『独裁者の倒し方』読書メモ

独裁者の失脚のさまを見るのは、その体制で甘い汁を吸っている取り巻き以外の人にとっては痛快なのだろうと思います。ドラマの世界ならなおさらそうだと思いますが、得てして現実はそれら取り巻きを含めた新しい独裁者に取って代わられるのがオチで、なかなか民主化へ進むのは歴史的にもレアです。ことに外国に強制された政権交代の実績は惨憺たるもので、過去100年間に米国が行った政権交代作戦の11%ほどしか民主体制の確立につながらなかったと以下の書のp.237にあるくらいです。
マーセル・ディルサス著の『独裁者の倒し方 暴君たちの実は危うい権力構造』(東洋経済新報社、2200円+税、2026年)を読んでみる気になったのは、3月21日の朝日新聞に掲載された書評がきっかけです。評者は同紙文化部記者で、本書を身近な話として読める部分があるとして、「忠実に見えるという理由で無能な役人たちを独裁者が昇格させると、政権の上層部は権力にけっして近づくべきでない人だらけになる」(p.68)を引用し、「あなたの会社に、そんな社長はいませんか」と結んでいました。ひょっとしたら、評者の勤務先に対するグチなのかと勘繰りました。
確かに会社にも独裁者はいるでしょうが、権威主義国家と異なり社員の命を取る暴力装置まで備えているのはさすがにないでしょうし、私服を肥やしし過ぎると市場からも見離され、会社自体の存立が行き詰ってしまいます。私企業の独裁者を倒すのははるかに容易だと思います。
そうした中、本書で紹介している希望が持てる情報としては、抵抗運動の「3.5%ルール」というものがありました。これはハーヴァード大学のエリカ・チェノウェスが命名した法則で、「戦闘や一般大衆によるデモ、その他の大規模な非協力的行動のような、観察可能な突出した出来事に国民の3.5%が積極的に参加したときに、失敗した革命は1つもない」(p.165)というものです(ただし、1962年のブルネイでの叛乱と2011-14年のバーレーンでの抗議活動は例外的に失敗したともチェノウェス自身が指摘しています)。
ところで、一応民主主義国家である日本国内における政治参加というのは選挙での投票行動だけとは限りません。他にも手軽で楽しい方法があるものです。
https://democalendar.jp/

広島訪問メモ

戦争遺跡保存全国ネットワーク・広島主催ミニシンポジウム「ヒロシマ、ABC兵器をめぐって―原爆被害と毒ガス加害―」の聴講が目的で、中学の修学旅行以来、実に半世紀ぶりに広島平和記念資料館を訪問しました。当時と異なり今回訪ねた日の入館者のほとんどは外国人観光客でした。それに配慮してか、被害の実相を伝える展示では、大きなサイズの写真資料が多用されていました。実物資料を人の肩越しにしか見れないほど来館者が多いのも驚きでした。戦争で命が奪われるのは交戦国同士の国民とは限りません。核保有国の国民はもちろん世界のだれしもが、人類共通の問題として戦争や大量破壊兵器の愚かさを知るべきです。その機会として広島の教訓が果たす役割の大きさを感じました。
シンポジウムでは、『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書、2025年)の著者である佐田尾信作氏(陸戦隊兵士だった父が入市被爆者)による報告「軍都・軍港と西瀬戸内海の戦争遺跡」がありました。著書や当日の報告でも紹介があった、朝鮮人労務者100人ほどが掘削工事にあたった第二総軍地下壕があった「二葉山」は会場に向かうバス車窓から眺めましたし、朝鮮王族の李※(イウ)公の名が刻まれた「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を帰りに平和公園内で見てきました。李※は、朝鮮王族として生まれ、陸士45期。第二総軍司令部教育参謀(中佐)として着任中に広島で被爆し重傷を負いました。「宮様」救助のため、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)が、現在の原爆ドーム近くの相生橋付近まで船で川を遡上し、収容しています。ですが、被爆翌日の1945年8月7日に似島の陸軍検疫所で死亡しました。このとき、御付武官の吉成弘が自責の念から自決しています。※は「金」+「禺」で一字。
ところで、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の造りは、亀をかたどった台座の上に碑柱が西向きに建っています。これは「死者の霊は亀の背に乗って昇天する」という韓国の故事に基づいているそうです。アジア太平洋戦争末期、三池炭鉱などに、朝鮮人や中国人、捕虜など約2万人が労務動員されていた大牟田には、徴用犠牲者慰霊塔がありますが、やはり亀が頭を朝鮮半島の位置する西へ向けて建てられています。

『古代の天皇制』読書メモ

今年3月に文庫化されて出た、大津透著の『古代の天皇制』(岩波現代文庫、1600円+税、2026年)の補章の「天皇号の成立と唐風化」だけでも読んでおくと、日本史のたしなみがある人物かそうでない人物かぐらいの判別を付けられるようになるかと思います。
天皇号がいつ成立したかについての研究では、推古朝説と天武朝説が有力で、最近の教科書では、天武朝説が取り上げられることが多いそうです。
著者自身は、天皇号は、7世紀初めの推古朝に成立し、8世紀初めの大宝律令で制度化され、「スメラミコト」と読まれていたと考えています。詔書というミコトノリで読み上げる主体であり、謚号も和風でした。8世紀中葉から漢字二字の漢風謚号が成立し、同じ天皇号でも礼制を中心とする中国国制の影響を強く受けたものに変質(唐風化)していったと考えています。
古代中国には「皇帝」と「天子」の二つの君主号がありますが、日本での君主号は「天皇」で一つです。その契機となったのが607年の隋の煬帝の激怒にあります。第二回遣隋使が携えた国書の中に、倭王が「天子」と名乗った箇所があり、「天子」は世界に自分一人しかいないとする煬帝からすれば無礼と大いに不興を買ったわけです。以後の国書からは「天子」という記載が消えます。
たとえば、735年に唐から日本への国書には宛名を「日本国王主明楽美御徳」としています。これはその前に日本から唐へ送られた国書にそういう記載があったからと見られます。唐にとっては「日本国王」以外はあり得ないので、「天皇」と書いても受け入れられません。そこで、和語で王の姓名らしく「主明楽美御徳(すめらみこと)」とごまかしてみたわけです。考えようによってはかなりしたたかな外交を展開していたとも言えます。このような外交の才に恵まれた例としては、豊臣政権や江戸幕府と朝鮮王朝との間の国書偽造・改竄(はては朝鮮国王印の偽作まで)にかかわった対馬の宗氏を思い浮かべます。無用な争いを避け、通交で互恵をもたらすお家芸を、現代人はバカにはできないかもしれません。
本書の補章以外の部分の読書メモは、本投稿に加えませんでしたが、「第六章 クラとカギ――クラの思想」など、それこそ歴史教科書では目にすることができない分野の論述に触れられて奥深かったです。「大蔵省」「監物(けんもつ)」「典鑰(てんやく)」といったワードが出てきます。

21世紀生まれの青年をも苦しめる遺棄毒ガス兵器

4月12日に聴講した辰巳知二氏の講演は、以下の記事の内容を中心としたものでした。
戦時中に旧日本軍が製造していた毒ガスの原料を含んだコンクリート塊が、1993年以降、何者かの手によって茨城県神栖市の地中に遺棄されていました。それにより付近の井戸水が汚染されていたことが、その水で溶いたミルクで育てられた21世紀生まれの赤ちゃんに、2002年から脳性まひの症状が出たことで、後にわかりました。その子どもは青年となりましたが、一生苦しみを負わされた境遇にいます。

