関輝明行政書士事務所」カテゴリーアーカイブ

憲法記念日の翌日に

昨日は憲法記念日でした。熊本でも二つの憲法集会が開かれるのを知っていましたが、どちらも耳を傾けたい学者講師は出ないようなので、足を向けることはしませんでした。天皇制の将来についても現在の憲法が示す理念を知って、たとえば皇室典範の扱いも考えたいものです。現在の相続法の考えに照らすと、男子女子ということばかりでなく、まずは配偶者への承継という考え方が出ても良さそうです。日頃、外国人の在留に係る仕事をしていると、皇族にある立場の方々は、つくづく人権が制約されていると感じます。国民よりも外国人に近い立場なのではと思うこともあります。

地元市の水問題

昨日参加した地元地区婦人会総会において、宇土市長による「宇土市の水問題について」の講演を聴講しました。江戸時代に入る前、現在の熊本市と宇土市に城が置かれたのですが、その後の発展の違いは豊富な地下水に恵まれた熊本に対して水に乏しい宇土との差からと、まずは歴史の話から始まりました。そして今も人口急増地区である当地区では水の確保は重要課題です。現在は球磨川の水を浄水した上水を引っ張ってきたのを使っています。しかし、途中の圧水するポンプ場が老朽化しています。トイレや洗濯での節水を呼びかけておられました。来年度にも水道料金値上げの議論が始まるようです。増える負担にどう対処すべきか、こういう情報ほど事前の周知が大切です。

相手方が無能な学校だったなら

地元市のいじめ防止基本方針の巻末には、重大事態発生時の対応フロー図が載っています。一見すると、もれの無い立派な図です。しかし、最初に行動すべき学校から正しい報告が教育委員会へ出ないことには、まったく機能しない問題を抱えています。へたすると虚偽の報告を出して隠蔽に走る学校があるかもしれません。人格者の集まりである教育委員会では、まず学校を疑うこともないと思います。実際、そうした事態こそが起こりえるため、いじめ事案は適切な対応がとられないまま長期化するのではと思います。相手方がたまたま無能な学校だったなら、関係者の働きかけ先はよくよく考えないといけないかもしれません。

市のいじめ防止基本方針を読んでみました

2年前に地元市が定めた「いじめ防止基本方針」が市のホームページに掲載されていたので改めて読んでみました。2年前、市立の各小中学校も市の方針に沿って自校の「いじめ防止基本方針」を定め、私の地元小学校も当時学校ホームページに掲載していました。ですが、現在は削除されて閲覧することができません。なぜなのか確認してみたいと思います。

市の方針の「はじめに」以下のことが書かれています。「いじめは,人権に関わる重大な問題であり,心豊かで安全・安心な社会をいかにしてつくるかという,学校を含めた社会全体に関わる国民的な課題である。いじめの問題に社会総がかりで対峙するため,基本的な理念や体制を整備することが必要であり,平成25年6月「いじめ防止対策推進法」(平成25年法律第71号。以下「法」という。)が成立し,同年9月に施行された。また,これを受けて,国の「いじめの防止等のための基本的な方針」(平成25年10月11日文部科学大臣決定。以下「国の基本方針」という。)が策定された。そして,平成25年12月26日には,熊本県いじめ防止基本方針(以下「県の基本方針」という。)が策定された。
この宇土市いじめ防止基本方針(以下「市の基本方針」という。)は,法第12条の規定に基づき,学校,家庭,地域その他の関係機関の連携の下,いじめの防止等(いじめの防止,いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策を総合的かつ効果的に推進するために策定するものである。」。

性別情報の必要性は

お世話をしているウェブサイトの作業をしているときに、経歴書面にある改姓年月日の表示に目が留まりました。最初それが性別欄の下にあったので、改性年月日の記入を求めるものかと、一瞬勘違いしました。改姓の情報を求めるのは、住民登録上の姓と通称で使う姓の確認のため要求しているものだと思いましたが、はたして性別の情報が会員資質や能力に影響を及ぼすとは考えられず必要性を疑問に思いました。年齢要件については、たとえば成年でないと行為能力に関わりますので、現在で言えば20歳以上かどうか確認する必要はあります。いずれにしてもなんでも根本から考えてみる必要があることは多いものだと思いました。

