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企業の名誉を保持する和解について

このところ、内田雅敏著の『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』(ちくま新書、880+税、2020年)を読んでいました。著者は、戦時下の中国人強制連行・強制労働問題(花岡、西松、三菱マテリアル)など戦後補償問題に取り組んだ弁護士ですが、同書を読むと、外交関係の歴史にも明るく、非常に目配りのいい著書だと思いました。弁護士業務という観点からすれば、元徴用工の損害賠償請求事件がお金にならないことははっきりしています。国内法の知識だけでなく、国際法や国際人権基準、歴史についても深く知っておかなければ、踏み込めない分野です。しかし、花岡(旧鹿島組=鹿島建設)、西松建設広島安野(旧西松組)、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)の和解は、被害者への謝罪・救済はもちろんですが、過去の歴史に向き合うことで、それらの企業の名誉も保持された面もあります。現在、中国人受難者数を大きく上回る韓国人の元徴用工問題の解決が問題になっていますが、これについても人権を侵害した日本企業にとって、過去の歴史に向き合い、国家とは別にでも謝罪・救済の機会を得られることは、むしろその企業にとって国際的な信頼を増す名誉を保持できる機会です。請求権協定を振りかざして日本政府が民間企業の自発的行動も妨害するとなると、日本国民の名誉をも貶めることになります。外交保護権の放棄や除斥期間などの法律論に逃げるのではなく、被害の実態があった史実がある以上、その解決を図る誠実な対応をむしろ積極的にとるべきです。
「日本は、戦後の国際情勢を巧みに利用して、本来、負わなくてはならない戦争賠償義務、植民地支配による賠償義務を免れてきた」(p.220)のは否めません。それにもかかわらず、ある歴史事件全体の中の一部の間違いを鬼の首を獲った如くに指摘し、その歴史事件全体を否定しようとする歴史ねつ造主義の残念な人々がいることも事実です。特に前政権はそれらの人々を利用した世論形成に熱心でした。このデマゴーグ手法は、ナチスがよく使った手口ですが、安全保障の観点からもたいへん危険です。

東アジアと英国のかかわり

次に読む本のタイトル『悪党たちの大英帝国』は、おどろおどろしくいささか悪趣味ですが、歴史上言い得て妙なのは事実だと思います。香港や台湾問題の遠因は英国のかかわりを抜きには語れませんし、近代日本がアジア侵略に乗り出したのには、英国の手口を学んだ側面は否定できません。日露戦争については、英国に踊らされて有頂天になった側面もあります。植民地経営のやり方は英国をモデルにしたところもあります。大英帝国の礎を築いた権力者の実行力は是非を別にして並外れたものがあり、ヒール役として引き付けられるものがあります。

日本をどうしたいのか

『元徴用工 和解への道』の中で触れられている作家・高村薫氏の言葉が、日本の戦後処理の不完全さをうまく説明していることを、投稿で触れました。17日の地元紙に載った共同通信配信記事と思われる同氏の新首相に対する評価コメントもうまく言い当てていると思いました。いわく「総裁選で強調したのも携帯電話料金を引き下げるという話。国の方針についてこんなに何も語らない新首相は初めてだ。」「日本をどうしたいのか、確固たる指針を自分の言葉で語るべきだ。」。
私も同感です。新首相がビザ要件を緩和したのがインバウンド観光の増加につながったと手柄話をしていたのを耳にしましたが、あんまりビザ要件の緩和の効果は感じていなかったので、あまり出入国管理については知識がないのではと思ったことがあります。外国人の入国・在留許可については、労働者や難民への対応がしばしば人権上問題あるので、ここの是正が重要課題だと思います。世界から信任される国として人権水準の向上を高らかに示すべきだと思います。近隣の東アジアの国・地域との向き合い方もどうしたいのかがはっきりしていません。憲法問題も挑戦したいという言い方をするあたりは、内容よりも仕事を進めたかどうかに関心がある、雇われ人感覚が受け取れます。法律やら歴史の勉強をしてきたようには見えない点でも確かに前内閣を継承しているなとは思います。

