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肥後の猛婦

NHKの朝ドラ「風、薫る」に出てくる、伊勢志摩さんが演じる梅岡女学校校長兼看護婦養成所長についてですが、史実では熊本県出身であり、女子学院初代院長や日本キリスト教婦人矯風会初代会頭となった矢嶋楫子(やじま かじこ)です。大宅壮一がかつて「肥後の猛婦」あるいは「四賢婦人」と称した矢嶋姉妹の一人です。矢嶋家は、幕末の思想家・横井小楠との関係が深く、楫子の姉の子に徳富蘇峰、蘆花がいます。出身地の熊本県益城町には四賢婦人記念館もあります。
「風、薫る」の主役2人のモチーフとなった大関和と鈴木雅の実際の経歴は、共に子を2人ずつ抱えるシングルマザーという境遇にあって、英語力を使って看護学を学んだそうですが、矢嶋楫子はDV夫と断髪して離婚し、末娘とともに長崎から船で上京、船上で自ら改名、後に教育者へ転じたという経歴を持っています。彼女を主役に据えた朝ドラを創ってもいいぐらい波乱万丈の人生を送っています。
今週から登場シーンは見られませんが、地元熊本のNHKや新聞もあんまり話題にした様子はなく惜しいなあと思います。
https://kumamoto-museum.net/shikenfujin/
https://www.joshigakuin.ed.jp/ozekichika_specialsite/
https://news.yahoo.co.jp/articles/f29cfb935eea43f10a253eb528ebf4605f02138b?source=fb&fbclid=IwY2xjawRxALpleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFCaEVraUxjVkJMZm51d29Vc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHqWUtJIxccB4egsLDFu6vLSnDtmxv-W-EWO0gOjHmUgwSD_erlDbLFpmTeEg_aem_YQG7Ku26gnRY70-uBGJCWQ

『世界』2026年6月号より

本号掲載記事から気になる情報をメモしました。

○松野誠也「日本軍毒ガス弾製造工場で何が起きていたか――新資料が示す実態」
・東京第二陸軍造兵廠曽根製造所(現在の北九州市小倉南区下吉田)では、毒ガス(広島の大久野島で製造)を充填して毒ガス弾を製造する作業(填実という)や発煙弾・焼夷弾の製造を行っていた。同製造所では計148万発の毒ガス弾を製造した。
・国立公文書館が所管する曽根製造所調製「軍需動員実施ノ概況及意見」は、1941年度の要員増強と毒ガス弾製造量の増大が確認できる唯一の資料である。
要員人数:1941年6月373名→同年9月590名→同年12月628名→1942年3月945名
毒ガス弾検査合格数:1941年4-6月103,112発→同年7-9月109,087発→同年10-12月153,517発→1942年1-3月148,447発
・曽根製造所では原始的な方法で毒ガス充填作業が行われていた。工室内の空気は蒸発したびらん剤によって汚染されていることから、排風機が設置され、風道から排風塔(陸自小倉駐屯地曽根訓練場に4本現存)から排出していた。だが、通気不完全な劣悪な労働環境であり、工員が中毒被災した事故発生の記載も上記資料にはある。さらには製造した毒ガス弾からの漏洩や噴出事故が発生していた事実も記載されている。
・慢性気管支災や肺がんなどに苦しむ元曽根製造所関係者に対する「毒ガス障害者対策」(健康診断、健康相談、医療費や各種手当の支給など)が始まったのは1993年からだった。実態把握は関係者の証言によるしかなかった。上記資料が国立公文書館へ移管されたのは2017年度であり、それまでは陸軍省・第一復員省の流れをくむ厚生労働省内で死蔵されていた。もっと早くに公開されていれば対策の実現も早まった可能性がある。
※旧軍の毒ガス弾は製造当時の国際法においても使用が禁止されていましたたが、実戦使用したことが分かっています。敗戦前後にこの国際法違反を隠ぺいするために国内外で廃棄・遺棄しました。そのため、戦後も国内外で有毒成分に暴露したことによる被災事件が発生しています。莫大な日本の税金を投じて中国国内での処理事業が続けられてきましたが、被害を受けた中国の国民へ日本政府が補償を行うことはありませんでした。曽根製造所における毒ガス弾製造については、北九州市平和のまちミュージアムの展示や江浜明徳著『九州の戦争遺跡』の記述にもなかったので、本記事に触れるまで承知していませんでした。排風塔の存在と合わせてもっと知られるべきだと思います。円筒状の排風塔はグーグルマップの航空写真で確認できます。

○吉田敏浩「ルポ戦争準備国家」
・健軍配備の長射程ミサイル「二五式地対艦誘導弾」(配備完了の3月31日に合わせ「一二式地対艦誘導弾能力向上型」から改称)と静岡県の富士配備の地対地弾道ミサイル「二五式高速滑空弾」はともに三菱重工の開発によるもの。
・戦前・戦中の軍隊直轄の国営軍需工場を工廠と称したが、三菱重工などは現代版工廠としてミサイル特需で潤う。長射程ミサイルの開発・量産などの費用は、今年度予算で約9733億円に達する。
※敵基地攻撃能力を持つことは相手にとっては脅威でしかないので、そうした兵器は保有しないというのがつい3年半前までの政府見解でした。相手にとって保有基地は最前線となるわけで、そのことからも、抑止力になるどころか、大枚をドブに捨ててまで基地周辺住民を危険に晒す愚策でしかありません。

○内田聖子「軍拡はAIからはじまる」
・「QuitGPT」(ChatGPTを解約しよう)という運動が2026年1月から始まっている。トランプ政権下のICE(移民関税執行局)による移民排除や不当逮捕にはOpenAI社が開発したChatGPT利用の監視技術が使われている。同社の社長夫妻は、トランプの支持基盤MAGAInc.へのテック業界最大2500万ドル(約40億円)の寄付者である。市民がChatGPTのサブスクに支払ったお金でOpenAIは莫大な利益を得て、それがトランプへの献金となり、同社の技術は移民の弾圧や排除に使われている。その連鎖を断ち切り、トランプとICEに対抗するために、OpenAI社が開発したChatGPTを解約しようというものだ。
・この運動は米国とイスラエルによるイラン攻撃後さらに広がった。この作戦に米国防総省がアンソロピック社のAIモデル「Claude」を使用していたので、同社が国防総省に対して自社のAIを使用することを禁じた。アンソロピック社が同省のサプライチェーンから排除された代わりに同省との契約にすかさず名乗りを上げたのがOpenAIだった。倫理よりも利益を求めるOpenAIへの批判が一気に高まった。3月初旬時点でQuitGPTに賛同し解約またはボイコットした人は400万人と推計されている。OpenAIでは社員が大量に離職し、契約を破棄する企業・団体も多数現れた。GoogleとOpenAIの従業員1046人が、アンソロピック社への連帯を示す公開書簡に署名した(4月13日現在)。
※ChatGPTに今年の東大の入試問題を解かせたら数学は満点なのに、世界史の正答率は25%と、「(AIの)知識量は豊富だが、論述を適切に構成する力がなかった」(朝日新聞東京本社版5月8日夕刊)ようです。AIには効率一辺倒の正答を求める技術はあっても歴史から何を学ぶかといった、倫理判断の力は弱いので、AIを使う人間の能力が試されると感じます。主権者による権力者に対する監視の力を日頃から養い、不当な権力の行使をさせないよう行動することが重要です。

