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市議会傍聴記

昨日、地元の市議が、いじめ・不登校対策の推進について市議会定例会の一般質問に立つので、傍聴に来てほしいと案内があり、本日午前中久々に傍聴席へ足を向けました。市議会は市役所仮庁舎の大会議室に臨時で設営されて開かれており、フラットなフロアで議長席を挟んで市幹部と市議団が向き合う形となっています。以前の専用の議場と異なり、傍聴席は市議らの背後から間近に議事を見守れるようになっています。いじめ対策についての教育部長の答弁では、今回初めて重大事態のいじめ事案への対応ということで、教育委員会の附属機関として第三者委員会が設置されることが明らかになりました。実は、私がフォローしていた事案に関することで、第三者委員会設置の方針は私へも昨日教育委員会から伝えられていました。これまでこうした第三者委員会が常置されていなかったため、児童保護者からの声が取り次がれる機会が少なかったように思います。ようやく市がいじめ防止対策と向き合う気になってきたと捉えています。

傍聴については、せっかくだからと、他の議員の質問も聴いてみました。ある設計士出身の議員は、図書館・歴史資料保管展示施設における指定管理者制度の活用を質問していました。その中で佐賀県武雄市の図書館の運営が指定管理者に民間委託されていることを評価していましたが、まったく民度の低い質問だと思いました。武雄市では指定管理者で入った民間書店が蔵書として価値のない古本を大量納入させた出来事が過去ありました。図書館なら司書、博物館なら学芸員という知的人財がもっとも肝要なのに、建築業者的な施設管理のコストでしか知的施設の維持管理を考えていないことに驚きました。

その議員の質問資料に教育哲学者の苫野一徳氏の新聞論考記事「不登校が訴える学校の限界」があり、これはこれで昨日の皮肉な出来事を思い浮かべました。というのが、昨日、私がフォローしているいじめ事案が起きた学校で会議があり、そこの学校長が、上記の苫野論文記事を読んで自分も共感するといっていたからです。学校長が共感した記事の中には、子どもたちに無言で清掃を強いる学校での取り組みが軍隊のようだと批判されていましたが、共感したと言っている学校長が掲げる学校の運営方針にも「無言そうじ」の推進が入っています。学校の清掃は子どもたちが声を掛け合って時間がかかる場所を協力して行う方が、効率的で社会生活でも役立つ清掃方法だと思います。ひょっとしたら学校長は「無言そうじ」の気味の悪さに共感したのではなく、社会の常識から離れた学校の限界に共感したのかもしれません。

企業主導型保育事業とは

近くのショッピングモール敷地内に企業主導型保育事業がオープンするようです。この事業についてはひと頃の放課後等デイサービス事業と同じく助成金詐欺が横行し、新年度から事業参入が厳格化されました。たとえば保育事業の実績が5年以上ある事業者しか認めないとか、保育定員が20名以上の保育園では職員における保育士資格者の比率を50%以上から75%以上に高めるとかです。ちなみに近くにオープンする保育園は実績ある事業者ですが、定員は19名となっていました。預けるにしても働くにしてもこうした事業の規制については調べたがいいかもしれません。

福祉教育という名の主権者教育

一昨日、宮﨑県の日向市社会福祉協議会で取り組んでいる福祉教育の視察研修に伺う機会がありました。小中学生が自らの考えで地元自治体や地域住民の協力を得ながらさまざまな福祉向上の施策を実践しています。子どもたちは、未来の地域人との位置づけですが、その力を見るとすでに現在の地域人として活躍していました。まさに動けば変わることを、子どもたちが会得している姿がありました。これは、福祉教育といいながら、生きた主権者教育だと感じました。私の地元市の主権者教育といえば、子ども市議会とかがあるのですが、前日に質疑応答のリハーサルが行われていたり、シナリオ通りの形骸化が感じられます。現場を見聞し、現場で動く生きた政治から強い地域社会は生まれるのではと思いました。

面従腹背は大切

かつて教育行政のトップを務めた元官僚の座右の銘が、面従腹背だったそうですが、現役の霞が関の住人たちも自分たちを指して「なんでも官邸団」と自嘲しているそうですから、必要なことなのかもしれません。今度は、鴻上尚史著の『 「空気」を読んでも従わない』(岩波ジュニア新書、820円+税、2019年)を読んでみます。夏休みに入ると、就職を控える若者と出会う仕事が多くなります。よく石の上にも3年という言い方がされ、転職市場に通用するキャリアを積むには少なくとも3年はかかると指導するよう言われているのですが、たとえば生命や精神に悪影響を及ぼすブラック職場であれば、即座にその場から離脱するのが正しい選択肢です。民間企業であれば、淘汰されればいいのですが、公共団体だと、潰すわけにもいきません。職場環境を変えるためにも働く人が楽に生きるすべを知らないといけません。