正確な物言いをしているかを監視する

『元徴用工 和解への道』を読んでいます。長年、元徴用工の支援を行ってきた弁護士の著作ということで、豊富な情報に裏付けられています。ただ、世間一般の理解度は、政府の言説のミスリードや報道人の勉強不足もあり、きわめて貧弱です。その理解が進まない限り、韓国や中国との関係はおかしなものになると思います。本書で2019年2月3日号の『サンデー毎日』に載った、作家の高村薫氏の指摘がわかりやすいので、紹介します。「日本政府は、戦後賠償問題においても、正確な物言いをしていない。(中略)日本は首相も外務大臣も、1965年の日韓請求権協定により戦後賠償問題は両国間で最終的に解決済み、と声高に繰り返している。あたかも韓国の司法が国際法を無視していると言わんばかりだが、一方的な暴言は日本のほうではないだろうか。」。
まず確認しなければならないのは、日本の政府も最高裁も個人の請求権は失われていないという見解ですが、それがあまり知られていません。1965年当時のレートで金1080億円相当の無償3億ドル供与の請求権協定も、金1080億円が一括支給されたのではなく、10年の期間にわたって分割の現物支給でした。その現物というのは、日本政府が国内企業から買い上げたプラントなどであり、むしろ日本企業のアジア進出への手助けの意味が強かったといわれています。

相互理解を深める

このところ読んでいた『現代東アジアの政治と社会』からはいろいろな知識を得ました。まず重要なのは、歴史認識です。これは言い換えれば、歴史を知るということです。自国の歴史を知り、周辺国・地域の歴史を知ることが非常に大切です。たとえば、戦後50年の1995年に出された村山談話の歴史認識は、中国が現在でも高く評価されており、日中の信頼関係の基礎になっています。しかし、1990年代半ばには日本の歴史教科書から従軍慰安婦の記述の削除を求める勢力の動きがありました。旧軍の不名誉な歴史を葬り去りたいのでしょうが、これは中国の歴史教科書で第2次天安門事件について記述しない中国共産党の意向に似ているものを感じます。まず自らそして相互に歴史を理解して東アジアにおける共生を図るべきだと思います。
次に大切なことは、人権です。米国のような黒人に対する白人による肌の色の違いからの人種差別は、東アジアでは顕著ではないかもしれませんが、同じ肌の色でありながら愚かしい民族差別・出身地差別が強い風潮は感じます。歴史的にも日本の場合は、旧植民地出身者に対する賠償について放置してきました。これも同様に中国では少数民族に対する同化政策という弾圧が続いています。人権侵害については、不干渉主義を強弁するのは誤りという認識を持つべきだと考えます。国や地域という枠組みを外して互いに人として尊重して交流することから力による対立がいかにばかげているかが自明のこととなると思います。

戦争賠償なき戦後処理の歴史について

今度は写真の本を読もうと思っています。
1980年代以降、中国や韓国、台湾は、目覚ましい経済成長を遂げました。ただし、民主化については、中国はないまま、韓国と台湾は達成したという違いがあります(特に1989年6月4日の第2次天安門事件にいたっては、中国の歴史教科書には記載されておらず、中国の若者には事件そのものを知らない人が多いといいます。)。日本にとっても東アジアの経済発展は、恩恵がありました。同時に、それらの国・地域との戦後処理についての歴史をよく知っておく必要があります。それを知ることで相手にどう接するべきかという考えも変わってくると思います。
まず、アジア・太平洋戦争に敗戦した当時の中国を代表していたのは、中華民国の蔣介石でした。連合国の一員である中華民国は戦勝国でしたが、蒋介石は、日本に対して戦争賠償請求権を行使すれば、日本国民が貧しくなり、結果共産主義がはびこり、日本が社会主義化する可能性があるとの判断をもっていました。戦後の日本が民主化し、経済発展することが日本の赤化を防ぎ、東アジアを安定させると考えていました。つまり、日本は中華民国に対して戦争賠償はしませんでした。しかし、台湾に移転した中華民国は日本統治時代の経済的、社会的基盤をそのまま引き継ぎ、さらに朝鮮戦争の勃発によって米国の安全保障の範疇に入り、経済援助を受けることで経済発展をすることができました。経済成長率は、1960年代が9.6%、1970年代が9.7%、1980年代が8.3%でした。今年亡くなった李登輝総統の時代には民主化を達成しました。
台湾の蒋介石の「以徳報怨」の姿勢は、現在の大陸側の中国の歴史認識である「戦争責任二分論」にも通じるもので、1972年の日中共同声明で宣言された「戦争賠償の請求を放棄すること」は、中国側の周恩来からの大幅な譲歩によるものでした。靖国神社にA級戦犯が合祀されたことが明らかになった1985年以降、中国が日本の閣僚が参拝することを問題視するのも、国交正常化の精神を日本側が踏みにじっていると考えられているからです。戦争賠償の要求を出さなかった借りをよく考える必要はあると思います。その点をもっとも考えていたのは、A級戦犯合祀が明らかになった後は、靖国への参拝を行わなくなった、昭和天皇だったと思います。
日本の敗戦まで植民地であった韓国については、初代大統領の李承晩が大韓民国臨時政府による対日宣戦布告を理由に戦勝国として戦争賠償金を認めるよう国際社会に働きかけたことがありましたが、これは認められなかったため、やはり日本は戦争賠償をしていません。韓国は、日韓基本条約による日本からの経済援助とベトナム戦争の特需によって経済発展し、最貧国(1960年代半ばの一人当たり国民所得は日本の5分の1)から脱却して北朝鮮を経済的に追い抜くことに成功しました。民主化も1980年代後半に進展しました。日本や米国が中華人民共和国との国交正常化に伴い、中華民国と断交する中で、韓国は1992年まで中華民国との国交を維持しました。この背景には、大韓民国臨時政府が孫文と蒋介石の保護の下で活動し、カイロ会談では朝鮮の独立を強く蒋介石が支持してくれたことへの恩義があったからだとされています。こうした関係も知っていて損はありません。

