸部であり、食料やエネルギー、物流は近隣に多くを頼っています。より遠隔地との海上ルートが封鎖されれば、たちまち行き詰まってしまうのは目に見えています。したがって、いたずらに脅威論を唱えるのは現実的ではないし、崩壊の危機に怯えているのは中国自身かもしれません。

第三十七師団戦記読書メモ

4月に神田古書店街の文華堂書店で手に入れた、いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』(以下、上巻と称す)『夕日は赤しメナム河』(以下、下巻と称す)は、旧日本陸軍の実相を知るうえで貴重な史料だと思います(熊本県立図書館にもあります)。著者自身が1939-1943年の間、師団の戦列に加わっていた体験者でしたし、戦後、防衛研修所戦史部勤務の環境にあったため、師団が記録した各作戦の戦闘詳報に接することが容易でした。この詳報は戦後の1946年1月9日、進駐米軍に、他の陸軍史料とともに一括押収されて米本国へ渡り、ワシントンの国立公文書館に眠っていましたが、1958年4月10日、日本へ返還され未整理のまま、戦史部史料庫に収納されていたものです(下巻p.290)。加えて、出版した時期は戦後30年頃、生還者の回想証言も収集可能でした。史料と記憶証言が比較的充実したなかで出版されたのは幸いでした。
以下に本書で知った興味深い情報のメモを記します。

・日中戦争(支那事変)の発端となった蘆溝橋事件の発生は1937年7月7日。この当時の中国軍の兵力は184師・約130万名、極東ソ連軍は28個師団・約56万名いた。日本軍兵士の約90%近くは予・後備役兵であり、現役兵力が枯渇していた。そのため1939年、新たに10個師団、15個旅団等、約22万名の兵力が臨時編成された。そのひとつが第三十七師団。1939年2月に久留米で編成され、同年5月に山西省晉南(しんなん)に進駐した。当初は山地戦に不向きな編成だったため、1940年8月までに逐次改編された。輓馬→駄馬。野砲→山砲。

・第三十七師団の「七」は「しち」と読む。同師団の兵団文字符は「冬」。「作戦」とは、通常、戦略単位(師団)以上の兵団の某期間にわたる対敵行動の総称。

・一号作戦構想時の支那派遣軍の兵力は、25個師団、12個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団、1香港防衛隊で、人員約64万4000名・馬匹約13万頭。このうちの約79%にあたる14個師団、6個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団等、合わせて人員約51万名・馬匹約13万頭・戦車装甲車794両・火砲1551門・航空機154機・自動車1万5550両を、同作戦兵力とした。一号作戦の役割は、あくまでも太平洋戦域の主作戦の、背後を固める大陸での支作戦、対米持久戦の一環だった。一号作戦から第三十七師団の秘匿符号は「光」となった。

・軍馬の入隊は騸(せん)を標準とし、やむを得ないときに限り、牝(ひん)で代用していた。騸とは明け三歳の牡(ぼ)の去勢したもの(上巻p.174)。まれに去勢の時点で陰睾のため睾丸の片方が腹腔内に隠れて切除を免れた馬力絶倫の軍馬がいた。片睾の武こと武久号。

・蒋介石が率いる中国軍には日本軍の捕虜や兵器を捕獲した場合に懸賞金を与える定め「修正俘虜及戦利品処理弁法」があり、品目によっては中国軍将兵の給与(例:師団長180元)よりも高かった。暗号電報符号簿5万元、官兵の番号認識票1個500元。

・南進前に第三十七師団が駐屯していた山西省運城の警察署長は関鉄忱という元騎兵大佐で、漢代の英雄、関羽五十九代の後裔と伝えられていた(上巻p.268)。当時発行されていた中国聯合準備銀行券の十円札に印刷されていた関羽像と風貌が似ていた。

・華北の鉄・石炭・綿花・塩・小麦を日本国内へ還送するのが日本軍の任務だったが、広大な土地と中国人民の大海の中では、面ではなく点を占拠することしかできなかった。華南ではタングステンが垂涎の軍需資源だった。

・中国軍(蒋介石軍事委員長)による日本軍に対する観察と対策(1940年)。
【日本軍の長所】 → 【中国軍の対策】
快:軍用巧妙、動けば脱兎の如し。 → 穏:沈着固守で当れ。
硬:戦闘力と精神が堅強なり。 → 靭:持続性堅忍性ある戦闘で当れ。
鋭:錐の如く突進し勇猛果敢なり。 → 伏:伏兵をもって、不意を突くべし。
【日本軍の短所】 → 【中国軍の対策】
小:兵力寡小、部隊大ならず。 → 衆:要点に兵力を集中する「専」。
短:速戦即決にあり。 → 久:消耗持久戦。
浅:敢て深入りせず300キロ以内。 → 深:縦深配備をもって迎えよ。
虚:後方に空虚多し。 → 実:虚隙を奇襲せよ。

・戦時糧秣の加給品。清酒1人1回の定量は0.4L(約2合2勺)=飯盒のフタ約1杯分。駄馬1頭当たりの駄載重量80キログラム。

・上巻p.468に偵察機から師団戦闘司令所へ落とされた通信筒についての記載がある。筆者らが斥候任務にあたっていた際に、地上から友軍の偵察機へ敵軍の集結状況を知らせるために、通信紙や枯れ草を燃やしてみたものの煙が細いために、斥候の騎兵分隊員の褌を外させて燃やし白煙を上げさせた逸話も載っている。

・上巻p.489においては、陸軍上層部の治安戦略の欠如を指摘している。筆者は「以漢治漢」でなかったこと、吃飯(チイファン)対策が疎かで民心収攬に実効が上がらなかったとしている。

・アルカリ土壌である山西省は馬の飼料牧草として栄養価が高い「ルーサン」(和名「苜蓿うまごやし」)が特産だった(上巻p.504)。蹄鉄を装着するために使用する蹄釘(ていちょう)は、スウェーデン製が硬くて粘りがあり良質であり落鉄することがなかったが、日中戦争開戦後は輸入できなくなった(上巻p.55)。スウェーデンでは制作方法は極秘とされ工場見学できなかったが、1935年ごろから陸軍で良質の蹄鉄を国産化(大阪・狭山と立川)できるようになった。

・1943年6月に捕虜となった当時7歳の中国人男児。師団将兵と南下作戦に随行し、タイで終戦を迎えた。面倒を見ていた加地正隆軍医中尉が熊本へ連れ帰り養育し、1969年「光 俊明」として帰化した。

・1944年4月22日に起きた第二十七師団の一大凍傷事故について下巻p.110で触れられていた。第二十七師団の徴募区は東京付近で、当時は一号作戦に組み込まれていた。この事故は、後年一橋大学教授となる藤原彰氏の著書でも触れられている。大黄河甲橋に向かい、約100キロの道中を行軍中に豪雨に遭い、膝を没する泥濘(ぬかるみ)の中で、立ち往生し、数十名の兵が凍死し、多くの軍馬が斃れている。約2000名の将兵が凍傷にかかった。

・第二十七師団の凍死者を出した記述は下巻p.306にもあり、166名とある。期日は1944年5月14日夜とある。驢(ろば)や牛は多く死んだが、馬だけは死ななかった。馬を捨てて逃げられない山砲隊・歩兵砲隊・大行李の馭(ぎょ)兵の損害が多かった。

・師団司令部の戦時作戦用の携行品について下巻p.125で触れられている。すべての装備を自動貨車で携行するには約20両を要した。機密書類と戦時公用行李について抜粋すると以下の通りとなる。
機密書類 戦時諸法規・野戦諸勤務令等一式で102冊のほか、下記を保有。前述の藤原彰氏は戦死比率が最も高い陸士55期卒だが、以前は履修科目であった戦時諸法規を学ぶ将校養成教育を受けなかったと、著書で記していた。
参謀部 作戦計画・同命令・編制表・兵器表・情報・人馬弾薬の補充計画運用・地図・秘密保全・通信計画運用・機密作戦日誌等。
副官部 司令部関係の戦時名簿・師団の人馬現員表・同死傷表・功績・将兵の人事・人馬補充事務・司令部物件補給・俘虜戦利品・陣中日誌・事務用品等。
各部 師団全般に関する各部主管業務の計画・補給・運用等書類。
戦時公用行李 乙 機密書類用で、規格は、高さ23.5cm×幅32cm×長さ66cmの防錆鍍金の錠つき金属製。参謀部11・副官部5・兵器部6・経理部17・軍医部5・獣医部5・師団司令部合計49個。 甲 金櫃(きんき)用で、規格は乙と同じであるが、錠は、内外各2個つき、物資調達用の聯銀券(華北)・儲備(ちょび)券(華中・華南)・金銭糧秣被服関係の証票書類を収納。経理部20個。

