『世界』2025年8月号読後メモ

『世界』2025年8月号の中から印象に残った言葉をメモしてみました。日本人よりも税金・保険料の納付率が高く、犯罪率が低いにもかかわらず、政治に参加する権利が制限されている外国人を、ことさら貶めたり排除したりすることでしか自尊心を満たせない、みっともない日本人たちが目立つ社会を感じます。同じ時代の同じ国内に住んでいながら、ファクトチェックが確かな情報空間にアクセスするか、それとも言った者勝ちフェイク混ぜこぜの情報空間にアクセスするかで、人間としての資質に大きな違いが生まれてきているように感じてもいます。以下の引用文には、メモ者による原文意を損なわない補正が含まれています。
・三牧聖子×中西久枝「12日の代償 米イラン攻撃は何をもたらすか」
三牧「(トランプ氏のイランの核開発問題は交渉より軍事力で解決という方向転換は)きわめて機会主義的判断だった」「そもそもギャバード国家情報長官は3月時点で、イランは核兵器を製造していない、と言っており」「アメリカ・ファーストは、融通無碍の発想」「イスラエルはイランへの攻撃を存亡の危機を打開するための先制攻撃としていますが、国際法上、許されない予防攻撃と位置付けるべき」「トランプ政権誕生後、ヤルタ2.0という未来予想」「トランプ流の世界観とは、よいディールができて、アメリカに利益をもたらす国は尊重すべきだが、アメリカに損をさせるような国は尊重する必要はないというもの」
中西「もしもアメリカとイスラエルが本当に体制転換を目標に考えるのなら、イスラーム法学者が標的にされてもおかしくない。おそらく、イランの現体制がすみやかかつ完全に崩壊してしまった場合、悪魔化する相手がいなくなる。それは望んでいないのではないでしょうか」
・望月優大「連載アジアとアメリカのあいだ第8回銃口を内側に向けた国の戦後」
「1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で巨大な領土割譲がなされるまで、カリフォルニアはメキシコの一部だった。それより前、1821年のメキシコ独立まではスペインの領土だった。さらには、スペインによる支配が始まるずっと前から、様々な先住民たちがそこで暮らしていた。トランプは、ロサンゼルスで『外国の旗』を掲げる抗議者たちを『動物』と呼んだ。だが、19世紀の半ばまでは、アメリカのほうこそが『外国』だったのだ。元々の住民は自分の意思で越境したわけではない」 ※トランプの祖父はドイツからの移民。
・最上敏樹「もはや時間はない アウシュヴィッツ解放80周年に」
「ユダヤ人の血統が純血を保ち、その集団がまとまって『流浪』したというシオニスト世界での通説も史実とかけ離れていることをシュロモー・サンドの『ユダヤ人の起源――歴史はどのように創作されたのか』は詳細に論証する。古代から別の場所に『移住』するユダヤ人は多く、エジプトにもローマ帝国にも住んだ。移住先で人々をユダヤ教に改宗させ、改宗による『ユダヤ人』を増やした。かつてユダの国と呼ばれたパレスチナは、7世紀にイスラム教徒軍に征服されたが、そこでユダヤ人が根絶やしにされたわけでもない。そのユダヤ人の末裔が今に残るパレスチナの農民である可能性すらあるのだ」「ホローコストを生き延びたユダヤ人の大部分は東欧出身である、主として現在のウクライナ東部にあたる地域で権勢をふるったハザール王国の出自を持ち、したがって現存するユダヤ人の祖先は、遺伝的にはフン族やウイグル族やマジャール人と深いつながりがある」「ジュディス・バトラーの『分かれ道』はイスラエルの行為を入植型植民地主義と呼んで、いまもヨルダン川西岸で続く『入植地』かくだいが、まさしく『植民地主義』であることを疑問の余地ない認識としている」「1975年の国連総会決議3379は『シオニズムは人種差別主義である』と述べた。アメリカが猛烈に反発したせいもあり、1991年の総会決議46/86により、それは撤回される。撤回は、その決議が誤りだったことを証明するものではない。いつの日かこの決議を再生すべき余地があるだろう。国際法によって動く国際社会を作らなければならない」
