「水俣病」カテゴリーアーカイブ

『環境と公害』(2026年夏号)読後メモ

○林美帆・除本理史「水俣病をめぐる継承の課題と公害資料館――百間排水口問題にもふれて――」
戦後81年、戦争体験者の減少により、戦争の記憶の継承が「ひと」から「もの」へ移っています。それと同様のことが、水俣病公式発見から今年で70年を迎えた水俣病事件を伝える公害資料館でも課題として浮上しつつあります。
しかし、公立か私立か、その設立主体によって同じ公害を対象とする資料館でも違いがあります。
たとえば、「市立資料館の展示を見ると、水俣市が一番アピールしたいことは、「過去」よりも、環境再生をとげた「現在」なのではないかと思われ」(p.23)ます。
一方、「(民間の相思社の)考証館の特徴の一つに、圧倒的な現物(モノ)資料の展示」(p.23)があります。水俣湾内に汚染魚を封じ込めるためとして設置された仕切り網、水銀ヘドロを封じ込める埋め立て工事が行われたときの看板、チッソ附属病院の細川一医師が動物実験で使用したネコ小屋、「怨」と染め抜かれた旗などの展示がそうです。被害者や支援者が運動の中で集めてきた、思いの詰まったモノだけに、公害を引き起こした側には居たたまれなさを感じさせる「圧」があるかもしれません。
ですが、この違いがあるからこそ見えてくるものがありますので、それはそれで意味があるように思います。
本稿では、2023-25年に保存をめぐって動きがあった、百間排水口問題についても取り上げています。この排水口は、チッソが1932-68年にメチル水銀を海へ流し続けた、水俣病の原点の地にあります。市が老朽化した樋門扉を撤去する予定でしたが、それを知った患者や支援者から保存を求める声が出ました。当時の県知事もこの問題にかかわり、最終的には公害発生当時の「形態」を残す新しい扉が設置され、決着しました。今回撤去した扉自体は1999年から交換設置されていた比較的新しいもので、逆流防止という機能もすでにないものでしたから、「ものの真正性」という視点からすると、レプリカ保存でしかありません。一種のオープンミュージアムの意味をもたせた保存方式に、関係者が合意した現れと考えられます。

○佐伯良祐「水俣病被害者互助会認定義務付け訴訟――福岡高裁判決の事例報告――」
本稿は、2026年4月23日の福岡高裁判決について未認定被害者の代理人を務めた弁護士が報告したものです。
2013年最高裁判決では、感覚障害のみであっても水俣病罹患を認める可能性を認め、1977年判断条件が要求する症候の組合せを満たさない患者を水俣病と認定しました。
ところが、今度の福岡高裁判決では「感覚障害が認められても他疾患の可能性が排斥されない限り、水俣病り患の証明力は減殺される」として最高裁判決の判旨を空洞化させる判断をしました。「これでは、水俣病以外には何の疾病にも罹患していない健康体の者でなければ、水俣病と認定されないこととなって」(p.29)しまいます。
さらに、裁判官らが当事者に不可能な立証を求めている点として、当事者が感覚障害の発症を覚えた時期の問題があります。「当事者らは、メチル水銀排出量のピーク時付近に出生しており、幼少期から水俣病(感覚障害)を発症していた可能性が高い。物心がついた時期から感覚障害を有する者は、成人後に感覚障害を発症した者と比較すると、自らの身体に感覚障害が起きていることに気付きにくい。正常な状態を認識したことがないからである」(p.30)という指摘を理解できる裁判官がいないという現実に慄然としました。

○高岡滋「水俣病の病態と広がり――民間医師団らによるその解明の成果と、求められる健康調査――」
寄稿者は、水俣にあるクリニックで永く被害者の掘り起こしを続けてきた医師です。
未だに救済されない被害者がいる理由の一つを、病像の矮小化を続けてきた医学界の重鎮たちに求めています。本来行うべき調査を怠り、医学的根拠のない診断基準を正当化し解明を妨げてきたとまで言い切り、不作為・隠蔽に関与した医学者の実名を挙げて批判しています。
学者が学問的信念を脇に追いやり政治権力にこびへつらうことの罪深さを思い知りました。

○「水俣病問題の現在地と将来への課題――支援者の視点から――」
司会を含め7人の座談会をまとめた記事です(実施は2026年4月11日)。
最も注目した出席者の発言を引用紹介します。それは、伊東紀美代さん(水俣病被害者互助会)のものです。「私が望むのは、国も県も市もチッソも水俣病問題でどこで/どう間違ったか、なすべき何をしなかったか、してはならない何をしたか、真摯に検証をしてほしい、そこは望みます。水俣病事件で悪いのはひたすらチッソであり、国、県だっていうことが水俣市民の常識になってほしい、誰もが何の疑いもなくそうなれば、もう少しみんなフランクに水俣病と付き合えるんじゃないかと常々思っています」(p.69)。
つまり、過去に対する反省としっかりとした後始末をつけないことには未来を切り拓くことはできないということだろうと思います。これは被害者・支援者にも言えることで、運動の中での過ちがないとは限りません。過去にどう向き合うかということはたいへん重要です。

