カテゴリー別アーカイブ: 歴史

地上の道

本サイトの投稿でしばしば山室信一氏の著作について触れていますが、私が現役の学生だった頃、在籍する大学の非常勤講師を同氏は務めておられました。今にして思えば、その講義を履修してなかったことが惜しくてたまりません。現在はネット動画で氏の講演を聴くこともできます。つい先日、2015年2月11日に静岡市での講演「岐路に立つ日本 ~ 今こそ活かす非戦思想 ~」を視聴しました。講演の最後の方で、氏が高校時代の先生に紹介された魯迅の言葉を引いていました。魯迅は、以下のように書いています。「 希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。 それは地上の道のようなものである。 地上にはもともと道はない。歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。」。重要なことは、どのような時代の渦中にあって、こうした発言があったかということだと思います。単に名言として受け取るのではなく、発言者の思いを知ることだと考えます。この言葉を語るときの山室氏の姿が非常に熱を帯びていて感動しました。

歴史の否定から過ちは繰り返される

『若い読者のための第三のチンパンジー』において考察されるテーマは幅広いのですが、人間が歴史上繰り返し起こしてきたジェノサイド(大量殺りく)もその一つです。ナチスが20世紀に行ったユダヤ人や少数民族に対するそれがすぐに想起されると思いますが、今日それすらも否定する信じがたい人もいます。同書では、抹殺されたタスマニア人の例、アメリカ先住民の例、ソ連時代の粛清、カンボジア、ルワンダなどにも触れています。日本国内においてもアイヌ民族や関東大震災時の朝鮮人に対する蛮行を忘れてはなりません。そして、今日、互いの顔を見ることなく遠隔で大量殺りくが実行されることも可能になっています。日本列島の島々にも朝鮮半島にも多くの人間が暮らしています。どんな理由があれ相手を殲滅するなどと言ってはなりません。ほかの動物では行わないジェノサイドを認めることは、畜生にも劣っていることを示すことにしかなりません。

農業の起源

今読んでいる『若い読者のための第三のチンパンジー』には、さまざまな知見が詰まっていて楽しい著作です。人間が他の動物と異なるのは、言葉の使用や芸術がありますが、農業もその一つです。人間以外では、ハキリアリが地下でキノコを栽培して食料としている例があります。しかし、なぜ農業が発達してきたかというと、それは地理的な、つまり居住環境の違いではないかとみられています。数千年前の古代ギリシャやトルコの遺骨を調べた研究によると、氷河期のこの地方に住んでいた狩猟採集民の平均身長は、男性が178センチ、女性が168センチだったのですが、農業が始まるようになる紀元前4000年ごろには、男性で平均160センチ、女性は155センチへと一気に低くなっていることがわかっています。現代のギリシャ人やトルコ人よりも、健康な狩猟採集民の祖先の平均身長が高いのです。現代の狩猟採集民であるブッシュマンの一人は、なぜ農業に手を出さなかったのかと問われて、「モンゴンゴの実が山のようになっているのに、なんで植えなきゃならないんだ」と答えています。人間の歴史を振り返ると、恵まれているために農業に乗り出さなかった例がある一方で、農業の発達があったために、階級対立や大量殺りく、環境破壊といった、人間社会の弊害が起こったともいえます。だからといって、いまさら農業を捨て去ることはできないわけですが、根本に立ち戻って考えてみることはおもしろいと言えます。話は飛びますが、2020年の東京に北朝鮮の首領を招待する考えはないのでしょうか。あるいは、首領本人がたとえば射撃の選手として出場するためにやって来ることは考えられないでしょうか。そんなメディアで報じられないことを想定してみる余力も必要ではないかと思います。

だらしない最高裁判事こそが罪深い

水俣病訴訟に勝訴して原因企業から賠償金を得た患者には、公害健康被害補償法に基づく補償をしなくても適法という判断を昨日最高裁が示し、原告が敗訴しました。行政を擁護するようで申し訳ないですが、法律に縛られて動かざるを得ない行政が、補償不支給の判断をするというのは、彼らのやり口として自然です。ですが、事件の歴史や憲法の理念に基づいてどのような扱いが正しいか、法律の中身や運用について判断するのが、司法の役割です。つまり、自浄作用がない行政に与するのではなく、人権を踏みにじられてきた国民の権利を回復するには、どうしたらいいのかという視点が裁判官には求められています。今回の司法判断は自らの職責を放棄したものであり、被告の行政以上に罪深い歴史を作ったと思えてなりません。原告患者が勝訴した関西訴訟最高裁判決の考えを自ら否定することになったことに気付いていないのか、今回の4人の裁判官の低能ぶりが心配です。

