4回目の戒厳令

AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE

イスラムの世界史

イスラム地域研究の専門家である宮田律氏によるの最新著『50のストーリーでつながりがわかるイスラムの世界史』(中央公論新社、1950円+税、2025年)は、ふだん馴染みがないイスラム世界の歴史を理解するのに適した教科書としてお勧めではないかと思います。馴染みが薄いとはいえ、日本におけるイスラムに関する報道は、テロや戦争に関係するものがほとんどなので、イスラムに対するイメージが、何かしら物騒な得体のしれない怖さを秘めたものになっているのが、実情だと思います。しかし、本書を読むとイスラムは本来、テロや暴力を否定し、子どもや女性、高齢者などに対する保護を強調する宗教ですし、貧困者を救済するために喜捨の義務があり平等を求めます。信仰を強制せず信仰の自由を保障することから、歴史的に見ると、ユダヤ教徒やキリスト教徒との共存ができた時代がはるかに長かったことを知ることができます。
学問の発展についてもヨーロッパ・キリスト教世界で花開いたイメージが私たちには強くあると思いますが、これも歴史的に振り返ると、その基礎がイスラムの世界発ということが、医学や数学、天文学さまざまな分野で多くあります。算用数字をアラビア数字と称することを思い出してもらうと、納得されると思います。現在のアフガニスタンのタリバンからは想像できませんが、音楽・楽器もその源がけっこうイスラムの世界にはあります。
さらには、食文化においてもイスラム発祥のものが多いと知り、これがもっとも驚きでした。私がウィーンで飲んだコーヒーも、ローマで食べたパスタ、マドリードで食べたパエリアなど、いずれもイスラム世界からヨーロッパへもたらされたものです。
本書は、イスラエルとパレスチナとの関係など、現在の不幸な側面についての解説にもページを割いていますが、平和共存は絶対に不可能なのかを歴史から学ぶべきだと思います。現在の日本国内においてもクルド人に対する不当な差別も無知や誤情報思い込みゆえに起こっていることで、みっともなく思います。

カスハラ対策法10月1日施行

企業にカスタマーハラスメント防止の取り組みを義務付けるカスハラ対策法の施行日は、今年の10月1日。たまたまトラック業界の啓発動画を視聴してみましたが、なかなかよくできています。まずもって身体的・精神的苦痛を相手に与えるだけのハラスメント行為に無自覚な人物には、軽蔑の念を覚えます。問題は、いくらその方針や対策を文章にしても、社員の人権が侵害されていると気づいて受け止めて毅然とした対応がとれる経営者なり管理職がいるかどうか。それがないところでは、人材が離れたり育たなかったりするわけで、いろいろ考えさせられる動画でした。
私は、最初の仕事が求人情報誌の営業だったので、さまざまな業界の経営者と会う機会がありました。その後自分でもやってみましたが、会社を起こすのはある意味カンタンなことです。社長なんぞには誰でもなろうと思えばなれます。クズ比率も必然的に多くなるというのが実感です。
そして、人権意識が高い経営者や管理職がいる組織かどうかは話が別だなとも感じていました。そこが足りない組織はいずれ自然淘汰されます。
https://www.youtube.com/watch?v=9nycaSwQK1Y

ツカハラではなくてツカワラ

一昨日のNHKローカルニュースで、熊本市塚原歴史民俗資料館の「熊本市遺跡発掘速報展2025」の内覧会を紹介してしていました。割と近距離に位置する施設ですが、これまで訪ねたことがないのと、それまで「つかはら」だと思い込んでいた地名が、実は「つかわら」だったと知って、俄然興味が湧き観に行きました。地名の読みについては、熊本出身のアナウンサーもニュースでは最初私と同様に間違った読みで紹介していて番組の終わり方に訂正していたぐらいです。
それはともかく実際に観に行ってその展示には満足しました。出土品からうかがえる交流の広さを知ると、現代日本で蔓延る外国人排外主義の風潮がなんともみみっちく思えます。貝塚の位置からは当時の海岸線もうかがえますから、元は海だったところに住んでいる現代人が土地の権利でそんなに偉そうにするなよという気持ちにもなります。
近くにぜいたくな気分に浸れる施設があって得しました。

戦争の時間旅行者展

益城町交流情報センターで開催中の企画展「戦争の時間旅行者」を先日見てきました。小規模な展示でしたが、益城町に関連する戦争の記憶を、実に弥生時代から第二次世界大戦まで振り返る、時間軸が長いユニークな企画でした。たとえば、関ヶ原の戦いで東軍に組した加藤清正が、西軍の小西行長の居城・宇土を攻める際に拠点にしたのは、益城町の木山だったそうです。
それから277年後の西南戦争のおりには、熊本城包囲戦から撤退した薩軍が、本営を熊本市の二本木から木山に移したとありました。加藤清正も西郷隆盛も同地を本陣とする重要性を認めていたということでしょうか。益城町の飯野地区では、官軍と薩軍との戦闘(今でも弾丸が出土するそうです)があり、地元の有力者たち依頼でその激闘の模様が絵馬として描かれ、砥川阿蘇神社に奉納され現在も残っていることを知りました(会場では写真を展示)。西南戦争でいえば、当時の細川護久知事の娘3人が薩軍から逃れるため益城町内の有力者宅に避難していたそうで、そのときに使用された駕篭の展示もありました。
あと珍しいものとしては、一〇式艦上戦闘機(1922年=T11に英国の技術供与で日本が最初に建造した空母「鳳翔」の複葉の艦載機。試作が1921年=T10であることから一〇式。ちなみに鳳翔は戦後復員船として供用された)木製プロペラを津森神宮で所蔵しているということで、これは実物が展示されていました。
会場の近くにはワンピースの「サンジ」像があり、それ目当ての人が多い場所ではありますが、ぜひこちらへも立ち寄る人が増えてほしいと感じました。アンケートに答えるともれなくクリアファイルがもらえます。
https://kumanichi.com/articles/1940113