・行軍について下巻p.155で触れられている。敵との接触が多い場合を戦備行軍といい、日々の行程が多く休憩が少なく昼夜連続となる行軍を強行軍、短時間に目的地へ到着するために速度を増し休憩を減らす行軍を急行軍と言う。敵との接触が少ない場合を旅次行軍と言う。10~15分休憩を含む標準の行軍速度は歩兵中隊で時速4キロとされた。1日の行程は諸兵連合の大部隊で約24キロとされた。敵軍の航空機(米軍P-51ムスタング)からの攻撃や夏季炎熱を避けるため夜行軍を行うことが多かった。

・馬匹の負担量について下巻p.234で触れられている。乗馬の場合は馬体重の約4分の1以内、駄馬の場合は約3分の1以内を適当とし、輓曳(ばんえい)量は約4分の3以内を限度とされた。日本馬の馬体重平均は約470キロ、大陸馬は平均約270キロ以下だった。強行軍による過労や栄養不良、馬蹄の摩耗欠損などが多発し、使役不能となる馬匹も多かった。

・糧秣不足について下巻p.259で触れられている。糧食の1日基本定量は次のとおり。人糧 1人…精米660グラム・精麦210グラム・生肉類210グラム・生野菜600グラム・食塩5グラム・粉醤油30グラム・梅干45グラムなど。 馬糧 1頭…大麦5250グラム・乾草4000グラム・食塩40グラム。 中国人馬夫・俘虜 穀粉600グラム・肉類40グラム・生野菜300グラム・豆類20グラム・食塩20グラム。 師団(人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名)1日の糧秣総量 人糧 小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)。

・徴発、いわゆる強制買い上げ方式について下巻p.260-261で触れられている。住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。藤原彰氏の後を継いだ一橋大学教授だった吉田裕氏の著書にも同様の記述がある。下巻p.420では、事実上の掠奪と記述している。

・下巻p.292によると、在中米軍(第一二航空隊)による対日本土爆撃の第一次は1944年6月16日である。成都から発進したB-29・B-24重爆撃機47機によって九州八幡製鉄所が空襲を受けた。1944年5月末ごろの航空兵力は在中米空軍556機・重慶(国民政府)空軍111機合計667機に対して、在中の第五航空軍は217機であり、戦力比は3:1だった。第五航空軍の実働は約150機程度あり、戦力比の実際は5:1だった。

・1944年6月25日に重慶軍事委員会が発令した桂林防守軍の編成の中に桂林城北部に配置された第一三一師がある。その師長は関維雍少将。1944年11月10日、桂林城内の風洞山・中山公園独秀峰が包囲され力尽き、風洞山の洞窟内で拳銃自殺を遂げたと、下巻p.411にある。

・要塞・堡塁・砲台の区分について下巻p.489に記されている。要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。

・1945年3月11日のランソン捕虜虐殺事件について下巻p.541で触れられている。フランス領インドシナ(現在のベトナム)のランソン要塞を歩兵第二二五聯隊(主に熊本県出身者の兵で編成)が陥落させた際にフランス人の300名余の投降兵を収容したが、鎮目武治聯隊長(大佐)は小寺治郎平第一大隊長(少佐)と福田義夫第七中隊長(大尉)に対し、投降兵の処断を命じた。戦後、フランス軍軍法会議で約20名が戦犯容疑となりサイゴンチーホア刑務所に収容された。小寺少佐は1946年10月30日に同所内で自決。伊牟田義敏第四中隊長(大尉)は1948年11月21日にジュラル病院で病死。鎮目大佐・福田大尉・早川揮一大尉(歩二二五通信中隊長)・坂本順次大尉(歩二二七第八中隊長)は1951年3月19日に法務死についた。ほかにも投降兵射殺事件による戦犯法務死の記載がある。

・下巻p.621-629には付録第六として1944年6月30日調べの第三十七師団小隊長以上職員表が掲載されている。戦後、熊本で医師としてある程度知られた人物の名を見つけることができる。一人は光俊明氏を養育した加地正隆。師団司令部の防疫担当の軍医部員だった。階級は中尉。熊本市水道町交差点に面した加地ビルを覚えるいる向きもあると思うが、健康マラソン(天草パールマラソン大会を始めた)で長寿を目指して「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで記憶に残る「熊本走ろう会」の会長を永年務めた。第5代の熊本県ラグビー協会長も務めた。もう一人は、三島功。患者収容隊本部の衛生部見習士官として名が確認できる。水俣市民病院や明水園に勤務したし、水俣病認定審査会の会長も務めた。水俣病患者認定には厳しい姿勢で臨んでいたために患者・支援者からの評価は低い人物だった。

士官主導と初年兵主導との戦記の違い
第三十七師団歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』や同師団の山砲兵第三十七聯隊の初年兵だった松浦豊敏氏が書いた『越南ルート』と藤田豊著の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』とでは、同じ師団の戦記とはいえ、視点が大いに異なります。『地獄の戦場参千粁』や『越南ルート』では、行軍のつらさや隊内での人間関係に焦点が多く当てられています。糧秣不足と過労、厳しい気象環境で、戦病死が多い戦場でした。中には戦死扱いにされた例もあります。初年兵に理由もなく暴力をふるう古兵についてが敵軍よりも憎しみを込めて描かれています。将官を近くで見ていた若い士官だった藤田本では、将官に対して厳しい評価を下した記述が意外とありました。たとえば、行軍途中で師団長と参謀長だけのために毎日司令部付きの工兵が防空壕を掘らされたことなども明らかにしています。士官たちが残した記録は文字だけではなくスケッチが多いのが特長です。士官に求められる資質に西洋画技法があり、じっさい士官学校ではその教育がありましたので、戦地からスケッチを持ち帰られなかった場合でも当時の記憶から描き起こすことも可能だったかと思われます。

私は戦没者を顕彰しない

Facebookのタイムラインで「平和を願い戦没者を戦没者を慰霊顕彰する国会議員の会」(原文ママ)メンバー(以下、「本メンバー」と称す)が写った投稿を見かけました。戦没者を慰霊する気持ちは誰しもありますが、本メンバーと私とでは、認識の違いを感じる部分もありそうです。それについてメモを残してみます。
第一に、本メンバーと私とでは、「戦没者」の対象が異なるのだろうと思います。本メンバーが指す「戦没者」とは、靖国神社に祀られている日本の軍人・軍属の戦死者に限定されていると思われます(A級戦犯も合祀されていますが戦死者ではないのでここでは含めずに考察します)。私が考える「戦没者」とは、戦死・戦病死した軍人・軍属のみならず、戦争によって犠牲となった民間人を含みます(国籍や民族を問わず)。
第二に、本メンバーと私とでは、戦没者を「顕彰する」ことの是非について判断が異なるのだろうと思います。顕彰とは、特定の個人が成し遂げた功績や善行を世に広め、称賛する行為を指します。本メンバーは、戦闘に係ることやそれで命を落としたことを称賛に価すると考えているのでしょう。しかし、私は、いかなる理由があっても殺し・殺されることを称賛する気持ちになれません。繰り返しますが、死者を悼む気持ちはありますが、その死を称えたり、犠牲となられたことを感謝したりしようとは考えません。それよりも死者の無念を晴らすべく過ちに学び、それから得た知見を社会と共有したいと考えます。第一の「戦没者」の対象範囲が異なるので、便宜的に、本メンバーの考える「戦没者」を「(狭い意味での)戦没者」、私の考える「戦没者」を「(広い意味での)戦没者」として、以下のように違いを表してみました。
顕彰主体/対象 (狭い意味での)戦没者 (広い意味での)戦没者
本メンバー   顕彰する        ?
私       顕彰しない       顕彰しない
本メンバーの皆さんは、ひめゆり平和祈念資料館や徴用犠牲者慰霊碑を訪ねたことはあるのだろうかとも思います。

