法制度の連鎖で見るもの

山室信一氏の著作を紐解くと、法制度の連鎖で見えてくる関係が新鮮に思えます。
まずは3年ぶりに再読した『アジアびとの風姿』の記述から興味深く感じた視点をノート代わりに列記してみます。(なお、伝えたいことを書いているわけではありません。)
中国(唐・明・清)→熊本→日本(明治新政府)→植民地
欧米→日本(明治新政府)→中国(清、中華民国)
・日清戦争直前まで東アジアにおいて大きなプレゼンスをもっていたのが、中国大陸にある国家であったのは事実。2010年に中国が日本を抜いてGDP世界2位になるまでの、日本が経済的にも軍事的にも優位に立っていると見なされた、この100年間の方が歴史的に見て稀有な時代。
・熊本藩の藩校時習館の漢学教育はたいへん優れており、とりわけ、刑法に関係する中国の唐・明・清の律などについては、長年にわたって研究が蓄積されていた。熊本藩の刑法(「御刑法草書」)は、明治になって新しい刑法(1870年=M3「新律綱領」、1873年=M6「改訂律例」)を制定するときも参考にされている。1868年=M1、明治新政府は、藩主・細川護久を刑法事務科総督に任じている。その後、フランスからボアソナードが招聘されてフランス刑法をモデルとする刑法が制定される。
・農民出身の儒者・木下業広(1860-1867年)の門下生を輩出した熊本藩は、幕末の徳川幕府側(佐幕派)の立場を選択したため、維新後の薩長土肥主流の藩閥政府では傍流。実務官僚として自らの能力を示さざるをえなかったため、法制や司法関係に進んだ人が多い。外交交渉でも重要な役割を果たした。
・木下業広の次男・木下広次(1851-1910年)は、ボアソナードにフランス法を学び、後に京都帝国大学の初代総長となっている。木下の三男・木下哲三郎もフランス法を学び、ロシア皇太子を負傷させた大津事件に大審院判事として判決にかかわった。木下の弟・木下助之は初代の熊本県議会長で、助之の孫が『夕鶴』で知られる劇作家の木下順二。
・木下業広の門下生でも卓抜だった「木門四天王」の一人、井上毅は大日本帝国憲法や教育勅語の起草にあたり、文部大臣も務めた。井上の後妻は、木下の長女・鶴子であるので、広次や哲三郎は義弟となる。
・熊本藩の儒者・岡松甕谷(1820-1895年)に漢学を学んだ中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を漢訳し、中国で刊行された(『民約訳解』、『共和原理 民約論』)。
・岡松甕谷の三男・岡松参太郎は日本における民法学創始者の一人。台湾や満洲における旧慣調査などで重要な役割を果たした。岡松の四男・匡四郎(1876-1959年)は井上毅の養嗣子となり、鉄道大臣や技術院総裁を務めた。
・「木門四天王」の一人、竹添進一郎(1842-1917年)は、勝海舟らの推挙で特命全権大使・森有礼の随員として1875年、中国に渡り、3万5千キロに及ぶ苦難の中国旅行記を漢文と漢詩でまとめた。近代日本の中国研究の嚆矢とされる。竹添が公使として朝鮮に駐在していた1884年に甲申政変が起きた。なお、竹添の次女・須磨子は木下広次の媒酌によって、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎と結婚している。
・竹添と一緒に旅行した津田静一(1852-1909年)は、18歳のときに米イエール大学に留学歴があり、外交官を辞めてからは民間主導での台湾開拓を進めた。台湾総督府をバックに台湾への植民政策の基盤を作ろうとしたのが、「木門四天王」の一人、古荘嘉門(1840-1915年)。熊本で結成された国権主義者の団体、紫溟会の趣旨を起草したのが井上毅、同会の政治部として同心学舎改めできた濟々黌の副黌長が古荘、同黌の幹事に佐々友房と津田が就いた。
・同心学舎や濟々黌で学んだ「肥後漢学の三羽烏」は、狩野直喜(1868-1947年)・古城貞吉(1866-1949年)・宇野哲人(1875-1974年)。狩野は京都大学で敦煌学を含む独自の中国学の学統の形成に貢献した。一高時代に、秋山真之や夏目漱石、正岡子規と同学だった。古城は古代から清朝時代までの中国文学を通史として史上初めて著した。中国人自身の手による中国文学史が公刊されるのは古城の著作から7年後だった。古城が中国で購入した漢籍蔵書は細川家の永青文庫などに架蔵されている。宇野は今上天皇の幼名の名付け親として知られる中国哲学者。ドイツ哲学も重ねて研究した。
・清朝統治時代から異民族統治に対する台湾における抵抗は間断なくあり、「三年小反、五年大乱」という言葉があった。日本による台湾領有から大規模な蜂起である西来庵事件(1915年=T4)までの日本軍の死傷者は1万1277人(戦死者527人、戦病死者1万236人、負傷者514人)に上る。これは日清戦争における戦病死者3258人を大きく上回る。現在の台湾には漢族のほか、16の先住民族がいる。清朝時代は約300万人の漢民族以外は、「蕃族」と呼ばれ、そのうちの農業に従事して清朝の統治に服する約10万人を「熟蕃」、山地で狩猟採取を生業として清朝に服さない約3万5千人を「生蕃」と称していた。日本統治になってから、抗日蜂起する「生蕃」を軍事力で「討伐」し「帰順」させる「理蕃事業」によって多くが殺害された。確定はできないが、死者数は約2万9千人に及ぶと言われる。
・第四代台湾総督の児玉源太郎は、武装蜂起を武力で討伐・鎮圧するコストを抑えるために、生活秩序の平穏化を図ることによって統治の安定を図ろうとし、その目的のために当時42歳の後藤新平(1857-1929年)を民政局長に抜擢した。後藤も異民族統治の要諦として、それぞれの社会に固有の文化と制度を尊重すべきと考え、24歳で民法典の解釈書を執筆した、当時京都帝国大学教授の岡松参太郎(1871-1921年)を台湾の土地と住民に関する法・生活慣習の調査の責任者に任じた。岡松はイギリス法専攻ではあったが、父・岡松甕谷の訓練を受けて幼いころから漢籍に親しみ、漢文読解にも秀でた能力をもっていた。臨時台湾旧慣調査会の調査委員には狩野直喜も加わっている。他に起草委員として岡松が民法学の将来を託した石坂音四郎(現嘉島町出身)も尽力した。立法委員として警察機関から大津麟平(現大津町出身、1865-1939年)が参加した。この調査会より『台湾私法』、『清国行政法』などが刊行され、日本における中国法制史研究、文化人類学的調査の先駆けとなった。
・日露戦争後に児玉源太郎が台湾総督を退任し、後藤新平が満鉄総裁となって台湾を離れたことによって、旧慣調査に基づく立法の方針が揺らぐこととなったが、その体験は満洲へ持ち込まれた。台湾については、日本の法制を台湾にも施行する内地法延長主義が原敬内閣の成立(1918年=T7)とともに取られた。結果的に岡松らの法案起草は陽の目を見なかった。朝鮮統治についても、「旧慣立法」を重視する石坂の提言は無視された。