朝鮮と水俣

安田菜津紀さんがゲストを迎えて対話するラジオ番組の5月6日配信回のテーマは「朝鮮と水俣」。ゲストは、『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店、2021年)の著者である、一橋大学大学院社会学研究科教授の加藤圭木さんでした。朝鮮近現代史・日朝関係史の研究者である加藤さんは、大学院生時代の2011年3月10日(東日本大震災の発生前日にあたる)、初めて水俣を訪問し、水俣病センター相思社へも行ったことがあると明かしていました。
水俣病の公式確認から70年が経ちましたが、その原因企業のチッソ(当時の社名は日窒)およそ100年前の1925年に日本の植民地支配下にあった朝鮮へ進出し、建設したダムによる発電事業や肥料製造事業展開します。その過程で朝鮮の人びとの人権を蔑ろにする様々な問題を引き起こしました。この番組中の対話によって、朝鮮におけるチッソの人権軽視の体質が、水俣病の発生と隠ぺいによる被害拡大、被害者差別につながったことが学べます。つまり、水俣病の歴史を70年と限って振り返るのではなく、昭和100年の時間軸と空間軸にまず一歩広げて考えみる大切さが感じ取れました。
番組MCの安田さんによる水俣取材文も参考になります。
https://www.youtube.com/watch?v=0bDSsnemk9k
https://www.iwanami.co.jp/book/b593242.html
https://d4p.world/33600/

水俣病70年と昭和100年

5月6日(水)午後10:05放送の「斎藤幸平が掘る!日本の現場 ~水俣病の70年~」が、「らじる☆らじる」で2026年5月13日(水)午後10:55まで聴けます。
特に地元紙の元論説委員長の高峰武さんが、なぜこの事件が終わらないままになっているのか、過去の流れを分かりやすく語っているので、良質の番組でした。
この放送を聴くと、先日の「昭和100年記念式典」での首相の式辞の内容がいかに薄っぺらいものだったかと改めて思います。まさに「過去の歴史から謙虚に学び、深い反省とともに平和を守るために必要なことを考え、将来へとつなげる努力を伝えることが大切」です。
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=MZNLX8Y17X_01_4314940

『定本 力と交換様式』読書メモ

今年3月に岩波現代文庫から出た、柄谷行人著『定本 力と交換様式』は、世界史の構造を規定する物神的な謎の力を著者独自の交換様式論で展開する骨太の著作です。その理論自体が鮮やかで魅了されると同時に、そこへ考えが到達した過程を追えるのがそれ以上に刺激的でした。本書では古今東西の先哲の思想を読み漁りかつ読み解いた軌跡が存分に示されています。それら先哲の思想には読み手である私自身も触れたものもありましたが、そうでないものも多くあります。著者の華麗な読み解きにより、すでに触れた思想に対する新しい解釈や世間一般的に未知の思想への目配りがなされ、未来への知を獲得する醍醐味を感じました。
私の読書記録で確認すると、2010年にやはり岩波書店から刊行された同氏の著書『世界史の構造』を確かに読んではいるのですが、特に読書メモを残していないところを見ると、なんかモヤモヤした読後感に終わったからなのだろうと思います。それは、著者の交換様式論にもまだモヤモヤさがあったからだったに違いないと、今回思いました。
人類は世界宗教を発明し、あの世に国家も資本もない平等な人間社会を求めてきた一方、現世にポスト資本主義社会の実現を求める思想の科学を生んできた歴史があるんだなあと思いました。そこでいくと、宗教と科学が目指すものは案外近しいのかもとこれまた面白く感じました。
さて、本書を読みながらもう一つ感じたのは、当然のことながらAIにはけっして生成できない知があるということでした。AIが生成の源にするものには本書で取り上げられた先哲の著作も含まれるかもしれませんが、AIには字面を読むことしかできません。字面を再構成してなにがしかの文章要約を論理的に発出することはできても、先哲の著作が生まれた時代背景や人的交流の影響、それらによる思考の変遷までも読み解くのは難しいのではないかと思います。AIは間違いとか失敗を犯さず瞬時に正答を出すことには長けていますが、人間のような意識や感情、つまり楽しさも苦しみもないわけなので、ズレや独自性を創造するのは不得意なんではなかろうかと思います。
というわけで、本書で展開される理論についてのメモはほとんど含めないヘンテコな投稿になりましたが、この一冊で先哲の真髄に広く接することができることだけは請け合います。1800円+税というのは、ずいぶんお得です。
https://www.iwanami.co.jp/book/b10159289.html

広島訪問メモ

戦争遺跡保存全国ネットワーク・広島主催ミニシンポジウム「ヒロシマ、ABC兵器をめぐって―原爆被害と毒ガス加害―」の聴講が目的で、中学の修学旅行以来、実に半世紀ぶりに広島平和記念資料館を訪問しました。当時と異なり今回訪ねた日の入館者のほとんどは外国人観光客でした。それに配慮してか、被害の実相を伝える展示では、大きなサイズの写真資料が多用されていました。実物資料を人の肩越しにしか見れないほど来館者が多いのも驚きでした。戦争で命が奪われるのは交戦国同士の国民とは限りません。核保有国の国民はもちろん世界のだれしもが、人類共通の問題として戦争や大量破壊兵器の愚かさを知るべきです。その機会として広島の教訓が果たす役割の大きさを感じました。
シンポジウムでは、『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書、2025年)の著者である佐田尾信作氏(陸戦隊兵士だった父が入市被爆者)による報告「軍都・軍港と西瀬戸内海の戦争遺跡」がありました。著書や当日の報告でも紹介があった、朝鮮人労務者100人ほどが掘削工事にあたった第二総軍地下壕があった「二葉山」は会場に向かうバス車窓から眺めましたし、朝鮮王族の李※(イウ)公の名が刻まれた「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を帰りに平和公園内で見てきました。李※は、朝鮮王族として生まれ、陸士45期。第二総軍司令部教育参謀(中佐)として着任中に広島で被爆し重傷を負いました。「宮様」救助のため、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)が、現在の原爆ドーム近くの相生橋付近まで船で川を遡上し、収容しています。ですが、被爆翌日の1945年8月7日に似島の陸軍検疫所で死亡しました。このとき、御付武官の吉成弘が自責の念から自決しています。※は「金」+「禺」で一字。
ところで、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の造りは、亀をかたどった台座の上に碑柱が西向きに建っています。これは「死者の霊は亀の背に乗って昇天する」という韓国の故事に基づいているそうです。アジア太平洋戦争末期、三池炭鉱などに、朝鮮人や中国人、捕虜など約2万人が労務動員されていた大牟田には、徴用犠牲者慰霊塔がありますが、やはり亀が頭を朝鮮半島の位置する西へ向けて建てられています。

