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いじめと探偵

昨夜のロアッソ熊本のJ3公式戦4連勝を速報観戦して気分が良かったところに視聴した、NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” 第1回  いじめと探偵 ~行き場を失った“助けて”~」は、あまりにも衝撃的でした。学校や教育委員会へ声を上げても取り合ってくれないという現実を確信しました。いじめに苦しむ子どもたちの中には自ら命を絶つ悲劇も続いています。これは何とかしなければならない深刻な安全保障問題なのではないかと思います。近隣国の脅威を煽り米国の軍需産業から欠陥品を爆買いする前に自国民の子どもを多数見殺しにしておいていいのか怒りが湧いてきます。番組に出ていた探偵社では、いじめ調査については基本無償で行っておられるということで、その行動力には頭が下がりました。亡くなられた子どもの命は取り返しができませんが、今も進行中のいじめはあると思います。それをどう止めて救っていくのか、番組で紹介していた行動手法については、たいへん参考になりました。

新規開拓

あまりグルメ情報の投稿が少ないのは、新たな出会いが少ない過ごし方をしていたからです。この春に子育てがひと段落したので、徐々に新規開拓をしたいと思っています。今月初めて行った店は、インド料理の店が一つ。高速道路の松橋インター近くのカレー店で「サンジ」といいます。県内に4店舗あるようです。次に、甲佐町にある蕎麦屋で「柳屋」。正統的な日本蕎麦の店です。いずれもその店の存在は以前から知っていましたが、店先を通る用事があっても、営業日時が合わないか、駐車スペースが一杯で見合わせていました。それと、子育て中の外食は家族全員の都合の良し悪しもあります。夫婦二人ならいくらか機会は増えます。そのため、その日の思い付きで行動できる余裕も出てきたようです。思い付きと言えば、昨日は急にプリンターの不具合が生じ、大量の印刷があったので、家電量販店でプリンターを購入してきました。インクの型番が同じという理由で買ってきたのはいいのですが、それまでの機種に備わっていたある機能が買い求めた機種にはないことにけさになって気が付き、廃棄予定の前のプリンターの一部機能だけ復活させるはめになりました。昨日から本日にかけてバタバタと事務処理をこなしているところへ、何度も同窓会関係の電話が入りあからさまに不機嫌な対応をしてしまいました。まだまだ人間ができていません。

令和元年度支部総会の開催日決定のお知らせ

公営住宅の活かし方

私の居住地域の近くに公営住宅主体の地域があります。地震の後に建てられた仮設団地がそのまま公営住宅となったり、最初から災害公営住宅として建てられた公営住宅もあります。入居者のほとんどが自宅再建が困難な高齢者世帯とあって、避難行動要支援者登録の世帯も急増しました。高齢者率が高い地域であるため、民生委員のなり手がなく、市内で唯一の委員欠員地区となっています。そのため、隣接地区の担当である私が見守りのお手伝いをしています。校区全体では現役世代が比較的多いため、地区によっては自治運営の担い手がいますが、支援を要する高齢者ばかりの地区では緊急時の対応が心配です。現役世代の居住が進む魅力ある公営住宅に生まれ変わらせないと、座して死を待つ地区となりかねない危機感があります。公営住宅といった場合、現役世代に好まれる間取りや設備への改修が必要ですが、入居条件の見直しも必要だと思います。入居基準を定めてきたのは公営住宅法ですが、地方分権改革によって多くの基準を自治体の条例にゆだねることができるようになってきています。たとえば、同居親族要件については、事実婚や同性婚世帯の入居も配慮できるようにするとか、あるいはシングルマザー(ファザー)や外国人住民にとってのバリアフリーな地域支援とセットにするとか、地区を生き生きとする施策はいろいろ考えられる気がします。

