関輝明行政書士事務所」カテゴリーアーカイブ

無知を晒すとはこのこと

宇土市戦没者合同慰霊祭に今年も出席しました。初めて参加した昨年の来賓慰霊の辞において、県知事(代読)は「異境の地で斃れ」、県議は「異国の地で斃れ」、市議長は「国の内外において斃れた」という表現がありましたので、今年はどうなっているか、注意しながら聴きました。はたしてこの三者の今年の表現は、昨年とまったく同じでした。戦争の犠牲者を思うのであれば、戦闘員だけでなく、非戦闘員の死も抜きにしてはなりません。実際に空襲で命を落とした国民も多いですし、沖縄戦の例ひとつをとってみても、けっして戦争は異境や異国の地でしか起きなかったとは言えないはずです。その意味で、市議長の慰霊の辞の認識は正しく、慰霊祭の場において戦争の実態、歴史的事実を正しく捉えずに県知事や県議が、毎度無知な言葉を吐くのは遺族としても腹立たしい限りでした。

日本の人口と社会

これから読む本は、白波瀬佐和子編『東大塾 これからの日本の人口と社会』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)。すべての国内課題に立ち向かう政策立案は、人口の行方を知らないことには始まらないのは確実です。ここでいう人口には住民のすべての国籍や性別、年齢が含まれますから、それらの割合の変化についても考えなくてはなりません。

いやはや

東京大学の入学式では例年総長や来賓の祝辞はニュースになります。かつては難解な言葉で47分間にわたる挨拶を述べたフランス文学の大家の総長もおられました。ところが、教養学部長の式辞はその陰に隠れてほとんど取り上げられることはありません。今年はその教養学部長式辞で、以下のようなくだりがありました。「教養とは直接関係ないのですが、皆さんには社会で生きていくために必要なマナーも身につけて欲しいと思います。例えば、通学時に井の頭線の電車に乗ると思いますが、混雑時にはリュックサックを体の前で抱える、出入り口付近に立ち止まらずに車両奥に移動する、歩きスマホをしないなどのマナーを守りましょう。また、挨拶は人的交流の基本ですが、東大生はこれが苦手な人が多いようです。人とのコミュニケーションは今後とても重要になります。まずは、大学の正門で守衛さんに挨拶ができるようになってくれるとうれしく思います。」。要はフツーの人付き合い感覚を持とうということではないかと思います。私も先日、混み合う電車の中でリュックを背負いながら手にアイスシェィクを容器を持ち食べている女子高3生に遭遇しました。警告する視線を向けましたが、悪びれることもありませんでした。マナーという点では、私が属する専門職関係でも断りもなく関係者限定の集まりの模様を撮影してSNSに載せるような厄介なセンセイもおられますから、けっして他人事ではありません。いやはや、と思います。

みんな一緒をやめる

苫野一徳著『「学校」をつくり直す』を一昨日読み終えました。イエナプラン教育などの紹介もありました。おそらくというか、本書内でも指摘されていましたが、限られた現場しか知らない先生たちや教育行政の担当者たちは、著者の主張を反映するにはたいへん後ろ向きだと思います。ですから、「学校」はつくり直されず、合わない子どもたちは登校しないという被害回避行動をとるのは当然のことだと思います。しかし、つくり直されないことは、教育を受けさせる義務の放棄につながります。一家庭の当事者なら逃避が正しい選択肢になりますが、将来と地域住民の利益を考えたら誰かが声を上げ動かなくてはなりません。

命名責任を問いたい

卒業や入学の式典に招かれる機会がしばしばあるのですが、苦行ともいうべきなのが対象者の名簿を目で追いながら耳にする氏名読み上げの時間です。その漢字にはない読みを無理に当てた名前や人名にふさわしくない忌み嫌う意味を有する漢字を使った名前の子どもがあまりにも多いことに愕然とします。非常に画数が多い名前を持たされる子どもの負担にも同情を禁じえません。これは一種の虐待ではないかと考えます。そうした子どもたちが将来にわたって負う不利益を思うと、無教養な命名者の責任はたいへん大きく、罪深いと思います。せめて子どもたち自身が容易に改名できる権利を持てる仕組みが必要だと思います。