手の震え、頭痛…家族4人がなぜか急に体調不良に 原因は「おいしい地下水」に混入していた毒だった…製造したのは旧日本軍、半世紀を超えてなぜここに?(後編)
https://news.yahoo.co.jp/articles/2199534dccfacb3c213d34afd79854768ab020c9?page=1

「家族にも言えない」女学生160人が集められたのは、地図にない島だった…15歳で背負わされた加害責任、60年後の“発覚”(前編)
https://news.jp/i/1374613679142289752?c=39546741839462401

ミニシンポジウム参加に際して

戦争遺跡保存全国ネットワーク・広島主催ミニシンポジウム「ヒロシマ、ABC兵器をめぐって―原爆被害と毒ガス加害―」が4月12日、広島平和記念資料館で行われるので、参加を予定しています。内容は、いずれもジャーナリストである辰巳知二氏の講演「今なお残る毒ガスの爪痕~禁止条約でも消せぬ戦争責任」と佐田尾信作氏による報告「軍都・軍港と西瀬戸内海の戦争遺跡」となっています。会場である資料館の展示についてもしっかり見てこようと思います。
https://sensekinet.jimdofree.com/
https://hpmmuseum.jp/
戦争は水や土壌、大気を汚染し、ひいてはCO2排出による気候変動をより深刻化させる、最大の環境破壊であり、同時に生命・身体・財産が奪われる人権侵害です。戦時はもちろんのこと、戦後の復興期についても言えることです。広島においては、原爆被害が象徴的ですが、旧日本陸軍が大久野島(日中戦争勃発後は地図から消されていました)で化学兵器を製造していたことによる被害はあまり知られていません。製造された化学兵器の多くは、配備された国内外の駐屯地近くの地中や川、海中に戦後遺棄されました。したがって、戦後それとは知らずに曝露しての被害も国内外で起こり、とりわけ国外における被害者救済が不十分であることも知られていません。
その大久野島には現在「大久野島毒ガス資料館」があり、その概要については、梯久美子著の『戦争ミュージアム』(岩波新書、2024年)で読んだことがあります。同書ではこの資料館が最初に紹介されています。悲惨なのは毒ガス製造のために働いた人(13~14歳の動員学徒1100人を含む)の中から慢性気管支炎、肺気腫、肺炎、肺がんといった健康被害に遭い、亡くなる人や後遺症に苦しむ人が多発したと言います。動員学徒に対して医療手帳の交付と医療費の支給が行われるようになったのは、1975年のことであり、棄てられた存在でした。
https://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/kakehashi.pdf
https://www.takeharakankou.jp/spot/7202/
日中戦争の時代においてすでに毒ガス兵器の使用は国際法的に禁止されていました。それを中国に配備していた旧日本軍は、国際的非難を避けるためにポツダム宣言にも違反して、終戦前後に組織的に遺棄隠匿しました。戦後になっても日本政府は被害の発生を防止するために中国へ情報提供をせず、放置してきました。そのため、たとえば川の浚渫作業中に遺棄された化学兵器を引き揚げてしまい、その作業にあたった中国国民が健康被害に遭うという事件が起こり、日本に対する国家損害賠償請求訴訟がなされたこともあります。原告の代理人を務めた南典男弁護士が実務広報学会編『実務行政訴訟法講義』(民事法研究会、2007年)の「第10章 国家賠償訴訟」やNPO法人化学兵器被害者支援日中未来平和基金のHPで、この遺棄毒ガス訴訟を取り上げているのを読みました。原告の主張を認めた一部の判決がありますが、総じて司法も救済に後ろ向きで、つくづく戦後責任を果たそうとしてこなかった国の不正義・無情さを覚えました。
https://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/kokubai.pdf
https://www.miraiheiwa.org/

職場の対話をよくする鍵は

NHKのEテレで本日放送の「視点・論点」のテーマは「職場の対話をよくする鍵は」。実に面白い内容でした。
番組に出演した解説者が所属するシンクタンクの調査によると、職場で本音を話せる相手について「1人もいない」という回答が堂々の最多で、回答者の50%を超えるそうです。
これは個人のコミュニケーション能力の優劣ではなく、コモン・センス(社会全体の共有前提)の弱まりが背景にあって、対話が深まらなくなっていると、解説者は言っています。
その対策として、組織としては対話を増やす前に「対話の前提を整える」ことを勧めています。たとえば集合型の会議や社長からのメッセージなど、同じ情報を複数の人が同時に見聞している「広いメディア」をうまく使うとか、対話やコミュニケーションを「直接の目的」にしすぎないことを提案していました。また各個人としても相手方の「知識の共通の土台」を確認しながら話すと対話が深まるそうです。
なにしろ、信頼度が低い言説にハマることはあっても、一応ウラは取った新聞やTVに接しない人は多く占めています。そういえば、金間大介氏の『無敵化する若者たち』(東洋経済新報社、2026年)でも「大学生に通じないネタ・トップ5」は、第1位:テレビコマーシャルネタ、第2位:ドラマネタ、第3位:サッカーネタ、第4位:相撲ネタ、第5位:野球ネタ、と書かれていたのを思い出しました。
ところで、総理大臣の職場の一つは、官邸だけでなく国会なんだろうと思います。ですが、今その任にある方の行動を見て見ると、どうも「知識の共通の土台」を国民の代表者たちから確認されるのがよほど恐怖なのか、審議に応じる時間を短くすることにご執心のように見受けます。国民の代表者と対話する気があんまりない人は、別の職業を選んだがいいんじゃないかと思います。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-Y5P47Z7YVW/ep/V3Q9MX3GJR

入場無料で街歩きを楽しむ

いくつか見てみたい入場無料の展示会が熊本市内で開催中なので3時間ほど街歩きを楽しみました。まず向かったのは、展示会ではなくて「平和憲法を活かす熊本県民の会」や「くまもと9条の会」が毎月3日に下通入り口(HAB@前)で行っている「9条を守れ!憲法をいかせ!スタンディング」。署名したら「NO WAR 9条は世界の宝」とプリントされたワッペンをいただきました。実はこうした抗議活動は全国各地で開かれています。足を運んでみたいのなら「デモカレンダー」のサイトが参考になります。
https://democalendar.jp/
次に向かったのが、3月20日にリニューアルした熊本県伝統工芸館。同館入り口前には熊本城を背景に「くまモン」像が撮影できるスポットができていました。入館すると、1階正面には「宇土の雨乞い大太鼓」が陳列されているのも目をひきました。もっともお目当ては、熊本県出身であり、ミニチュア写真家・見立て作家として世界的に活躍する田中達也氏の作品が展示開催中の「ミニチュアくまもと旅するモン」。熊本県の特産品の風景に見立てたミニチュアアートの世界を堪能してきました。
https://kumamoto-kougeikan.jp/spexhibition/r7ex1.html
それから電車通り沿いに歩き、白川沿いの満開の桜が見える大甲橋を渡った先の九品寺にある「Iso Books」を初めて訪ねました。ここは、元酒屋さんを改装して昨年8月にオープンした書店&ギャラリーです。大型冷蔵庫をそのまま書棚として活用していたり、外観に酒屋時代の看板を残していたりと、なかなか風情があります。今はなき喫茶カリガリの店主の娘さんが、この書店&ギャラリーのオーナーです。ご本人が美大出ということもあって書籍の品揃えは美術書関係が多いです。あと水俣関連の本も扱っているので、最新刊の熊本学園大学水俣学研究センター編著『水俣病 これまで・今・これから』(熊本日日新聞社、800円+税、2026年)が置いてあれば買おうと思っていましたが、あいにくそれはなく、熊本駅ビルにある書店で求めて帰りの電車内で読み終えました。4月2~15日の間は、同ギャラリーで、たなかみさきさんの「他人の服が似合う人」作品展(頒布可)が開かれていたので、それも観てきました。
https://www.instagram.com/p/DVadmA4AGWH/
入場無料の展示鑑賞の3カ所めは、くまもと文学・歴史館です。ここでは「来熊130年記念 漱石とその時代」が開かれていて、漱石が熊本で過ごし英国留学するまでの4年3カ月間の創作を振り返る内容となっていました。来熊した130年前と言うと、1896(M29)年、漱石が29歳のときです。私生活では結婚し長女も誕生します。展示で印象に残ったものとしては、正岡子規との交流関係の影響で俳句の創作に熱意を傾けていたことがうかがえました。書簡は毛筆でくずし字がほとんどですが、原稿用紙上のペン書きの字はマス目の小ささもあって割とちんまりした楷書で同一人物の筆跡とは思えない多重性を覚えました。展示チラシにも掲載されていますが、漱石の手による猫のスケッチ画も珍しくて見入ってしまいました。熊本では旧制五高の英語教師だったわけですが、漕艇部顧問もしていて展示品の中に同館と水前寺児童公園の間に今もある砂取橋から船で江津湖へ向かう途中の風景の記述もありました。その砂取橋の下を流れる加勢川の水鳥も同じ風景を見てるのかもと写真を撮って帰りました。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki

