教育」カテゴリーアーカイブ

5世紀前半頃の古墳出土品が物語るもの

本日1日限定で特別公開された、県内最大級の古墳である長目塚古墳の出土品を拝見してきました。会場は昨年12月に復旧工事が完了した阿蘇神社の斎館です。というか、70年前の発掘調査で見つかった出土品を収蔵しているのは、阿蘇神社です。今年3月にそれらの出土品が熊本県重要文化財に指定されたということでした。埋葬されたのは、35歳くらいの女性で、当時の豪族の阿蘇氏の一族とみられています。勾玉、ガラス玉、鏡、鉄製品などが出土していますが、銘文とかはありません。須恵器といった土器文化の時代であることもうかがえます。考古学は科学ですから、これらの物証だけでいっても、かたや祖先を神話の世界のおとぎ話からもってきている神社の立場は、今度の公開とどう両立させているのか、たいへん興味深いものがありました。

教育格差がもたらすもの

松岡亮二著の『教育格差』(ちくま新書、1000円+税、2019年)を昨日一気読みしました。信頼性の高い統計情報に基づく説得力のある論証は、読み進めやすい思いがしました。ある程度実感していることですが、教育格差は小学校入学前から存在し、小中高と進むほどに拡大しているという事実が明らかにされています。格差の要因は、親の学歴や文化資本、地域、学校環境となっています。社会経済的地位が高い家庭に育った子どもは、将来、やはり社会経済的地位が高い親になるということが実証されています。つまり格差の再生産が続くというわけです。皮肉なことにそうした実態を知り得るのは、社会経済的地位が高い家庭となりがちなので、たまたまそれが低い家庭に生まれた子どもは、高い教育を受ける可能性を減らされていることになります。著者の考えは、このように子どもの可能性が殺されるのを社会の損失だとしています。たとえ、一学年の1%でもその可能性を救えれば、1万2000人の子どもを救うことになり、社会の平均値が上がることは、全体の利益になると考えています。教育格差があるということは、教員や私のような専門職にも地域格差があることを示しています。まずは、根拠のある事実を認めて少しでも改善することを続けなくてはなりません。

歴史のイロハ

昨日は、所属団体の研修受講で帰化申請と特定技能について学びました。前者については進めていくことが重要だと思います。しかし、後者についてはこの先不透明な制度だと考えています。社会を支えてくれる貴重な人材(労働者)として受け入れるだけでなく、社会に定着して共に生きる住民(生活者)として受け入れるべきだと思います。つい2000年前までは、文字すらもたなかった日本(その頃は日本という成り立ちもなかったわけですが)が今日のような形になったのも海外からいろんな人材や文化・技術を取り入れてきたからこそです。ここを無視して伝統だのいっても底が浅い歴史認識を示すことにほかなりません。もっとも移民で成り立っている米国でも分断傾向が見受けられるのは、知的劣化としか言いようがありません。

久々に全国大会へ参加予定

全国大会といってもウエイトリフティング競技審判としての参加ですが、かごしま国体リハーサル大会として11月22~23日に開かれるレディースカップ全日本女子選抜選手権に出ます。階級や順位決定が変わりましたし、進行方法も変わりました。そうでなくてもミスはアスリートへ迷惑をかけるので、審判はいつも緊張するものです。

8月も早や後半

台風だ、お盆だといっているあいだに8月も早や後半に入りました。いろんな行事の予定がどんどん入ってきています。読書は、また『〈自閉症学〉のすすめ』に戻っています。複数の著者からなる本ですが、自閉症の子どもを育てた経験をもつ著者の記述もあり、収穫の多い書です。

少年の主張大会傍聴記

毎年夏休みのこの時期、市内の小中学校代表による「少年の主張大会」が開かれます。今年の大会が昨日開かれましたので、傍聴のため参加しました。家庭内に障害を持つ弟と暮らす子ども、ドクターヘリで救急搬送された経験を持つ子ども、両親を相次いで病気で亡くし祖父と二人暮らしを続ける子ども。いろんな境遇や経験、人との出会いがあり、自分の気持ちや考えが変化して成長を続ける純粋な姿がありました。いじめによる自殺問題を取り上げた子どもいて、適切な対応を行っていない学校関係者にこそ聞いてほしいと思いましたが、果せるかな聞いてほしい学校関係者の姿は会場にはありませんでした。せめて出場者全員の主張をすべて文集にまとめて広く市民が読める機会が得られないものかと思いました。