いじめと探偵

昨夜のロアッソ熊本のJ3公式戦4連勝を速報観戦して気分が良かったところに視聴した、NHKスペシャル「シリーズ 子どもの“声なき声” 第1回  いじめと探偵 ~行き場を失った“助けて”~」は、あまりにも衝撃的でした。学校や教育委員会へ声を上げても取り合ってくれないという現実を確信しました。いじめに苦しむ子どもたちの中には自ら命を絶つ悲劇も続いています。これは何とかしなければならない深刻な安全保障問題なのではないかと思います。近隣国の脅威を煽り米国の軍需産業から欠陥品を爆買いする前に自国民の子どもを多数見殺しにしておいていいのか怒りが湧いてきます。番組に出ていた探偵社では、いじめ調査については基本無償で行っておられるということで、その行動力には頭が下がりました。亡くなられた子どもの命は取り返しができませんが、今も進行中のいじめはあると思います。それをどう止めて救っていくのか、番組で紹介していた行動手法については、たいへん参考になりました。

学校ムラの闇

今の原子力規制委員会の前身は、東日本大震災前の原子力安全委員会です。今にしてみればどの口が安全というかということになるでしょう。新藤宗幸著『行政責任を考える』に出てくる原子力安全委員会と原発保有の電力業界との関係、いわゆる原子力ムラについて知ると、本日傍聴の機会を得た教育委員会と学校との関係に似通っていて、学校ムラの闇を垣間見た思いがしました。教育委員の経歴を見るとほとんどが小中学校長を最後に退職された元教員の方々でした。確かに学校運営には高い見識は持っておられるとは思います。そのため、平時の対応の判断は問題ないのですが、学校での不始末が発生した時に法令等に則った厳正な判断が下せるのか、少し懸念を覚えました。たとえば、市のいじめ防止対策基本方針では、各学校でもその学校版の方針を策定し、それを学校のホームページに掲載して広く保護者や地域に啓発するよう定められています。ところが、ある学校では、その学校版方針を策定当時は掲載していたのに、この連休中まで市の方針に反して長らく削除していました。連休明けに教育委員会側へ指摘すると、掲載が復活しました。この市の方針や学校版の方針の策定については、さらに笑えない話があります。その市の方針案をまとめたのは、当時の教育委員会において指導主事だった職員なのですが、その職員は現在、学校版の方針を学校ホームページから削除していた当の学校長なのです。つまり、自ら策定に係わった方針を自ら蔑ろにするという芸当をやってのけたのです。あるいは、そうした方針案については、もともと県からモデル文が授けられていて、自治体名や学校名だけ差し替えれば完成する代物なのかもしれないと考えています。

不作為の取繕い能力だけは認めよう

今読んでいる行政学者の新藤宗幸著『行政責任を考える』で出てきた言葉で、すぅと胸裏に刺さったのは「不作為の取繕い」という表現でした。地方自治体の公務員にもありがちなことで、自治体の例規集を眺めると、ずいぶん立派な文書が備わっています。ですが、その多くは、県やさらには国からもたらされたモデル文をだいたい引き写したものであって、魂が入っていません。法令等を遵守しなければならない当事者自身が日頃その存在さえ意識せず、法令等に沿った行政運営を行っていないことが多いのではないかと感じます。たとえば、学校においていじめや事故が起きても定められた方針に沿って職務を行う能力が、学校長等らには備わっていないように思います。公立学校であれば、市の教育委員会に実務担当者として学校教育課長や指導主事がいますが、前者は学校長は県教職員採用なのに対して市事務職員採用なので学校のことは専門外として深入りを避けますし、後者は学校長より後輩の教職員が就いているので身内の先輩へ物申すのは遠慮が働くと思います。関係者それぞれが問題が表面化しないよう報告も行わず問い質しもせず、やり過ごそうという流れになるのは自然なことです。結局、不作為の取繕いだけが行われ、問題解決は先延ばされたり、握り潰されるのではないかと思います。しかし、公の使命は良い環境の中で子どもを教育することではないのでしょうか。不作為の取繕いに満ちた環境の中で道徳が教科として教えられている学校は、嗤うしかないほど不道徳な世界だと思えます。