『仮放免の子どもたち』読書メモ

3月21日の朝日新聞読書面に、ノンフィクションライターの安田浩一氏による、池尾伸一著『仮放免の子どもたち 「日本人ファースト」の標的』(講談社、2000円+税、2026年)の書評が載っています。川口在住のクルド人に対する差別問題を取材されていた安田氏が、その書評の冒頭で「やりきれない。本書を読み終えた直後、憤りが胸の頂を突き上げた。だって、ひどいじゃないか。日本で生きていく「資格」がないと、国から宣告される人たちがいるのだ。一体、何をしたというのか。」とやり場のない怒りをぶちまけています。私も本書を読み終えて同じ感情を抱きました。
本書では、「「母国に帰れ」とヘイトスピーチを浴びせられ、暴力を振るわれた子ども。重病でも病院に行けない子ども。就職が決まったと思ったら取り消された若者。親と無理矢理に分断された子ども。言葉も分からない「母国」に強制送還させられた若者……。」(p.309)が、東京新聞編集委員の著者の読みやすい筆致でルポルタージュされています。それを通じて見えてくるのは、子どもたちが置かれた理不尽な境遇を理解しようともせず、逆に陰湿に貶めて攻撃する腐った日本人の姿であり、そういう醜い日本人の顔色を窺いながら外国人管理を行おうとするこれまただらしのない政権や入管行政の実態です。
本書の優れた点は、現場目線の記述だけでなく、詳細解説された周辺情報です。この部分の拾い読みだけでも価値があります。たとえば、クルド人とはどのような苦難を負った民族なのか、日本の難民認定審査がいかに国際基準から外れているか、教育を受ける権利や家族が一緒に暮らす権利を保障する子どもの権利条約に対する理解がいかに浸透していないか、無国籍者を保護する制度の不備について取り上げられています。さらに、著者は行政の問題だけでなく、裁判官の国際人権条約に対する理解の低さ、国内人権機関の不備といった面にも目を向けています。そのように甚だしく国際的に立ち遅れている人権感覚に警鐘を鳴らしています。
外国人の人権を蔑ろにするようでは自国民の人権もどこか蔑ろにされる社会しか生まれない思いをします。

戸籍制度の要否から考えてみる

日本独自の国民管理制度である戸籍を政治学の視点で研究する遠藤正敬氏の著書としては、過去に『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』(人文書院、2017年)と『新版 戸籍と国籍の近現代史 民族・血統・日本人』(明石書店、2023年)を読んだことがあります。たいへん読み応えのある刺激的な本です。おそらく唯一の、そのマニアックな学究ぶりからどんな人柄なのだろうと興味をかねがねもっていました。そしたら、日本記者クラブにおいてつい一昨日、講演に登壇されている動画があるのを知り、普段なら2倍速で視聴するところを等倍でたっぷり90分聴き入ってしまいました。私よりも10歳若い方なので、事前のイメージでは生真面目で繊細な研究者を想像していたのですが、動画でお目にかかると語り方にも老成感があり昔風の大人に出会った懐かしさを覚えて不思議な魅力がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=LOiUjOgMz0E
今回の動画では冒頭司会者から2025年10月に集英社インターナショナル新書から刊行された同氏の著書『戸籍の日本史』について紹介されていました。上記2つの本は分厚い本なので、同氏の研究成果を気軽に知りたい向きにはそちらをお勧めします(ちなみに私は目次だけ見てこちらは購読していませんが…)。
さらに、今回の動画について言えば、ぜひ夫婦の氏姓を考える上でも必要な常識が得られるので、その点に限っても有益です。たとえば、選択的夫婦別姓制度の導入に否定的な国民の無知さが鮮やかに解き明かされます。たとえば、明治憲法施行以前の日本ではむしろ夫婦別姓が伝統でしたし、明治憲法の起草者であった井上毅自身に至っては、妻が夫の姓を名乗るべきではないとさえ考えていました。これは法務省も認めていることですが、夫婦同姓を法的に義務付けている国は世界で日本だけです。
他にも明治の戸籍制度が始まる以前、アイヌの人たちに氏姓はありませんでしたが、無理やり漢字表記の氏姓を創らされ登録されましたし、琉球人の氏名表記は元々ファーストネーム→ファミリーネームの順番だったのを逆に変えさせられました。制度の目的は臣民への画一化にあったとうかがえます。戦後の日本国憲法施行後は、GHQから戸別単位ではなく個人単位の管理制度に変えたらという提案(=もはやそれは戸籍ではない)もあったそうですが、当時の司法省の役人が紙不足を理由に棚上げしてしのいだという裏話にもビックリします。
結局のところ、個人の市民権を保障する世界基準の趨勢は、国籍から定住地、国民から住民を重視へ移行しているので、戸籍制度は段階的にあるいは選択的であってもいいですがもはや廃止してもかまわないのではないかというのが、これまでの著書や今回の講演を通じての遠藤氏の考えです。それに廃止すれば行政コストが削減できるメリットもあります。制度を所与のものと考えずに歴史的経緯・捻じれまで知って判断することの大切さを改めて感じました。

