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チャンゴから黙鼓子まで

先日水俣の相思社を訪ねた際、掲載写真のチャンゴという朝鮮半島由来の太鼓があるのを知りました。砂時計の形に桐の木をくり抜いた両面締めの楽器で、右面(馬の薄い革)を細い竹の棒で叩いて高音を出させ、左面(牛の厚い革)を左手か先端に丸いものが付いたバチで叩いて低音を出させます。宮廷音楽から、民衆の音楽である風物(プンムル)・農楽まで幅広く使われる伝統楽器だそうですが、左右それぞれの面を打って奏でるため、認知症予防に相当役立ちそうだなとは思いました。
一方、スペイン語で同音の「chango」というと、うるさいという意味があるくらい、確かに賑やかな音を出します。これは太鼓だから仕方がありません。私の地元では雷神のカミナリ太鼓に負けじと打ち鳴らす雨乞い太鼓というのがあって、これまた祭りの時期近くの夜になると練習の音が騒々しいものです。また鼓舞するという言葉があるくらい戦場と太鼓は密接な関係があります。地元のJリーグチームの胸スポが「陣太鼓」ということがありました。そういえば、「chango」と語感が近い英語の「chant」(チャント)とは、サッカーのゲーム中にサポーターが発する応援歌・応援コールのことを指しますが、一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式を意味する古フランス語に由来する言葉だそうです。
そんなわけで、太鼓に何を私は連想するかというと、宗教的な祈りであったり、戦いや運動会・応援団的なものであったりします。そして私は総じてそれらを苦手に感じています。もっとも、これはあくまでも個人的な感覚ですから他人に共感を求めるものではありません。
もう一つ、太鼓と言えば、ドイツ人作家のギュンター・グラスの文学作品『ブリキの太鼓』を思い浮かべます。同作品を読んだのは、やがて半世紀前近くの中2時代の頃だったと思いますが、ナチス台頭により戦争へ向かう時代に少年期を迎えたグラスの半ば自伝的な小説です。永遠の3歳として成長を拒否して生きていく主人公・オスカルが大切にする、ブリキの太鼓がなんとも不気味な隠喩となっています。グラスと同じノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の作風と勝手に重なりを覚えます。
さて、以下はロビン・ダンバーの『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)がネタ本ですが、歴史的に見ても宗教や戦争が成立するには、共同体意識が生まれることが必要になります。ヒトの脳にエンドルフィンが出やすい、いわばトランス状態をもたらすことが重要になります。その前提条件としては、言語や出身地、学歴、趣味と興味、世界観、音楽の好み、ユーモアのセンスといった面で共通点が多いメンバー構成にすると、信頼感が強固になるものです。さらに、その効果を増させる儀式が重要となります。儀式の例としては、歌や踊り、抱擁、リズミカルなお辞儀、感情に訴える語り、会食が挙げられます。儀式に参加することでメンバー間がより向社会的に接したくなるように仕向けます。政治運動やビジネス活動にも同じことが言えるかと思います。
あと必要なことは、カリスマ指導者の存在です。これも歴史的に見ると、親を早くに亡くしていたり、恵まれない境遇で育ったりした人物がなる傾向があります。そうした人物には、人生の早い段階から多くを学び、逆境に立ち向かい嘲笑をはねのける精神的な強靭さが身についています。極端な例としては、精神的疾患を抱えたシャーマン的人物がその立場に就くこともあり、それがトランス状態に入りやすい素因になります。周囲からは狂人扱いされますが、案外人々はそうした人物を信じます。なぜかといえば、その他大勢に埋没しない、突出した存在を頼みにしたいと思う気持ちが人々にはあるからです。
チャンゴをきっかけにしてあれこれ思い付いて見ましたが、結局、太鼓持ちは自分に向かないということなのだろうと思います。つくづく熊本でいう偏屈な黙鼓子(もっこす)気質が染みついている気がします。ところで黙鼓子とは、「もくこし」と呼ばれる、仏教の儀式で使用される楽器のこと。特に、禅寺などでよく見られるそうですが、仏教の修行や礼拝において、心が静まり、法に集中するために用いられるとか。また、黙鼓を叩くことで、煩悩や欲望を浄化し、心の平静を得る効果があるとも言われているようです。これを当て字に使い始めた熊本の人も相当アイロニー豊かなモッコスさんだったのではないでしょうか。

カレンダー誤表記問題という名称でいいのか

昨日の投稿で、菊池恵楓園歴史資料館の展示では「龍田寮事件」と表記されている事件名が、同園入所者自治会が発行する見学のしおり内では「黒髪小学校通学拒否事件」と表記されている点に着目したのを触れました。繰り返しますが、事件の実相を鑑みると、私は自治会側の事件呼称が相応しいと考えます。親が入所者であってもハンセン病患者ではない児童たちが居住していた龍田寮で差別があったのではなく、通学を拒否した小学校のPTAや校区住民の側に不当な差別、人権侵犯があったとしか考えられないからです。
先月明るみになった、水俣病を感染症とした「宇城市カレンダー誤表記問題」にしても、果たして問題の本質を突いた名称なのか、疑問です。当該啓発文章を起案したのは同市の人権啓発課であり、市内全世帯に配布されるまでの間、同課職員全員はもちろん他課職員の目に触れる機会はあったといいます。水俣病の原因については熊本県内の小学5年生全員が現地で学ぶ常識ですが、それすら身に着いていない軽薄さを露呈してしまった、救いようがない恥ずかしい事件ともいえます。
たとえばの話、「宇城市の人権啓発は形ばかりだった露呈事件」とするなど、市長自らが教訓を絶対に忘れず継承できる適切な名称を定めるよう動くべきではないかと思います。水俣病事件の歴史においても、原因企業のチッソを守り患者を弾圧していたチッソ労働者の一部が、患者支援へ立ち上がった際に出した「恥宣言」があります。うっかりミス問題に矮小化せず、その人間性全体が問われた事件だという出直しの覚悟が求められていると思います。
https://kumanichi.com/articles/1758474

米国コロラド州ブライトンに宇城市出身の遠戚の名を冠した公園があります

『「世界の終わり」の地政学』(集英社)の著者のピーター・ゼイハン氏が、米国コロラド州から配信するビデオレターをよく視聴しています。同氏が語る世界の姿は参考になりますし、映像の背景に出てくる山間部の雪景色は美しいので、それにも魅了されます。そんなわけで、まだ訪ねたことはないコロラドには親近感を覚えます。

それともう一つ、私の母方の曽祖父の弟の子孫が、コロラド州アダムズ郡ブライトンにいます。アダムズ郡は州都デンバーに近い場所にあり2020年の人口は約52万人、郡庁はブライトンにあります。共に現在の宇城市不知火町小曽部出身の竹馬五太郎(=私の曽祖父の弟)・ヨシ夫婦は、長男が1912年(M45)の日本生まれ、次男が1917年(T6)・三男が1919年(T8)の米国生まれでしたので、1910年代半ばに米国に渡ったようです。竹馬五太郎・ヨシの息子・John M. Chikumaは、1925年(T14)1月13日にブライトン北部の農場で生まれ、2013年6月16日に亡くなりました。