学校ムラの闇

今の原子力規制委員会の前身は、東日本大震災前の原子力安全委員会です。今にしてみればどの口が安全というかということになるでしょう。新藤宗幸著『行政責任を考える』に出てくる原子力安全委員会と原発保有の電力業界との関係、いわゆる原子力ムラについて知ると、本日傍聴の機会を得た教育委員会と学校との関係に似通っていて、学校ムラの闇を垣間見た思いがしました。教育委員の経歴を見るとほとんどが小中学校長を最後に退職された元教員の方々でした。確かに学校運営には高い見識は持っておられるとは思います。そのため、平時の対応の判断は問題ないのですが、学校での不始末が発生した時に法令等に則った厳正な判断が下せるのか、少し懸念を覚えました。たとえば、市のいじめ防止対策基本方針では、各学校でもその学校版の方針を策定し、それを学校のホームページに掲載して広く保護者や地域に啓発するよう定められています。ところが、ある学校では、その学校版方針を策定当時は掲載していたのに、この連休中まで市の方針に反して長らく削除していました。連休明けに教育委員会側へ指摘すると、掲載が復活しました。この市の方針や学校版の方針の策定については、さらに笑えない話があります。その市の方針案をまとめたのは、当時の教育委員会において指導主事だった職員なのですが、その職員は現在、学校版の方針を学校ホームページから削除していた当の学校長なのです。つまり、自ら策定に係わった方針を自ら蔑ろにするという芸当をやってのけたのです。あるいは、そうした方針案については、もともと県からモデル文が授けられていて、自治体名や学校名だけ差し替えれば完成する代物なのかもしれないと考えています。

不作為の取繕い能力だけは認めよう

今読んでいる行政学者の新藤宗幸著『行政責任を考える』で出てきた言葉で、すぅと胸裏に刺さったのは「不作為の取繕い」という表現でした。地方自治体の公務員にもありがちなことで、自治体の例規集を眺めると、ずいぶん立派な文書が備わっています。ですが、その多くは、県やさらには国からもたらされたモデル文をだいたい引き写したものであって、魂が入っていません。法令等を遵守しなければならない当事者自身が日頃その存在さえ意識せず、法令等に沿った行政運営を行っていないことが多いのではないかと感じます。たとえば、学校においていじめや事故が起きても定められた方針に沿って職務を行う能力が、学校長等らには備わっていないように思います。公立学校であれば、市の教育委員会に実務担当者として学校教育課長や指導主事がいますが、前者は学校長は県教職員採用なのに対して市事務職員採用なので学校のことは専門外として深入りを避けますし、後者は学校長より後輩の教職員が就いているので身内の先輩へ物申すのは遠慮が働くと思います。関係者それぞれが問題が表面化しないよう報告も行わず問い質しもせず、やり過ごそうという流れになるのは自然なことです。結局、不作為の取繕いだけが行われ、問題解決は先延ばされたり、握り潰されるのではないかと思います。しかし、公の使命は良い環境の中で子どもを教育することではないのでしょうか。不作為の取繕いに満ちた環境の中で道徳が教科として教えられている学校は、嗤うしかないほど不道徳な世界だと思えます。

責任の問い方

養液栽培による農業事業を行っていたころ、原発プラントと同じような問題を抱えていると思いました。農業の場合、生産性を高めるためにまず技術的な成功を追い求めがちです。しかし、どうしても肥料の排液が出てしまいます。冬場のハウスであれば、暖房による温度や湿度管理、果ては二酸化炭素濃度も考えなければなりません。技術的に正しいことを突き詰めれば、経費は天井知らずに上昇します。そうなると、経営的には採算が合わないことになるので、技術的にはここまでしたいということが分かっていてもあえてセーブすることをします。それと、排液はそのまま農業用水路へ流しますから、当然水質を変化させます。環境への影響はつきものです。もしも循環処理するとなると、その設備のためにさらに経営を圧迫します。原発もそうです。技術的に管理を極めれば環境への危険性は低くなるでしょうが、採算のとれる電源ではなくなり、経営的に成り立たなくなるから、どうしても管理にはある程度の線を引くという対応になってしまいます。公害病の原因企業も似たような対応を図ってきました。
このように、事業を例にとると、技術、経営、環境の3つのバランスの取り方が重要です。それぞれのマイナス部分の内容次第では事業自体が成り立たないことがあるかもしれません。
もうひとつ考えたいのは、何か問題が発生した時に、それに対処する人が、いろんな部分への影響を多面的に考えられるかが問われると思います。問題解決能力のある人には、そうした多面的な見方ができ、そうでない人は一面的な見方しかできないという気がします。問題解決能力のない人への責任を問わなければならないとき、一面的に問うのではなく、多面的に問う必要があるかもしれません。