『これからの世界の紛争』読後メモ

作家にして元外務省主任分析官の佐藤優氏監修の『これからの世界の紛争』(新星出版社、1500円+税、2026年)をつい先日買って読んでみました。購入のきっかけは、同氏が月1で登壇する動画で紹介していたからです。同氏の発言はその動画以外にも朝日新聞電子版でのコメントでも日頃接します。もっとも最初に氏の存在を知ったのは鈴木宗男事件に連座する形で逮捕される以前の時期に、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」を寄稿されていた頃からなので相当長いですが…。それはともかく、氏の現在発する意見のすべてを首肯するものではないですが、国際関係に対する俯瞰力の広さや歴史や思想に対する造詣の深さには敬服するところがあります。それでいてこれまで同氏の著作は一度も手にしたことがありませんでした。言うなればこれまでほとんど無償に近い形でしか氏の言説に接してこなかった不義理に対するほんの僅かなお返しの意を込めて入手してみた次第です。
さて、本著についてですが、「サクッとわかるビジネス教養」のシリーズ本と謳っているだけあって、図解資料が多く、1時間ほどで読み終えるというか眺め終わることができました。取り上げられている紛争についてはすべて承知しているものばかりでしたので、特に新鮮な情報はありませんでした。しかし、特定の紛争のニュースに接したときに関係国・機関・人物や経緯の正しい情報を即座に確認したいときは、辞書的機能があって便利な代物(まるで教科書副読本みたいな!)ではあるかなと思いました。欲を言えば、アフリカ地域における紛争の取り上げ方が少ない印象を受けました。もっと広範な紛争情報について手軽に知りたければ、『分離独立と国家創設 係争国家と失敗国家の生態』の著者・ジェイムズ・カー=リンゼイ氏(英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス欧州研究所研究員)のビデオレターはたいへん有益です。興味を持たれた方は、この動画チャンネルへアクセスしてみるのもいいと思います。
https://www.youtube.com/c/JamesKerLindsay/Join
佐藤監修本の内容について話を戻すと、途中に挟まれているコラムの方が、同氏の識見の本領発揮という思いがしました。たとえば、p.112では1932年の、フロイトとアインシュタインの往復書簡「ひとはなぜ戦争をするのか?」を取り上げています。ここでフロイトは「(戦争を防ぐために)優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかなければならないのです」と書いています。紛争の現状把握だけでなく、そうした人類がこれまで積み上げてきた知の蓄積についても目を向けてみることが必要なのだと思います。
(p.117に掲載のグラフの記載で誤記を1か所見つけ出版社に知らせたところ、翌日返信をいただきました。丁寧な対応に感謝します。)

「少子化と教育格差」特集読後メモ

 岩波書店発行の『世界』2026年4月号の[特集2]は、「少子化と教育格差」。そのねらいについて、発行元のサイトには次のように記されていました(▶は改行を示す)。「2025年の国内出生数は、68万人を下回る見込みとなった。▶ベビーブーム期の3分の1以下という急激な少子化が進行する一方、子育ての負担や保育・教育に関わる課題は噴出している。▶日本の公教育は、場所を問わず「教育の機会均等」を保障しようとしてきた。だが、少子化・人口減少下で綻びが広がり、その隙間に入り込む私教育では経済・文化・地域の格差が拡大しつつある。▶急激に進行する少子化は、子どもに、そして社会に何をもたらすのか。」。
 この特集では、いくつか興味深いデータが示されていましたので、紹介してみます。
 米国の家族人口学者であるサラ・マクラナハンが導いた指摘(2004年発表)によると、母親の晩産化や就業率の上昇、親の離婚の増加といった行動変化のうち、晩産化と母の就業は子どもの生活を安定させるが、離婚はウェルビーイングを低下させる傾向にあり、母親が高学歴で安定した生活を送る子どもと、母親が低学歴で資源の乏しいひとり親世帯で育つ子どもという、子どもの生い立ちとその帰結が二極化していく「分岐する運命」の顕在があるそうです。
 実際、日本の子どもについてもそれは言えるようです。1995~99年出生児では90%以上が34歳以下の母親から生まれていましたが、2015~19年出生児ではその割合は69%にまで低下し、母親が35歳以上だった割合が30%を超えています。この20年間で母親の年齢が確実に高年齢化しています。続いて、父母の学歴の組み合わせ別の構成変化を見ると、父母ともに非大卒が減り、父母ともに大卒の出生児の割合が上昇しています。母親が大卒の割合は、1995~99年出生児の37%から2015~19年出生児の50%に達していて、今後は母親が大卒である子どもがマジョリティとなると見られます。さらに、子どもが1歳時に母親が正規の職員として就業していた割合は、1995~99年出生児では16.8%ですが、2015~19年出生児では36.8%に達します。子どもが6歳時の母親の配偶関係構成の変化について見ると、1995年以降、母親がシングルマザーである割合は低下傾向にあり、2人親のもとで育つ子どもの割合が上昇しています。離婚理由にはさまざまなものがあり、その状態をもって非難するのは大間違いです。資源に恵まれた子どもとそうではない子どもとの格差があることに政治が目を向けて低所得やひとり親世帯の子どもに手を差し伸べることが重要です。
 もう一つ知っておきたいデータとしては、多様な文化的・言語的背景をもつ子どもが増加しているということです。2024年に日本国内で生まれた子どもは71万人ですが、そのうち父母が日本人の子どもは67万人、父母の一方が外国人の子どもは1万6千人、父母が外国人の子どもは2万3千人であり、出生総数の5.4%が両親のレベルで外国にルーツをもつ子どもとなっています(2024年の日本国籍出生児の2.3%は父母の一方が外国人です)。外国の文化的・言語的背景をもつ子どもについても特に母親が高学歴、正規職員である割合が高まっているそうですが、やはりその背景を考慮した支援は求められると思います。
 以上が、国立社会保障・人口問題研究所の岩澤美帆氏の「「子どもが減る社会」の実相 データで捉える子どもとその環境」からの読後メモでした。以下は、ハーバード大学アカデミー・スカラーの打越文弥氏の「「手に職」系学部の増大とジェンダー格差」からの読後メモになります。
 近年の日本の大学では、看護系や薬学系、保育系、社会福祉系といったケア領域の「手に職」系の学部が増えているそうです。それがどのような大学で増えているかと言うと、入学難易度が比較的容易な非銘柄大学、比較的歴史の浅い私立大学に多いようです。しかも定員割れに苦しみ生き残りを迫られた地方の私立大学に偏在する傾向にあります。女性資格職と結びついていた短大が四大へ昇格した背景もあります。
 私立大学のタイプ別にみた「手に職」系学部に在籍する学生が占める割合(注:数値はグラフからの読み取りのため大まかです):私立大学A群(早慶GMARCH旧設8医科大など)7%、私立大学B群(1960年以前設置)13%、私立大学C群(1960年以降設置)25%
 地域別にみた「手に職」系学部に在籍する学生の割合:北海道・東北25.1%、関東15.9%、中部24.3%、近畿17.9%、中国・四国27.3%、九州・沖縄25.4%
 選択肢が豊富な(潰しが効く)難関大学は都市部にあり、それら遠方の大学に進学するには高校生自身に周囲の大人を納得させるような合理的理由を提示する必要が哀しいかな求められています。このことから、進路選択を通じた男女の分離が強まらないか、大都市圏に比べて職業的な多様性に限りがある地方においては、高校生女子の将来の選択が、より制約されてしまうのではないかと考えられます。
 入学前に専門を決める入試制度と私的負担に加えて、日本の企業特殊的なスキル形成もとりわけ女性には足かせとなっています。日本では、企業特殊的スキルのレジーム下で得られたスキルは、その企業に特殊的である(と信じられている)ため、同業他社であっても通用しないと考えられて、出産・育児によって就業中断を経験しやすい女性には不利な労働市場となっています。その意味では「手に職」に対する志向性は「合理的」ですが、やはりジェンダー格差という問題は残ります。
 高学歴高所得の親なら子どもの教育環境と将来を考え、やはり都市部で居住したがるでしょう。「手に職」系の学部設置で生き残り戦略をとってきた地方の大学も、先行きは暗いようです。そこの卒業生も生活のことを考えればやがては都市部へ出て行くでしょう。高度なスキルを要する企業であればあるほど人材確保のため都市部に留まり続けるのではないかなと思います。