・奈倉有里「原始化される社会 ロシア内政学者が解説する教育・徴兵・法制度の現在」
「5月下旬、ロシア連邦国家統計局は、ついに出生率および死亡率に関する人口動態統計を、地域別も連邦全体も含めてすべて非公開とした」「このデータの非公開化の直接のきっかけとなったのは、2025年4月の死亡率が前年比で15%も増加し、それが国民の注目を浴びたためとみられている」
・宇野重規×国谷裕子「〈対談〉メディアは公共性を取り戻せるか」
宇野「情報空間A、情報空間Bという言い方をするなら、かつては多くの人が新聞や雑誌などの印刷メディアやテレビという情報空間Aを通じてものを考えていたのが、いまはSNSを中心とする情報空間Bへと人口がごそっと移動して、問題提起や論争の多くもそちらで展開されている。そとにいる人には内実はよくわからず――投票結果をみて初めて、実際に起きていることに驚かされたのです」「いま雑誌を最初から最後まで真面目に読み通す人はほとんどいないでしょう。実際、玉石混淆であり、通して読む必然性に乏しい。ただし、間違いなく面白い、大切な記事があります。漫然と読むとその他の記事に埋もれてしまいかねないし、単独ではその記事の意味がなかなかわからないかもしれない。それでも、心に留まった点を結んでいくと、間違いなくこの時代を切るようなコンテクストが見つけられるのです」
国谷「国民の知る権利の行使が難しくなってきていることに対して、執行権の肥大化をストップするための仕組みを積極的につくらなければならないのではないでしょうか」「日本政府は国連から繰り返し政府から独立した人権機関をつくるよう勧告されています。こうした機関も執行権を抑制するものとして機能する可能性があります」
・山本昭宏「『失敗』という本質 民主主義は幻滅から立て直せる」
「現代日本の政治的無関心は、以下の3つに分かれる。『1-①:新自由主義時代の個人主義』『1-②:代表制への不信』『1-③:過去の否認』」「2つの幻滅もある。『2-①:SNS時代の言論・運動への幻滅』『2-②:愚民論的幻滅』」「3つの『政治的無関心』を潜り抜け、さらに2つの『幻滅』をも突き破った新規参入の『目覚めた』有権者が『SNS炎上』を恐れない政治的な『インフルエンサー』を受け入れている。ときとして『動員させられた群衆』に見えてしまう新規参入者たちの『民主主義』の挑戦を、既存の政党・メディア・知識人は受けている」「私たちは敗戦以来80年間ずっと、『民主主義』を『失敗』し続けている。しかし、当然ながら、『民主主義』はつねに誰かの『失敗』を内包しているものだ。むしろ『失敗』にこそ民主主義の本質がある」「理想は嗤われていよいよ、理想になる。失敗したから理想論が言える。成功した者が言うと説教になる」
・有光健「戦争被害 放置されてきた軍民・内外差別」
『戦没者』には、例えば米軍の空襲で亡くなった民間人は含まれないのだろうか? 2025年3月5日付の質問主意書で上村英明衆議院議員が[『戦没者』の定義について、いつからいつまでの戦争で亡くなられた方々を指すのか、亡くなられた方々の範囲には民間人や子どもも含まれるのか、『戦没者』を規定した法律は何か]と質したところ、3月14日付の答弁書で[『戦没者』について、現行法令上、確立された定義があるとは承知していない]と石破茂首相名で回答している。そもそも『戦没者』の法的な定義はないのである」

