政治」カテゴリーアーカイブ

電子政府は推進できたか

4期8年間にわたって委嘱されていた総務省電子政府推進員を先日退任しました。行政手続きにおける情報システムは、この間、激しい盛衰があり、電子政府を推進するのはたいへん難しいと感じました。電子証明書が収納されているマイナンバーカードを利用するのは年間何回あるだろうかと思います。いずれ健康保険証も組み込まれるとのことですが、便利なようで個人の健康状態が監視されているようで気味の悪さも感じます。もっとも健康保険も加入しているだけで医療機関のお世話になることはここ最近はまったくないので、それが続けられるようにしたいものです。

定型発達のワナ

昨日から読み始めた本は、野尻英一・高瀬堅吉・松本卓也編著『〈自閉症学〉のすすめ』(ミネルヴァ書房、2000円+税、2019年)です。たまにおじゃまする各地の学校にも最近は配慮を必要とする子どもが多いと聞くのですが、短時間の滞在では気づくこともありますし、どちらかといえば気づかないことが多いようにも思います。発達障害の対極が定型発達なのでしょうが、定型発達というのもたまたまそれが多数派を占めた定型と見なされる社会があればこその話で、社会が変われば、発達障害とされる行動も異なることになります。つまり多数派の行動を常識と捉えるのは疑ってみた方がいいと思います。
話しは変わりますが、日韓の政権同士の不和がそれだけにとどまらず日韓の国民同士の交流にも悪い影響を与えているのを憂慮しています。根底には徴用工への補償をめぐってお互いの政権が言わなくてもいいことを語り、敵を作ることで政権の浮揚を図る危険な運営を続ける思慮のなさを覚ええます。輸出管理についても報復と捉えられる行動に走ったのは、大人げなかったと思います。仮に輸出管理に問題があったのであれば、国ごとの対応ではなくて、許可対象ごとの対応をとればいいだけの話で、本来の目的よりも違う意味を持たせる結果となり、信頼の回復を遠のける形となりました。
表現の不自由展の中止もたいへん残念なことでした。自分が見たくないものを人にも見せるなという了見の狭い人がいるものだと思いました。寄ってたかって嫌がらせを行うのではなく、見たくないのであれば見なければいいだけだと思います。展示された作品の実物を見たことはありませんが、報道で知る限り日本がひっくり返るほど衝撃的な作品だとは思えません。何を恐れているのかと思います。
古今東西近しい関係だからこそ、対立が生まれることがあります。冷静さを欠くと大義や利益をしばしば失うことを忘れてはなりません。

映画「新聞記者」

ずいぶんと久しぶりにイオンシネマ熊本で映画を観ました。作品名は「新聞記者」。原案は、現役の新聞記者の著書であり、同著者を含む別の対談本『同調圧力』の内容も劇中劇風で盛り込まれていてリアリティーを追求した創りでした。昨今の邦画では珍しい分野だったので新鮮ではありました。観客のほとんどは、シニア層でした。そういえば、売り場でチケットを買い求めたとき身分証明書を提示することなく、(料金が安くなる55歳以上の)シニアですねといわれてしまいました。権力者に仕える者たちの保身行動には哀れみと滑稽ささえ覚えてしまいます。フェイクニュース作りにせっせと国費を投入しているシーンとかはそうです。まともな役人が一線を越えて犬には申し訳ないけど、走狗へ転落するときとはどんなものなのか、正直保身する必要がない立場の人間には理解ができませんが、描かれたような世界はあるのだろうと思います。主権者である国民の目線で権力を監視してほしい新聞社も恐れる対象を見誤っている空気感も描かれていました。恐れなければならない相手を誤ってはならないというのが、メッセージなのだろうと思います。

性別記載欄の削除と要求される統計との矛盾

今回の参議院通常選挙より地元市選管の期日前投票・不在者投票宣誓書兼請求書より性別選択欄が削除されました、ところが、総務省が求める投票結果の集計には男女別が残っているため、投票所では未だに男女別の投票状況を記録する負担になっています。

