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ピラ校登頂男のその後

「オール学習院の集い」の開催日(4/13)に合わせて学内で行われる今年の大学新聞同窓会への出席を前に、43年前と42年前に私が書いた「ピラ校登頂男」(O君、2年連続経済学科4年)のその後の情報を、当時の先輩から聞きました。
なんと現在、福島県D市の市議会議員を務めているということでした。しかも定年まで地元県警で勤め上げ、退職を機に行政書士もされているとのこと。
ビックリしたやら、同業の縁を感じるやら。
「ピラ校」とは、2008年まで存在した高さ約25メートルの四角錐の教室(1968年にウルトラセブンによって一度破壊されたという話もある)。写真は下記ページ参照。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/100th/pyramid/

無教育の責任は大きい

ミネルヴァ日本評伝選のシリーズ本として2025年1月に刊行された大石眞著『井上毅』を読了しました。井上毅(1843-1895)は、明治政府の法制官僚として活躍した人物ですが、第二次伊藤内閣では文部大臣に任命され、1年5カ月余りの在職期間でしたが、教育行政についてもスピード感をもって成果を上げたことが紹介されていました。
在職中、高等師範学校卒業生を前に「一体教育とは恐ろしいものである。教育で国を強くすることが出来る、又教育で国を弱くすることも出来る。教育で国を富ますことが出来る、又教育で国を貧乏にすることも出来る……無教育の責任は大きなものである」(p.282-283)と説示しています。教員者に対して自覚と責任を促しているわけですが、同時に大臣である自分の責務を表明したものだと受け取れます。
井上は大臣に着任してから1カ月半後には伊藤総理大臣に「文部の事務釐正(りせい)[改正]を要する件」をまとめた「施設の方案を具へて閣議を請ふの議」を提出しています。これは、総合的な教育行政方針を示したもので、「政府に於ける今日の義務」として「財政の許す所に於て教育費を国庫より補助する事」などを通じて初等教育の普及を図ること、工芸教育を充実させること、高等中学校を改正して大学の改革を行うこと、女子教育を推進すること、私立学校を含めて文部省の統率・保護監督権を徹底することなど七件を挙げ、これが中途半端に終わらないよう「内閣の決議」を望むことを伝えています(p.283-284)。そしてそれらの政策は実現に向かうこととなります。
まさに仕事ができる人物でしたが、病身のため、大臣退任の翌年53歳で生涯を閉じます。もちろん明治時代に求められた教育と現代のそれとは異なるところもありますが、政治家の資質は時代が異なっても主権者である国民は問い続けなければならないことは言うまでもありません。
なお、本書の巻末にミネルヴァ日本評伝選の既刊・未刊を含めた一覧が載っています。その中に大学同窓の杉原志啓氏が「徳富蘇峰」と「松本清張」の担当著者であることが示されていました。いずれも未刊なので、刊行されたらすぐ手に取ってみたいと思います。

大課長やコンサルがはびこる企業に未来はない?

きょうの朝日新聞くらし面に、企業にはびこる「大課長」問題の記事が載っていて面白く読ませてもらいました。会社員を14年前に卒業した私からすると、社内の階層にまつわる話は無縁でどうでもいいように思えます。しいて言えば、大企業だろうが、零細企業だろうが、あるいは官公庁でも、社長マインドをもった人がいなければ、事業の継続もままならないだろうし、内部の社員が仕事に携わっていても楽しさや誇りは感じられないのではないかと思います。
記事中では、社長の役割にも触れてあって、それによると次の4点となっていました。
(1)会社の中期重要推進テーマの策定・決定
(2)中期的重要テーマの推進を役員にミッションとして渡す
(3)中期的重要テーマの進捗モニタリングをする
(4)中期的な重要テーマを推進できる人を登用する
私が注目するのは、上記(1)と(4)です。(4)の前提として、社内に仕事ができる人材を養成しておかなければなりません。ところが、(1)のテーマ策定や(4)の人材養成を安易に外部のコンサルに投げてお任せの企業はうまく事業が回っていかない気がします。大課長上がりの大部長の社長であれば、コンサルを入れればそれで自分の仕事が終わったと勘違いしてしまうのかもしれません。
逆に言えば、こうした重要な役割を内製化できないようでは、ろくな計画も立案できないし、事業を推進できるスキルをもった集団にはいつまで経ってもなれないと思います。最近は地方の行政の計画づくりにもそうした傾向が見られますし、先行きに不安を感じる若手の自治体職員の退職も目立ちます。
結局社長にとって代わる人材が育っていない企業(地方自治体も)に未来はないのではと考えます。
https://digital.asahi.com/articles/AST1P3V1BT1PULLI004M.html

中2時代の2月26日の記憶から

きょうは2月26日だなという認識とともに、朝から中2のときのその日を思い出して、半世紀近く前のことなのに、われながら記憶力とはおもしろいものだと感じました。その日は、中学校の職員室内で金銭盗難事件が発生したとのことで、朝から警察が現場検証に入っていて、もちろん生徒は職員室周辺に立ち入るなという指示が出ていて、なんとも落ち着かない校内の雰囲気だったことを覚えています。当時生徒会長として昼休みや放課後の私の居場所であった生徒会室の行事予定表に、役員でもない同級生が事件発生を記録し、その後の捜査の経過を書き込んでいましたが、結局ホシを挙げるまでには至らなかったようです。ともかく歴史的に著名な「二・二六事件」と同じ日付に校内で発生した非日常的な出来事だったので、中学生たちはいたく興奮したのだろうと思います。
ついでながら生徒会活動の思い出としては、なんといっても全校生徒の民主的賛成決議を経てまとめた男子生徒の頭髪にかかわる校則改正案(丸刈り強制ではなく長髪選択を可とする)が、職員会議であっさり否決されて成立しなかったというのが最大です。大半の先生たちの否決理由というのが、長髪は中学生らしくないとかいう、くだらないものでした。学校教師の偽善ぶりを目の当たりにしたので、今となっては政治教育のいい経験だったと思います。強制的同姓から転換して選択的別姓を認めることを頑なに反対する大きなお世話の連中とまるで同じで、世の中の「わからんちん」の存在を、身をもって先生たちが可視化してくれたのかもしれません。
その中学校の職員室の新聞雑誌配架台には雑誌『世界』があって、そのバックナンバーが図書室にありました。私が印象に残る『世界』連載記事は、なんといってもT・K生の『韓国からの通信』でした。他には、ソルジェニーツィンの『収容所群島』に親しみました。民主化運動を弾圧する軍事政権下の韓国や収容所での強制労働が行われていたスターリン主義下のソ連とは当然比較にはなりませんが、中学生の人権なんて権威主義国家の国民と同じく軽いものだったことは否めません。
ほかに中学校時代の教師の発言として記憶に残るのは、同僚に対する蔭口です。当時は学校対抗の男性教職員のソフトボール大会があって、たまにその練習がグラウンドであっていました。映画評論については抜群であってもおよそスポーツが得意ではない国語の園村昌弘先生(退職後の1985年『スポーツという女-二本木仲之町界隈』出版)がおられて、園村先生はまったく練習に出てこられませんでした。そのことを指して実家の小川町の寺で住職を務める社会科教師が「あいつは一度も出てこない」と、生徒にも聞こえるような批判をたたいたことがあって、いけ好かないやつだなと感じた思い出が残っています。政治家はもちろん学校教師とか宗教家とかいう肩書だけで人を判断するなということが学べたと今では考えています。