やなせたかしの生涯読後メモ

#やなせたかしの生涯 #梯久美子 #朝ドラあんぱん
今度の土曜日に熊本市現代美術館で梯久美子さんを講師に迎えて開かれる、やなせたかし展・開催記念講演会「光のほうへ ぼくは歩く――アンパンマンが生まれるまで」の聴講を楽しみにしています。とはいえ、会場定員は100人。やなせたかし氏が編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者として身近で働き、同氏の生涯をよく知る梯さんの講演だけに果たして聴講可能か心配です。それもあって、本年3月に書き下ろしで文春文庫から出た『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を読んでみました。
同書を読むと、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど多彩な仕事をこなした同氏の稀有な才能に驚かされます。一方で、理不尽な軍隊生活の初期に何も考えずに過ごした経験や身近な人の死で受けた影響には、戦争体験をもつ世代の誰にでもある共通性を感じました。
今年は戦後80年ということで、新聞紙上では、さまざまな戦没者慰霊の式典の報道が取り上げられます。その中で、しばしば遺族が「今の平和は戦没者の犠牲の上にある」と語りますが、それには強い違和感を覚えます。今日まで平和が保たれたのは戦争の過ちを学んだ者たちによる非戦に向けた不断の努力があったことに他ならないと考えます。戦没者たちは平和構築のため犠牲となったのではなくあくまでも戦争遂行に加担するか、巻き込まれて落命したのであって、戦争が起こらなければ犠牲にならずに済んだ者たちです。つまり犠牲者を出さずに済むする社会にするため、どのような政治の道を選択すべきだったかを考え行動することが、慰霊ではないかと思います。
きょう放送の朝ドラ「あんぱん」では、主人公・朝田のぶと商船の一等機関士・若松次郎とのお見合いシーンが出てきました。ドラマでモデルとされる小松暢さんは、やなせたかし氏との前にも結婚歴がありました。暢さんは、大阪の高等女学校卒業後、しばらく東京で働いた後、21歳のときに最初の結婚をします。その相手が6歳上で、高知県出身の小松總一郎氏。日本郵船に勤務していて、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死されています。ひとり残された暢さんは、自活の道を求めて高知新聞社に入社しました。
海軍に入り、戦死したのは、やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏です。1943年9月に京都帝大法学部を半年繰り上げ卒業し、海軍予備学生兵科三期を経て、翌年5月に駆逐艦「呉竹」の水測室(米潜水艦の水中音を探知するため船底に近い位置にある)に配属されます。千尋氏が乗った同艦は、1944年12月30日、バシー海峡で米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没、同氏も22歳で戦死します。やなせたかし氏は、1946年1月に中国・上海港から佐世保港へ復員、高知へ帰る途中、原爆で街が消えた広島の風景を目にしています(私の父方の伯父も外地から終戦の翌年に復員したら実家が1945年8月10日の松橋空襲で焼失していたのを知りました)。
私の母方の祖父が小松總一郎氏と同じく日本郵船勤務の船員でしたし、1944年1月に乗り組んでいた輸送船がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け、柳瀬千尋氏と同様、船と共に海へ沈み戦死しています。きょう放送の朝ドラ「あんぱん」の最後には、兵事係から戦死公報を受け取る留守宅のシーンがありました。私の母が、自身の父の戦死の知らせが届いた日のことを手記に残していますが、悲報を受けたときの留守家族(当時の居宅は同年7月の熊本大空襲で焼失)のさまが、本日の「あんぱん」の映像と重なって見えました。
国内外に膨大な犠牲者を出さなくてもよい道がきっとあったはずなのに、どこから過ちは始まったのか、それを止めることはできなかったのか、今を生きる人間が考えなければならないのはそこです。

東京大空襲から80年

本日読了。
本書p.134-135に、ルメイが指揮した東京大空襲に加わった爆撃機搭乗員による次の回想が載っています。「上昇気流は気持ちの悪くなるにおいを一緒にもたらした。鼻について離れないにおいだった――焼かれた人間の肉のにおいだ。あとになって、乗組員たちのなかにはこのにおいのために息を詰まらせたり、吐いたりした者がいたという話を聴いた。気絶した者もいたらしい」。
ルメイ自身はいかに合理的に作戦を進めるかの一点に徹底し、下界で生きたまま火あぶりにされる人間を想像することはなかったようです。味方の損失をできるだけ少なくし、いかに敵を効率的に破壊するかだけを究めて、軍人の頂点に立つ人生を送りました。こういう軍人を重宝する面が軍隊の性分としてあることを忘れてはならないと思います。

メモ:初版p.262の11行目 (誤)陸相→(正)陸将

https://www.hayakawabooks.com/n/naa07a0c95200?sub_rt=share_pw&fbclid=IwY2xjawKOpEtleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFwY2hjT1VEU3VXVHNFRlVBAR7shPHJNUvD3Ch_2lRQHLZvRws9ABmVOVUG1Byt_TNgHxPkC5OeWL986HjhPA_aem_2Ppw5ny4rdUPQ7XXNU9nmw

政治家と政党の落ちぶれ方が凄い

某党の参院議員が、現在も過去の展示説明にもない自身の妄想を根拠にした発言を行いました。ある史実に基づいてさまざまな歴史観を抱くのは自由ですが、根拠自体がありもしないことで発言するのを厭わないとなれば、当人の認知能力つまり公人たる政治家の資質そのものが欠如していると思います。当該議員は、発言6日後の記者会見の場においてもなお発言の根拠とした展示説明を過去に見たとの主張は変えておらず、そのダメさ加減は相当に重症なようです。潔く政界から身を退いてもらいたいものです。
さらに言えば、こうした資質に欠ける人物しか抱え込めない政党の側にも問題があります。複数の法務局から自身の行為が人権侵犯と認定された事実をその後も否定し続けている破廉恥な前衆院議員がいましたが、その人物にも冒頭の参院議員同様、認知能力に問題ありと感じています。ところが、夏の参院選比例代表の党公認候補に据えられているということですから、この政党の落ちぶれ方も相当重症です。こうしたポンコツを集めてはたして内外の政治課題の解決に対処できるのか、私は大いに疑問です。
もっとも、わが地元にもポンコツもどきが市議なんぞにいて、3月に人権侵犯認定の前衆院議員を呼んで講演会やら宴席を設けているのですから、やれやれと嘆息するばかりです。
https://kumanichi.com/articles/1767951

大仏造立を可能にした資源開発と輸送

佐藤信くまもと文学・歴史館長による講演「大仏開眼―聖武天皇が夢見たもの」を本日聴講してきました。佐藤館長による講演受講は3月に行われた「藤原広嗣の乱」以来でしたが、今回も興味深い内容でたいへん満足しました。
聖武天皇(724年即位)が在位した天平の時代は、長屋王の変(729年)や天然痘の流行(737年藤原四兄弟病没)、天候不順による不作、藤原広嗣の乱(740年)、度重なる遷都といった、政界ばかりか民衆を含めて国家・社会が混乱した時代でした。その混乱を「国家仏教」によって国家の安定と社会の平和を図ろうとした聖武天皇が発したのが、大仏造立の詔(743年)です。そして大仏が9年後に完成し大仏開眼供養会(752年)に行われます。その際はインドや唐の僧も参加する総勢1万人余の国際的イベントだったことが正倉院に保管された参加者名簿の文書で明らかになっています。
聖武天皇の思いとして大仏造立という国家プロジェクトを通じて諸氏族や民衆の結集を図ることにあったのですが、結果としては諸国から富を集中させる集権的な律令国家の基盤が整えられたという見方ができます。
私が大仏造立の過程で興味をもったのは、当時の資源開発とその輸送の点でした。古今東西を問わず帝国と称されるような覇権国家の歴史をひも解くと、必ず資源獲得とその輸送ルートの安全確保(騎兵や海軍)が重要になります。それらを可能にする技術力も必要となります。アジア・太平洋戦争期に日本軍が進出した地域・海路もだいたい資源絡みです(鉄、石炭、小麦・米、塩、ゴム、石油、ボーキサイト…)。中国が海洋進出に熱心なのも海上の資源輸入ルートを塞がれる恐怖心から。米国がウクライナの鉱物資源権益に熱心なのも同様。
では、東大寺の大仏に使われた500トンもの銅はどこからもたらされたのかということですが、これは現在の山口県美祢市にある長門国長登銅山において採鉱・製錬されたということがわかっています。これが確定したのも化学分析のおかげでつい40年ほど前のことです。それと渡来系の土器や渡来氏族の名が入った荷札の木簡も発見されたことが決め手になっています。銅山は国直轄の管理となっていて、銅は陸上は馬に運ばせますが、大半は船で海上輸送させます。
もう一つ、大仏造立が始まった頃までは国内では金を産出しないとされていましたが、大仏完成の3年前の749年に、聖武天皇から信任を受けていた陸奥国の守の百済王敬福から金900両(13kg)が金メッキ用に献上されました。これは現在の宮城県湧谷町の黄金山産金遺跡から採掘されたものですが、百済系渡来人の技術があって可能になったといえます。この金産出を聖武天皇は破格に喜んだ詔書を出します。その時代に天皇を軍事面で支えたのは大伴氏ですが、当時越中守だった大伴家持は「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」を詠みます(万葉集所収)。その長歌の中に「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍…」の歌詞が詠み込まれています。資源と軍事のかかわりをここにも覚えることができます。
佐藤館長の講演は来月以降の今年度内に4回あります。引き続き受講する予定に入れていて楽しみです。
https://www.c-able.ne.jp/~naganobo/douzanato.html
https://tenpyou.jp/
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki

ブライトンつながり

先日の投稿で私の遠戚が米国コロラド州のブライトン(Brighton)に住んでいることを触れましたが、日本でブライトンと言えば、英国プレミアリーグに属するサッカークラブ、そう三苫薫選手がプレーしている「ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。それで、地名の由来を下記にまとめてみました。
結論から言うと、コロラドのブライトンとイギリスのブライトンは、米国ニューヨークのブライトン・ビーチを間に挟んでつながっていました。
・コロラドの「ブライトン」
1881年、鉄道駅(鉄道の創始者ベラ・M・ヒューズにちなんでヒューズ駅)の開設に合わせて土地の分譲が行われました。名称は、測量技師D・F・カーマイケルの妻の故郷であるニューヨーク州ブライトン・ビーチに由来しています。駅ができたことで農作物の集積地となり、缶詰などの食品加工業が発達しました。
同地の日系人社会の歴史が下記のサイトに記されています。
https://history.weld.gov/County-150/People-of-Weld-County/Canning

・ニューヨークの「ブライトン・ビーチ」
1868年、ウィリアム・A・エンゲマンがこの地にリゾートを建設しました。1878年、ヘンリー・C・マーフィーと一団のビジネスマンが、イギリスのリゾート都市ブライトンを暗示してこのリゾートに「ブライトン・ビーチ」という名前を与えました。1970年代半ば、ソ連系移民、特にロシアとウクライナ出身のアシュケナージ系ユダヤ人にとって人気の居住地となりました。1991年のソ連崩壊後も旧ソ連出身の、主にロシア語を話す多くの移民が、居住地として選びました。これには、ジョージアやアゼルバイジャンなどのコーカサス地方からの移民の流入も含まれていました。2010年代初頭以降も、多くの中央アジア系移民も同地を定住地として選ぶようになりました。
・豪メルボルンの「ブライトン・ビーチ」 ※おまけ情報
健康に良いと信じられ、英国のブライトンで人気の海水浴文化を、1850年頃からメルボルンに流入した英国移民が広めたことに由来する説があります。メルボルンから11キロ南東にブライトン・ビーチがあります。

・イギリスの「ブライトン」
ブライトンは、イギリスのイングランド南東部に位置する都市です。行政上はイースト・サセックス州ブライトン・アンド・ホーヴに所属します。知名度・規模ともにイギリス有数の海浜リゾートです。LGBTコミュニティの多い街であり、しばしば「イギリスにおける同性愛者の首都」とも呼ばれています。ブライトンの語源は、古英語のBeorhthelmes tūn(ベオルテルムの農場)です。この名称は、Bristelmestune(1086年)、Brichtelmeston(1198年)、Brighthelmeston(1493年)、Brighthemston(1610年)、Brighthelmston(1816年)と変化しました。ブライトンという名称が一般的に使われるようになったのは19世紀初頭です。

米国コロラド州ブライトンに宇城市出身の遠戚の名を冠した公園があります

『「世界の終わり」の地政学』(集英社)の著者のピーター・ゼイハン氏が、米国コロラド州から配信するビデオレターをよく視聴しています。同氏が語る世界の姿は参考になりますし、映像の背景に出てくる山間部の雪景色は美しいので、それにも魅了されます。そんなわけで、まだ訪ねたことはないコロラドには親近感を覚えます。

それともう一つ、私の母方の曽祖父の弟の子孫が、コロラド州アダムズ郡ブライトンにいます。アダムズ郡は州都デンバーに近い場所にあり2020年の人口は約52万人、郡庁はブライトンにあります。共に現在の宇城市不知火町小曽部出身の竹馬五太郎(=私の曽祖父の弟)・ヨシ夫婦は、長男が1912年(M45)の日本生まれ、次男が1917年(T6)・三男が1919年(T8)の米国生まれでしたので、1910年代半ばに米国に渡ったようです。竹馬五太郎・ヨシの息子・John M. Chikumaは、1925年(T14)1月13日にブライトン北部の農場で生まれ、2013年6月16日に亡くなりました。

Johnの生涯は次の通りです(出典:Published by Brighton Standard Blade from Jul. 3 to Aug. 1, 2013.)。1942年にフォート・ラプトン高校、1945年にコロラド大学、1949年にカンザスシティ大学を卒業し、歯科外科の博士号を取得しました。1949年、ニツケ・ビルに最初の歯科医院を開業しました。Johnはやはり日系2世のEmiと1950年2月4日に結婚しました。

朝鮮戦争中、Johnは兵役に就き、歯科医院を閉鎖しました。1953年にガンター空軍基地で訓練を受け、その後、テキサス州サンアントニオのブルック空軍基地に駐留し、大尉として2年間、米国空軍医療部隊の現役任務に就きました。キューバを訪問した際には、マイアミ空軍基地にも駐留していました。Johnは兵役中にゴルフを習い、そのプレーを楽しみました。 1955年に除隊となり、1956年に歯科医院を再開しました。1993年に引退するまで、サウス4番街75番地で開業しました。彼は常にEmiの活動や趣味を支援していました。Emiと買い物に行くのが大好きで、「他にはない贈り物」を見つける才能がありました。マツタケ狩り、金鋳造、庭いじり(庭は彼の誇りであり喜びでした)、ボウリング、ゴルフ、社交ダンス、ブリッジを楽しみ、学校の休みには家族と旅行に出かけました。ブライトン日系人協会、ブライトン・オプティミスト・クラブ、ブライトン・ロータリー・クラブ、ブライトン商工会議所、BJAAボウリング協会、アダムズ郡男子ゴルフ協会、マイルハイ・ゴルフクラブ、日系アメリカ人市民連盟などに積極的に参加していました。

Johnはほとんどの物事に独自のやり方を持っており、常にその方法と理由を喜んで伝えていました。彼は細部にまで深い感謝の念を抱き、その精神は彼の人生のあらゆる面に浸透していました。彼は素晴らしい料理人で、感謝祭やクリスマスの七面鳥はジューシーで、プライムリブは最高でした。家族や友人と分かち合うために、常に最高に美味しい果物や野菜を選ぶことを誇りにしていました。これは彼の家族には到底及ばない特別な才能でした。彼は農場で過ごすのが大好きで、定期的に農場へ足を運ぶことが大きな喜びでした。

以上が、Johnの評伝ですが、彼の妻・Emi Chikumaの名前を冠した公園・レクリエーション施設「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」がブライトンにはあります。

Emiの生涯も以下に紹介します(出典:coloradocommunitymedia.com by Steve Smith April 1, 2013)。

Emiは、2013年3月20日、転倒事故による負傷のため87歳で亡くなりました。63年間の結婚生活の後、最愛の夫John M. Chikuma医師と死別しました。Emiには5人の子供がいました。キャロリン(ダグ)・マツイさんとその息子ロスとコートニー、ゲイリーさんとその継娘アシュリーとその家族スティーブ、ケイリン、ノーラン・ハイナーマン、ジョーン(デイブ)・ヌープさんと息子カイルさんとその妻テイラーさんと娘ステイシー、ブルースとジョイス(クリス)・レインズさんとその息子イサオとエリーゼ、妹のカラキ・フミ(ススム)さんとその家族です。両親のカタギリ・タネミさんとカタギリ・ミヨさん、妹のイトウ・マミ(トム)さんは、Emiさんに先立たれました。1943年にブライトン高校を卒業し、コロラド大学薬学部に進学しました。彼女は人生を通して多くの興味深いことを学ぶのが大好きで、特にバイオリン、ハーモニカ、バスドラム、ソフトボール、バスケットボール、バレーボール、陸上競技、スキー、ゴルフ、ダンス、ボーリング、ガーデニング、松茸狩り、油絵、陶芸、工芸、ブリッジ、料理、クリスマスオーナメント作り、そして家族と地域の歴史研究家としての才能に恵まれていました。彼女は多くの団体で積極的に活動し、献身的な地域リーダーでもありました。ブライトン公園・レクリエーション・プログラム、優秀市民に贈られるリバティベル賞、優秀で献身的なボランティア活動に対してブライトン市から贈られる感謝の日賞、日系アメリカ人コミュニティへのボランティア活動に対して贈られる感謝の日賞、ブライトン市賞、リバーデール女性ゴルフ協会から30年間のチャーターメンバー賞など、数々の賞を受賞し、ブライトンで第6回フェスティバル・オブ・ライツ・パレードの共同グランドマーシャルも務めました。