出たとこ勝負のスピリット

第1回宇土市民会館講座が本日同館大ホールであり、熊本県立劇場館長の姜尚中氏の講演を聴いてきました。地域(姜尚中氏の場合はやはり熊本だそうです)の文化や伝統への愛着があふれる温かいお話しでした。根底にあるのが、現在の日本に地域の格差が生まれ、それが文化の格差となり、人の格差につながっている流れを止めなければという思いでした。かつての日本は人口当たりの新聞購読部数の多さに代表されるようにリテラシーの平均値が高く、日本の力は地域でつくられている側面がありました。現在の東京など大都市圏一極集中は、過去の人々つまり死者がつくった恩恵によって生かされているわけですが、かつての保守政治家が持ち合わせていた文化伝統に対する感謝や均衡ある発展が無視されている発想を危惧されていました。一方で自然災害あるいは一極集中という社会災害には、予測不可能な面もあって、ユダヤ人の生きる知恵としてある旧約聖書の「すべての業(わざ)には時がある」という思いも持っておられました。そうした予知できないときの出たとこ勝負のスピリットを忘れてはならない、それを支えるのが文化であり、文化の力が人間の復元力というまとめでした。途中で難関大学における首都圏出身者の比率の高さや港区の所得の高さの話も出ましたが、給与生活者ではなかった姜尚中氏の父母がもっていた出たとこ勝負の最後のたくましさが印象に残りました。以上は姜尚中氏の話の順番を変えて再構成した私のメモであることを断っておきます。写真は、講演とはまったく関係のない宮崎県日向市の大御神社境内から見える柱状節理です。

市議会傍聴記

昨日、地元の市議が、いじめ・不登校対策の推進について市議会定例会の一般質問に立つので、傍聴に来てほしいと案内があり、本日午前中久々に傍聴席へ足を向けました。市議会は市役所仮庁舎の大会議室に臨時で設営されて開かれており、フラットなフロアで議長席を挟んで市幹部と市議団が向き合う形となっています。以前の専用の議場と異なり、傍聴席は市議らの背後から間近に議事を見守れるようになっています。いじめ対策についての教育部長の答弁では、今回初めて重大事態のいじめ事案への対応ということで、教育委員会の附属機関として第三者委員会が設置されることが明らかになりました。実は、私がフォローしていた事案に関することで、第三者委員会設置の方針は私へも昨日教育委員会から伝えられていました。これまでこうした第三者委員会が常置されていなかったため、児童保護者からの声が取り次がれる機会が少なかったように思います。ようやく市がいじめ防止対策と向き合う気になってきたと捉えています。

傍聴については、せっかくだからと、他の議員の質問も聴いてみました。ある設計士出身の議員は、図書館・歴史資料保管展示施設における指定管理者制度の活用を質問していました。その中で佐賀県武雄市の図書館の運営が指定管理者に民間委託されていることを評価していましたが、まったく民度の低い質問だと思いました。武雄市では指定管理者で入った民間書店が蔵書として価値のない古本を大量納入させた出来事が過去ありました。図書館なら司書、博物館なら学芸員という知的人財がもっとも肝要なのに、建築業者的な施設管理のコストでしか知的施設の維持管理を考えていないことに驚きました。

その議員の質問資料に教育哲学者の苫野一徳氏の新聞論考記事「不登校が訴える学校の限界」があり、これはこれで昨日の皮肉な出来事を思い浮かべました。というのが、昨日、私がフォローしているいじめ事案が起きた学校で会議があり、そこの学校長が、上記の苫野論文記事を読んで自分も共感するといっていたからです。学校長が共感した記事の中には、子どもたちに無言で清掃を強いる学校での取り組みが軍隊のようだと批判されていましたが、共感したと言っている学校長が掲げる学校の運営方針にも「無言そうじ」の推進が入っています。学校の清掃は子どもたちが声を掛け合って時間がかかる場所を協力して行う方が、効率的で社会生活でも役立つ清掃方法だと思います。ひょっとしたら学校長は「無言そうじ」の気味の悪さに共感したのではなく、社会の常識から離れた学校の限界に共感したのかもしれません。

