葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。