日本国憲法遵守は国益要件

昨日、原子力規制委員会が、テロ対策が遅れている原発を保有する電力会社からの期限延長の求めを蹴ったニュースが流れました。規制委員会の方針は、真っ当なものだと考えます。電力会社の考えは国益に反する甘い考えだと思います。仕事がら外国人の永住や帰化申請について要件や条件を確認することがあるのですが、外国人に対しては憲法その他の法令順守、納税義務などが国益要件とされます。生まれながらの日本人が憲法遵守の宣誓を求められることは、公務員等を除いてあまり機会がありませんが、日本にずっと居住したい外国人や日本国籍を取得したい外国人には、高い倫理が求められるわけです。とにかく電力会社には猛省をうながしたいものです。

無知を晒すとはこのこと

宇土市戦没者合同慰霊祭に今年も出席しました。初めて参加した昨年の来賓慰霊の辞において、県知事(代読)は「異境の地で斃れ」、県議は「異国の地で斃れ」、市議長は「国の内外において斃れた」という表現がありましたので、今年はどうなっているか、注意しながら聴きました。はたしてこの三者の今年の表現は、昨年とまったく同じでした。戦争の犠牲者を思うのであれば、戦闘員だけでなく、非戦闘員の死も抜きにしてはなりません。実際に空襲で命を落とした国民も多いですし、沖縄戦の例ひとつをとってみても、けっして戦争は異境や異国の地でしか起きなかったとは言えないはずです。その意味で、市議長の慰霊の辞の認識は正しく、慰霊祭の場において戦争の実態、歴史的事実を正しく捉えずに県知事や県議が、毎度無知な言葉を吐くのは遺族としても腹立たしい限りでした。

日本の人口と社会

これから読む本は、白波瀬佐和子編『東大塾 これからの日本の人口と社会』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)。すべての国内課題に立ち向かう政策立案は、人口の行方を知らないことには始まらないのは確実です。ここでいう人口には住民のすべての国籍や性別、年齢が含まれますから、それらの割合の変化についても考えなくてはなりません。

いやはや

東京大学の入学式では例年総長や来賓の祝辞はニュースになります。かつては難解な言葉で47分間にわたる挨拶を述べたフランス文学の大家の総長もおられました。ところが、教養学部長の式辞はその陰に隠れてほとんど取り上げられることはありません。今年はその教養学部長式辞で、以下のようなくだりがありました。「教養とは直接関係ないのですが、皆さんには社会で生きていくために必要なマナーも身につけて欲しいと思います。例えば、通学時に井の頭線の電車に乗ると思いますが、混雑時にはリュックサックを体の前で抱える、出入り口付近に立ち止まらずに車両奥に移動する、歩きスマホをしないなどのマナーを守りましょう。また、挨拶は人的交流の基本ですが、東大生はこれが苦手な人が多いようです。人とのコミュニケーションは今後とても重要になります。まずは、大学の正門で守衛さんに挨拶ができるようになってくれるとうれしく思います。」。要はフツーの人付き合い感覚を持とうということではないかと思います。私も先日、混み合う電車の中でリュックを背負いながら手にアイスシェィクを容器を持ち食べている女子高3生に遭遇しました。警告する視線を向けましたが、悪びれることもありませんでした。マナーという点では、私が属する専門職関係でも断りもなく関係者限定の集まりの模様を撮影してSNSに載せるような厄介なセンセイもおられますから、けっして他人事ではありません。いやはや、と思います。

みんな一緒をやめる

苫野一徳著『「学校」をつくり直す』を一昨日読み終えました。イエナプラン教育などの紹介もありました。おそらくというか、本書内でも指摘されていましたが、限られた現場しか知らない先生たちや教育行政の担当者たちは、著者の主張を反映するにはたいへん後ろ向きだと思います。ですから、「学校」はつくり直されず、合わない子どもたちは登校しないという被害回避行動をとるのは当然のことだと思います。しかし、つくり直されないことは、教育を受けさせる義務の放棄につながります。一家庭の当事者なら逃避が正しい選択肢になりますが、将来と地域住民の利益を考えたら誰かが声を上げ動かなくてはなりません。

命名責任を問いたい

卒業や入学の式典に招かれる機会がしばしばあるのですが、苦行ともいうべきなのが対象者の名簿を目で追いながら耳にする氏名読み上げの時間です。その漢字にはない読みを無理に当てた名前や人名にふさわしくない忌み嫌う意味を有する漢字を使った名前の子どもがあまりにも多いことに愕然とします。非常に画数が多い名前を持たされる子どもの負担にも同情を禁じえません。これは一種の虐待ではないかと考えます。そうした子どもたちが将来にわたって負う不利益を思うと、無教養な命名者の責任はたいへん大きく、罪深いと思います。せめて子どもたち自身が容易に改名できる権利を持てる仕組みが必要だと思います。

