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8月に県内でも大規模接種センターが開設

熊本県内では大規模接種センターが開設されていませんでしたが、昨日、県が発表したところによると、8月に益城町のグランメッセ熊本内にできるようです。まずは地元で7月中旬以降に始まる64歳以下の接種予約が先にできればいいのですが、考慮に入れておきます。

以老制老

本日も高齢者向けコロナワクチン接種予約が9時からあったのですが、500人枠が30分で埋まったと市で発表がありました。たまたま市役所を訪ねる用があったのですが、正面入口横の屋外にテントが張られシルバー人材センターから派遣されたとみられる男性2人が立っていました。脇には市役所ではワクチン予約受付を行っていない旨を大書した看板がありました。予約が取れないため市役所へ向かう市民を制するために設けられているのだと気づきました。夷荻を以って夷荻を制する兵法にならった作戦に驚きました。やがて以老攻老となるかもしれません。

ワクチン接種予約で国民は何を思うか

多くの市町村で本日から高齢者を対象とする新型コロナワクチン接種の予約が始まりました。高齢者を家族にかかえる家庭では朝から予約確保に忙しかったことだろうと思います。電話は通信会社が着信制限をかけていることから最初から断念し、インターネットでの予約を試みました。しかし、アクセス制限で予約ページが開かなかったり、アクセスできても操作途中でページ遷移がうまくいかずにエラー表示が出たりと苦戦を強いられました。それでもなんとか完了にたどり着いたのですが、予約を断念した家庭も多かったかもしれません。受付については予約者・自治体双方にとってもっといい方法がなかったのかと思いますし、今回のことで行政に対する不満や不信が出てきそうな気がします。仕事ができる行政となるためにはどうしたらいいのか。

レベル5厳戒警報の影響

新型コロナウイルス感染症対策に係る熊本県リスクレベルが最高基準である「レベル5厳戒警報」に引きあげられたことに伴い、地元市の公共施設が本日から5月末まで休館となりました。その影響で地区内の各種団体の総会行事が昨年に引き続いて開催できずに、書面決議の形をとらなくてはならなくなりました。こんな調子で事業運営が進むとなると、共助の活動も停滞してしまう感じです。

避難行動要支援者名簿について

災害対策基本法の規定により、市町村によって避難行動要支援者名簿の作成、名簿情報の避難支援等関係者への提供等が求められています。この規定の施行は2014年4月からで、消防庁の調査によると、熊本県下の全市町村において2019年6月1日現在、名簿の作成等は行われています。ただし、これらの名簿の更新(追加・変更・削除)が重要で、これはほとんどの市町村で民生委員が行っているようです。登録にあたって要支援者の要件は限定されていません。単身世帯でなくとも登録できます。高齢者や障碍者でなくとも登録できます。普段元気に暮らしていてもまったく身寄りがない人こそ災害時の安否確認は困難ですから、そうした場合でも本人の希望があれば、登録可能です。

昨日見たドクターヘリ

きのうは外国人のための無料相談会に赴いていましたが、相談に訪れた方はゼロでした。コロナ禍にあって在留資格についてよりも生活福祉のために力になりたい部分が多々あり、それらの関連情報が支援を要する外国人住民に伝わっているか心配です。住民税非課税世帯にあっては生活小口資金の返済も免除される見通しとの報道もありました。ぜひ活用してほしいと思います。相談会が終わって熊本城前電停にいたら頭上をドクターヘリが飛んで国立病院へ向かっていました。本日の報道によると、ヘリ搬送されたのは、虐待を受けた幼児ということでした。子どもからすれば親をえらべないこととはいえまったくもって許されない犯罪です。

明日は相談員

熊本県独自の緊急事態宣言が発令されて熊本市有施設の開館時間が短縮化されています。各種行事も中止が相次いでいます。明日午後に熊本市国際交流会館で外国人のための行政書士による相談に携わります。在留資格関係以外に生活福祉にかかわる不安もあるかと思いますから、そのあたりの支援制度の案内にも努めたいと思います。

生活福祉資金特例貸付等の支援制度

地元市の社会福祉協議会の評議員会に出席しました。その際に紹介があったのですが、社協が窓口となって新型コロナウイルス感染症による休業や失業等により一時的に収入が減少した世帯を対象にした生活福祉資金等特例貸付等の支援が実施されています。金額的には小口ですが、無利子で保証人も不要です。昨春から今年3月末までの受付となっていますが、本日までに熊本地震時並みの申請があっているということでした。

何から手をつけるべきか

相変わらず『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。何度も記しますが、重たいテーマです。本書では、患者認定された胎児性患者の自立について問うていますが、同じ世代の患者であっても行政が認定しないために、司法認定を求めて今も裁判で闘っている人がいます。認定されても救いにはならないのですが、同時期に同じような生活歴がある人が認定もされず棄てられたままとなっている現実もあります。支援に順番をつけるのはできませんが、問題を提起し一人ひとりの尊厳を回復するには多くの力を必要とします。これは誰かがやらなければ永遠に棄てられる話です。

