水俣病」カテゴリーアーカイブ

相互監視による自浄作用

昨夜放送のNHK・Eテレの番組「ズームバックオチアイ」が取り上げていた環境論に石牟礼道子さんの作品が紹介されると知って見ました。その作品のインパクトから生まれた環境運動についてはそうなのかもしれませんが、現代のSNS社会で生じる「相互監視による自浄作用」についての言明が印象に残りました。たとえばSDGsに反した企業活動を行っている企業の商品を買わないというのは大きな力です。環境汚染はつまるところ生命への危機、これは人権侵害にほかなりません。したがって環境汚染につながらなくても人権を侵害された労働者が製造している製品を利用した商品を売っている企業もなくしていかなくてはなりません。汚染水と処理水、廃水と排水のようにちょっとしたカムフラージュに国民は騙されやすいものです。相互監視といえば聞こえはよくありませんが、相互学習につながるものだと思えば効用に対する見方も変わります。
こうした用語の問題と伝統かどうかの問題もあります。婚姻カップルの氏のことを考える際も安易に「伝統」に依拠してはならないと思います。本当にそれは伝統なのか、守るべき価値があるのかどうかを、学問的に考える必要があると思います。そんなわけで、次に表紙写真の本を読む予定です。

処理水を飲んでみるとは言えないのか

東京電力福島第1原発の処理水の海洋放出をめぐる、財務相と周辺国政府の発言に引き寄せられます。13日に財務相が「あの水飲んでもなんちゅうことはないそうですから」と海洋放出に問題はないとの認識を示したところ、翌日、中国外務省は「太平洋は日本の下水道ではない」「飲んでも問題ないと言うのであれば飲んでみてほしい」などと批判しました。これを受けて16日に財務相は「じゃあ(太平洋は)中国の下水道なのか。みんなの海じゃないのかね、と思うね」と答えていました。この点は応酬のように見えて海洋は人類共通の資産なので一国による勝手な汚染は許されないとの認識が示されていて、日中の違いはないとも受け取れます。ここは「飲んでみてほしい」という要望に応えて「飲んでみる」と言ってみる器量がほしいと思いました。ただ、先日の投稿にも示した通り責任ある立場の人物が本来飲んで見せるべき水を飲んでくれるとは限りません。国民をだましていないならその姿勢を2年後に示してほしいと思います。

飲んでもなんてことないそうですから

きのう政府は2年後をめどに、福島第一原発のトリチウムを含む処理水を海へ放出する方針を決定しました。財務相は会見で「科学的根拠に基づいて、なんで早めにやらないのか。よく私どもとしては、もうちょっと早くやったらと僕は思っていましたけど、いずれにしても(海洋放出)やられることになったんで、別に、あの水飲んでもなんてことないそうですから」と述べました。
それで思い出したのが、水銀を除去できないサイクレーター(浄化装置)の完成式で装置から出る廃水を飲んで見せたチッソ社長のサル芝居でした。1959年当時、水俣病の原因はチッソの工場廃水に含まれる水銀だと考えられていたので、チッソとしては水銀を除去して海洋放出していると見せかける必要がありました。しかし、完成したサイクレーターには水銀を触媒として使う工程での排水が入らない経路となっていました。完成式に出席した知事も後でだまされたと語っています。
チッソは創業者が電気工学の技術者であったことからももともと東京電力と同じく電力会社です。今も各地に水力発電所をもっていますが、その発電能力を利用して肥料成分である窒素を製造したので、電力会社から化学メーカーへ転換したわけです。
確かに原発の処理水をタンクでため続けることも電気使用者の負担になっていますが、安全な処理ができるのか、東電と政府関係者が飲料水に使ってみてくれないと信用できない気がします。