老後2000万円問題

担当大臣が受け取りを拒否した金融庁の「老後2000万円」報告書は、それなりに根拠のある報告だと受け止めましたが、政府与党の慌てぶりは見ていて滑稽でした。報告書をまとめたワーキング・グループの専門家たちは、やれいいかげんだ、やれ杜撰だと、散々コケにされたわけで、もっと真剣に怒らないと、プロとしての矜持にかかわるのではないでしょうか。それとも、あっさり「なんでも官邸団」に成り下がるのか、見ものです。杜撰と言えば、秋田のイージスアショアの配備候補地選定データが、米国の民間ネットサービスの提供情報を基に定規と分度器で測って出したというのが、これまたすごく住民をバカにした姿勢で、寝ずに頑張った役人の知力が恐ろしく低いことを世界にさらしていい笑いものでした。このイージスアショアといい、F35といい、米国の貿易赤字解消のために爆買いをすることによる損失と国民の疲弊を考えれば、国民の安心な暮らしを破壊することはあっても、何の守りにもならないし、老後2000万円も1998万円くらいにはなるのではと思う次第です。

福祉教育という名の主権者教育

一昨日、宮﨑県の日向市社会福祉協議会で取り組んでいる福祉教育の視察研修に伺う機会がありました。小中学生が自らの考えで地元自治体や地域住民の協力を得ながらさまざまな福祉向上の施策を実践しています。子どもたちは、未来の地域人との位置づけですが、その力を見るとすでに現在の地域人として活躍していました。まさに動けば変わることを、子どもたちが会得している姿がありました。これは、福祉教育といいながら、生きた主権者教育だと感じました。私の地元市の主権者教育といえば、子ども市議会とかがあるのですが、前日に質疑応答のリハーサルが行われていたり、シナリオ通りの形骸化が感じられます。現場を見聞し、現場で動く生きた政治から強い地域社会は生まれるのではと思いました。

面従腹背は大切

かつて教育行政のトップを務めた元官僚の座右の銘が、面従腹背だったそうですが、現役の霞が関の住人たちも自分たちを指して「なんでも官邸団」と自嘲しているそうですから、必要なことなのかもしれません。今度は、鴻上尚史著の『 「空気」を読んでも従わない』(岩波ジュニア新書、820円+税、2019年)を読んでみます。夏休みに入ると、就職を控える若者と出会う仕事が多くなります。よく石の上にも3年という言い方がされ、転職市場に通用するキャリアを積むには少なくとも3年はかかると指導するよう言われているのですが、たとえば生命や精神に悪影響を及ぼすブラック職場であれば、即座にその場から離脱するのが正しい選択肢です。民間企業であれば、淘汰されればいいのですが、公共団体だと、潰すわけにもいきません。職場環境を変えるためにも働く人が楽に生きるすべを知らないといけません。