歴史証拠への向き合い方

『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』は、同紙を敵視する人々による、いくつもの強弁例が紹介されています。たとえば、割と新しい出来事ですが、2018年3月28日の衆院外務委員会での外務省大臣官房参事官の「政府発見の資料に強制連行を示す記述は見当たらなかった」という趣旨の国会答弁をもってして「強制連行はなかった」と主張するケースがそうです。強制連行の事実が証拠として残る公文書は戦争裁判の中でもあるので、日本政府が持っている公文書の中に記述がなかったとしても、強いられた女性の証言という証拠もあれば、総合的に検証するのが歴史への向き合い方となるものです。なかったものにしたい気持ち優先で自らを洗脳していると言われても過言ではありません。
歴史というものは、その真実に迫り学んでおかないと、現在の行動を誤りかねないものです。『現在東アジアの政治と社会』からは、日本と国交を結ぶ前の中華人民共和国の指導者の足跡をよく学べます。中国では1953年から農業集団化が行われ、1958年8月から全国に「人民公社運動」が展開されました。これは、かえって生産を低下させ、2538万人前後の餓死者を出す毛沢東の失策となりました。今日の都市(非農戸=都市戸籍)と農村(農戸=農業戸籍)の格差問題の原因となった戸籍制度ができたのもこの時期(1958年)でした。1962年以後、農村から都市への厳しい人口移動制限がなされて、閉鎖的二元的身分社会が出現することとなりました。
毛沢東が招いた混乱は1966年に発動した文革もありますが、この時期は中ソ対立の時期でもありました。プラハの春を経て1968年8月に起きたチェコ事件はソ連による侵略行為として、ソ連を「社会帝国主義」「覇権主義」として中国共産党は激しく(今日の歴史的視点では正しく)非難していました。
一方、外交で手腕を発揮したのは周恩来です。「小異をすてて大同につく」と「外交無小事(外交ではどのような小さな事も小国も大事にする)」方針でアジア・アフリカ外交を展開して、後に米中接近、日中国交正常化を果たしていきます。
現代の中国が進める少数民族の同化政策や周辺地域への覇権行動がもたらす危機をどう回避して相互に恩恵が得られる道は何かもっと気づくべきではないかと思います。相手が気に入らないからといって強弁したり、荒々しい力で押す行動はスマートではありません。