障害者の自立

引き続き『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。章ごとのページ数はさほど多くはないのですが、読みながら立ち止まさせられる重い本です。補償や支援が不十分なせいでそのことに目を奪われがちでしたが、生まれながらにして患者である人たちの声をどれほど聴いてきたのか、心もとなく思います。労働コロニーを目指してスタートした相思社も最初は患者も職員としていましたが、今は姿を変えてきています。胎児性患者も高齢化していていわゆる生産人口の世代から脱していくようになります。自立について取り組まないまま問題を消滅させることになりかねません。

研究の動機

『胎児性水俣病患者たちはどう生きていくか』を読んでいます。考えてみれば胎児性水俣病患者の自立についての研究をして食べていけるか不安ではないかと思います。研究してもどこからか高い報酬が得られるとは限りませんし、ポストに恵まれるとも限りません。こうした書籍に触れるときに著者の研究の動機はなんだったのか気になります。

高齢者宅訪問

地区の福祉活動の一環で高齢者宅を訪問しました。訪問とは言っても現在のコロナ禍にあっては玄関先で顔色をうかがう程度です。こうした時期ですので、最近は自宅訪問型の悪質商法は少ないようですが、どのような手口が増えるのか、それはそれで気になるところです。一昨日開かれた市の養護老人ホームと軽費老人ホームがそれぞれ定員割れしているということでしたので、入居者募集の案内を活動参加者に周知しました。

社会とのつながりを保つ

コロナ感染防止の最大の対策は人同士が接触しないことと分かってはいますが、認知症予防対策の面から見ると、社会とのつながりを保つことは重要です。経済との両立というよりも人として生きる楽しさとの両立を図りたいものだと思います。

りんどうの活動を知って

ハンセン病問題に関する相談・支援等についての人権研修を受ける機会に恵まれました。ハンセン病問題に関する差別の歴史や国賠訴訟については、それなりに理解していましたが、県内に回復患者やその家族の相談・支援を行うセンター「りんどう」があることは、初めて知りました。本県では、社会福祉会が熊本県の委託を受けてその事業を行っているそうです。そうした事業を行う公的センターは他に大阪府にしかなく、熊本のセンターへ寄せられる相談も県内外からあるということでした。回復患者が暮らす施設の歴史をたどると、現在の入管施設において外国人を不当に長期間収容したり、職員によって過剰な制圧行為が行われていることを思い出しました。人権侵害はいつの時代にどこでも発生しています。

中抜き計画では困る

この一週間は所用が立て込み本ブログの連日投稿が途切れてしまいました。さまざまな経験を積む機会を得ていますが、市の地域福祉計画策定に伴う地区座談会へ地区の民生委員代表として参加したのですが、座談会の意義について大いに疑問を持ちました。市の意向としては、すでに計画策定委員会のメンバーを決めて、市民アンケート結果や各地区座談会結果を反映して計画を策定するということでしたが、せっかくの座談会には委員の出席がなく、民間事業者の仕切りでブレインストーミング方式のグループワークをさせるというものでした。まずアンケート結果の分析の切り口が雑でした。分析についてはともかく、座談会参加者へアンケート結果を事前配布するだけでも座談会の議論の深まりが期待できるのにそれがありませんでした。委員へ生の意見や提案を伝える機会がなく、いわばその場限りの頭脳ゲームに過ぎないグループワークでは適切な議事録としても残らない恐れを感じました。もともとが、法律に基づいて地方自治体が計画を策定しなければならないのですが、現場の行政職員はルーティンの業務の処理に手いっぱいで、こうした計画策定の仕事は能力的にも時間的にも無理なのではと思いました。だから、民間事業者に計画策定の流れの管理を任せてあまり独自性のない通り一遍の作文しか出来上がらないのだろうと思いました。コロナ対策でさまざまな給付金・補助金制度の運営事務が民間事業者に任され、中抜きビジネスとの批判を浴びましたが、地方でもこうした仕事の進め方の一端に触れると、計画段階から中身のないまさしく中抜きになるのではと思わされました。

24年経って

私事ながら本日は結婚記念日にあたります。1年後は銀婚となります。ひところは記念日に合わせて小旅行をしていたのですが、このところはそういう機会も減ってきたように思います。昨今のGoToキャンペーンは無理やり感があって利用する気になりません。GDPのことだけを考えれば、先日の投稿でも触れた通り負の消費も貢献します。医療や介護のサービスは、地域に大きな雇用や消費を生みますから、医療機関や介護施設の利用者の存在は、それだけでありがたいと思わないといけません。利用者の方は、社会や家族等に迷惑をかけていると恐縮する必要はまったくなく、感謝されなければなりません。医療や介護のサービスと宿泊飲食保育のサービスを結ぶ優遇政策はもっと考えられてもいいかもしれません。