Johnの生涯は次の通りです(出典:Published by Brighton Standard Blade from Jul. 3 to Aug. 1, 2013.)。1942年にフォート・ラプトン高校、1945年にコロラド大学、1949年にカンザスシティ大学を卒業し、歯科外科の博士号を取得しました。1949年、ニツケ・ビルに最初の歯科医院を開業しました。Johnはやはり日系2世のEmiと1950年2月4日に結婚しました。

朝鮮戦争中、Johnは兵役に就き、歯科医院を閉鎖しました。1953年にガンター空軍基地で訓練を受け、その後、テキサス州サンアントニオのブルック空軍基地に駐留し、大尉として2年間、米国空軍医療部隊の現役任務に就きました。キューバを訪問した際には、マイアミ空軍基地にも駐留していました。Johnは兵役中にゴルフを習い、そのプレーを楽しみました。 1955年に除隊となり、1956年に歯科医院を再開しました。1993年に引退するまで、サウス4番街75番地で開業しました。彼は常にEmiの活動や趣味を支援していました。Emiと買い物に行くのが大好きで、「他にはない贈り物」を見つける才能がありました。マツタケ狩り、金鋳造、庭いじり(庭は彼の誇りであり喜びでした)、ボウリング、ゴルフ、社交ダンス、ブリッジを楽しみ、学校の休みには家族と旅行に出かけました。ブライトン日系人協会、ブライトン・オプティミスト・クラブ、ブライトン・ロータリー・クラブ、ブライトン商工会議所、BJAAボウリング協会、アダムズ郡男子ゴルフ協会、マイルハイ・ゴルフクラブ、日系アメリカ人市民連盟などに積極的に参加していました。

Johnはほとんどの物事に独自のやり方を持っており、常にその方法と理由を喜んで伝えていました。彼は細部にまで深い感謝の念を抱き、その精神は彼の人生のあらゆる面に浸透していました。彼は素晴らしい料理人で、感謝祭やクリスマスの七面鳥はジューシーで、プライムリブは最高でした。家族や友人と分かち合うために、常に最高に美味しい果物や野菜を選ぶことを誇りにしていました。これは彼の家族には到底及ばない特別な才能でした。彼は農場で過ごすのが大好きで、定期的に農場へ足を運ぶことが大きな喜びでした。

以上が、Johnの評伝ですが、彼の妻・Emi Chikumaの名前を冠した公園・レクリエーション施設「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」がブライトンにはあります。

Emiの生涯も以下に紹介します(出典:coloradocommunitymedia.com by Steve Smith April 1, 2013)。

Emiは、2013年3月20日、転倒事故による負傷のため87歳で亡くなりました。63年間の結婚生活の後、最愛の夫John M. Chikuma医師と死別しました。Emiには5人の子供がいました。キャロリン(ダグ)・マツイさんとその息子ロスとコートニー、ゲイリーさんとその継娘アシュリーとその家族スティーブ、ケイリン、ノーラン・ハイナーマン、ジョーン(デイブ)・ヌープさんと息子カイルさんとその妻テイラーさんと娘ステイシー、ブルースとジョイス(クリス)・レインズさんとその息子イサオとエリーゼ、妹のカラキ・フミ(ススム)さんとその家族です。両親のカタギリ・タネミさんとカタギリ・ミヨさん、妹のイトウ・マミ(トム)さんは、Emiさんに先立たれました。1943年にブライトン高校を卒業し、コロラド大学薬学部に進学しました。彼女は人生を通して多くの興味深いことを学ぶのが大好きで、特にバイオリン、ハーモニカ、バスドラム、ソフトボール、バスケットボール、バレーボール、陸上競技、スキー、ゴルフ、ダンス、ボーリング、ガーデニング、松茸狩り、油絵、陶芸、工芸、ブリッジ、料理、クリスマスオーナメント作り、そして家族と地域の歴史研究家としての才能に恵まれていました。彼女は多くの団体で積極的に活動し、献身的な地域リーダーでもありました。ブライトン公園・レクリエーション・プログラム、優秀市民に贈られるリバティベル賞、優秀で献身的なボランティア活動に対してブライトン市から贈られる感謝の日賞、日系アメリカ人コミュニティへのボランティア活動に対して贈られる感謝の日賞、ブライトン市賞、リバーデール女性ゴルフ協会から30年間のチャーターメンバー賞など、数々の賞を受賞し、ブライトンで第6回フェスティバル・オブ・ライツ・パレードの共同グランドマーシャルも務めました。

彼女の情熱は、見る人に幸せをもたらすクリスマスツリーでした。彼女はオーナメントを作り、集めていました。彼女の多くの友人や家族は、旅先からオーナメントを持ち帰ったり、彼女のために作ったオーナメントを飾ったりして、彼女のツリーを偲んでいました。ツリーは、彼女の人生、分かち合う精神、多くの友人や家族、そして彼女を取り巻く愛の美しさを象徴していました。

以上が、Emiの評伝となりますが、コロラド州といえば、州都デンバーから車で南東に約4時間ほどの小さな町グラナダに、第二次世界大戦中に日系アメリカ人を強制的に収容したアマチ収容所(正式名称Granada War Relocation Center 通称Camp Amache)があったことにも触れておきたいと思います。全米に10 箇所あったうちの1つで、同収容所には1942年から1945年までの間に 1 万人以上が収容され、その3分の2は米国市民であったとされます。なお、当時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーが人種差別的要素を否定する知事であり、比較的人道的な対処が行われたとも伝わっていますが、John M. ChikumaやEmi Katagiriが当時どのような境遇だったのか、私は情報を持っていません。同収容所跡は、1994 年、国の歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録され、2006年には国定歴史建造物等(National Historic Landmark)に指定されました。同収容所跡は従来地元自治体グラナダが所有しており、地元高校教員が設立した、生徒ボランティアからなるアマチ保存会が管理運営しています。2022年3月18日、バイデン(Joe Biden)大統領は、アマチ収容所跡を国立公園(National Park)に指定する「アマチ国定史跡法(Amache National Historic Site Act)」(P.L.117-106)に署名しています。