わからなさのなかで

NHK・Eテレ「こころの時代〜宗教・人生〜」の「わからなさのなかで―最首悟の思想をたどる―」。今夜放送の番組ということです。ぜひ視聴したいと思います。
内容紹介を読むと、最首悟氏の教え子である丹波博紀さん(大正大学准教授)が登場するとありました。
丹波さんは、今年6月より水俣病センター相思社の理事に就いていただいていることもあって、私にとって最近知遇を得た方です。
「わからなさ」と言えば、外部から理念的に正しいことを追求していると見られる団体において、しばしば内部でハラスメントを起こす構造が放置されることがあります。丹波さんのようなしがらみのない新しい理事の良識に期待しているところです。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/K7QYR56NJ8?fbclid=IwY2xjawTKcWVleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFVbUoxWkljbHBpd2ZyNzZmc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHhkFmvYGQuvBWC0ltZXgatRyvA8-tjpiKAo78DArKf6DZChHZvPKFpQTS6ZA_aem_tevDpXRTg4f9fCrGxZD2GQ

『水俣病が描く近代日本の自画像』読書メモ

葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。

動画よりも紙面

辻田真佐憲氏が『文藝春秋』(2026年7月号)に連載中の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」の要約が動画で紹介されています。
動画では対談形式なので、相手からの話の振り方によって紙面では扱いがないエピソード(石牟礼道子の『苦界浄土』で記述される水俣の人の語りはノンフィクションか創作か。渡辺京二の解説をめぐって)へ飛ぶエンタメ性がある一方、文字数換算では圧倒的に紙面記事の情報量に劣るので、やはり原稿を読むべしと感じた次第です。
動画はある分野の知識を得るきっかけにはなりますが、知識事実を体系的に追い理解するには、やはり文字にはかないません。この動画の内容を別に過小評価しているわけではありません。内容的には水準が高いですし、動画の役割を認めた上で、読書が知の向上、ひいては社会の発展に寄与するという思いを強くしました。
https://youtu.be/7_oafo1eA7k?si=RG6ZAZAGTf3g8StX

2050年温室効果ガス排出量ネットゼロへ

「東大駒場リサーチキャンパス公開2026」のオープニングイベントに先日参加したおり、2年前に水俣病患者団体との懇談会のマイクオフ事件で一躍有名になった当時の環境大臣だった伊藤信太郎議員の姿が、会場にありました。なんでだろうと気になって同議員のプロフィールを眺めて見ると、一昨年、東京大学先端科学技術研究センターを訪問し、翌2025年から東大先端研エネルギーシステム分野アドバイザーに就いておられることを知りました。
その関係だと思われますが、上記イベントの2日前の衆議院経済産業委員会の質疑で、2050年温室効果ガス排出量ゼロ達成に向けた再生エネルギー(ペロブスカイト太陽光発電&蓄電池、グリーン水素)の活用を促す質問を、先端研の研究者の名前を挙げながら行っていました。選挙区が東日本大震災の被災地である宮城県ということもあって原発の活用は頭にないようでした。むしろ、大量生産・大量消費・廃棄社会、あるいは物質や金銭の量的拡大を重視する価値観からの転換を訴えていて、ユニークな人だと見直しました。この訴えを尊重していた経産大臣も結構懐が深いおもしろい質疑応答でした。一方、環境省の役人は、議員が求める2050年温室効果ガス排出量ネットゼロについて「野心的な目標」と揶揄する態度を示していて、つまらんなあと感じました。
政治家になるまでの経歴も変わっていて、若い頃は映画監督(マイクオフ事件後に相思社へ来水されたときに映画談義もあったそうです)を務めていたり、国際ニュース番組「CNNデイウォッチ」キャスター、大学教授であったり、多才です。ハーバード大学大学院修士課程修了(Master of Arts)であり、英語・フランス語・イタリア語・中国語に精通しているといいます。
対話力や発信力は並みの大臣よりもあった方だと思いますので、大臣を続けていれば今よりもずいぶんマシだったかもと思いました。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/report/page_00339.html
https://ito-shintaro.jp/profile
https://youtu.be/hvfTdDTAkuI?si=tdIjHKmO3Ob5lP1V