不都合な事実の合理化

学校という閉鎖空間で行われるいじめと、戦争における殺りくには行う者の心理に似たようなものがあるのではないかと思います。そうすることを正義と思い込む合理化がないと、それを続けることはできないと思います。問題は、実行者だけではありません。傍観者の存在も被害者にとっては実行者と同じです。傍観だけして何も語らない、動かないのは罪だと考えます。いじめの実行者や傍観者の教育が適切に行われない場合、その者たちが将来恵まれた人生を過ごせるとはとても思えません。そうした者たちは応援してくれる他人に恵まれないと思います。

出たとこ勝負のスピリット

第1回宇土市民会館講座が本日同館大ホールであり、熊本県立劇場館長の姜尚中氏の講演を聴いてきました。地域(姜尚中氏の場合はやはり熊本だそうです)の文化や伝統への愛着があふれる温かいお話しでした。根底にあるのが、現在の日本に地域の格差が生まれ、それが文化の格差となり、人の格差につながっている流れを止めなければという思いでした。かつての日本は人口当たりの新聞購読部数の多さに代表されるようにリテラシーの平均値が高く、日本の力は地域でつくられている側面がありました。現在の東京など大都市圏一極集中は、過去の人々つまり死者がつくった恩恵によって生かされているわけですが、かつての保守政治家が持ち合わせていた文化伝統に対する感謝や均衡ある発展が無視されている発想を危惧されていました。一方で自然災害あるいは一極集中という社会災害には、予測不可能な面もあって、ユダヤ人の生きる知恵としてある旧約聖書の「すべての業(わざ)には時がある」という思いも持っておられました。そうした予知できないときの出たとこ勝負のスピリットを忘れてはならない、それを支えるのが文化であり、文化の力が人間の復元力というまとめでした。途中で難関大学における首都圏出身者の比率の高さや港区の所得の高さの話も出ましたが、給与生活者ではなかった姜尚中氏の父母がもっていた出たとこ勝負の最後のたくましさが印象に残りました。以上は姜尚中氏の話の順番を変えて再構成した私のメモであることを断っておきます。写真は、講演とはまったく関係のない宮崎県日向市の大御神社境内から見える柱状節理です。

市議会傍聴記

昨日、地元の市議が、いじめ・不登校対策の推進について市議会定例会の一般質問に立つので、傍聴に来てほしいと案内があり、本日午前中久々に傍聴席へ足を向けました。市議会は市役所仮庁舎の大会議室に臨時で設営されて開かれており、フラットなフロアで議長席を挟んで市幹部と市議団が向き合う形となっています。以前の専用の議場と異なり、傍聴席は市議らの背後から間近に議事を見守れるようになっています。いじめ対策についての教育部長の答弁では、今回初めて重大事態のいじめ事案への対応ということで、教育委員会の附属機関として第三者委員会が設置されることが明らかになりました。実は、私がフォローしていた事案に関することで、第三者委員会設置の方針は私へも昨日教育委員会から伝えられていました。これまでこうした第三者委員会が常置されていなかったため、児童保護者からの声が取り次がれる機会が少なかったように思います。ようやく市がいじめ防止対策と向き合う気になってきたと捉えています。

傍聴については、せっかくだからと、他の議員の質問も聴いてみました。ある設計士出身の議員は、図書館・歴史資料保管展示施設における指定管理者制度の活用を質問していました。その中で佐賀県武雄市の図書館の運営が指定管理者に民間委託されていることを評価していましたが、まったく民度の低い質問だと思いました。武雄市では指定管理者で入った民間書店が蔵書として価値のない古本を大量納入させた出来事が過去ありました。図書館なら司書、博物館なら学芸員という知的人財がもっとも肝要なのに、建築業者的な施設管理のコストでしか知的施設の維持管理を考えていないことに驚きました。

その議員の質問資料に教育哲学者の苫野一徳氏の新聞論考記事「不登校が訴える学校の限界」があり、これはこれで昨日の皮肉な出来事を思い浮かべました。というのが、昨日、私がフォローしているいじめ事案が起きた学校で会議があり、そこの学校長が、上記の苫野論文記事を読んで自分も共感するといっていたからです。学校長が共感した記事の中には、子どもたちに無言で清掃を強いる学校での取り組みが軍隊のようだと批判されていましたが、共感したと言っている学校長が掲げる学校の運営方針にも「無言そうじ」の推進が入っています。学校の清掃は子どもたちが声を掛け合って時間がかかる場所を協力して行う方が、効率的で社会生活でも役立つ清掃方法だと思います。ひょっとしたら学校長は「無言そうじ」の気味の悪さに共感したのではなく、社会の常識から離れた学校の限界に共感したのかもしれません。