彼女の情熱は、見る人に幸せをもたらすクリスマスツリーでした。彼女はオーナメントを作り、集めていました。彼女の多くの友人や家族は、旅先からオーナメントを持ち帰ったり、彼女のために作ったオーナメントを飾ったりして、彼女のツリーを偲んでいました。ツリーは、彼女の人生、分かち合う精神、多くの友人や家族、そして彼女を取り巻く愛の美しさを象徴していました。

以上が、Emiの評伝となりますが、コロラド州といえば、州都デンバーから車で南東に約4時間ほどの小さな町グラナダに、第二次世界大戦中に日系アメリカ人を強制的に収容したアマチ収容所(正式名称Granada War Relocation Center 通称Camp Amache)があったことにも触れておきたいと思います。全米に10 箇所あったうちの1つで、同収容所には1942年から1945年までの間に 1 万人以上が収容され、その3分の2は米国市民であったとされます。なお、当時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーが人種差別的要素を否定する知事であり、比較的人道的な対処が行われたとも伝わっていますが、John M. ChikumaやEmi Katagiriが当時どのような境遇だったのか、私は情報を持っていません。同収容所跡は、1994 年、国の歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録され、2006年には国定歴史建造物等(National Historic Landmark)に指定されました。同収容所跡は従来地元自治体グラナダが所有しており、地元高校教員が設立した、生徒ボランティアからなるアマチ保存会が管理運営しています。2022年3月18日、バイデン(Joe Biden)大統領は、アマチ収容所跡を国立公園(National Park)に指定する「アマチ国定史跡法(Amache National Historic Site Act)」(P.L.117-106)に署名しています。

結局のところ「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」(写真3点添付)や「Camp Amache」を訪ねる機会が私にある可能性は低いでしょうが、もし宇城市の関係者が本投稿に目を留めてくれたらいいなと思います。人権啓発事業の一つの素材になるかもしれません。

https://www.brightonco.gov/facilities/facility/details/Emi-Chikuma-Plaza-Splash-Pad-44

https://digital.asahi.com/articles/ASPCS42CZPCHUHBI008.html

https://kumanichi.com/articles/1747597

企業の新人研修テキストにこそ相応しい

4月16日の熊本日日新聞に、水俣病の原因企業チッソの事業子会社JNCの新入社員研修で、水俣病語り部の会会長の緒方正実さんが初めて講話を行ったとありました。これまでの同社の研修では、水俣市立水俣病資料館の見学はあっても、患者・被害者の講話を聴くことはなかったので、このこと自体は歓迎します。さらに言えばぜひとも水俣病研究会著『〈増補・新装版〉水俣病にたいする企業の責任−チッソの不法行為−』(石風社、3500円+税、2025年)を研修テキストに採用してもらいたいものだと思います。
同書は、水俣病第一次訴訟(提訴時の被告代表者は雅子さまの祖父・江頭豊、被告代理人弁護士は民事訴訟法の兼子一元東大教授の法律事務所所属)において患者・家族を勝訴に導いた新たな過失論「安全確保義務」の理論がどのようにして生まれたかを明らかにしています。これは、現在のさまざまな環境汚染に対する「予防原則」の考え方に連なる先駆をなすものです。今や企業の社会的な影響を考えれば、その事業活動に携わる社員が当然備えるべき教養ではないでしょうか。あえていえばJNCだけでなく、原発や半導体産業の社員にも読んでもらいたいと思います。
それと、なぜチッソが水俣病を引き起こしたのか、その企業体質にどのような問題があったのかを知るにも、本書は役に立ちます。当然のことながら被害を受けた住民は、企業の内部については知りません。チッソ創業者の野口遵が「労働者は牛馬と思え」と言ったのは有名ですが、労働災害が多発する工場で最多を記録した1951年ではほぼ2人に1人が被災するほど社内の安全性を無視して操業していたといいます。生産第一、利益第一で稼働させて安全教育も蔑ろにされていたことが本書で明らかにされています。社員を危険にさらしてもなんとも思わない幹部で占められていた企業だったからこそ、自社から海へ排水するメチル水銀が水俣病の原因と社内で気づいてからも秘密を通して危険を回避する対策をとりませんでした。じっさい水俣病の被害は社員も受けたわけです。社員を守れない企業は結果として企業自身へも不利益をもたらすことになります。
救いがあるとすれば、このチッソの関係者の中にも患者・家族に味方して裁判で証言した人やさまざまな資料を提供した人、理論構築の研究に参加した人がいたことです。本書を手に取って企業や行政に携わるなかでも人間性を失わない職業人生を送ってほしいと思います。
https://kumanichi.com/articles/1745646
https://sekifusha.com/11813

 

都内訪問記

2年ぶりの都内訪問、わずか1日半程度でしたが、充実した時間を過ごせましたのでメモしてみました。おかげでその間かなり歩きました。頭にも身体にもいい刺激を与えられましたので、認知症予防にも役立つ機会だったと思います。ちなみに4月15日は「遺言の日」なんだとか。
【上野編】
・国立科学博物館…特別展「古代DNA―日本人のきた道―」を見ました。ゲノムの分布状況を把握することでヒトのみならずイヌやイエネコの移動の歴史を知ることができるなんていうのは、私たち世代の学校教育にはなかったと、まず感慨深いです。渡来人がもたらした鉄器生産や馬の導入といった新技術なしには日本列島における政治の始まり国家形成もなかった。外国人ヘイトを繰り返すバカにホントは見てもらいたい展示です。
https://ancientdna2025.jp/
・東京都美術館…「ミロ展」を堪能してきました。ミロは、「芸術家とは、ほかの人々が沈黙するなかで何かを伝えるために声を上げる者であり、その声は無駄なものではなく、人々を助けるものであることを証明する義務を負う者である」と、述べています。ミロ作品のなかにはしばしば星が描かれています。どんな時代に生きる人の天空にも変わることのない星があり、その星はいつの時代に生きる人も見守っていて、人類が尊重しなければならない価値は超然として永遠に存在する象徴のように感じます。
https://miro2025.exhibit.jp/
【目白編】
・霞会館記念学習院ミュージアム…リニューアルオープン記念展「学習院コレクション 華族文化 美の玉手箱 芸術と伝統文化のパトロネージュ」を訪ねました。通常は日曜休館なのですが、当日は「オール学習院の集い」の開催日ということで開館していて幸いでした。せっかく独自のお宝コレクションが豊富にあるので、これからも惜しみなく公開して存在感を高めてほしいと期待しています。
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/
・馬術部厩舎…現在16頭の馬が学内で飼われています。生きものですから部員たち(みんな大学入学前は未経験者)の手によって毎日休まず餌やりが行われています。年間2000万円かかるということでした。たいへんさを感じました。
・法学部同窓会…初級・中級・上級で政治や法律にかかわる3択クイズが行われていました。全問正解者にはもれなく賞品が提供されていました。会場にはOBの岩田公雄氏がいました。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/?page_id=28155
https://www.gakushuin-ouyukai-branch.jp/hougakubu/archives/1803
・士業桜友会…士業会員による無料相談会が行われていました。学習院行政書士桜友会の唐沢博幸会長(東京会)にご挨拶してきました。
・福島桜友会…移動水族館の展示がありました。会津コシヒカリ2合のプレゼントがありました。
・剣道部…雨天ということで予定されていた野試合は中止となり、部員たちは武道場で稽古に励んでいました。
・大学新聞社同窓会(→これが都内訪問の用向き)…最年長は90歳超から現役学生まで集いました。いろいろ昔話が出てそれを聴くと、私も記憶がよみがえってくることがあって面白かったです。写真も暗室で現像していましたし、印刷も活版から写真植字への移行期でした。割り付けも手作業でしたが、卒業後、ある活動では役に立ちました。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/?page_id=28155
【新宿編】
・帰還者たちの記憶ミュージアム…企画展「おざわゆき『凍りの掌』原画展 シベリア抑留 記憶の底の青春」が開かれていました。新宿住友ビル33Fにあります。総務省委託の平和祈念展示資料館となっていて入館無料です。さきの大戦における、兵士、戦後強制抑留者および海外からの引揚者の労苦への理解を深める施設ということです。旧軍の加害性などについては一切触れていません。
https://www.heiwakinen.go.jp/
・スンガリー新宿三丁目店…ゼミでの同級生と食事をしました。同店はロシア料理が専門です。新宿東口本店へは大学生時代から何度か行ったことがありましたが、新宿三丁目店は初めてでした。私が注文した「スンガリーコース」は、以下の通り。マリノーブナヤ・ケタとブリヌイ(ロシア式フレッシュサーモンマリネのブリヌイクレープ包み)、グリヴィー・ヴ・スミターニェ(マッシュルームのつぼ焼きクリーム煮)、ボルシチ(赤かぶと肉野菜の旨みたっぷりスープ)、ゴルブッツィ(ウクライナ風ロールキャベツの煮込み焼き、トマトクリームソース仕立て)、フレープ(自家焼きライ麦パン)、チャイ(パラジャム、季節のジャムを添えたロシアンティー)。飲み物は、エストニア産の瓶ビール「ジュビリエイニス」にしました。ずいぶん久しぶりの味でしたが大満足でした。
http://www.sungari.jp/store_sanchome.php
https://www.ikemitsu.co.jp/product/jubiliejinis/
【神保町編】
・おどりば文庫…「BOOKTOWNじんぼう」のサイトで軍事カテゴリーの書店リストに載っている店舗が3つあり、それらを訪ねてみました。まず訪ねたのはこちらです。実際に訪ねてみたら「おどりば文庫」ではなく、「西秋書店」となっていて当日は営業していませんでした。
https://jimbou.info/bookstores/ab0202/
・軍学堂…訪ねた時間のときが開店前だったようで開いていませんでした。となりは三省堂書店があったところで新ビルを建設中でした。新しい三省堂は来年1月にオープン予定とありました。
https://jimbou.info/bookstores/ab0205/
https://www.gungakudo.com/
・文華堂書店…この日唯一開いていました。いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』を購入しました。ほかにも気になる古書がありましたので、また行ってみたいと考えています。
https://jimbou.info/bookstores/ab0140/
【有楽町編】
・+DA.YO.NE.GALLERY(プラスダヨネギャラリー)…中高大を通じての先輩である米原康正氏が運営するギャラリーの1つで阪急メンズ東京7Fにあります。さまざまなアーティストの作品が展示されています。当日は、夏目らんさんの作品を紹介していました。なお、米原氏が運営するギャラリーは原宿、表参道にもあります。機会があればそちらも訪ねてみるつもりです。
https://dayonegallery.com/
・まるごと高知…朝ドラの「あんぱん」の舞台・高知県のアンテナショップです。2Fがレストラン「TOSA DINING おきゃく」で、安芸市名物御膳を食してみました。ごはんとみそ汁はおかわりできるのでボリュームもありました。1Fは特産品ショップの「とさ市」、B1は土佐酒ショップの「とさ蔵」となっています。「とさ蔵」では、高知けいばのポストカードが無料でもらえました。
https://www.marugotokochi.com/