戦争、エネルギー、チッソ

歴史や社会の実相に対する目配りの鋭さをその発言から感じる若手の研究者の名を挙げるなら、私なら斎藤幸平氏と辻田真佐憲氏をまず思い浮かべます。2人には水俣病という公害事件を招いた歴史や社会構造にかなり注目している共通点があります。
その辻田氏が自身の動画チャンネル「辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ」(2026年6月14日配信)の冒頭15分過ぎまでにおいて、『文藝春秋』(2026年7月号)に同氏が連載の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」や相思社職員として水俣にて現地ガイドの経験を有する葛西伸夫氏の著書『水俣病が描く近代日本の自画像 新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2026年)を取り上げていました。そこで、戦争、エネルギー、チッソの関わりを語っていました。水俣病という事件を患者被害者に対する人権蹂躙や環境汚染の問題としてだけでなく、それをもたらしたもっと国策的な背景についても学ぶべきではと感じます。その素材としてチッソの歴史からさまざまな視座を得られると思います。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h12222?ref=innerLink
https://sekifusha.com/13046
https://www.youtube.com/live/Zm7mLEoCQC4?si=OaCpqPDXYmzQWxQe

『紙に描いた「日の丸」』読書メモ

『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店、2500円+税、2021年)の著者である加藤圭木氏について知ったのは、つい1か月前のこと。安田菜津紀さんがMCを務めるラジオ番組のテーマが、「朝鮮と水俣」であり、その配信回のゲストとして出演されていたからでした。よって氏の肉声に接したのが最初の出会いとなりました。そこでぜひ著書も読みたいと手に取りましたが、当然のことながら番組では語り尽くされなかった情報に触れることができて貴重でした。
著者は同書を通じて、足下から歴史を考えるということと、他者にとっての足下を想像してみることを目指したと述べています。日本の朝鮮侵略と植民地支配の歴史を取り上げています。国家と国家の関係だけでなく、その中で朝鮮人がどのような状況に置かれたのか、そうした困難に直面する中で朝鮮人が足下からどのように行動したのかについて目を向けています。
以下は、私が印象に残った記述のメモです。不知の情報を多数得た学びとなりました。
・1928年11月の昭和天皇の即位の礼に際しては、日本側が警察を通じて圧力をかけ、朝鮮人に「国旗」(日の丸)を掲げさせようとし、掲揚戸数を徹底的に調べ上げた記録が残っている。
・水俣病の原因企業のチッソ水俣工場が立地する町名は創業者の野口遵に由来する「野口町」。そのことをもっても企業城下町であることが明らかだが、チッソ(当時の社名は日窒)が朝鮮へ進出するにあたっては朝鮮総督府の権力を背景に土地買収が進められ、多くの朝鮮人が立ち退きを迫られた。化学肥料工場用地となった地域は元々、雲田面と西湖面という2つの行政区画だったが、合わせて新しく興南面という地域がつくりだされ、1930年10月、野口遵は初代面長となった。1931年11月、興南面が興南邑に昇格したことに伴って、野口は同邑長となった。企業のトップが地方行政の長も兼ねた。(p.70)
・支配意識は水俣から興南へ移り住んだ日本人男性たちにもあった。1930年代にはチッソ興南工場周辺には性買売がおこなわれていた貸座敷や料理屋などが立ち並ぶようになった。日本人による民族差別と性差別があった。
・植民地期の朝鮮は農業社会であり、人口の大部分を農民が占めていた。そうした朝鮮農民の多くにとって、日本による植民地支配の時代とは、自らの生活基盤を脅かされ、絶対的な貧困を強制された時代だった。1920年代には日本人が食べるための米を、朝鮮人に増産させる「産米増殖計画」がおこなわれ、朝鮮人は自らつくった米を消費できない飢餓輸出状態となった。(p.133)
・1934年以降は朝鮮農村の貧困層に対する「人口調整」の意味から北部における土建労働者への「移動紹介事業」という棄民政策がおこなわれた。(p.125)
・植民地期の朝鮮における日本人の大地主としては、三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎の長男である岩崎久彌や、大倉財閥を経営した大倉喜八郎、細川家の第16代当主であり大物政治家の細川護立などがいた。彼らは高額の小作料を課し、大きな利益をあげた。(p.133)

「国立歴史民俗博物館」訪問記

千葉県佐倉市にある佐倉城址の一角に建つ「国立歴史民俗博物館」が開館したのは1983年のこと。都内に在住していたその時分に一度行ったきりで、以来足が遠のいていましたので、先ごろ40年以上の時を経て2度目の訪問を行いました。沿革で振り返ると、前回訪問時の展示規模は現況の半分以下でしたし、リニューアルもあって、今回訪ねてみると、まったくの別モノ、初めての施設といった印象を持ちました。それと、急に思い立って向かったので、着いたのが閉館まで残り1時間という状況でした。第1展示室(先史・古代)だけで気付いて見ると30分を費やしてしまい、続く第2(中世)・第3(近世)・第4(民俗)・第5(近代)・第6(現代)の展示室については相当駆け足の見学となってしまいました。本来朝から夕方まで終日通しで観に行くつもりで予定を立てるべき施設だったと思いました。
さらに、同地は、佐倉城址であるとともに、先の大戦まで旧日本陸軍の歩兵第五十七聯隊(1944年、フィリピン戦で壊滅)の兵営があった戦跡の場所でもあります。近現代史のオープンミュージアムの地でもあることを踏まえると、第6展示室だけでももっと丁寧に観たかったと悔やみました。熊本関連ではチッソと水俣病の展示がありました。
https://www.rekihaku.ac.jp/