戦跡バスツアー参加メモ

#北九州市平和のまちミュージアム #戦跡バスツアー #門司陸軍兵器本廠跡 #正蓮寺軍馬塚 #門司兵器製造所跡 #古城山砲台堡塁跡 #火ノ山砲台跡

中東のホルムズ海峡は、封鎖される前、日本が輸入する原油の9割が通過する要所ということで、いつ安全航行が再開できるのか注目を浴びています。近代日本にとっても海峡防衛は重要でした。関門海峡を挟む北九州や下関には、200を超える戦争遺跡があるとされています。一方、それらが現役当時の写真や地形記録はほとんどありません。その理由は、1899(M32)年7月に要塞地帯法が公布されたことによります。北九州および下関地域の大部分が下関要塞地帯に指定され、当時は自由に写真を撮ることができなかったといいます。
北九州市平和のまちミュージアムでは、北九州周辺の戦争遺跡をオープンミュージアムと捉えて、年1回戦跡バスツアーを実施されているとのことです。2025年度のツアーが3月20日に催行されたのですが、応募したら幸いにも抽選が当り参加の機会を得ました。平和のまちミュージアム学芸員が同行案内してしかも参加費無料、ツアー終了後の同館入館も特別に無料と至れり尽くせりでした。その感謝の意味を込めて情報共有します。本投稿中には当日私だけが訪ねた戦争遺跡情報も付け加えています。以下、訪問順に記載します。
(丸囲み数字はツアーコース。〇はコース外)
①老松公園(門司陸軍兵器本廠跡)…1895(M28)~1917(T6)年の間、兵器類の貯蔵・保存、修理、供給などを担う陸軍施設がありました。その後公園化され、1932(S7)年に忠魂碑(現慰霊碑)が建立されました。日中戦争・太平洋戦争の時期は、旧門司市出身の戦死・戦病死者の遺骨の引き渡し場所として使われていました。戦後は球場や世界貿易産業大博覧会(1958年)会場として使用されたこともあります。関門トンネルに近く、公園の国道に面した場所に国道2号線と国道3号線の管理境界の標識があります。慰霊碑の裏手からは太平洋戦争期に福岡俘虜収容所第4分所が置かれていたYMCA跡地方向(隣接する料亭岡崎は当時から現存)を望むことができます。
②軍馬塚(正蓮寺)…写真右の軍馬塚は、日清戦争後に帰国する船が門司港の手前で事故により沈没し、船倉に残ったまま溺死した軍馬57頭の魂を弔うために、野戦砲兵第六連隊第二大隊長が1896(M29)年に建立したものです。写真左の日支事変殉難軍馬之碑は、日中戦争で落命した第六師団の軍馬の霊を弔うため、正蓮寺婦人会が1934(S9)年に建立したとありました。この時期までは退役した軍馬を生きて帰還させたり、死んだ軍馬の遺骨遺毛を内地へ送り届けたりしていましたが、戦争が泥沼化するにつれて、戦地に打ち捨てられるようになりました。外地で終戦を迎えたときに軍馬を射殺した戦争記録を読んだことがあります。
③ノーフォーク広場(門司兵器製造所跡)…明治・大正期は兵器製造所でしたが、その後は被服や糧秣の倉庫として太平洋戦争の終戦まで利用されました。現在、岸壁の石垣しか跡地を示すものは残っていません。訪れた日には、跡地の目の前の海で消防隊員が潜水訓練をしていました。
④古城山砲台・堡塁…ツアー配布資料には、砲台は1890(M23)年に完成し、堡塁は1895(M28)年に完成したとありました。現在の古城山には砲台そのものの跡はほとんど痕跡がなく、門司城跡碑が立つ山頂部に砲台の観測所跡(石階段など)が残っていて、堡塁跡地には胸壁や掩蔽部が残存しているとも書かれていました。同行の学芸員の説明によると、砲台の役割は海上を航行する敵艦を攻撃することにあり、堡塁の役割は砲台がある山へ侵攻する地上の敵軍を迎撃するためのものということでした。下関要塞のウィキペディアにも、「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である、と記載されています。しかし、藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『夕日は赤しメナム河』p.489には、要塞・堡塁・砲台の区分について以下の記載があります。「要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。」。つまり、同行学芸員は、砲台と堡塁の区別は攻撃対象の違いにあると認識して、堡塁は重火器と防御壁があるが砲台にはそれがないと受け取れる説明でしたが、旧軍出身者の説明では砲台の個数の違いということになります。これでいけば、後掲の火ノ山砲台も規模的にも堡塁と呼んで差し支えないのではと思いました(しかも火ノ山第四砲台には防御壁もあります)。
〇清美食堂(注:戦争遺跡ではありません)…昼の休憩時間が1時間ありましたので、昼食は門司港レトロバス駐車近くの二代目清美食堂へ初めて行ってみました。ここの名物は「ちゃんら~」。ちゃんぽん麺を和風だしで炊き、それにもやしときゃべつ炒めが載った麺料理です。これにおでんも付いたセットを食べてみました。門司港では、他にも「焼きうどん」や「焼きカレー」といった名物料理があります。それを意識してか、清美食堂のメニューにも「焼きちゃんら~」というのがありました。これらの焼き料理はまた今度食してみたいと思います。芋洗坂係長の等身大写真パネルが店内にあってご本人もいたので、この方が初代の息子さんということを初めて知りました。
〇門司掖済会病院(外観写真のみ)…船員の養成と福利厚生を目的として設立された日本海員掖済会が運営母体。1921(T10)年に現在地に海員養成所と門司病院が開設されています。母方の祖父は日本郵船の船員でしたが、ここの海員養成所で学んだようです。1927(S2)年には門司高等海員養成所も新設されています。ちなみに戦前の海員養成機関には甲板や船室要員の普通海員養成所と航海士や機関士要員の高級海員養成所がありました。特に高等商船学校卒業生は海軍予備員令により海軍兵籍に入れられました。等級にもよりますが、たとえば海軍予備少尉などの階級が付与されていました。
〇日本郵船…門司港駅の向いに建つJP門司港ビルのショーウインドウには、戦前の長崎と上海を26時間の航海で結ぶ連絡船のポスターが展示されていました。
〇出征軍馬の水飲み場・門司港出征の碑…ツアーのコースに組み込まれていない戦争遺跡も今回訪ねてみました。門司港周辺にもあることを江浜明徳著『九州の戦争遺跡』(海鳥社、2022年)で承知していたので、それに載っていた地図を頼りに探してみたのですが、正確さを欠いていて最初見当たりませんでした。グーグルマップで検索して見て行き当たることができました。門司港出征の碑文には、ここ門司1号岸壁から200万人を超える将兵が戦地へ赴き、半数の100万人が生きて帰国できなかった、とありました。私の親族にも門司から戦地へ向かい戦死した人が何人もいます。
〇関門連絡船通路跡・旧監視孔…門司港駅構内には1901(M34)~1964(S39)年の間就航していた関門連絡船の桟橋と駅とを結んでいた通路の一部が残されています。その一角には戦時下にあって渡航する不審者を監視するためののぞき窓の跡があります。
⑤火ノ山砲台…下関にある標高268mの火の山山頂には第一から第四まで合計26門の火砲が備えられ、下関要塞では最大級の砲台として1891(M24)年完成、1926(T15)年に廃止決定、1935(S10)に除籍・撤去となりました。古城山もそうでしたが、明治時代に建設された砲台・堡塁は、実戦を経ることなく廃止されています。ですが、第三砲台砲側庫(砲弾などを収納)や第四砲台地下施設(掩蔽部)・観測所・指令室・防御壁(堡塁)などは、公園化された現在も保存されています。なお、火の山については、1941(S16)~1945(S20)の間、高射砲陣地としての転用はありました。
(関連)東京湾要塞には砲台を配備するための人工島「海堡」もあります。東京湾に現存する第二海堡の建設にあたっては、約50万人の人夫(作業員)が使役されたとされています。作業員の主な職種は世話役の他、工夫、水夫、潜水夫、石工、大工、鍛工、煉瓦工、人夫、女人夫となっていました。賃金は漁夫の平均賃金が38銭であった時代に、工夫の平均は約60銭、技能職である石工と煉瓦工は約80銭と高賃金であったと記録されています。世話役よりも技能職である石工、錬瓦工、大工、潜水夫の方が高い賃金設定だったようです。第二海堡からは桜花章煉瓦の他にいくつかの刻印が収集されています。「小丸に文字のす」、「小丸に文字のゆ」、「小丸に文字の大小」、「小丸に算木」、「英文字SR」などです。同行の学芸員に下関要塞建設時の作業員の属性(九州の産業遺産では囚人が多い)と煉瓦の製造元を質問してみましたが、不明ということでした。
https://daini-kaiho.jp/kaiho/jp/
〇北九州市平和のまちミュージアム…同館の入口近くには、歩兵第十四聯隊之跡の碑がありました。入館当日は企画展として「手のひらのなかの戦争」が開催されていました。明治後半から昭和の戦時中に至るまでの世相を反映した図案が描かれた子ども用の飯茶碗を中心に展示されていました。これらはいずれもコレクターの宮﨑修一氏から同館に寄贈された収蔵品だということです。常設展では軍隊とともに活気づいた工業都市であったことが紹介されていました。小倉陸軍造兵廠では太平洋戦争末期に米国本土爆撃のために開発された風船爆弾が製造されていたとありました。国民が戦争を支えた歴史を丁寧に紹介してもありました。暮らしが苦しくなり、やがて兵士だけでなく民間人も戦災に遭った歴史も伝えてくれます。M17集束弾の模型展示がありましたが、その尾翼根元の輪っかの部分を見ると、それを漬物石代わりに戦後使っていた父方の祖母の生活力の強さをいつも思い浮かべます。
https://kitakyushu-peacemuseum.jp/
〇小倉城内陸軍司令部跡…平和のまちミュージアムの展示を観覧後、江浜明徳著『九州の戦争遺跡』に掲載されている小倉城内の戦争遺跡を訪ねてみました。ミュージアムの裏手の交差点に出ると対角線の先に小倉北警察署が聳え立っていて、「五代目×××壊滅作戦推進中」の巨大懸垂幕が目に入ります。それを左手に見ながら西小倉駅方向へ少し歩くと、松本清張記念館入口の案内表示があるので、そこから右折直進すると、小倉城址になります。「歩兵第十二旅團司令部跡 小倉聯隊区司令部跡」の碑がすぐに見つかりました。本丸へ向かう階段を上ると第十二師団司令部の正門跡があるのに気づきました。近くには「野戦重砲兵第二旅團司令部跡」の碑もありました。やや探すのが厄介だったのが、第十二旅団本部の正門跡です。当日テント出店していた土産物店の支柱代わりに使用されていたため表から見えなかったわけで、それを知って驚きました。このほか城跡内には「生馬神之塔」「軍馬忠霊塔」「明治二七・八年戦役之記念碑」「第十二師管忠魂碑」を見ることができました。