第二総軍地下壕と入市被爆

空襲・戦災を記録する会が主催する第45回空襲オンライン学習会が近くあるので参加予定ですが、今回のテーマは「昭和20年8月6日 第二総軍原爆記 ―空襲と戒厳令―」で報告者は秋政久裕さんということでした。
https://kushusensai.net/joz4ywci4-9/#_9
ここに出てくる「第二総軍」とは、1945年4月、本土決戦で国内が戦場となることを想定した陸軍が日本列島を二分して置いた西日本の部隊の総称です(東日本側が「第一総軍」)。「第二総軍」の司令部は、広島市の騎兵第五聯隊の兵営跡に置かれました。同年8月6日の広島原爆被爆当時は、地上三階建ての建物であり、450人余りの要員が原爆で倒壊した建物の下敷きになったといいます。2017年にICANがノーベル平和賞を受賞したときの講演で知られるサーロー節子さんは、当時広島女学院高等女学校の生徒であり、司令部暗号班に動員されていたため、やはり下敷きになりましたが、必死で這い出た数少ない生存者の一人です。
同時期、司令部は朝鮮人労務者100人ほどを使い、二葉山の山中に横穴式の地下壕を掘削する工事を進めていました。洞窟司令部としては7割方完成していたそうです。原爆被爆後は実際にその地下壕を司令部として利用したそうですが、現在その遺構は保存されていません。
報告者の秋政久裕さんは、中国軍管区司令部があった広島城の元学芸員ですが、二葉山南麓の斜面に横穴4か所、立坑1か所を確認しているそうです(2025年1月の広島の地方紙・中國新聞に記事掲載)。第二総軍の二葉山地下壕について秋政さんは、焦土と化した広島の復旧のため一時的に「軍政(戒厳状態)」を敷くと決めたことに係る重要な場所だと考えています。
実は、これら第二総軍地下壕や報告者のお名前は、先月集英社新書から出たばかりの佐田尾信作著の『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』のp.99-108に出てきます。同書は、陸戦隊の元水兵を父に持つ中國新聞記者による著作です。取材対象は、1945年夏に「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たち。彼らは原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。
81年前にただただ命を差し出すことを求められた若者たちがいて、生きながらえても重い傷を負い続けなければならなかったのです。これほど罪深いことを強いた人間が確実にいたということ、これからもそんな人間が出てしまいかねないということを絶対に忘れてはならないと思います。

坂井徳蔵と西来庵事件

宇土にルーツがある湯徳章(日本名:坂井徳章)を「台湾の英雄」として顕彰する運動が地元で盛んに行われています。12月16日~来年1月16日まで、地元市役所1階市民交流スペースでは、パネル展「湯徳章と台南」が開催されています。台湾で製作された映画「湯徳章―私は誰なのか―」が来年日本でも公開されますが、同作品の後援にも本市が名前を出しています。TSMC進出で活気ある県北に対して、台湾との結びつきが弱い本市としては、なんとか台湾と交流を深めたい、それをかなえるうってつけのネタとして活用を図りたいということだと思われます。
それで、なんでルーツが宇土なのかということですが、父親の坂井徳蔵が当地の出身者であったからです。市役所に展示されているパネル説明では、徳章は父・坂井徳蔵と台南出身(台湾人)の母・湯玉との長男として誕生したことやその父が噍吧哖事件で亡くなったことが書かれていますが、同事件の内容や徳蔵の死亡理由については一切触れられていません。
宇土と台南との所縁を理解するのなら、まず坂井徳蔵が何者であり、なぜ台南で落命したのか、その原因となった事件を知ることが先なのではと思いますし、その理解なしには日台交流や徳章理解の起点としては浅いのではないかと思います。
パネルでは地名に由来する噍吧哖事件と表記されていましたが、歴史研究では西来庵事件と称されるのが主流だと思われます。日本台湾学会員の明田川聡士氏の論考記述によると、「西来庵事件とは、首謀者の余清芳(1879~1916年)が1915年に起こした抗日武装蜂起であり、余清芳事件とも呼ぶ。当時、台南市街には西来庵という廟宇があり、余や同じく抗日思想を抱く羅俊(1855~1915年)、江定(1866~1916年)らが蜂起を謀る密議の場となっていた。西来庵での謀議が検挙された後、余らは台南山間部の䬾吧哖(タパニー、現台南市玉井区)一帯に潜伏し、日本人官憲を相手に激しいゲリラ闘争を展開した。その際に総督府が制圧のために多数の地元住民に対しても無差別虐殺を加えたために、別に䬾吧哖事件(タパニー事件)とも呼ばれる。一説によれば、同事件に参加した義民数は10,000人に達し、烈士者は3,000人、無辜の女性や子供も3,000人超が犠牲になったという。事件後、被告人として逮捕・起訴された者は1,957名に上り、そのうち866名に死刑、453名に懲役刑が下された。「世界の裁判史上にない残酷な記録」となった判決は、台湾人を戦慄させ、内地社会にも大きな衝撃を与えた。」とありました。
徳章の父・徳蔵は事件当時、現台南市玉井区の警察署に勤める警察官であり、台湾人ゲリラ部隊の襲撃を受けて殉職しています。日本政府は内地から陸軍一個師団を増援急派するなどして鎮圧させますが、最終的に徳蔵を含めて95人の日本人が殺害されました。台湾人側は上記の通り866人が死刑判決を受けましたが、あまりにも多すぎるため日本人死者数と同数の95人に対して死刑が執行され、大正天皇即位式の恩赦により766名が無期刑に減刑されたといいます。また、事件後に、西来庵は台湾総督府によって破壊されています。
首謀者の余清芳(ユウ・チンファン)については、日本の台湾領有がなくなった後、中華民国政府が余清芳を抗日烈士と認定し、忠烈祠に祀り、台南忠烈祠に位牌を建て、台南市玉井の虎頭山に紀念碑を建てています。
徳章が父・徳蔵を亡くしたのは8歳のとき、母の姓である湯を名乗る台湾人として20歳のときに亡父と同じ警察官の職を得ます。28歳のときに亡父の弟・正三の養子となり、それから坂井姓を名乗り東京本籍の日本人となるのですが、警察内の日本人は徳章を台湾人として差別したため、当人は怒りに任せて警察官を辞職します。その後、33歳にして日本へ留学して高等文官試験の司法科および行政科に合格。36歳で台湾へ戻り弁護士を開業します。そして、38歳のときに養子縁組を解消して再び湯姓を名乗る台湾人に戻ります。その後に日本統治時代が終わり、国民政府へ移行し、39歳のときに自身も国民党へ入党しますが、40歳のときに二二八事件で坂井徳章の名で反逆罪に問われて処刑されます。
市役所の展示パネルでは、「銃殺直前、徳章は日本語で「台湾人万歳!」と叫んだと伝えられています。」と記されています。これには日本の某ライターの2017年出版の著書にある人物描写の影響が感じられます。やはり日本台湾学会員の研究者である天江喜久氏の指摘によれば、同書の記述にはとても史実とはいえないようなフィクションが多く混在していて文学ジャンルの作品といった方が正しいという評価です。もしも、それに依拠した二次資料を作成して、徳章英雄伝説が流布されているなら、危なっかしい限りです。
これも天江氏の論考からの参照になりますが、二二八事件とは、1947年2月27日に台北で闇タバコを売っていた女性が摘発され、暴行を受けたことに憤慨した民衆が翌日政府に抗議のデモを行ったところ、不意にも機銃掃射を受け、死傷者を出したことが引き金になり、民衆の不満が一気に爆発、台湾全島規模の暴動へと拡大していった政治事件のことです。この事件で各地の政府機関や軍の施設が襲撃され、外省人(戦後大陸から台湾へ渡ってきた人たち)が本省人(元から台湾に住んでいた人たち)の暴行を受け、死傷者を出す事態に発展しました。しかし、平和的解決を望んだ有力者たちは各地で「二二八事件処理委員会」を結成し、政府との交渉に当たります。行政長官公署長官の陳儀は表向き委員会と協調する姿勢を見せましたが、裏では中国大陸で国共内戦中の蒋介石に援軍を求める電報を秘密裡に送り、援軍の派遣が決まるや否や、協議を中止、全島に戒厳令を布き、二二八事件処理委員会を「叛乱団体」と指定し、そのメンバーの逮捕に踏み出しました。9日未明、軍が基隆に上陸するなり、政府は武力制圧に乗り出し、各地で多くの犠牲者を出す結果となります。そのうち、二二八事件処理委員会のメンバーを含め多くの者が冤罪を被りました。また、拷問(または拷問の恐怖)のためか、命乞いか、逮捕者の密告が相次ぎ、さらに多くの被害者を出すこととなりました。軍事裁判にかけられた者に公平な裁きが与えられたとは到底いえず、徳章もその犠牲者の一人となりました。
前述の日本の某ライターは、徳章が処刑された理由は軍の要求した「蜂起」に加わった学生の名を記したリストを提出するのを拒否したためだとしています。つまり、若い学生たちが連座され、裁かれるのを、身を挺して守ったというわけです。現実に、徳章の死後、拘留されていた容疑者は皆無罪となり、釈放されています。そのため、二二八事件時、台南市での死亡者が他の都市と比べて圧倒的に少ないのは、徳章一人が罪を被ったからだ、己を犠牲にし、台南を救った英雄という物語が某ライターの著書では強調されています。
しかし、これも歴史の研究者の指摘によれば、同書には作為的に情報を取捨選択しているフシがあるそうです。たとえば、事件当時、『台湾新生報』の記者を務めていた楊熾昌によると、徳章とともに二二八処理委員会のメンバーであった侯全成は当局が委員会のメンバーを厳しく処罰するという情報を聞くなり、軍司令部の人間に湯徳章の父親が日本人であり、問題人物であると密告したという証言を残しています。にもかかわらず、某ライターが著書のなかで侯全成など台南の一部有力者が徳章を裏切り、当局に差し出した点について踏み込んで検証していないのは、おそらくは徳章が「すすんで自分を犠牲にした」というストーリーを完成させたかったためではないでしょうか。日本人という「原罪」ゆえに、一部の台南の有力者、市参議会議員の知人たちに裏切られ、当局によって連行され、濡れ衣を被って徳章は処刑されたと見るのが的を射ていると思われます。
こうして見ると、台南の人たちからしても裏切り者の台湾人がいたという史実よりも日本とゆかりのある台湾人が台南の若者たちの身代わりとなってくれた美談で収めてくれた方がいいと思われているかもしれません。