環境省の悪だくみが露見

4月16日に環境省職員による「水俣病は他の公害病と比べて恵まれている」発言は「あった」というのが、やはり事実だと落ち着きそうです。
この発言をめぐる水俣病患者連合発の文書は、以下の3点となっています。
(1)5月1日付け要望書…発言が「あった」。
(2)5月3日付け声明文…環境省を通じて発出。会長補佐が「発言があったとは認識していない」と否定。
(5月12日の環境相記者会見でも「事務方に確認し、不適切な発言はなかった」と石原氏が述べる。)
(3)5月13日付け声明文…発言が「あった」。3日の声明は会長の確認を得ておらず「無効」。会長補佐も謝罪。
上記(2)の文書発出の背景に環境省による被害者分断工作があったと考えるのが自然ではないでしょうか。
環境省の職員は、一時は患者連合の一部役員を手なずけてシメシメと悪だくみが成功したかに見えましたが、結果的に自分たちの親分(大臣)にもウソを言わせてしまったことが明るみに出ました。
(1)~(3)の文書は、行政が国民との向き合い方で陥りがちなミスを省みる資料として、ぜひ展示されるべきです。
https://kumanichi.com/articles/1990727

朝鮮と水俣

安田菜津紀さんがゲストを迎えて対話するラジオ番組の5月6日配信回のテーマは「朝鮮と水俣」。ゲストは、『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店、2021年)の著者である、一橋大学大学院社会学研究科教授の加藤圭木さんでした。朝鮮近現代史・日朝関係史の研究者である加藤さんは、大学院生時代の2011年3月10日(東日本大震災の発生前日にあたる)、初めて水俣を訪問し、水俣病センター相思社へも行ったことがあると明かしていました。
水俣病の公式確認から70年が経ちましたが、その原因企業のチッソ(当時の社名は日窒)およそ100年前の1925年に日本の植民地支配下にあった朝鮮へ進出し、建設したダムによる発電事業や肥料製造事業展開します。その過程で朝鮮の人びとの人権を蔑ろにする様々な問題を引き起こしました。この番組中の対話によって、朝鮮におけるチッソの人権軽視の体質が、水俣病の発生と隠ぺいによる被害拡大、被害者差別につながったことが学べます。つまり、水俣病の歴史を70年と限って振り返るのではなく、昭和100年の時間軸と空間軸にまず一歩広げて考えみる大切さが感じ取れました。
番組MCの安田さんによる水俣取材文も参考になります。
https://www.youtube.com/watch?v=0bDSsnemk9k
https://www.iwanami.co.jp/book/b593242.html
https://d4p.world/33600/

水俣病70年と昭和100年

5月6日(水)午後10:05放送の「斎藤幸平が掘る!日本の現場 ~水俣病の70年~」が、「らじる☆らじる」で2026年5月13日(水)午後10:55まで聴けます。
特に地元紙の元論説委員長の高峰武さんが、なぜこの事件が終わらないままになっているのか、過去の流れを分かりやすく語っているので、良質の番組でした。
この放送を聴くと、先日の「昭和100年記念式典」での首相の式辞の内容がいかに薄っぺらいものだったかと改めて思います。まさに「過去の歴史から謙虚に学び、深い反省とともに平和を守るために必要なことを考え、将来へとつなげる努力を伝えることが大切」です。
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=MZNLX8Y17X_01_4314940

役人がダラ幹を丸め込むのはお手のもの

久々に「ダラ幹」というワードが、私の脳内に浮かんだニュースでした。
被害者団体が5月1日と2日後の3日に出した文書において、ある事実の記載がまったく違うものにすり替わる珍妙な出来事が起きました。この間に権力の側がどのようなお家芸を働かせたのか、それに団体幹部がいかに易々と乗せられたのかが窺えます。
(下記は新聞記事を基に再構成)
▶5月1日の文書・・・団体幹部と事務局長が事前確認の上、環境相へ提出。
「事前協議で環境省職員が『水俣病は他の公害患者に比べて補償が恵まれている』との趣旨の発言をした」と記載。
※提出時に、事務局長が口頭でも指摘し、幹部もその場で否定しなかった。
▶5月3日の文書・・・環境省経由で報道機関へ提供。(文面も役人が起案したのでは?)
「(環境省側から)そのような発言があったとは認識していない」と、1日の文書で指摘した事実を否定。
※団体幹部が事務局長の指摘を否定したことを受けて、環境省は「省内の調査でも現時点で指摘された発言は確認されていない」としてまんまと火消しに成功。事務局長はハシゴを外された形に…。
◎両文書を水俣病歴史考証館でぜひ対比展示してほしいものです。
https://kumanichi.com/articles/1987685