九州の国宝とビアズリーをハシゴ観覧

酷暑の平日なら来場者も少ないのではと、「きゅーはくのたから」と「ビアズリー展」を7月9日、ハシゴして観てきました。九州国立博物館の「九州の国宝きゅーはくのたから」は、九州・沖縄にゆかりのある国宝の展示が目玉となっています。着いたのが午前10時過ぎということもあり、狙い通り一般入館者はそれほどでもなかったですが、小学生の校外学習と思われる団体の入館者の多さが目立ちました。
九博での展示品では、熊本県の江田船山古墳出土品(東京国立博物館所蔵)と宮崎県の西都原古墳群出土品(東京・五島美術館所蔵)が、特に興味を引きました。前者は5-6世紀の朝鮮半島・加耶・百済、後者は6世紀の朝鮮半島・新羅との交流がうかがえる金工技術が施されています。福岡市博物館所蔵の国宝の金印は展示期間外にあたっていて、今回は観覧していません。会場内では東京・永青文庫所蔵の国宝「太刀 銘豊後国行平作」を間近に観覧できるコーナーで入場制限がされていました。おかげで、展示品から離れた位置から遠目に見ただけでした。ですが、これは2年前に永青文庫で見たのでまあいいかと。
ところで、九博へは西鉄の太宰府駅から太宰府天満宮参道を通っての往復になります。駅へ戻る参道で、「三の鳥居の前の門柱」と「二の鳥居」の寄進者が、白蓮事件で有名な炭鉱王の伊藤伝右衛門であることに、今回初めて気づきました。これもいくらか通常より人通りが空いていたために、彫られたその名が視界に入ったのだと思います。なお、伝右衛門が寄進したのは柳原白蓮と結婚した翌年の1911年(M45)、事件はそれから10年後の1921年(T10)に起きています。経済的には富裕でも無学で文字が読めなかった男が、歌人としての教養豊かな女性と結婚し、天満宮の鳥居をなぜ寄進するに至ったのか、ご利益はなんかあったのかなと、いろいろ思いを巡らせてしまいました。
続いて、久留米市美術館で開催中の「異端の奇才 ビアズリー展」を訪ねました。オーブリー・ビアズリーは、1872年に英国ブライトンに生まれ、1898年に25歳で早逝した人物です。画業に専念できた期間はたいへん短いのですが、一時代を築いた作品を数多く残しました。ロンドンにあるヴィクトリア&アルバート美術館(1993年に訪ねたことがあります)が所蔵する作品を中心に展示されていました。ブライトンといえば、米国コロラド州ブライトン(地名の由来は米ニューヨーク経由でまさに英国のそれ)に遠縁の人たち暮らしていることもあって親しみを覚えますし、同じく夭折の画家であるエゴン・シーレ(1890-1918、28歳没)に通じる眼差しをその作風に感じて好みに入ります。
展覧会にはもちろん大満足でしたが、さらに堪能したいと図録を即座に買い求めてしまいました。暑い中歩き回って多少疲れましたが、図録入手により楽しみも持ち帰ることができました。

戦争観が問われている

アジア太平洋戦争期の熊本県内を標的とする大規模な空爆として知られる1945年7月1日の熊本大空襲(※写真は大甲橋近くの慰霊碑)から80年の昨日(7月1日)、平和憲法を活かす熊本県民の会主催による「第17回熊本空襲を語り継ぐ集い」に参加しました。今回の集いでは、熊本への初めての空爆となる1944年11月21日の「柿原(かきばる)空襲」の体験者の証言を聴く機会を得ました。証言者自身は米俵の下に避難して爆撃から1時間後に救出されたそうですが、自宅で祖母と当時5歳のいとこが命を奪われたということでした。
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのNHK熊本放送局の報道。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20250701/5000025627.html
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのTKUの報道。
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250701-00000007
実は熊本市西区花園の柿原地区は臨機目標であり、爆撃の主目標は、長崎県大村にあった海軍航空廠(航空機製作工場)でした。最初に大村が空襲に遭ったのは、1944年10月25日です。このときは、多くの勤労学徒が犠牲となりました。熊本県立宇土中学校4年生の生徒2名と引率の美術教師1名が亡くなっています。このときの証言(初出は『宇土高校創立70周年記念誌』※写真)は、平和憲法を活かす熊本県民の会が戦後65年の2010年に出版した冊子に収録されています。
このように戦争で命を落とすのは、戦闘員だけとは限りません。東京・沖縄・広島・長崎は言うに及ばずここ熊本においても戦争の実相を少しひも解いてみれば、武器を手に取らなかった民間人の死者が多数いたことを忘れてはならないと思います。
しかし、「命をささげた人々」(=戦没兵)だけを取り上げて、それで戦争の歴史を継承するとか、平和を祈念するという動き(※県護国神社)もあります。戦争は兵士も民間人も命を奪いますし、それらの死者に対して「命をささげた」とすることに強い違和感を覚えます。
これでは、戦争が起きたら国民は戦争に協力しろ、命を奪われたらそれは受忍しろということにしかならないと考えます。
2004年制定の国民保護法や同法に基づく居住地の県や市が定めている国民保護計画を読んでみると、損失補償や損害補償が認められる範囲・条件は驚くほど狭いなと感じます。国や地方公共団体からの要請に応じて協力し、土地が収用されたとか、救助にあたって死傷した場合の損失や損害なら補償してやってもいいぐらいなもので、これのどこが「保護」なのかと思います。
たとえば、80年あまり前の空襲に遭い孤児となった国民に対しても補償は何もありませんでした。受忍論が今もまかり通っていることがわかる記事リンクを貼っておきます。
https://www.asahi.com/articles/AST6W2FFZT6WOIPE00KM.html