企業主導型保育事業とは

近くのショッピングモール敷地内に企業主導型保育事業がオープンするようです。この事業についてはひと頃の放課後等デイサービス事業と同じく助成金詐欺が横行し、新年度から事業参入が厳格化されました。たとえば保育事業の実績が5年以上ある事業者しか認めないとか、保育定員が20名以上の保育園では職員における保育士資格者の比率を50%以上から75%以上に高めるとかです。ちなみに近くにオープンする保育園は実績ある事業者ですが、定員は19名となっていました。預けるにしても働くにしてもこうした事業の規制については調べたがいいかもしれません。

福祉教育という名の主権者教育

一昨日、宮﨑県の日向市社会福祉協議会で取り組んでいる福祉教育の視察研修に伺う機会がありました。小中学生が自らの考えで地元自治体や地域住民の協力を得ながらさまざまな福祉向上の施策を実践しています。子どもたちは、未来の地域人との位置づけですが、その力を見るとすでに現在の地域人として活躍していました。まさに動けば変わることを、子どもたちが会得している姿がありました。これは、福祉教育といいながら、生きた主権者教育だと感じました。私の地元市の主権者教育といえば、子ども市議会とかがあるのですが、前日に質疑応答のリハーサルが行われていたり、シナリオ通りの形骸化が感じられます。現場を見聞し、現場で動く生きた政治から強い地域社会は生まれるのではと思いました。

面従腹背は大切

かつて教育行政のトップを務めた元官僚の座右の銘が、面従腹背だったそうですが、現役の霞が関の住人たちも自分たちを指して「なんでも官邸団」と自嘲しているそうですから、必要なことなのかもしれません。今度は、鴻上尚史著の『 「空気」を読んでも従わない』(岩波ジュニア新書、820円+税、2019年)を読んでみます。夏休みに入ると、就職を控える若者と出会う仕事が多くなります。よく石の上にも3年という言い方がされ、転職市場に通用するキャリアを積むには少なくとも3年はかかると指導するよう言われているのですが、たとえば生命や精神に悪影響を及ぼすブラック職場であれば、即座にその場から離脱するのが正しい選択肢です。民間企業であれば、淘汰されればいいのですが、公共団体だと、潰すわけにもいきません。職場環境を変えるためにも働く人が楽に生きるすべを知らないといけません。

いじめと探偵

昨夜のロアッソ熊本のJ3公式戦4連勝を速報観戦して気分が良かったところに視聴した、NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” 第1回  いじめと探偵 ~行き場を失った“助けて”~」は、あまりにも衝撃的でした。学校や教育委員会へ声を上げても取り合ってくれないという現実を確信しました。いじめに苦しむ子どもたちの中には自ら命を絶つ悲劇も続いています。これは何とかしなければならない深刻な安全保障問題なのではないかと思います。近隣国の脅威を煽り米国の軍需産業から欠陥品を爆買いする前に自国民の子どもを多数見殺しにしておいていいのか怒りが湧いてきます。番組に出ていた探偵社では、いじめ調査については基本無償で行っておられるということで、その行動力には頭が下がりました。亡くなられた子どもの命は取り返しができませんが、今も進行中のいじめはあると思います。それをどう止めて救っていくのか、番組で紹介していた行動手法については、たいへん参考になりました。

学校ムラの闇

今の原子力規制委員会の前身は、東日本大震災前の原子力安全委員会です。今にしてみればどの口が安全というかということになるでしょう。新藤宗幸著『行政責任を考える』に出てくる原子力安全委員会と原発保有の電力業界との関係、いわゆる原子力ムラについて知ると、本日傍聴の機会を得た教育委員会と学校との関係に似通っていて、学校ムラの闇を垣間見た思いがしました。教育委員の経歴を見るとほとんどが小中学校長を最後に退職された元教員の方々でした。確かに学校運営には高い見識は持っておられるとは思います。そのため、平時の対応の判断は問題ないのですが、学校での不始末が発生した時に法令等に則った厳正な判断が下せるのか、少し懸念を覚えました。たとえば、市のいじめ防止対策基本方針では、各学校でもその学校版の方針を策定し、それを学校のホームページに掲載して広く保護者や地域に啓発するよう定められています。ところが、ある学校では、その学校版方針を策定当時は掲載していたのに、この連休中まで市の方針に反して長らく削除していました。連休明けに教育委員会側へ指摘すると、掲載が復活しました。この市の方針や学校版の方針の策定については、さらに笑えない話があります。その市の方針案をまとめたのは、当時の教育委員会において指導主事だった職員なのですが、その職員は現在、学校版の方針を学校ホームページから削除していた当の学校長なのです。つまり、自ら策定に係わった方針を自ら蔑ろにするという芸当をやってのけたのです。あるいは、そうした方針案については、もともと県からモデル文が授けられていて、自治体名や学校名だけ差し替えれば完成する代物なのかもしれないと考えています。