審議会行政で見落とされがちなこと

地方自治体が地域福祉計画を策定するにあたっては、住民の意見を募る機会が設定されます。来月、地元の地区座談会に出席する予定ですが、こういう場に出てくる住民代表となる人たちは、比較的自助や共助が盛んな地区の方が多くなり、本当に福祉の支援を要する地区の意見が反映されるのかという思いがあります。そもそもそうした想像力が行政を運営する側にあるのかという思いにかられます。行政の施策にはやはり住民の意見を反映したという正当性が問われますから、審議会的な場の提供には熱心です。しかし、ただその場を提供しても、どのような人が出てくるのか、ほんとうにその当事者といえる住民なのかは、よく考える必要があります。それでないと、やってます感行政に過ぎないことになります。現役世代が移り住んでこない老人ホームのような地区、支援する住民がいない地区が、細かく見ていくとコマ切れ状にあります。そうしたところからは、各種団体の長が出てこないので、長が住む地区とそうでない地区との格差は大きいものがあります。

東アジアの人口問題

人口問題は、そこに暮らす人々の将来社会を左右する重要な要素です。『現代東アジアの政治と社会』に記載のデータから触れてみたいと思います。まず世界全体の人口は飛躍的に増加しています。1800年:約10億人→1930年:約20億人→1975年:約40億人→1999年:約60億人→2019年:約75億人→2030年予測:約86億人→2050年予測:約98億人→2050年予測:約98億人→2100年予測:約112億人という具合です。当然地球の生態系に深刻な影響を及ぼすと考えられます。地域別には、アフリカとアジアではインドとパキスタンが人口増加の中心になるとみられています。一方で、東アジアでは少子高齢化が進むと見られています。
日本は、2004年をピークに人口自然減少へ転じていて、人口構成で65歳以上の高齢者率が21%を超える超高齢社会となりました。東アジアでは、2022年過ぎに韓国、台湾、香港が、2030年前後には中国が超高齢社会に突入すると予測されています。生産年齢人口の増加率が人口増加率よりも高くなる、いわゆる人口ボーナスの状態であれば、自然と高度な経済成長が望めますが、この逆である人口オーナスの状態であれば、GDPは下がり、国民は貧困化し、高齢者に対する医療費と年金の負担が生産年齢人口を直撃することとなります。
東アジアでは非婚率の向上と晩婚化現象により少子化が加速していますが、それへの対策が貧困です。これには旧態依然とした家族主義から脱却できていない未成熟な社会という側面もあります。先進国は概ね少子化に悩んでいますが、フランスは「子どもは社会が育てる」という思想と支援による少子化対策が進んでおり、先進国の中では出生率が高いとされています。
もう一つ考えなければならないのが、格差問題です。特に教育の格差は社会的な格差につながります。東アジアにおいて日本の高等教育機関への進学率(2017年度大学短大進学率57.9%)は、台湾の約90%、韓国の約93%と比較すると低い位置にあります。台湾では仕事に就いている女性は90%超ですし、会社の幹部に昇進している数も多い特長があります。
これらのことを考えると、これから先、どういう社会を作っていくべきなのか、たいへん悩ましく思います。近隣の超高齢社会の国・地域でお互い覇権主義的行動をとるのはまずたいへん愚かしいといわざるを得ません。子育て負担を軽くしないことには生産人口の増加は望めません。そのためには保育に始まり高等教育まで含めた完全無償化を進めるしかありません。無駄な軍事的な力の負担を減らせば、それはすぐにでも可能ですし、教育の無償化は子どもの人権のためにも実現しなければならない、もともと国際基準です。

無自覚ほど怖いものはない

昨日、外国人の方と会った後に、その方の出身国の人名について興味を持ち、後で調べてみました。それによると、その国では一般にいわゆるファーストネームしかなく、いわゆるラストネームはないのだそうです。しかし、それだと同じファーストネームの人が多いので、いわば区別するために、姓名代わりに父の名前を付け名乗ることはあるそうです。たとえば、父の名前が「太郎」、その息子兄弟の兄の名前が「一郎」、弟の名前が「二郎」だったとします。そうすると、兄は日本では「太郎一郎」、弟は「太郎二郎」として名乗っていることになります。仮に祖父の名前が「一夫」だっととすると、父は日本風には「一夫太郎」と名乗ることになります。ともかく、姓がないのですから、日本の常識で考えると、父と息子の関係が親子だということが、名前だけではわからないと思います。でも兄弟は兄弟、親子は親子としての絆はあり、その外国人は生きておられます。日本でも姓がなければ、夫婦の姓に悩む必要もありませんし、能力に見合わない世襲の弊害もなくなったかもしれません。
それで、きょうはある日本人の高齢者の方と話をする機会があったのですが、正確に言えばまったく会話が成立しませんでした。高齢者の方は自分の勝手な思い込みだけで、話をするだけで、こちらの説明することを聴かなかったり、説明されても理解ができなかったようです。認知症の傾向がみられましたが、そうした方が何か重要な職務を任されていたり、自動車の運転をするのはたいへん怖いなと思いました。