サル知恵もバカにできない

けっして若くはない私が今読み進めている『若い読者のための第三のチンパンジー』の中で、ベルモットモンキーのたいへん興味深い観察事例が載っていました。サル知恵を人間はバカにできないと思った次第です。これをネタに別のメディアに投稿を行いました。不採用であったら、後日披露したいと思います。

人間とは何か

遠藤正敬著の『戸籍と無戸籍』は、戸籍制度を通じて「日本人」とは何かを探った好著でした。覚えておきたいのは、日本が批准していない条約として1954年に採択された「無国籍者の地位に関する条約」と1961年に採択された「無国籍の削減に関する条約」があります。これによれば、無国籍者が困窮していれば、その滞在国は自国民と同等に扱うことを義務付けていますし、無国籍者を保護するとともに、無国籍の発生を防止・削減することが国際社会の取り組むべき課題として位置付けられています。
次に「人間」とは何かを知るために、ジャレド・ダイアモンド著、 レベッカ・ステフォフ編著『若い読者のための第三のチンパンジー』(草思社文庫、850円+税、2017年)を読んでみようと思っています。人間とチンパンジーとの差は、ゲノムもありますが、特徴的なのは言葉や自らの生命を維持する食料を生産できる農業技術にあると思います。逆に言えば、何を失うときに人間は人間でなくなるのか考えてみたいものです。

統合と棄民の歴史

今読み進めている遠藤正敬著『戸籍と無戸籍』(人文書院、4200円+税、2017年)は、事前予想以上にたいへん面白い著作です。権力が領民を保護する一方、税や兵力確保のためには歴史的にも領民を登録管理する台帳が必要でした。これが日本では戸籍となります。戸籍を持たない者は犯罪者予備軍として扱われた歴史もある一方で、権力の怠慢やエゴで戸籍を奪った過去もあります。今でこそ戸籍を持つことが国民の証となっていますが、元植民地出身者については、国民でありながら戸籍は別扱いとしていたがために、戦後は日本人として保護されることはなくなりました。その他、海外在住の日本人の戸籍をめぐる扱いなど興味深い研究が記録されています。考察対象は、7世紀ごろから現代まで、近隣アジアの制度も含めてあり、仕事として戸籍に接する立場の者としては、初めて知ることばかりでした。戦前は民生委員の前身の方面委員が戸籍整理事業に携わっていたことも知り、その点も係わりを感じました。また、地籍というか不動産登記も国民の任意性によるところがありますが、戸籍が徴兵と絡んでいた時代もあり、国民の側から届出にさまざまな対応があった実例にたくましさも覚えました。

メッセージの出し方と受け方

対外関係での政府と国民のメッセージの出し方と受け方は気を付ける必要があります。特に近隣アジアの関係においては一層留意しなければなりません。たとえば、天皇でさえ参拝しない靖国への向き合い方を政府の一員はよくよく考えなくてはなりません。しかし、その側近らが余計な発言をしてその行動が意味をなさないことになるのは、ほんとうに国益を考えない頭の悪さだと思います。一方、近隣アジアにおいて過去の日本の罪状を掘り起こす動きについては、これまた下手な論評をしないことが、肝要だと思います。一民間事業者がバス内に人形を置いたことにとやかく日本の政府や国民が言うべきでないと思います。

レイシズムと武器が戦争ビジネスの源

昨夜放送のNHK「731部隊の真実」は、当事者たちの証言や書証が豊富で、圧倒的な説得力をもつ良質な番組だったと思います。人を救う思いで医学の道に進んだ学者が、いつのまにか研究資金の獲得に血道を上げ、生体実験をなんとも思わなくなっている悪魔性を恐ろしく感じました。その背景には「匪賊」は殺してもいい存在として医学者のみならず当時の国民が刷り込まされた歴史があります。今日にも残るレイシズムは、相手を殺すことをいとわないからこそ続けられる武器(731の場合は細菌兵器)開発につながり、戦争ビジネスを成立させる気がします。その意味で言えば、武器(技術を含む)輸出に熱心な国の顔ぶれは、互いに威嚇し合っているもの同士ということもあります。