猫の目に劣る

2月22日は「猫の日」です。その前日、1時間ほど役所内での学校や地域の関係者らからなる会合に参加しました。その会合の終わり方に、学校ボランティア代表の人物が、外国人の観光地におけるマナーを問題視する意見を場違いにも述べていました。確かに一部に観光公害もあるかもしれませんが、マナーが悪いのはすべて外国人と言わんばかりで、ヘイト思考を苦々しく感じました。
一方で、この会議中に次のような迷惑行為に遭遇しました。私の隣り席の小学校長上がりの人物が、一度ならず二度も腕時計から電子音を長々と鳴り響かせたのです。その都度、私が制止を求めるまで止めなかったものですから、これを無視しての外国人ヘイト発言が余計に一方的な偏見と感じました。
「猫の目が変わるように発言が変わる」などと、ふつうは「猫の目」の変化を否定的に捉えます。しかし、目の前のマナーが悪い日本人は見ないで、どこかの外国人観光客全体を嫌悪する自説を会議の場で披露する見苦しさに接して、人の目はつくづく見たいものだけ見ているものだなと思いました。猫に失礼だ、猫に謝れと、吾輩は呪っています。
写真はローマの「トレビの泉」(1990年12月撮影)。改修工事中のため張られたテントに観光客が投げ入れるコインを追い回して、猫たちが戯れていました。これがイタリア版「猫に小判」というやつ?

近代日本の礎を築いた肥後藩校の無償教育

大石眞著の『井上毅 ―大僚を動かして、自己の意見を貫けり-』(ミネルヴァ日本評伝選、3200円+税、2025年)を昨夜から読み始めたところです。熊本に生まれ今年没後130年となる井上毅(1843-1895)は、明治憲法や教育勅語、国会開設の勅諭をはじめ、重要政策の立案・起草に中心的役割を果たし、近代日本の礎を築いた法制官僚なのですが、政治の表舞台で動いた鹿児島や山口の出身者に比べると、あまり知られていない人物です。私も中央に出てからの能吏としての足跡はある程度知っていましたが、井上毅が若いときにどのような教育を受けて、その資質を備えるに至ったのかについては承知していなかったので、本書はそれを理解するのに役立ちました。
まず注目したのが肥後細川藩の教育システムです。対象は藩士の子弟に限られますが、今でいう教育の無償化がすでに実現されているのです。毅(幼名:多久馬)は、家老・長岡監物の家臣である、たいへん貧しい藩士の家に生まれますが、幼少のころから英才であったようで、二人の兄が読書していたのを傍らで聞き覚え、いつの間にかその書物を暗誦していたとか、4、5歳頃には母から教えられた百人一首をすべて暗記していたというエピソードが残っています。10~15歳の間は、長岡家家塾「必由堂(ひつゆうどう)」で勉学に励み、ここでもたいへん優秀だったようです。15歳になると、監物の推薦で藩校「時習館」への進学塾的存在の木下犀潭(長女の鶴は毅の後妻。孫の木下道雄は昭和天皇の侍従次長。道雄の妻・静は劇作家の木下順二の異母姉)の塾に進み、木下門下の三秀才のひとりと呼ばれます。
そして、20歳のときに木下犀潭の推薦で時習館の居寮生となります。その修学費用は長岡家から支給されました。居寮生とは、「藩中の子弟より学力才幹の衆に秀で群を抜き、将来有望の目ある者を採りて之を特待し、学費を給し優遇を為して館中の寮舎に居らしめ、学問を勉強せしめ、他日之を重用して藩政の要地に立たしむる者」とされた、「藩学に於ける官費寄宿生」を指します。時習館における勉学は経史子集の四部からなる漢籍中心でしたが、後に藩からの推薦でフランス学修業のために長崎の広運館への遊学や東京の大学南校(東京大学の前身)への入学のチャンスも得ます。エリート優遇という面はあるにしても、近代以前の時代において無償教育の重要性が藩政で認識されていたのは刮目に値すると思いました。
次に、近代日本のグランドデザインを描いた法制官僚としての資質の源流について振り返ります。井上毅が初めて就いた官職は、わずか2カ月余りですが、大学南校での宿舎長を務めています。しかも、この間に「辛未学制意見」と題した大学南校学則の変更を求める意見書を書き上げ、学生や職員の賛同も得て大学当局へ提出しています。内容は、たとえば語学修業システムの改善など、大学の現状の問題点を指摘し、その要因を分析し、具体的な提案を行っています。しかし、あまりにもその献策が正鵠を射ていたためか、大学教員らの狭小な心証をすっかり害してしまい、当時29歳の井上の方から依願退官してしまう結果に終わります。
本書の副題にある「大僚を動かして、自己の意見を貫けり」は、やはり熊本出身のジャーナリスト・徳富蘇峰が井上毅を評した言葉ですが、優れた公務員つまり能吏としての資質はこのときすでに完成していたのです。それをもたらしたのは肥後藩の教育システムと言えなくはないなと感じます。

西洋画技法と戦争

久留米市美術館で現在開催中の宮城県美術館コレクション展を観ての気づきは、スパイ経歴とコレクターとのかかわり以外に、西洋画技法導入と戦争遂行とのかかわりがありました。というのも、明治期には陸軍士官学校や工部大学校(現在の東京大学工学部)で教鞭をとった洋画家がいて彼らの作品も展示されていたからです。彼らはアートとして教育にかかわったのではなく、外交・安全保障のツールとしての西洋画技法の教育者として携わりました。
当時の陸軍によって作製された地図は、地形図と写景(視図)から成り、士官学校で西洋画技法(画法幾何)や測量法、築城術を学んだ軍人たちによって作り出されていました。当時は写真が発達していないので、現地に行って、もしくは地形図から、現地ではどういうふうな風景に見えるかということをすぐ描くというのは、将校の重要な資質の一つとされていたようです。
工部大学校においても、モノの形を立体的に捉え、陰影や明暗、遠近を正確に描く西洋画技法の教育は重視されました。ついでながら触れると、この工部大学校は学習院とも浅からぬ縁があります。工部大学校の初代校長・大鳥圭介(1833-1911)は、後に学習院第3代院長を務めていますし、明治19年に校舎を火事で焼失した学習院は、明治23年に四谷に移転するまで工部大学校の旧校舎を使用していました。工部大学校の一機関として6年間だけ存在した工部美術学校で西洋画技法を学んだ松室重剛(1851-1929)が、明治22年から大正10年までの33年間、学習院中等科の西洋画教師を務めており、その関係で多くの教材が工部大学校から学習院へ持ち込まれたと考えられています。
前記の通り当時の陸軍において、地形の見取り図や地図を作成する能力は重要でしたし、学習院は陸軍士官学校や海軍兵学校へ多くの卒業生を輩出する校風も背景にあって、西洋画技法の教育を重視していたようです。なお、松室重剛史料は2000年に学習院大学史料館(2025年3月より「霞会館記念学習院ミュージアム」へリニューアル)に寄託されています。
戦意高揚のために描かれた絵画、それとは逆に戦争の不条理を描いた絵画と、単に美術作品として見るだけではなく、戦争遂行のための技術として教育に取り入れられていった歴史を辿ってみるのも興味深いです。
写真は記事と関係ありません。バルセロナのミロ美術館(1991年12月撮影)。