『古代の天皇制』読書メモ

今年3月に文庫化されて出た、大津透著の『古代の天皇制』(岩波現代文庫、1600円+税、2026年)の補章の「天皇号の成立と唐風化」だけでも読んでおくと、日本史のたしなみがある人物かそうでない人物かぐらいの判別を付けられるようになるかと思います。
天皇号がいつ成立したかについての研究では、推古朝説と天武朝説が有力で、最近の教科書では、天武朝説が取り上げられることが多いそうです。
著者自身は、天皇号は、7世紀初めの推古朝に成立し、8世紀初めの大宝律令で制度化され、「スメラミコト」と読まれていたと考えています。詔書というミコトノリで読み上げる主体であり、謚号も和風でした。8世紀中葉から漢字二字の漢風謚号が成立し、同じ天皇号でも礼制を中心とする中国国制の影響を強く受けたものに変質(唐風化)していったと考えています。
古代中国には「皇帝」と「天子」の二つの君主号がありますが、日本での君主号は「天皇」で一つです。その契機となったのが607年の隋の煬帝の激怒にあります。第二回遣隋使が携えた国書の中に、倭王が「天子」と名乗った箇所があり、「天子」は世界に自分一人しかいないとする煬帝からすれば無礼と大いに不興を買ったわけです。以後の国書からは「天子」という記載が消えます。
たとえば、735年に唐から日本への国書には宛名を「日本国王主明楽美御徳」としています。これはその前に日本から唐へ送られた国書にそういう記載があったからと見られます。唐にとっては「日本国王」以外はあり得ないので、「天皇」と書いても受け入れられません。そこで、和語で王の姓名らしく「主明楽美御徳(すめらみこと)」とごまかしてみたわけです。考えようによってはかなりしたたかな外交を展開していたとも言えます。このような外交の才に恵まれた例としては、豊臣政権や江戸幕府と朝鮮王朝との間の国書偽造・改竄(はては朝鮮国王印の偽作まで)にかかわった対馬の宗氏を思い浮かべます。無用な争いを避け、通交で互恵をもたらすお家芸を、現代人はバカにはできないかもしれません。
本書の補章以外の部分の読書メモは、本投稿に加えませんでしたが、「第六章 クラとカギ――クラの思想」など、それこそ歴史教科書では目にすることができない分野の論述に触れられて奥深かったです。「大蔵省」「監物(けんもつ)」「典鑰(てんやく)」といったワードが出てきます。

21世紀生まれの青年をも苦しめる遺棄毒ガス兵器

4月12日に聴講した辰巳知二氏の講演は、以下の記事の内容を中心としたものでした。
戦時中に旧日本軍が製造していた毒ガスの原料を含んだコンクリート塊が、1993年以降、何者かの手によって茨城県神栖市の地中に遺棄されていました。それにより付近の井戸水が汚染されていたことが、その水で溶いたミルクで育てられた21世紀生まれの赤ちゃんに、2002年から脳性まひの症状が出たことで、後にわかりました。その子どもは青年となりましたが、一生苦しみを負わされた境遇にいます。

手の震え、頭痛…家族4人がなぜか急に体調不良に 原因は「おいしい地下水」に混入していた毒だった…製造したのは旧日本軍、半世紀を超えてなぜここに?(後編)
https://news.yahoo.co.jp/articles/2199534dccfacb3c213d34afd79854768ab020c9?page=1

「家族にも言えない」女学生160人が集められたのは、地図にない島だった…15歳で背負わされた加害責任、60年後の“発覚”(前編)
https://news.jp/i/1374613679142289752?c=39546741839462401

ミニシンポジウム参加に際して

戦争遺跡保存全国ネットワーク・広島主催ミニシンポジウム「ヒロシマ、ABC兵器をめぐって―原爆被害と毒ガス加害―」が4月12日、広島平和記念資料館で行われるので、参加を予定しています。内容は、いずれもジャーナリストである辰巳知二氏の講演「今なお残る毒ガスの爪痕~禁止条約でも消せぬ戦争責任」と佐田尾信作氏による報告「軍都・軍港と西瀬戸内海の戦争遺跡」となっています。会場である資料館の展示についてもしっかり見てこようと思います。
https://sensekinet.jimdofree.com/
https://hpmmuseum.jp/
戦争は水や土壌、大気を汚染し、ひいてはCO2排出による気候変動をより深刻化させる、最大の環境破壊であり、同時に生命・身体・財産が奪われる人権侵害です。戦時はもちろんのこと、戦後の復興期についても言えることです。広島においては、原爆被害が象徴的ですが、旧日本陸軍が大久野島(日中戦争勃発後は地図から消されていました)で化学兵器を製造していたことによる被害はあまり知られていません。製造された化学兵器の多くは、配備された国内外の駐屯地近くの地中や川、海中に戦後遺棄されました。したがって、戦後それとは知らずに曝露しての被害も国内外で起こり、とりわけ国外における被害者救済が不十分であることも知られていません。
その大久野島には現在「大久野島毒ガス資料館」があり、その概要については、梯久美子著の『戦争ミュージアム』(岩波新書、2024年)で読んだことがあります。同書ではこの資料館が最初に紹介されています。悲惨なのは毒ガス製造のために働いた人(13~14歳の動員学徒1100人を含む)の中から慢性気管支炎、肺気腫、肺炎、肺がんといった健康被害に遭い、亡くなる人や後遺症に苦しむ人が多発したと言います。動員学徒に対して医療手帳の交付と医療費の支給が行われるようになったのは、1975年のことであり、棄てられた存在でした。
https://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/kakehashi.pdf
https://www.takeharakankou.jp/spot/7202/
日中戦争の時代においてすでに毒ガス兵器の使用は国際法的に禁止されていました。それを中国に配備していた旧日本軍は、国際的非難を避けるためにポツダム宣言にも違反して、終戦前後に組織的に遺棄隠匿しました。戦後になっても日本政府は被害の発生を防止するために中国へ情報提供をせず、放置してきました。そのため、たとえば川の浚渫作業中に遺棄された化学兵器を引き揚げてしまい、その作業にあたった中国国民が健康被害に遭うという事件が起こり、日本に対する国家損害賠償請求訴訟がなされたこともあります。原告の代理人を務めた南典男弁護士が実務広報学会編『実務行政訴訟法講義』(民事法研究会、2007年)の「第10章 国家賠償訴訟」やNPO法人化学兵器被害者支援日中未来平和基金のHPで、この遺棄毒ガス訴訟を取り上げているのを読みました。原告の主張を認めた一部の判決がありますが、総じて司法も救済に後ろ向きで、つくづく戦後責任を果たそうとしてこなかった国の不正義・無情さを覚えました。
https://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/kokubai.pdf
https://www.miraiheiwa.org/