占領期の歴史メモ

『現代東アジアの政治と社会』を読み進めると、アジア・太平洋戦争の敗戦から国際連合に加盟するまでの占領期、国際社会の外にいたときの日本の(特に東アジアの)周辺環境の変化の史実についてあまり学んでいなかったことを改めて思い知らされます。当時は多くの国民が内向きで自身の戦後復興が第一だったので、国民的記憶が薄いのもわかります。確か評論家の渡辺京二氏が故・石牟礼道子氏と思われる人物について彼女は朝鮮戦争があったことを知らなかったということをどこかで書いていたのを覚えています。
その朝鮮戦争、これは現在も休戦状態にあるわけですが、1950年の開戦後の日本には戦争特需景気が起きたことは事実です。国連軍が日本を基地として出兵し、その物資の調達をドルで支払ったため、日本には1953年までの戦争時期に都合11億ドルが流入し、日本経済の早期の回復を可能にしました。つい最近、新潟県某市の教育長が「コロナ禍を解消する方法は、どこかで大きな戦争が発生することではないか」と発言して辞任することになったという報道がありました。人の血が流れても経済優先という思いの至らなさは教育行政に携わる者として決定的に資質が欠落していますが、戦争の悲惨さに無自覚なおめでたい日本国民が案外多いのではとも思いました。
戦後日本が国際連合へ加盟するまでの東アジアの国際環境を知らないと、今日の枠組みの成り立ちも理解できませんし、相手に何を言えば反発を招き、どのような態度で接すれば理解や協力が得られるかもわかるはずです。本書から当時の姿をメモしてみます。
・1945年の国際連合成立時、中華民国は5大国の一つとして常任理事国入りを果たした。しかし、中国国内は、国民政府支配区、中国共産党の革命根拠地、親日政権支配区、日本の占領区に分かれ、複合国家の様相を呈していた。華北などの親日政権区もしくは東北部では日本軍の武器や戦略物資の接収で国共は激しい攻防戦を展開していた。米ソも戦後間もない中国に介入することで東アジアの勢力図を自らに有利に再構築しようとした。1949年の中国の分断化は、どちらの中国が正当であるか、どちらを承認するかという問題を国際社会に提起した。中華民国政府は、1949年、南京から広州、重慶、一部が台湾へ移動を開始した。米国は、国民政府は腐敗による経済破綻で自壊したと断定して中国国民党とこの時点で決別した。その年の中華人民共和国の成立にあたってソ連はただちに承認し、米国は不承認とした。中華民国政府は重慶から成都へ移転し、台北へ遷都した。なお、国民政府は故宮博物院の宝物を中国の正統政府の「一つのシンボル」と考え、1931年から南京、上海などへの移送を開始して、1949年半ばまでに台北へ移送を終えている。そのため、早い時期から台湾への移転を計画していたといえる。1947年には台北市民が国民党政府の警察・憲兵隊によって武力鎮圧される、いわゆる二・二八事件が起きている。
※国共内戦において共産党が戦いを有利に進めた理由の一つとして日本軍から接収した武器の存在を指摘する歴史家もいる。蔣介石が抗日戦後直後の日本および日本人へアピールした「以徳報怨」(戦争責任及び敵を軍閥のみに限定し、日本人民を敵とせず)の演説や中国の軍艦による日本軍捕虜・民間人200万人帰還事業の実行については、現在あまり知られていない。また、抗日戦争中に蔣介石朝鮮臨時政府の指導者たちを保護して朝鮮独立を支援していたことも現在はあまり知られていない。
・カイロ会談以前から蔣介石(中華民国)とチャーチル(英国)の香港回収をめぐる確執があった。一方、毛沢東は、外モンゴル(1945年独立)・新疆問題や香港問題(英国による再占領・防衛)・チベット問題を「副次的」問題として、英国とソ連との関係を優先し、内戦を有利に戦う戦略をとっていた。1950年頭に英国は中華人民共和国を承認する協議に入ったため、中華民国は英国との断交を決定した。
※戦時中に毛沢東が進めた減租運動や整風運動は中国共産党に対して清廉な印象を国内外に与えることに成功した。蔣介石と国民党は独裁者とファシスト党という共産党によるネガティブ・キャンペーンに悩まされていた。英国が香港の返還先を台湾にしなかったのは、チャーチルと蔣介石との確執があったためである。蒋介石の「中華の回復」を実現するという「夢」は当時の大国の論理の前でもろくも消え去ったが、今日の中国共産党が引き継いでいるともいえる。
※1943年のカイロ宣言は、東アジアの戦後の国際関係を決定づけるものになったが、会談での英中の対立により、中国はその後戦後構想から疎外される場面が多く見られた。1943年のテヘラン会談、1944年のダンバートン・オークス会議(ワシントン郊外)、1945年のヤルタ密約はいずれも英(チャーチル)・米(ルーズヴェルト)・ソ(スターリン)の三者だけで戦後構想は決定された。ヤルタ密約の内容は中国の主権にかかわるものが多いが、それが中国に知らされたのは1カ月以上も経ってからであった。
・1950年頭時点では、米国は台湾問題には不介入宣言をしていたが、朝鮮戦争勃発後にはそれを破棄し、中立化宣言を出し、台湾防衛の姿勢を示した。蒋介石も朝鮮戦争の戦場へ陸軍精鋭部隊33000人派遣を表明した。
・1951年のサンフランシスコ平和条約で戦後処理を済ませたことが日本の国際社会への復帰の節目とされている。サンフランシスコ講和会議には対日参戦をした55か国のうちの51か国が参加し、中国・インド・ビルマ(ミャンマー)・ユーゴスラビアの4か国が不参加であった。日本と参加国中48か国の間で条約が締結されたが、ソ連・ポーランド・チェコの3か国は調印を拒否した。調印と同じ日に日米安全保障条約も締結された。サンフランシスコ平和条約が発効した1952年で連合国による日本占領は終了することとなった。1952年に自衛隊ができ、1954年に米国とMSA協定(日本国と米国との間の相互防衛援助協定)が締結された。
※1951年の時点では、中華人民共和国と中華民国のどちらの政府と日本は戦後処理を行うかという課題が残された。講和会議には対立を避けるためどちらの政府も招聘しないことを米国が決定していた。会議の前年、英国(アトリー政権)とソ連は中華人民共和国を参加させるよう主張していた。
・戦後の日中関係のスタートとなった1952年の「日華平和条約」締結時、米国追随の外交路線を選択せざるを得なかった日本は、中華人民共和国との国家間関係の樹立を断念するしかなかった。そこで、国交がないながらも、人民共和国との貿易に強い関心を抱き、人的交流と民間貿易を再開させる道を模索した。国共内戦末期の1949年、日本は人民共和国との間に「中日貿易促進会」、「中日貿易促進議員連盟」、「中日貿易協会」が成立した。1950年、「日本中国友好協会」が発足した。しかし、これら4団体の活動は朝鮮戦争勃発後GHQによって弾圧を受けるようになり、「日華平和条約」締結後はさらに厳しい監視下におかれるようになった。「友好協会」は『人民日報』を香港経由で輸入していたが、その活動が「占領を誹謗する文書配布による占領目的阻害」の罪に問われて逮捕者まで出した。
※三権分立がない現代の香港における中国中央政府の存在は、占領期日本におけるGHQの存在と重ね合わせることができて興味深い。
・中華人民共和国は成立当初、社会主義ではなく新民主主義、連合政府論を反映した国家建設を行った。社会主義移行へは長ければ15年から20年かかると指導者は考えていた。1949年に決定した臨時憲法による連合政府の最高権力機関の人事では、共産党44%、各民主諸党派30%、労働者農民各界無党派26%から構成された。
・毛沢東は抗日期にはソ連の「民族自治」政策に倣い、連邦制を模索したが、建国後は内モンゴル、新疆、チベットを「中華民族の自治区」とする政策をとった。1951年春には台湾を攻略し、国家統一を完成させる計画を立てていたが、その計画を中止させたのは朝鮮戦争であったし、計画よりも早く社会主義への道を選択せざるを得なくなった。共産党一党による指導体制の確立が加速していくのは1953年からである。1954年憲法で民主諸党派は共産党の領導下に組み入れられ「野党」ではなく「疑似政党」となっていった。
※朝鮮戦争が起こらなければ、大陸による台湾の「解放」という名の統一は早期になされていたかもしれない。1950年に40万の中国人民志願軍が出兵し、朝鮮戦争では米軍との交戦があった。台湾海峡に米第七艦隊が停泊していた。
・日本が国際連合へ加盟したのは1956年。それまではソ連が拒否権を発動していた。