不都合を隠す方便になっていないか

昨日の朝日新聞オピニオン面は、インクルーシブ教育について取り上げていました。近くの公立学校長の口からもこの言葉が出ていて、その内実について気になっていました。インクルーシブとは、文字通り包み込むという意味の英語です。いろんな問題を抱える子どもたちを区別せずに、みんな一緒の教室で学び育てようという教育スタイルを指すものと理解されています。ですが、たとえばいじめの構造が残ったままで、加害児童も被害児童も一緒にしておいていいということにはなりません。放置しているという不都合な事実を覆い隠す方便としてインクルーシブ教育という言葉が発せられているとしたら、それは悲劇です。個々に応じた教育の中でしか子どもは学習する権利は確保できないと思います。公立学校にはそうした教育環境を提供する義務がありますが、それを提供できない環境にあるなら、保護者としてそうした学校に子どもを通わせられないというのが正直な気持ちだと思います。

「学校」をつくり直す

現在、地元の公立学校でいじめ対策が問題化していて、地域住民としてどうかかわるべきか考えながら動いています。そんなこともあって、これから苫野一徳氏の最新著『「学校」をつくり直す』(河出新書、840円+税、2019年)を手に取ろうとしているところです。公立学校における教職員や保護者、行政に問題に対処する力が不足しているとなれば、それを補完するのは地域住民の知恵と行動しかいないと思います。いじめ防止対策についていえば、当事者である教職員自体に専門的な知識も経験もないために、場当たり的な対応やヘタすると隠蔽する傾向があると思います。
苫野氏の著書を読むのは5年ぶりです。前回読んだのは、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)でした。その中で同氏は、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにあり、その原理をどうすればより実質化していくために、自由のための共通ルール「法」の設定、法の理念を実質化する「教育」、法・教育を補完する「福祉」の重要性を挙げていました。それでいえば、法の理念を実質化すべき教育の場である学校において教育を受ける権利が脅かされている事態は、非常に苦々しいことです。ここは、地域福祉の出番だと思います。

死後の心配ビジネス

このところの週刊誌は、死後の手続き解説流行りのようです。自ずと読者の年齢層が知れます。ついに私も新聞広告に釣られて週刊現代の別冊を手に入れて、読んでみることにしました。思っていたのと違う最期の悲喜劇が載っていておもしろい読み物だと思いました。どんなに当人が死後はこうしてほしいと思っていても、その考えが実現してくれる人に伝わっていないことがしばしばあるようです。なんだかんだいってもお金がかかります。親族とはいえども手前勝手な故人の意思をおいそれとは実現してくれません。どうしてもということであれば、完全履行してくれる専門家や業者を見つけてわたりをつけておくしか、手はなさそうです。

行政書士会のチラシその2

日本行政書士会連合会のマスコットキャラクター・ユキマサくんを使用したほんわかした仕上がりです。ウソではありません。

http://attempt.co.jp/wp/wp-content/uploads/2019/03/kansatsu2.pdf

ひとり広報活動

当職も委員を務める宇土市農業委員会の今月の会議が昨日開かれたおりに、委員25名の方に行政書士制度の広報をさせていただきました。不適正な代理申請を防止するために、委員の皆さんへご自宅の目につくところに広報チラシを貼付いただいたり、メガネレンズやスマホ画面拭きに熊本県行政書士会特製のマイクロファイバークロス(写真)を普段使用していただくよう配布しました。宇土市には行政書士が委員にいますよということも言ってくださいとお願いしておきました。

非行政書士排除の広報チラシ画像は明日以降4回に分けて投稿します。

寄り添うということ

本日は県議選の告示日となっています。正午現在、我が家の前にある立候補者の選挙ポスター掲示板を見ると、定員1人に対して現職1人のポスターしか貼ってなく、事前の報道通り無投票の可能性が高くなっています。無駄な経費がかからなくて良いという意見もありますが、公職として働く人の資質向上のためには、政策論争を通じた選択の機会があった方が長期的にはいいと思います。さて、そうした公職にある人が寄り添うという言葉をつかうときがありますが、そんなに簡単につかえない言葉だと思います。最近、いじめの問題や在留希望の外国人の問題と身近で接する機会があり、不利益を被る人の気持ちをくみ上げるのは難しく、それらの人を保護すべき人の思考を改めてもらうのもさらに難しいと感じています。特に保護すべき立場の方にわかってもらいたいのが、対処を誤れば当事者の生命に係るという点です。せめて代弁者になろうと思います。写真は、一昨日、甲佐町の特別養護老人ホーム前で撮った桜です。