結局のところ「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」(写真3点添付)や「Camp Amache」を訪ねる機会が私にある可能性は低いでしょうが、もし宇城市の関係者が本投稿に目を留めてくれたらいいなと思います。人権啓発事業の一つの素材になるかもしれません。

https://www.brightonco.gov/facilities/facility/details/Emi-Chikuma-Plaza-Splash-Pad-44

https://digital.asahi.com/articles/ASPCS42CZPCHUHBI008.html

https://kumanichi.com/articles/1747597

企業の新人研修テキストにこそ相応しい

4月16日の熊本日日新聞に、水俣病の原因企業チッソの事業子会社JNCの新入社員研修で、水俣病語り部の会会長の緒方正実さんが初めて講話を行ったとありました。これまでの同社の研修では、水俣市立水俣病資料館の見学はあっても、患者・被害者の講話を聴くことはなかったので、このこと自体は歓迎します。さらに言えばぜひとも水俣病研究会著『〈増補・新装版〉水俣病にたいする企業の責任−チッソの不法行為−』(石風社、3500円+税、2025年)を研修テキストに採用してもらいたいものだと思います。
同書は、水俣病第一次訴訟(提訴時の被告代表者は雅子さまの祖父・江頭豊、被告代理人弁護士は民事訴訟法の兼子一元東大教授の法律事務所所属)において患者・家族を勝訴に導いた新たな過失論「安全確保義務」の理論がどのようにして生まれたかを明らかにしています。これは、現在のさまざまな環境汚染に対する「予防原則」の考え方に連なる先駆をなすものです。今や企業の社会的な影響を考えれば、その事業活動に携わる社員が当然備えるべき教養ではないでしょうか。あえていえばJNCだけでなく、原発や半導体産業の社員にも読んでもらいたいと思います。
それと、なぜチッソが水俣病を引き起こしたのか、その企業体質にどのような問題があったのかを知るにも、本書は役に立ちます。当然のことながら被害を受けた住民は、企業の内部については知りません。チッソ創業者の野口遵が「労働者は牛馬と思え」と言ったのは有名ですが、労働災害が多発する工場で最多を記録した1951年ではほぼ2人に1人が被災するほど社内の安全性を無視して操業していたといいます。生産第一、利益第一で稼働させて安全教育も蔑ろにされていたことが本書で明らかにされています。社員を危険にさらしてもなんとも思わない幹部で占められていた企業だったからこそ、自社から海へ排水するメチル水銀が水俣病の原因と社内で気づいてからも秘密を通して危険を回避する対策をとりませんでした。じっさい水俣病の被害は社員も受けたわけです。社員を守れない企業は結果として企業自身へも不利益をもたらすことになります。
救いがあるとすれば、このチッソの関係者の中にも患者・家族に味方して裁判で証言した人やさまざまな資料を提供した人、理論構築の研究に参加した人がいたことです。本書を手に取って企業や行政に携わるなかでも人間性を失わない職業人生を送ってほしいと思います。
https://kumanichi.com/articles/1745646
https://sekifusha.com/11813

 

専門知を無視するバカに行政は任せられない

添付のグラフ画像は、TSMC量産開始前後のPFAS汚染の推移を示した熊本県の資料です。
一見してTSMC量産開始とPFAS濃度上昇との因果関係が疑われます。
このデータについて熊本県環境モニタリング委員会の専門家は「因果関係あり」との認識ですが、驚くことに熊本県(菊陽町も)の担当者は「因果関係不明」との説明を繰り返しています。
これほどあからさまに科学データを無視するのは致命的に無知であり、破廉恥だと思います。
つまり因果関係不明ということで、なんら水質汚染を防ぐ手立てをとらないと、熊本県は宣言しているのと同じです。はっきりいってこういうバカどもに行政を任せていて良いのでしょうか。
詳しくは、4月9日の朝日新聞熊本地域面で報じられています。
https://www.asahi.com/articles/AST484VSRT48TLVB003M.html

予防原則の基本を守れ

熊本県においてはTSMC稼働後にこれまで未検出のPFASが下流河川から検出されるなど、水質汚染への対応が問題になっています。このことに県民の生命と財産を守る責務がある知事は「住民生活の不安をあおることをしてはいけない」などと4月4日の会見で述べ、いったいどっちの方向を見て仕事をしているのか、非常にフシギな方だと感じました。
そんななか、4月7日、NHKの国会中継の参院決算委員会で、半導体企業によるPFAS(有機フッ素化合物)汚染の実態調査と規制強化の必要が議論されているのを偶然視聴しました。質問議員の事務所ホームページにパネル1~4の有益な資料もアップされていましたので、画像も借用添付してみました。
議論のポイントとして、欧州連合(EU)ではすでに「安全性が確認されていない物質は規制する」という予防原則に立ち、PFASの規制を強化していることが挙げられます。しかし、日本では、ことに経産省が「危険性が明らかでないものは規制しない」という立場をとっていて、水俣病の被害拡大に加担した前身の通産省と同じ過ちを重ねようとしています。
いわば国民・県民を人体実験の危険にさらしているわけです。国にしても熊本県にしてもトップの無能ぶりには危険性を覚えました。トップの安全性が確認されるまでその任に留まるのは願い下げです。
なお、質問した参院議員のプロフィールを拝見すると、鳥取大学農学部1982年卒とありました。同じ大学学部を1990年に卒業した人権侵犯歴のある前衆院議員が某党から今夏の参院選に出るみたいですが、政党にも公認候補の選考にあたって予防原則を働かしたらどうだいと感じてしまいました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik25/2025-04-08/2025040802_02_0.html

『核心・〈水俣病〉事件史』読書メモ

全219ページからなる富樫貞夫著『核心・〈水俣病〉事件史』(石風社、2500円+税、2025年)を、4月6日に行われたJ2第8節ロアッソ熊本vs.カターレ富山のゲーム観戦のため向かったスタジアムとの往復の時間に読了しました。富樫先生からはご著書刊行のおりにいつも頂戴しているので、文章を読みなれている点もあるかもしれませんが、論理明快、切れ味が爽快でいて人物描写も的確、つまりは読者が理解できやすい読みやすさを覚えます。実際、本書は帯にも謳っている通り「水俣病事件入門決定版」に値すると思いました。
富樫先生は、熊本大学で民事訴訟法を教授されていたのですが、私はその分野での接点はありません。専門は他にあったとしても、水俣病事件の通史を書かせれば、先生の右に出る人を私は知りません。そして、今回本書を読んで、先生を法律家という狭い枠に捉われて見るのは間違いで、実は政治学者あるいは社会思想家に近い視座を評価すべきではと思うようになりました。
本書内の記述からそれを感じる箇所を下記に引用してみます。
p.75「本来、水俣病の原因を究明し、被害の拡大を防止すべき第一次的責任が、原因者であるチッソにあることはいうまでもない。しかし、通常、疑いをかけられた原因企業が自分の責任で原因を究明することは、まず期待できない。チッソの行動が示しているように、加害企業は、例外なく、判決などで断罪されるまで原因者であることを否認し、その間、廃棄物を出しながら操業をつづける。これは、近代日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件以来一貫して変わらぬ企業の行動様式である。そうだとすれば、被害の拡大防止にあたって行政に課せられた責任は大きいといわなければならない。」
p.235「長い水俣病の歴史を通じて、チッソの責任とともに問われているのは、行政の責任である。水俣病の発生や拡大を防止するために、国はいったいその責務を果たしたといえるのかという問題だ。」
p.237「水俣病の歴史を通じて問われてきたのは、日本という国家のあり方の問題であり、人民に対する国家の責務は何かという次元の問題だからだ。」
p.244「水俣病事件は、日本の近代化が生み出したものであり、今日の経済大国日本のもうひとつの顔である。私たちは、この巨大公害事件の歴史をたどることによって、どのような犠牲のうえに現在の日本が存在し得ているかを垣間見ることができるはずだ。」
本書には学生時代に富樫先生の研究室に入り浸って「門前の小僧」を自任する朝日新聞水俣支局長の今村建二さんによるインタビューも載っていて、民事訴訟法を専攻する研究者の道へ進んだいきさつを初めて知りました。それによると、大学卒業に際して最初は企業の採用試験に臨んでいたそうですが、面接で重役にいつもかみついてしまうため企業への就職は断念し、親しい刑事訴訟法の先生に相談したそうです。しかし、相談を受けたその先生が「刑事訴訟法では飯が食えない」からと、民事訴訟法の先生を紹介されてそこの助手に雇ってもらったということでした。

