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国際水準から遅れているアジア

今から40年近く前の時代になりますが、私が大学の法学部政治学科に入学したとき、1年次の必修科目は、憲法、国際法、民法Ⅰでした。形の上では国際法を学んだことになっているのですが、現在振り返ってみると、本当に学んだといえるのかという思いにかられています。というのも、1966年にできた国際人権規約こそ日本は1979年に批准しましたが、以下の通り、その他の条約はすべて履修後に批准または加盟したものばかりだからです。
「難民条約」1982年(昭和57年1月1日発効)
「女性差別撤廃条約」1985年(昭和60年7月25日発効)
「子どもの権利条約」1994年(平成6年5月22日発効)
「人種差別撤廃条約」1996年(平成8年1月14日発効)
「拷問等禁止条約」1999年(平成11年7月29日発効)
「強制失踪条約」2010年(平成22年12月23日発効)
「障害者権利条約」2014年(平成26年2月19日発効)
確かに私たちが社会生活を送る上では、批准した条約の規定内容に合わせて整備された国内法の規定を意識します。私が社会人になったころは、男女雇用機会均等法が施行されて間もないころで、男性限定の求人募集はできないけれども女性限定の求人募集はできるということで、大騒ぎでした。今でこそ電車やバスの女性運転士は珍しくありませんでしたが、当時ソ連旅行した時には女性運転士の比率が高く驚いたものでした(もっとも当時のソ連は若い男性の多くが軍隊にとられていましたので、男女平等というのは無理があるとも思いました)。ともかく、枝葉の国内法だけにとらわれて女性差別撤廃条約を真剣に学んだ覚えはありません。最近でも平成25年の民法における婚外子相続規定の最高裁の違憲判決を経て今では該当部分を削除する民法改正がなされましたが、人権擁護委員向けに法律家によって書かれた人権相談対応本ですら、人権条約の精神から説き起こしたものはないのが実情です。人権のことをいうなら核戦争で命を失うのも最悪で重大な人権侵害ですが、核兵器禁止条約を日本が未だに批准しないのも情けない限りです。
もともとアジアでは欧米のような地域レベルの人権保障機構がなく、国家間の通報も活用されていません。国際水準に乗り遅れている国同士が、都合のいい内政不干渉で互いの国民の人権侵害に目を閉じているようにも思えます。
たとえば、香港の民主派候補がその政治的信条を理由に立候補が認められないというのは、明らかに国際法違反になります。それを可能にしている国内法をタテに内政干渉を主張するのは、果たして徳のある政治なのか、むしろそうした国内法を定めた過ちを恥じるべきではないのか、国際水準を満たした外国政府であれば堂々と指摘できるものなのですが、そう指摘できない自らのやましい部分を衝かれるのが嫌なのか、自らを律しながら互いに水準を高める関係を作っていけないものかと思います。

コロナ禍の人権保障が求められている

コロナ禍においてさまざまな人権相談に応じる場が減ってきています。面談となれば、会場提供する施設管理者もさまざまな感染防止対策が求められますし、対応する相談員も、相談者自身も余分な神経をとがらせなければなりません。電話だとお互い説明の意を尽くせるか、心もとない点があります。かといってメールやテレビ会議システムは敷居が高くなるようです。
もっとも、人権侵害について相談したい人は、どうしたら救済されるか、つまり保障されるのかとういう現実的な権利実現を求めているのであって、そうなると、はたしてそれを可能にする機関はあるのかというと、はなはだ貧弱というのが、現実の姿です。この点は、そうした相談に乗る側ももっと国際水準を学んでどのような仕組みが必要なのか考えてみる必要があります。

クレメント・アトリー

大学時代の恩師・河合秀和先生の最新著『クレメント・アトリー』(中公選書、2000円+税、2020年)の読書に取り組み始めました。先生は1933年生まれですので、御年87歳です。今も現役の研究者でおられることに、まず読み手の方が姿勢を正さずにはおれなくなります。
現在では、歴史に埋もれてしまったできごとですが、第二次世界大戦末期から戦後まもなくの期間、日本を支える優秀な科学者や技術者の育成を目的として「特別科学学級」という英才学級が設けられていました。IQ150以上の全国から選抜された児童・生徒が高度なエリート教育を受け、結果的に敗戦後の高度経済成長を牽引する人材として、理工系をはじめ各界で活躍しましたが、先生も京都師範学校附属国民学校(現:京都教育大附属京都小中学校)と京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高)のなかに設置された学年定員30名の特別科学学級に在学されました。映画監督として活躍した伊丹十三と同級生でした。他に湯川秀樹の長男湯川春洋や、貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、日本画家の上村淳之がいます。京都における設置にあたっては、京都帝国大学の湯川秀樹博士の意向が働いています。湯川がじきじきに旧制高等学校(現在の四年制大学教養課程)レベルの物理学の授業を行うこともあったようです。物理・化学の実験や、生物の実習などにも重点が置かれました。授業の内容は数学や物理学や化学はいうに及ばず、当時敵性語だった英語、さらには国語・漢文・歴史にもわたっており、当時、治安維持法下の禁書とされていた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を題材に用いるなど、当時の軍国主義的イデオロギーにとらわれない高度な内容の授業で進み方も速かったといわれます。特別科学学級の児童・生徒は学徒動員が免除され、学習を継続しうる特権を持つとともに、上級学校への進学が保証されてもいました。現在のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)構想には、その精神が受け継がれているといえます。
当時の国民学校の歴史教科書を紐解くと、神国日本を刷り込む教育が行われていたことが明らかですが、一方のエリート教育では科学的リアリズム重視だったわけで、この対比から統治者と被治者の教育は別立てだったということがよく理解できます。