「熊本空襲を語り継ぐ集い」参加に際して

本日(6月29日)の熊本日日新聞社会面に、7月1日に熊本市中央公民館で開かれる「熊本空襲を語り継ぐ集い」について紹介した記事が載っていました。私も参加予定ですが、当日は以下のプログラム構成となっています。1つは、県内で初めての空襲とされる1944年11月21日の「柿原空襲」(柿原は熊本市西区花園町にあります)について当時9歳だった住民の証言。もう1つは、米軍が撮影した空襲のモノクロ写真を人工知能(AI)などでカラー化して記憶の継承へ取り組む、市民団体「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」の高谷和生代表によるプロジェクト説明となっています。
ところで、「柿原空襲」を行ったのは、中国の国民党支配地域である成都から飛び立った米軍爆撃機B29の1機だったとされています。成都はいわばB29の前進基地で、第20爆撃機集団の本拠地は英領インド東部のカラグプール基地でした。このときの米軍司令官は、カーティス・E・ルメイ(1906~1990)です。ハヤカワ新書から上岡伸雄学習院大学教授が今年出版した『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』でも1945年3月10日の死者10万人を数える東京大空襲から80年ということで注目された人物です。ルメイは、航空自衛隊の創設と発展に貢献したという理由で1964年に勲一等旭日大綬章を授与されています。
成都からの日本本土への初空襲は、ルメイの前任者、ウォルフが司令官だった1944年6月。上記書p.107によれば、「92機がインドを出発し、1機がヒマラヤで墜落、12機がヒマラヤを越える前に引き返した。68機が成都で給油して出撃したが、1機が離陸直後に墜落、さらに4機が機械の不具合で引き返した。6機はやむなく途中で爆弾を投棄した。1機が日本に接近中に撃墜され、荒天のため、標的エリアに到達できたのは47機のみ。うち目標の八幡製鉄所を実際に視認できたのは15機で、作戦を完了するまでに7機と55人を失った。目標に命中した爆弾はたったの1発だった。」とあります。大戦中にヒマラヤ越えで墜落した米軍機は700機に上ったといいます。
司令官がルメイになってから、事故を減らすため、4機編成の夜間攻撃を止め、12機編隊による昼間攻撃に切り替えました。レーダーを使用し雲の上からの爆撃精度を上げさせました。満州周辺の気象情報の提供をソ連に求めましたが、これはソ連側からあっさり断られました。中国共産党支配地域への米兵不時着に備えて毛沢東へ要請した米兵保護は快諾されたので、医療品を共産党に提供し、毛沢東はルメイに日本軍からの戦利品である日本刀をルメイに返礼で贈ったともありました。
「柿原空襲」は、実は臨機目標であり、作戦本来の標的は長崎県の大村にある海軍航空廠でした。1944年11月21日の大村への攻撃では、109機のうち6機を失い、悪天候のせいもあって標的に爆弾を落とせたのは61機だったと、上記書p.111にあります。大村の海軍航空廠への爆撃はその前月25日にもあり、このとき初めて焼夷弾が使われましたし、その日の空襲では勤労動員で工場にいた熊本県立宇土中学校(旧制)の生徒や引率教師の犠牲者が出ています。同校内にはその慰霊塔がありますし、享年29歳の美術教師・佐久間修氏(現在の東京芸大卒)が妻を描いた「静子像」は長野県にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」の代表的収蔵品となっています。
なお、高谷氏がAIでカラー化した元の写真が撮られた1945年8月10日の熊本空襲にあたった米軍機は沖縄から出撃したものです。その日は、宇土・不知火・松橋も空襲に遭い、当時子どもだった私の父母も身近に感じた惨事だったといいます。
https://kumanichi.com/articles/1814233
https://mugonkan.jp/collections/