戸籍制度の要否から考えてみる

日本独自の国民管理制度である戸籍を政治学の視点で研究する遠藤正敬氏の著書としては、過去に『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』(人文書院、2017年)と『新版 戸籍と国籍の近現代史 民族・血統・日本人』(明石書店、2023年)を読んだことがあります。たいへん読み応えのある刺激的な本です。おそらく唯一の、そのマニアックな学究ぶりからどんな人柄なのだろうと興味をかねがねもっていました。そしたら、日本記者クラブにおいてつい一昨日、講演に登壇されている動画があるのを知り、普段なら2倍速で視聴するところを等倍でたっぷり90分聴き入ってしまいました。私よりも10歳若い方なので、事前のイメージでは生真面目で繊細な研究者を想像していたのですが、動画でお目にかかると語り方にも老成感があり昔風の大人に出会った懐かしさを覚えて不思議な魅力がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=LOiUjOgMz0E
今回の動画では冒頭司会者から2025年10月に集英社インターナショナル新書から刊行された同氏の著書『戸籍の日本史』について紹介されていました。上記2つの本は分厚い本なので、同氏の研究成果を気軽に知りたい向きにはそちらをお勧めします(ちなみに私は目次だけ見てこちらは購読していませんが…)。
さらに、今回の動画について言えば、ぜひ夫婦の氏姓を考える上でも必要な常識が得られるので、その点に限っても有益です。たとえば、選択的夫婦別姓制度の導入に否定的な国民の無知さが鮮やかに解き明かされます。たとえば、明治憲法施行以前の日本ではむしろ夫婦別姓が伝統でしたし、明治憲法の起草者であった井上毅自身に至っては、妻が夫の姓を名乗るべきではないとさえ考えていました。これは法務省も認めていることですが、夫婦同姓を法的に義務付けている国は世界で日本だけです。
他にも明治の戸籍制度が始まる以前、アイヌの人たちに氏姓はありませんでしたが、無理やり漢字表記の氏姓を創らされ登録されましたし、琉球人の氏名表記は元々ファーストネーム→ファミリーネームの順番だったのを逆に変えさせられました。制度の目的は臣民への画一化にあったとうかがえます。戦後の日本国憲法施行後は、GHQから戸別単位ではなく個人単位の管理制度に変えたらという提案(=もはやそれは戸籍ではない)もあったそうですが、当時の司法省の役人が紙不足を理由に棚上げしてしのいだという裏話にもビックリします。
結局のところ、個人の市民権を保障する世界基準の趨勢は、国籍から定住地、国民から住民を重視へ移行しているので、戸籍制度は段階的にあるいは選択的であってもいいですがもはや廃止してもかまわないのではないかというのが、これまでの著書や今回の講演を通じての遠藤氏の考えです。それに廃止すれば行政コストが削減できるメリットもあります。制度を所与のものと考えずに歴史的経緯・捻じれまで知って判断することの大切さを改めて感じました。

『これからの世界の紛争』読後メモ

作家にして元外務省主任分析官の佐藤優氏監修の『これからの世界の紛争』(新星出版社、1500円+税、2026年)をつい先日買って読んでみました。購入のきっかけは、同氏が月1で登壇する動画で紹介していたからです。同氏の発言はその動画以外にも朝日新聞電子版でのコメントでも日頃接します。もっとも最初に氏の存在を知ったのは鈴木宗男事件に連座する形で逮捕される以前の時期に、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」を寄稿されていた頃からなので相当長いですが…。それはともかく、氏の現在発する意見のすべてを首肯するものではないですが、国際関係に対する俯瞰力の広さや歴史や思想に対する造詣の深さには敬服するところがあります。それでいてこれまで同氏の著作は一度も手にしたことがありませんでした。言うなればこれまでほとんど無償に近い形でしか氏の言説に接してこなかった不義理に対するほんの僅かなお返しの意を込めて入手してみた次第です。
さて、本著についてですが、「サクッとわかるビジネス教養」のシリーズ本と謳っているだけあって、図解資料が多く、1時間ほどで読み終えるというか眺め終わることができました。取り上げられている紛争についてはすべて承知しているものばかりでしたので、特に新鮮な情報はありませんでした。しかし、特定の紛争のニュースに接したときに関係国・機関・人物や経緯の正しい情報を即座に確認したいときは、辞書的機能があって便利な代物(まるで教科書副読本みたいな!)ではあるかなと思いました。欲を言えば、アフリカ地域における紛争の取り上げ方が少ない印象を受けました。もっと広範な紛争情報について手軽に知りたければ、『分離独立と国家創設 係争国家と失敗国家の生態』の著者・ジェイムズ・カー=リンゼイ氏(英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス欧州研究所研究員)のビデオレターはたいへん有益です。興味を持たれた方は、この動画チャンネルへアクセスしてみるのもいいと思います。
https://www.youtube.com/c/JamesKerLindsay/Join
佐藤監修本の内容について話を戻すと、途中に挟まれているコラムの方が、同氏の識見の本領発揮という思いがしました。たとえば、p.112では1932年の、フロイトとアインシュタインの往復書簡「ひとはなぜ戦争をするのか?」を取り上げています。ここでフロイトは「(戦争を防ぐために)優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかなければならないのです」と書いています。紛争の現状把握だけでなく、そうした人類がこれまで積み上げてきた知の蓄積についても目を向けてみることが必要なのだと思います。
(p.117に掲載のグラフの記載で誤記を1か所見つけ出版社に知らせたところ、翌日返信をいただきました。丁寧な対応に感謝します。)