貶めるとはどういうことか

本日(9月2日)の地元紙文化面に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』の紹介記事が載っていました。共同通信による配信記事と思われますが、この記事の最後の方で、最初に「朝日新聞を糺す国民会議」による提訴があった際に原告団が開いた記者会見において、ある外国人記者が行った質問が紹介されていました。それは、「私の理解では、朝日新聞の報道のほうが国際社会でポジティブ(肯定的)に受け入れられている。「朝日新聞の報道が日本の評判を貶めた」というみなさんのメッセージのほうが、国際社会がネガティブ(否定的)に受けとめているが、それはなぜだと思うか。」(p.190)の部分からの引用でした。
この質問に対して原告側は「ここに来ているアメリカ、ヨーロッパの記者の方も、日本についてまったく無知で不勉強です。」と、無礼な返答をしたほか、「日本人は野蛮でも残酷でもない。女性を不当に扱っているわけでもない。(中略)実際の日本人の家庭をコントロールしているのはむしろ奥様である。女性である。そういった独特の文化を持っている国であります。」と、戦時の慰安婦の人権侵害にはまったく思慮を欠いて、原告の家庭生活における女性の地位の話にすり替えたりしていました。そのため、「外国人記者らの中には不快な表情を見せ、「聞いていられない」とばかりに耳をふさいだり、手を振ったりする格好をしながら退席する人もいた。」(p.192)そうです。この記者会見のやりとりについて知るだけでも、日本国と日本国民を貶めているのは一体どちらであるかが容易にわかると思います。
先の外国人記者の質問の前に、筆頭原告の口から「私はやはり国連の人権問題のところに行って、朝日の社長が腹をかっぱさいてですね」という発言もありましたが、国際社会の人権基準では朝日新聞の報道や女性の出身地に関わりなく慰安婦制度があったこと自体がアウトなわけで、あまりにも不見識な人たちから裁判が起こされていたことがわかります。