入場無料で街歩きを楽しむ

いくつか見てみたい入場無料の展示会が熊本市内で開催中なので3時間ほど街歩きを楽しみました。まず向かったのは、展示会ではなくて「平和憲法を活かす熊本県民の会」や「くまもと9条の会」が毎月3日に下通入り口(HAB@前)で行っている「9条を守れ!憲法をいかせ!スタンディング」。署名したら「NO WAR 9条は世界の宝」とプリントされたワッペンをいただきました。実はこうした抗議活動は全国各地で開かれています。足を運んでみたいのなら「デモカレンダー」のサイトが参考になります。
https://democalendar.jp/
次に向かったのが、3月20日にリニューアルした熊本県伝統工芸館。同館入り口前には熊本城を背景に「くまモン」像が撮影できるスポットができていました。入館すると、1階正面には「宇土の雨乞い大太鼓」が陳列されているのも目をひきました。もっともお目当ては、熊本県出身であり、ミニチュア写真家・見立て作家として世界的に活躍する田中達也氏の作品が展示開催中の「ミニチュアくまもと旅するモン」。熊本県の特産品の風景に見立てたミニチュアアートの世界を堪能してきました。
https://kumamoto-kougeikan.jp/spexhibition/r7ex1.html
それから電車通り沿いに歩き、白川沿いの満開の桜が見える大甲橋を渡った先の九品寺にある「Iso Books」を初めて訪ねました。ここは、元酒屋さんを改装して昨年8月にオープンした書店&ギャラリーです。大型冷蔵庫をそのまま書棚として活用していたり、外観に酒屋時代の看板を残していたりと、なかなか風情があります。今はなき喫茶カリガリの店主の娘さんが、この書店&ギャラリーのオーナーです。ご本人が美大出ということもあって書籍の品揃えは美術書関係が多いです。あと水俣関連の本も扱っているので、最新刊の熊本学園大学水俣学研究センター編著『水俣病 これまで・今・これから』(熊本日日新聞社、800円+税、2026年)が置いてあれば買おうと思っていましたが、あいにくそれはなく、熊本駅ビルにある書店で求めて帰りの電車内で読み終えました。4月2~15日の間は、同ギャラリーで、たなかみさきさんの「他人の服が似合う人」作品展(頒布可)が開かれていたので、それも観てきました。
https://www.instagram.com/p/DVadmA4AGWH/
入場無料の展示鑑賞の3カ所めは、くまもと文学・歴史館です。ここでは「来熊130年記念 漱石とその時代」が開かれていて、漱石が熊本で過ごし英国留学するまでの4年3カ月間の創作を振り返る内容となっていました。来熊した130年前と言うと、1896(M29)年、漱石が29歳のときです。私生活では結婚し長女も誕生します。展示で印象に残ったものとしては、正岡子規との交流関係の影響で俳句の創作に熱意を傾けていたことがうかがえました。書簡は毛筆でくずし字がほとんどですが、原稿用紙上のペン書きの字はマス目の小ささもあって割とちんまりした楷書で同一人物の筆跡とは思えない多重性を覚えました。展示チラシにも掲載されていますが、漱石の手による猫のスケッチ画も珍しくて見入ってしまいました。熊本では旧制五高の英語教師だったわけですが、漕艇部顧問もしていて展示品の中に同館と水前寺児童公園の間に今もある砂取橋から船で江津湖へ向かう途中の風景の記述もありました。その砂取橋の下を流れる加勢川の水鳥も同じ風景を見てるのかもと写真を撮って帰りました。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki

エトセトラ秋冬号

社会学・女性学が専門の鈴木彩加筑波大准教授が選んだ、2025年12月25日の朝日新聞「今月の3点」の論考の最初に、永野三智さん執筆の「水俣の女性たちの、性と生殖にまつわる話」(エトセトラ秋冬号)が取り上げられていました。
『エトセトラ』を取り扱う書店は、熊本県内では以下の5店舗しかないようですが、ぜひ読んでみたいと思います。
カライモブックス
mychairbooks
橙書店
長崎書店
蔦屋書店 熊本三年坂
https://etcbooks.co.jp/book/etc14/
ちなみに鈴木彩加氏は、2025年12月24日の朝日新聞夕刊「回顧2025 論壇」における「今年の3点」の中でも永野三智さんの原稿を取り上げておられます。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16370627.html