歴史認識に誠実さが求められている

中国や韓国・北朝鮮、ロシアとの関係を語るときに、ここ150年間足らずの史実を知らずに語っていれば、これほど無知をさらけ出すみっともなさはないという思いを最近強くしています。
たとえば、日清戦争(1894-1895年)は、清朝の冊封体制にあった朝鮮を、日清のいずれかが支配するのかという覇権争いにほかならない戦争でした。その朝鮮支配をめぐる覇権争いにおいて、清朝に代わる競争相手がロシアであり、日露戦争(1904-1905年)は、日露のいずれの領土でもない朝鮮(当時:大韓帝国)や満洲(当時:清)を戦場とした戦争です。こうした基本的な関係を押さえただけでも中国や南北朝鮮の今に連なる人たちの記憶がどのようなものかを認識すべきだと思います。
戦争だけでなく、現代では大半の日本人が忘れている事件も数多くあります。日清戦争後に清から日本へ割譲された台湾では、日本の領有に反対し、さらには清朝からの独立を目指して台湾民主国が樹立されましたが、日本は台湾に5万人派兵して「消滅」させています。同じ年に清に独立を認めさせた朝鮮において親露派の国母・閔妃を殺害する事件が民間日本人(熊本県出身者が多数を占めています)の関与により起きています。1900年に起きたブラゴヴェシチェンスク事件は、最大2万5000人まで諸説ありますが、清国人がロシア軍によって大量虐殺され、黒竜江(ロシア名:アムール河)に葬り去られた事件です。当時、世界最大の陸軍国であるロシア戦に備えて現地で諜報活動を行っていた石光真清は、「老若男女を問わぬ惨殺死体が筏のように黒竜江の濁流に流された」(『曠野の花』)で語っています。旧制一高寮歌「アムール河の流血や」として当時の日本の人々の心をとらえました。
日露戦争に際して、国力と軍事装備において劣っていた日本がとった戦略は、援軍が到着しない前にロシア軍に大打撃を与えて外債を獲得し、戦況が有利な段階で英米などに講話斡旋を依頼して早期に戦争を終結させるものでした。その外債の募集には高橋是清が渡英して動き、それに応じたのがニューヨークの投資銀行経営者であったヤコブ・シフでした。ユダヤ人であるシフがなぜ日本を援助したかというと、当時の帝政ロシアでは世界の約3分の1に当たるユダヤ人が強制移住や改宗強要、虐殺などの迫害にあっていたからでした。
日本で持たれた恐露感の一方、ロシアでも東方の民族である日本に対する潜在的な恐怖感が13世紀のモンゴルの支配に起因してあります。ヨーロッパではモンゴル系の人々を、ギリシャ語で「地獄の住人」を意味するタルタロスに重ね合わせて、タタールと呼びました。15世紀末まで続いたモンゴルによるロシア支配を指して「タタールの軛」と称しています。野蛮な黄色人種が白色人種のキリスト教文明国の脅威となるという黄禍論については、ドイツのヴィルヘルム2世が、ドイツが東アジアにおいて軍事的な拠点を得るために日本の進出を牽制するとともに、ロシア皇帝ニコライ2世に日本と対抗させて東アジアに目を向けさせ、ドイツへの軍事的圧力を避けさせるためにも大いに利用されました。
歴史、特に戦争は、憤怒と侮蔑の連鎖から起きます。理解と敬愛の連鎖からしか、非戦平和の歴史は築かれないものです。日清戦争・日露戦争の時代に生きてこのことを理解していた日本人も少なからずいました。当初、日清戦争を義戦と唱えた内村鑑三は、戦後(1905年)、それを「略奪戦」だったと考えを変えます。さらに日露戦争後の演説で「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」と、覇権主義の暴走を批判しています。日本最初の社会主義政党を結成した安部磯雄も「日清戦争といい、日露戦争といい、その裏面にはいかなる野心の包蔵せられあるにせよ、その表面の主張は韓国の独立扶植であったではないか。しからば戦勝の余威を借りて韓国を属国視し、その農民を小作人化せんとするが如きは、ただに中外に信を失うのみならず、また我が日本の利益という点より見るも大いなる失策である」と、1904年記しています。歴史認識に対する誠実さをもつ深い賢さが必要な気がします。

子ども人権SOSミニレター炎上をあえて歓迎したい

今月、大阪府の人権擁護委員が回答した「子ども人権SOSミニレター」の内容を批判するSNS投稿がニュースとなりました。確かにコロナ感染を怖がる子どもに対して「あきらめて」通学を勧めるのは、思慮を欠いていました。学校や教育委員会の判断を無批判に受け入れがちな大人の考えではそうなります。そもそも人権保障にかかわる唯一の正答はないと思います。ただ、今回、逆説的な効果として子ども宛の回答を読んだ母親がその内容に疑問を感じてSNS投稿を行った結果、レベルはまちまちでしょうが、1日で5万件超の反響があったそうですから、その中にはおそらく子どもが受容できる回答もあったのではないかと思います。いろんな意見に接するきっかけに「子ども人権SOSミニレター」がなった点は、思わぬ副産物効果でした。今回のニュースは、先日の地元の人権擁護委員の研修会でも取り上げられ、こういう批判の的になるなら回答執筆を避けたいと委縮する委員の声もありました。しかし、今回の回答がなければ、SOSを発した母親の行動がなければ、その子どもの人権侵害が握りつぶされていたことでしょう。人権擁護委員は全国でたかだか14000人です。しかも質的に高い人材とは限りません。社会の集合知や委員の知見の向上につながるのならどんどんSNS投稿炎上してもらいたいと思います。