 

『核心・〈水俣病〉事件史』読書メモ

全219ページからなる富樫貞夫著『核心・〈水俣病〉事件史』(石風社、2500円+税、2025年)を、4月6日に行われたJ2第8節ロアッソ熊本vs.カターレ富山のゲーム観戦のため向かったスタジアムとの往復の時間に読了しました。富樫先生からはご著書刊行のおりにいつも頂戴しているので、文章を読みなれている点もあるかもしれませんが、論理明快、切れ味が爽快でいて人物描写も的確、つまりは読者が理解できやすい読みやすさを覚えます。実際、本書は帯にも謳っている通り「水俣病事件入門決定版」に値すると思いました。
富樫先生は、熊本大学で民事訴訟法を教授されていたのですが、私はその分野での接点はありません。専門は他にあったとしても、水俣病事件の通史を書かせれば、先生の右に出る人を私は知りません。そして、今回本書を読んで、先生を法律家という狭い枠に捉われて見るのは間違いで、実は政治学者あるいは社会思想家に近い視座を評価すべきではと思うようになりました。
本書内の記述からそれを感じる箇所を下記に引用してみます。
p.75「本来、水俣病の原因を究明し、被害の拡大を防止すべき第一次的責任が、原因者であるチッソにあることはいうまでもない。しかし、通常、疑いをかけられた原因企業が自分の責任で原因を究明することは、まず期待できない。チッソの行動が示しているように、加害企業は、例外なく、判決などで断罪されるまで原因者であることを否認し、その間、廃棄物を出しながら操業をつづける。これは、近代日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件以来一貫して変わらぬ企業の行動様式である。そうだとすれば、被害の拡大防止にあたって行政に課せられた責任は大きいといわなければならない。」
p.235「長い水俣病の歴史を通じて、チッソの責任とともに問われているのは、行政の責任である。水俣病の発生や拡大を防止するために、国はいったいその責務を果たしたといえるのかという問題だ。」
p.237「水俣病の歴史を通じて問われてきたのは、日本という国家のあり方の問題であり、人民に対する国家の責務は何かという次元の問題だからだ。」
p.244「水俣病事件は、日本の近代化が生み出したものであり、今日の経済大国日本のもうひとつの顔である。私たちは、この巨大公害事件の歴史をたどることによって、どのような犠牲のうえに現在の日本が存在し得ているかを垣間見ることができるはずだ。」
本書には学生時代に富樫先生の研究室に入り浸って「門前の小僧」を自任する朝日新聞水俣支局長の今村建二さんによるインタビューも載っていて、民事訴訟法を専攻する研究者の道へ進んだいきさつを初めて知りました。それによると、大学卒業に際して最初は企業の採用試験に臨んでいたそうですが、面接で重役にいつもかみついてしまうため企業への就職は断念し、親しい刑事訴訟法の先生に相談したそうです。しかし、相談を受けたその先生が「刑事訴訟法では飯が食えない」からと、民事訴訟法の先生を紹介されてそこの助手に雇ってもらったということでした。

あんぱんで目を洗う

銀座木村家によると、昨日4月4日は「あんぱんの日」なのだそうです。今から150年前の1875年(明治8年)4月4日に創業者木村安兵衛が明治天皇へ「桜あんぱん」を献上したことを記念したからだと、そのサイトに由来が記してありました。NHK朝ドラの「あんぱん」が今週放送スタートしたこともあって、パンが人々へもたらす幸せ感に心が癒されます。
しかし、日本の近代化と製パン業・製菓業などの大企業の発展過程を見てみると、軍部との結びつきが強固だったことが意外と知られていません。平賀緑著『食べものから学ぶ現代社会 私たちを動かす資本主義のカラクリ』(岩波ジュニア新書)を読むと、日本では1885年ごろから機械製粉の小麦粉輸入が急増し、その主要商品は軍用パンやビスケットだったとされています。現在まで続く製パン業・製菓業の大企業の多くが帝国日本の海外進出に伴って誕生しています。具体的には、明治製糖(1906年)、森永商店(1910年)、味の素(1907年 創業時は鈴木製薬所)、日清豆粕製造(1907年 現・日清オイリオグループ)など。
しかも、日本の製粉業や製糖業、製油業(植物油)のみならず、原料を輸入する商社は、財閥系大企業による寡占でしたし、近代化を急ぐ政府はこれら新旧財閥を保護してきました。戦後の食料システムも基本的に同じです。現在の世界人口のカロリー摂取の半分以上は、小麦、コメ、トウモロコシという、たった3種類の作物で占められていますが、巨大企業と取引のマネーゲーム化の下で生産加工流通されているのが実情です。
それはともかく、朝ドラの「あんぱん」は、花粉症の時期ということもありますが、格好の洗眼剤となっています。主人公の朝田のぶちゃんが、長期の海外出張に赴く商社マンの父を駅まで見送って、その父が帰郷の最中に亡くなったという知らせが届く展開は、戦時中の私の母が体験した父親(私にとっては祖父)との思い出と重なり切なく思いました。
私の母の両親(私の母方の祖父母)は1930年に結婚、神戸港に近い西宮市甲風園に居を構え暮らしていましたが、開戦後、商船会社勤務の祖父は日本と南方を結ぶ軍の輸送傭船に乗務することもあって、家族は熊本市国府に留守宅を移すこととなりました。母と生前の祖父との別れは1943年の秋でした。1週間ほどの休暇を留守宅で家族と過ごしたのち、幼い子どもたち(私の母たち)だけで戦地に戻る父親を国府電停で見送ったといいます。祖父は1944年1月15日にフィリピン・マニラから台湾・基隆への途上バシー海峡で最期を迎えたので遺骨も家族の元へは帰ってきませんでした。
当時、国府の自宅は現在の宇土内科胃腸科医院の付近にありました。電車通り沿いに宇土屋旅館とその旅館の貸家数軒が並んでおり、その貸家の一軒で母たちは暮らしていました。1945年7月1日の熊本大空襲で一帯は焼失、多くの犠牲者が出ます。母たちは、その半月前に同地から祖父の実家がある不知火町へ移ったために、その難は逃れましたが、続く同月27日の松橋空襲を間近で体験しています。命を失う危険は当時だれにでもあったのです。
写真は現在の国府電停(2025年3月21日撮影)と基隆港(2018年7月28日撮影)。