『ルポ軍事優先社会』読書メモ

吉田敏浩著『ルポ軍事優先社会――暮らしの中の「戦争準備」』(岩波新書、960円+税、2025年)は、いかに我が国の安全保障政策が見当違いのであるかを理解する上で有益な情報が満載です。もっと言えば、米国に日本の主権と巨額の公金を献上し、自国民に対する棄民政策が進行しているのを知らずにいて、あまりにもおめでたいよねという警告の書だと思います。
国民一人ひとりもそうなのですが、対等である国の暴走を止めるよう地方自治体にもしっかりしろと言いたい気持ちにさせられます。
本書の内容の一部は、2024年4月~7月号の雑誌『世界』に掲載されていたので、すでに読んではいたのですが、改めてまとめて読んで良かったと思いました。つべこべ言わずに多くの方に読んでほしいと思います。
添付画像は、私が住む宇土市の広報2025年4月号p.12に掲載の「自衛隊に提供する対象者情報の除外届受付」のお知らせ。もともと自治体には自衛隊への個人情報提供の義務はないのですが、多くの自治体が本人の同意なく提供しています。この除外届すら同市では2年前からようやく制度化されました。詳しくは、本書「第2章 徴兵制はよみがえるのか 自治体が自衛隊に若者名簿を提供」を参照してみるといいです。
「第5章 対米従属の象徴・オスプレイ 危険な「欠陥機」を受け入れる唯一の国」では、有明海の海苔養殖への悪影響もさることながら、飛行の際に発生する低周波音も相当なものだと知りました。本書とは別の話になりますが、現在水俣の山間部で陸上型風力発電設置の計画があると聞いていましたので、これは考えものだなという印象を持ちました。風力発電機はせめて海上型でしか認めない方向であるべきではと思います。低周波音による被害については以下を参照ください。
https://www.soumu.go.jp/kouchoi/knowledge/faq/main2.q14.f_qanda_16.html

対応の中身を言わないとはだらしねえ

昨日(4月5日)の地元紙面に載っていた、TSMC工場量産開始後のPFAS上昇についての熊本県知事の定例記者会見での発言が、ずいぶんとのんきなものではっきり言って残念でした。口では、「専門家の意見を踏まえて対応する」と述べていますが、その中身が判然としません。
この知事の会見より前の3月26日に開かれた、熊本県環境モニタリング委員会において委員長は「(PFASを)少しでも減らす努力をすることが大事だ」「十分すぎるぐらい下げるのが良い」「何らかの企業努力を促すよう行政が求めていくべき」などと述べたとされます。
ところが、会見での知事は、委員会で出た「(PFBSやPFBAは)毒性が低い」「諸外国の飲料水目標値と比較しても低い」という見解だけをつまみ食いする形で、これが「専門家」の評価の大勢という印象操作を行い、TSMCへ物申すという姿勢はまったく見せていないようです。
PFASによる健康被害は、日本人だろうが台湾人だろうがTSMC関係者だろうがそうでなかろうが人を選びません。今回これまで未検出だった物質も出てきたわけで、TSMC操業開始との因果関係は濃厚だと思います。第3工場進出までは音沙汰なしというのではあまりにもだらしないと思います。コチョウラン回収で見せたような素早いフットワークを期待しています。

頑固なのか単なる惰性か

わが人生のなかで7割方を占めて続けている習慣について2つばかり披露してみたいと思います。いずれもスタート日が後記の通り確定日付となっていまして、それらの習慣が続くというのは、頑固さによるものなのか、単なる惰性によるものなのか、これは自分でも定まっていません。他人からはきっちりしていると誤解されますが、自分ではけっこう怠け者だと思っています。手を抜ける部分は極力手を抜いて楽な暮らしをしたいと日々過ごしています。
さて、習慣の一つ目は、読書カードの作成です。きっかけは、1981年6月21日に読み終えた梅棹忠夫著の『知的生産の技術』(岩波新書)による影響です。同書で紹介されている「京大カード」(情報カードとも称される)に読んだ本の著者名・書名・発行年月日・出版社名・ページ数・入手先名・販売正価・入手価格・読了日・処分先・処分価格を記入してファイリングしています。カードは本1冊につき1枚作成します。法律専門書などは何回か読み直すことがありますが、カードを作成するのは1回限りです。したがって、ここ44年間については年間何冊の本を読んだのかも正確に把握できています。
問題は、B6サイズ横の「京大カード」やそれをファイリングできるバインダーの製品が割と大きな老舗の文房具店へ行かないと手に入らないことです。カードはネット上の情報によると、百均店で売っているともありますが、近隣店舗の売り場では見かけません。実際、読書メモを残したいときは、すべてデジタル情報で保管していますので、上記の製品が手に入らなくなったら、それはそれでしょうがないかなと思います。
梅棹忠夫さん(1920-2010年)についての思い出も言及すると、その姿を一度だけ拝見したことがあります。1990年8月に国立民族学博物館を訪問したときに当時館長の梅棹さんが側近を伴って館内に入られたシーンでした。その感激も習慣の継続に寄与しているのかもしれません。
そして、長く続いている習慣の二つ目は、バナナを食べないことです。このきっかけは、1983年11月5日に社会学者の鶴見和子さん(1918-2006年)の講演を聴いたあとの懇談会で、和子さんが父方の従弟・鶴見良行さん(1926-1994年)の『バナナと日本人』(岩波新書)を読んでからバナナを食べないと決めたと話されたことに触発されたからです。同書は、フィリピン産バナナの栽培から日本への流通を通じて多国籍企業によって開発途上国の人々が受ける苦しみを描いています。バナナ栽培に危険な農薬が大量に使用されていることも明らかにされました。
鶴見和子さんは、色川大吉さんを団長とする不知火海総合学術調査団の一員として『水俣の啓示』(筑摩書房)の執筆にかかわられていることもあり、水俣病患者が受けた苦しみをフィリピンのバナナ農園労働者のそれと重ねられて、バナナを食べないと決意されたと記憶しています。
私は、『バナナと日本人』を北区赤羽図書館から借りて1983年1月26日に読了してはいましたが、そこまで考えが及ぶまでは至っていませんでした。鶴見和子さんの講演を聴こうと思ったのは、『水俣の啓示』(上巻:芳林堂書店池袋西口店で購入し1983年8月19日読了、下巻:福岡金文堂本店で購入し1983年8月20日読了)を読んでお名前を承知していたので会ってみたいと思ったからでした。しかし、同書を読んで講演会に参加したことを懇談会で和子さんに話したら、たいへん喜んでいただいた面映ゆさがあって、それで私も調子に乗って以来バナナを食べない暮らしを始めました。
ちなみに、『バナナと日本人』の著者の鶴見良行さん自身は、1995年に「(自分は)バナナを買って食べる。現場を歩いてものを書く調査マンは、そのモノにつきあうのが職務上の義理だからであり、また、自分は上に立って人に指令を与えるような形の(社会)運動はあまり好きではない。自分の提供した情報によって読者が判断すべきであり、それはある種の民主主義の問題だ」と別の著作『東南アジアを知る─私の方法』(岩波新書、未読)で書いておられるようです。つまりは、読者それぞれが自分の頭で考えろというワケです。
おかげでたまに胃がん検診でバナナ味のバリウムを飲み込むたびにこの習慣の始まりを思い出します。