写真は基隆。2019年撮影。

エトセトラ秋冬号

社会学・女性学が専門の鈴木彩加筑波大准教授が選んだ、2025年12月25日の朝日新聞「今月の3点」の論考の最初に、永野三智さん執筆の「水俣の女性たちの、性と生殖にまつわる話」(エトセトラ秋冬号)が取り上げられていました。
『エトセトラ』を取り扱う書店は、熊本県内では以下の5店舗しかないようですが、ぜひ読んでみたいと思います。
カライモブックス
mychairbooks
橙書店
長崎書店
蔦屋書店 熊本三年坂
https://etcbooks.co.jp/book/etc14/
ちなみに鈴木彩加氏は、2025年12月24日の朝日新聞夕刊「回顧2025 論壇」における「今年の3点」の中でも永野三智さんの原稿を取り上げておられます。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16370627.html

戦争の美術史

いま読んでいるのは、宮下規久朗著の『戦争の美術史』(岩波新書、1360円+税、2025年)。まだ第2章の最終節(第6節)の「ゴヤ登場――史上もっとも偉大な反戦画家」(p.68-76)までですから、4分の1ほどしか読み進めてないのですが、あらためて戦争を描いた作品をこれまで数多く見てきたことを思い浮かべました。あるいは見てきた作品の数量よりも、作品から受け取ったメッセージの強さが大きくて記憶にそれだけ刻みつけられているのかもしれません。
詳しくは本書で紹介されている通りですが、ゴヤ(1746-1828年)の作品はスペインのマドリードにあるプラド美術館で多数見ることができます。写真の「1808年5月3日」は、フランスのナポレオン軍によるスペイン侵略に対してマドリード市民が一斉に蜂起した後に鎮圧され、市民たちがフランス兵に銃殺される情景を描いたものです。ゴヤはスペイン側からフランス兵への残虐行為も版画集「戦争の惨禍」に記録していてこれらは東京・上野の国立西洋美術館にも収蔵されているので国内でも見ることができるかもしれません。
戦争を引き起こすのは人間です。ゴヤの作品は、その人間が持つ心の闇を絵画でとことん暴き立てます。死後200年近く経ちますが、人間の愚かさを今でも気づかせてくれます。
プラド美術館については1991年と1996年の2度訪ねたことがありますが、1991年のときにはピカソの「ゲルニカ」が同館に展示されていて、防弾ガラス越しに遠巻きに鑑賞した覚えがあります。「ゲルニカ」は1937年のスペイン内戦中にドイツ軍が行った都市無差別空爆によって引き起こされた地上の惨状を描いた作品です。日本の画家では岡本太郎や藤田嗣治が影響を受けたといわれます。
都市無差別空爆としては、先の大戦時の東京大空襲や広島・長崎の原爆をイメージする人が多いかと思いますが、日本軍も1937年の南京事件の前哨戦として南京へ無差別空爆を行っていますので、特定の絵画で特定の戦争だけしか想起されないものでもないと感じます。
歴史をひも解くとスペインなどヨーロッパ列強による米大陸進出の過程で起こした先住民弾圧と同じように、日本の台湾領有後の統治においても血なまぐさい凄惨な出来事を多数起こしています。得てして加害側はそれを隠そうとしますし、その後の世代も知ろうとしない、触れようとしません。徹底的に弾圧された側はその記録を残すこともできず、なかったこととされがちです。
以下は、山室信一著『アジアびとの風姿』(人文書院、2017年)からのメモ抜粋(※)ですが、日清戦争で受けた日本軍の人的損害よりも、台湾領有による台湾人の抵抗で受けたそれの方が大きく、殺害された台湾人がさらに多かったことを知る日本人は少ないのではないでしょうか。
※清朝統治時代から異民族統治に対する台湾における抵抗は間断なくあり、「三年小反、五年大乱」という言葉があった。日本による台湾領有から大規模な蜂起である西来庵事件(1915年=T4)までの日本軍の死傷者は1万1277人(戦死者527人、戦病死者1万236人、負傷者514人)に上る。これは日清戦争における戦病死者3258人を大きく上回る。現在の台湾には漢族のほか、16の先住民族がいる。清朝時代は約300万人の漢民族以外は、「蕃族」と呼ばれ、そのうちの農業に従事して清朝の統治に服する約10万人を「熟蕃」、山地で狩猟採取を生業として清朝に服さない約3万5千人を「生蕃」と称していた。日本統治になってから、抗日蜂起する「生蕃」を軍事力で「討伐」し「帰順」させる「理蕃事業」によって多くが殺害された。確定はできないが、死者数は約2万9千人に及ぶと言われる。