戦跡バスツアー参加メモ

#北九州市平和のまちミュージアム #戦跡バスツアー #門司陸軍兵器本廠跡 #正蓮寺軍馬塚 #門司兵器製造所跡 #古城山砲台堡塁跡 #火ノ山砲台跡

中東のホルムズ海峡は、封鎖される前、日本が輸入する原油の9割が通過する要所ということで、いつ安全航行が再開できるのか注目を浴びています。近代日本にとっても海峡防衛は重要でした。関門海峡を挟む北九州や下関には、200を超える戦争遺跡があるとされています。一方、それらが現役当時の写真や地形記録はほとんどありません。その理由は、1899(M32)年7月に要塞地帯法が公布されたことによります。北九州および下関地域の大部分が下関要塞地帯に指定され、当時は自由に写真を撮ることができなかったといいます。
北九州市平和のまちミュージアムでは、北九州周辺の戦争遺跡をオープンミュージアムと捉えて、年1回戦跡バスツアーを実施されているとのことです。2025年度のツアーが3月20日に催行されたのですが、応募したら幸いにも抽選が当り参加の機会を得ました。平和のまちミュージアム学芸員が同行案内してしかも参加費無料、ツアー終了後の同館入館も特別に無料と至れり尽くせりでした。その感謝の意味を込めて情報共有します。本投稿中には当日私だけが訪ねた戦争遺跡情報も付け加えています。以下、訪問順に記載します。
(丸囲み数字はツアーコース。〇はコース外)
①老松公園(門司陸軍兵器本廠跡)…1895(M28)~1917(T6)年の間、兵器類の貯蔵・保存、修理、供給などを担う陸軍施設がありました。その後公園化され、1932(S7)年に忠魂碑(現慰霊碑)が建立されました。日中戦争・太平洋戦争の時期は、旧門司市出身の戦死・戦病死者の遺骨の引き渡し場所として使われていました。戦後は球場や世界貿易産業大博覧会(1958年)会場として使用されたこともあります。関門トンネルに近く、公園の国道に面した場所に国道2号線と国道3号線の管理境界の標識があります。慰霊碑の裏手からは太平洋戦争期に福岡俘虜収容所第4分所が置かれていたYMCA跡地方向(隣接する料亭岡崎は当時から現存)を望むことができます。
②軍馬塚(正蓮寺)…写真右の軍馬塚は、日清戦争後に帰国する船が門司港の手前で事故により沈没し、船倉に残ったまま溺死した軍馬57頭の魂を弔うために、野戦砲兵第六連隊第二大隊長が1896(M29)年に建立したものです。写真左の日支事変殉難軍馬之碑は、日中戦争で落命した第六師団の軍馬の霊を弔うため、正蓮寺婦人会が1934(S9)年に建立したとありました。この時期までは退役した軍馬を生きて帰還させたり、死んだ軍馬の遺骨遺毛を内地へ送り届けたりしていましたが、戦争が泥沼化するにつれて、戦地に打ち捨てられるようになりました。外地で終戦を迎えたときに軍馬を射殺した戦争記録を読んだことがあります。
③ノーフォーク広場(門司兵器製造所跡)…明治・大正期は兵器製造所でしたが、その後は被服や糧秣の倉庫として太平洋戦争の終戦まで利用されました。現在、岸壁の石垣しか跡地を示すものは残っていません。訪れた日には、跡地の目の前の海で消防隊員が潜水訓練をしていました。
④古城山砲台・堡塁…ツアー配布資料には、砲台は1890(M23)年に完成し、堡塁は1895(M28)年に完成したとありました。現在の古城山には砲台そのものの跡はほとんど痕跡がなく、門司城跡碑が立つ山頂部に砲台の観測所跡(石階段など)が残っていて、堡塁跡地には胸壁や掩蔽部が残存しているとも書かれていました。同行の学芸員の説明によると、砲台の役割は海上を航行する敵艦を攻撃することにあり、堡塁の役割は砲台がある山へ侵攻する地上の敵軍を迎撃するためのものということでした。下関要塞のウィキペディアにも、「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である、と記載されています。しかし、藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『夕日は赤しメナム河』p.489には、要塞・堡塁・砲台の区分について以下の記載があります。「要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。」。つまり、同行学芸員は、砲台と堡塁の区別は攻撃対象の違いにあると認識して、堡塁は重火器と防御壁があるが砲台にはそれがないと受け取れる説明でしたが、旧軍出身者の説明では砲台の個数の違いということになります。これでいけば、後掲の火ノ山砲台も規模的にも堡塁と呼んで差し支えないのではと思いました(しかも火ノ山第四砲台には防御壁もあります)。
〇清美食堂(注:戦争遺跡ではありません)…昼の休憩時間が1時間ありましたので、昼食は門司港レトロバス駐車近くの二代目清美食堂へ初めて行ってみました。ここの名物は「ちゃんら~」。ちゃんぽん麺を和風だしで炊き、それにもやしときゃべつ炒めが載った麺料理です。これにおでんも付いたセットを食べてみました。門司港では、他にも「焼きうどん」や「焼きカレー」といった名物料理があります。それを意識してか、清美食堂のメニューにも「焼きちゃんら~」というのがありました。これらの焼き料理はまた今度食してみたいと思います。芋洗坂係長の等身大写真パネルが店内にあってご本人もいたので、この方が初代の息子さんということを初めて知りました。
〇門司掖済会病院(外観写真のみ)…船員の養成と福利厚生を目的として設立された日本海員掖済会が運営母体。1921(T10)年に現在地に海員養成所と門司病院が開設されています。母方の祖父は日本郵船の船員でしたが、ここの海員養成所で学んだようです。1927(S2)年には門司高等海員養成所も新設されています。ちなみに戦前の海員養成機関には甲板や船室要員の普通海員養成所と航海士や機関士要員の高級海員養成所がありました。特に高等商船学校卒業生は海軍予備員令により海軍兵籍に入れられました。等級にもよりますが、たとえば海軍予備少尉などの階級が付与されていました。
〇日本郵船…門司港駅の向いに建つJP門司港ビルのショーウインドウには、戦前の長崎と上海を26時間の航海で結ぶ連絡船のポスターが展示されていました。
〇出征軍馬の水飲み場・門司港出征の碑…ツアーのコースに組み込まれていない戦争遺跡も今回訪ねてみました。門司港周辺にもあることを江浜明徳著『九州の戦争遺跡』(海鳥社、2022年)で承知していたので、それに載っていた地図を頼りに探してみたのですが、正確さを欠いていて最初見当たりませんでした。グーグルマップで検索して見て行き当たることができました。門司港出征の碑文には、ここ門司1号岸壁から200万人を超える将兵が戦地へ赴き、半数の100万人が生きて帰国できなかった、とありました。私の親族にも門司から戦地へ向かい戦死した人が何人もいます。
〇関門連絡船通路跡・旧監視孔…門司港駅構内には1901(M34)~1964(S39)年の間就航していた関門連絡船の桟橋と駅とを結んでいた通路の一部が残されています。その一角には戦時下にあって渡航する不審者を監視するためののぞき窓の跡があります。
⑤火ノ山砲台…下関にある標高268mの火の山山頂には第一から第四まで合計26門の火砲が備えられ、下関要塞では最大級の砲台として1891(M24)年完成、1926(T15)年に廃止決定、1935(S10)に除籍・撤去となりました。古城山もそうでしたが、明治時代に建設された砲台・堡塁は、実戦を経ることなく廃止されています。ですが、第三砲台砲側庫(砲弾などを収納)や第四砲台地下施設(掩蔽部)・観測所・指令室・防御壁(堡塁)などは、公園化された現在も保存されています。なお、火の山については、1941(S16)~1945(S20)の間、高射砲陣地としての転用はありました。
(関連)東京湾要塞には砲台を配備するための人工島「海堡」もあります。東京湾に現存する第二海堡の建設にあたっては、約50万人の人夫(作業員)が使役されたとされています。作業員の主な職種は世話役の他、工夫、水夫、潜水夫、石工、大工、鍛工、煉瓦工、人夫、女人夫となっていました。賃金は漁夫の平均賃金が38銭であった時代に、工夫の平均は約60銭、技能職である石工と煉瓦工は約80銭と高賃金であったと記録されています。世話役よりも技能職である石工、錬瓦工、大工、潜水夫の方が高い賃金設定だったようです。第二海堡からは桜花章煉瓦の他にいくつかの刻印が収集されています。「小丸に文字のす」、「小丸に文字のゆ」、「小丸に文字の大小」、「小丸に算木」、「英文字SR」などです。同行の学芸員に下関要塞建設時の作業員の属性(九州の産業遺産では囚人が多い)と煉瓦の製造元を質問してみましたが、不明ということでした。
https://daini-kaiho.jp/kaiho/jp/
〇北九州市平和のまちミュージアム…同館の入口近くには、歩兵第十四聯隊之跡の碑がありました。入館当日は企画展として「手のひらのなかの戦争」が開催されていました。明治後半から昭和の戦時中に至るまでの世相を反映した図案が描かれた子ども用の飯茶碗を中心に展示されていました。これらはいずれもコレクターの宮﨑修一氏から同館に寄贈された収蔵品だということです。常設展では軍隊とともに活気づいた工業都市であったことが紹介されていました。小倉陸軍造兵廠では太平洋戦争末期に米国本土爆撃のために開発された風船爆弾が製造されていたとありました。国民が戦争を支えた歴史を丁寧に紹介してもありました。暮らしが苦しくなり、やがて兵士だけでなく民間人も戦災に遭った歴史も伝えてくれます。M17集束弾の模型展示がありましたが、その尾翼根元の輪っかの部分を見ると、それを漬物石代わりに戦後使っていた父方の祖母の生活力の強さをいつも思い浮かべます。
https://kitakyushu-peacemuseum.jp/
〇小倉城内陸軍司令部跡…平和のまちミュージアムの展示を観覧後、江浜明徳著『九州の戦争遺跡』に掲載されている小倉城内の戦争遺跡を訪ねてみました。ミュージアムの裏手の交差点に出ると対角線の先に小倉北警察署が聳え立っていて、「五代目×××壊滅作戦推進中」の巨大懸垂幕が目に入ります。それを左手に見ながら西小倉駅方向へ少し歩くと、松本清張記念館入口の案内表示があるので、そこから右折直進すると、小倉城址になります。「歩兵第十二旅團司令部跡 小倉聯隊区司令部跡」の碑がすぐに見つかりました。本丸へ向かう階段を上ると第十二師団司令部の正門跡があるのに気づきました。近くには「野戦重砲兵第二旅團司令部跡」の碑もありました。やや探すのが厄介だったのが、第十二旅団本部の正門跡です。当日テント出店していた土産物店の支柱代わりに使用されていたため表から見えなかったわけで、それを知って驚きました。このほか城跡内には「生馬神之塔」「軍馬忠霊塔」「明治二七・八年戦役之記念碑」「第十二師管忠魂碑」を見ることができました。