不都合を隠す方便になっていないか

昨日の朝日新聞オピニオン面は、インクルーシブ教育について取り上げていました。近くの公立学校長の口からもこの言葉が出ていて、その内実について気になっていました。インクルーシブとは、文字通り包み込むという意味の英語です。いろんな問題を抱える子どもたちを区別せずに、みんな一緒の教室で学び育てようという教育スタイルを指すものと理解されています。ですが、たとえばいじめの構造が残ったままで、加害児童も被害児童も一緒にしておいていいということにはなりません。放置しているという不都合な事実を覆い隠す方便としてインクルーシブ教育という言葉が発せられているとしたら、それは悲劇です。個々に応じた教育の中でしか子どもは学習する権利は確保できないと思います。公立学校にはそうした教育環境を提供する義務がありますが、それを提供できない環境にあるなら、保護者としてそうした学校に子どもを通わせられないというのが正直な気持ちだと思います。

「学校」をつくり直す

現在、地元の公立学校でいじめ対策が問題化していて、地域住民としてどうかかわるべきか考えながら動いています。そんなこともあって、これから苫野一徳氏の最新著『「学校」をつくり直す』(河出新書、840円+税、2019年)を手に取ろうとしているところです。公立学校における教職員や保護者、行政に問題に対処する力が不足しているとなれば、それを補完するのは地域住民の知恵と行動しかいないと思います。いじめ防止対策についていえば、当事者である教職員自体に専門的な知識も経験もないために、場当たり的な対応やヘタすると隠蔽する傾向があると思います。
苫野氏の著書を読むのは5年ぶりです。前回読んだのは、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)でした。その中で同氏は、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにあり、その原理をどうすればより実質化していくために、自由のための共通ルール「法」の設定、法の理念を実質化する「教育」、法・教育を補完する「福祉」の重要性を挙げていました。それでいえば、法の理念を実質化すべき教育の場である学校において教育を受ける権利が脅かされている事態は、非常に苦々しいことです。ここは、地域福祉の出番だと思います。

死後の心配ビジネス

このところの週刊誌は、死後の手続き解説流行りのようです。自ずと読者の年齢層が知れます。ついに私も新聞広告に釣られて週刊現代の別冊を手に入れて、読んでみることにしました。思っていたのと違う最期の悲喜劇が載っていておもしろい読み物だと思いました。どんなに当人が死後はこうしてほしいと思っていても、その考えが実現してくれる人に伝わっていないことがしばしばあるようです。なんだかんだいってもお金がかかります。親族とはいえども手前勝手な故人の意思をおいそれとは実現してくれません。どうしてもということであれば、完全履行してくれる専門家や業者を見つけてわたりをつけておくしか、手はなさそうです。

行政書士会のチラシその2

日本行政書士会連合会のマスコットキャラクター・ユキマサくんを使用したほんわかした仕上がりです。ウソではありません。

http://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2019/03/kansatsu2.pdf

ひとり広報活動

当職も委員を務める宇土市農業委員会の今月の会議が昨日開かれたおりに、委員25名の方に行政書士制度の広報をさせていただきました。不適正な代理申請を防止するために、委員の皆さんへご自宅の目につくところに広報チラシを貼付いただいたり、メガネレンズやスマホ画面拭きに熊本県行政書士会特製のマイクロファイバークロス(写真)を普段使用していただくよう配布しました。宇土市には行政書士が委員にいますよということも言ってくださいとお願いしておきました。

非行政書士排除の広報チラシ画像は明日以降4回に分けて投稿します。

寄り添うということ

本日は県議選の告示日となっています。正午現在、我が家の前にある立候補者の選挙ポスター掲示板を見ると、定員1人に対して現職1人のポスターしか貼ってなく、事前の報道通り無投票の可能性が高くなっています。無駄な経費がかからなくて良いという意見もありますが、公職として働く人の資質向上のためには、政策論争を通じた選択の機会があった方が長期的にはいいと思います。さて、そうした公職にある人が寄り添うという言葉をつかうときがありますが、そんなに簡単につかえない言葉だと思います。最近、いじめの問題や在留希望の外国人の問題と身近で接する機会があり、不利益を被る人の気持ちをくみ上げるのは難しく、それらの人を保護すべき人の思考を改めてもらうのもさらに難しいと感じています。特に保護すべき立場の方にわかってもらいたいのが、対処を誤れば当事者の生命に係るという点です。せめて代弁者になろうと思います。写真は、一昨日、甲佐町の特別養護老人ホーム前で撮った桜です。