公営住宅の活かし方

私の居住地域の近くに公営住宅主体の地域があります。地震の後に建てられた仮設団地がそのまま公営住宅となったり、最初から災害公営住宅として建てられた公営住宅もあります。入居者のほとんどが自宅再建が困難な高齢者世帯とあって、避難行動要支援者登録の世帯も急増しました。高齢者率が高い地域であるため、民生委員のなり手がなく、市内で唯一の委員欠員地区となっています。そのため、隣接地区の担当である私が見守りのお手伝いをしています。校区全体では現役世代が比較的多いため、地区によっては自治運営の担い手がいますが、支援を要する高齢者ばかりの地区では緊急時の対応が心配です。現役世代の居住が進む魅力ある公営住宅に生まれ変わらせないと、座して死を待つ地区となりかねない危機感があります。公営住宅といった場合、現役世代に好まれる間取りや設備への改修が必要ですが、入居条件の見直しも必要だと思います。入居基準を定めてきたのは公営住宅法ですが、地方分権改革によって多くの基準を自治体の条例にゆだねることができるようになってきています。たとえば、同居親族要件については、事実婚や同性婚世帯の入居も配慮できるようにするとか、あるいはシングルマザー(ファザー)や外国人住民にとってのバリアフリーな地域支援とセットにするとか、地区を生き生きとする施策はいろいろ考えられる気がします。

学校ムラの闇

今の原子力規制委員会の前身は、東日本大震災前の原子力安全委員会です。今にしてみればどの口が安全というかということになるでしょう。新藤宗幸著『行政責任を考える』に出てくる原子力安全委員会と原発保有の電力業界との関係、いわゆる原子力ムラについて知ると、本日傍聴の機会を得た教育委員会と学校との関係に似通っていて、学校ムラの闇を垣間見た思いがしました。教育委員の経歴を見るとほとんどが小中学校長を最後に退職された元教員の方々でした。確かに学校運営には高い見識は持っておられるとは思います。そのため、平時の対応の判断は問題ないのですが、学校での不始末が発生した時に法令等に則った厳正な判断が下せるのか、少し懸念を覚えました。たとえば、市のいじめ防止対策基本方針では、各学校でもその学校版の方針を策定し、それを学校のホームページに掲載して広く保護者や地域に啓発するよう定められています。ところが、ある学校では、その学校版方針を策定当時は掲載していたのに、この連休中まで市の方針に反して長らく削除していました。連休明けに教育委員会側へ指摘すると、掲載が復活しました。この市の方針や学校版の方針の策定については、さらに笑えない話があります。その市の方針案をまとめたのは、当時の教育委員会において指導主事だった職員なのですが、その職員は現在、学校版の方針を学校ホームページから削除していた当の学校長なのです。つまり、自ら策定に係わった方針を自ら蔑ろにするという芸当をやってのけたのです。あるいは、そうした方針案については、もともと県からモデル文が授けられていて、自治体名や学校名だけ差し替えれば完成する代物なのかもしれないと考えています。

不作為の取繕い能力だけは認めよう

今読んでいる行政学者の新藤宗幸著『行政責任を考える』で出てきた言葉で、すぅと胸裏に刺さったのは「不作為の取繕い」という表現でした。地方自治体の公務員にもありがちなことで、自治体の例規集を眺めると、ずいぶん立派な文書が備わっています。ですが、その多くは、県やさらには国からもたらされたモデル文をだいたい引き写したものであって、魂が入っていません。法令等を遵守しなければならない当事者自身が日頃その存在さえ意識せず、法令等に沿った行政運営を行っていないことが多いのではないかと感じます。たとえば、学校においていじめや事故が起きても定められた方針に沿って職務を行う能力が、学校長等らには備わっていないように思います。公立学校であれば、市の教育委員会に実務担当者として学校教育課長や指導主事がいますが、前者は学校長は県教職員採用なのに対して市事務職員採用なので学校のことは専門外として深入りを避けますし、後者は学校長より後輩の教職員が就いているので身内の先輩へ物申すのは遠慮が働くと思います。関係者それぞれが問題が表面化しないよう報告も行わず問い質しもせず、やり過ごそうという流れになるのは自然なことです。結局、不作為の取繕いだけが行われ、問題解決は先延ばされたり、握り潰されるのではないかと思います。しかし、公の使命は良い環境の中で子どもを教育することではないのでしょうか。不作為の取繕いに満ちた環境の中で道徳が教科として教えられている学校は、嗤うしかないほど不道徳な世界だと思えます。