『イスラームが動かした中国史』読書メモ

国際関係や外国人問題について論じられるときに、その対象について狭隘な先入観や断片的な知識しか持ち合わせていない人物の発言は、まずそれを疑ってみるに限ると考えます。その世界的な代表格が現在の米大統領ですし、わが国の現在の首相もまともな学習経験があるようには感じません。その手の人物というのは、ただただ大きな権力がある地位に就いてみたいだけで、行動が場当たり的で、先行きを見誤ることぐらいしか能がないのだと思います。ですが、皮肉なことにそういう手合いに共感する国民が多いからこそ、彼らに権力を与え振り回されているのだと思います。
さて、海野典子著の『イスラームが動かした中国史』(中公新書、1300円+税、2025年)は、隣国中国のムスリムの人々の歴史を描いた著作です。現代中国の国民において回族とされる人々はムスリムの子孫とされますが、彼らの風貌は漢族と変わりないですし、日常会話も漢語ですし、必ずしもすべて回教徒ではありません。もともと漢族だった人が民族登録を回族としていることもあります。「馬」姓を名乗る回族は比較的多いとされますが、なんせ1400年も激動する中国社会を生き抜いてきたコミュニティーです。その人口は1000万人以上ですから中国国内では少数民族と言っても規模が違います。中国には、他にウイグル族などのイスラーム系民族がいて、それらを含めると、人口は2500万人を越えます。本書を読むと、とにかく中国国民全体や各民族個々をステレオタイプ化して理解するのは見当外れも甚だしいことに気づかされます。
歴史を振り返ると、さまざまな文化が交流融合したり、人材登用され社会が発展したりした側面と、少数異質のコミュニティーが不当な弾圧を受けて社会が混乱疲弊した側面とがあり、実に複雑です。それと、宗派は異なっても世界には多くのムスリムがいて、そのことによる国際関係、絆の強さを無視してはならないと改めて感じました。
最後に1点だけ指摘すると、本書は日本の研究者だからこそ書けた、日本だからこそ出版できた面もあると感じました。一つひとつの記述が政府の考えと異なると潰されるようでは国の発展はありません。一方、そういう政府の国であったならどうやって生き抜いていくべきかの知恵も本書は示しています。今度都内に出たら回族出身者が経営するハラール料理店を訪ねてみたいと思います。