石風社の本

石風社の書籍広告が本日(2025年3月27日)の朝日新聞1面記事下に載っていました。広告で紹介されている『企業の責任』発刊前のクラウドファンディングに応じていたので、出版社から22日に同書が返礼品として送られてきていました。そして、きょうは、水俣病研究会からも同書と『核心・〈水俣病〉事件史』の2冊の贈呈送付を受けました。
というわけで、手元に『企業の責任』が2冊あります。1冊はどこかへ差し上げようと考えています。

『続・水俣まんだら』読後メモ

3月初旬に石風社から水俣病研究会編『水俣病にたいする企業の責任-チッソの不法行為』の増補・新装版が刊行されるにあたって、同研究会の現在の代表である有馬澄雄氏ほかの講演・対談の集まりが、2月16日、熊本大学くまトヨ講義室で開かれ参加しました。同書の初版は、第一次訴訟の渦中の1970年、裁判勝訴(訴訟派)のための準備書面に盛り込む理論として非売品として出たものです。被害発生の予見可能性がない加害者に責任を問えないとされた当時の過失論に対して、安全確保義務を尽くさなかった加害者には責任があると主張し、1973年3月の同訴訟判決で初めてチッソの加害責任が認められた原動力となりました。
この日、水俣市では水俣病未認定患者救済運動(自主交渉派)のリーダーだった故川本輝夫さんを偲ぶ24回目の「咆哮忌」が開かれていました。一次訴訟の勝訴判決後に訴訟派の患者たちは、川本さんら自主交渉派の患者たちと合流し、チッソ本社と交渉し、1973年7月、同社と補償協定を結びました。協定書調印には立会人4人(三木環境庁長官、馬場衆議院議員、沢田知事、日吉水俣市民会議会長)もおり、「以降認定された患者で希望するものには適用する」との約束が交わされました。
水俣病被害をめぐる裁判では、2004年10月の関西訴訟最高裁判決のように、国・県の行政責任が確定した画期的なものがあります。しかし、そのことばかりに注目が集まり、関西訴訟勝訴原告は認定患者となっても、判決で得た一時金的な慰謝料の賠償金のほかに誰一人、補償協定による補償(患者生存中の医療生活保障の各種手当が含まれる)は、チッソが裁判で賠償は決着済みとして締結を拒否し、受けられませんでした。これらの患者は身体の被害に加えて差別や生活苦から関西へ移住して裁判を闘うことになった方々であり、判決から20年経過した現在みなさん亡くなられています。こうしたいきさつを詳細に記録したのが、原告患者を永年支援してきた、木野茂さんと山中由紀さんの共著による『続・水俣まんだら』(緑風出版、3200円+税、2025年)です。
本書を読むと、患者との面談に応じる熊本県職員の実名発言記録も多数出てきます。その中には、水俣病対策課長や審査課長、環境生活部長を歴任した人物もいます。この人物は、現在、私の地元の副市長を務めていることもあって、特に興味深く読みました。当人の話しぶりは温厚ですが、けっして役所に不利になる言質を与えない点は徹底していて、こういう人物が役所では「有能」とされるのだなということを改めて感じました。立場が変われば仕事ぶりの評価がこうも違うのでしょう。しかし、大局的に見てその仕事ぶりは正義と言えるのか、不当な苦しみを被って一生を終えた人たちから尊敬される人物と言えるのか、というと、やはり大いに疑問です。おそらく、本市の職員で本書を読んだ「奇特」な人はいないだろうなと思います。ですが、あなた方の上司が公務員の鑑として誇れるか一度考えてみてほしいと思います。

『企業の責任』〈増補・新装版〉出版CF

昨日から始まったCF。4000円(注:システム利用料別途)で出版計画の1冊がリターンで送られてくるのでさっそく応じてみました。
「目標額を達成した場合、『核心・〈水俣病〉事件史』(富樫貞夫著 石風社 予価2500円+税)の出版制作費に充てます。刊行は、2025年3月の予定です。」とありましたので、そちらの刊行も楽しみです。