国際法との出会い

このところ山室信一氏の3年前の著書を再読したついでに、2005年に岩波新書から刊行された、やはり同氏著の『日露戦争の世紀』を読み返しています。
同書の第1章は、日本が近代国際社会への参入した頃を描いています。幕末に締結した日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)は、日本にとって不平等な内容でした。それに対して日露和親条約は例外的に同等で双務的な内容でした。現代の感覚では意外ですが、日本とロシアとの出会いは平和的でした。それらを経て、明治政府は国際法を遵守することによって外交を行うという宣言しました。当時、国際法は「万国公法」と呼ばれ、マーティン(漢名:丁韙良)が1864年に漢訳した書名『万国公法』(原著『国際法要綱』)によります。1872年に学制が公布されると、京都府では『万国公法』を小学校の句読科の教科書に指定するなど、受容に努めました。教科書といえば、時代が下って1941年に出された国民学校2年生用の国定修身教科書「ヨイコドモ」では「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」というように自民族第一主義、神々に作られたという非科学的な神国思想を吹き込む道具であって道を誤った歴史も忘れてはならないと思います。
もっとも、当時の国際法は、「無主の地」であれば先に占有したものの所有となるという「先占の法理」が働くのが基準でしたから、欧米列強が植民地や被保護国を求めて広げていく時代でした。日本もその当時の秩序に乗っかって周辺の「非文明国」を勢力下に置こうしたのも事実です。国際法で最初に痛い目に遭った日本が国際法を利用して「一等国」になろうとのし上がりそして自壊した歴史があります。
現在の世界を見渡すと、自国第一主義、自民族第一主義の勢力が強まってきています。その流れを変えて、もっと高い基準の国際法を定めて守らせる努力が必要です。過ちを経験した日本だからこその発言や行動ができるはずです。

国内法と国際法の関係について

国内法と国際法の関係について放送大学テキストの『法学入門』の記載からメモを残しておきます。私自身は仕事柄少し国際法とは縁のある、行政書士という立場にいます。たとえば、在日外国人の難民認定についていえば、当然に難民条約の規定を意識しなければなりません。それだけではなく、迫害の背景を知ることも必要になります。インターネットを利用する上での著作権侵害の問題を検討するとなれば、まさしく世界に影響しますから知的財産保護の条約の規定も意識しなければなりません。といっても、いつもすらすら頭脳から湧き出すことはないので、必要に応じて資料にあたる作業が求められます。
まず国内法は必ずしも国内だけに適用されるものではありません。日本の刑法を例にとると、日本国民または外国人が、内乱罪、通貨偽造罪などを犯した場合(すべての者の国外犯)、日本国民が殺人罪、業務上堕胎罪などを犯した場合(国民の国外犯)、そして外国人が日本国民に対して殺人罪、強制性交罪などを犯した場合(国民以外の者の国外犯)は、適用されます。ただ、立法・執行・司法の国家管轄権が競合することがあるので、それは属地主義が基本となります。次に国際法(条約と慣習国際法)はどうかというと、国家はそれを遵守する義務があります(国内法援用禁止の原則はありますが、国際法に違反する国内法はただちに無効となるわけでもありません。しかし、国際法上の国家責任は問われます)。それにとどまらず、条約についてはそれぞれの国家で一定の措置が取られた後に、慣習国際法についてはなんらの国内的措置も取られることなく、国内的効力をもつとみなされています。
そこで問題なのは、国際法の国内的効力がどう確保されるかです。第一は、条約を国家の国内的な手続きを経て公布・発表する一般的な受容方式で、日本や米国、中国など多くの国家で採用されています。第二は、条約の内容を国内法のなかに移し替える変型の受容方式で、イギリスやスカンジナビア諸国で採用されています。なお、慣習国際法は特段の措置をとることなく国内的効力が認められています。
さらに、国際法を直接に国内裁判所が適用して判決が下せるかという問題があります。これに関連して国際法の国内的序列の問題もあります。日本においては、憲法と条約とでは憲法優位説が支配的とされています。慣習国際法と法律とでは慣習国際法が優位であり、憲法とでは憲法が優位と一般に考えられています。
そこで、前記の国際法の直接適用の問題ですが、最近の裁判例として以下があります。
・受刑者接見妨害国家賠償請求事件(高松高判H9.11.25)・・・受刑者が接見を制限されていることについて「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」14条(公正な裁判を受ける権利)違反を主張した例。→監獄法施行規則という法令よりも上位にある人権条約違反にあたらないかが審査され、損害賠償が認められた。最高裁判決では逆転敗訴となった。
・大麻取締法・関税法違反事件(東京高判H5.2.3)・・・外国人の被告人が通訳料の負担を命じられたことについて同規約14条3項(f)(無料で通訳の援助を受けること)違反を主張した例。→条約の具体的規定を裁判規範として用いて、通訳料の負担を命じた国側の行為が違法と認められた。ただし、現在も刑事訴訟法第181条第1項本文の改正は行われていない。
・小樽入浴拒否事件(札幌地判H14.11.11)・・・公衆浴場への外国人の入浴を拒否されたことについて同規約26条(法の前の平等・無差別)および人種差別撤廃条約5条(f)・6条違反を主張した例。→民法1条、9条、709条の解釈にあたっての基準として人権条約を間接適用し、入浴施設に賠償支払いが命じられた(高判で確定)。市の条例制定責任は最高裁まで争われたが認められなかった。
本書ではあまり触れられていませんでしたが、国内の人権状況が各条約機関からどのようにみられているのかについて確認する必要があります。ほんとうに国際水準に達した人権先進国なのかどうか、各条約機関から勧告の対象となっている国内法が意外と多いことを知ると驚きです。その点については、私が人権擁護委員として一端を担う法務省の人権擁護行政もお粗末極まりなくパリ原則が求める人権擁護機関の水準ではありません。人権委員会設置の方向も考えられているようですが、法務局の多くの職員はふだん国際法を意識することなく仕事をしています。