民意の指標

『現代東アジアの政治と社会』の中に、日本における選挙権の広がりのデータが載っていましたので、興味をいだきました。言い換えれば、この国における物を言ってもいいとされた国民の資格の歴史です。過半数を超えるようになったのは、戦後のことということがよくわかります。ただし、現在においても実際に国政選挙が行われたときの投票率からいえば、国民の半数以上が政治に白紙委任状態になっていて、属性の違いはありますが、政治的市民の意思の反映は戦前並みなのかもしれません。
(施行年/条件(直接国税)/性別/人口比/備考)
1889年(M22)/15円以上/男25歳以上/1.1%/制限選挙
1900年(M33)/10円以上/男25歳以上/2.2%/制限選挙
1919年(T8)/3円以上/男25歳以上/5.5%/制限選挙
1925年(T14)/制限なし/男25歳以上/20.8%/男子のみ普通選挙
1946年(S21)/制限なし/男女20歳以上/48.7%/男女平等の普通選挙
2016年(H28)/制限なし/男女18歳以上/83.3%/男女平等の普通選挙

歴史総合科目の時代

今読んでいる『現代東アジアの政治と社会』のまえがきで知ったのですが、これまで「世界史」と「日本史」に分けられていた高校の歴史教科書は、2022年から「歴史総合」として生まれ変わるそうです。本書の著者自身も、「一国史は本来成立せず、輪切りにした歴史を積み重ねてこそ真の理解ができる。」と書いています。たとえば、日中戦争の要因を見ていくなら、当然、日本側だけの視点だけでは追えません。当時の中国にはさまざまな政権勢力があり、それぞれの指導者の考えを振り返ると、いかに日本側の指導者の読みが浅かったかということも分かります。一言で指せば複雑怪奇です。軍事力だけで渡り合えば道を誤るということも歴史が示しています。逆に言えば外交手腕が軍事力に優る結果をもたらした歴史もあります。そうこう考えると、現代における外交をどう進めるべきか、学ぶ点は大いにあります。

現代東アジアの政治と社会

前にも書きましたが、先々に読みたい本があることほど、うれしいことはありません。今の中国の不運は周恩来のような寛容力のある政治家がいないことではないかと思います。それは、日本やロシアなど周辺国にもいえることです。周恩来については、かつて読んだ野田正彰著『戦争の罪責』で、日本人B級・C級戦犯を赦した懐の深さが描かれていました。一方で、「迷惑」と通訳された田中角栄の言葉を聴いた際には激怒した歴史もあります。

救済か補償か

写真の本書の刊行についてけさの地元紙が取り上げていました。焦点は病名呼称をめぐる考察論文を執筆した著者についてでした。同書については、共著者がほかにも4人おり、地元紙記者が「水俣病特措法の成立とその後」について書いています。法成立後当時の環境大臣に対してある被害者団体の幹部は「救済とは施しなのです。被害者は損害を受けたのだから、これからは補償という言葉を使ってください」と訴えましたが、この発言は、政府の施しによる救済はしてやるけれども患者としては認定しない=認定申請を金輪際させないという同法の本質を的確に言い当てていると思いました。この法律をめぐっては、原因企業の会長が「水俣病の桎梏から解放される」と社内向けに表明した経緯もあって、被害者の救済よりも加害者の救済を目指しているのではという声も当時からありました。こうして当事者の生の声を記録することで、何にどういう問題があるのかということが明らかになりますし、発言する言葉には日頃の思考の根底がやはり現れるものだという思いがします。

混迷する隣国を知る

岡本隆司著『「中国」の形成』(岩波新書、820円+税、2020年)の読書メモを残しておきます。
・「因俗而治」という対症療法を通じた多元共存ではあったが、清朝は明代のカオスに学び東アジアの多元勢力をとりまとめて一定の平和と繁栄をもたらした。
・歴史をたどると、「一体」の「中華民族」は存在しない。元来「多元」なのであるから、「多元一体」は「夢」でしかない。
・「中国」のトップにいる習近平国家主席は「中国夢」を唱えているが、その根幹にあるのは「中華民族の偉大な復興」である。しかし、(漢人社会は存在したが)かつて存在しなかった「中華民族」の回復はありえないので、「復興」は現実ではない。「夢」の実現に固執するのは、さらなる混迷を招きかねない。政権の宿命的な弱さともいえる。