肥前陶磁の美

10連休の最終日、八代市立博物館未来の森ミュージアムで開催中の展覧会「肥前陶磁の美」を鑑賞してきました。展示品は、私も過去2度訪れたことのある佐賀県立九州陶磁文化館の所蔵品となっていて、唐津焼、有田焼、鍋島藩窯および長崎の諸窯の名品ばかりで、贅沢な時間を堪能できました。これらの陶磁文化の歴史をさかのぼると、朝鮮半島出身の陶工たちの高い技術力に負うところが大きいです。色絵磁器の有田焼については、遠くヨーロッパに盛んに輸出されました。渡来人に学び産業力を高める歴史は現在にも通用する手法だと思います。このところの騒動のタネとなった新元号も国書由来と強調するのはバカらしいことで、中国古典が下敷きにあることは否定できません。もっと言えば元号制度そのものが中国の王朝の模倣であるのは否定できないと思います。それを認めないというのは、よほど歴史を知らないか知ろうとしない人であって、そうした人の言説は信用ならないものと見極められる簡単な指標だと思います。

願ってやみません

4月30日に行われた「退位礼正殿の儀」のライブ中継を視聴したときに、国民代表の辞の一節で「あれっ」と感じていたのですが、その後の情報で次のような言い間違いがあったことが確認されています。国民を代表するその方は退位する天皇に向かって、「末長くお健やかであられますことを願って…」でいったん中断して、「あらせられますことを願っていません」と言っていました。原稿に「願って已みません」とあって「已」の字を「い」と読み間違った、つまり読み方を知らなかったのではという見立ても出ています。いずれにしても信頼と敬愛を受けてきた国民の代表がこのレベルではがっかりです。
さて、連休明けに読む本は、新藤宗幸著『行政責任を考える』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)です。国民(住民)の行政への向き合い方を考えてみたいと思ったからです。
こどもの日でもあるけさの朝日新聞は「繰り返される 学校での事故」として、学校内で死亡事故が起きても詳細な報告が文部科学省に上がってくるのは1割に過ぎないと報じていました。裏を返せば、いかに学校や教育委員会が国民(住民)を守ることに希薄で、学ぶことをしないかということを物語っています。対応方針は定めてあってもまず学校で動かなければ、情報は上がってきませんし、教育委員会が先取りして動くことはありません。指導主事クラスは学校長クラスより後輩であることが多く、好き好んで先輩に指導することは考えられません。
最近、地元の学校でいじめ問題への対応をめぐり、上記の報道と似通った行政組織の構造に接して、国民(住民)が声を上げ続けない限り問題は黙殺されかねないという思いを抱いています。

憲法記念日の翌日に

昨日は憲法記念日でした。熊本でも二つの憲法集会が開かれるのを知っていましたが、どちらも耳を傾けたい学者講師は出ないようなので、足を向けることはしませんでした。天皇制の将来についても現在の憲法が示す理念を知って、たとえば皇室典範の扱いも考えたいものです。現在の相続法の考えに照らすと、男子女子ということばかりでなく、まずは配偶者への承継という考え方が出ても良さそうです。日頃、外国人の在留に係る仕事をしていると、皇族にある立場の方々は、つくづく人権が制約されていると感じます。国民よりも外国人に近い立場なのではと思うこともあります。

地元市の水問題

昨日参加した地元地区婦人会総会において、宇土市長による「宇土市の水問題について」の講演を聴講しました。江戸時代に入る前、現在の熊本市と宇土市に城が置かれたのですが、その後の発展の違いは豊富な地下水に恵まれた熊本に対して水に乏しい宇土との差からと、まずは歴史の話から始まりました。そして今も人口急増地区である当地区では水の確保は重要課題です。現在は球磨川の水を浄水した上水を引っ張ってきたのを使っています。しかし、途中の圧水するポンプ場が老朽化しています。トイレや洗濯での節水を呼びかけておられました。来年度にも水道料金値上げの議論が始まるようです。増える負担にどう対処すべきか、こういう情報ほど事前の周知が大切です。