責任の問い方

養液栽培による農業事業を行っていたころ、原発プラントと同じような問題を抱えていると思いました。農業の場合、生産性を高めるためにまず技術的な成功を追い求めがちです。しかし、どうしても肥料の排液が出てしまいます。冬場のハウスであれば、暖房による温度や湿度管理、果ては二酸化炭素濃度も考えなければなりません。技術的に正しいことを突き詰めれば、経費は天井知らずに上昇します。そうなると、経営的には採算が合わないことになるので、技術的にはここまでしたいということが分かっていてもあえてセーブすることをします。それと、排液はそのまま農業用水路へ流しますから、当然水質を変化させます。環境への影響はつきものです。もしも循環処理するとなると、その設備のためにさらに経営を圧迫します。原発もそうです。技術的に管理を極めれば環境への危険性は低くなるでしょうが、採算のとれる電源ではなくなり、経営的に成り立たなくなるから、どうしても管理にはある程度の線を引くという対応になってしまいます。公害病の原因企業も似たような対応を図ってきました。
このように、事業を例にとると、技術、経営、環境の3つのバランスの取り方が重要です。それぞれのマイナス部分の内容次第では事業自体が成り立たないことがあるかもしれません。
もうひとつ考えたいのは、何か問題が発生した時に、それに対処する人が、いろんな部分への影響を多面的に考えられるかが問われると思います。問題解決能力のある人には、そうした多面的な見方ができ、そうでない人は一面的な見方しかできないという気がします。問題解決能力のない人への責任を問わなければならないとき、一面的に問うのではなく、多面的に問う必要があるかもしれません。

願ってやみません

4月30日に行われた「退位礼正殿の儀」のライブ中継を視聴したときに、国民代表の辞の一節で「あれっ」と感じていたのですが、その後の情報で次のような言い間違いがあったことが確認されています。国民を代表するその方は退位する天皇に向かって、「末長くお健やかであられますことを願って…」でいったん中断して、「あらせられますことを願っていません」と言っていました。原稿に「願って已みません」とあって「已」の字を「い」と読み間違った、つまり読み方を知らなかったのではという見立ても出ています。いずれにしても信頼と敬愛を受けてきた国民の代表がこのレベルではがっかりです。
さて、連休明けに読む本は、新藤宗幸著『行政責任を考える』(東京大学出版会、2800円+税、2019年)です。国民(住民)の行政への向き合い方を考えてみたいと思ったからです。
こどもの日でもあるけさの朝日新聞は「繰り返される 学校での事故」として、学校内で死亡事故が起きても詳細な報告が文部科学省に上がってくるのは1割に過ぎないと報じていました。裏を返せば、いかに学校や教育委員会が国民(住民)を守ることに希薄で、学ぶことをしないかということを物語っています。対応方針は定めてあってもまず学校で動かなければ、情報は上がってきませんし、教育委員会が先取りして動くことはありません。指導主事クラスは学校長クラスより後輩であることが多く、好き好んで先輩に指導することは考えられません。
最近、地元の学校でいじめ問題への対応をめぐり、上記の報道と似通った行政組織の構造に接して、国民(住民)が声を上げ続けない限り問題は黙殺されかねないという思いを抱いています。

相手方が無能な学校だったなら

地元市のいじめ防止基本方針の巻末には、重大事態発生時の対応フロー図が載っています。一見すると、もれの無い立派な図です。しかし、最初に行動すべき学校から正しい報告が教育委員会へ出ないことには、まったく機能しない問題を抱えています。へたすると虚偽の報告を出して隠蔽に走る学校があるかもしれません。人格者の集まりである教育委員会では、まず学校を疑うこともないと思います。実際、そうした事態こそが起こりえるため、いじめ事案は適切な対応がとられないまま長期化するのではと思います。相手方がたまたま無能な学校だったなら、関係者の働きかけ先はよくよく考えないといけないかもしれません。

市のいじめ防止基本方針を読んでみました

2年前に地元市が定めた「いじめ防止基本方針」が市のホームページに掲載されていたので改めて読んでみました。2年前、市立の各小中学校も市の方針に沿って自校の「いじめ防止基本方針」を定め、私の地元小学校も当時学校ホームページに掲載していました。ですが、現在は削除されて閲覧することができません。なぜなのか確認してみたいと思います。