人権保障をめぐるノート

放送大学テキストの『法学入門』の第14章「国内法による人権保障と国際法による人権保障」の記述内容から人権保障について考えるノートを作成してみます。ふだん読書をするときに、大半は流し読んでしまうのですが、読む時期によっては、自分の仕事や関心ある出来事に関係するテーマに出会うと、ノート代わりにブログに投稿するようにしています。ブログに投稿しておけば、後でそれを読み返すときも容易に検索できるので便利です。自分の忘れやすい頭脳を補完してくれる外付けハードディスクのようなものです。同じテーマでも新たな知見を加えることによってバージョンアップすることもできます。それと、よくあるのがノートを付けると、元データの間違いをよく発見できます。このテキストでもいくつかの間違いを発見しました。最近のブログで取り上げた山室信一氏の著書でもよく西暦表記が間違っている記述がありました。このへんは、編集者の油断だと思います。しかし、『法学入門』は共著なので、もっと共著者同士のチェックが働いても良さそうなものですが、残念ではあります。
さて、まずは人権という概念の起源です。これは17世紀から18世紀にかけての近代ヨーロッパの思想家たちによってもたらされました。しかもそれは自然権としての人権です。次いで19世紀末から20世紀初頭にかけて、国家に対して特定の政策目標達成のための施策の遂行を求める権利、つまり社会権としての人権の概念が出てきました。
ただ、人権保障について国際法(条約と慣習国際法)によって主張される歴史の始まりは、第二次世界大戦後になってからです。国連憲章(1945年)、世界人権宣言(1948年)、国際人権規約(1966年)など。しかも、人権概念が世界共通であることに対する疑念は、絶えずありました。1993年に国連主催で開かれた世界人権会議においては、最終的に「ウィーン宣言および行動計画」が採択されましたが、当時、中国やシリア、イラン、マレーシアなどは「アジア的価値ないしは伝統的価値」を主張して人権概念の普遍性に対する批判を示しました。欧州や米州には地域的人権条約もありますが、アジアでは2012年にアセアン人権宣言が採択されたのに留まり、条約ではなく法的拘束力のない宣言に過ぎないため、規定内容が国際的基準に達していないとの見方もあります。条約となると、国家報告制度(締結国→条約機関)が課せられますし、国家通報制度(条約違反した締約国情報→条約機関)や個人通報制度が規定されます。
国際人権規約は、169か国締約の自由権規約(非締約国例:サウジアラビア、シンガポール、中国)と、164か国締約の社会権規約(非締約国例:マレーシア、キューバ、米国)の2つからなります。人種差別撤廃条約の締約国は178か国ですが、死刑廃止議定書の締約国は84か国に留まっています。締約国の顔ぶれでその国家のスタンスがうかがい知れます。日本が女子差別撤廃条約の締約国となったのは1985年でした。そのための国内法整備として父系血統主義から父母両系血統主義へ変更する国籍法改正が1984年になされましたし、男女雇用機会均等法が1985年に制定されました。
そもそも人権について考え始められた時代の「人」の範囲が今と同じであったかというと、そうではありませんでした。18世紀における「人」とは、あくまでも家父長であり男性だけでした。女性や子ども、障害者、性や民族・宗教などのさまざまなマイノリティーが「人」のなかに含まれるようになった歴史も意外と新しいのが事実です。
人権保障については、歴史的な違いと共に地域的な違いがあり、国内法と国際法との関係についても留意する必要があります。ひとつは、各国家がそれぞれの国内法に基づいて人権保障を行い、どのような人権保障をするかはその国家の決定事項、つまり「国内管轄事項」という考え方があります。もう一つの国際法の条約については批准するかどうかもそれぞれの国家の判断になりますが、慣習国際法となっている人権保障規定についてはすべての国家が守らなくてなりませんし、ジェノサイドや奴隷取引の禁止はいかなる逸脱も許されない強行規範となっています。したがって、「国内管轄事項」だけを主張できないのが、国際社会の常識になっています。
2006年に国連は総会の下部機関として国連人権理事会(前身は経済社会理事会の下部組織であった人権委員会)を創設しました。その下に普遍的定期審査(UPR)という制度が設けられ、国連の全加盟国について、それぞれの国内での人権状況を4年ごとに審査されることになっています。
こうして見ると人権保障をめぐり他国に対して発言する際は、国際法について理解しなければなりませんし、他国に対して発言すれば、自ずと自国の人権保障の状況についても振り返ってみなければなりません。障害者差別解消法、有期雇用労働者特別措置法、サイバーセキュリティ基本法、特定秘密保護法、リベンジポルノ防止法、いじめ防止対策推進法、ヘイトスピーチ対策法など、さまざまな国内法が近年整備されましたが、その内容についてもっと理解する必要を感じます。