『イスラームが動かした中国史』読書メモ

国際関係や外国人問題について論じられるときに、その対象について狭隘な先入観や断片的な知識しか持ち合わせていない人物の発言は、まずそれを疑ってみるに限ると考えます。その世界的な代表格が現在の米大統領ですし、わが国の現在の首相もまともな学習経験があるようには感じません。その手の人物というのは、ただただ大きな権力がある地位に就いてみたいだけで、行動が場当たり的で、先行きを見誤ることぐらいしか能がないのだと思います。ですが、皮肉なことにそういう手合いに共感する国民が多いからこそ、彼らに権力を与え振り回されているのだと思います。
さて、海野典子著の『イスラームが動かした中国史』(中公新書、1300円+税、2025年)は、隣国中国のムスリムの人々の歴史を描いた著作です。現代中国の国民において回族とされる人々はムスリムの子孫とされますが、彼らの風貌は漢族と変わりないですし、日常会話も漢語ですし、必ずしもすべて回教徒ではありません。もともと漢族だった人が民族登録を回族としていることもあります。「馬」姓を名乗る回族は比較的多いとされますが、なんせ1400年も激動する中国社会を生き抜いてきたコミュニティーです。その人口は1000万人以上ですから中国国内では少数民族と言っても規模が違います。中国には、他にウイグル族などのイスラーム系民族がいて、それらを含めると、人口は2500万人を越えます。本書を読むと、とにかく中国国民全体や各民族個々をステレオタイプ化して理解するのは見当外れも甚だしいことに気づかされます。
歴史を振り返ると、さまざまな文化が交流融合したり、人材登用され社会が発展したりした側面と、少数異質のコミュニティーが不当な弾圧を受けて社会が混乱疲弊した側面とがあり、実に複雑です。それと、宗派は異なっても世界には多くのムスリムがいて、そのことによる国際関係、絆の強さを無視してはならないと改めて感じました。
最後に1点だけ指摘すると、本書は日本の研究者だからこそ書けた、日本だからこそ出版できた面もあると感じました。一つひとつの記述が政府の考えと異なると潰されるようでは国の発展はありません。一方、そういう政府の国であったならどうやって生き抜いていくべきかの知恵も本書は示しています。今度都内に出たら回族出身者が経営するハラール料理店を訪ねてみたいと思います。

『朝鮮の王朝外交』読書メモ

森平雅彦編著の『朝鮮の王朝外交 ”ややこしさ”からの気づき』(集英社新書、1060円+税、2026年)は、朝鮮王朝が隣りの大国とだけでなく周辺諸国といかにしなやかに賢く渡り合ってきてたかを知ることができる、好著だと思いました。片や今日の日本は、ともすれば米国という大国の冊封体制に組み込まれた外交マインドでしか動いていない面が多いのではと感じます。本書でも触れてありますが、かつての日本には対馬の宗氏のお家芸である文書改ざんという知恵もありました。歴史の中に埋もれている知恵に学んでみると、米国と並ぶもう一つの大国である中国との付き合い方を含めて、もっと国際関係は良くなるのではと思います。
編者の森平雅彦氏は、本書のむすびで以下のように書いています。「他者に内在する論理が見えてくるとき、またはこれを見ようと努めるとき、それは、自分のなかの論理では見えていなかった物事に気づき、自分の論理が絶対ではないこと、あるいは、それが不十分な部分を省みるきっかけになる。他者の論理に向き合うことは、それまで自分になかった目線を手に入れ、自分の近く世界を広げ、豊かにする作業だ。それはもはや、他者を理解するためというより、自分のためにほかならない」(p.318-319)。
上記のモノの見方を考える具体的例として森平氏は、本書の序文でなんと草食動物のヌーを取り上げていました。ヌーという動物を肉食動物に捕食されるモノとして見るだけでなく、視力が良くないので視力に優れたシマウマと行動を共にして警戒を補う生存戦略などを示して誘ってくれました。
以下に興味深く感じた事例を列記してみます。一部は朝鮮王朝ではなく、対馬の宗氏の事例。
・モンゴル(元)の支配下でも高麗が独自の王国として存続できたのは、元の対日戦略を担う征東行省の名義利用があった。名目上は地方統治機関だが、実質的には高麗王が統治する高麗政府であり、元の直轄統治とはならなかった。
・小国が大国に事(つか)える、事大主義の冊封体制下で宗主国に無断で隣国に交わること(交隣)は、「私交」とされ、問罪の対象となった。しかし、朝鮮の第4代国王世宗は、宗主国の明に対して室町幕府の日本との私交を、「礼」には「礼」をもってする「交隣の礼」だと正当化して対処した。なお、世宗は第3代国王太宗の三男だが、長男や次男と異なり「天性が聡敏で大変に学を好む」と評価されていたので、「賢を択(えら)ぶべし」の方針にもとづき王世子となった経緯がある。
・1443年に結ばれた癸亥約条では、対馬の宗氏の年間渡航船数は50隻と定められた。宗氏はその制限を突破させるべく、博多商人とも協力して偽名義の使者を仕立てた。見かけのうえでは、上は室町将軍から下は瀬戸内の小島の領主までこぞって通交したかの観を呈した。
・16世紀末、日本国内の統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮を服属させて大陸に出兵し、明を征服することを目論んだ。その交渉を命じられて苦慮した宗氏らのはたらきかけで、朝鮮からは天下統一祝賀の名目で通信使が訪日した。これを朝鮮の服属表明と勘違いした秀吉は、明出兵の手引きを要求する。宗氏はこれを仮道(朝鮮国内の通過許可)にすりかえて朝鮮と交渉したが、朝鮮側は拒絶した。(p.237-238)
・朝鮮貿易を死活問題とする対馬は、壬辰戦争後ほどなく、その復活のために国交回復を朝鮮側に求めてきた。朝鮮もまた北方における女真の台頭をうけ、日本との和解に合意し、1607年、朝鮮使節が正式に江戸幕府を訪問した。当初朝鮮と幕府の間では国交再開の条件がおりあわず、交渉は難航した。そこでこのとき対馬が、お家芸である偽使のノウハウを駆使して双方の国書を偽造・改竄して修交を実現させるアクロバットを演じたことは有名である。(p.239)
・前述のように、当初は対馬が国書の偽造によって通交をスタートさせたため、それをとりつくろうべく、最初の3回までは引き続き対馬が国書を偽造・改竄していた。しかし1631年、対馬のお家騒動からこの事実が幕府に露見した。幕府ではこれを穏便に処理し、引き続き対馬に朝鮮外交の窓口役を任せたが、対馬現地で外交文書を担当する僧侶(以酊庵僧)を幕府が任命し、対馬がひそかに文書の偽造・改竄をおこなえないようにした。(p.243)