『ルポ国威発揚』読書メモ

辻田真佐憲著の『ルポ国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社、2400円+税、2024年)を読むと、国内外の約35カ所もの愛国スポットが紹介されています。私はそのいずれの地も訪ねたことがなかっただけに、新しい世界があるものだと視野が広がりました。なかにはサブカルチャー要素を取り入れた萌えミニタリー的な珍妙な場所もあり、それははたして戦没者慰霊として相応しいのかと疑問に思いましたが、管理関係者の声は、いたって大真面目であり、これはこれで愛国岩盤層の信念の逞しさを感じました。
著者によれば、国威発揚には「偉大さをつくる」「われわれをつくる」「敵をつくる」「永遠をつくる」「自発性をつくる」という5つの要素が存在するといいます。本書を読んで私なら実際に取材地を訪ねてみたいかというと、そこまでは思いませんでしたが、何ものかを伝えたいという熱意は感じました。この使命感的な部分は、確かな歴史研究の上に成り立つ戦争ミュージアムにも重要なことだと考えます。
せっかくですから、本書の取材地で熊本県と縁のあるところを列記します。
・台湾高雄市鳳山区「紅毛港保安堂」…日本海軍の第三八哨戒艇(旧駆逐艦「蓬」よもぎ)の熊本出身の艇長・高田又男海軍大尉以下145名の戦没乗組員を祀る廟であり、高田艇長は神(海府大元帥)とされている。この廟には安倍晋三元首相像や安倍氏揮毫の石碑もあり、安倍支持者の聖地ともなっている。
・岐阜護国神社内「青年日本の歌史料館」…「青年日本の歌」とは、1932年に五・一五事件を引き起こした海軍青年将校のひとり、三上卓が事件の2年前に作詞した右翼民族派にとって自らの気概を示す歌(そのため「昭和維新の歌」とも呼ばれる)なのだそうだ。史料館は三上の遺品を保存する修養施設「大夢舘」(岐阜市)と護国神社が共同で設立した一般財団法人「昭和維新顕彰財団」によって運営されており2023年にオープンした。大夢舘の現舘主である鈴木田遵澄氏(取材時35歳)は熊本県在住。20歳のときに現役自衛官ながら国会議事堂で割腹自殺をはかり逮捕された過去を持つ。そのときに決起文に「青年日本の歌」の一節を引用していたとされる。
・人吉市桃李温泉いわくらの杜内「高木惣吉記念館」…アジア・太平洋戦争末期に米内光政海軍大臣をサポートして終戦工作に奔走した人吉市出身の高木惣吉海軍少将の遺品や資料を収めた記念館で2010年にオープンした。同館がある温泉旅館は高木の親族が経営している。さらに記念館は上記の紅毛港保安堂と連携している。
・球磨郡湯前町里宮神社内「軽巡洋艦球磨記念館」…日本海軍には艦名にゆかりのある神社より守護神を迎える伝統があり、軽巡洋艦球磨の艦内神社には市房山神宮の祭神が祀られていた。そのことが2015年に明らかになり、市房山神宮の里宮である地に2018年記念館は建った。展示内容は球磨に関するものより海軍全体に関するものあるいは「艦これ」関連のものがあり、カオス的らしい。本書では触れてないが、昨年7月に「艦これグッズ盗難事件があり一時閉鎖されたことがあった(その後盗品は戻り再開)。

頑固なのか単なる惰性か

わが人生のなかで7割方を占めて続けている習慣について2つばかり披露してみたいと思います。いずれもスタート日が後記の通り確定日付となっていまして、それらの習慣が続くというのは、頑固さによるものなのか、単なる惰性によるものなのか、これは自分でも定まっていません。他人からはきっちりしていると誤解されますが、自分ではけっこう怠け者だと思っています。手を抜ける部分は極力手を抜いて楽な暮らしをしたいと日々過ごしています。
さて、習慣の一つ目は、読書カードの作成です。きっかけは、1981年6月21日に読み終えた梅棹忠夫著の『知的生産の技術』(岩波新書)による影響です。同書で紹介されている「京大カード」(情報カードとも称される)に読んだ本の著者名・書名・発行年月日・出版社名・ページ数・入手先名・販売正価・入手価格・読了日・処分先・処分価格を記入してファイリングしています。カードは本1冊につき1枚作成します。法律専門書などは何回か読み直すことがありますが、カードを作成するのは1回限りです。したがって、ここ44年間については年間何冊の本を読んだのかも正確に把握できています。
問題は、B6サイズ横の「京大カード」やそれをファイリングできるバインダーの製品が割と大きな老舗の文房具店へ行かないと手に入らないことです。カードはネット上の情報によると、百均店で売っているともありますが、近隣店舗の売り場では見かけません。実際、読書メモを残したいときは、すべてデジタル情報で保管していますので、上記の製品が手に入らなくなったら、それはそれでしょうがないかなと思います。
梅棹忠夫さん(1920-2010年)についての思い出も言及すると、その姿を一度だけ拝見したことがあります。1990年8月に国立民族学博物館を訪問したときに当時館長の梅棹さんが側近を伴って館内に入られたシーンでした。その感激も習慣の継続に寄与しているのかもしれません。
そして、長く続いている習慣の二つ目は、バナナを食べないことです。このきっかけは、1983年11月5日に社会学者の鶴見和子さん(1918-2006年)の講演を聴いたあとの懇談会で、和子さんが父方の従弟・鶴見良行さん(1926-1994年)の『バナナと日本人』(岩波新書)を読んでからバナナを食べないと決めたと話されたことに触発されたからです。同書は、フィリピン産バナナの栽培から日本への流通を通じて多国籍企業によって開発途上国の人々が受ける苦しみを描いています。バナナ栽培に危険な農薬が大量に使用されていることも明らかにされました。
鶴見和子さんは、色川大吉さんを団長とする不知火海総合学術調査団の一員として『水俣の啓示』(筑摩書房)の執筆にかかわられていることもあり、水俣病患者が受けた苦しみをフィリピンのバナナ農園労働者のそれと重ねられて、バナナを食べないと決意されたと記憶しています。
私は、『バナナと日本人』を北区赤羽図書館から借りて1983年1月26日に読了してはいましたが、そこまで考えが及ぶまでは至っていませんでした。鶴見和子さんの講演を聴こうと思ったのは、『水俣の啓示』(上巻:芳林堂書店池袋西口店で購入し1983年8月19日読了、下巻:福岡金文堂本店で購入し1983年8月20日読了)を読んでお名前を承知していたので会ってみたいと思ったからでした。しかし、同書を読んで講演会に参加したことを懇談会で和子さんに話したら、たいへん喜んでいただいた面映ゆさがあって、それで私も調子に乗って以来バナナを食べない暮らしを始めました。
ちなみに、『バナナと日本人』の著者の鶴見良行さん自身は、1995年に「(自分は)バナナを買って食べる。現場を歩いてものを書く調査マンは、そのモノにつきあうのが職務上の義理だからであり、また、自分は上に立って人に指令を与えるような形の(社会)運動はあまり好きではない。自分の提供した情報によって読者が判断すべきであり、それはある種の民主主義の問題だ」と別の著作『東南アジアを知る─私の方法』(岩波新書、未読)で書いておられるようです。つまりは、読者それぞれが自分の頭で考えろというワケです。
おかげでたまに胃がん検診でバナナ味のバリウムを飲み込むたびにこの習慣の始まりを思い出します。

くまもとの戦争遺産を未来につたえる!!