人間が見えているか

核兵器禁止条約に消極的な姿勢であるとか、一見関係ないような朝鮮学校無償化除外の動きについて思うのは、人間の生命であるとか人権の重みへの無理解です。馬鹿げた核抑止への信頼よりも、使用できる核兵器が存在することによる大量殺りくの結果を想像してみるべきです。殺されることよりも殺さない側に立つことの人間としての尊厳を保ちたいと思います。どこの国民であれ、命の重みに変わりはありません。もう一つの朝鮮学校の生徒の人権でいえば、彼らがあたかも北朝鮮国民であるかのように誘導するのはまったくの間違いです。1947年5月2日、明治憲法下最後の勅令として外国人登録令が施行され、当時、植民地朝鮮の出身者は日本国籍を持ちながらも外国人としてみなされることになりました。外国人登録上、国籍等の欄に出身地である「朝鮮」という表記をすべての朝鮮出身者に適用されました。これについては、当人に選択権はありませんでした。当時の貧しい日本政府としては口減らしをしたいということだったのでしょう。その1947年当時に朝鮮半島には韓国政府も北朝鮮政府もありません。1966年の日韓条約批准をへて、1960年代後半から外国人登録の表示を「朝鮮」から「韓国」に切り替える人が増えましたが、「朝鮮」籍とは、単に出身植民地をあらわし、その後、「韓国」籍に変えなかったもので、「朝鮮」籍イコール「北朝鮮」籍でありません。したがって、歴史的経緯から判断すれば、旧植民地出身者およびその子孫は、日本国籍を有する人と同等に処遇する必要があります。確かに世界にはおかしなリーダーがいますが、その国民を冷静に人間として見れば、さまざまな政策判断も異なってくるのではないかと思います。

野火

NHKネットクラブのプレゼントで当選し、Eテレで今月放送される「100分de名著 大岡昇平 野火」のテキストが送られてきました。解説者である作家・島田雅彦氏の思い入れが強く伝わる良いテキストでした。島田氏と私は同世代ですが、戦争をナマで体験した祖父母世代である大岡昇平への思いも何か似通っている感じがします。知識人が感じた戦争への見方というのが、文学を通じて激しく伝わる力強さがあります。政治の失敗ということだけでなく、一人ひとりの人間をどう翻弄させていくのかという優れた記録として読み手の心に突き刺さります。たぶん、『野火』を読んだのは20歳前ぐらいだったと思います。読んでおいて損はないと思います。

無知は犯罪である

『拉致と日本人』を読んでいますが、共著者の辛淑玉さんの目線には教えられる点が多くあります。2年前に来熊されたおりの講演会は残念ながら所用と重なり聴講できなかったのですが、もしも聴けていたらもっと早くヘイトスピーチを繰り返す連中の無知さに気付けたと思いました。一例を上げると、現在、特別永住者となっている在日朝鮮人の人たちを北朝鮮籍という思い込んでいるとしたら、それはとんでもなく歴史を知らないということを表しています。日本が敗戦を迎えたときに朝鮮半島出身者は日本国民だったのにもかかわらず、勅令で無国籍の外国人に変えられました。しかも当時は、北朝鮮も韓国もありません。ところが、在日朝鮮人に対して見当はずれのヘイトスピーチを行う少なからずの人たちは、朝鮮出身=北朝鮮国籍と思い込んでいるようです。ちなみに韓国籍は日韓条約が結ばれた後に選び取ることができたので、敗戦から20年ほど経ってからの話です。もっとも北朝鮮には、もともとの国民もいますが、さまざまな事情でそこに住んでいる日本人も少なからずいます。それらの人の存在も念頭に置いた対話の努力が何よりも必要だと思います。

竹槍事件とミサイル広報

本日の熊本日日新聞の「読者ひろば」欄で、私の投稿「竹槍事件とミサイル広報」が取り上げられています。民放テレビ局にしても新聞社にしても政府広報で得られる広告収入はバカになりませんので、その広報の中身を糺すのには及び腰になってしまいます。かつて東電福島第一原発事故以前は、原発安全神話のために相当量の広告が出稿していました。それはそれとしてジャーナリストの使命は何なのか、いかに商業メディアの中にあってもその役割を自覚している担い手がいてくれるよう受け手も応えていきたいものです。写真はネタ本です。