鬼として彷徨ってみるか

甘耀明著の『鬼殺し』(白水社、2017年)のタイトルにも出てくる「鬼」について理解するには、同書下巻の巻末にある訳者の白水紀子氏による解説が役に立ちました。やや長いですが、引用してみます。「中国語で鬼(グィ)は死者の霊魂を指す。人は誰しも死ぬと鬼となって冥界(あの世)に行き、その霊魂は墓・位牌・冥界に一つずつ宿るとされている。鬼は目に見える鬼(生前と同じ顔かたちをしているのが普通)もいれば姿形が見えない鬼もおり、必ずしも人に危害を加えるとは限らない。祀る人がいる鬼でも死後に一度この世に戻ってくるし、この世で供養してもらえず墓や位牌がない鬼も、冥界からたびたび抜け出て「この世」をさまよう。今日でも、鬼も一緒に出てくる月とされる旧暦の七月は、冥界の門が開いて先祖の鬼だけでなく、普段供養されていない鬼も一緒に出てくる月とされる。「あの世」といいながら決して別世界ではなく「この世」の一部であるかのように、鬼はあちらこちらを行ったり来たりできるのだ。また、神と鬼は非常に近い関係にあり、たとえば本書にも名前がでてくる鍾馗のように立派な行ないをした鬼は神様(人格神)になり、弔う者のない野鬼(狐魂)でさえ有應公という神様に「昇格」して祀られることがある。つまり、神、人、死者(鬼)はそれぞれ天、地、地下の三つの世界をつくっているが、これらの断絶感は希薄で、帰るべきところが定まらず(まだ転生せずに)この世とあの世をさまよっているのが鬼なのだ。」(下巻p.350-351)
この「鬼」の概念が台湾人読者には自然と備わっているでしょうから、本書に鬼王として苗栗出身の客家の抗日英雄である呉湯興が登場しても違和感がなく、物語の世界へ入り込みやすいと思われました。逆にその概念を理解していない読者にとっては奇想天外過ぎて追い付いていけない思いも正直ありました。この呉湯興とは、1895年、日本の台湾領有に抵抗して独立を宣言した台湾民主国の義勇軍総統領です。圧倒的な日本の軍事力を前に民主国は5か月で崩壊し、呉湯興は彰化の八卦山の戦いで死亡(妻も後を追って自殺)しましたが、その死体は見つからず鬼になってさまよっているという言い伝えがあるそうです。
台湾の19世紀末ころからの歴史を振り返ると、清朝から捨てられ、日本から捨てられ、国民党政府からも見放された孤児のようであり、帰るところがなくあの世とこの世の間をさまよう鬼たちの住む島が台湾であるという心象風景が台湾人にあるのではないかと感じました。
戦争犠牲者の存在を忘れたかのように「核兵器保有すべき」と発言した官邸幹部が日本にはいるそうですが、死者はさまよいつつも残るという信念をもつ台湾の人たちからすると、これはどうなのだろうかと思いました。私なんぞは墓も位牌もなくていいと考えていますが、反戦平和の鬼として彷徨ってみるのは面白しろそうなので、たまにこの世に出てみようかしらんと思ってしまいます。

ステレオタイプな台湾理解に陥らない

専修大学図書館の「図書・雑誌無料頒布会」で入手した、1972年生まれの台湾在住の作家・甘耀明著の『鬼殺し』(白水社、2017年)を読み終えました。著者の甘耀明が6歳まで3世代で暮らしたのは、新竹と台中の中間に位置する苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷は先住民族のタイヤル族やサイシャット族が隣接して住む客家の山村でした。その地では、祖母からそれら先住民族の民間説話を聞いて育ちましたし、大学院時代はアミ族が多く住む花蓮で暮らした経歴を持ちます。この作品の舞台は、日本統治下で太平洋戦争が開戦した1941年12月から戦後の国民党軍による二・二八事件(1947年)までの台湾の架空の客家の村。そこで生きる元日本兵の少年(彼の義父はタイヤル族)と日本の台湾領有(1895年)に抵抗して独立を宣言した台湾民主国の義勇軍に参加したのち隠遁生活を続ける祖父との物語となっています。
特攻隊に対する風刺が上巻p.212にありましたので、一つ紹介しておきますと、客家の人たちが話す閩南語(びんなんご=台湾語)で「うどの大木」を意味する大箍呆の発音は、「トァクゥタイ」。本書で知り得たマメ知識です。(小説のあらすじを開陳するヤボなことはしたくないのでここまでにします。)
本書の魅力として知らしめたいのは、下巻巻末に掲載された訳者の白水紀子氏による解説にもあります。ここでは台湾における皇民化や戦後の国民党支配下での混乱といった歴史の流れ、多民族多言語(=多文化でもある)といった台湾の社会構造について概観できるようになっています。ちなみに2010-2011年の行政院客家委員会調べによると、大きく4つの言語グループがあります。古く福建など中国南方から台湾に移住した漢族で閩南語を話すホーロー人(福佬人)が67.5%、客家語を話す客家人が13.6%、戦後台湾にやって来て北京語を話す人が17.1%、16の先住民族が1.8%という具合。日本で受け入れやすい親日的な台湾人像でひとくくりにできない複雑な面を理解することができて有益でした。
明治大学平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗氏が、著書の『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫、2025年)で書いていることですが、歴史の記憶の継承において、ことに虐殺を伴う戦争の記憶においては、戦争の〈栄光〉や〈被害〉の部分といった〈表の記憶〉は比較的語りつがれやすいのですが、戦争の〈秘匿〉すべき部分や〈加害〉の部分といった〈裏の記憶〉は断絶しやすいと指摘していたのを思い起こします。加えて、〈戦争の記憶〉の継承が、ヒト(体験者)からヒト(非体験者)への時代が終わりつつあり、ヒト(非体験者)からヒト(非体験者)へ、モノ(書物・映像・遺跡・博物館など)からヒト(非体験者)へ移行してきているとも書かれていました。
それが、台湾のように多民族多言語で成り立つ社会であればなおさら消えていく記憶が多いと考えるのが当然だと思います。小説の手法で伝える力をもった作家が存在するのは、台湾にとって資産だと思います。
一方で、これは地元の動きなのですが、ノンフィクションを装ったフィクション記述のある出版物に寄りかかって地元と縁がある台湾人を英雄に仕立て上げて顕彰することが性懲りもなく続けられています。熊本県教育委員会が制作した高校生向けの「半導体理解促進ハンドブック」でも感じたことですが、とかく行政や報道は〈表〉や〈正〉については何度も伝えますが、半導体産業における地下水保全や排水処理など〈裏〉や〈負〉の情報については触れたがらないものです。地元の英雄伝説拡散についても、そういう話でもこしらえないと公職者らが公費で訪台し続けられない事情があったのでしょうか。そうだとしたら、なんとも嘆かわしい次第です。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/230153_650958_misc.pdf
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/wp-content/uploads/2025/08/e6e9d12972cf1ee954f680ed4d62fee9.pdf
https://jats.gr.jp/cp-bin/wordpress5/wp-content/uploads/journal/gakkaiho020_09.pdf
https://kumanichi.com/articles/1935853