うーばんぎゃーは嫌いではない

(一財)水俣病センター相思社発行の『ごんずい』(160号)の中で、ある東京生まれの方が親族も仕事のアテもなく水俣に住みつくことになったと、石牟礼道子さんに話したら、「それは、うばんぎゃあな話ですねえ」としみじみと言われたと書かれていました。久々に出合う言葉で懐かしく感じました。熊本弁の「うーばんぎゃー」には「おおざっぱだ」という意味があるとされていますが、けっして非難されるような「杜撰さ」ではなく、笑って許してもらえる愛される「緩さ」を伴った人柄の行為に評される言葉のような気がします。義侠心にかられて拙速に動く古い熊本の人々に多い気質を指しているともいえます。「うーばんぎゃー」が嫌いではない自分を感じた次第でした。

石牟礼展から

作家・石牟礼道子さんの足跡を辿る展示が、くまもと歴史・文学館で開かれていて、先日近くに用があった際に見てきました。石牟礼作品についてはもちろん評価する人は多いと思いますが、私にとってはかなり苦手な作家です。とてもではないですが、私だったら書き尽くせない表現力をもっていて、それこそ現世を超えたところがあるためです。かつてそれを評して石牟礼巫女説もあったのを記憶しています。石牟礼氏の功績として水俣病被害の実態に衆目を集めたこともありますが、その後の行政や司法との関係でどれほどの力があったかというと、評価はまた別だと思います。とにかくシステム社会で通用する言葉を繰る方ではないので、被害者救済の旗手として何かを求めるのはもともと無理な話だと思います。
今、森本あんり著の『不寛容論』を読んでいるのですが、日本にとって最も関係性の深い国家である米国の歴史についてどれほど知っているかというと、黒船来航以来がほとんどで、せいぜいが独立宣言以後だと思います。英国の植民地時代の入植者たちにどのような思想があったのか、考えたことのある日本国民は少ないと思います。
石牟礼作品では、水俣の漁村民の暮らしを描いていますが、米国建国前の入植者たちの世界と同じで、水俣に暮らす人たちの世界観を初めて言葉にした衝撃を感じます。語弊があるとは思いますが、どの時代、どの地域の民衆にも思想があるということすら、現代人は知らないし、驚きなのかもしれません。

そんなバナナの話

1983年11月の大学祭において社会学者の鶴見和子氏の話を聴く機会がありました。そのときも和服姿でした。同氏も不知火海総合学術調査団の一員として参加執筆された『水俣の啓示』(筑摩書房)を同年夏に読んでいた私は、その読後感(内発的発展論)も含めて講演後に質問をしました。その際に、氏から受講者の中に同書の読者がいたことを知って本日来た甲斐があったとすごく喜んでくれてずいぶん恐縮しました。同時にその講演の際に、氏は従弟の人類学者である鶴見良行氏がやはり前年8月に出した『バナナと日本人』(岩波新書)を紹介されました。また、この本に影響を受けて、バナナを食べないようにしたことを披露されました。鶴見和子氏にいたく褒められた私もその日を境にバナナを食べることを止めました。もちろん『バナナと日本人』も読みました。一日本人がバナナを食べなくなったからといって生産輸出する多国籍企業には痛くも痒くもない話ですし、フィリピンの農民が救われることにつながったか、因果関係を証明することは不可能であることは重々承知です。しかし、真実を知ってそれに対して何か行動をするという学者の信念の強さとか清々しさに当時の私は触発されたのは事実です。きょう朝から農業のことに思いを馳せる時間があって、今も食べないバナナのことを思い出しました。

成長や美が必要か

先日NHKのEテレである学者が写真の本をお勧めしていました。今度読んでみようと思います。それにしても『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』は、ずっと重いテーマをもたらしてくれました。時間をかけて考えていきたいと思います。反公害運動の中に潜む障害者を生んではならないという優生思想との指摘にははっとさせられました。成長や美を競うことを人はしがちですが、それらが必要なのかについても根本から考え直してみてもいいかもしれません。