五輪より面白いねぇ

人間だれしも失敗はあるもので、6月27日の熊本日日新聞スポーツ面で三屋裕子氏のお名前をみたときに、40年前の失敗を思い出しました。当時学習院大学助手として着任された同氏を写真撮影したフィルムの現像を失敗した経験が私にはあります。失敗の原因は定着液の酢酸希釈量を間違って濃くしてしまったことにあるのですが、私の頭の中には40年来、「三屋裕子氏=現像失敗」という記憶だけが見事に焼き付いています。せっかくなのでその証拠画像「学習院大学新聞1985年4月16日発行号1面」を載せておきます。なお、文章は同級生の手によります。
ところで、冒頭の熊本日日新聞の記事は、JOC新会長選考を巡る構図についてでした。正直、五輪よりもはるかに白熱した戦いを解説した内容で、面白く読ませてもらいました。本記事によると、もともとは田嶋幸三氏がJOCの選考委員会で会長候補として有力とされていたのに、選考の権限がない元会長に過ぎない竹田恒和氏(=JOC独立志向)が、田嶋氏の裏には日本スポ協・JOC再統合志向の森喜朗元首相や遠藤利明元五輪相といった政治家がいると警戒し、橋本聖子新会長擁立に動いたということでした。
しかし、政治家介入というなら、橋本氏こそ森元首相を政治の父と仰ぐ政治家ですし、そもそも選考権限をもたないご老体がどちらの側でも現場に介入するのはどうかと思います。それと、橋本氏を後押しした竹田氏は、東京五輪招致疑惑でフランス司法当局の捜査対象になった経緯があります。それに乗っかった橋本氏も政治資金収支報告書不記載という裏金疑惑があり、政倫審では「一度は議員辞めることを心に決めた」と反省して見せながら、今では「一点の曇りがあれば立候補はしていません」と発言する始末です。
自ら頂点を極めようとか、キングメーカーを標榜する方々は、歳を重ねようが、スネに傷があろうが、そんなものはものともしない、超人的な能力があるんだなあと驚きました。一方、三屋氏だけが他薦候補だったという点は、次につながる気がしました。

「『続・水俣まんだら』の部屋」に載りました

2025年に緑風出版から刊行された『続・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』の著者のひとりである木野茂氏に、私が公開していた読後メモが見つかってしまいました。木野氏は、同著読者の感想を収録したサイト「『続・水俣まんだら』の部屋」を運営しておられています。このたび、拙文を紹介させてほしいという申し出を受けましたので、場賑わせぐらいの役に立つならと応じることにしました。
私としては、他の読者の感想がさらに多くの方の目に留まることを期待しています。
写真は、昨日(6月26日)相思社を訪ねたおりに不知火海方向を見て撮ったものです。

