AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE