カテゴリー別アーカイブ: 政治

死刑囚やIS戦闘員の死から見えるもの

昨日、大阪拘置所と広島拘置所において2人の死刑が執行されたという報道がありました。それとは関係ありませんが、遠く離れたイラクやシリアではIS支配地域の奪還の戦闘が行われ、IS戦闘員の死者が多数出ています。今回の死刑囚にしても、IS戦闘員にしても、自身が手を染めた犯罪は重く、殺された側からすれば殺し足りない存在だったかと思います。生かしていても更生が期待できないかもしれません。しかし、なぜそういう罪を犯すような人間になってしまったのか、そこをよく知りたいと思います。IS支配地域では住民の子どもが洗脳させられ、戦闘員に仕立てられた、より大きな犯罪もあります。死に至った者たち一人ひとりの生い立ちを辿ることで、死刑やテロ防止を考えることが必要だと思います。
これも昨日の朝日新聞に載っていた座談会記事で、早稲田大学教授の長谷部恭男氏が以下の発言をしていました。「ネット上のニュースサイトを見ても、伝統的なメディアのニュースを拾っていることが多い。ただ、伝統的メディアへの接触度が落ちていることは確かだ。ネット上のメディアでは、各自の好みに応じた情報環境になる。好みの同じ仲間と一緒に意見交換しながら、生きていくことができる。そういう情報は、真実である必要はない。特定の傾向を持つ人を集め、周りから隔離してしまうと、最初もっていた傾向がどんどん極端な方向に昂進してしまう現象がネット上では発生しやすい。このような現象は正の側面ももちろん持っているが、悪い方向に働くこともある。」。つまり、情報の真偽が判断できない国民の存在によって、極端にいえば、悲惨な犯罪が発生する危険が大きいということになります。それを思えば、ムスリムの入国を心配する前に、自国民やメディアの資質の向上を考えよということになります。

物を言う相手と問題を考えたい

今月は源泉所得税国庫納付や固定資産税(市)納付を行いました。国税庁長官人事の報道を見ると、払込の際に愚痴を言いたくなりますが、それは見当違いなので止めておきます。言うのであれば、政府に対してです。国政選挙も重要な行動の機会ですが、新しい政権の受け皿となる勢力の資質も問われています。野党党首の戸籍開示騒動にうつつを抜かしている場合ではありません。

こんな法律の施行に負けられない

7月11日の朝日新聞紙上で共謀罪施行にあたって作家・高村薫さんが、「なぜ、こんな法律が通るんだと開いた口がふさがりません。」「日本は誰もまともに説明できないような法律が成立する国になってしまったということです。」と述べていました。私も同じ思いを抱いています。中身はこれまでの刑事司法の原則を無視した極めて出来の悪い法律であることがさんざん問題視されていましたが、それについてまともに向き合う能力のない勢力の数だけで押し切られました。実際に審議の中身でなく審議時間の経過だけが目安で立法府が動いただらしなさがありました。このことは、法律のプロ、政治のプロの劣化がはなはだしいことを意味します。もちろん、いい法律でいい社会が作れるとは限りませんが、絶対的に言えるのは悪い法律では確実に息苦しい社会となるということです。

土壇場での引き分け

昨夜のロアッソ熊本の水戸戦の展開は、前半を1点先制で安心していたところに、後半に逆転を食い、まさに終了間際に同点に追いついてなんとか勝ち点1を奪う展開となりました。現地ではハラハラドキドキだったかと察します。しかし、ここは敗けないことが肝要です。
さて、国連では核兵器禁止条約が採択され、核兵器が違法な存在となりました。交渉に参加しなかった日本政府の姿勢には大いに疑問が残りますが、これは国民がそうした自国政府を変えていくしかありません。

拉致被害者への冒涜

『拉致と日本人』の共著者・蓮池透氏の発言で感じるのは、拉致被害者の救出をおざなりにして、偏狭なナショナリズム高揚に便乗したり、権力へのすり寄りの手段に使おうとしたりする浅ましい連中のあぶりだしです。事実、透氏の行動の源は怒りだといいます。「自国の政府の不作為や不条理に対する憤りは、弟の帰ってきた今も、まだ収まりません。」(P.140)と語っています。「拉致という行為が許されないのは、一人ひとりの人生や生命をないがしろにする犯罪だからですよね。拉致問題を口実にしてナショナリズムを盛り上げようとするのは、その意味で二重三重におかしいと思います。」(P.143)とも語っています。
特に帰国が果たせた拉致被害者自身が知っていることを表に出せない点があります。それを出せば、残っている被害者の生命を危うくさせるからです。あろうことか透氏を工作員呼ばわりする大バカ者まで現れる始末です。
このように大きな犯罪が起こったときに本質を見誤ったりそれを自己の権益に利用したりする者が必ず現れるという思いがします。たとえば、水俣病事件においては被害の研究において多くの医学研究者が博士号を取得しましたが、患者救済に動いてくれた人はほんの一握りです。東京電力の旧経営陣も福島第一原発事故についてお詫びすると言いながら、事故を防止する手立てをとらなかったことには責任がないと述べています。甲状腺がんになった多くの子どもたちの存在をなんとも思っていないのではと感じます。
被害者を冒涜する犯罪の発生はことあるごとに告発する必要を覚えます。