何から手をつけるべきか

相変わらず『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。何度も記しますが、重たいテーマです。本書では、患者認定された胎児性患者の自立について問うていますが、同じ世代の患者であっても行政が認定しないために、司法認定を求めて今も裁判で闘っている人がいます。認定されても救いにはならないのですが、同時期に同じような生活歴がある人が認定もされず棄てられたままとなっている現実もあります。支援に順番をつけるのはできませんが、問題を提起し一人ひとりの尊厳を回復するには多くの力を必要とします。これは誰かがやらなければ永遠に棄てられる話です。

障害者の自立

引き続き『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。章ごとのページ数はさほど多くはないのですが、読みながら立ち止まさせられる重い本です。補償や支援が不十分なせいでそのことに目を奪われがちでしたが、生まれながらにして患者である人たちの声をどれほど聴いてきたのか、心もとなく思います。労働コロニーを目指してスタートした相思社も最初は患者も職員としていましたが、今は姿を変えてきています。胎児性患者も高齢化していていわゆる生産人口の世代から脱していくようになります。自立について取り組まないまま問題を消滅させることになりかねません。

研究の動機

『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。考えてみれば胎児性水俣病患者の自立についての研究をして食べていけるか不安ではないかと思います。研究してもどこからか高い報酬が得られるとは限りませんし、ポストに恵まれるとも限りません。こうした書籍に触れるときに著者の研究の動機はなんだったのか気になります。

日常の優生思想

けさの地元紙で写真の本が紹介されていてさっそく注文しました。著者は学生時代に政治社会学者の栗原彬氏に師事したと記事中にあったのも決め手です。栗原氏の講義は、私も学生時代にモグリで聴講していましたので、懐かしく思ったせいもあります。さらに、記事には「先天性の障害のある胎児性患者に対して反公害運動がはらむ日常の優生思想を追及している」ともありました。これも気になりました。

救済か補償か

写真の本書の刊行についてけさの地元紙が取り上げていました。焦点は病名呼称をめぐる考察論文を執筆した著者についてでした。同書については、共著者がほかにも4人おり、地元紙記者が「水俣病特措法の成立とその後」について書いています。法成立後当時の環境大臣に対してある被害者団体の幹部は「救済とは施しなのです。被害者は損害を受けたのだから、これからは補償という言葉を使ってください」と訴えましたが、この発言は、政府の施しによる救済はしてやるけれども患者としては認定しない=認定申請を金輪際させないという同法の本質を的確に言い当てていると思いました。この法律をめぐっては、原因企業の会長が「水俣病の桎梏から解放される」と社内向けに表明した経緯もあって、被害者の救済よりも加害者の救済を目指しているのではという声も当時からありました。こうして当事者の生の声を記録することで、何にどういう問題があるのかということが明らかになりますし、発言する言葉には日頃の思考の根底がやはり現れるものだという思いがします。

病名問題について

『日本におけるメチル水銀中毒事件研究2020』の第1部「「工場廃水に起因するメチル水銀中毒」を名付ける行為についての試論」をまず読み終えました。水俣病という病名改称を求める動きは、過去長らくあります。割と新しい動きとしては、2019年3月に「メチル水銀中毒症へ病名改正を求める水俣市民の会」が国道沿いに看板を設置し始めたことがあります。患者運動の側からは、かつてこうした動きには、被害者を差別してきた市民側から出たものとして反対したり、原因企業の責任を忘れさせないために逆に「チッソ水俣病」を用いる動きがあったりしました。病名変更を求める理由としては、しばしば市のイメージダウンになるとか、出身者が就職や結婚で差別を受けることが挙げられました。しかし、メチル水銀中毒症という名称では、チッソの工場廃水に含まれた水銀に曝露した魚介類を経口摂取してその症状が出た被害者とそうではない経路で水銀を体内に取り込んで同じ症状が出た人を区別することはできません。水銀曝露の経路がまったく異なる中毒症状についてチッソや国・県の責任を問うことはさすがにできないと思います。それと、被害者多発地域だからといって水俣出身者が不当に差別されること自体があってはならない人権侵害問題です。そうした醜い差別や偏見は地名が付いていようがいまいがなくなる社会をつくるべきです。公害病に限らず広島や長崎の原爆被爆者に対する差別や偏見の問題がそうですし、全世界で感染者が出ている新型コロナウイルス感染症陽性者・濃厚接触者に対する問題も同根だと思います。水銀規制をめぐる国際条約にも水俣の地名が入っているなかで、病名改称の必要はなく、むしろ過去の過ちと今も続く不当な差別と偏見を取り除くために、そしてたえずその認識を忘れないためにも地名は残す方が賢明だと考えます。