相手方が無能な学校だったなら

地元市のいじめ防止基本方針の巻末には、重大事態発生時の対応フロー図が載っています。一見すると、もれの無い立派な図です。しかし、最初に行動すべき学校から正しい報告が教育委員会へ出ないことには、まったく機能しない問題を抱えています。へたすると虚偽の報告を出して隠蔽に走る学校があるかもしれません。人格者の集まりである教育委員会では、まず学校を疑うこともないと思います。実際、そうした事態こそが起こりえるため、いじめ事案は適切な対応がとられないまま長期化するのではと思います。相手方がたまたま無能な学校だったなら、関係者の働きかけ先はよくよく考えないといけないかもしれません。

市のいじめ防止基本方針を読んでみました

2年前に地元市が定めた「いじめ防止基本方針」が市のホームページに掲載されていたので改めて読んでみました。2年前、市立の各小中学校も市の方針に沿って自校の「いじめ防止基本方針」を定め、私の地元小学校も当時学校ホームページに掲載していました。ですが、現在は削除されて閲覧することができません。なぜなのか確認してみたいと思います。

市の方針の「はじめに」以下のことが書かれています。「いじめは,人権に関わる重大な問題であり,心豊かで安全・安心な社会をいかにしてつくるかという,学校を含めた社会全体に関わる国民的な課題である。いじめの問題に社会総がかりで対峙するため,基本的な理念や体制を整備することが必要であり,平成25年6月「いじめ防止対策推進法」(平成25年法律第71号。以下「法」という。)が成立し,同年9月に施行された。また,これを受けて,国の「いじめの防止等のための基本的な方針」(平成25年10月11日文部科学大臣決定。以下「国の基本方針」という。)が策定された。そして,平成25年12月26日には,熊本県いじめ防止基本方針(以下「県の基本方針」という。)が策定された。
この宇土市いじめ防止基本方針(以下「市の基本方針」という。)は,法第12条の規定に基づき,学校,家庭,地域その他の関係機関の連携の下,いじめの防止等(いじめの防止,いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策を総合的かつ効果的に推進するために策定するものである。」。

性別情報の必要性は

お世話をしているウェブサイトの作業をしているときに、経歴書面にある改姓年月日の表示に目が留まりました。最初それが性別欄の下にあったので、改性年月日の記入を求めるものかと、一瞬勘違いしました。改姓の情報を求めるのは、住民登録上の姓と通称で使う姓の確認のため要求しているものだと思いましたが、はたして性別の情報が会員資質や能力に影響を及ぼすとは考えられず必要性を疑問に思いました。年齢要件については、たとえば成年でないと行為能力に関わりますので、現在で言えば20歳以上かどうか確認する必要はあります。いずれにしてもなんでも根本から考えてみる必要があることは多いものだと思いました。

日本国憲法遵守は国益要件

昨日、原子力規制委員会が、テロ対策が遅れている原発を保有する電力会社からの期限延長の求めを蹴ったニュースが流れました。規制委員会の方針は、真っ当なものだと考えます。電力会社の考えは国益に反する甘い考えだと思います。仕事がら外国人の永住や帰化申請について要件や条件を確認することがあるのですが、外国人に対しては憲法その他の法令順守、納税義務などが国益要件とされます。生まれながらの日本人が憲法遵守の宣誓を求められることは、公務員等を除いてあまり機会がありませんが、日本にずっと居住したい外国人や日本国籍を取得したい外国人には、高い倫理が求められるわけです。とにかく電力会社には猛省をうながしたいものです。

無知を晒すとはこのこと

宇土市戦没者合同慰霊祭に今年も出席しました。初めて参加した昨年の来賓慰霊の辞において、県知事(代読)は「異境の地で斃れ」、県議は「異国の地で斃れ」、市議長は「国の内外において斃れた」という表現がありましたので、今年はどうなっているか、注意しながら聴きました。はたしてこの三者の今年の表現は、昨年とまったく同じでした。戦争の犠牲者を思うのであれば、戦闘員だけでなく、非戦闘員の死も抜きにしてはなりません。実際に空襲で命を落とした国民も多いですし、沖縄戦の例ひとつをとってみても、けっして戦争は異境や異国の地でしか起きなかったとは言えないはずです。その意味で、市議長の慰霊の辞の認識は正しく、慰霊祭の場において戦争の実態、歴史的事実を正しく捉えずに県知事や県議が、毎度無知な言葉を吐くのは遺族としても腹立たしい限りでした。