けさの熊本日日新聞1面には、4月1日より同紙の「わたしを語る」欄に旅行会社「旅のよろこび」社の社長・宮川和夫さんが登場するとの予告が載っていました。内容を期待しています。
同社は障がい者に参加しやすい旅行サービスを提供されていて、宮川さんの活躍ぶりは設立創生期ごろから知るところです。
宮川さんは近年、高谷和生さんがガイドを務める県内の戦争遺産を巡る旅も企画されていて、私も一昨年、昨年と参加させてもらい、お世話になりました。
ちなみに、その高谷さんも昨年6月から8月にかけて熊本日日新聞「わたしを語る」欄に登場されました。今年は戦後80年ということで、例年より多くの「くまもとの戦争遺産を未来につたえる!!」取り組みを企画されておられるようです。私も都合がつく限り参加してみたいと思います。
https://kumamoto-senseki.net/images/2025/25031801.pdf

だからこそ民間の戦争ミュージアムが必要

3月20日の毎日新聞電子版で「南京大虐殺展示巡り賛否分れる 長崎原爆資料館の更新審議会」の記事を読んで、公立の戦争ミュージアムの運営の厄介さを感じるとともに、だからこそ民間の戦争ミュージアムが必要と強く感じました。
記事によると、長崎市の原爆資料館運営審議会なる議論の場があり、同館の展示内容の更新を巡る審議の中で、南京事件は「でっちあげだ」と主張する市民団体代表の委員から、同事件の記述を展示年表に含めないよう求める旨の発言があったとされます。さすがに日本近現代史の学者の委員から「『南京大虐殺は幻だ』という意見が議事録に残るのは耐えられない。従軍兵士の日記などさまざまなものの中に記録が残っている。不当に殺された市民や軍人がいれば虐殺なのであって、それを『幻だ』というのは歴史的事実として認められない」との発言があって、展示更新計画案の変更には至らなかったようです。
公立の戦争ミュージアムの運営を審議するのでさまざまな歴史観をもった人物が委員に就くことはありえるでしょうが、まともな歴史家が認めた史実を否定するような狂信的思考の持ち主が委員に入り込むのは、有害極まりないと思います。ですが、長崎市の「長崎原爆資料館条例」を確認してみると、運営審議会の委員は市長が委嘱するものとなっていて、委員の資質についての定めはありませんでした。前記の「でっちあげだ」発言をした委員は、「公益団体等を代表する者」枠の3人のうちの1人となっています。
つまり、市長の一存でエセ歴史の「有識者」も運営に携わらせることができる面が、公立施設にはあるので、よくよく監視しなければ「公益性」がない施設に成り下がる危険性があると感じます。
もっとも民間の施設とはいっても熊本県護国神社が2027年夏の開館を目指して3億円募金を始める「火の国平和祈念館」のような宗教関連施設では、戦没軍人の遺品や遺影を顕彰・慰霊するために展示するだけで、戦地での加害の歴史を振り返ることはもちろんしないミニタリー倉庫にしかならないと思われます。
必要なのは、歴史と科学の素養がある学芸員が常置し、平和構築や維持にはどう行動すべきなのかを考える材料を展示提供できる、民間の戦争ミュージアムにほかなりません。

ピラ校登頂男のその後

「オール学習院の集い」の開催日(4/13)に合わせて学内で行われる今年の大学新聞同窓会への出席を前に、43年前と42年前に私が書いた「ピラ校登頂男」(O君、2年連続経済学科4年)のその後の情報を、当時の先輩から聞きました。
なんと現在、福島県D市の市議会議員を務めているということでした。しかも定年まで地元県警で勤め上げ、退職を機に行政書士もされているとのこと。
ビックリしたやら、同業の縁を感じるやら。
「ピラ校」とは、2008年まで存在した高さ約25メートルの四角錐の教室(1968年にウルトラセブンによって一度破壊されたという話もある)。写真は下記ページ参照。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/100th/pyramid/

無教育の責任は大きい

ミネルヴァ日本評伝選のシリーズ本として2025年1月に刊行された大石眞著『井上毅』を読了しました。井上毅(1843-1895)は、明治政府の法制官僚として活躍した人物ですが、第二次伊藤内閣では文部大臣に任命され、1年5カ月余りの在職期間でしたが、教育行政についてもスピード感をもって成果を上げたことが紹介されていました。
在職中、高等師範学校卒業生を前に「一体教育とは恐ろしいものである。教育で国を強くすることが出来る、又教育で国を弱くすることも出来る。教育で国を富ますことが出来る、又教育で国を貧乏にすることも出来る……無教育の責任は大きなものである」(p.282-283)と説示しています。教員者に対して自覚と責任を促しているわけですが、同時に大臣である自分の責務を表明したものだと受け取れます。
井上は大臣に着任してから1カ月半後には伊藤総理大臣に「文部の事務釐正(りせい)[改正]を要する件」をまとめた「施設の方案を具へて閣議を請ふの議」を提出しています。これは、総合的な教育行政方針を示したもので、「政府に於ける今日の義務」として「財政の許す所に於て教育費を国庫より補助する事」などを通じて初等教育の普及を図ること、工芸教育を充実させること、高等中学校を改正して大学の改革を行うこと、女子教育を推進すること、私立学校を含めて文部省の統率・保護監督権を徹底することなど七件を挙げ、これが中途半端に終わらないよう「内閣の決議」を望むことを伝えています(p.283-284)。そしてそれらの政策は実現に向かうこととなります。
まさに仕事ができる人物でしたが、病身のため、大臣退任の翌年53歳で生涯を閉じます。もちろん明治時代に求められた教育と現代のそれとは異なるところもありますが、政治家の資質は時代が異なっても主権者である国民は問い続けなければならないことは言うまでもありません。
なお、本書の巻末にミネルヴァ日本評伝選の既刊・未刊を含めた一覧が載っています。その中に大学同窓の杉原志啓氏が「徳富蘇峰」と「松本清張」の担当著者であることが示されていました。いずれも未刊なので、刊行されたらすぐ手に取ってみたいと思います。

藤原氏はワイルドだろ

佐藤信くまもと文学・歴史館長による講演「藤原広嗣の乱」を昨日聴講してきました。8世紀の藤原氏族によるワイルドな政権奪取闘争をめぐる期待通りの痛快な内容でした。昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は藤原道長が権勢をふるいつつも「女性活躍」の先触れ的な優美な平安時代を描いていましたが、今回の講演はそれより前の奈良時代の世界ということになります。広嗣が排除しようとした玄昉や吉備真備の人物像を含め、大河ドラマに相応しいもっと絵になる事件が豊富です。NHKさんももっとこの時代に目を向けたらいいのにと思います。講演を聴いていると現代に通じるトピックがいくつもあるものです。
以下はランダムなメモなので、テキトーに読み流してください。

・乱の背景には感染症流行…広嗣の親世代の藤原四兄弟は、九州から畿内へ広がった天然痘により、全員同じ737年に没しています。そのことが、次世代の焦燥・危機感を生みました。
※以下は講演とは別の話です。ゲノム人類学でわかってきたこと。
・これまでにゲノムが調査された縄文人骨のDNAは、みんな飲めるタイプで、飲めないタイプは、大陸で生まれた人々に分かれる。
・お酒に弱い遺伝子変異は、中国南部の揚子江下流あたりから同心円状で広がっていて、ちょうど水田農耕が広がった地域とほぼ一致する。東アジアではたまたまお酒が弱い方が有利になり、お酒に弱い人が増えた?
・農耕の開始によって食料の供給が以前より良くなると、生き残る人の数も増えて人口が増加し、人口が増えると感染症が蔓延しやすくなる。感染症に対する抵抗性とお酒に弱いことの関連が考えられる。
・お酒を飲んだ後にアセトアルデヒドが血中にできて、顔を赤くしたり、気持ちが悪くなったりする。アセトアルデヒドは人間にとって毒だが、血液に感染する原虫と呼ばれる寄生生物にも毒だという説がある。
・現時点のゲノム全体でわかっていることは、畿内(京都に近い、かつての山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国のこと)の人が一番大陸に近いDNAを持っている。

・最新の通信手段と情報操作・心理戦の登場…7世紀の白村江の戦いでの敗戦により大宰府管内での軍団兵士動員の通信手段として烽火(のろし)が整備されましたが、これを実戦で初めて利用したのは広嗣の乱。官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けました。
※広嗣は敗れて済州島へ逃れ、さらに西の唐を目指しますが、風に戻され五島列島へ漂着。捕らえられ斬刑に処せられます。8世紀から怨霊説が登場し、陰謀論者界隈の信仰対象となります。

・唐留学組の玄昉や吉備真備を重用した聖武天皇は異国大好きで「国家仏教」推し?…741年「国分寺建立の詔」、743年「大仏造立の詔」
※744年、聖武天皇唯一の男子として有力な皇位継承候補であった安積親王(外戚に橘氏をもち、大伴氏・佐伯氏が後見した)が死去。藤原仲麻呂による暗殺説もある。