何がめでたいのやら

私の中学時代に出会った教師たちの記憶で残るものといえば、それぞれの専門教科以外での言葉ばかりです。中学1年のときの担任は英語の森田昌典先生でした。2月11日の前日放課後のホームルームで先生は、「明日は建国記念の日ですが、この祝日ついてはいろんな意見があるので、君たちもニュースや新聞を見て考えてみるといいよ」という趣旨の話をされました。紀元節が廃止となったのが1948年、建国記念の日が1966年の祝日法改正で祝日に加えられ、翌1967年の2月11日から適用されますから、まだ10年と経っていない時代です。
考えてみると、それからいつの間にか50年も経っています。ついでながら書くと、2年前にその中学校を訪ねた際には森田先生のご子息が教頭を務められていました。それはともかく、毎年、この日を迎えると、やはり先生の言葉を思い出します。そういうわけで本日の熊本日日新聞に目を通してみました。
同紙によると、八代宮において「八代建国記念日奉祝会」なるものがあったと、報じていました。どうも「建国記念の日」とは別モノの祝日をこしらえて神殿に向かって「万歳」を行う奇特な人々の集まりだったようです。地元首長もノコノコと宗教施設に出向いているのですが、これが公務扱いなのかどうか、記者は取材してなかったのか、記事では触れてありませんでした。
そのため、わざわざ前日の同紙の「首長の日程」を確認してみると、八代市長の公務予定は「建国記念の日奉祝会」(しっかり「の」入り)出席となっていました。
なお、本日の地元紙1面記事下には中国人留学生やクルド人に対するヘイト本の広告が載っていました。商業新聞といえばそれまでですが、カネがもらえればヘイト本広告を載せたり、勝手につくった祝日を祝う変な団体の記事を載せたりして、ずいぶんとおめでたいなあと思った次第でした。
おかげで、半世紀を経てもいろいろ考えさせられました。11日に公費の支出があっているのかどうかについては、八代市民のみなさんがお考えになればよろしいことです。
【追記】
ついでながら、八代市のホームページに掲出されている「市長スケジュール」では、参加する催事名が「建国記念日奉祝会」となっていました。したがって、2月11日の熊本日日新聞の「首長の日程」欄にある「の」入りの催事名は、新聞社側での加工(忖度?)ということになります。
選挙で選ばれたからといって首長の能力が必ずしもあるわけではありませんが、せめて役所の秘書職員は親分の行動にご注進するぐらいの器量はあってしかるべきなのではと思います。

【記録】・・・新聞社へも以下の問合せメールを送信してみました。
種類:記事の内容について
件名:「首長の日程」欄での行事名書き換えの理由について

貴紙2月12日18面掲載の「建国記念の日 県内各地で集会」の記事中、八代市長が八代宮で開かれた「建国記念日奉祝会」に参加したと載っていたので、公務で参加したのかを確認したく、11日2面掲載の「首長の日程」欄を読み返したところ、参加予定の行事名は「建国記念の日奉祝会」となっていました。
さらに、八代市ホームページ内の「市長スケジュール」も確認したところ、そこでも「建国記念日奉祝会」となっていましたので、なぜ11日の「首長の日程」欄には(12日の記事や市の公表情報通りとせず)「の」を入れて掲載されたのか、理由をお尋ねしたくメールしました。

あと別件ですが、12日1面の「ハート出版」の記事下広告についても質問いたします。東大・早稲田-有名大学が反日分子の供給機関にと決めつけた内容紹介付きで『中国の傀儡 反日留学生』というヘイトの恐れがある書籍の広告が載っています。中国人留学生全体に対する偏見を助長しかねないと懸念します。
なお、同出版社については、貴紙の昨年12月25日1面にも『埼玉クルド人問題』なるヘイトの恐れがある書籍の広告が載っており、重ねての蛮行を疑問に感じます。このような広告を掲載しても構わないとする貴紙の見解をお尋ねします。

結果はいかに

有事や原発災害の国民保護において法律はどこまで役に立つのか、限界があるならリスク対処の政策はどうあるべきか。そういうことをモノ好きにも考えてみようかと出願してみました。
最少開講人数に達しないと開講されないので多くの行政書士会員からの申し込みを期待しています。一方、定員超過だと審査で落とされることもあるようです。

『歴史的に考えること』読後メモ

宇田川幸大著『歴史的に考えること 過去と対話し、未来をつくる』(岩波ジュニア新書、990円+税、2025年)を読み終わりました。中高生といった若い世代が日本近現代史の流れをつかむには読みやすい良書だと思いました。著者は現在中央大学商学部准教授の任にいますが、研究は一橋大学社会学研究室で積まれたとのこと。同研究室と言えば、藤原彰-吉田裕の系譜をたどるだけあって、本書に接してすぐにそのレベルの高さを感じました。
著者は、「東京裁判」の研究で博士号を得ています。その筆頭審査委員は、やはり今月中公新書から『続・日本軍兵士』を刊行した吉田裕氏となっていて、「この裁判がアジアの民衆に対する戦争犯罪を軽視したことを具体的に明らかにしたことが指摘できる。その際、同じ帝国主義国である日本と連合国とが、ある種の共犯関係にあったことに注目している点に本論文のユニークさがある。」と評しています。ただ本人の言葉によれば、研究の原点は、祖父母から戦争体験を聴いて育ったことだと言います。上記書を手に取る機会がなければ、インタビュー音声もありますし、2024年7月27日の朝日新聞「交論」欄(聞き手は私の大学時代の先輩・桜井泉記者)もあります。
本書の内容は申し分ないのでここではあまり触れません。もっとも痛切に感じたのは、私たちが権力者に騙されずに平和に暮らしたいなら、優れた歴史家が必要であり、変(しばしばエセ歴史の構成作家である)な政治家や宗教家の声ではなく、確かな歴史家の考えに耳を傾けたが良いということでした。さらに言えば、そうした歴史家が生まれるには、それを導く優れた師匠の存在がなければ可能にはならないということです。私が大学生時分には、藤原彰氏が活躍されており、その名前は他大学の学生である私も承知していました。思えば、その頃は先生方も戦争体験者(藤原氏は中国戦線で従軍歴あり)が多く、まさにわがこととして研究していたのだと思います。一方で、1985年生まれという戦争体験がまったくない宇田川氏にあっても優れた研究が生まれるのですから、実に歴史家ってやつの仕事は尊いものです。
関連情報リンク
https://www.bookloungeacademia.com/283/
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/27136/soc020201400802.pdf
https://www.iwanami.co.jp/book/b458078.html
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/01/102838.html