責任の問い方

養液栽培による農業事業を行っていたころ、原発プラントと同じような問題を抱えていると思いました。農業の場合、生産性を高めるためにまず技術的な成功を追い求めがちです。しかし、どうしても肥料の排液が出てしまいます。冬場のハウスであれば、暖房による温度や湿度管理、果ては二酸化炭素濃度も考えなければなりません。技術的に正しいことを突き詰めれば、経費は天井知らずに上昇します。そうなると、経営的には採算が合わないことになるので、技術的にはここまでしたいということが分かっていてもあえてセーブすることをします。それと、排液はそのまま農業用水路へ流しますから、当然水質を変化させます。環境への影響はつきものです。もしも循環処理するとなると、その設備のためにさらに経営を圧迫します。原発もそうです。技術的に管理を極めれば環境への危険性は低くなるでしょうが、採算のとれる電源ではなくなり、経営的に成り立たなくなるから、どうしても管理にはある程度の線を引くという対応になってしまいます。公害病の原因企業も似たような対応を図ってきました。
このように、事業を例にとると、技術、経営、環境の3つのバランスの取り方が重要です。それぞれのマイナス部分の内容次第では事業自体が成り立たないことがあるかもしれません。
もうひとつ考えたいのは、何か問題が発生した時に、それに対処する人が、いろんな部分への影響を多面的に考えられるかが問われると思います。問題解決能力のある人には、そうした多面的な見方ができ、そうでない人は一面的な見方しかできないという気がします。問題解決能力のない人への責任を問わなければならないとき、一面的に問うのではなく、多面的に問う必要があるかもしれません。

願ってやみません

4月30日に行われた「退位礼正殿の儀」のライブ中継を視聴したときに、国民代表の辞の一節で「あれっ」と感じていたのですが、その後の情報で次のような言い間違いがあったことが確認されています。国民を代表するその方は退位する天皇に向かって、「末長くお健やかであられますことを願って…」でいったん中断して、「あらせられますことを願っていません」と言っていました。原稿に「願って已みません」とあって「已」の字を「い」と読み間違った、つまり読み方を知らなかったのではという見立ても出ています。いずれにしても信頼と敬愛を受けてきた国民の代表がこのレベルではがっかりです。
さて、連休明けに読む本は、新藤宗幸著『行政責任を考える』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)です。国民(住民)の行政への向き合い方を考えてみたいと思ったからです。
こどもの日でもあるけさの朝日新聞は「繰り返される 学校での事故」として、学校内で死亡事故が起きても詳細な報告が文部科学省に上がってくるのは1割に過ぎないと報じていました。裏を返せば、いかに学校や教育委員会が国民(住民)を守ることに希薄で、学ぶことをしないかということを物語っています。対応方針は定めてあってもまず学校で動かなければ、情報は上がってきませんし、教育委員会が先取りして動くことはありません。指導主事クラスは学校長クラスより後輩であることが多く、好き好んで先輩に指導することは考えられません。
最近、地元の学校でいじめ問題への対応をめぐり、上記の報道と似通った行政組織の構造に接して、国民(住民)が声を上げ続けない限り問題は黙殺されかねないという思いを抱いています。

憲法記念日の翌日に

昨日は憲法記念日でした。熊本でも二つの憲法集会が開かれるのを知っていましたが、どちらも耳を傾けたい学者講師は出ないようなので、足を向けることはしませんでした。天皇制の将来についても現在の憲法が示す理念を知って、たとえば皇室典範の扱いも考えたいものです。現在の相続法の考えに照らすと、男子女子ということばかりでなく、まずは配偶者への承継という考え方が出ても良さそうです。日頃、外国人の在留に係る仕事をしていると、皇族にある立場の方々は、つくづく人権が制約されていると感じます。国民よりも外国人に近い立場なのではと思うこともあります。