相続についての研修受講

昨日、地元の法務局で相続についての研修を受ける機会がありました。主に最近ルールが変更になった制度についての説明でした。
まず、1点目は昨年7月1日より施行となった、「預貯金の払戻し制度」についてです。遺産分割前に相続人の資金需要に対応できるように、家庭裁判所の判断を経ることなく一定の範囲で金融機関に被相続人の預貯金債権の払戻しができるようになりました。しかし、注意を要する点があります。葬儀費用だけのために引き出すのであればよいのですが、引き出したお金を自分のために使ってしまうと、相続を単純承認したことになります。後日、プラスの財産よりも負債の方が大きかったことが分かり、いざ相続放棄や限定承認をしようと思っても、それはできません。ですので、この制度を利用する前に、被相続人の消極財産の有無や金額などを入念に確認しておく必要があります。払戻しは相続人が単独で引き出す前に必ず他の共同相続人の同意を取り付けるようにしてください。引き出したお金を葬儀費用といった遺産から支出しても構わないものの支払いに充てた場合は、必ず領収書を取っておいて、自分のために使ったのではないことを証明できるようにしておくことを勧めます。
2点目は、「法定相続情報証明制度」です。これは、3年前の5月29日からスタートした制度ですが、定着してきているようです。地元法務局管内の18歳以上の人口は9万人弱ですが、直近の3か月間で60件の利用があったということでした。被相続人の預貯金債権のある金融機関が多い場合はこの証明書を作成しておいた方が便利です。何枚もらっても無料です。
3点目は、今年7月10日に始まったばかりの「自筆証書遺言書保管制度」です。こちらは地元法務局管内で半月で3件ということでした。自筆証書遺言書ということで、高級和紙にしたためてこられた申請例があったようですが、スキャンすると紙のでこぼこの影が写るので避けてほしいということでした。遺言執行者に対する遺言者の死亡時通知は、来年の3月からの開始となるということでした。

チケット返券の問合せを受けて

東京オリンピックの開催延期に伴い、競技日程も変更になっています。そして、昨日、ようやくチケット返券希望の有無の問合せがありました。仮に開催となっても、元の会場定員での観戦入場が可能なのかどうか見通せないので、チケット販売をリセットしたいというのが、組織委員会の考えなのではと思います。返券を希望しない場合は、購入済みの状態が続行となるそうですが、観客を入れての開催が可能なのか、あるいは中止となるのではないかと、不安定な状態が続くことには変わりありません。

持続化給付金の不正受給を誘う悪質商法に注意

独立行政法人国民生活センターは、7月10日、受給資格がない人に持続化給付金の不正受給を持ちかける手口の悪質商法への注意情報を公表しました。不正受給を行うと、氏名が公表されたり、利息を含めて返還が求められることとなります。絶対にそうした誘いに乗らないようにご注意ください。

新型コロナウイルスに便乗した悪質商法にご注意!(速報第7弾)-受給資格がない人に持続化給付金の不正受給を持ちかける手口に気をつけて!-

なお、行政書士は、持続化給付金の適正な申請を、適正な報酬で業務として行える、唯一の国家資格者です。不法に申請業務を請け負い法外な報酬を請求する非行政書士の誘いに乗らないよう十分ご注意ください。