地獄の戦場参千粁

先月菊池市内で開催された「空襲・戦跡九州ネットワーク」の集まりに参加した際に、事務局の高谷和生さんから歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』を頂戴し、さっそく読ませていただきました。同連隊は、旧日本陸軍の第三十七師団(本拠地は山西省に置く通称「冬兵団」、1944年4月からの大陸打通作戦参加時より防諜名「光兵団」)に属し、主に熊本県出身者からなる部隊です。記録をまとめた初年兵たちは1944年11月に熊本で入営し、中国に渡った後は先行して南下する本隊を追いかける形で行軍を続けます。最終的に初年兵たちは編入を果たせず、終戦をベトナムで迎えます(本隊はタイで迎えたので延べ8000km、日本一歩いた部隊の一つです)。ベトナムやタイからは終戦翌年に復員しますが、戦死者以上に戦病死者が多く合わせて1629名が命を落とすほど損耗が過酷だったと記録されています。
本書を読んで身近だった2人の人物を思い浮かべました。ひとりは6年前に亡くなった伯父です。亡伯父は、本書執筆者と同じく歩兵第二二五聯隊の通信中隊に所属していましたが、この方々より入営が早かったので終戦時はタイにいたようです。復員してみて終戦直前に実家が空襲で焼失していたことを知ったと聞いています。こうした例は本書に登場する初年兵の郷里でもあり、八代の王子製紙や水俣の日本窒素(初年兵の父が従業員で機関砲を受け亡くなったことも書かれていました)の空襲被害の話が触れられています。
そして、もう一人は、私と交流があった故・松浦豊敏氏。本書内に参考文献として同氏著の『越南ルート』が紹介されています。現在の宇城市松橋町出身の松浦氏は、私の伯父と同じく1925年(T14)5月生まれですが、入営したのは上記書執筆者の歩兵砲中隊の方々と同じ1944年11月でした。所属はやはり冬兵団の山砲兵第三十七連隊の初年兵で、終戦はベトナムで迎えられました。そのため、歩兵砲中隊の初年兵らと同じ船で復員されていたことを本書で知りました。松浦氏の場合は、入営までの経歴が特異です。旧制宇土中学卒業してすぐに山西省太原に渡り、山西産業に入社します。同社は鉄鉱・軽工業製品を扱う国策会社で、諸勢力の動静を探る特務機関でもあり、松浦氏は同社の特務課に所属していました。なお、同社の社長は張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作です。『越南ルート』の初出は1973年刊の同人誌「暗河」ですが、2011年に石風社から出した同名の単行本に所収の自伝的小説「別れ」においてこの山西産業時代のことを描いています。
復員当時20歳前後の青年たちにとって「死」はすぐ傍にあり、しかもそれが国策で強いられたものであったことを命がけで日々体感したと思います。それだけにこの世代の方々のその後の人生の歩みを見ると、分野の違いはあっても、物事を所与のものとして捉えない精神が強靭だと思える面があります。いまさらですが、もっともっと学べることがあったのだろうと思います。

『歴史学はこう考える』読書メモ

松沢裕作著の『歴史学はこう考える』(ちくま新書、940円+税、2024年)を読んでみてまず思うのは、自称歴史家はいるけれども、まっとうな歴史家かどうかの判別は、やはりその書きぶりで可能だということでした。歴史を語りたがる自称作家・ライターのたぐいはいますが、その手合いで多いのは、語りたいことが先に立ち、根拠が不明確であったり、手前勝手な想像の膨らみでしかなかったりするように思います。
本書のタイトルは「歴史学はこう考える」ですが、本書の中身は「歴史家はこう考える」ともいえます。「それぞれの歴史家がどのようなタイプの史料を読んでいるのか、歴史家はどのような問いを立て、それにどのように答えているのか」(p.270)という、まっとうな歴史家の頭の中を覗き見る思いをしました。このところ、量任せの不確かな情報拡散による投票行動への影響が懸念されています。まともに言葉を交わせる共通基盤がともすれば損なわれている社会に危惧を抱いています。まっとうな歴史家が備えている考え方の価値をだれもが理解・尊重する社会の形成に向けた教育・啓発が今ほど必要な時代はないと考えます。
なお、一口に歴史といっても政治史や経済史、社会史など、さまざまな分野があります(本書ではそれらの論文を題材にしています。政治史:高橋秀直「征韓論政変の政治過程」、経済史:石井寛治「座繰製糸業の発展過程」、社会史:鶴巻孝雄「民衆運動の社会的願望」)。これは同時に、歴史家それぞれが持っている、どのような政治や経済、社会が望ましいのかという将来像と密接にかかわっていると、著者は述べています。
本書では「近代」をめぐる議論も紹介されていたのですが、著者は個人的に、自身の大学生時代に、社会史の論文例で取り上げた鶴巻孝雄氏の影響を受けたと書いていました。その鶴巻氏は東京経済大学の色川大吉ゼミの出身だそうですが、私の大学生時代には、その色川氏編の『水俣の啓示 不知火海総合調査報告』(筑摩書房、1983年)に影響を受けましたので、変なところで縁があるなと思いました。

戦争遺産から何を学ぶか

水俣病センター相思社が設立されて50年。11月3-4日に記念の集会が開かれました。4日は、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが記念講演を行い、国内や世界の貧困、差別、暴力について語ったうえで、「大きな力には、つながる力であらがっていくことが大切」と呼びかけたと、6日の朝日新聞熊本地域面記事にはありました。
相思社を初めて訪ねたのは設立10周年の年の頃でしたから、かれこれ40年の付き合いになるので、今回のイベントには大いに関心があったのですが、その催しの案内を受ける前に計画していた旅行に参加するため、残念ながら参加者の報告を通じて思いを共有することとします。
それで、同時期に訪ねた場所としては、長崎市の長崎原爆資料館や佐世保市の無窮洞がありますので、その訪問記を記しておきます。ちょうど訪ねた1週間前には私の地元校区の小学6年生たちが、修学旅行で長崎市の平和公園や佐世保市のハウステンボスを訪ねたと、聞いていました。自身にとっても、50年ぶりの長崎県方面への修学旅行のようなものとなりました。
まず、長崎原爆資料館ですが、こちらの建物は28年前に建てられたもので、私が小学生当時に訪ねた施設とは異なりますが、被爆した展示物の数々にはかつて見覚えのあるものが多くありました。被曝後に若くして亡くなった生徒・学生の日記の展示からは、今もガザその他世界各地で突然命を奪い去る戦争の愚かさを痛切に感じます。今年、被団協がノーベル平和賞を受賞しましたが、それに関連した展示はまだ見当たりませんでしたが、先に受賞したICANのメッセージビデオを視聴できるコーナーはありました。核兵器開発の歴史とそれに抗う核兵器廃絶の歴史を対比して見せるコーナーでは、核実験回数が最も多かった年は、キューバ危機が起きた1962年、自分の生年と同じ年だと知り、憂いを大いに感じました。その後も核兵器は存在し続けているわけです。人類が自ら滅亡する兵器を携えたままでいられるのは、どう考えても狂気の沙汰でしかありません。
これに関連して触れると、小学生が修学旅行で核兵器がもたらす悲惨さについて学ぶ一方で、地元の市議たちは、本年の9月定例会に提案された「日本政府に核兵器禁止条約の参加・調印・批准を求める請願」を、賛成1対反対15の圧倒的差で不採択の議決をしています。請願者が共産党の支持者と目される人物だったので、ほとんどの市議はそこだけを賛否判断根拠をしてしまったのかもしれません。しかし、それならそれで、この請願の内容に反対票を投じるということは、自分が核兵器廃絶に対しても反対している立場を示すことになることを、どれほど理解できているのかと思います。どうやら、請願紹介議員の顔をつぶすのを目的とした、うわべの判断しかできず、自分の政治的信念に基づく政策判断ができない資質(=政治家としての志)の低さを感じます。
次に、無窮洞についてですが、これは1943年から1945年8月まで旧宮村国民学校の裏手に掘られた防空壕跡です。掘ったのは、現在の中学生の学齢に相当する当時の子どもたちで、洞窟には教室や書類室、台所・かまど、食糧庫、トイレ、非常階段が造られています。侵略戦争を是とする当時の教育内容にも問題がありましたが、戦時中は教育を受ける機会すら満足に得られない歴史があったわけで、当時の子どもたちが置かれた教育環境の劣悪さには哀しさしか覚えられません。しつこいようですが、不勉強な地元市議たちには、こうした戦争遺産を見学してもらいたいものです。
戦争遺産から学ぶのは戦争の愚かさだけではありません。いかにして戦争が始まらないようにするか、今起きている戦争はいかにして停めるかです。冒頭に触れた水俣病センター相思社の現理事長の緒方俊一郎氏は、球磨郡相良村において江戸時代末期から続く医院の6代目です。同氏の父は、太平洋戦争の前、陸軍菊池飛行場に併設された陸軍病院を建設する際にかかわられたそうです。そのため、同氏も菊池で1941年春に生まれ、幼少期は同地で暮らしていたと聞きました。そのこともあって、菊池の陸軍病院について詳しい話を聴くほか、関連資料を残しておられないか、改めてお話を伺ってみたいと考えているところです。