『朝鮮の王朝外交』読書メモ

森平雅彦編著の『朝鮮の王朝外交 ”ややこしさ”からの気づき』(集英社新書、1060円+税、2026年)は、朝鮮王朝が隣りの大国とだけでなく周辺諸国といかにしなやかに賢く渡り合ってきてたかを知ることができる、好著だと思いました。片や今日の日本は、ともすれば米国という大国の冊封体制に組み込まれた外交マインドでしか動いていない面が多いのではと感じます。本書でも触れてありますが、かつての日本には対馬の宗氏のお家芸である文書改ざんという知恵もありました。歴史の中に埋もれている知恵に学んでみると、米国と並ぶもう一つの大国である中国との付き合い方を含めて、もっと国際関係は良くなるのではと思います。
編者の森平雅彦氏は、本書のむすびで以下のように書いています。「他者に内在する論理が見えてくるとき、またはこれを見ようと努めるとき、それは、自分のなかの論理では見えていなかった物事に気づき、自分の論理が絶対ではないこと、あるいは、それが不十分な部分を省みるきっかけになる。他者の論理に向き合うことは、それまで自分になかった目線を手に入れ、自分の近く世界を広げ、豊かにする作業だ。それはもはや、他者を理解するためというより、自分のためにほかならない」(p.318-319)。
上記のモノの見方を考える具体的例として森平氏は、本書の序文でなんと草食動物のヌーを取り上げていました。ヌーという動物を肉食動物に捕食されるモノとして見るだけでなく、視力が良くないので視力に優れたシマウマと行動を共にして警戒を補う生存戦略などを示して誘ってくれました。
以下に興味深く感じた事例を列記してみます。一部は朝鮮王朝ではなく、対馬の宗氏の事例。
・モンゴル(元)の支配下でも高麗が独自の王国として存続できたのは、元の対日戦略を担う征東行省の名義利用があった。名目上は地方統治機関だが、実質的には高麗王が統治する高麗政府であり、元の直轄統治とはならなかった。
・小国が大国に事(つか)える、事大主義の冊封体制下で宗主国に無断で隣国に交わること(交隣)は、「私交」とされ、問罪の対象となった。しかし、朝鮮の第4代国王世宗は、宗主国の明に対して室町幕府の日本との私交を、「礼」には「礼」をもってする「交隣の礼」だと正当化して対処した。なお、世宗は第3代国王太宗の三男だが、長男や次男と異なり「天性が聡敏で大変に学を好む」と評価されていたので、「賢を択(えら)ぶべし」の方針にもとづき王世子となった経緯がある。
・1443年に結ばれた癸亥約条では、対馬の宗氏の年間渡航船数は50隻と定められた。宗氏はその制限を突破させるべく、博多商人とも協力して偽名義の使者を仕立てた。見かけのうえでは、上は室町将軍から下は瀬戸内の小島の領主までこぞって通交したかの観を呈した。
・16世紀末、日本国内の統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮を服属させて大陸に出兵し、明を征服することを目論んだ。その交渉を命じられて苦慮した宗氏らのはたらきかけで、朝鮮からは天下統一祝賀の名目で通信使が訪日した。これを朝鮮の服属表明と勘違いした秀吉は、明出兵の手引きを要求する。宗氏はこれを仮道(朝鮮国内の通過許可)にすりかえて朝鮮と交渉したが、朝鮮側は拒絶した。(p.237-238)
・朝鮮貿易を死活問題とする対馬は、壬辰戦争後ほどなく、その復活のために国交回復を朝鮮側に求めてきた。朝鮮もまた北方における女真の台頭をうけ、日本との和解に合意し、1607年、朝鮮使節が正式に江戸幕府を訪問した。当初朝鮮と幕府の間では国交再開の条件がおりあわず、交渉は難航した。そこでこのとき対馬が、お家芸である偽使のノウハウを駆使して双方の国書を偽造・改竄して修交を実現させるアクロバットを演じたことは有名である。(p.239)
・前述のように、当初は対馬が国書の偽造によって通交をスタートさせたため、それをとりつくろうべく、最初の3回までは引き続き対馬が国書を偽造・改竄していた。しかし1631年、対馬のお家騒動からこの事実が幕府に露見した。幕府ではこれを穏便に処理し、引き続き対馬に朝鮮外交の窓口役を任せたが、対馬現地で外交文書を担当する僧侶(以酊庵僧)を幕府が任命し、対馬がひそかに文書の偽造・改竄をおこなえないようにした。(p.243)

関連メモ
九州国立博物館開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」では、宮内庁書陵部所蔵の「朝鮮国王李昖(宣祖)国書・別幅」(豊臣秀吉宛各1通)が出品されていました。面白いことに、この国書と進物目録は、対馬の宗義智(そう よしとし)が改ざんしたものです。本来は日本国書への返信(奉復)であるところを、先に偽の国書を送ったことが露見しないよう「奉復」の字を「奉書」と変えてあります。国王印も偽造印となっていて、まさに宗氏の諜報外交能力は職人技です。
同展では、5点の国宝指定された品が展示されていましたが、いかに歴史的・学術的価値が高くとも偽造品である限り国宝指定とはならないのでしょうか。「”正真正銘”の国宝級の偽造品」だけに、なんとも複雑な感じです。なお、宗氏偽作の朝鮮国王印(九州国立博物館所蔵)は、偽造品ながら重要文化財指定となっています。

「古代エジプト」観覧メモ

九州国立博物館の観覧ついでに足を延ばして福岡市美術館で開催中の米NY市のブルックリン博物館所蔵特別展「古代エジプト」も観てきました。この日は平日の午後、雨天ということもあって美術館近くの大濠公園は人もまばらでした。代わりに公園内の池では鳥たちがのんびり羽を休めて漂っていましたが、なかには池の周囲のランニング(あるいはウォーキング?)コースを散歩するカモもいて、人なれしているのか近づいてくる変わったのもいました。
さて、その「古代エジプト」ですが、王そのものよりもその周辺の人の暮らしにまつわる情報や出土品の展示が新鮮でした。会場に入ってすぐにあったのが、古代エジプトにおける人気No.1の仕事「書記」についての解説や関連の展示物でした。古代エジプトの「書記」とは、神の言葉である文字を操る役職であり、神官であり官僚でもあるということでした。筆記に際しては葦ペンを使います。読み書きの知識の力があるということは、かなり高い評価を受けていたそうです。書記は婚姻や不動産取引の契約書も書いていたそうですから、現代の日本に当てはめると、行政書士みたいなものだったと、強引に一人合点していました。
海外の収蔵品を日本へ運び込んでの展示となるので、数量は150点近くありましたが全般的に小粒感は否めません。それなら現地へ行けよという話になりますが、特別展観覧料2000円で館内別会場の常設展や企画展まで含めて見て回ると、相応もしくはお得な価格とも言えるなと思いました。特に同館1階の古美術企画展示室内で開催されていた「魅惑のインドネシア染織」は、島ごとに異なる模様や色合いが興味深く、一国におけるファッションにこれほどの多様性があることが驚きでした。ジャワ島だけかつて一度訪問した経験があるせいか、やはりそこの染織品が気に入りました。

「平戸モノ語り」観覧メモ

平日の午前でしかも雨天なら人がいくらか少ないだろうという読みで、太宰府市にある九州国立博物館で開催中の特別展「平戸モノ語り 松浦静山と熈の情熱」を観覧してきました。予想通り館内は割と空いていてじっくり見ることができましたが、梅が開花中の太宰府天満宮および参道は海外からの観光客や修学旅行生の団体がそれなりにいて賑わっていました。
ところで、特別展の主役は、江戸時代の平戸藩主であった九代の清(号は静山)と十代の熈(ひろむ)の親子(なお、氏の「松浦」は、「まつうら」ではなくて「まつら」と読みます)。父の清は肖像に描かれるのが嫌いなのですが、息子の熈は肖像画に描かれるのが好きで自分が気に入るまで何度も描き直しをさせるなど、性格は異なる面がありましたが、共に今でいう「学芸員」の資質・気質に恵まれた人物のように受け止めました。父の清は無類のコレクターであり、日記大好きの記録魔であるのに対し、息子の熈は史料の保存・修復に重きを置いた分類整理魔といったところでしょうか。藩主であったがためにそれなりに資力があり、江戸など都市の空気を吸い、各地の文化人との交流もあり、国元である平戸という根っこもありました。こういう稀有な環境にあった親子のおかげで貴重な品々が遺され、昨年10月に開館70周年を迎えた松浦史料博物館のお宝となっているわけです。
それと、常設展示室の一角で組まれていた、開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」も特別展と並ぶかそれ以上の見ごたえある品々がそろっていて豪華でした。秀吉治世時代の外交における文書改ざん事件や諜報戦の一端がうかがえるものもあり、ゾクゾクさせられました。