過去を見ないで今の理解はできない

昨夜はJ3ロアッソ熊本の岐阜とのアウェイゲームをネット速報観戦しました。残念ながら開幕からの5連勝とはならず、今季初敗戦となりました。順位は秋田と勝ち点3差で2位となっています。現在首位の秋田は、2017シーズンにJ3優勝したのですが、当時はJ2ライセンスを持たなかったため、そのときJ2からJ3への降格圏内にあったロアッソは辛くも残留できた恩義があります。しかし、翌シーズンに結局のところ降格し、現在2季ぶりのJ2復帰を目指しています。秋田は2018シーズンからJ2ライセンスが交付されましたから、今季秋田と熊本が共に昇格できればと思っています。それにしても、つい3年前にもならないこうしたいきさつを私たちはつい忘れがちです。
いかに普段の私たちが過去を忘れて今の状況に対して何の疑問も持たず過ごしているかということを、少し学習してみればすごく気づかされます。今読みかけなのは、放送大学テキストの『法学入門』ですが、現行法の基本概念の解説というよりは、時代や地域を広く見渡して法や権利の成立から考える組み立てとなっています。たとえば法律系の資格試験の学習となると、現行法を要件事実にあてはめてそれが妥当かどうかだけを考えてしまいます。つまり現行法を絶対視しまいがちです。しかし、本書では、今私たちが生きている社会において「あるべき法」とは何か、という視点を大切にしています。そのためには歴史的経緯、地域や民族、宗教の違いについても理解しなければなりません。すぐれて政治哲学的な問題に帰結すると思います。
一例を上げると、イスラム法(本書では「イスラーム法」と表記)について私も含めて一般の人がどの程度の知識を持ち合わせているでしょうか。イスラムとは、唯一神アッラーとその預言者であり使途であるムハンマドを信じ、聖典クルーアーンに従って生きることを説く7世紀に成立した宗教です。ユダヤ教やキリスト教の成立よりははるかに新しい宗教です。イスラム教の世界では、そこでの規範がすなわちイスラム法という宗教法であり、違反行為に対する制裁が現世のみでなく、来世にも予定されています。来世までも律せられる法があるというのは、西欧発の近代法になじんでいる現代の人から見ると、それだけで驚きだと思います。それと、イスラム教の宗派の違いはイスラム共同体の正当な統治者であるカリフの資格に係る議論から出てきますが、13世紀にはチンギス・ハーンの孫の勢力によってカリフが殺害されて、カリフが不在となる歴史があったことも知っておくことが必要だと思います。もっとも、現代のイスラム世界には、そのほとんどがヨーロッパ列強に植民地化された歴史がありますから、近代法が導入されています。したがって、宗教法がストレートに適用されているのではなく、いくつかのイスラム国家では国内法においてイスラム的価値観が反映されています。
価値観の違いは、先に挙げたイスラム以外にも歴史上いくらでもあります。清朝時代の中国がアヘン戦争でイギリスに敗北し、不平等な南京条約を結ばされ、莫大な賠償金と共に香港島が割譲されたというのが、日本の歴史教科書でも定番の記述であり、現在の国際法の枠組みではありえない中国にとっては屈辱的な歴史上の事件といえるかもしれません。ですが、その南京条約の漢語原文にあたってみると、敗北した清朝の中華思想が見え隠れするという研究者の指摘もあるそうです。言い換えると、遠路はるばるとやってくる英国の商船が往々にして損壊しその補修が必要であるため、それほどの困難に直面している英国商船を憐れみ、中華の皇帝が恩情を示す形で香港島を「給予」(与える)すると、読み取れるといいます。中華思想とは、もっとも徳の高い人物が天命を受けて世界の中心たる中華に君臨して世界を統治し、その周辺に生きる異民族はその中華の徳を慕い朝貢するものとされた、近代国際法とは何の関係もなく成立した世界観です。近代国際法を前提としない清朝と近代国際法で動いているイギリスとが向き合って結んだ条約のいびつさを注目してみると、現代の中国の思想・行動原理も残滓があるように思えます。
イスラムと中国について触れましたが、日本における法と権利の成立過程もたいへん興味深いものがあります。江戸時代の日本も公権力が私人を裁く刑法といった法はありましたが、そもそも権利、私権というものはなく、今でいう民事訴訟の制度もないに等しい時代でした。権利という訳語自体は中国経由で西欧から伝わりました。明治期にフランス民法典の翻訳作業のなかで「民権」という訳語を学者が試みたところ、政府関係者から「民に権があるとは何事か」と批判を受けたエピソードが残っているぐらいです。権利利益の実現と現代では軽く口にしますが、歴史的には権利を手にすることはここ日本においても随分新しいことということを意識します。

代替大会開催

高校スポーツの各種代替大会が開かれています。昨日は県高校総体ウエイトリフティング競技に代わる「2020熊本県高等学校ウエイトリフティング競技大会」が実施され、9人の3年生選手が出場しました。記録的には低調でしたが、一つの区切りにはなったかと思います。高校に連なる大学スポーツも練習や試合が制限され、競技実績の点では空白の期間が長引きそうです。この期間を利用して基礎体力を付けるのもいいでしょうし、さまざまな理論を学ぶのもいいでしょう。いずれにしても第一線の選手としての活躍期間はそう長いものではありません。スポーツ以外の世界の学習に専念することも進めます。

タレント学者と自称歴史家を野放しにできない

けさの朝日新聞読書面で、日本中世史が専門の呉座勇一氏が石井妙子著『女帝 小池百合子』の書評の最後で「職業倫理や専門性を持たないタレント学者や自称歴史家のもっともらしいヨタ話が社会的影響力を持つ様を、評者は何度も目にしてきた。私たちが対峙すべきなのは、表面的な面白さを追いかける風潮そのものなのである。」と書いていました。この記事を目にしたとき、あれやこれやと該当する手合いの名を思い浮かべました。日頃TVやSNSで見かける著名人の8割がたはこうしたヒマな方々なのではないかと思います。呉座氏が危惧する風潮に抗するためにも、こうしたタレント学者と自称歴史家を野放しにできないですし、地道に信頼できる事実の積み重ねに基づいた検証結果を広めるしかないと思います。
再三引き合いに出している、山室信一氏の著作の中には、明治期からアジア・太平洋戦争にかけての期間に、言論界や諜報活動、教育機関で活躍した熊本出身の人物たちの姿が描かれています。自らの思想や学問を広げたり、追究したりするために動く人物もいる一方で、国策に乗って動いた人物も多数いました。後者については、国の意向に沿った世論形成、軍部の手先という側面もありました。そしてそうした行動は、権力からの資金的援助もありました。結果、歴史上いろんな過ちを起こし、関係諸外国・地域と歴史認識をめぐって現代もあつれきが横たわっています。

知らずに語るのはみっともない

まだ『アジアびとの風姿』を読んでいます。主に明治期からアジア・太平洋戦争までの間に中国や台湾、朝鮮・韓国と関わりがあった、熊本出身の人々が多数登場しますが、現代と比べて当時の人々の知識と行動力の豊富さに圧倒されます。もちろん、海外と関わりのあった人々に限ってのことですから、平均的な水準をいうつもりはありませんが、近さ、結びつきの濃さを感じます。かかわりをもつ動機もさまざまで、現代の視点からみると推奨できない点もあります。しかし、一つひとつのエピソードを辿ると、現代の人々が本当に相手の事情を知って国際関係について語っているか疑問に思えてきます。もっと歴史を知るべきだと思わされます。