無知は犯罪である

『拉致と日本人』を読んでいますが、共著者の辛淑玉さんの目線には教えられる点が多くあります。2年前に来熊されたおりの講演会は残念ながら所用と重なり聴講できなかったのですが、もしも聴けていたらもっと早くヘイトスピーチを繰り返す連中の無知さに気付けたと思いました。一例を上げると、現在、特別永住者となっている在日朝鮮人の人たちを北朝鮮籍という思い込んでいるとしたら、それはとんでもなく歴史を知らないということを表しています。日本が敗戦を迎えたときに朝鮮半島出身者は日本国民だったのにもかかわらず、勅令で無国籍の外国人に変えられました。しかも当時は、北朝鮮も韓国もありません。ところが、在日朝鮮人に対して見当はずれのヘイトスピーチを行う少なからずの人たちは、朝鮮出身=北朝鮮国籍と思い込んでいるようです。ちなみに韓国籍は日韓条約が結ばれた後に選び取ることができたので、敗戦から20年ほど経ってからの話です。もっとも北朝鮮には、もともとの国民もいますが、さまざまな事情でそこに住んでいる日本人も少なからずいます。それらの人の存在も念頭に置いた対話の努力が何よりも必要だと思います。

こんな人から見たそんな人たちの資質

都議選の運動最終日に秋葉原で、自分を批判する街頭の声に「こんな人たちには負けられない」と叫んでいた人の映像がありましたが、その人が率いる人たちの資質は、政治に携わる者としてどうしようもなく欠けていました。たとえば、首相の立場でありながら、自分は立法府の責任者といってみたり、子分の防衛大臣が自衛隊法・公職選挙法・国家公務員法・憲法の違法行為を既遂していながら自覚がなかったり、某学校法人の利害関係者でありながら、その法人に利益を供与したり、献金を受けたりといったことがありました。法律や統治の仕組みを知らないで、権力を行使しようというのですから、これほど危険なことはありません。これほど無能な、そんな人たちをこれ以上野放しにはしておけないという判断が、都民にはあったのだろうと思います。もちろん、急ごしらえの都議会第一党の面々の資質もこれから問うていかれなくてはなりません。
写真は記事とは関係ないこんな人たちです。

竹槍事件とミサイル広報

本日の熊本日日新聞の「読者ひろば」欄で、私の投稿「竹槍事件とミサイル広報」が取り上げられています。民放テレビ局にしても新聞社にしても政府広報で得られる広告収入はバカになりませんので、その広報の中身を糺すのには及び腰になってしまいます。かつて東電福島第一原発事故以前は、原発安全神話のために相当量の広告が出稿していました。それはそれとしてジャーナリストの使命は何なのか、いかに商業メディアの中にあってもその役割を自覚している担い手がいてくれるよう受け手も応えていきたいものです。写真はネタ本です。

次に読む本は『拉致と日本人』

これから読む本は、蓮池透・辛淑玉著『拉致と日本人』(岩波書店、1700円+税、2017年) です。両著者の本は初めてですが、これまでの新聞取材等で知る発言を辿ると、ぶれずに真っ当なことを話す人だという印象を持っています。日ごろ襟に青リボンの徽章を着けて威勢がいい割には、日本と周辺地域との歴史に疎そうな人たちにも読んでもらいたいものだと思います。

おかしな集団のお友達としての憂慮

昨日から秘書への暴言で二回生の国会議員の資質が問題となって、その人物は所属する政党を離党したとありました。この政党については、そういう方面のタレントがどうも豊富なようで、これは組織的犯罪集団にあたらないのかなと心配になります。私が属する業界団体の政治連盟は、この政党きっての友好団体としていつも党大会において表彰されていますからなおさらです。

より良い行政の実現

本日は全国の行政書士を登録管理する日本行政書士会連合会の会長選挙となっています。私は代議員ではありませんので、投票する機会はありませんが、どちらにしても行政書士の活躍の場を広げることに力を発揮してほしいと思います。これも本日のことになりますが、手元に日行連から『特定行政書士業務ガイドライン』の冊子が送られてきました。はしがきに、不服申立業務は「より良い行政の実現」に寄与するもの、とありました。国民のために公正な行政を実現させるために、動ける人材の宝庫でありたいと思います。
これとは関係ありませんが、昨夜の天皇杯2回戦は、ロアッソ熊本が勝利しました。次はJ1浦和との対戦となります。遠慮なく勝ち上がってもらいたいものです。