スラバヤつながり

「こうのとりのゆりかご」で知られる慈恵病院長の蓮田健氏の祖父である蓮田善明氏(1904年7月28日出生-1945年8月19日自決)といえば、学習院中等科在学当時の三島由紀夫(本名:平岡公威)の才能を見出した国文学者として著名な人物です。同氏の戦時下の足跡をたどると、1943年11月1日、第二次召集を受けて熊本で編成された第四十六師団隷下の歩兵第百二十三聯隊所属の陸軍中尉として門司港から現在のインドネシアのジャワ島にあるスラバヤへ派遣されています。同地には、翌年頭まで滞在していたようです。
私の祖父(1904年10月1日出生-1943年1月15日戦死)は、日本郵船の船員でしたが、軍属として、蓮田善明氏と同じく1943年の秋に日本からスラバヤへ向かいました。そして、1943年12月7日にスラバヤを出港し門司へ向かう海軍が徴傭した油槽船(この船は日本へ帰還できずフィリピン沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没)に最後の乗務をしました。そのため、蓮田善明氏と私の祖父の所属は異なりますが、生年と出身県が同じふたりが、1943年12月初め頃、スラバヤで滞在を共にした時期があったということになります。
そのような祖父の共通点を知ると、孫の蓮田健氏(直接お会いしたことはありませんが…)の取り組みについても自然と関心が湧くので不思議なものです。
現在のスラバヤはインドネシアでは第二の人口規模(約300万人)を持つ都市です。古くから貿易港として発展した歴史があり、華人も多く住んでいるため漢語では泗水と称されています。
祖父の没後71年の2015年9月に当時高校3年生だった私の子(つまり曾孫世代)が、スラバヤ工科大学を訪問する機会を得ました。そのときの記録動画がまだ残っていましたので、リンクを貼っておきます。
https://youtu.be/8Q1nRuvdc-c?si=7mnx9ln0Ly8PHNM4

なお、蓮田善明氏が所属した歩兵第百二十三聯隊は、マレー半島のジョホールバルにおいて敗戦の日を迎えました。その際の中条豊馬聯隊長(大佐)の訓示の内容が、蓮田中隊長(中尉)にとっては、あまりの豹変と変節ぶりであったために、激昂します。訓示を受けた集会の直後に、蓮田中尉は崩れて膝を床に着き、直属の上官である秋岡隆穂大隊長(大尉)の足を抱いて哭泣したといいます。そして、4日後、蓮田中尉は中条大佐を拳銃で射殺し、自身も拳銃で命を絶っています。秋岡大尉は戦後、現在は宇城市となっている旧・松橋町の町長を務めた人物です。秋岡家所蔵文書の「沙弥法喜寄進状」(竹崎季長が書き記した書状)は1978年2月2日指定の県重要文化財で、昨年末から今年初めにかけて、宇城市不知火美術館で展示公開されていました。その子息の秋岡廣宣氏は現在、学校法人尚絅学園理事長として活躍されています。秋岡廣宣氏が地元民放のRKK在職中の1991年、インドネシアツアーで私もご一緒した縁もありました。写真はジャカルタの国立博物館。

生まれの偶然性を感じたい

昨年6月の改正出入国管理法施行直前に初回放送された番組ですが、今月21日に再放送されて視聴することができました。難民を支援する素晴らしい日本人に誇らしさを感じる一方で、難民の人権を損なうことにやっきの恥ずかしい日本人がいる情けなさも感じます。
この番組に関連して触れると、上記の改正入管法では、在留資格が無い難民認定申請者はほぼ誰でも、3回目どころか1回目の申請中でも送還の対象となり得る条文が入っていて、2024年に岩波新書から『なぜ難民を受け入れるのか――人道と国益の交差点』を刊行した橋本直子氏は、難民条約違反と言わざるを得ないと指摘しています。
UNHCRの「難民認定基準ハンドブック」には、「認定の故に難民となるのでなく、難民であるが故に難民と認定されるのである」とあるそうです。それは、「生まれの偶然性」ということでもあります。橋本直子氏は同著書のp.254-255で、「たまたま日本に生まれ、もし日本が「いい国」だと思っていらっしゃる方がいるとしたら、日本がいい国であるということを、たまたま「悪い国」に生まれた方々と分け合っていただけないでしょうか。それがまさに難民条約の前文に謳う、難民保護を世界の国々が協力して責任分担するということです」と記しています。
日本が難民に対する人権や人道に後ろ向きであるイメージを拡散することは、国益に反します。
https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2025062113740?t=9&playlist_id=44d224f6-9bfd-49c2-8657-50f9cdfd1184