法制度の連鎖で見るもの

山室信一氏の著作を紐解くと、法制度の連鎖で見えてくる関係が新鮮に思えます。
まずは3年ぶりに再読した『アジアびとの風姿』の記述から興味深く感じた視点をノート代わりに列記してみます。(なお、伝えたいことを書いているわけではありません。)
中国(唐・明・清)→熊本→日本(明治新政府)→植民地
欧米→日本(明治新政府)→中国(清、中華民国)
・日清戦争直前まで東アジアにおいて大きなプレゼンスをもっていたのが、中国大陸にある国家であったのは事実。2010年に中国が日本を抜いてGDP世界2位になるまでの、日本が経済的にも軍事的にも優位に立っていると見なされた、この100年間の方が歴史的に見て稀有な時代。
・熊本藩の藩校時習館の漢学教育はたいへん優れており、とりわけ、刑法に関係する中国の唐・明・清の律などについては、長年にわたって研究が蓄積されていた。熊本藩の刑法(「御刑法草書」)は、明治になって新しい刑法(1870年=M3「新律綱領」、1873年=M6「改訂律例」)を制定するときも参考にされている。1868年=M1、明治新政府は、藩主・細川護久を刑法事務科総督に任じている。その後、フランスからボアソナードが招聘されてフランス刑法をモデルとする刑法が制定される。
・農民出身の儒者・木下業広(1860-1867年)の門下生を輩出した熊本藩は、幕末の徳川幕府側(佐幕派)の立場を選択したため、維新後の薩長土肥主流の藩閥政府では傍流。実務官僚として自らの能力を示さざるをえなかったため、法制や司法関係に進んだ人が多い。外交交渉でも重要な役割を果たした。
・木下業広の次男・木下広次(1851-1910年)は、ボアソナードにフランス法を学び、後に京都帝国大学の初代総長となっている。木下の三男・木下哲三郎もフランス法を学び、ロシア皇太子を負傷させた大津事件に大審院判事として判決にかかわった。木下の弟・木下助之は初代の熊本県議会長で、助之の孫が『夕鶴』で知られる劇作家の木下順二。
・木下業広の門下生でも卓抜だった「木門四天王」の一人、井上毅は大日本帝国憲法や教育勅語の起草にあたり、文部大臣も務めた。井上の後妻は、木下の長女・鶴子であるので、広次や哲三郎は義弟となる。
・熊本藩の儒者・岡松甕谷(1820-1895年)に漢学を学んだ中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を漢訳し、中国で刊行された(『民約訳解』、『共和原理 民約論』)。
・岡松甕谷の三男・岡松参太郎は日本における民法学創始者の一人。台湾や満洲における旧慣調査などで重要な役割を果たした。岡松の四男・匡四郎(1876-1959年)は井上毅の養嗣子となり、鉄道大臣や技術院総裁を務めた。
・「木門四天王」の一人、竹添進一郎(1842-1917年)は、勝海舟らの推挙で特命全権大使・森有礼の随員として1875年、中国に渡り、3万5千キロに及ぶ苦難の中国旅行記を漢文と漢詩でまとめた。近代日本の中国研究の嚆矢とされる。竹添が公使として朝鮮に駐在していた1884年に甲申政変が起きた。なお、竹添の次女・須磨子は木下広次の媒酌によって、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎と結婚している。
・竹添と一緒に旅行した津田静一(1852-1909年)は、18歳のときに米イエール大学に留学歴があり、外交官を辞めてからは民間主導での台湾開拓を進めた。台湾総督府をバックに台湾への植民政策の基盤を作ろうとしたのが、「木門四天王」の一人、古荘嘉門(1840-1915年)。熊本で結成された国権主義者の団体、紫溟会の趣旨を起草したのが井上毅、同会の政治部として同心学舎改めできた濟々黌の副黌長が古荘、同黌の幹事に佐々友房と津田が就いた。
・同心学舎や濟々黌で学んだ「肥後漢学の三羽烏」は、狩野直喜(1868-1947年)・古城貞吉(1866-1949年)・宇野哲人(1875-1974年)。狩野は京都大学で敦煌学を含む独自の中国学の学統の形成に貢献した。一高時代に、秋山真之や夏目漱石、正岡子規と同学だった。古城は古代から清朝時代までの中国文学を通史として史上初めて著した。中国人自身の手による中国文学史が公刊されるのは古城の著作から7年後だった。古城が中国で購入した漢籍蔵書は細川家の永青文庫などに架蔵されている。宇野は今上天皇の幼名の名付け親として知られる中国哲学者。ドイツ哲学も重ねて研究した。
・清朝統治時代から異民族統治に対する台湾における抵抗は間断なくあり、「三年小反、五年大乱」という言葉があった。日本による台湾領有から大規模な蜂起である西来庵事件(1915年=T4)までの日本軍の死傷者は1万1277人(戦死者527人、戦病死者1万236人、負傷者514人)に上る。これは日清戦争における戦病死者3258人を大きく上回る。現在の台湾には漢族のほか、16の先住民族がいる。清朝時代は約300万人の漢民族以外は、「蕃族」と呼ばれ、そのうちの農業に従事して清朝の統治に服する約10万人を「熟蕃」、山地で狩猟採取を生業として清朝に服さない約3万5千人を「生蕃」と称していた。日本統治になってから、抗日蜂起する「生蕃」を軍事力で「討伐」し「帰順」させる「理蕃事業」によって多くが殺害された。確定はできないが、死者数は約2万9千人に及ぶと言われる。
・第四代台湾総督の児玉源太郎は、武装蜂起を武力で討伐・鎮圧するコストを抑えるために、生活秩序の平穏化を図ることによって統治の安定を図ろうとし、その目的のために当時42歳の後藤新平(1857-1929年)を民政局長に抜擢した。後藤も異民族統治の要諦として、それぞれの社会に固有の文化と制度を尊重すべきと考え、24歳で民法典の解釈書を執筆した、当時京都帝国大学教授の岡松参太郎(1871-1921年)を台湾の土地と住民に関する法・生活慣習の調査の責任者に任じた。岡松はイギリス法専攻ではあったが、父・岡松甕谷の訓練を受けて幼いころから漢籍に親しみ、漢文読解にも秀でた能力をもっていた。臨時台湾旧慣調査会の調査委員には狩野直喜も加わっている。他に起草委員として岡松が民法学の将来を託した石坂音四郎(現嘉島町出身)も尽力した。立法委員として警察機関から大津麟平(現大津町出身、1865-1939年)が参加した。この調査会より『台湾私法』、『清国行政法』などが刊行され、日本における中国法制史研究、文化人類学的調査の先駆けとなった。
・日露戦争後に児玉源太郎が台湾総督を退任し、後藤新平が満鉄総裁となって台湾を離れたことによって、旧慣調査に基づく立法の方針が揺らぐこととなったが、その体験は満洲へ持ち込まれた。台湾については、日本の法制を台湾にも施行する内地法延長主義が原敬内閣の成立(1918年=T7)とともに取られた。結果的に岡松らの法案起草は陽の目を見なかった。朝鮮統治についても、「旧慣立法」を重視する石坂の提言は無視された。