※1993年8月4日の「慰安婦」制度に関する河野談話の問題点
著者は大きな進展と評価しつつも問題点を指摘している(p.171)
・主語が曖昧である。歴史学の多くの研究によって、慰安所を作り、「慰安婦」を集めた主体は日本軍であったことがはっきりしている。
・談話にある「軍の関与の下」ではなく、「軍が、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた」とすべき。
・軍だけでなく、総督府、外務省、内務省、警察などの官僚組織も「慰安婦」制度を支えていた。「慰安婦」制度が日本という国家が引き起こした組織的な性暴力であった、という点にまで踏み込む必要がある。

※「一国史などというものは本来成立せず、歴史の縦割りは、意味をなさない。歴史は輪切りにし、それを積み重ねてこそ真の理解ができる。(家近亮子『東アジア現代史』ちくま新書 p.18)

異能人材包摂力について

昨夜放送のNHKスペシャル「岐路に立つ東京大学 〜日本発イノベーションへの挑戦〜」を興味深く視聴しました。番組では、AI研究で著名で知られ、学生たちに起業を促し、イノベーションを生む人材を育成する松尾豊教授と、マッチング理論を使って人材がより生かされる社会を目指す、経済学者の小島武仁教授の二人を軸に、東京大学の取り組みを紹介していました。一方で、シリコンバレーと連携するスタンフォード大学やAI学部をわずか1年の準備期間で創設したマレーシア工科大学についても取り上げていて、規模やスピードで日本のイノベーション人材の輩出が立ち遅れていることが浮き彫りにされていました。それと若者の早期離職の高さや就労先に対する満足度の低さが世界と比較すると、「普通」ではない点が明らかにされました。このことによって、単に東京大学だけの問題ではなくて、日本社会における人材育成・活用の停滞ぶりに危機感を覚えさせる番組内容になっていたと思います。
社会にさまざまな才能をもった人材がいることは確かですが、適切な教育を受ける機会がなかったり、受け入れてくれる組織がなかったりすることは、容易に想像できます。スターアップにしろ、既存組織での新規事業立ち上げにしろ、そのワクワク感はそれを体験したことがない人にしか分からないことだと思います。しかし、それを可能にして成長軌道に乗せるには、資金や運営管理組織、取引先も必要になります。異能人材自身が必ずしも対人コミュニケーション能力に優れているとは限りません。場合によっては事業撤退・整理をせざるを得ない場合もあります。
ほとんどの企業からすれば大博打はせず、使いやすい人を雇用して組織を存続させることに重きが置かれると思います。
番組の最後の方では、元ヤンキーの中卒のIT技術者の若者が松尾研究室に出入りするようになったのを追っていました。イノベーション人材育成の入口がいくつもあるのはいいなと思いました。結局のところ包摂する側の器量次第なのかなという感想を持ちました。

新聞広告雑感

昨日の地元紙1面の記事下広告の内容と配置には、ちょっと考えされられました。
写真左側には「外国人ヘイトではない!」というコピー入りで、特定の外国人を排斥する出版物の広告が載っています。
この出版社の経営者は、さまざまな陰謀論を信奉するずいぶん奇特な人物のようで、同社ではもっぱら怪しい健康学やスピリチュアル関係の書籍を好んで出版しています。それら出版物の著者もアカデミックな言論界では無名の人が多いようです。
https://note.com/inbouron666/n/ndcdd031a3685
思想信条の自由、出版や表現の自由はありますが、ヘイトスピーチの自由というものがあってはなりません。人権侵害を赦してはならない新聞社がこのような破廉恥な広告を載せることに、疑問を感じました。
一方、写真右側には、岩波書店の『論理的思考とは何か』や『学力喪失』の新書広告が載っています。岩波書店が発行する雑誌「世界」では今年5回に分けてノンフィクションライターの安田浩一氏による「ルポ 埼玉クルド人コミュニティ」が連載され、在日クルド人がいかに不当な差別を受けているかを告発しています。神奈川の川崎で在日コリアンの人たちに対して不当な差別デモを繰り返している連中が、わざわざ埼玉の川口や蕨まで出向いて外国人ヘイトの活動を続けていることなどを記事では明らかにしています。
私たちの社会に、ネット上のヘイトデマやヘイト本に易々と騙されるような、論理的思考ができない、学力がなくて無知な層が一定数いるのもまた事実です。それだけに、岩波新書の広告が、左隣りの出版物の読者層を揶揄しているようで、これはこれで一種の皮肉を込めた広告配置として見なければならないのかなと感じました。

データつまみ食いの陥穽

エマニュエル・ドットの『西洋の敗北』を読み終わりました。本書の前に読んだピーター・ゼイハンの『「世界の終わり」の地政学』と比較すると、米国とロシアについての見方が対照的なので、その点がもっとも印象的でした。結論が異なるには必ずワケがあります。結論を補強する指標の集め方に違いがあるのか、同じ指標でも重視するポイントに違いがあるのかです。政治や経済、社会については、自然科学の実験とは異なり、再現して証明することができません。どうしても既存の指標をどう読み取るかで、対象の見え方が違ってきます。
トッドは、米国の実態を弱く捉え、ロシアのしぶとさ、したたかさを強く考えていますが、ゼイハンはまったく逆です。でも、どちらも首肯できる点があります。トッドは、実体経済、ことに工業生産やそれを支えるエンジニア人材の層の指標を重視しているように思えます。ロシアの人口は日本よりちょっと多いぐらいですが、2倍以上の人口を持つ米国よりエンジニア人口の絶対数は多いので、意外と工業生産力はあり、継戦能力が高いと、トッドは見ています。一方、米国内の政治家や弁護士、銀行家といった人材は、およそ生産性のない寄生虫集団呼ばわりしています。
しかし、ロシアのネックは人口の割に国土が広すぎる点です。領土を広げても安定的な統治管理は困難を極めます。その点、米国にはエリートの移民を引き付ける力があります。トッドの著書によれば、米ハーバード大学に占める学生の属性はかつてユダヤ系が高かったのですが、現在はアジア系が最も多くを占めています。米国人の学生がロースクールやビジネススクールへ向かう一方で、米国での2001~2020年の博士号取得者数のベスト10には①中国②インド③韓国④台湾⑤カナダ⑥トルコ⑦イラン⑧タイ⑨日本⑩メキシコとなっており、隣国のカナダとメキシコを除くとアジアの出身者が多いことがわかります(p.303)。しかもアジアの出身者は工学系あるいは科学系の博士号の取得比率が高いのが特長です。トッドが示す指標からむしろゼイハンの主張がより納得できる思いがしました。
ちょうどけさの新聞では経産省試算による2040年の発電コストを報じていて、それでは二酸化炭素対策コストがかさむLNG火力が原発より割高とされていましたが、核のごみ処理コストなどは考慮されていないようで、見掛け倒しの数字の疑念も抱きました。
同じように判決文も読み方次第でいかような主張もできます。やはりけさの新聞で、首相は八幡製鉄事件最高裁判決を引き合いに企業献金全面廃止は違憲だといっていますが、ある憲法学者は用途限定ない企業献金は禁止可能と判決文から読み取った旨を寄稿していました。
データつまみ食いの陥穽とならないよう気をつけたいものです。