科学と歴史からの学び

昨日、グランメッセ熊本で開催されていた「県立高校 学びの祭典」と「県科学展」を見てきて、科学的思考に親しんだ高校生たちの展示や発表に接しました。主に宇土高校のそれを中心に見て回りましたが、いずれも主体的に答えを導き出した努力が感じられ頼もしく思いました。同高生徒の研究に際しては私の居住行政区が連携協力していることもあって、当区の地域課題に向き合った発表もありました。
たとえば、「学びの祭典」のステージ発表の最初に登場した、宇土高校の「山のやっかいものを海の資源に~竹炭を使った赤潮対策~」もその一つです。リーダーの生徒は中高で剣道部に所属し、使えなくなった竹刀から出る竹材を何か有効活用できないかと思ったのが、研究のきっかけと言っていましたが、当区の里山にとっても増え過ぎた竹林が土砂崩れを誘発しかねないやっかいものであるため、材料は豊富に提供できたのも後押しになったかもしれません。竹が多孔質であることに着目して赤潮の原因となるプランクトンを凝集・除去することを提起していました。同高からは他にも竹から竹油を抽出して香水を作るとか、夏場に区内のため池が白濁する原因が硫化水素にあると考えた発表もあり、興味をひきました。
なお、同会場入り口では、出展パンフレットとは別に熊本県教育委員会が制作した高校生向けの「半導体理解促進ハンドブック」が配布されましたので、これも読んでみました。半導体そのものの解説に始まり、製造工程の説明、半導体産業が必要とする人材などについて学べる内容となっています。反面、地下水保全や排水処理など負の課題については一切触れない徹底ぶりも感じました。
午後からは、くまもと文学・歴史館で開催中の「書籍に見る小泉八雲の世界」の展示をまず観覧しました。熊本在住時代の小泉八雲は、帰化前でしたので、ラフカディオ・ハーンであったわけですが、彼は宇土の「雨乞い」についても関心を示し、記したことが紹介されていました。関連の熊本県の保管文書として1875年8月16日の牧文四郎区長名の「雩(あまごい)願」が展示されていました。偶然ですが、牧文四郎といえば、藤沢周平作品の『蟬しぐれ』の主人公と同姓同名です。
その後、隣接する熊本県立図書館で開かれた「くまもと文学・歴史館長佐藤信講演会 遣唐使の交流」を受講しました。講演では、佐藤信氏が井真成、平群広成、阿倍仲麻呂、羽栗吉麻呂、大伴古麻呂、吉備真備、行賀といった遣唐使として東シナ海を渡った古代の日本人を紹介しながら、「古代の日本文化は、外の世界から文化を取り入れながら形成されてきた。閉鎖的な島国で排他的に文化を固守してきたのではなく、常に大陸・朝鮮半島や北方・南方の世界に対して交流の道を開いて、国際的文化を積極的に導入しながら、文化形成を行ってきた」と述べられました。
当時の航海はまさに命がけでした。平群広成の場合は、帰国に際して現在のベトナム南部の崑崙国へ漂着しその後唐国へ戻り中国東北部・朝鮮半島北部に位置する渤海国を経て帰国を果たすまで5年もの歳月の間、アジアの東方諸国をさまよっていました。ちなみに「平群」姓は「へぐり」と読みます。水俣病被害者互助会弁護団事務局にいる平郡真也行政書士の姓も「へぐり」と読みますので、なんだか勝手に親近感を覚えながら聴講していました。平郡さんは、溝口訴訟最高裁判決勝訴の影の立役者であり、熊本学園大学水俣学研究センター客員研究員としても活躍されています。
遣唐使が停止されたのちは商人たちによって伝えられるようになりましたし、現在の歴史教科書では江戸時代が「鎖国」とは記載されなくなったそうです。遣唐使の中には唐の女性と結婚した人もいて、その子女が海を渡った例もあります。たとえば藤原清河の娘である喜娘(778年天草に漂着)や羽栗吉麻呂の息子の翼(つばさ)と翔(かける)がそうです。「翼」や「翔」という名前は今時のイメージがありましたが、8世紀にはすでに登場していたのを知ったのも新鮮でした。吉備真備の母は渡来系の楊貴氏と言われます。そして、日本に大陸の先進文明をもたらした玄昉や吉備真備は、聖武天皇から重用されていました。
無知ならまだしも大のおとながエセ科学やエセ歴史の言説に乗せられてみっともない発言をしているのに接すると、哀れに思うことがしばしばあります。歳を重ねると経験値が増えます。それ自体ないよりはマシでしょうが、ある一人の経験は狭くそれだけを過信するのは禁物です。学校教育においても生涯教育においても科学と歴史からの学びは重要だなと改めて感じた日でした。それこそエセ科学やエセ歴史に騙されない、カモにされないためにも。
カモの写真は、くまもと文学・歴史館付近の加勢川にかかる砂取橋の上から撮ったものです。