関連メモ
九州国立博物館開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」では、宮内庁書陵部所蔵の「朝鮮国王李昖(宣祖)国書・別幅」(豊臣秀吉宛各1通)が出品されていました。面白いことに、この国書と進物目録は、対馬の宗義智(そう よしとし)が改ざんしたものです。本来は日本国書への返信(奉復)であるところを、先に偽の国書を送ったことが露見しないよう「奉復」の字を「奉書」と変えてあります。国王印も偽造印となっていて、まさに宗氏の諜報外交能力は職人技です。
同展では、5点の国宝指定された品が展示されていましたが、いかに歴史的・学術的価値が高くとも偽造品である限り国宝指定とはならないのでしょうか。「”正真正銘”の国宝級の偽造品」だけに、なんとも複雑な感じです。なお、宗氏偽作の朝鮮国王印(九州国立博物館所蔵)は、偽造品ながら重要文化財指定となっています。

「古代エジプト」観覧メモ

九州国立博物館の観覧ついでに足を延ばして福岡市美術館で開催中の米NY市のブルックリン博物館所蔵特別展「古代エジプト」も観てきました。この日は平日の午後、雨天ということもあって美術館近くの大濠公園は人もまばらでした。代わりに公園内の池では鳥たちがのんびり羽を休めて漂っていましたが、なかには池の周囲のランニング(あるいはウォーキング?)コースを散歩するカモもいて、人なれしているのか近づいてくる変わったのもいました。
さて、その「古代エジプト」ですが、王そのものよりもその周辺の人の暮らしにまつわる情報や出土品の展示が新鮮でした。会場に入ってすぐにあったのが、古代エジプトにおける人気No.1の仕事「書記」についての解説や関連の展示物でした。古代エジプトの「書記」とは、神の言葉である文字を操る役職であり、神官であり官僚でもあるということでした。筆記に際しては葦ペンを使います。読み書きの知識の力があるということは、かなり高い評価を受けていたそうです。書記は婚姻や不動産取引の契約書も書いていたそうですから、現代の日本に当てはめると、行政書士みたいなものだったと、強引に一人合点していました。
海外の収蔵品を日本へ運び込んでの展示となるので、数量は150点近くありましたが全般的に小粒感は否めません。それなら現地へ行けよという話になりますが、特別展観覧料2000円で館内別会場の常設展や企画展まで含めて見て回ると、相応もしくはお得な価格とも言えるなと思いました。特に同館1階の古美術企画展示室内で開催されていた「魅惑のインドネシア染織」は、島ごとに異なる模様や色合いが興味深く、一国におけるファッションにこれほどの多様性があることが驚きでした。ジャワ島だけかつて一度訪問した経験があるせいか、やはりそこの染織品が気に入りました。

「平戸モノ語り」観覧メモ

平日の午前でしかも雨天なら人がいくらか少ないだろうという読みで、太宰府市にある九州国立博物館で開催中の特別展「平戸モノ語り 松浦静山と熈の情熱」を観覧してきました。予想通り館内は割と空いていてじっくり見ることができましたが、梅が開花中の太宰府天満宮および参道は海外からの観光客や修学旅行生の団体がそれなりにいて賑わっていました。
ところで、特別展の主役は、江戸時代の平戸藩主であった九代の清(号は静山)と十代の熈(ひろむ)の親子(なお、氏の「松浦」は、「まつうら」ではなくて「まつら」と読みます)。父の清は肖像に描かれるのが嫌いなのですが、息子の熈は肖像画に描かれるのが好きで自分が気に入るまで何度も描き直しをさせるなど、性格は異なる面がありましたが、共に今でいう「学芸員」の資質・気質に恵まれた人物のように受け止めました。父の清は無類のコレクターであり、日記大好きの記録魔であるのに対し、息子の熈は史料の保存・修復に重きを置いた分類整理魔といったところでしょうか。藩主であったがためにそれなりに資力があり、江戸など都市の空気を吸い、各地の文化人との交流もあり、国元である平戸という根っこもありました。こういう稀有な環境にあった親子のおかげで貴重な品々が遺され、昨年10月に開館70周年を迎えた松浦史料博物館のお宝となっているわけです。
それと、常設展示室の一角で組まれていた、開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」も特別展と並ぶかそれ以上の見ごたえある品々がそろっていて豪華でした。秀吉治世時代の外交における文書改ざん事件や諜報戦の一端がうかがえるものもあり、ゾクゾクさせられました。

『ナショナリズムとは何か』読書メモ

1月23日から動画がネット公開されている「先端研クロストーク」(2025年11月7日実施)の中で、登壇者の一人である中井遼氏(東大先端研教授)の存在を知り、同氏近著の『ナショナリズムとは何か 帰属、愛国、排外主義の正体』(中公新書、1100円+税、2025年)に興味を覚えて読んでみました。
https://www.youtube.com/watch?v=_3swK2zGynA
これだけ大きなテーマを新書1冊で解き明かせるものなのかという疑いをもって最初は手に取りました。ですが、読み進める中で、国内外の膨大な先行研究を狩猟し咀嚼したうえで論述した労作というのが伝わり、疑念はきれいに晴れました。著者も「科学とは人類によるチーム戦である」(p.229)と書いています。何がわかっていて、何がわかっていないのかを、知っていないと、社会は貧困になり、さまざまな争い(最悪は戦争)が生まれるということを、本書で感じました。そのためにも本書で紹介されている実証研究の成果が社会一般に共有されることが重要です。
時に帰属意識や愛国心、排外主義をくすぐるナショナリズムは、政府や政治家にとって都合にいい武器になります。これはファシズムだけでなくてリベラリズムや環境保護運動との相性の良さもあり、多面的です。皮肉なことにナショナリズムは、学校や軍隊、鉄道、出版印刷文化が発達した時代から登場した面もあります。
本書で紹介されていた実証研究やデータの中で知っていて損はないトリビア的なものをピックアップしてみます。
・デンマークやアメリカでは、国への帰属意識が強い人ほど、同時に排外意識が強いが、カナダやイタリアでは逆の相関関係で帰属意識が弱い人ほど、同時に排外意識が強い。
・サッカーW杯の予選をギリギリ勝ち抜いた国とギリギリ敗退した国では、前者のほうが2~3年後に戦争を開始する確率が有意に高い。
・イギリスのサッカーのクラブチームの地元回答者を対象にした分析では、中東にルーツを持つ選手の入団後、体系的にイスラム教徒への偏見が減ずる現象が確認されている。
・バルト三国の「歌う革命」。「歌うことは抵抗すること」であり、1990-91年にソ連からの独立を回復した。エストニアで1988年に行われたイレギュラーな祭典では全人口の役5分の1が1か所に結集した。「太陽・雷・ダウガワ川」が歌われた。
・アメリカにおいてはアイルランド系移民やイタリア系移民が歴史的にはしばしば非白人グループに属するとみなされてきた。
・日本では、高学歴層のあいだで、表立って回答する際には一定の反中反韓的な態度を表明することが規範的なふるまいになっている傾向にある。
・19世紀、プロイセンに敗北したフランスが下士官の指揮と意思疎通能力を高めるために急速に言語統一を推し進めた。日本も黒船襲来やアヘン戦争による国際危機認識のもとでの近代化(明治維新)の中で学校教育と共通言語教育を普及させた。
・インドのヒンドゥー教徒を対象にした実験で、ヒンドゥー教徒の多い地域の災害情報とイスラム教徒の多い地域の災害情報を見せてそれぞれの寄付額を聞くと前者が多くなるが、インドの国土と国旗の情報を先に見せてから両方の地域の災害情報を見せると寄付額が同じ程度になった。
・第二次大戦終結後から1999年までに発生した国家間戦争の死者数は約330万人である一方、同じ期間に発生した内戦の死者数は約1620万人であり、およそ5倍である。
・かつてリトアニアの最大都市のビリニュスは北のエルサレムと呼ばれ19世紀頃まで同地最大の民族集団はユダヤ人であったが、現在は同地にユダヤ人はいない。第二次世界大戦の際に、約20万人前後のほとんどのユダヤ人がナチスドイツの侵攻前後に現地協力者とナチスの手によって殺された。当時のリトアニア住民は、ユダヤ系住民をリトアニアの独立を奪ったソ連の味方だと観念し、敵に通じていると想定していたからである。現在、リトアニアではこの経緯が高度な歴史認識問題となっている。
・国民の祝日の30日後に国家間紛争に至るリスクはそれ以外の時期より2~3割高くなっている。
・国外に同民族問題を抱える国において、比例代表制をとる国が失地回復戦争を起こす確率は1.2%であるのに対し、小選挙区制をとる国では5.8%となる。軍事独裁国家のある国がある年に同様の紛争を起こす確率4.5%よりも高い。