限界国家脱出プラン

これから読む本は、毛受敏浩著『限界国家』(朝日新書、780円+税、2017年)です。人口減少社会にある日本の将来を見据えてどのような選択があるかを提言した本のようです。もう一つ日本の人口減少予測をテーマにした、某新聞社論説委員が書いた新書が同時期にしかも20円ばかり安く出ていましたが、危機を煽るばかりで自明のことへの政策提言がないようでしたので、読むのは見送りました。現場感覚を備えてなおかつ社会に貢献できる学術的視点に立った著作でなければ、購読する意味がないと思います。

悪だくみを止めさせよう

なんとも出来の悪い「共謀罪」法案が成立しました。法案を作った法務省とその責任者の大臣の資質もでたらめですし、国会審議も姑息な時間稼ぎだけで、まったく立法の責任が果たされているとはいえません。こんないい加減な連中に政治を任せられない思いを強くします。さて、昨日の熊本日日新聞「読者ひろば」欄において私の投稿「今日に通じる井上毅の精神」が採用掲載されていました。誤解のないために書き添えますが、井上が起草した明治憲法や旧皇室典範、教育勅語の精神は今日的意義はありません。

所有者不明=ボウフラの土地問題

法務省がこのたび公表したサンプル調査によると、「最後の登記から50年以上経過し、所有者が不明になっている可能性がある土地の割合は22.4%にのぼった」(朝日新聞2017年6月7日)といいます。そのため、相続登記がされないまま「塩漬け」状態になっている土地が多く、道路や公園といった公的な利用の妨げになっていますし、同様に農地の場合であれば耕作できずに荒れる一方となります。
そこで、国土交通省ではいわゆる「骨太の方針」に盛り込み、来年の通常国会への関連法案提出に向けた検討を進めているようですし(朝日新聞2017年6月1日)、農林水産省においても、持ち主がはっきりしない農地を、意欲のある生産者に貸し出しやすくする農地法改正案などを来年の通常国会に提出することを目指している(共同通信2017年6月6日)と伝えられています。
もともと土地は地球住民の共有物という考えに立てば、相続人が不明の土地をほったらかしにされても周囲の住民が迷惑します。自治体へ権利を移し、適切に管理できる私人に移譲するのは賢明な活用法だと思います。
作家・司馬遼太郎は、作品『草原の記』の登場人物にこう言わしめています。「なぜあなたは財産をたくわえているのです。人間はよく生き、よく死なねばならぬ。それだけが肝要で、他は何の価値もない」。学商あるいは拝金宗主義者として批判されることのあった福澤諭吉でさえ、『福翁百話』のなかで「宇宙の間に我地球の存在するは、大海に浮べる芥子の一粒と云うも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れてその生くる所以を知らず、死してその死する所以を知らず、去て往く所を知らず、五、六尺の身体僅(わずか)に百年の寿命も得難し、塵(ちり)の如く埃(ほこり)の如く、溜水に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し。」と語っています。ボウフラの土地を未来永劫残しておいて意味がないことは明らかです。ちょっと遅きしに失した政策転換の気がします。
写真は記事とは関係ありません。月曜夜のスタジアム風景です。

理想は実行すべきものなり

山室信一著『アジアの思想史脈』のp.108で、宮崎滔天の『三十三年の夢』の一節を引いています。余おもえらく「理想は実行すべきものなり、実行すべかざるものは夢想なり」と。
さらに、山室氏の同書p.107にはこのような記述があります。講演録が下敷きになっているので口述体となっています。少し長いですが、引用します。「ここまでで申し上げてきたようなことを考えるとき私は、「理想」とは何か、あるいは「恐るべき現実主義の死角」とは何か、という問いへのヒントを秘めたものが『三十三年の夢』ではないかと思われてきます。戦後――あるいは中江兆民も指摘していたことですから戦後だけではないのでしょうが――、日本人は「小才」によって時勢に対応し、現実主義的に世の中を渡ってきました。それは戦前にあっては日本の近代化を支えた、ひとつの大きな力だったと思います。しかし、兆民の言葉を借りれば、それゆえに「日本に哲学なし」となってしまうのではないでしょうか。「現実主義」にうまく乗れば乗るほど、それは「哲学」を生まない社会になっていく、「思想」を生まない社会になっていくのです。」
戦後施行の憲法を「みっともない」といい、出来の悪い共謀罪法案を通そうとする連中の思惑の先に、何の理想があるのか、哲学や思想と呼べる代物があるならぜひ語ってもらいたいものです。