市の方針の「はじめに」以下のことが書かれています。「いじめは,人権に関わる重大な問題であり,心豊かで安全・安心な社会をいかにしてつくるかという,学校を含めた社会全体に関わる国民的な課題である。いじめの問題に社会総がかりで対峙するため,基本的な理念や体制を整備することが必要であり,平成25年6月「いじめ防止対策推進法」(平成25年法律第71号。以下「法」という。)が成立し,同年9月に施行された。また,これを受けて,国の「いじめの防止等のための基本的な方針」(平成25年10月11日文部科学大臣決定。以下「国の基本方針」という。)が策定された。そして,平成25年12月26日には,熊本県いじめ防止基本方針(以下「県の基本方針」という。)が策定された。
この宇土市いじめ防止基本方針(以下「市の基本方針」という。)は,法第12条の規定に基づき,学校,家庭,地域その他の関係機関の連携の下,いじめの防止等(いじめの防止,いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策を総合的かつ効果的に推進するために策定するものである。」。

いやはや

東京大学の入学式では例年総長や来賓の祝辞はニュースになります。かつては難解な言葉で47分間にわたる挨拶を述べたフランス文学の大家の総長もおられました。ところが、教養学部長の式辞はその陰に隠れてほとんど取り上げられることはありません。今年はその教養学部長式辞で、以下のようなくだりがありました。「教養とは直接関係ないのですが、皆さんには社会で生きていくために必要なマナーも身につけて欲しいと思います。例えば、通学時に井の頭線の電車に乗ると思いますが、混雑時にはリュックサックを体の前で抱える、出入り口付近に立ち止まらずに車両奥に移動する、歩きスマホをしないなどのマナーを守りましょう。また、挨拶は人的交流の基本ですが、東大生はこれが苦手な人が多いようです。人とのコミュニケーションは今後とても重要になります。まずは、大学の正門で守衛さんに挨拶ができるようになってくれるとうれしく思います。」。要はフツーの人付き合い感覚を持とうということではないかと思います。私も先日、混み合う電車の中でリュックを背負いながら手にアイスシェィクを容器を持ち食べている女子高3生に遭遇しました。警告する視線を向けましたが、悪びれることもありませんでした。マナーという点では、私が属する専門職関係でも断りもなく関係者限定の集まりの模様を撮影してSNSに載せるような厄介なセンセイもおられますから、けっして他人事ではありません。いやはや、と思います。

みんな一緒をやめる

苫野一徳著『「学校」をつくり直す』を一昨日読み終えました。イエナプラン教育などの紹介もありました。おそらくというか、本書内でも指摘されていましたが、限られた現場しか知らない先生たちや教育行政の担当者たちは、著者の主張を反映するにはたいへん後ろ向きだと思います。ですから、「学校」はつくり直されず、合わない子どもたちは登校しないという被害回避行動をとるのは当然のことだと思います。しかし、つくり直されないことは、教育を受けさせる義務の放棄につながります。一家庭の当事者なら逃避が正しい選択肢になりますが、将来と地域住民の利益を考えたら誰かが声を上げ動かなくてはなりません。

不都合を隠す方便になっていないか

昨日の朝日新聞オピニオン面は、インクルーシブ教育について取り上げていました。近くの公立学校長の口からもこの言葉が出ていて、その内実について気になっていました。インクルーシブとは、文字通り包み込むという意味の英語です。いろんな問題を抱える子どもたちを区別せずに、みんな一緒の教室で学び育てようという教育スタイルを指すものと理解されています。ですが、たとえばいじめの構造が残ったままで、加害児童も被害児童も一緒にしておいていいということにはなりません。放置しているという不都合な事実を覆い隠す方便としてインクルーシブ教育という言葉が発せられているとしたら、それは悲劇です。個々に応じた教育の中でしか子どもは学習する権利は確保できないと思います。公立学校にはそうした教育環境を提供する義務がありますが、それを提供できない環境にあるなら、保護者としてそうした学校に子どもを通わせられないというのが正直な気持ちだと思います。

「学校」をつくり直す

現在、地元の公立学校でいじめ対策が問題化していて、地域住民としてどうかかわるべきか考えながら動いています。そんなこともあって、これから苫野一徳氏の最新著『「学校」をつくり直す』(河出新書、840円+税、2019年)を手に取ろうとしているところです。公立学校における教職員や保護者、行政に問題に対処する力が不足しているとなれば、それを補完するのは地域住民の知恵と行動しかいないと思います。いじめ防止対策についていえば、当事者である教職員自体に専門的な知識も経験もないために、場当たり的な対応やヘタすると隠蔽する傾向があると思います。
苫野氏の著書を読むのは5年ぶりです。前回読んだのは、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)でした。その中で同氏は、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにあり、その原理をどうすればより実質化していくために、自由のための共通ルール「法」の設定、法の理念を実質化する「教育」、法・教育を補完する「福祉」の重要性を挙げていました。それでいえば、法の理念を実質化すべき教育の場である学校において教育を受ける権利が脅かされている事態は、非常に苦々しいことです。ここは、地域福祉の出番だと思います。