戦争遺跡が語るもの

設楽博己編『日本史の現在1考古』(山川出版社、3300円+税、2024年)は、タイトル通り考古学研究の最前線を教えてくれる本なのですが、20本からなる章立てのなかに、菊池実氏による「近代日本の戦争遺跡を考える」論考が掲載されています。近代日本の戦争遺跡が、考古学的な発掘調査によって国内で初めて確認されたのは、2008年から2011年にかけて調査実施された熊本市山頭遺跡だそうです。これは1877年に勃発した西南戦争の遺構で、政府軍陣地跡からはスナイドル銃薬莢、薩摩軍陣地跡からは雷管といった遺物が出土しています。熊本県西南戦争遺跡は2013年に国指定史跡にもなっています。このように遺構や遺物は近代ですが、調査手法において考古学も活用されるので、本編に掲載されたようです。
近代日本の戦争遺跡の中でもとりわけ旧日本軍施設は、戦災による消滅だけでなく、敗戦時における意図的な破壊や関連資料の焼却、毒ガス弾に代表される砲弾類の処分など、証拠隠滅が徹底的に行われました(特に国外で多い。例:満州第731部隊跡)。そのような特殊な残存状況もあるので、考古学的調査研究の対象となりえる面があります。
本書では触れられていませんが、執筆者の菊池実氏は、「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の共同代表を務めておられます。同会の目的は、「日本近代史における戦争の実相を調査研究して記録し、戦争遺跡を史跡、文化財として保存し、もって平和の実現に寄与しようとする団体・個人の連絡・協議を推進すること」とあります。本書p.241においても「戦争遺跡は過去の文化における負の遺産、しかも忘れてはならない事実の厳粛なる遺構でありモニュメントである。さらに地域が戦争で失った貴重なもの(それは人命であり、地域の自然や文化である)、そして地域が戦災のあと復興し生きてきた歴史(地域の開拓など)を考えるうえからも、戦争遺跡の調査研究・保存活用は重要なのである。」と書いておられます。
上記の全国ネットワークの運営委員の一員である高谷和生氏が実行委員を務める「空襲・戦跡九州ネットワーク」の第11回菊池集会が11月23-24日に開かれましたので、受講参加しました。率直な感想として発表者のレベルがまちまちでした。軍事史研究に傾倒している報告や発表者の問いが何で結局何を伝えたいのか分かりにくい報告もありました。いろんな調査研究の切り口があるのですが、単に調べましたで終わって歴史の中にその事実をどう位置づけるのかまで至っていないと感じるものもありました。たとえば発表スタイルをフォーム化したり、要約を事前提供してもらい査読修正の機会を設けたりするだけでも、質が高まるように思いました。
もっとも発表者のすべてがアカデミア出身ではありませんし、そういう発表の体裁に対して意見するよりも、まず活動を行っていることに対して敬意を払うべきという考えもあります。今回の開催地の菊池(花房)飛行場ミュージアムの運営を行っている団体では、地元の方のボランティアでその活動が成り立っています。ミュージアムの建物は菊池市の所有ですが、光熱費その他経費はすべて団体からの支出と聞いてなかなか継続できることではないと感心しました。

『日本史の現在1考古』読書メモ

このところ歴史学関連の書籍を手に取ることが多いのですが、それはかつて学んだ内容(といっても大学入試のときは受験科目として選択しなかったので10代のころはあまり学習していません)から変化しているため、新しい知識を得る楽しみがあるからです。設楽博己編『日本史の現在1考古』(山川出版社、3300円+税、2024年)を読むと、世界史的位置づけでは新石器時代にあたる縄文時代と弥生時代の区分について学ぶ内容が、現在の高校生以下と大学生以上においてでさえ異なることが分かります(その時代は、文字がありませんから文献はありません。日本の土壌は酸性なので、縄文時代以前の人骨は残りにくいとされます。貝塚から人骨が発掘できるのは、貝殻がアルカリ性であるためです)。しかし、現在の考古学では自然科学の手法を用いた分析が可能なので、それによって従来考えられてきた区分よりは遡らせる必要が生じてきました。具体的には、最新の高校日本史の教科書では、縄文時代に始まりは1万6500年前、弥生時代の始まりは約2800年前と書かれているそうです。ただし、縄文時代が日本列島内できっかり約2800年前に終わりを迎えたわけではありません。朝鮮半島や大陸に系譜を持つ稲作農耕を例にとると、その始まりは北部九州から始まったわけで、東日本まで反映されるには数世代、数百年の移行期があります。つまり、地域差があります。指導者やエリートが登場し、武器型青銅器や銅鐸が広まるのは弥生時代中期、鏡や鉄製品、金属製の腕輪が広まるのは後期とされます。もちろんそれらをもたらしたのは中国という先進世界があり、そことの交流があったからです。言うなれば最初の国際秩序は中国が主導していました。
時代が下って古墳時代になると、倭が朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、加耶と密接な関係がありました。おおむね5世紀ころ、倭は百済や加耶からさまざまな技術を学び、多くの渡来人が海を渡って、多様な技術や文化を日本列島に伝えました。乗馬の風習も朝鮮半島から学んだもので、日本列島の古墳に馬具が副葬されようになったのも5世紀になってからです。より進んだ鉄器・須恵器の生産、機織り・金属工芸・土木などの諸技術、漢字の使用や水筒・外交文書の作成、6世紀以降の儒教や仏教の伝来など、渡来人の役割は大きいものがあります。実際、山川出版社発行の高校の日本史教科書には、「日本列島の中での人々の歩み」は、「様々な地域との交流の中で、その影響を受けつつ展開してきたもの」であり、「日本史を学ぶ場合、いつの時代についても、周辺の国々をはじめとする各地域の歴史や、日本と諸外国との関係に目を向けていく必要がある」(p.161)と本書で紹介している点は、重要な箇所だと捉えました。
このように、日本史一つとっても、学ぶ内容は研究の進展で変化しているので、実は年配者ほど学び直しが必要ですし、地理による時代進行の差や、逆に国境や国籍によらないボーダーレスな人的流れに対する視座が重要だと考えます。つい1世紀前の1930年代を振り返ると、記紀神話を前提とした皇国史観が日本の歴史学界の主流でした。そのことをもってしてもいかに歴史学は日々発展してきたのかが分かりますし、学習の成果がなくエセ歴史に嵌ったまま大人になった皇国史観国民が多数現存している知の貧困状況があります。もしも政治に携わる者が、こうした国民の後進性を憂いていないとすれば、それは騙しやすく管理しやすい対象として国民をバカにしているのか、本人自体がバカかのどちらかになるかと考えています。