共創の流域治水へ

これもちょうど1年前(2024年6月20日)のことになりますが、熊本県庁地下大会議室で開かれた「共創の場形成支援プログラム(COI-NEXT)拠点連携シンポジウム2024~豪雨から学ぶ気候変動時代の『地域気象データ活用』と『緑の流域治水』」を受講した際に、前の知事や現在の知事と副知事の場違いな言動に接する機会がありました。それについては、その翌日(2024年6月21日)、自分のブログに記録しています(下記リンク参照)。
そして、県民の中にも、川に水を集めない「共創の流域治水」の考えを進めようという動きがあります。一昨日(6月19日)の地元紙に、これを提唱する蔵治光一郎氏のインタビュー記事が掲載されていましたが、本日(6月21日)、水俣市で同氏を招いたシンポジウムが開かれるとのことです。私は出席できませんが、きっといい話が聴けると思います。
https://attempt.co.jp/?p=11226

落ちぶれた日本人

ちょうど1年前(2024年6月19日)の地元市議会の質疑・一般質問で、ワクチンの有効性について自らの根拠を示さずに「全くのでたらめ」「うそ」呼ばわりし、市の接種補助事業に反対した珍妙な議員がいたのを思い出しました。こういう議員はおそらく本記事も読んでないだろうし、読んだとしても理解できないかもしれません。
ついでに触れると、上記議員の同じ日の別の質問テーマでは、市議会が教育行政への不当な介入になりかねない、中学歴史教科書の採択を取り上げる不見識ぶりを披露していました。これもおそらく自国の憲法や教育基本法の中身を知らないからこそできる荒業で、呆れさせられます。古代史料に書かれていたからといってすべてが史実ではないのが、常識です。しかし、同議員の話しぶりからすると、神話・伝承と歴史の区別がついておらず、しきりに神話・伝承を歴史の授業で教えることを、当時の教育長へ求めていました。
もしも私が教育長なら丁寧に議員の資質の無さを浮き彫りにしてあげて、神話・伝承のたぐいしか自慢することがないほど日本人は落ちぶれたのかと言ってしまいそうです。
エセ科学やエセ歴史を信じ込むような人物に議席を与えていることに嫌気がさします。

上野三碑と渡来人

2025年度くまもと文学・歴史館館長佐藤信連続講演会「地域と交流の古代史」の1回目「上野三碑と渡来人」を6月14日、受講しました。上野三碑とは、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録された、特別史跡の山上碑(681年)および古墳、多胡碑(711年)、金井沢碑(726年)からなり、いずれも群馬県高崎市に位置しています。
今回の講演を聴いて現在の群馬県にあたる上野(読みは「こうずけ」)地域が、7-8世紀の時代に異国人を排除することなく迎え入れた渡来人と密接な関係があり、仏教・漢字文化や建築・繊維その他の先端技術を受容して東アジアと交流してきた開明的な社会であったことを学べ、大いに刺激を受けました。高崎市では無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」を運行しているとのことですから、機会があればぜひ訪ねてみたいと思います。
上野三碑の存在については私も不勉強でしたが、その価値が日本で再発見されたのは、明治時代になってからなのだそうです。近世に、朝鮮通信使が多胡碑拓本を持ち帰って中国清に伝え、清の書家により楷書の手本として評価されていました。それが、明治時代になってから、清の外交官より日本の書家へ多胡碑の存在が教示されて、日本側で注目されるようになったということでした。
講師の佐藤館長は文化庁勤務歴もあるため、文化財保護行政についても詳しく、史跡がある自治体へは1件あたり240万円の交付金があると明かしていました。交付の趣旨は史跡保存のためということですが、地方財政にとっては歓迎なので、1991年から2003年まで群馬県知事を務めた小寺知事の時代は、本人が文化財を大切にする人物だったので、県民の協力も得て史跡を増やすことに奔走した逸話を紹介していました。
さらに、この講演を聴いて次のことも思い浮かべました。高崎市といえば県立公園「群馬の森」があり、2025年1月29日に朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去した知事がいます。このような人物だと、戦争遺跡を史跡として保存しようという意識は到底望めないだろうなと思いました。知事次第で歴史的価値評価や財政の目の付け所に差が出てくるものだなと感じます。
ところで最近は中国関連の情報に関心を持ちます(写真画像の書籍は近頃読んだものです)。中国のことは中国発の情報ではなかなかうかがい知れなくなっていると感じます。そうなってくると、時代を越えて見たり、関係先を通じて見たりすることが必要になります。中国の国土は広大ですが、国民の多くが住むのは沿岸部であり、食料やエネルギー、物流は近隣に多くを頼っています。より遠隔地との海上ルートが封鎖されれば、たちまち行き詰まってしまうのは目に見えています。したがって、いたずらに脅威論を唱えるのは現実的ではないし、崩壊の危機に怯えているのは中国自身かもしれません。