不作為の取繕い能力だけは認めよう

今読んでいる行政学者の新藤宗幸著『行政責任を考える』で出てきた言葉で、すぅと胸裏に刺さったのは「不作為の取繕い」という表現でした。地方自治体の公務員にもありがちなことで、自治体の例規集を眺めると、ずいぶん立派な文書が備わっています。ですが、その多くは、県やさらには国からもたらされたモデル文をだいたい引き写したものであって、魂が入っていません。法令等を遵守しなければならない当事者自身が日頃その存在さえ意識せず、法令等に沿った行政運営を行っていないことが多いのではないかと感じます。たとえば、学校においていじめや事故が起きても定められた方針に沿って職務を行う能力が、学校長等らには備わっていないように思います。公立学校であれば、市の教育委員会に実務担当者として学校教育課長や指導主事がいますが、前者は学校長は県教職員採用なのに対して市事務職員採用なので学校のことは専門外として深入りを避けますし、後者は学校長より後輩の教職員が就いているので身内の先輩へ物申すのは遠慮が働くと思います。関係者それぞれが問題が表面化しないよう報告も行わず問い質しもせず、やり過ごそうという流れになるのは自然なことです。結局、不作為の取繕いだけが行われ、問題解決は先延ばされたり、握り潰されるのではないかと思います。しかし、公の使命は良い環境の中で子どもを教育することではないのでしょうか。不作為の取繕いに満ちた環境の中で道徳が教科として教えられている学校は、嗤うしかないほど不道徳な世界だと思えます。

責任の問い方

養液栽培による農業事業を行っていたころ、原発プラントと同じような問題を抱えていると思いました。農業の場合、生産性を高めるためにまず技術的な成功を追い求めがちです。しかし、どうしても肥料の排液が出てしまいます。冬場のハウスであれば、暖房による温度や湿度管理、果ては二酸化炭素濃度も考えなければなりません。技術的に正しいことを突き詰めれば、経費は天井知らずに上昇します。そうなると、経営的には採算が合わないことになるので、技術的にはここまでしたいということが分かっていてもあえてセーブすることをします。それと、排液はそのまま農業用水路へ流しますから、当然水質を変化させます。環境への影響はつきものです。もしも循環処理するとなると、その設備のためにさらに経営を圧迫します。原発もそうです。技術的に管理を極めれば環境への危険性は低くなるでしょうが、採算のとれる電源ではなくなり、経営的に成り立たなくなるから、どうしても管理にはある程度の線を引くという対応になってしまいます。公害病の原因企業も似たような対応を図ってきました。
このように、事業を例にとると、技術、経営、環境の3つのバランスの取り方が重要です。それぞれのマイナス部分の内容次第では事業自体が成り立たないことがあるかもしれません。
もうひとつ考えたいのは、何か問題が発生した時に、それに対処する人が、いろんな部分への影響を多面的に考えられるかが問われると思います。問題解決能力のある人には、そうした多面的な見方ができ、そうでない人は一面的な見方しかできないという気がします。問題解決能力のない人への責任を問わなければならないとき、一面的に問うのではなく、多面的に問う必要があるかもしれません。