戦争遺産と著作権

日頃意識することはほとんどないのですが、私は日本行政書士会連合会が実施する著作権相談員養成研修を履修し、その効果測定に合格した者に付与される「著作権相談員(日本行政書士会連合会)」の一員となっています。その名簿は、公開されていて本年10月15日現在のものを確認すると、熊本県内においては35名の会員氏名が載っています。先日、この名簿情報のグレードアップ化に向けたアンケート回答を求める連絡が、単位会を通じて日行連から届きましたので、久々に著作権について、にわか学習の機会がありました。
とはいえ、著作権は、出願・登録することなく著作物の創作によって自然に発生します。それもあって、著作権を文化庁に登録できる制度がありますが、これを活用する例はあまりありません。ただし、著作権は譲渡も可能です。したがって、著作者が必ずしも著作権者とは限りません。そうした権利関係を対外的に明らかにしておきたいときは、登録の意味はあるかもしれません。
それでは、著作権者が不明な場合の著作物をたとえば複製利用したいときには、どうしたら良いかというと、これは文化庁の裁定制度を利用する手があります。相当の努力を払っても権利者と連絡がとれないことを明らかにしないといけない点に手間がかかりますが、利用が認められれば、しかるべき補償金を支払って利用ができます。大学入試の模擬試験教材を作成する受験産業の企業がこの制度を活用していたりします。
もっとも一般の個人が、著作権登録を行うことはまれですので、著作物の公表後70年を経ていれば、著作権の保護期間はないものと考えていいと思います。保護期間の間であっても、著作権を相続する人がいなかった場合は、保護期間が終了します。間違ってならないのは、著作物は無体物ですが、著作物が印刷された書籍・プリント等の紙は有体物であり、それには所有権があります。著作者が亡くなっていてもさらには著作権の保護期間が終了していても相続人がいれば、書籍等の所有権は存続しています。
最近、戦争ミュージアムの役割に関心があり、そうした場所で戦前・戦中に書かれた文章や撮られた写真に出会うことがたびたびあります。それで思うのは、あくまでも著作権法上の観点だけで言えば、それらおよそ80年以上前に公表された文章・写真等を複製して資料展示することは問題ないと考えます。歴史から得られる教訓は人類共有の財産として広く目に触れることが有益だと思います。
加えて今回のにわか学習では、教育現場での著作物利用に際してかなり注意を要する点が多いと感じました。著作権法第35条には、「教育」における著作権の権利制限が規定されています。「学校」の正規の「授業」での利用目的なら、著作物の複製や公衆送信(注:補償金必要)が認められます。そこで、注意したいのは「学校」に当たらないものとして、営利目的の会社や個人経営の教育施設、専修学校または各種学校の認可を受けていない予備校・塾、カルチャーセンター、企業や団体等の研修施設があります。それと、「授業」に当たらないものとして、入学志願者に対する学校説明会、オープンキャンパスでの模擬授業等、教職員会議、高等教育での課外活動(サークル活動等)、自主的なボランティア活動(単位認定がされないもの)、保護者会、学校その他の教育機関の施設で行われる自治会主催の講演会、PTA主催の親子向け講座等があります。コロナ禍で活用が増した公衆送信においては、教育委員会(公立)や学校法人(私立)が、一般社団法人授業目的公衆送信補償金等管理協会(SA RTRAS)に授業目的公衆送信補償金を支払って著作物の利用ができる方法もできています(著作権法第104条の11)。
これらの点は、戦争ミュージアムが実施する平和学習において留意すべきだと思いました。私の気まぐれ取得資格の中に学芸員というのもあるのですが、学習当時にこういった知財関係の法律知識を学んだ記憶がなく、現在の履修課程ではどうなっているのか、このへんもいずれ確認してみたいと思います。

