カテゴリー別アーカイブ: エッセー

一強は堕落する

中国の政治状況を見ると、一党独裁であるばかりか、トップへの権力集中、つまり一強体制が目立つようになり、日本国内の政治情勢と似通ってきた感じがあります。日中両国の指導者の器も国力と反比例して小粒になってきた感があります。保身が最大の関心事となり、堕落していくのではないかと思います。

公正に対する信頼があるか

最高裁判所裁判官の国民審査が今行われています。この審査も主権者である国民にとって重要な権利行使の機会です。裁判官なんて見たこともない、ましてや判決文なんて読んだこともないのが大半の人だと思います。投票所で国民審査なんてできないと職員に言いがかりをつける有権者を見かけたことが何度もありますが、それは自分が何も考えを持たない権力者に言いなりの人間だと公言しているのと同じで、本人はうっぷん晴らしで満足でしょうが、傍から見ればみっともない限りです。一つ簡単な裁判官の見極め方は、一票の格差が大きな選挙の効力を問う裁判で違憲無効の判断をしているかどうかにあります。まっとうではない選挙の結果で生まれた政権も、その内閣が任命した裁判官もこれまた不公正のかたまりです。自分たちの選ばれ方が公正でないという良心があるなら違憲無効の判断を行うのが正しい裁判官です。残念ながら今度の対象者にそうした裁判官はいないようです。

福祉人材の待遇改善を

介護現場については私にとってたいへん身近な存在になっています。そのサービスが利用しやすく快適に機能していないと、その利用世帯にとってはさまざまな負担が発生します。家計だけでなく、利用者家族本人の時間が割かれてしまうのです。福祉サービスが盛んなことは、地域の経済を支える意味でも重要です。そのためにも福祉サービスに携わる人材の待遇改善が求められると思います。

楽しい定例会

きょうは月に一度の民生委員・児童委員の定例会でした。さまざまな事業の協議が中心になりますが、委員から笑顔が出るなかなか楽しい時間でした。事業の目的や効果を考えて動くとなると、一方的な負担感ではなく当事者の主体性が出ます。いろんな意見が出てより優れた事業となります。来月はこのメンバーで旅行することも決まりました。写真は阿蘇・立野地区。

被災地訪問

一昨日は熊本地震被災地を一巡しました。写真は益城町の木山神宮というところです。社殿の屋根が10mほど前のめりに倒れてつぶれたそうです。まずは住宅の建設が優先ですから、こうした建造物の再建には期間がかかりそうです。

花園地区秋季体育祭

地元小学校区の住民は約1万人。その校区内に16の行政区のチームがあり、それらが体育祭の成績を競い、終了後の打ち上げを楽しみに例年繰り広げられています。今年も天気が良すぎです。無理のない範囲で楽しんでほしいと思います。写真は開会式での市長あいさつの模様。

今の年齢で読めば違ったかも

昨日のトップニュースは、長崎生まれのイギリス人作家、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞でした。同氏の作品は2冊書棚にあり、1990年頃に読んだ記憶があります。正直なところ、20代終わりの時期の私にとっては盛り上がりを欠く退屈な本でした。以来、同氏の作品を手に取ることはなかったわけですが、今の年齢で読めば違った印象をもったのかもしれません。それと、作家も当時30代だったのが、作風の老成感からして今にして思えば驚きです。
文学の力という点で、いくらか矛先は異なりますが、1964年にノーベル文学賞に選ばれながら受賞を辞退した、フランスの作家・哲学者、ジャン₌ポール・サルトルは、かつて自分の代表作『嘔吐』を回顧しながら、「文学は現実に餓死する子どもを救うことができないのだから役に立たない」と語っています。読者の立場からすると、文学作品を役に立つから読むという人は、まれですから、サルトルの言葉はその通りだとも言えますし、見方を変えればサルトルがそういう発言をするから読者は注目し、文学に何かを動かす望みを見つけようという気持ちにもなるかもしれないと思います。
石牟礼道子作品と水俣病被害者支援運動もそうですが、読み手と書き手の双方の資質が、言葉の力をどうにでも変えるという気がします。もっともっと凄い作家が生まれてくることを期待します。

不公正という国難

政党の離合集散に注目が集まっていますが、解散を決めた方は、国難突破のためといっていました。国難にはいろいろあるでしょうが、行政運営が不公正であれば、それは大きな国難という気がします。権力者の意向で行政事務のあり方が歪められたり、業務遂行の検証材料となる文書記録が勝手に廃棄されたりしているのは、まっとうな国の組織とは言えません。問われるべき国難はモリだくさんあるようですし、その判断をカケてもらいたいものです。

選出方法は見直しを

現行の国政選挙の制度については、1票の価値の平等性確保と実態に合った民意の議席数への反映という観点から相当の不備があります。有権者の立場で言えば、自分の選挙区に必ずしも自分が国会議員としてふさわしい政策や見識をもった立候補者がいないことがありえます。国会議員なのだから都道府県民や市町村民の選良ではなく、国民の代表という考えに立てば、もっとも望ましいのはブロック単位の比例代表制がもっとも望ましいと思います。一人であっても一人会派として立候補できる道があってもいいのではないでしょうか。定数是正や区割り変更の頻度も少なくて済むメリットがあります。現行制度を所与のものとして重要争点から落とすのではなく、主権者の権利の根幹にかかわる課題として真剣に取り上げる候補者があっても良さそうだと思います。でなければ、選良の正統性が問われます。

専門的知性と市民的知性の往復

石井洋二郎・藤垣裕子著『大人になるためのリベラルアーツ 思考演習12題』(東京大学出版会、2900円+税、2016年)のP.280に「専門的知性と市民的知性の往復」が必要な理由と内容として、以下のように記されています。「専門知は、現時点でなにが確実に言え、なにが確実に言えないのか、その限界を正確につたえられるものでなくてはならない。同時に、現場にいる人の不安の中で、問題をさらに聴き直し、別の専門家と共同できるものである必要がある。このとき、高い共感性をもって市民的知性によりそうことと、距離をとって観察することとのあいだには、さまざまな距離感が設定できる。」。ここでいう専門知とは、学者を指していますが、他の専門職、たとえば政治家であるとか、行政書士であるとか、WEBプランナーであるとかにも言えそうです。信頼できる専門家かどうかの判断をつけるには、上記の回答ができているかどうか、つまり応答責任を果たしているかどうかという視点から、市民はいろいろ聴いてみるべきです。