クワせものではない情報

2025年12月19日付の全国農業新聞6面の記事によると、桑の葉ってカイコにクワせるだけでなく、牛や馬にもクワせる用途があるのですね。
桑葉由来モラノリンという成分には、糖の吸収を緩やかにし、食後血糖値の上昇を抑える機能があるらしいです。そのため、ヒト向けの機能性表示食品もあるんだとか。
こういうクワせものではない情報は、参考になります。
人口減少の流れは止まらず、既存住宅地の空き家増加にもかかわらず、治水機能がある農地を埋め立てて企業誘致や宅地開発を助長させ、あげく将来に内水氾濫リスクと公共インフラ維持負担を増やす愚策が、周辺で目に余るだけに…。

水俣が私に問うもの

岩波書店発行の『世界』(2026年1月号)の【特集1】は、「創刊80年 それでも人間を信じる」。特集の企画意図として次のように書かれています。「戦後の国際秩序が、音を立てて崩れつつある。▶大国による核の威嚇と法の蹂躙。かつて戦争の惨禍を経験した日本も、憲法9条が歯止めとならず、軍拡競争の一翼を担おうとしている。この現実を前になお、「人間を信じる」ことは可能か。「世界」初代編集長の吉野源三郎はこう述べた。▶「『人間に対する信頼』も、一つの大きな賭です。……しかし、この賭なしには、人間の世界は死人のようなつめたさにひえてゆくほかはない」(「ヒューマニズムについて──人間への信頼」)▶ 戦後の焼け跡からこの雑誌が生まれて80年。私たちは、ヒューマニズムに賭すことから始めたい。」(HPより引用、▶マークは改行を示すため追加)
NHK朝ドラ「ばけばけ」の主題歌歌詞にあるように「毎日難儀なことばかり」の日常生活において信頼できる数少ない人間に出会うことができるかどうかで、人間の生き方はずいぶん変わってくるのだろうと思います。
前記の同号p.70-74には、(一財)水俣病センター相思社の常務理事である永野三智さんの寄稿「いいとこ取りはできない――水俣が私に問うもの」が載っています。この記事には、水俣市長として初めて水俣病患者への謝罪を行った吉井正澄さん、水俣病患者運動のリーダーであった川本輝夫さん、母親の患者認定を裁判で勝ち取った溝口秋生さんが登場します。3人とも故人ですが、水俣の負の部分を隠さず、その部分から逃げずに向き合った人々です。永野さんは、これらのいいとこ取りをしない人々と出会ったことによって、自身も「では、私は?」と問われていることを明かした上で、この問いが「二度と水俣病を繰り返さない社会をつくることにつながると信じています」と結んでいます。
ぜひご一読を勧めます。

不採択とした議員名こそ報道すべき

長射程ミサイル配備巡り住民説明会求める請願 熊本県議会の委員会で不採択に
熊本日日新聞 2025年12月12日 17:30
https://kumanichi.com/articles/1935844
こういう記事では、不採択とした議員名をすべて報道してもらいたいものだね。
採択とした野党議員の名前しか載せてない。

燎火購入記

宇城市立郷土資料館で開催中の「終戦80年企画展 モノが語り継ぐ戦争」を先日観覧した際、同市発行の郷土誌『燎火(かがりび)』の第5号(1993年3月発行)・第13号(2006年3月発行)・第18号(2011年3月発行)に松橋空襲についての記載があることを知りました。同展観覧時に軽く目を通したのですが、同誌には他にも興味深い記事があったので、宇城市文化スポーツ課の窓口をその後訪ねて上記3部を購入してきました。
ただ、この購入手続きが代金支払いまで都合30分もかかる難儀な始末で、次の用件先に向かうまで時間が足りなくなるのではヒヤヒヤさせられるものでした。購入の流れを振り返ると次のようになります。担当部署名は事前に承知していたので、市役所本庁舎3階にある課の窓口へ直接向い、応対してくれた若葉マーク付きのネームタグを下げた職員の方に、誌名と号数を伝えた上で購入意思を示しました。すると、カウンター向い側の長椅子でお待ちくださいということなので、書庫からすぐ持ってくるのかなと思っていたら、5分ぐらいしてから領収書に住所と氏名の記載が必要なので教えてくださいと言われました。それで、職員が手持ちの付箋紙に私が住所と氏名を漢字で書いてあげました。そしたら、今度は「輝明」の読みを「こうめい」でいいですかと聞いてきたので、(宇城市では佐藤輝明の知名度もまだまだなんだなと内心少々ガックリしながら)「てるあき」ですと丁寧に答えました。
それからこの領収書(後で払込帳票を兼ねるとわかります)を印刷出力してくれるまでが非常に長く20分近くかかっていました。待機中に業務の様子を眺めると、何やらパソコンに入力したり隣席の先輩と思われる職員の確認チェックを受けたり印刷をやり直したりとたいへんそうでした。
ようやく払込帳票ができあがると、今度はそれを持って、エレベーターではなく階段利用で職員を伴い、1階の会計課へ支払うため向かうことになりました。時間が15時を回っていたため、有人窓口が開いておらず自動支払端末機を操作しての支払いとなりました。代金は1500円でしたが、これほど時間がかかる業務なのか、なんとも不思議な体験でした。
ところで、『燎火』そのものは、貴重な郷土誌として内容的に満足しました。もともとは合併前の旧不知火町の発行でしたが、他の旧松橋町・旧小川町・旧三角町・旧豊野町と合併後も誌名が継続して研究対象地域も当然のことながら広がり、一層充実したものとなったように思えました。
いわゆる松橋空襲は、松橋駅における1945年7月27日の死者が22名、負傷者が60名と多かったので、そう称されるのではないかと思います。駅名は松橋ですが同地は旧不知火町(当時不知火村)内にあります。1945年8月10日の旧不知火町塚原地区ではナパーム弾によって91軒の家屋が全焼したという記録が残っています。同日の空襲については、次の記述が『燎火』(第13号、p.73)にありましたので、紹介します。「実に痛ましいことがあった。空襲警報下、退避した防空壕が、焼夷弾で炎上した家屋内にあったために起こった惨事である。子供5~6人の内、小学生3、4人は必死の力で壕の外へ這い上がったが全身大火傷、瀕死の重傷でたえること2日の後に絶命。さらに、壕の中では、いたいけな幼児2人が抱き合ったまま、黒焦げの状態で発見された。悲運はまだ重なる。子供たちの中の2、3人は先の熊本大空襲の後、この家に疎開して来ていたのだという」。
私の母は、幼児期の1945年7月1日の熊本大空襲の半月前に当時住んでいた熊本市国府から(上記の塚原地区に近い)不知火村へ疎開し、同年7月27日の空襲も体験していますので、まったく他人事ではない史実です。