戦争遺産から何を学ぶか

水俣病センター相思社が設立されて50年。11月3-4日に記念の集会が開かれました。4日は、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが記念講演を行い、国内や世界の貧困、差別、暴力について語ったうえで、「大きな力には、つながる力であらがっていくことが大切」と呼びかけたと、6日の朝日新聞熊本地域面記事にはありました。
相思社を初めて訪ねたのは設立10周年の年の頃でしたから、かれこれ40年の付き合いになるので、今回のイベントには大いに関心があったのですが、その催しの案内を受ける前に計画していた旅行に参加するため、残念ながら参加者の報告を通じて思いを共有することとします。
それで、同時期に訪ねた場所としては、長崎市の長崎原爆資料館や佐世保市の無窮洞がありますので、その訪問記を記しておきます。ちょうど訪ねた1週間前には私の地元校区の小学6年生たちが、修学旅行で長崎市の平和公園や佐世保市のハウステンボスを訪ねたと、聞いていました。自身にとっても、50年ぶりの長崎県方面への修学旅行のようなものとなりました。
まず、長崎原爆資料館ですが、こちらの建物は28年前に建てられたもので、私が小学生当時に訪ねた施設とは異なりますが、被爆した展示物の数々にはかつて見覚えのあるものが多くありました。被曝後に若くして亡くなった生徒・学生の日記の展示からは、今もガザその他世界各地で突然命を奪い去る戦争の愚かさを痛切に感じます。今年、被団協がノーベル平和賞を受賞しましたが、それに関連した展示はまだ見当たりませんでしたが、先に受賞したICANのメッセージビデオを視聴できるコーナーはありました。核兵器開発の歴史とそれに抗う核兵器廃絶の歴史を対比して見せるコーナーでは、核実験回数が最も多かった年は、キューバ危機が起きた1962年、自分の生年と同じ年だと知り、憂いを大いに感じました。その後も核兵器は存在し続けているわけです。人類が自ら滅亡する兵器を携えたままでいられるのは、どう考えても狂気の沙汰でしかありません。
これに関連して触れると、小学生が修学旅行で核兵器がもたらす悲惨さについて学ぶ一方で、地元の市議たちは、本年の9月定例会に提案された「日本政府に核兵器禁止条約の参加・調印・批准を求める請願」を、賛成1対反対15の圧倒的差で不採択の議決をしています。請願者が共産党の支持者と目される人物だったので、ほとんどの市議はそこだけを賛否判断根拠をしてしまったのかもしれません。しかし、それならそれで、この請願の内容に反対票を投じるということは、自分が核兵器廃絶に対しても反対している立場を示すことになることを、どれほど理解できているのかと思います。どうやら、請願紹介議員の顔をつぶすのを目的とした、うわべの判断しかできず、自分の政治的信念に基づく政策判断ができない資質(=政治家としての志)の低さを感じます。
次に、無窮洞についてですが、これは1943年から1945年8月まで旧宮村国民学校の裏手に掘られた防空壕跡です。掘ったのは、現在の中学生の学齢に相当する当時の子どもたちで、洞窟には教室や書類室、台所・かまど、食糧庫、トイレ、非常階段が造られています。侵略戦争を是とする当時の教育内容にも問題がありましたが、戦時中は教育を受ける機会すら満足に得られない歴史があったわけで、当時の子どもたちが置かれた教育環境の劣悪さには哀しさしか覚えられません。しつこいようですが、不勉強な地元市議たちには、こうした戦争遺産を見学してもらいたいものです。
戦争遺産から学ぶのは戦争の愚かさだけではありません。いかにして戦争が始まらないようにするか、今起きている戦争はいかにして停めるかです。冒頭に触れた水俣病センター相思社の現理事長の緒方俊一郎氏は、球磨郡相良村において江戸時代末期から続く医院の6代目です。同氏の父は、太平洋戦争の前、陸軍菊池飛行場に併設された陸軍病院を建設する際にかかわられたそうです。そのため、同氏も菊池で1941年春に生まれ、幼少期は同地で暮らしていたと聞きました。そのこともあって、菊池の陸軍病院について詳しい話を聴くほか、関連資料を残しておられないか、改めてお話を伺ってみたいと考えているところです。

よりによって

イギリスの経済学者、ジョーン・ロビンソン(1903~1983)は、「経済学を学ぶ目的は、経済を語る者にだまされないようにするためだ」と言ったと、3カ月前に読んだ本(平賀緑『食べものから学ぶ現代社会』)に書かれていました。その論法で行けば、社会学の研究者には、社会を語る者にだまされない国民をひとりでも多く養成する使命があるのではと、勝手に考えます。
10月27日に水俣病センター相思社の理事会があり、翌朝、宿泊先の朝食会場で、理事のお連れ合いの社会学者と1時間ほど原発や戦争ミュージアム、歴史認識を中心に話をしていて、自然と話題は教育の役割や読解・言論リテラシシーへ移っていきました。その社会学者が語られるには、今の大学生は新聞を読まないし、事実は言えても自分の意見が語れず、教員が言葉を選ばないと学生に理解してもらえないなど、教員と学生の間での対話が成立しにくいということでした。いわゆる団塊の世代を頂点としてリテラシーは世代が若くなるほどに下がっているという見方をされました。私の周囲を見渡しても、たとえ難関大学卒の学歴を有する方や難関資格合格の専門職に従事する方であってもエセ歴史やエセ科学信仰に篤い例は多く見受けられます。文章を読む力がないとか、まともな文章を書く能力がないと感じる例によく出合います。
このことからも教育の果たす役割は非常に大きいと感じるのですが、来月、地元市主催で開かれる「こどもどまんなかの日」なるイベントの基調講演の講師に予定されている人物が、かつて「親学」を推進する「TOSS熊本」の中心メンバーであったフリースクールの経営者とあって、このような人物を講師として選ぶ市の思慮の欠如をたいへん残念に思いました。「親学」の提唱者や「TOSS熊本」のメンバーは、熊本県が全国に先駆けて2013年に制定した家庭教育支援条例に影響を及ぼしました。同条例は、親に対して「親としての学び」により「自ら成長していく」ことを義務付けるほか、(育児不安の解消や児童虐待の防止は、家庭教育のみで解決できる問題ではないのですが)公権力による保護者に対する過干渉というべき異様な内容が含まれています。TOSS は、科学的・学問的根拠はないヨタ話(「水からの伝言」「江戸しぐさ」)を教材として取り上げ、道徳教育にかかわっていたことでも知られます。加えて、同条例制定の「成功」に目を付けた旧統一教会の関連団体が、青少年健全育成基本法や家庭教育支援法の制定を求める意見書提出の請願運動を行い、本市議の一部が取り込まれたこともありました。
地元市の残念ついでにもう一つ事象を紹介すると、本年9月の定例市議会において「日本政府に核兵器禁止条約の参加・調印・批准を求める請願」が、賛成1・反対15で不採択となっていました(「うと市議会だより第87号」p.15より)。昨年は賛成4・反対13での不採択でしたから、核兵器廃絶を希求しない不見識な議員がさらに増えたことになります。なんとも情けない限りです。
写真は宿泊先からの風景(湯の児温泉)。