ステレオタイプな台湾理解に陥らない

専修大学図書館の「図書・雑誌無料頒布会」で入手した、1972年生まれの台湾在住の作家・甘耀明著の『鬼殺し』(白水社、2017年)を読み終えました。著者の甘耀明が6歳まで3世代で暮らしたのは、新竹と台中の中間に位置する苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷は先住民族のタイヤル族やサイシャット族が隣接して住む客家の山村でした。その地では、祖母からそれら先住民族の民間説話を聞いて育ちましたし、大学院時代はアミ族が多く住む花蓮で暮らした経歴を持ちます。この作品の舞台は、日本統治下で太平洋戦争が開戦した1941年12月から戦後の国民党軍による二・二八事件(1947年)までの台湾の架空の客家の村。そこで生きる元日本兵の少年(彼の義父はタイヤル族)と日本の台湾領有(1895年)に抵抗して独立を宣言した台湾民主国の義勇軍に参加したのち隠遁生活を続ける祖父との物語となっています。
特攻隊に対する風刺が上巻p.212にありましたので、一つ紹介しておきますと、客家の人たちが話す閩南語(びんなんご=台湾語)で「うどの大木」を意味する大箍呆の発音は、「トァクゥタイ」。本書で知り得たマメ知識です。(小説のあらすじを開陳するヤボなことはしたくないのでここまでにします。)
本書の魅力として知らしめたいのは、下巻巻末に掲載された訳者の白水紀子氏による解説にもあります。ここでは台湾における皇民化や戦後の国民党支配下での混乱といった歴史の流れ、多民族多言語(=多文化でもある)といった台湾の社会構造について概観できるようになっています。ちなみに2010-2011年の行政院客家委員会調べによると、大きく4つの言語グループがあります。古く福建など中国南方から台湾に移住した漢族で閩南語を話すホーロー人(福佬人)が67.5%、客家語を話す客家人が13.6%、戦後台湾にやって来て北京語を話す人が17.1%、16の先住民族が1.8%という具合。日本で受け入れやすい親日的な台湾人像でひとくくりにできない複雑な面を理解することができて有益でした。
明治大学平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗氏が、著書の『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫、2025年)で書いていることですが、歴史の記憶の継承において、ことに虐殺を伴う戦争の記憶においては、戦争の〈栄光〉や〈被害〉の部分といった〈表の記憶〉は比較的語りつがれやすいのですが、戦争の〈秘匿〉すべき部分や〈加害〉の部分といった〈裏の記憶〉は断絶しやすいと指摘していたのを思い起こします。加えて、〈戦争の記憶〉の継承が、ヒト(体験者)からヒト(非体験者)への時代が終わりつつあり、ヒト(非体験者)からヒト(非体験者)へ、モノ(書物・映像・遺跡・博物館など)からヒト(非体験者)へ移行してきているとも書かれていました。
それが、台湾のように多民族多言語で成り立つ社会であればなおさら消えていく記憶が多いと考えるのが当然だと思います。小説の手法で伝える力をもった作家が存在するのは、台湾にとって資産だと思います。
一方で、これは地元の動きなのですが、ノンフィクションを装ったフィクション記述のある出版物に寄りかかって地元と縁がある台湾人を英雄に仕立て上げて顕彰することが性懲りもなく続けられています。熊本県教育委員会が制作した高校生向けの「半導体理解促進ハンドブック」でも感じたことですが、とかく行政や報道は〈表〉や〈正〉については何度も伝えますが、半導体産業における地下水保全や排水処理など〈裏〉や〈負〉の情報については触れたがらないものです。地元の英雄伝説拡散についても、そういう話でもこしらえないと公職者らが公費で訪台し続けられない事情があったのでしょうか。そうだとしたら、なんとも嘆かわしい次第です。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/230153_650958_misc.pdf
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/wp-content/uploads/2025/08/e6e9d12972cf1ee954f680ed4d62fee9.pdf
https://jats.gr.jp/cp-bin/wordpress5/wp-content/uploads/journal/gakkaiho020_09.pdf
https://kumanichi.com/articles/1935853