地元市の水問題

昨日参加した地元地区婦人会総会において、宇土市長による「宇土市の水問題について」の講演を聴講しました。江戸時代に入る前、現在の熊本市と宇土市に城が置かれたのですが、その後の発展の違いは豊富な地下水に恵まれた熊本に対して水に乏しい宇土との差からと、まずは歴史の話から始まりました。そして今も人口急増地区である当地区では水の確保は重要課題です。現在は球磨川の水を浄水した上水を引っ張ってきたのを使っています。しかし、途中の圧水するポンプ場が老朽化しています。トイレや洗濯での節水を呼びかけておられました。来年度にも水道料金値上げの議論が始まるようです。増える負担にどう対処すべきか、こういう情報ほど事前の周知が大切です。

日本国憲法遵守は国益要件

昨日、原子力規制委員会が、テロ対策が遅れている原発を保有する電力会社からの期限延長の求めを蹴ったニュースが流れました。規制委員会の方針は、真っ当なものだと考えます。電力会社の考えは国益に反する甘い考えだと思います。仕事がら外国人の永住や帰化申請について要件や条件を確認することがあるのですが、外国人に対しては憲法その他の法令順守、納税義務などが国益要件とされます。生まれながらの日本人が憲法遵守の宣誓を求められることは、公務員等を除いてあまり機会がありませんが、日本にずっと居住したい外国人や日本国籍を取得したい外国人には、高い倫理が求められるわけです。とにかく電力会社には猛省をうながしたいものです。

日本の人口と社会

これから読む本は、白波瀬佐和子編『東大塾 これからの日本の人口と社会』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)。すべての国内課題に立ち向かう政策立案は、人口の行方を知らないことには始まらないのは確実です。ここでいう人口には住民のすべての国籍や性別、年齢が含まれますから、それらの割合の変化についても考えなくてはなりません。

「学校」をつくり直す

現在、地元の公立学校でいじめ対策が問題化していて、地域住民としてどうかかわるべきか考えながら動いています。そんなこともあって、これから苫野一徳氏の最新著『「学校」をつくり直す』(河出新書、840円+税、2019年)を手に取ろうとしているところです。公立学校における教職員や保護者、行政に問題に対処する力が不足しているとなれば、それを補完するのは地域住民の知恵と行動しかいないと思います。いじめ防止対策についていえば、当事者である教職員自体に専門的な知識も経験もないために、場当たり的な対応やヘタすると隠蔽する傾向があると思います。
苫野氏の著書を読むのは5年ぶりです。前回読んだのは、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)でした。その中で同氏は、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにあり、その原理をどうすればより実質化していくために、自由のための共通ルール「法」の設定、法の理念を実質化する「教育」、法・教育を補完する「福祉」の重要性を挙げていました。それでいえば、法の理念を実質化すべき教育の場である学校において教育を受ける権利が脅かされている事態は、非常に苦々しいことです。ここは、地域福祉の出番だと思います。

寄り添うということ

本日は県議選の告示日となっています。正午現在、我が家の前にある立候補者の選挙ポスター掲示板を見ると、定員1人に対して現職1人のポスターしか貼ってなく、事前の報道通り無投票の可能性が高くなっています。無駄な経費がかからなくて良いという意見もありますが、公職として働く人の資質向上のためには、政策論争を通じた選択の機会があった方が長期的にはいいと思います。さて、そうした公職にある人が寄り添うという言葉をつかうときがありますが、そんなに簡単につかえない言葉だと思います。最近、いじめの問題や在留希望の外国人の問題と身近で接する機会があり、不利益を被る人の気持ちをくみ上げるのは難しく、それらの人を保護すべき人の思考を改めてもらうのもさらに難しいと感じています。特に保護すべき立場の方にわかってもらいたいのが、対処を誤れば当事者の生命に係るという点です。せめて代弁者になろうと思います。写真は、一昨日、甲佐町の特別養護老人ホーム前で撮った桜です。