真理がわれらを自由にする

今読んでいる、山室信一著『アジアの思想史脈』のP.14に、「真理がわれらを自由にする」という言葉が紹介されています。これは国立国会図書館東京本館の出納台の上に刻まれているそうで、初代館長であり担当大臣でもあった金森徳次郎の筆跡なのだそうです。この言葉が言わんとすることは、国民が真理を知っていれば、先の戦争に煽動されて総動員されることもなかったという、反省に基づくものと言えます。権力は不都合な事実を隠したがり、時にはウソをつくことをいといません。責任をとるといいながら実際は火消しにやっきなアベトモ事件はその例だといえます。北の国のICBMの能力にも疑問が出ています。それで言えば、米国本土の危険度合いよりもわざわざ近くに危険をさらしている在日米軍基地や原発の存在自体の方が、危なっかしいように感じます。写真は記事と関係あるようで関係ありません。

司法と立法の責任

今読み進めている山田隆司氏(元読売新聞記者、現創価大学准教授)著の『戦後史で読む憲法判例』(日本評論社、2,200円+税、2016年)は、日本国憲法の理念や司法と立法の責任を考える上でたいへん有益な本です。4月30日の朝日新聞読書面掲載の山室信一氏の寄稿「ひもとく憲法施行70年」の中でも取り上げていただけの良書だと思います。山田氏は、個人的にも学生時代からの知人という親しみがありますが、さすが記者経験があり、まず文章が読みやすいことが挙げられます。裁判に至った当事者たちのストーリーの描き方に引き込まれます。たとえば、朝日訴訟や堀木訴訟など、原告の名前がそのまま訴訟の通称名となった裁判では、原告本人がけっして自分のためだけでなく、他にも同じような境遇にある個人のためにという思いで、声を上げた歴史が、理解できます。そうした原告たちへ卑怯な誹謗中傷があったことも触れられていて、そうした環境は今も残っている思いがしました。さらに、学者らしく個々の事実の注釈・出典を懇切丁寧に積み上げて読者に提示してくれています。ですから、裁判官たちの判断の軽重も読者が容易にうかがい知ることができる気がしました。つまり、この裁判官は事実の意味と法律の不備を考えて憲法判断まで踏み込んだのか、何か上層部など違う方を見て判決を出したのかということです。判決を受けて立法が動いた歴史もありますが、立法の怠慢を助長する判決も多々あります。ほかに司法には行政の処分を監視する役割もありますが、まずは憲法の理念が実現できる立法が図られているか、その考察の視点に本書はなりえる気がしました。

某新聞が手元にないので

首相が党総裁としての改憲についての考え方は、(インタビューを掲載した)某新聞を熟読してもらいたいと、まるで拡販員のような言い方を国会で答弁していましたが、残念ながらその某新聞が手元にありません。誰もが党広報紙のような某新聞を購読しているわけではないので、国民の代表である国会議員からの質問には議場で答えてもらいたいものだと思います。それがマナーなのではないのかなと思います。さて、その某新聞大阪本社に27年間勤務した経験のある山田隆司氏の著書『戦後史で読む憲法判例』(日本評論社、2,200円+税、2016年)をこれから読んでみます。

立憲主義に基づく自省を

ただ改憲をやりたいだけの首相やその追随勢力は、権力の暴走を縛る憲法の理念が実現できたかという、立憲主義に基づく自省を試みたことがあるのでしょうか。彼らの発言を聞くと、到底そうした理解がなされているとは思われません。たとえば、福島の原発事故被災者や水俣病患者、ヘイト被害者、その他人権を踏みにじられた多くの人々の存在を思いやった発言はなく、ただ一方的に排外的な主張を繰り返すのみです。彼らが進もうとする道はやがて自らの人権も侵される自滅へと続くことを知ろうとしないのが、不幸です。ここで突き放すのではなく、どのように目を醒ましてもらうのか。絶え間ない発言が必要なのだと思います。

最大リスクを見極めたい

憲法施行70年です。報道によれば、今の首相はとにかく改憲をしたいらしいです。一昨年の安保法制では集団的自衛権の行使が合憲であるとして押し切ったのに、今頃になって自衛隊が違憲であると言っている憲法学者の存在を理由に改憲を言い出すのですから、自分の頭は知的整合性がないと言っているようなものです。先日は、自艦の守備さえままならない海自のヘリ空母を米海軍の補給艦護衛に付ける命令を出しましたが、これも安保法制の実績づくりのため、無理やり発した感があり、純粋に防衛的な意味はないバカげた行動です。米国の言いなりで高価な米国製武器を買い集め自国の国民の生活を疲弊させるのは、それこそ彼の国の首領と同じで、危険きわまりないと思います。今やるべきことは、70年前の国民には先進的過ぎて価値を理解できなかった戦争放棄の行動を世界に広げることです。彼の国のみならずすべての国に核兵器廃絶をさせる努力をしなければなりません。