宇城市内での戦争展観覧記

宇城市内で開催中の戦争展を2つ観覧してきました。以下は、その感想メモです。

(一社)くまもと平和ミュージアム設立準備会主催「戦後80年 うき戦争の記憶展 ~戦時下の暮らしと文化~」
会期は12月7~14日まで、イオンモール宇城のセンターコートで開催されるという情報を宇土高校のブログで知り、初日にさっそく訪ねてみました。高校のブログには同高の生徒がボランティアで会場に入っているとのことでしたが、11時台に立ち寄った際にはその姿はなく、展示スペースが予想以上に広い割に来場者はほとんどなく閑散としていました。展示品の多くは宇城市在住の退職教員の方が所蔵する戦時下の子ども向け出版物やおもちゃでした。何度か目にしたことがある資料がほとんどでした。
出品者の意向としてできるだけ多くのコレクションを来場者の目に触れさせたいのだろうと思いましたが、パーティーションに所狭しと掲出されてあり、雑然とした感がありました。資料の解説文の文字が大きい反面、サイズもA4と大き過ぎて、資料より目立ち過ぎていました。資料の並びも時系列なのかテーマ別なのか分かりかねました。
また、タイトルに「うき」と入っているので、地元の資料展示に重きが置かれているというイメージで来場しましたが、松橋空襲などの資料は会場奥の隅の方に展示されており、その点でもちぐはぐ感がありました。
このように国民をある方向へ追い込んでいった戦時下の社会の空気を伝える展示はたいへん重要ですが、あまりにも見せ方に工夫が足らず惜しい気持ちがしました。
ひとつ儲けものだったのは、この会場で宇城市立郷土資料館の企画展の案内チラシを得たことです。その足で行ってみることにしました。

宇城市立郷土資料館「終戦80年企画展 モノが語り継ぐ戦争」
この資料館は、宇城市豊野支所近くにある施設で、今回初めて訪ねました。入館は無料で私以外に来館者はなく、貸切状態でじっくり観覧できましたし、展示方法や解説も工夫が凝らされていてコンパクトでしたが、たいへんためになる施設でした。
こちらの松橋空襲の展示では、郷土誌『燎火(かがりび)』の第5号(1993年3月発行)・第13号(2006年3月発行)・第18号(2011年3月発行)掲載の証言手記が読め、たいへん実相を知るうえで役に立ちました。同誌を読んでみると、宇城市松橋町出身の故松浦豊敏氏の寄稿などもありましたし、市の文化財審議員の中に私の小学生時代の恩師が就いていたこともわかりました。なお、同誌バックナンバーは宇城市文化課において1冊500円で販売しているとのことです。
1945年8月7日の松橋空襲については、そのうちの1機(米陸軍中型爆撃機B25)が、現在の八代市鏡町の氷川河口に墜落し、搭乗員5名が捕虜となり、地元住民によって傷害を負わせられています。しかも、8月15日に捕虜虐待の証拠隠滅(表向きは日本の市民に対する無差別爆撃の罪)のため、福岡で日本軍(戦後これにかかわった軍人はB・C級戦犯として起訴)によって処刑されています。これらの日本側の加害の歴史も展示解説で触れられていました。貴重な資料も適切な説明があってこそその教訓が伝わります。

これもついでに。
12月5日のNHK総合で「時をかけるテレビ 池上彰 “医師の罪”を背負いて 九大生体解剖事件」という番組がありました。もともと戦時下の医師の倫理観に迫るドキュメンタリーとして2015年に放送されたETV特集「“医師の罪”を背負いて~九大生体解剖事件~」を取り上げた番組で、生体実験の現場に立ち会った当時19歳の医学生だった故東野利夫さんが、生涯をかけて罪と向き合い、語り継ごうとした記録です。生体解剖事件の対象となったのは、戦時中に墜落した米軍爆撃機B29の搭乗員たちでした。その墜落後の捕虜の扱いについても自決に追い込んだ例もありますし、国際法に照らして危害を加えなかった例もあったと紹介されました。戦後、東野さんは唯一生き残った機長に会い対話していますが、その機長も無差別爆撃の体験を家族にも伏せてずっと苦しんできたことが明かされました。東野さんの母校・九大医学部に歴史館がオープンした当初の事件の扱いはあまりにも小さく同氏を落胆させましたが、近年になって同氏提供の資料も含めて大きく取り上げるようになったといいます。歴史は多面的に見なければいけないことを感じました。
(熊本日日新聞ではこの事件に関連する「殉空に散る」が連載中です)
九大医学部出身関係者について言えば、12月6日のやはりNHK総合で放映された「新プロジェクトX 75万人命救った用水路~医師・中村哲 希望のアフガニスタン」で紹介された故中村哲さんの業績も凄いと感じます。本来このような人物がノーベル平和賞を受賞すべきでした。米国大統領は、同賞を切望するただの破廉恥な人物に思えます。せいぜいFIFA平和賞止まりであってほしいものです。
https://www.lab.med.kyushu-u.ac.jp/rekishikan/
https://www.web.nhk/tv/an/tokikaketv/pl/series-tep-WQGK99QWJZ/ep/2L7J19XXJG
https://kumanichi.com/articles/1932457
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-P1124VMJ6R/ep/8XWVR96MXN

ばけばけ関連展をハシゴ

NHK朝ドラで現在放映中の「ばけばけ」はあんまり視聴していないのですが、たまたまラフカディオ・ハーン(小泉八雲)関連の企画展が熊本市で2つ開催中なので、観覧してきました。昨夏、松江を訪ねる機会があり、当初は同地の小泉八雲記念館へも立ち寄る予定でしたが、松江城の堀を舟で巡ったり、天守閣まで昇ったりで、入館の時間がなくて記念館の前を素通りしただけでした。そんなこともあって、一種のリベンジの意味もあって足を運んでみた次第です。