寄り添うということ

本日は県議選の告示日となっています。正午現在、我が家の前にある立候補者の選挙ポスター掲示板を見ると、定員1人に対して現職1人のポスターしか貼ってなく、事前の報道通り無投票の可能性が高くなっています。無駄な経費がかからなくて良いという意見もありますが、公職として働く人の資質向上のためには、政策論争を通じた選択の機会があった方が長期的にはいいと思います。さて、そうした公職にある人が寄り添うという言葉をつかうときがありますが、そんなに簡単につかえない言葉だと思います。最近、いじめの問題や在留希望の外国人の問題と身近で接する機会があり、不利益を被る人の気持ちをくみ上げるのは難しく、それらの人を保護すべき人の思考を改めてもらうのもさらに難しいと感じています。特に保護すべき立場の方にわかってもらいたいのが、対処を誤れば当事者の生命に係るという点です。せめて代弁者になろうと思います。写真は、一昨日、甲佐町の特別養護老人ホーム前で撮った桜です。

根も葉もある話

当社がミニトマト生産を行っていたころ、養液栽培研究会の研修でミニトマトの尻腐れ病を防ぐには、根からカルシウムを吸わせる必要があると学びました。それ以前には、別の農業技術コンサルタントから葉面散布でカルシウムを吸わせればいいと聞いていましたので、このコンサルタントは無知だということを学びました。確かに葉からもカルシウムは吸うので、葉の状態は良くなります。しかし、葉から果実へカルシウムが供給される管はありません。果皮からもカルシウムは吸いません。果実の状態を良くしたければ、根から果実へ通じる管を使ってカルシウムを与えるしか方法はありません。もっと始末の悪いことに、葉は地上から目視できますが、根は地下部にあるので根が腐っていると、効率的に養分を吸ってくれません。
こんな根も葉もある話が、身近な学校で沸き上がっています。それは、校内での子どもによる子どもへのいじめ、つまり虐待です。学校では、いじめの実態をあまり掌握せずに不登校をなくそうと努めていて空回りしています。いじめが発生しないような対策をとることもなく通学を勧めたら、当然、いじめは続きます。
県内公立学校の教職員の4割が今後10年で定年を迎えるとあって、授業を行う能力の低下が懸念されています。しかし、授業が成立する以前の問題が多いことが深刻に思います。いじめあるいは虐待を起こしてしまう子どもへの対処については、ほとんどの教職員が専門外です。問題を解決しないまま授業を行わざるを得ない状況にあるように思います。本来の務めを果たす場がなく、能力の持ち腐れになっているような気がします。行政にしても児童福祉の専門家があまりにも少なすぎます。
子どもも教職員も疲れて腐れ果てているのですが、地域は葉を見ていて根の腐れに気づいていない、そんな気がします。今、学校の果実は腐りかけています。

式辞は怖い

各種の式辞に耳を傾ける季節です。今日は、ダーウィンの名言「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」を引いて卒業生に対して「自ら変化できること」を贈る式辞を聴きました。ですが、これは怖い言葉です。一つは、往々にして変わる必要があるのは、口にした本人であることがあり、聴く側からすると、「自ら変わらなければならないのは、あんたでしょう」と突っ込みを入れられかねません。もう一つは、そもそもダーウィンはそんなことは言ってなかったそうで、後世の人による進化論の乱暴な要約に過ぎず、教訓めいた話にすり替えるのは誤りという見方があります。式辞では、このネタを使わないのが賢明だと思いました。あと同じ式のあいさつで、ご健勝を「ごけんかつ」と言う保護者代表もいました。なんともびっくりでした。

人類史を学べ

ニュージーランドのモスクで起きた惨劇の犯人の誤った妄想を砕く必要があると思います。犯人の出身地であるオーストラリアにしても、ニュージーランドにしても、今の住民の祖先は肌の色にかかわらずすべてアフリカ大陸からの移民です。犯人の妄想に従えば犯人自身も排除の対象になることがわかっていません。30年近く前に一度だけオーストラリアを旅行した経験がありますが、シドニーにあった州立博物館では、オーストラリア先住民族と英王室の写真を並べて祖先は同一であるとの人類史の展示があったのを覚えています。科学的検証を経た正確な研究成果に基づく教育が、世界のどこでも重要です。