天智と天武~新説・日本書紀~

昨夜放送のNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」に熊本在住の映画評論家・園村昌弘氏が出演していたので、つい見てしまいました。テーマは、「敗北!白村江の戦い なぜ巨大帝国に挑んだのか?」ということで、同氏は漫画原作者という肩書で登場していました。園村先生はかつて私が中学在学当時に国語教師として勤めておられたこともあり40年来そのご活躍を見ていましたが、漫画原作者の肩書にはなじみがなかったので調べてみると、『天智と天武~新説・日本書紀~』というコミックの原作者でした。番組の内容も6世紀ごろの日本と朝鮮、中国との関係が学べて有益でした。

次に読む本は『拉致と日本人』

これから読む本は、蓮池透・辛淑玉著『拉致と日本人』(岩波書店、1700円+税、2017年) です。両著者の本は初めてですが、これまでの新聞取材等で知る発言を辿ると、ぶれずに真っ当なことを話す人だという印象を持っています。日ごろ襟に青リボンの徽章を着けて威勢がいい割には、日本と周辺地域との歴史に疎そうな人たちにも読んでもらいたいものだと思います。

アジアは近い

肥薩おれんじ鉄道に乗って水俣にある財団の評議員会に出席してきました。同財団には国際NGOとしての活躍を期待しています。海外からの研修を受け入れたり、海外向け情報発信を行っています。将来的には海外出身の職員が誕生してもいいと思います。車中で山室信一著『アジアびとの風姿』を読みましたが、かつて熊本人が近隣アジアに渡っていろんな足跡を残した歴史があります。それがけっして当地の人々の幸福につながったわけではありませんが、その距離は現代よりもはるかに近さを感じます。
帰宅したら先日お手伝いした在留資格申請者(新規)から資格取得のお礼の電話がありました。嬉しいものです。
今週も社会福祉系の2法人の評議員会に出席します。

悪だくみを止めさせよう

なんとも出来の悪い「共謀罪」法案が成立しました。法案を作った法務省とその責任者の大臣の資質もでたらめですし、国会審議も姑息な時間稼ぎだけで、まったく立法の責任が果たされているとはいえません。こんないい加減な連中に政治を任せられない思いを強くします。さて、昨日の熊本日日新聞「読者ひろば」欄において私の投稿「今日に通じる井上毅の精神」が採用掲載されていました。誤解のないために書き添えますが、井上が起草した明治憲法や旧皇室典範、教育勅語の精神は今日的意義はありません。

史実を辿る

つい100年ほど前の史実でさえ研究者の導きがなければ知らないものだと、山室信一著『アジアびとの風姿』を読むと思わされます。近代日本における法制度の発展についても同書は第一級の情報の宝庫だと思いますが、台湾や朝鮮など、周辺地域の支配をどのように行ってきたか、それを知るのと知らないのでは、現在はもちろん将来にわたってそれらの地域の人たちとどう向き合っていくべきかがわからないことになってしまうと思います。

法制史における肥後藩の学知

山室信一著『アジアびとの風姿』を読んでいます。日本の国民国家形成のグランドデザイナーとして法制官僚・井上毅という熊本出身の人がいましたが、欧米法を学ぶ前に肥後藩で刑法典を学んでいます。その肥後藩は江戸時代に260藩あるなかでも律令研究や制度運用が進んでいた藩であったそうです。その律令は中国、つまり当時の清に学んだものですが、おもしろいのは、井上の存在によって中国(清)、日本(肥後)、フランス・ドイツ、日本(新政府)、中国(清)の順で法制の影響がつながっていることです。薩長土肥の縁故世界とは離れた法制発達の世界にはたいへん興味深いものがあります。写真は投稿とはまったく関係なく、えがお健康スタジアムです。

『アジアびとの風姿』

昨日から山室信一氏のもう一冊の最新著『アジアびとの風姿』を読み始めています。おりにふれて感想を投稿したいと思います。それと県高校総体明けのため月曜のホームゲーム開催となったロアッソ熊本の京都戦を観にこれからでかけます。おそらく観客が少ないでしょうから、貴重な勝ち組になりたいものです。