願ってやみません

4月30日に行われた「退位礼正殿の儀」のライブ中継を視聴したときに、国民代表の辞の一節で「あれっ」と感じていたのですが、その後の情報で次のような言い間違いがあったことが確認されています。国民を代表するその方は退位する天皇に向かって、「末長くお健やかであられますことを願って…」でいったん中断して、「あらせられますことを願っていません」と言っていました。原稿に「願って已みません」とあって「已」の字を「い」と読み間違った、つまり読み方を知らなかったのではという見立ても出ています。いずれにしても信頼と敬愛を受けてきた国民の代表がこのレベルではがっかりです。
さて、連休明けに読む本は、新藤宗幸著『行政責任を考える』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)です。国民(住民)の行政への向き合い方を考えてみたいと思ったからです。
こどもの日でもあるけさの朝日新聞は「繰り返される 学校での事故」として、学校内で死亡事故が起きても詳細な報告が文部科学省に上がってくるのは1割に過ぎないと報じていました。裏を返せば、いかに学校や教育委員会が国民(住民)を守ることに希薄で、学ぶことをしないかということを物語っています。対応方針は定めてあってもまず学校で動かなければ、情報は上がってきませんし、教育委員会が先取りして動くことはありません。指導主事クラスは学校長クラスより後輩であることが多く、好き好んで先輩に指導することは考えられません。
最近、地元の学校でいじめ問題への対応をめぐり、上記の報道と似通った行政組織の構造に接して、国民(住民)が声を上げ続けない限り問題は黙殺されかねないという思いを抱いています。

相手方が無能な学校だったなら

地元市のいじめ防止基本方針の巻末には、重大事態発生時の対応フロー図が載っています。一見すると、もれの無い立派な図です。しかし、最初に行動すべき学校から正しい報告が教育委員会へ出ないことには、まったく機能しない問題を抱えています。へたすると虚偽の報告を出して隠蔽に走る学校があるかもしれません。人格者の集まりである教育委員会では、まず学校を疑うこともないと思います。実際、そうした事態こそが起こりえるため、いじめ事案は適切な対応がとられないまま長期化するのではと思います。相手方がたまたま無能な学校だったなら、関係者の働きかけ先はよくよく考えないといけないかもしれません。

市のいじめ防止基本方針を読んでみました

2年前に地元市が定めた「いじめ防止基本方針」が市のホームページに掲載されていたので改めて読んでみました。2年前、市立の各小中学校も市の方針に沿って自校の「いじめ防止基本方針」を定め、私の地元小学校も当時学校ホームページに掲載していました。ですが、現在は削除されて閲覧することができません。なぜなのか確認してみたいと思います。

市の方針の「はじめに」以下のことが書かれています。「いじめは,人権に関わる重大な問題であり,心豊かで安全・安心な社会をいかにしてつくるかという,学校を含めた社会全体に関わる国民的な課題である。いじめの問題に社会総がかりで対峙するため,基本的な理念や体制を整備することが必要であり,平成25年6月「いじめ防止対策推進法」(平成25年法律第71号。以下「法」という。)が成立し,同年9月に施行された。また,これを受けて,国の「いじめの防止等のための基本的な方針」(平成25年10月11日文部科学大臣決定。以下「国の基本方針」という。)が策定された。そして,平成25年12月26日には,熊本県いじめ防止基本方針(以下「県の基本方針」という。)が策定された。
この宇土市いじめ防止基本方針(以下「市の基本方針」という。)は,法第12条の規定に基づき,学校,家庭,地域その他の関係機関の連携の下,いじめの防止等(いじめの防止,いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策を総合的かつ効果的に推進するために策定するものである。」。

いやはや

東京大学の入学式では例年総長や来賓の祝辞はニュースになります。かつては難解な言葉で47分間にわたる挨拶を述べたフランス文学の大家の総長もおられました。ところが、教養学部長の式辞はその陰に隠れてほとんど取り上げられることはありません。今年はその教養学部長式辞で、以下のようなくだりがありました。「教養とは直接関係ないのですが、皆さんには社会で生きていくために必要なマナーも身につけて欲しいと思います。例えば、通学時に井の頭線の電車に乗ると思いますが、混雑時にはリュックサックを体の前で抱える、出入り口付近に立ち止まらずに車両奥に移動する、歩きスマホをしないなどのマナーを守りましょう。また、挨拶は人的交流の基本ですが、東大生はこれが苦手な人が多いようです。人とのコミュニケーションは今後とても重要になります。まずは、大学の正門で守衛さんに挨拶ができるようになってくれるとうれしく思います。」。要はフツーの人付き合い感覚を持とうということではないかと思います。私も先日、混み合う電車の中でリュックを背負いながら手にアイスシェィクを容器を持ち食べている女子高3生に遭遇しました。警告する視線を向けましたが、悪びれることもありませんでした。マナーという点では、私が属する専門職関係でも断りもなく関係者限定の集まりの模様を撮影してSNSに載せるような厄介なセンセイもおられますから、けっして他人事ではありません。いやはや、と思います。