科学と歴史からの学び

昨日、グランメッセ熊本で開催されていた「県立高校 学びの祭典」と「県科学展」を見てきて、科学的思考に親しんだ高校生たちの展示や発表に接しました。主に宇土高校のそれを中心に見て回りましたが、いずれも主体的に答えを導き出した努力が感じられ頼もしく思いました。同高生徒の研究に際しては私の居住行政区が連携協力していることもあって、当区の地域課題に向き合った発表もありました。
たとえば、「学びの祭典」のステージ発表の最初に登場した、宇土高校の「山のやっかいものを海の資源に~竹炭を使った赤潮対策~」もその一つです。リーダーの生徒は中高で剣道部に所属し、使えなくなった竹刀から出る竹材を何か有効活用できないかと思ったのが、研究のきっかけと言っていましたが、当区の里山にとっても増え過ぎた竹林が土砂崩れを誘発しかねないやっかいものであるため、材料は豊富に提供できたのも後押しになったかもしれません。竹が多孔質であることに着目して赤潮の原因となるプランクトンを凝集・除去することを提起していました。同高からは他にも竹から竹油を抽出して香水を作るとか、夏場に区内のため池が白濁する原因が硫化水素にあると考えた発表もあり、興味をひきました。
なお、同会場入り口では、出展パンフレットとは別に熊本県教育委員会が制作した高校生向けの「半導体理解促進ハンドブック」が配布されましたので、これも読んでみました。半導体そのものの解説に始まり、製造工程の説明、半導体産業が必要とする人材などについて学べる内容となっています。反面、地下水保全や排水処理など負の課題については一切触れない徹底ぶりも感じました。
午後からは、くまもと文学・歴史館で開催中の「書籍に見る小泉八雲の世界」の展示をまず観覧しました。熊本在住時代の小泉八雲は、帰化前でしたので、ラフカディオ・ハーンであったわけですが、彼は宇土の「雨乞い」についても関心を示し、記したことが紹介されていました。関連の熊本県の保管文書として1875年8月16日の牧文四郎区長名の「雩(あまごい)願」が展示されていました。偶然ですが、牧文四郎といえば、藤沢周平作品の『蟬しぐれ』の主人公と同姓同名です。
その後、隣接する熊本県立図書館で開かれた「くまもと文学・歴史館長佐藤信講演会 遣唐使の交流」を受講しました。講演では、佐藤信氏が井真成、平群広成、阿倍仲麻呂、羽栗吉麻呂、大伴古麻呂、吉備真備、行賀といった遣唐使として東シナ海を渡った古代の日本人を紹介しながら、「古代の日本文化は、外の世界から文化を取り入れながら形成されてきた。閉鎖的な島国で排他的に文化を固守してきたのではなく、常に大陸・朝鮮半島や北方・南方の世界に対して交流の道を開いて、国際的文化を積極的に導入しながら、文化形成を行ってきた」と述べられました。
当時の航海はまさに命がけでした。平群広成の場合は、帰国に際して現在のベトナム南部の崑崙国へ漂着しその後唐国へ戻り中国東北部・朝鮮半島北部に位置する渤海国を経て帰国を果たすまで5年もの歳月の間、アジアの東方諸国をさまよっていました。ちなみに「平群」姓は「へぐり」と読みます。水俣病被害者互助会弁護団事務局にいる平郡真也行政書士の姓も「へぐり」と読みますので、なんだか勝手に親近感を覚えながら聴講していました。平郡さんは、溝口訴訟最高裁判決勝訴の影の立役者であり、熊本学園大学水俣学研究センター客員研究員としても活躍されています。
遣唐使が停止されたのちは商人たちによって伝えられるようになりましたし、現在の歴史教科書では江戸時代が「鎖国」とは記載されなくなったそうです。遣唐使の中には唐の女性と結婚した人もいて、その子女が海を渡った例もあります。たとえば藤原清河の娘である喜娘(778年天草に漂着)や羽栗吉麻呂の息子の翼(つばさ)と翔(かける)がそうです。「翼」や「翔」という名前は今時のイメージがありましたが、8世紀にはすでに登場していたのを知ったのも新鮮でした。吉備真備の母は渡来系の楊貴氏と言われます。そして、日本に大陸の先進文明をもたらした玄昉や吉備真備は、聖武天皇から重用されていました。
無知ならまだしも大のおとながエセ科学やエセ歴史の言説に乗せられてみっともない発言をしているのに接すると、哀れに思うことがしばしばあります。歳を重ねると経験値が増えます。それ自体ないよりはマシでしょうが、ある一人の経験は狭くそれだけを過信するのは禁物です。学校教育においても生涯教育においても科学と歴史からの学びは重要だなと改めて感じた日でした。それこそエセ科学やエセ歴史に騙されない、カモにされないためにも。
カモの写真は、くまもと文学・歴史館付近の加勢川にかかる砂取橋の上から撮ったものです。

水俣が私に問うもの

岩波書店発行の『世界』(2026年1月号)の【特集1】は、「創刊80年 それでも人間を信じる」。特集の企画意図として次のように書かれています。「戦後の国際秩序が、音を立てて崩れつつある。▶大国による核の威嚇と法の蹂躙。かつて戦争の惨禍を経験した日本も、憲法9条が歯止めとならず、軍拡競争の一翼を担おうとしている。この現実を前になお、「人間を信じる」ことは可能か。「世界」初代編集長の吉野源三郎はこう述べた。▶「『人間に対する信頼』も、一つの大きな賭です。……しかし、この賭なしには、人間の世界は死人のようなつめたさにひえてゆくほかはない」(「ヒューマニズムについて──人間への信頼」)▶ 戦後の焼け跡からこの雑誌が生まれて80年。私たちは、ヒューマニズムに賭すことから始めたい。」(HPより引用、▶マークは改行を示すため追加)
NHK朝ドラ「ばけばけ」の主題歌歌詞にあるように「毎日難儀なことばかり」の日常生活において信頼できる数少ない人間に出会うことができるかどうかで、人間の生き方はずいぶん変わってくるのだろうと思います。
前記の同号p.70-74には、(一財)水俣病センター相思社の常務理事である永野三智さんの寄稿「いいとこ取りはできない――水俣が私に問うもの」が載っています。この記事には、水俣市長として初めて水俣病患者への謝罪を行った吉井正澄さん、水俣病患者運動のリーダーであった川本輝夫さん、母親の患者認定を裁判で勝ち取った溝口秋生さんが登場します。3人とも故人ですが、水俣の負の部分を隠さず、その部分から逃げずに向き合った人々です。永野さんは、これらのいいとこ取りをしない人々と出会ったことによって、自身も「では、私は?」と問われていることを明かした上で、この問いが「二度と水俣病を繰り返さない社会をつくることにつながると信じています」と結んでいます。
ぜひご一読を勧めます。