『ナショナリズムとは何か』読書メモ

1月23日から動画がネット公開されている「先端研クロストーク」(2025年11月7日実施)の中で、登壇者の一人である中井遼氏(東大先端研教授)の存在を知り、同氏近著の『ナショナリズムとは何か 帰属、愛国、排外主義の正体』(中公新書、1100円+税、2025年)に興味を覚えて読んでみました。
https://www.youtube.com/watch?v=_3swK2zGynA
これだけ大きなテーマを新書1冊で解き明かせるものなのかという疑いをもって最初は手に取りました。ですが、読み進める中で、国内外の膨大な先行研究を狩猟し咀嚼したうえで論述した労作というのが伝わり、疑念はきれいに晴れました。著者も「科学とは人類によるチーム戦である」(p.229)と書いています。何がわかっていて、何がわかっていないのかを、知っていないと、社会は貧困になり、さまざまな争い(最悪は戦争)が生まれるということを、本書で感じました。そのためにも本書で紹介されている実証研究の成果が社会一般に共有されることが重要です。
時に帰属意識や愛国心、排外主義をくすぐるナショナリズムは、政府や政治家にとって都合にいい武器になります。これはファシズムだけでなくてリベラリズムや環境保護運動との相性の良さもあり、多面的です。皮肉なことにナショナリズムは、学校や軍隊、鉄道、出版印刷文化が発達した時代から登場した面もあります。
本書で紹介されていた実証研究やデータの中で知っていて損はないトリビア的なものをピックアップしてみます。
・デンマークやアメリカでは、国への帰属意識が強い人ほど、同時に排外意識が強いが、カナダやイタリアでは逆の相関関係で帰属意識が弱い人ほど、同時に排外意識が強い。
・サッカーW杯の予選をギリギリ勝ち抜いた国とギリギリ敗退した国では、前者のほうが2~3年後に戦争を開始する確率が有意に高い。
・イギリスのサッカーのクラブチームの地元回答者を対象にした分析では、中東にルーツを持つ選手の入団後、体系的にイスラム教徒への偏見が減ずる現象が確認されている。
・バルト三国の「歌う革命」。「歌うことは抵抗すること」であり、1990-91年にソ連からの独立を回復した。エストニアで1988年に行われたイレギュラーな祭典では全人口の役5分の1が1か所に結集した。「太陽・雷・ダウガワ川」が歌われた。
・アメリカにおいてはアイルランド系移民やイタリア系移民が歴史的にはしばしば非白人グループに属するとみなされてきた。
・日本では、高学歴層のあいだで、表立って回答する際には一定の反中反韓的な態度を表明することが規範的なふるまいになっている傾向にある。
・19世紀、プロイセンに敗北したフランスが下士官の指揮と意思疎通能力を高めるために急速に言語統一を推し進めた。日本も黒船襲来やアヘン戦争による国際危機認識のもとでの近代化(明治維新)の中で学校教育と共通言語教育を普及させた。
・インドのヒンドゥー教徒を対象にした実験で、ヒンドゥー教徒の多い地域の災害情報とイスラム教徒の多い地域の災害情報を見せてそれぞれの寄付額を聞くと前者が多くなるが、インドの国土と国旗の情報を先に見せてから両方の地域の災害情報を見せると寄付額が同じ程度になった。
・第二次大戦終結後から1999年までに発生した国家間戦争の死者数は約330万人である一方、同じ期間に発生した内戦の死者数は約1620万人であり、およそ5倍である。
・かつてリトアニアの最大都市のビリニュスは北のエルサレムと呼ばれ19世紀頃まで同地最大の民族集団はユダヤ人であったが、現在は同地にユダヤ人はいない。第二次世界大戦の際に、約20万人前後のほとんどのユダヤ人がナチスドイツの侵攻前後に現地協力者とナチスの手によって殺された。当時のリトアニア住民は、ユダヤ系住民をリトアニアの独立を奪ったソ連の味方だと観念し、敵に通じていると想定していたからである。現在、リトアニアではこの経緯が高度な歴史認識問題となっている。
・国民の祝日の30日後に国家間紛争に至るリスクはそれ以外の時期より2~3割高くなっている。
・国外に同民族問題を抱える国において、比例代表制をとる国が失地回復戦争を起こす確率は1.2%であるのに対し、小選挙区制をとる国では5.8%となる。軍事独裁国家のある国がある年に同様の紛争を起こす確率4.5%よりも高い。

『無敵化する若者たち』読書メモ

日本総合研究所会長・多摩大学学長の寺島実郎氏が配信している動画「寺島実郎の世界を知る力#65」(2026年2月15日放送)を、先日たまたまネット視聴しました。その中で、紹介していた金間大介著『無敵化する若者たち』(東洋経済新報社、1600円+税、2026年)の内容に興味を覚えてさっそく読んでみました。
著者の金間大介氏は、イノベーション論を専門とする大学教員。1995年以降生まれのいわゆるZ世代の若者と接する機会が多い環境にあり、若者の価値観の特徴を詳しく紹介しています。彼ら若者との接し方に困っている上司世代に対しては、その価値観を変えるのではなく行動支援をすることを勧めています。また、おそらくこの本を手に取らないであろう若者たちに対しても、チャンスへ飛び込んでみる勇気を呼びかけています。
ところで、Z世代の価値観を一口で言えば、とにかくいい子症候群の安定志向。タイパ優先で、常に先に正解を求め、失敗することを恐れます。結婚したくない子どもを持ちたくない若者の率が多いのも失敗を恐れてなのかと思います。彼らの親世代が社会人となった時代が経済的にも不景気で将来の生活不安が大きく感じられることもあって、我が子が失敗の人生を送らないよう正解を教え続けてきた結果でもあります。職場でも優しく何でも教えてくれる、まるで塾講師のような上司が歓迎されているそうです。
昔からいい大学に入って安定した大企業に就職するのが勝ち組というので、安定志向の若者が一定数いたとは感じますが、現在は若者人口も減り、浪人してまで進学する大学は一部に限られています。あんまり努力する必要もありません。就職もずいぶん売り手市場になってきました。
読んでみて私がこれまで感じていた若者の価値観の大勢と違和感がなく、納得する点が多かったです。役に立ったのは、本書で紹介していた「大学生に通じないネタ・トップ5」。第1位:テレビコマーシャルネタ、第2位:ドラマネタ、第3位:サッカーネタ、第4位:相撲ネタ、第5位:野球ネタ、となっています。要するに若者は、テレビ見ないし、新聞・雑誌読まないし、努力嫌いだし、ということなのでしょうか。

つなぎ美術館での贅沢時間

昨日(2月14日)、水俣での用件を済ませた帰り道に、つなぎ美術館へ立ち寄り、台湾・高雄出身のアーティストの陳漢聲(チェン・ハンシェン)さんと劉星佑(リュウ・シンヨゥ)さんの作品展を観覧してきました。これらの作品は、昨年8月から11月にかけて津奈木町や近隣地域に2人が滞在する中で制作されたものです。展示は、2人のユニット「走路草農藝團」としての作品展とそれぞれの個展の3部構成となっていました。
入館したときの客は私1人だけでしたので、貸切状態で贅沢な観覧時間を過ごすことができました。陳さんの「田の神」といい、劉さんのご両親が出演協力した写真といい、ほのぼのとした優しさを覚える作品で、自然が身近に感じられた郷愁のようなものも得られた思いがしました。
同館所蔵の常設展示のブロンズ作品であり、浜田知明氏作の「無聊」(1988年)もあわせて観覧しました。