「くまもと新時代共創基本方針及び総合戦略」(素案)に関する意見

せっかくのパブコメ機会だから、物好きな県民の一人として以下の意見を提出しました。ぜひ皆さんも関心あるテーマの基本方針や総合戦略の素案とやらをご覧ください。
別に文章が長ければいいってもんではありませんが、「水俣病問題への対応」についての「基本方針」が279字、同じく「総合戦略」が468字。しかも、ちょっと言い回しを変えて双方の内容は重なっています。要するに400字詰め原稿用紙1枚程度のことしか仕事しませんと宣言しておられるわけです。オタクら大丈夫なんかと思います。

「くまもと新時代共創基本方針及び総合戦略」(素案)に関する意見

「くまもと新時代共創基本方針及び総合戦略」(素案)に関して「水俣病問題への対応」に絞って以下の意見を提出します。
①「水俣病問題への対応」にかかわる「基本方針及び総合戦略」(素案)を読むと、「新時代共創」の看板を掲げながら、非常に中身が薄い印象をまず持ちました。たとえば施策の中で県が主体性をもって取り組む事業として書き込まれているのは、公健法に基づく認定審査業務と、水俣病に対する偏見・差別解消事業ぐらいしか読み取れませんでした。患者やその家族に寄り添った生活支援をするとの表現はあってもどのような機会を具体的に設けて行うかが見えません。国が限定的に実施する健康調査に県が協力するとあっても、その実は国任せであって、その調査方法の問題点に目を向ける姿勢がありません。水俣・芦北の地域振興も大切ですが、被害者救済には直接関係しない県政課題であり、本項目に書き込むのは「やってる感」を出すための文字数稼ぎにほかならないと感じました。
②上記①で指摘するように中身の薄さは、「水俣病問題への対応」にかかわる「重要業績評価指標(KPI)」が何ら示されていない点にも表れています。施策推進の進捗状況が可視化される指標の公表予定が何もないということは、最初から成果評価もせず、改善に向けた見直しの予定もないとしか受け取れません。「公健法に基づく認定審査については、平成25年の最高裁判決を最大限尊重し、申請者の個別事情に配慮しつつ、丁寧に対応しながら、着実に進めます」と、もっともらしい記述で済ませていますが、被害の実情や疫学の知見を正しく反映した判例が出ているのもふまえると、公健法の改正や、特措法での救済からもれた被害者に向き合った施策の推進こそが必要であり、その進捗状況を可視化公表すべきです。何も改善しないことや、被害者を救済しないままでいることを、わざわざ「基本方針及び総合戦略」に掲げるのは、きわめて不誠実・不当だと思います。
③「水俣病問題への対応」として書き込むべきことは、認定と未認定と問わず患者団体との継続的な直接協議の場を設けて、共に諸課題を解決していくことと、不知火海沿岸全域の住民の健康被害調査を実施することにほかならないと考えます。それへ向かってこそ、共に熊本県の新時代を創れるのではないでしょうか。
以上
https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/18/213169.html

同朋同行

学生時代に当時立教大学教授だった栗原彬さんの「政治社会学」の講義を聴講しに同大学へよく行っていました。栗原さんの著書『管理社会と民衆理性』を持参し、先生に一度サインをいただいたことがあります。その際に浄土真宗の開祖・親鸞の言葉「同朋同行」を添えられました。なかなかに含蓄ある言葉で、40年以上ときおり脳裏に浮かんできて意味を考えさせられます。なんとはなしに、自分の行動指針の一つとなったことは間違いないと思います。栗原さんは、「水俣展」を企画する認定NPO法人水俣フォーラム評議員として今も活躍されています。
冒頭の立教大学での聴講の思い出としては、当時慶應義塾大学教授の内山秀夫さんが講師として講義されていた政治学もありました。内山さんにも著書の『民族の基層』にサインのお願いをしたことがありましたが、照れ隠しなのか「やだよ」とあっさり断られてしまいました。なお、この頃、内山さんと栗原さんの共著『昭和同時代を生きる』も出ていました。
それでなんでまた「同朋同行」のエピソードを持ち出したかというと、浄土真宗本願寺派(お西さん)の現門主が親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年にあたる2023年に発布した「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」をめぐって宗派内で混乱が生じている事象に接したからです。
文学の世界では、1000年以上前に書かれた『源氏物語』の現代語訳が複数あります。蓮如が生きた500年ほど前から用いられた『領解文』の現代語訳の必要性は一定あるかもしれません。ですが、文学の世界では訳者個人の解釈に基づいて大胆な表現が許されるでしょうが、宗派の教義にかかわる文章を門主だからと言って構成も含めて一方的に改変を定めると、確かに混乱をきたしかねないと思います。
会社に例えると、創業者が定めた社是社訓を、創業記念事業の一環で社長が社内に諮らずに広告プランナーに丸投げして今風にCIリニューアルして創業の精神が混乱してしまったようなものです。社史に業績として社長の名前を刻みたいだけとか、改憲したいだけの某総理みたいな…。
さすがに生成AIを使ってもデータが蓄積されていないと適切な文章にはならないと思いますし、教義宗教の場合は、唱和するので音楽的要素も重要だと思います。黙読で済む文学作品以上に難しいと思います。
同朋同行の精神に立ち返ると、門主も信徒も平等であるべきなので、ひとことで言えば門主だけの解釈を押し付けないことが大事なのではと眺めています。