水俣病とは何か

著者の一人から贈られて水俣病研究会編著の『日本におけるメチル水銀中毒事件研究2020』(弦書房、2000円+税、2020年)を読み始めています。同研究会は、メンバーの入れ替わりはありますが、過去50年間にわたって水俣病を研究しているグループです。出版社の本書の紹介文によれば「3月13日、福岡高裁で水俣病「史上最悪」の判決があった。胎児・幼児期世代8人による水俣病認定訴訟で「メチル水銀曝露との因果関係は明らかではない」として8人全員の申請が棄却されたのである。いったい水俣病とは何なのか。本書では水俣病事件がかかえる様々な問題の最前線を紹介する。」とあります。目次構成は以下の通りです。「Ⅰ「工場排水に起因するメチル水銀中毒」を名付ける行為についての試論/Ⅱ 水俣病特措法の成立(2009年)とその後/Ⅲ 水俣湾埋立地と熊本地震/Ⅳ 世界の水銀汚染と水俣条約——いまなぜ水銀が地球環境問題化しているのか」」。まだ第1章の途中ですが、患者運動の先頭に立った故・川本輝夫氏が語った、「(水俣病は)病気ではなく傷害事件である」という言葉が今でも突き刺さる鋭さを感じました。
ある問題を考えるときに、それをどう見るかによって、その用語の意味はずいぶんと変わります。たとえば、日本政府が慰安婦問題で表明した言葉には以下のものがあります。「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。」。これは、2015年12月28日の日韓外相会談で慰安婦問題をめぐって日韓政府が合意した際の、当時の日本の外務大臣の発言です。1993年の「河野談話」がベースになっていることが認められます。ところが、この公式見解を認めたくない勢力の人々は、慰安婦は「軍当局により管理されていた売春宿で働いていた慰安婦」に過ぎないとしたがっています。意に沿わず性的奉仕をさせられた女性の名誉と尊厳を無視した見方をしてしまうことは、現代の日本人の多くがそうとしか問題を捉えていないということを国内外に拡散することになり、かえって現代の日本人の名誉まで損なうことになると思います。不名誉な史実を隠ぺいするフェイク情報の発信は、日本が先頭に立つべき人権外交の足を引っ張るばかりか、自分たちへの新たな名誉毀損を増長させることにしかなりません。

勉強になったこと

まだ途中ですが、北野隆一著『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日選書、1900円+税、2020年)を読んでいます。
まず朝日新聞が2014年8月5-6日に出した、戦時中の済州島で女性を慰安婦にするために強制連行をしたとする故・吉田清治証言を虚偽と判断し、過去の同証言を引用した記事を取り消すとともになぜそうなったかを検証した記事があります。検証記事には挺身隊と慰安婦の用語の混同についても触れてあります。本書では著者自身が社内の検証チームに所属したこともあり、社内での検証過程が克明に記録されています。検証記事の中身については、きわめて真っ当な内容だと思います。吉田証言の舞台となった済州島へ赴いての取材も行われています。
ところが、この検証記事をネタに翌2015年1-2月に朝日新聞を敵視する3グループによる集団訴訟が同社に対して起こされます。私も2014年の検証記事についてはそれなりに覚えがありましたが、3つの裁判の内容については、あまり承知はしていませんでした。一つは、判決時期が2016年の熊本地震以降でもあり、正直なところ身近な関心事ではありませんでした。
そこで、原告の訴えの内容や裁判の経過、判決の詳細を、今回、まとめて知ることができました。実際、この裁判は3つとも原告が敗けましたが、敗けるべくして敗けた、荒唐無稽の訴訟でした。本来、民事訴訟において被告の不法行為によって被った原告の損害を裁判官に認めてもらうために、原告は因果関係を立証していくものなのですが、これら3つの訴訟は進め方がまるでなっていませんでした。「因」と「果」を言い立てるだけで、「関係」についての立証はまったくできていませんでした。よくそうした裁判の原告代理人を務める弁護士や原告として名前をさらす蛮勇がある学者がいたものだと不思議に感じました。著者は原告らの集会での発言も取材して、その内容も本書で知ることができますが、どうも原告らの願望は朝日新聞を潰すことにあり、裁判はそのための原告らの売名行動に過ぎなかったのではないかと思われます。目的と手段が合っていないので賢しさが感じられませんでしたし、朝日新聞にとっては迷惑この上ない出来事だったと思います。
私も朝日新聞を長らく読んでいますが、そんなに影響力のあるメディアだとは感じていません。地方だと、新聞報道ネタについて地域住民が話題にするとなると、ネタ元のほとんどは地方紙になります。ましてや海外で朝日新聞なる日本の新聞の報道に接する人は、ごくわずかでしょう。朝日新聞の報道がなくても従軍慰安婦の存在は史実として消えません。それで名誉が棄損されたとか、同紙が憎いと考える人の中では、あまたあるメディアの中でそこまで国内外での影響が大きいと言い切るその思い込みの激しさに驚きました。
もしも原告グループが言うように日本の裁判制度が信用ならないのなら、ぜひ日本政府に働きかけてもらいたいことがあるので、ここに提案します。それは、日本が加盟している国際人権条約で選択的議定書の批准を進めてもらい、条約機関への個人通報制度の導入と国内人権機関の設置を働きかけてもらいたいと思います。