日本の人口と社会

これから読む本は、白波瀬佐和子編『東大塾 これからの日本の人口と社会』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)。すべての国内課題に立ち向かう政策立案は、人口の行方を知らないことには始まらないのは確実です。ここでいう人口には住民のすべての国籍や性別、年齢が含まれますから、それらの割合の変化についても考えなくてはなりません。

いやはや

東京大学の入学式では例年総長や来賓の祝辞はニュースになります。かつては難解な言葉で47分間にわたる挨拶を述べたフランス文学の大家の総長もおられました。ところが、教養学部長の式辞はその陰に隠れてほとんど取り上げられることはありません。今年はその教養学部長式辞で、以下のようなくだりがありました。「教養とは直接関係ないのですが、皆さんには社会で生きていくために必要なマナーも身につけて欲しいと思います。例えば、通学時に井の頭線の電車に乗ると思いますが、混雑時にはリュックサックを体の前で抱える、出入り口付近に立ち止まらずに車両奥に移動する、歩きスマホをしないなどのマナーを守りましょう。また、挨拶は人的交流の基本ですが、東大生はこれが苦手な人が多いようです。人とのコミュニケーションは今後とても重要になります。まずは、大学の正門で守衛さんに挨拶ができるようになってくれるとうれしく思います。」。要はフツーの人付き合い感覚を持とうということではないかと思います。私も先日、混み合う電車の中でリュックを背負いながら手にアイスシェィクを容器を持ち食べている女子高3生に遭遇しました。警告する視線を向けましたが、悪びれることもありませんでした。マナーという点では、私が属する専門職関係でも断りもなく関係者限定の集まりの模様を撮影してSNSに載せるような厄介なセンセイもおられますから、けっして他人事ではありません。いやはや、と思います。

みんな一緒をやめる

苫野一徳著『「学校」をつくり直す』を一昨日読み終えました。イエナプラン教育などの紹介もありました。おそらくというか、本書内でも指摘されていましたが、限られた現場しか知らない先生たちや教育行政の担当者たちは、著者の主張を反映するにはたいへん後ろ向きだと思います。ですから、「学校」はつくり直されず、合わない子どもたちは登校しないという被害回避行動をとるのは当然のことだと思います。しかし、つくり直されないことは、教育を受けさせる義務の放棄につながります。一家庭の当事者なら逃避が正しい選択肢になりますが、将来と地域住民の利益を考えたら誰かが声を上げ動かなくてはなりません。

命名責任を問いたい

卒業や入学の式典に招かれる機会がしばしばあるのですが、苦行ともいうべきなのが対象者の名簿を目で追いながら耳にする氏名読み上げの時間です。その漢字にはない読みを無理に当てた名前や人名にふさわしくない忌み嫌う意味を有する漢字を使った名前の子どもがあまりにも多いことに愕然とします。非常に画数が多い名前を持たされる子どもの負担にも同情を禁じえません。これは一種の虐待ではないかと考えます。そうした子どもたちが将来にわたって負う不利益を思うと、無教養な命名者の責任はたいへん大きく、罪深いと思います。せめて子どもたち自身が容易に改名できる権利を持てる仕組みが必要だと思います。

不都合を隠す方便になっていないか

昨日の朝日新聞オピニオン面は、インクルーシブ教育について取り上げていました。近くの公立学校長の口からもこの言葉が出ていて、その内実について気になっていました。インクルーシブとは、文字通り包み込むという意味の英語です。いろんな問題を抱える子どもたちを区別せずに、みんな一緒の教室で学び育てようという教育スタイルを指すものと理解されています。ですが、たとえばいじめの構造が残ったままで、加害児童も被害児童も一緒にしておいていいということにはなりません。放置しているという不都合な事実を覆い隠す方便としてインクルーシブ教育という言葉が発せられているとしたら、それは悲劇です。個々に応じた教育の中でしか子どもは学習する権利は確保できないと思います。公立学校にはそうした教育環境を提供する義務がありますが、それを提供できない環境にあるなら、保護者としてそうした学校に子どもを通わせられないというのが正直な気持ちだと思います。