行政の相場観を正すツール

10月9日の朝日新聞熊本地域面に、胎児性水俣病患者が水俣市に対して行った行政不服審査請求で、市の却下処分を取り消す裁決が出たと載っていました(翌10日の熊本日日新聞でも報道)。認容裁決が出たとはいえ、申請人に対する却下理由の説明が不十分だったとし、市の行政手続条例に違反したという手続きの不備が、その根拠とされました。そのため、今後改めて申請をしても却下理由を書き直した上で再び市が却下するような形式的対応をとられる恐れもないわけではありません。
このように申請人からすればまだ手放しで喜べる状況にはありませんが、行政の相場観を正すためにも行政不服審査請求を行った意義は大きいと思います。市に限らず行政機関はさまざま行政処分を行いますが、ほとんどの住民はその処分結果を受け入れますので、ついつい行政側はこれぐらいで仕事を進めればいいだろうと、あぐらをかきがちです。行政機関といっても仕事は一人ひとりの職員の判断で進められるわけですから、誤った法令理解・運用による仕事ぶりがないともいえません。今回の審査請求には弁護士が保佐人に就いたということですが、認容裁決により得られる経済的利益やサービス受益が大きければ、専門家の支援を受けて請求に踏み切る価値はあります。
それと今回の請求とは直接関係はありませんが、まだ前世紀仕様の地方自治気分でいる地方公共団体があるかもしれない点に目を向けるべきです。ジャーナリストの中村一成氏が、『世界』2025年11月号掲載の寄稿(p.72)で、次の通り記していました。「1995年に地方分権推進法が、2000年には地方分権一括推進法が施行された。国と地方は上下ではない対等・協力関係となり、従来の通知通達行政は過去となった。片山善博総務大臣(当時)は2011年3月、同法施行により、それ以前の通知や通達は失効し、場合によっては違法となったと答弁している」。この視点で地方自治の現場を点検してみることもありだと考えます。

人を牛馬扱いするのが今もいるんだ

自民党の新総裁に選出された方が、選出直後のあいさつで「馬車馬のように働いていただく」「私自身もワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いて、働いて、働いていく」と述べていました。目の前の仲間内の国会議員に向けた発言でしたが、報道で伝わるわけですから霞が関の官僚はもちろんのこと、広く国民がこの言葉をどう受け止めるか思いを寄せる器量はないのだなと思いました。
総裁の座を渡すことになった方もさすがに気になったみたいで、「あそこまではっきり『ワーク・ライフ・バランスをやめた』と言われると大丈夫かという気がしないではない」と指摘していましたが、水俣病を引き起こしたチッソの創業者の野口遵が「労働者は牛馬と思え」と言っていた有名な逸話を私はつい連想しました。
野口遵は、1944年1月15日に死没していますが、公害病を引き起した企業体質はその組織のトップの考えに起因していると思います。水俣病研究会著『〈増補・新装版〉水俣病にたいする企業の責任−チッソの不法行為−』(石風社、2025年)によれば、チッソ水俣工場における労働災害は非常に多く、最多を記録した1951年ではほぼ2人に1人が被災するほど社内の安全性を無視して操業していたといいます。生産第一、利益第一で稼働させて安全教育も蔑ろにされていたことが同書では明らかにされています。社員を危険にさらしてもなんとも思わない幹部で占められていた企業だったからこそ、自社工場から海へ排水するメチル水銀が水俣病の原因と社内で気づいてからも秘密を通して危険を回避する対策をとりませんでした。漁民に限らず魚介類を食べる生活をした社員とその家族も水俣病の被害を受けました。社員を守れない企業は結果として企業自身へも不利益をもたらすことになったことは歴史が示しているところです。
人を牛馬扱いするのを厭わないトップが今もいるのが驚きでもあり、そういう組織が向かう先は…という気がします。

「『続・水俣まんだら』の部屋」に載りました

2025年に緑風出版から刊行された『続・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』の著者のひとりである木野茂氏に、私が公開していた読後メモが見つかってしまいました。木野氏は、同著読者の感想を収録したサイト「『続・水俣まんだら』の部屋」を運営しておられています。このたび、拙文を紹介させてほしいという申し出を受けましたので、場賑わせぐらいの役に立つならと応じることにしました。
私としては、他の読者の感想がさらに多くの方の目に留まることを期待しています。
写真は、昨日(6月26日)相思社を訪ねたおりに不知火海方向を見て撮ったものです。