不都合を隠す方便になっていないか

昨日の朝日新聞オピニオン面は、インクルーシブ教育について取り上げていました。近くの公立学校長の口からもこの言葉が出ていて、その内実について気になっていました。インクルーシブとは、文字通り包み込むという意味の英語です。いろんな問題を抱える子どもたちを区別せずに、みんな一緒の教室で学び育てようという教育スタイルを指すものと理解されています。ですが、たとえばいじめの構造が残ったままで、加害児童も被害児童も一緒にしておいていいということにはなりません。放置しているという不都合な事実を覆い隠す方便としてインクルーシブ教育という言葉が発せられているとしたら、それは悲劇です。個々に応じた教育の中でしか子どもは学習する権利は確保できないと思います。公立学校にはそうした教育環境を提供する義務がありますが、それを提供できない環境にあるなら、保護者としてそうした学校に子どもを通わせられないというのが正直な気持ちだと思います。