水俣病とは何か

著者の一人から贈られて水俣病研究会編著の『日本におけるメチル水銀中毒事件研究2020』(弦書房、2000円+税、2020年)を読み始めています。同研究会は、メンバーの入れ替わりはありますが、過去50年間にわたって水俣病を研究しているグループです。出版社の本書の紹介文によれば「3月13日、福岡高裁で水俣病「史上最悪」の判決があった。胎児・幼児期世代8人による水俣病認定訴訟で「メチル水銀曝露との因果関係は明らかではない」として8人全員の申請が棄却されたのである。いったい水俣病とは何なのか。本書では水俣病事件がかかえる様々な問題の最前線を紹介する。」とあります。目次構成は以下の通りです。「Ⅰ「工場排水に起因するメチル水銀中毒」を名付ける行為についての試論/Ⅱ 水俣病特措法の成立(2009年)とその後/Ⅲ 水俣湾埋立地と熊本地震/Ⅳ 世界の水銀汚染と水俣条約——いまなぜ水銀が地球環境問題化しているのか」」。まだ第1章の途中ですが、患者運動の先頭に立った故・川本輝夫氏が語った、「(水俣病は)病気ではなく傷害事件である」という言葉が今でも突き刺さる鋭さを感じました。
ある問題を考えるときに、それをどう見るかによって、その用語の意味はずいぶんと変わります。たとえば、日本政府が慰安婦問題で表明した言葉には以下のものがあります。「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。」。これは、2015年12月28日の日韓外相会談で慰安婦問題をめぐって日韓政府が合意した際の、当時の日本の外務大臣の発言です。1993年の「河野談話」がベースになっていることが認められます。ところが、この公式見解を認めたくない勢力の人々は、慰安婦は「軍当局により管理されていた売春宿で働いていた慰安婦」に過ぎないとしたがっています。意に沿わず性的奉仕をさせられた女性の名誉と尊厳を無視した見方をしてしまうことは、現代の日本人の多くがそうとしか問題を捉えていないということを国内外に拡散することになり、かえって現代の日本人の名誉まで損なうことになると思います。不名誉な史実を隠ぺいするフェイク情報の発信は、日本が先頭に立つべき人権外交の足を引っ張るばかりか、自分たちへの新たな名誉毀損を増長させることにしかなりません。

検察への信頼を失わせる愚

傍聴制限がありますが、6月22日(月)10~16時、熊本地裁で水俣病被害者第二世代による行政訴訟の第24回口頭弁論が開かれ、熊本県の水俣病認定審査会委員や前水俣病審査課長への証人尋問が行われる予定です。認定制度の誤りが明らかになることを期待しています。
(6月16日追記:上記期日は延期となりました。)
水俣病をめぐる裁判ではこれまでこうした行政訴訟や国家賠償請求訴訟も起こしてきた歴史があります。国を相手にした裁判の際には、訟務検事が弁護士役として出廷してきます。検察官といえば刑事事件において悪人をやりこめるイメージがありますが、国の顧問弁護士という役割もあります。
きょうの国会論戦を聴いていたら、賭博行為を続けていた法務省事務次官を経て検察ナンバー2を務めていた人物に対する退職金支給を内閣が差し止めできる権限があるにもかかわらず、それを行わないことが明らかにされていました。脱法検事に脱法内閣という国家レベルに驚きました。
訟務検事は、日頃、「勝つべき事件は正しく勝ち,負けるべき事件は正しく負ける。」をモットーに仕事しているそうですが、上記のような脱法行為が認められると、負けるべき事件でも不正に勝たせるのが検察なのかと、国民の信頼を失わさせます。

EBPM

さまざまな政策実行にあたっては、その前提として中立公正な統計や学術専門知を活用が必要です。EBPM(evidence based policy making)が重視されます。中立公正といえば選挙の実施もそうでなければなりません。来月の東京都知事選挙は、有権者ではありませんが、候補者の経歴・実績についてはよく見極めたいと思います。現職については現在も都庁ホームページに大学卒業のプロフィールが掲載されています。それが事実なのか詐称なのかは重大な情報です。また環境大臣であった際に水俣病関西訴訟最高裁判決を尊重しない行動があったこともありました。新人に目を移すと本県の副知事だった人物も出馬するようですが、県南担当や健康福祉部担当でありながら、当人が水俣病被害者に向き合った記憶はありません。スタンドプレイ中心のイベントプランナーという印象でした。

昨日の新聞紙面から

昨日、地元紙と全国紙でいずれも水俣病をめぐる行政の杜撰さを示す記事が載っていました。地元紙は、『Y氏裁決放置事件』の出版の紹介です。これは旧環境庁が行政不服審査請求の審査庁として処分庁である熊本県の水俣病患者認定棄却処分を取り消す裁決案を準備しながら、県の抵抗を受けて裁決を放置した事件の記録本となっています。行政不服審査制度は、行政の過ちを補正し、国民の権利利益を回復する制度としてあるのですが、行政庁間の都合でさらに国民の権利を蔑ろにした犯罪記録です。当時の県の部長の狂信的な振る舞いは今日実名を晒していいと思います(本書では匿名ですが、時期から誰であるかは明らかです)。それと審査庁が処分庁の弁明を聴聞する機会はあるとしても、裁決を出す出さないで処分庁の意向に沿うなどという点が、審査制度の信頼を破壊することです。本分をまったくわきまえていません。もう一方の全国紙の方は、施行から10年以上過ぎた水俣病被害者救済法(特措法)が定めている住民の健康調査をまだ一度も行っていない行政の怠慢を指摘しています。いまだ調査の手法も確立していないといいます。なぜ行われないかといえば、調査を行えば今までの認定業務の過ちが明らかになる可能性があるのが最大の理由だと思います。つまり、公式確認から64年経った今も無能ぶりを示される恐れがあるからだと思います。

査読レベルも問われている

読書をしていると、名だたる出版社から出た書籍でもちょっとした誤字を近年はよく発見します。活字時代と異なりパソコンによるデータ入力であるため、同音異義語が発生しやすいのかもしれません。写真の本書でも法定受託事務とあるべきところが法廷受託事務となっている箇所がありました。「こむら返り」を指す方言の「からすまがり」を記述に使ったり、行政手続きの流れを示す図表で旧法の取り扱いをそのまま記してあったりしました。全般として優れた研究だとは思いましたが、学位論文がベースとなっている著作だけに査読者のレベルが知れるという思いもしました。

怠慢行政と御用専門家を炙り出す書

引き続き『生き続ける水俣病』を読んでいます。女島地区に限っても家族の中に認定患者もいれば、認定申請を取り下げて医療手帳・健康手帳等を保有する「被害者」の道を選んだ人もいます。さらには、近隣地区では本人の意思や社会的立場から申請自体を行わなかった人もいます。かつて独自に健康調査を実施した医師の言葉を借りれば、水俣病は一つであり、認定患者とか、手帳を持った被害者に分かれるのはありえないことなのですが、申請しても待たされる一方で、やむなく手帳を取得した実態を見ると、住民に認定申請を諦めさせることにしか行政の執心はなかったのではと思わされます。認定審査会に属する委員は、こうした住民の実態を知らない専門家で固められており、本書を読んでみてから自分の不明の恥を知るべきだと思います。