まずは、熊本博物館の特別展「八雲とセツ 家族の物語」から見てみました。JR上熊本駅で降り、そこから熊本市電に乗り、杉塘電停で下車。城内へ向かって歩いていくと上り坂ですが、割とすぐ着きました。同館へ行くのは約20年ぶり。そのときは子どもらを連れてプラネタリウムや屋外展示のSL見学が主目的でした。その後、リニューアルもありましたし、今回の入館は初に近い印象でした。
特別展の内容は、小泉セツの回想を裏付ける八雲の書簡が中心となっていました。その書簡を通じて、八雲の家族に対する思いが伝わりました。なんといっても当時では国際結婚自体が稀有なことでしたので、家族とどのような関係を築いていくかいろいろ工夫しなくてはならないことが多かったとようにうかがえました。長男が生まれた頃は正式な婚姻ではなかった(八雲の帰化はその後)ため、セツにすべての財産を遺贈する旨の遺言を当時作成していたことも展示で知ることができました。先着1000人限定の特別展プレゼントのクリアファイルもまだ開催2日目ということでもらえました。
せっかくの機会なので、常設展もひと通り観覧しました。細川家の参勤交代に際しては現在の大分の鶴崎から大坂までは海路であり、そのために川尻の大工たちに御座船「波奈之(なみなし)丸」を造らせました。展示室にはこの船の御座所部分があります。参勤交代の経費は、現在の価格に換算すると12億円ということでしたから、相当な負担だったことが改めて理解できました。旧石器時代の出土品の展示では、この施設が熊本市立ということもあって熊本県が発掘を行った熊本市の「石の本遺跡」のものの展示がないのかなと思いました。一方、縄文時代の出土品の展示では、現在の宇土市の轟貝塚や曽畑貝塚のものがあって、そうした運営自治体と遺跡出土自治体との関係がどうなのか気になりました。なお、貝塚があった時代の海岸線の図も展示されていたので、その写真も示しておきます。時代が下って近代の熊本は軍都という面がありましたので、戦争関連の展示の割合をもっと多くあってもよいのではと思いました。アンケートに回答すると熊本城のポストカードをもらえました。
さらに、熊本博物館の近くにある護国神社の境内に、戦後復員した伯父が所属していた第三十七師団の「歩兵第二二五聯隊慰霊碑」があることを知っていましたので、こちらも見てきました。その隣に建つ同じく熊本編成の第二十三師団(ノモンハン事件の主力部隊)の碑には坂田道太氏の揮毫がありました。
https://kumamoto-city-museum.jp/

次に熊本大学黒髪北地区内にある五高記念館の企画展「五高教師ラフカディオ・ハーン」も観覧してきました。熊本大学のキャンパス敷地内に入ったことはこれまで何度もありましたが、五高記念館の館内に入るのは実は初めてでした。1階が常設展示室となっているため、そちらから見て回りました。五高の成り立ちから理解できるようになっています。ラフカディオ・ハーンは、五高教師としては夏目漱石(金之助)とともに著名ですので、常設展示でもハーンのことを多く取り上げていました。企画展示は、2階の2室を占めていました。ハーンが出題した英語の試験問題文を読むと、英会話的な試験ではなく、英文で書く論文試験の印象を受けました。嘉納治五郎とハーンがサインした雇用契約書が展示の目玉という気がしました。
ついでに、ここも初めての入館でしたが、やはり五高時代の化学実験場を会場とする「明治の地質学掛図と描かれている化石」の展示も見てきました。ここには、階段教室も保存されています。展示室には理学部地球環境科学コースの現役教授のコレクションの化石が多数展示されていました。大学自体が保有するアンモナイト化石の大きさには驚きました。化石が発掘実習を行った北海道では漬物石代わりに使われていたエピソードも紹介されていて、父方の祖母が戦後焼夷弾の残骸鉄くずをやはり漬物石代わりに使っていたことを思い出しました。
帰りに赤門と正門間の歩道で500円硬貨1枚と10円硬貨2枚を拾ったのですが、子飼交番までは距離もあり届けるのも面倒なので、少額でもあるので、五高記念館の募金箱に入れてきました。おそらく防犯カメラにも記録されていると思います。
https://www.goko.kumamoto-u.ac.jp/

2025年12月4日の熊本日日新聞2面「射程」欄にも同紙記者によるハーン展はしご記が載っていました。
https://kumanichi.com/articles/1932266

民生委員を退任しました

2025年11月30日をもって4期12年にわたって務めた民生委員・児童委員を退任しました。これに伴い、関連の役職・充て職の表記をプロフィールページ等から削除しました。
この間、さまざまな経験を積み、社会福祉政策にかかわる研鑽の機会を得ました。地域社会や行政の課題が多いことも多々感じました。政治的中立に配慮しない気楽な立場となりましたので、一層果敢な提言を行っていきたいと考えています。

ルメイの人物像をどう考えるか

空襲・戦災を記録する会が主催する「第44回空襲オンライン学習会」に初めて参加しました。今回は、今年ハヤカワ新書から出た『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』の著者・上岡伸雄学習院大学教授が報告者として自著について語る合評会となっていて、主催者の工藤洋三氏がコメンテーター、東京女子大学の柳原伸洋氏が司会を務める形で進行しました。上記著作は今年5月に読んでいましたが、やはり著者からネットを通じての対面ですが、肉声で伝えたかったことを聴けるのは貴重な機会でした。
書名にもある通り、ルメイはアジア・太平洋戦争期において民間人が多数犠牲となった数々の無差別空爆を指揮した米空軍の将軍です。著者が語るところでは、非常にまじめで合理的、「有能」な人物でした。部下には厳しい訓練を強いましたが、それも部下の命を守るためということが伝わり、部下からの信頼も厚い人でした。爆撃の精度を上げ、味方の損失を少なくした「成果」は、軍上層部や政府からも高く評価されました。戦争の論理では、味方の犠牲を極力出さずに戦争を早く終わらせる戦い方が望まれ、ルメイはその期待に「誠実」に応えたとも言えます。ルメイの前任者・ハンセルの「人道的」な爆撃ではあまり「成果」が出なかったので、ルメイの残虐性のイメージが日本では強いですが、どちらも民間人の死者を出したことには変わりはありません。著者自身もコメンテーターも、ルメイだけを非道な人物として特別視できないのではと考えているように受け止めました。
司会の柳原氏からも民主政の国家である米国だったからこそ、自国民を納得させるために、無差別爆撃や核兵器の使用を許容したのではないかという旨の指摘もありました。確かに現代においても石油産油国として裕福な国家では、教育や医療がタダであるために、国民の不満がほとんどないという例があります。政治的な自由が制約されていて、選挙がなくて政権交代が起こらずに権威主義的な政府が継続していても、まさに金持ちケンカせずの倣いで、戦争がなく安心して暮らせるならそれでいいじゃないかという国もあります。つまり、民主主義政体の国がポピュリズムで道を誤ることがありますし、権威主義政体の国民だから必ずしも軍事一色で苦しんでいるわけではないので、政体だけで判断すると間違うこともあります。
政府と国民の関係、政府や職業軍人が考える「正義」とはなんなのかと、思考がぐるぐるしました。
参加者からの質問では、対日爆撃のフォーメーションについてありました。学習会では明確な回答がありませんでしたが、基本は上岡氏が示した12機編隊のコンバット・ボックスだったと考えていいと思います。写真は1944年11月21日の2度目の大村第21海軍廠爆撃のときの米軍報告書の一部ですが、それをうかがわせる編成が記録されています。本拠地のインドからヒマラヤを越えて前進基地の中国・成都まで移動する間に機体の不調で欠落があるので、前進基地離陸時点では12機未満ということもあったと考えられます。