変わる成年後見

成年後見制度をめぐって、今年、最高裁が全国の家裁へ次のような通知を出しています。まず1月に後見人の選任について専門職よりも親族が望ましいと考え方が改まりました。専門職とはいってもピンキリで大した仕事もせずに報酬だけせびり取る傾向があり、不評であることを最高裁が追認したようなものです。今月には利用者が後見人に支払う報酬を利用者の財産額に応じて決めるのではなく、業務の難易度により算定するよう最高裁から全国の家裁へ通知が出されたと報じられました。実際に親族後見人を務めている立場で言えば、歓迎したい内容です。さらに、望むとするならば、利用者の多額の財産を保全する仕組みとして導入された後見制度支援信託についても専門職後見人に扱わせる必要ななく、親族後見人で十分可能だと思います。現場での硬直的な運用はどんどん見直してもらいたいと思います。この成年後見で手厚い支援が必要なのは、財産が少なく身近な親族がいない利用者です。こうした利用者の支援業務は難しく、かといって高い報酬が得られないために、しばしば専門職が手を付けたがらない対象者です。そして、こうした利用者の制度利用に現在の家裁がきめ細かく対応できているとは思えません。国も家裁ではなく市町村に任せたいと考えてはいるようですが、そうなれば一層地域の行政職員や住民の資質向上が求められます。

根も葉もある話

当社がミニトマト生産を行っていたころ、養液栽培研究会の研修でミニトマトの尻腐れ病を防ぐには、根からカルシウムを吸わせる必要があると学びました。それ以前には、別の農業技術コンサルタントから葉面散布でカルシウムを吸わせればいいと聞いていましたので、このコンサルタントは無知だということを学びました。確かに葉からもカルシウムは吸うので、葉の状態は良くなります。しかし、葉から果実へカルシウムが供給される管はありません。果皮からもカルシウムは吸いません。果実の状態を良くしたければ、根から果実へ通じる管を使ってカルシウムを与えるしか方法はありません。もっと始末の悪いことに、葉は地上から目視できますが、根は地下部にあるので根が腐っていると、効率的に養分を吸ってくれません。
こんな根も葉もある話が、身近な学校で沸き上がっています。それは、校内での子どもによる子どもへのいじめ、つまり虐待です。学校では、いじめの実態をあまり掌握せずに不登校をなくそうと努めていて空回りしています。いじめが発生しないような対策をとることもなく通学を勧めたら、当然、いじめは続きます。
県内公立学校の教職員の4割が今後10年で定年を迎えるとあって、授業を行う能力の低下が懸念されています。しかし、授業が成立する以前の問題が多いことが深刻に思います。いじめあるいは虐待を起こしてしまう子どもへの対処については、ほとんどの教職員が専門外です。問題を解決しないまま授業を行わざるを得ない状況にあるように思います。本来の務めを果たす場がなく、能力の持ち腐れになっているような気がします。行政にしても児童福祉の専門家があまりにも少なすぎます。
子どもも教職員も疲れて腐れ果てているのですが、地域は葉を見ていて根の腐れに気づいていない、そんな気がします。今、学校の果実は腐りかけています。

式辞は怖い

各種の式辞に耳を傾ける季節です。今日は、ダーウィンの名言「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」を引いて卒業生に対して「自ら変化できること」を贈る式辞を聴きました。ですが、これは怖い言葉です。一つは、往々にして変わる必要があるのは、口にした本人であることがあり、聴く側からすると、「自ら変わらなければならないのは、あんたでしょう」と突っ込みを入れられかねません。もう一つは、そもそもダーウィンはそんなことは言ってなかったそうで、後世の人による進化論の乱暴な要約に過ぎず、教訓めいた話にすり替えるのは誤りという見方があります。式辞では、このネタを使わないのが賢明だと思いました。あと同じ式のあいさつで、ご健勝を「ごけんかつ」と言う保護者代表もいました。なんともびっくりでした。

外国人のための相談会

所属団体から本年4月から来年3月にかけての外国人のための在留資格・帰化についての無料相談会の相談員割り振り表が届きました。毎月第1水曜日の午後1~4時の間、熊本市国際交流会館2階カウンターで行われます。当職は、5月8日、7月3日、9月4日の3回携わります。一口に在留資格といっても難民認定申請などは、場合によっては当事者の生命に係る問題です。気を引き締めて相談に応じたいと思います。

お手盛り感が半端ない

3月16日の地元紙に載っていた同紙主催の出版文化賞のお手盛り感が例年通り半端なくがっかりものでした。受賞作4作品中の実に3作品がグループ子会社の出版社が版元となっていました。通常、新聞社主催の出版物表彰において自社あるいはグループ会社による出版物は選考対象としないのが暗黙の了解です。それをすれば、ノーベル賞においてスェーデン王室関係者を受賞者とするようなものだからです。今回、知人の著作がノミネートされていましたが、こうした三流出版文化賞などに引っかからなくて良かったと思います。