それはミュージアムかを判別する

ミュージアムといっても分類すると、総合系、歴史系、美術系、自然科学系とさまざまです。展示に力を入れているところもあれば、資料の保存や研究に重点を置いているところもあります。一般の人はその展示を通じて何かを感じるなり学ぶなり刺激を求めに訪ねていくのでしょうし、実際私もあちこちへ伺う機会があります。ですが、ミュージアムと名乗っていてもそのレベルはまちまちです。中にはこういうものを収集したので、陳列しましたと言っているだけの、勝手に眺めて楽しんでくださいという、ギャラリーショップ的なところもあります。でも、それでミュージアムと称していいのだろうかと思います。
高木徳郎編著『文化財を未来につなぐ 博物館と学芸員の仕事――学芸員をめざす人へ』(勉誠社、2800円+税、2025年)を読んでみると、ホンモノのミュージアムにはホンモノのキュレーターがいて、その判別に役立つ書籍だなと思いました。逆に日本における「博物館」とか「学芸員」とかいうのが、その呼称だけではレベルを保証するものではなく、国際基準からもかけ離れていることが理解できました。
まず、2021年に国が行った「社会教育調査」によれば、日本国内には、5771の「博物館」があり、次の3種類に分かれます。①登録博物館(911館、約16%)、②指定施設(旧・博物館相当施設、394館、約7%)、③博物館類似施設(4466館、約77%)。①・②は博物館法に規定され、その適用を受ける社会教育施設となりますが、③は博物館法の適用を受けない施設です。①は都道府県や政令指定都市の教育委員会による審査を受けて登録された「博物館」であり、学芸員がおり、年間150日以上開館し、公立施設では博物館協議会設置が定められ、原則入館無料となっています。②は国または都道府県・政令指定都市の教育委員会が登録博物館に類する事業を行う施設で、意外にも東京・京都・奈良・九州の国立博物館や国立科学博物館もこれに位置付けられている。学芸員に相当する職員を置くことが定められているに過ぎず、年間100日以上開館でいいそうです。③では学芸員の配置は義務でないこともあり、86%の施設で専任の学芸員がいないとされます。利潤の追求や観光施設のとしての集客、経営母体の情報発信が目的とするものもあります。
ところで、博物館法で規定されている「学芸員」の資格取得者のほとんどは四年制大学の所定の単位取得となっています。2007年度の数字では、全国で322の四年制大学が学芸員資格取得講座を設置し、8588人が学芸員の資格を取得して卒業していて、今もそれくらいの規模のようです。しかし、私もその資格を有しているので、わかるのですが、保存科学や修理にかかわる技術、展示や資料梱包にかかわる技法まで学ぶ機会はありませんでした。あくまでも準備教育ないしは基礎教育を受けたに過ぎません。それでも、博物館等に就職できる人が年間200人ほどあるようです。
この日本の学芸員制度は海外と比較すると特異です。たとえば米国の場合、学芸員の業務は、専門分野の調査・研究を行うcurator、資料の保存にかかわる技術者conservator、資料の修復にあたる技術者をrestorer、展示技術や演出を担当するexhibition designer、教育普及活動を行うeducator、資料の登録と管理を行うregistrarなど、専門分野に分化しているとのことです。欧米のcuratorは、大学で言えば教授に匹敵する研究実績と実務経験があり、博士号をもつのが一般的で、curatorの職に就くまでには、assistant curator、associate curatorなど、業績審査の過程を経て徐々に昇任することから、もしも図録や名刺でcuratorと肩書を英文表記している日本の学芸員がいたら、その経歴をよく確認してみる必要がありそうです。

6回目の戒厳令(修正更新)

秋政久裕様からのご教示により当初の記述から2点を修正更新します。
1.「4度目」ではなく「6度目」。大日本帝国時代の戒厳は、日清戦争時、日露戦争時に「臨戦地境戒厳」が出ており、「行政戒厳」と合わせて5回出ている。
2.戒厳司令官は「畑俊六」で「佐伯文郎」ではない。戒厳司令官となった第二総軍司令官の畑俊六元帥は、船舶司令部司令官の佐伯文郎中将を、警備担任司令官に任命した。戒厳司令官はあくまで畑俊六で、佐伯は畑から区処された警備担任司令官である。

(以下は修正前の記述)
AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE

イスラムの世界史

イスラム地域研究の専門家である宮田律氏によるの最新著『50のストーリーでつながりがわかるイスラムの世界史』(中央公論新社、1950円+税、2025年)は、ふだん馴染みがないイスラム世界の歴史を理解するのに適した教科書としてお勧めではないかと思います。馴染みが薄いとはいえ、日本におけるイスラムに関する報道は、テロや戦争に関係するものがほとんどなので、イスラムに対するイメージが、何かしら物騒な得体のしれない怖さを秘めたものになっているのが、実情だと思います。しかし、本書を読むとイスラムは本来、テロや暴力を否定し、子どもや女性、高齢者などに対する保護を強調する宗教ですし、貧困者を救済するために喜捨の義務があり平等を求めます。信仰を強制せず信仰の自由を保障することから、歴史的に見ると、ユダヤ教徒やキリスト教徒との共存ができた時代がはるかに長かったことを知ることができます。
学問の発展についてもヨーロッパ・キリスト教世界で花開いたイメージが私たちには強くあると思いますが、これも歴史的に振り返ると、その基礎がイスラムの世界発ということが、医学や数学、天文学さまざまな分野で多くあります。算用数字をアラビア数字と称することを思い出してもらうと、納得されると思います。現在のアフガニスタンのタリバンからは想像できませんが、音楽・楽器もその源がけっこうイスラムの世界にはあります。
さらには、食文化においてもイスラム発祥のものが多いと知り、これがもっとも驚きでした。私がウィーンで飲んだコーヒーも、ローマで食べたパスタ、マドリードで食べたパエリアなど、いずれもイスラム世界からヨーロッパへもたらされたものです。
本書は、イスラエルとパレスチナとの関係など、現在の不幸な側面についての解説にもページを割いていますが、平和共存は絶対に不可能なのかを歴史から学ぶべきだと思います。現在の日本国内においてもクルド人に対する不当な差別も無知や誤情報思い込みゆえに起こっていることで、みっともなく思います。