金沢・敦賀雑感

10月20日に石川県金沢市、同月21日に福井県敦賀市を訪ねました。北陸方面はこれまで縁遠い地で両県へは初めて足を運びました。より正確に言えば、1979年の夏に山形県鶴岡市で開催された全国高校総体参加のため、国鉄の昼行特急(おそらく「雷鳥」)で大阪―鶴岡間を往復通過したことはあります。ついでに言えば、鶴岡滞在中に気温40度超えの経験に見舞われ、ずいぶん難儀した覚えがあります。
それでなんでまた金沢へかというと、能登地震に伴う災害復興支援で輪島市へ派遣されている地元市の職員を激励するために計画したものです。計画後さらに豪雨災害が発生し、心労を心配していましたが、無事に会うことができて、そちらはたいへん有意義な時間を過ごすことができました。
わずか5時ほどでしたが、金沢市で観光したところは以下の通りです。
①金沢21世紀美術館・・・2004年10月9日の開業以来いつかは行ってみたいと思っていましたが、実際行くまでは20年もかかってしまいました。当日の有料展はコレクション展で国内外の作家による造形作品が中心でした。ですが、個人的に楽しめたのは、たまたま同館の市民ギャラリーで開催されていた入場無料の「KOGEI TIDE 縁煌15周年展」でした。縁煌(えにしら)は、ひがし茶屋街に本社を置く美術商のようです。同展では若手作家70名超の作品が並び、特に陶芸では繊細な文様の作品が印象に残りました。今月は有田焼に薩摩焼、そして九谷焼に連なる焼き物まで鑑賞できて、ずいぶんと贅沢な体験をしました。
https://www.enishira.co.jp/artist/
②兼六園・・・さすが加賀百万石の前田さんちの庭だけに細川さんちの水前寺公園に比べると広いなというのがまず実感でした。ですが、これもまったく個人的な経験になるのですが、今年8月に島根県の足立美術館へ行ってしまったがために、見る庭園としては雑然とした造りに思えてしまいます。だれでも園内を歩ける庭園としてこれからも観光名所として君臨することは間違いなさそうです。
③金沢城公園・・・ここも広いなというのが最初の印象。本丸は復元されておらず、跡地は森となっていますので、そこまで足を運ぶ観光客は少なそうだと思いました。金沢市中心部で能登半島地震の被害の痕跡を感じる場所はありませんでしたが、唯一、金沢城の石垣では崩れたところがあるを知りました。復元された建造物の中に「菱櫓」がありますが、櫓の角が80°あるいは110°になっていて、その昔にそうした軸組を可能にした建築工法があったことがたいへん興味深く思いました。
④ひがし茶屋街・・・ここは街並みを眺めただけです。和服姿で散策する観光客が目立ちました。
⑤金沢市立安江金箔工芸館・・・金沢城を訪ねたときに豊臣秀吉が築城させた名護屋城跡の雰囲気(眼下に海は見えませんが)に似た感じを抱いていたところに、金箔の沿革を示す年表に「当地における箔打ちは、加賀藩祖・前田利家が文禄2年(1593)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って滞在していた肥前名護屋(現在の佐賀県)の陣中から、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つように命じたことから、16世紀末には行われていたことが明らかになっています。」とあったことから、頭の中で、黄金の茶室や名護屋城とのつながりを勝手に感じました。同館を訪ねたときは、館のガイドがフランス語で団体観光客へ展示内容を説明していましたので、かなり海外からの入館者も多いのだろうと思いました。ホームページも8か国語対応となっています。それと、購入はしませんでしたが、センスのいい金箔のポストカードが土産物として販売されていました。
なお、同館の始まりは、金箔職人であった安江孝明氏(1898~1997)が、「金箔職人の誇りとその証」を後世に残したいとの思いから、私財を投じ金箔にちなむ美術品や道具類を収集し、北安江の金箔工芸館で展示したことにあります。そして、この安江孝明氏の息子が、「世界」編集長や岩波書店社長を務めた、安江良介氏(1935~1998)。つまり、良介氏の実家は金箔職人ということになります。「世界」編集長時代の同氏の文章で今も心に刺さっているのは、「若者は、タクシーを利用せずにそのお金で月に1冊でも岩波新書を買って読み、社会を知ろう」という趣旨の呼びかけです(当方はすっかり若者ではなりましたが…)。良介氏は1958年金沢大学法文学部法学科卒業ですが、金沢大学の法文・教育・理学部キャンパスは1949年から1989年まで金沢城内にあり、全国的にも珍しい「お城の中の大学」として親しまれました。熊本で言えば、開校当初の熊本県立第二高等学校が熊本城二の丸にあったのと同じです。この安江良介氏の金沢大学法文学部での後輩にあたるのが元大阪地検検事正の北川健太郎(1959年生)です。安江親子と異なり、石川県人および金沢大学の名誉を大いに汚しました。
https://www.kanazawa-museum.jp/kinpaku/index.html
※食事の方は、ゴーゴーカレー、8番らーめん、金沢おでんを賞味しました。
続いて敦賀市で観光したところは以下の通りです。
①人道の港 敦賀ムゼウム・・・敦賀港は、1920年代にポーランド孤児、1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港であるという歴史をもちます。ムゼウムとは、ポーランド語で資料館の意です。開館は2008年3月29日といいますから、最初の史実から90年近く経ってからの記憶継承活動だったと言えます。現在の建物は2020年11月にリニューアルオープンした二代目ということで、さらに新しい施設です。今回金沢を訪問するまでこの館の存在を知らなかったのも無理ありません。それにしても今から100年前あるいは80年前の当時者の子孫との交流が続いているは、感慨深いものがあります。難民救済の善行は後の代まで永く伝えられる証しとも言えます。
https://tsuruga-museum.jp/
②敦賀鉄道資料館・・・旧敦賀港駅舎を再現して建物となっていて入館は無料でした。欧亜国際連絡列車など初めて知る鉄道史がありました。小ぶりな施設でしたが、鉄道ファンには必見の場所なのではと思います。それと、敦賀市内には「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のキャラクターのモニュメントが随所に展示されていました。「鉄道の町」「港の町」で売り出し中であることを、行ってみて初めて知りました。鳥取県境港市の水木しげるロードが妖怪のモニュメントでいっぱいでしたが、モニュメントの大きさでは敦賀の方が大きめでした。
③その他もろもろ(赤レンガ倉庫、五木ひろしの洋鐘、魚問屋街、敦賀水産卸売市場、下着窃盗歴のある人物のポスター、晴明神社、気比神宮・・・)・・・日本海さかな街にも最初は寄ってみるつもりでしたが、食事には中途半端な時間帯でしたので、そこは寄らずに2時間程度で切り上げて帰途につきました。晴明神社は特に呪詛したい相手もなかったので前を通っただけです。気比神宮の大鳥居も周遊バスの窓越しに見ただけです。
※行きに大阪市内で「モータープール」の表示を見かけました。全国的には「駐車場」や「パーキング」を意味する言葉です。宮本輝の『流転の海』にはよく登場する言葉だったので妙に感動しました。

県立高等学校あり方検討会に係る地域意見交換会

「県立高等学校あり方検討会に係る地域意見交換会」の宇土市会場は、10月24日(木)18-20時の開催とあります。
「10年後、この地域にあって欲しい高校の姿」をテーマとしたワークショップとなるので、宇土市会場の場合は宇土高校の未来像を語ることになりそうですね。
参加を検討される方は、「県立高等学校あり方検討会」で交わされた議論も目を通しておかれると良いと思います。2007年度までは通学区が8学区だったのが、以後は3学区になりました。以来、宇土市は熊本市と同一学区になりましたから、わざわざ熊本市内の高校へ進学する生徒が増加した影響は大きいと思います。
個人的な意見としては、現在の併設型の中高一貫ではなく、都立の中高一貫校で向かっているように高校入学の募集停止に舵を切るべきではないかと考えています。
先生の資質は熊本市内の進学校と郡部の学校とで差はないです。若い時期の大切な時間を長い通学時間に費やすのはバカらしい限りです。
もっとも私がいま中学生なら時間の融通が利く通信制高校を選んでしまうかもしれません。じっさい中学生のときに宇土高校へ進んだ理由は、自宅から近いから以外にありませんでした。

「県立高等学校あり方検討会」
https://www.pref.kumamoto.jp/site/kyouiku/215119.html