特定非常災害の適用へ

令和2年7月豪雨についても特定非常災害の適用となることが本日閣議決定されたというニュースが流れていました。根拠法律は平成8年施行ですが、法適用は昨年の台風19号に続いて8件めになるそうです。たとえば、民法では相続の承認または放棄は相続開始を知ってから3カ月以内ですが、政令により適用される区域や延長される期間が決まります。平成28年熊本地震のおりは熊本県全域が適用となり、相続については発災日の同年4月14日から2年間となっていました。続報を注視したいと思います。

外交成果についての評価

引き続き放送大学テキストの『日本政治外交史』を読んでいます。私が大学時代に履修した同名の科目の時代区分としては、明治・大正・昭和戦前期まででした。幕末に不平等条約を結んで国際社会にデビューした日本が不平等条約撤廃にどう動いたか、やがて第一次世界大戦後は国際連盟常任理事国5か国に仲間入りし、「一等国」に成り上がり、道を間違えていくさまが描かれるわけです。そういうわけで戦後の外交史については、あまり取り扱われていませんでしたので、本書においてそれを振り返るのは半分は同時代に生きている実感も加わりつつ新鮮でした。以下に主だった出来事を内閣ごとに示しますが、現在の安倍内閣を含めて名前を示していない内閣については、逆にいえば歴史に残る成果があまりないといえます。2015年の戦後70年の安倍談話は、村山談話を踏襲したといいながら将来世代の謝罪の否定を盛り込んだことにより、対アジア的には日本への不信を呼び込む結果になったことが否めません。この間の日本の国際社会における存在感は経済面が主であり、米国の顔色をうかがいながらの外交というか、相手国からも米国の手下という見方をされながらの外交という側面がありました。
第3次吉田茂内閣(1949.2~1952.10)対日平和条約・日米安保条約、日華平和条約
第3次鳩山一郎内閣(1955.11~1956.12)日ソ共同宣言、日本が国際連合に加盟
第2次岸信介内閣(1958.6~1960.7)日米新安保条約
第3次池田勇人内閣(1963.12~1964.11)OECDに加盟
第1次佐藤栄作内閣(1964.11~1967.2)日韓基本条約
第2次佐藤栄作内閣(1967.2~1970.1)沖縄返還合意
第3次佐藤栄作内閣(1970.1~1972.7)沖縄返還
第1次田中角栄内閣(1972.7~1972.12)日中国交正常化
福田赳夫内閣(1976.12~1978.12)日中平和友好条約
村山富市内閣(1994.6~1996.1)戦後50年の村山談話
小渕恵三内閣(1998.7~2000.4)日韓共同宣言
第1次小泉純一郎内閣(2001.4~2003.11)日朝共同宣言

読み間違い外交の犠牲

放送大学テキストの『日本政治外交史』を読んでいます。歴代首相の政治能力について冷静な分析がなされています。天皇や軍部、国内世論との関係も興味深いところですが、情報を読み間違えたあるいは無視したときの外交ほど、国民に多大な犠牲をもたらす失敗はなく、この政治能力を備えているかどうかは、歴史的評価として重要と感じました。首相の能力次第でやらなくて済んだ戦争、払わずに済んだ犠牲、信頼を壊さずに済んだ国際関係、いくつものターニングポイントがあり、本来はそこから学ばなければならないことを、知らないままでいたり目をそらしたりと、結局バカを見るのは国民だということがよく理解できます。
一つメモを付けておきますが、近年の歴史研究では、日本が参戦した先の戦争のことを「アジア・太平洋戦争」ということが多いようです。