お出かけ知事室登壇記

9月21日に宇土市民会館大ホールで開かれた「お出かけ知事室~ともに未来を語る会~in宇土市」に質問者の一人として登壇しました。その記録と所感を掲載します。
なお、本企画の質問者は宇土市在住か同市内勤務の住民に限られますが、県政に関してなら質問テーマは限定されないこととなっています。
【私の発言要旨】
(冒頭宇土市とは直接関係ないテーマでの質問を行うので休憩離席を客席に呼びかける)
・木村熊本県知事の師匠である蒲島郁夫前知事が1988年に著した『政治参加』(東京大学出版会)の記述を紹介(下記)しながら本企画の意義や市民の政治参加の重要性を述べた。政治エリート(県で言えば知事や職員など)は国家的な大きな目標を追求しがちであり、そのため市民の政治参加の拡大をなるべく後回しにしようとする。市民の声を聴かずに過去の問題について決着をつけられないで未来を語る資格はないとして、水俣病被害者救済(今現在の問題でもあるが…)について質問のテーマとすると述べた。
「政治参加は市民教育の場としても重要。市民は政治参加を通して、よりよい民主的市民に成長する。自己の政治的役割を学び、政治に関心を持ち、政治に対する信頼感を高め、自分が社会の一員であること、正しい政治的役割を果たす。」
「政治システムへの帰属を高め、政治的決定が民主的に行われた場合、たとえそれが自己の選好と異なっていても、それを受け入れようとする寛容の精神を身につける。市民は他人の立場に大きな配慮を払う思慮深い市民に育っていく。」
・本年5月の環境大臣と患者団体との懇談会のマイクオフ事件を受けての再懇談以降の知事の発言に接しても、知事就任前の公開質問状に対して示した「国の患者認定制度の見直しは求めない」「公害健康被害補償法で対応し、特措法での救済漏れには対応しない」「県としての健康調査の実施は考えない」旨の考えから今も変わりないように見受ける。この3点の見直しに向き合わずして、今後患者団体との協議機会を増やしても信頼関係を築けないし、なんら根源的な解決策にはならない。
・個別具体的に指摘するが、1点めは、公健法での患者認定条件が不当だということだ。医学的には食中毒症の一つである水俣病か否かの判別はシンプル。原因食品である汚染された不知火海産の魚介類を食べ、手足の感覚障害など関連症状のいずれかがあれば患者と言える。環境疫学の知見によれば、メチル水銀汚染地域の寄与危険度割合を用いてメチル水銀食中毒症との因果関係を推定するのが国内外で確立したルールだ。たとえば水俣市の寄与危険度割合は99%だから、汚染地域で症状がある人は100%患者認定して医学的に問題ない。疫学の専門家がいない委員だけで構成された審査会も問題だ。被害者を診るのではなく補償負担のことばかり加害者たちが脳裏に描いているので、認定が歪められている。認定条件を見直す考えはないのか。
(このあたりから会場客席からパタパタと何かを叩きつける苛立った物音が聞こえてきた)
・2点めは、特措法での救済もれの件だ。裁判では後から救済を求める被害者に除斥期間の適用を加害者が主張して、著しく正義・公平に反する姿勢を続けている。これは後から被害に気付いた人に救済を求める権利はないと言っているようなものだ。すでに除斥期間の適用を認めない判決もある。県民の生命と財産を守る立場にある知事なら、このような不正義・不公平な主張を即刻取り下げるべきだ。その考えはないか。
(会場客席から「宇土市に関係ない質問はするな」というヤジがあったので、私から「県政にかかわる質問をしている。聞きたくないならどうぞ休憩してください」と返して、暗に退席を求めた。その後、ヤジは止んだ)
・3点めは、健康調査の件だ。国が2年以内に開始する予定の検査手法では1日最大5人しか検査できない。汚染地域居住歴のある人数を47万人とすると、257年かかる意味のない検査方法だ。福島第1原発事故後に福島県が202万人に行ったような調査を本県独自でも実施してもらいたい。以上3点について明確な回答をお願いしたい。
【知事の回答】 ※私の所感
1点め「患者認定条件の見直しについて」…最高裁判決に則って行い、見直す考えはない。
※寄与危険度割合といった地元紙報道で触れられる疫学の知見・用語について理解していないと思われた。
2点め「特措法での救済もれ被害者への除斥期間の適用撤回について」…係争中なので申し上げられない。
※裁判対応を県職員や代理人弁護士に任せっきりで当事者意識が感じられない。法律論として除斥期間適用の主張はもちろん可能だが、正義・公平に反するか否かを判断するのが政治家の仕事である。やはり除斥期間が争点になった旧優生保護法訴訟では最高裁判決後に首相が適用の主張を撤回し和解が成立したように、政治決着させる器量がほしい。
3点め「県独自の健康調査の実施について」…国に実施してもらい県独自では行わない。
※257年もかかる国の検査方法では被害者救済に結び付かない。国の検査体制の問題点も地元紙報道で知られている事実だが、そうした問題点を把握していないのではと感じられた。知事には良きブレーンはいないのか。
【まとめ】
知事の回答を受けて国や県職員の声ばかりを聴くのではなく、被害当事者の声をこれからも聴き続けてほしいと要望した。それについては知事から続けるとの返答があった。
水俣市ではない本市ですら、いまだに水俣病被害者救済を口にすると、会場内から(どこの誰だか知らないが)下劣なヤジがあった。およそ「他人の立場に大きな配慮を払う思慮深い市民」とはいえない、卑怯者が残念ながら本市にいることも事実だ。しかし、私としては「政治参加」の意欲が大いに湧きたった。これからも不当に人権が蹂躙されている人たちのために声を上げていく決意が高まった良き日だった。

(追加)
本企画についてうがった見方をすると、公費を使っての任期中の支持集めの事前運動とも言えます。質問者は地元各界でリーダー的な役割を担っている方が多く、実際半数以上は以前から名前を知る人ばかりでしたし、登壇のきっかけが地元市からの声かけだったと明らかにする方も多数いました。
そのためか、質問内容には思いつき的提案ネタが多く、質問者の発言時間は短めなのに対して、回答者の知事の発言時間が数倍長く、聞かれてもないエピソード話やリップサービスが展開されるようなこともありました。確かに鳥取県観光課長や消防庁防災課勤務の経歴があるので、観光やスポーツ振興、防災といった得意分野では饒舌ぶりが発揮されていました。
ですが、水俣病被害者対応のように当事者間に明らかに分断がある問題に対する質問回答は、予想していたとはいえまるっきり素気ないもので、不用意なことは一切語らないという態度が、対照的でした。知事と市民が対話する機会そのものは歓迎しますが、問題が複雑で専門知も必要なテーマについてはやはり短い時間での一問一答では掘り下げた議論はできません。これについては、当事者間で継続的に時間をかけて対話できる場を求めていくしかないと考えます。

9/15開催イベント「水俣病と気候危機」

9/15(日)14~16時 東京で水俣×気候変動イベントのお知らせ
https://www.soshisha.org/jp/archives/18494

東京で行われる講演イベントに水俣病センター相思社職員の坂本一途さんが登壇します。
オンライン参加が可能です。参加申し込み期限は、2024年9月14日までとなっています。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdOU7ZQzrCysExVnCIKEOGAS6a3t_lOmnuHosvdypeAR8uAtg/viewform