貶めるということ

25年前の8月15日に当時の首相が出した「村山談話」は、アジア・太平洋戦争についての日本政府の歴史認識を示した、公式見解として歴代内閣に引き継がれています。しかし、その後も、その歴史認識を受け入れず誤った言動をする国民がいることも事実です。こうした動きについて、村山元首相が今年の8月15日に出したコメントのなかで、「日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶めるのでは、ないでしょうか」と言っていました。これについては、全面的に賛同します。
昨日から読み始めた北野隆一著『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』のなかで、まさに国を貶める動きを思い起こしたので、紹介しておきます。一つは、2007年6月14日付け「ワシントン・ポスト」紙に掲載された、櫻井よしこ氏らによる意見広告「THE FACTS(真実)」です。この広告は、日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかってはいない、慰安婦はセックス・スレーブではなかった、などと訴えるものでした。慰安婦=公娼だから問題ないとするこの意見広告は米国内から強烈な批判を浴びました。同書では直接的な記載はありませんでしたが、2013年5月13日の橋下徹大阪市長(当時)の「慰安婦制度は必要だった」「米軍、風俗業活用を」の発言も、やはり国内外から多くの批判の声が上がった動きとして記憶に残る出来事でした。櫻井・橋下両氏の主張は、歴史認識以前に女性の人権を何も考えていません。この一点をもってして、国際的な常識でいう知識人の水準には達していないことを示していると私は考えています。ましてやこの程度の人物が政治の諸課題に意見する資格はないのですが、今日なおテレビ等でご活躍なのを見かけるたびに、なんと自虐的・反日的メディアが多いことかと思わされます。

それぞれの戦没者観

私自身は一度も参列したことはありませんが、昨日(8月15日)は日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれました。この式で追悼の対象となるのは、75年前のその日に終戦を迎えたアジア・太平洋戦争の犠牲者約310万人とされています。天皇の言葉にある通り「さきの大戦において」「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」なので、旧日本軍軍人・軍属約230万人、市民約80万人がその内訳です。靖国神社に1978年以来合祀されているA級戦犯がその対象者に含まれるか、政府は明らかにしてはいません。会場は1965年以来ずっと日本武道館となっていますが、1964年に一度だけ靖国神社境内で開かれています。
ところで、「過去を顧み、深い反省の上に立って、」追悼する際に、310万人の犠牲者だけが対象でいいのかという疑問は残ります。外国の軍人や民間人の失われた命にも思いを寄せなくていいのかという思いです。逆に旧日本軍軍人・軍属の戦没者が祀られている神社の参拝だけをもってしてすべての戦没者を追悼しました、平和を祈念しましたという姿勢に、民間人の死や外国人の死を考えていない、戦争の惨禍への思いの欠如を感じてしまいます。
空襲、沖縄戦・南洋戦、外国籍軍人・軍属、抑留者など、戦後補償からもれた戦没者の問題は75年経った今も残ったままです。ほんとうに私たちはすべての戦没者を追悼してきたのか、まだそこから考えてみるべきです。

克明な記録こそが未来への価値ある資産

7月18日の朝日新聞読書面で、日本中世史が専門の呉座勇一氏が石井妙子著『女帝 小池百合子』の書評の最後で「職業倫理や専門性を持たないタレント学者や自称歴史家のもっともらしいヨタ話が社会的影響力を持つ様を、評者は何度も目にしてきた。私たちが対峙すべきなのは、表面的な面白さを追いかける風潮そのものなのである。」と書いていました。こうした対峙を高い職業倫理と専門性をもって追究できるジャーナリストがいれば、とことん支援すべきです。写真の著者の仕事は30年近く見守っていますが、私が支援したいジャーナリストのひとりです。著者の仕事は、結局のところ人権が擁護された社会の実現につながり、その社会に暮らす多くの人々の利益にもなると考えます。裁判の記録をたどれば、アレとかソレとかテレビでコメントしている輩どもの無知と無恥ぶりが手に取るように理解できると思います。そうした輩にはとても怖い本かもしれません。

無知を知る

コロナ禍の影響で歴史を学ぶ機会が増えています。さまざなな著作に触れるたびに自分の無知さを知ることができています。歴史といってもその時代を体験した時代もありますが、その評価はその当時と現在とでは異なることも多く、ボーっとしていると、騙されることが多いと思います。ただ流されるばかりではなく、騙す側に乗っかって騙す側に立ってしまうのは、まさに一生の不覚となるでしょう。