第三十七師団戦記読書メモ

4月に神田古書店街の文華堂書店で手に入れた、いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』(以下、上巻と称す)『夕日は赤しメナム河』(以下、下巻と称す)は、旧日本陸軍の実相を知るうえで貴重な史料だと思います(熊本県立図書館にもあります)。著者自身が1939-1943年の間、師団の戦列に加わっていた体験者でしたし、戦後、防衛研修所戦史部勤務の環境にあったため、師団が記録した各作戦の戦闘詳報に接することが容易でした。この詳報は戦後の1946年1月9日、進駐米軍に、他の陸軍史料とともに一括押収されて米本国へ渡り、ワシントンの国立公文書館に眠っていましたが、1958年4月10日、日本へ返還され未整理のまま、戦史部史料庫に収納されていたものです(下巻p.290)。加えて、出版した時期は戦後30年頃、生還者の回想証言も収集可能でした。史料と記憶証言が比較的充実したなかで出版されたのは幸いでした。
以下に本書で知った興味深い情報のメモを記します。

・日中戦争(支那事変)の発端となった蘆溝橋事件の発生は1937年7月7日。この当時の中国軍の兵力は184師・約130万名、極東ソ連軍は28個師団・約56万名いた。日本軍兵士の約90%近くは予・後備役兵であり、現役兵力が枯渇していた。そのため1939年、新たに10個師団、15個旅団等、約22万名の兵力が臨時編成された。そのひとつが第三十七師団。1939年2月に久留米で編成され、同年5月に山西省晉南(しんなん)に進駐した。当初は山地戦に不向きな編成だったため、1940年8月までに逐次改編された。輓馬→駄馬。野砲→山砲。

・第三十七師団の「七」は「しち」と読む。同師団の兵団文字符は「冬」。「作戦」とは、通常、戦略単位(師団)以上の兵団の某期間にわたる対敵行動の総称。

・一号作戦構想時の支那派遣軍の兵力は、25個師団、12個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団、1香港防衛隊で、人員約64万4000名・馬匹約13万頭。このうちの約79%にあたる14個師団、6個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団等、合わせて人員約51万名・馬匹約13万頭・戦車装甲車794両・火砲1551門・航空機154機・自動車1万5550両を、同作戦兵力とした。一号作戦の役割は、あくまでも太平洋戦域の主作戦の、背後を固める大陸での支作戦、対米持久戦の一環だった。一号作戦から第三十七師団の秘匿符号は「光」となった。

・軍馬の入隊は騸(せん)を標準とし、やむを得ないときに限り、牝(ひん)で代用していた。騸とは明け三歳の牡(ぼ)の去勢したもの(上巻p.174)。まれに去勢の時点で陰睾のため睾丸の片方が腹腔内に隠れて切除を免れた馬力絶倫の軍馬がいた。片睾の武こと武久号。

・蒋介石が率いる中国軍には日本軍の捕虜や兵器を捕獲した場合に懸賞金を与える定め「修正俘虜及戦利品処理弁法」があり、品目によっては中国軍将兵の給与(例:師団長180元)よりも高かった。暗号電報符号簿5万元、官兵の番号認識票1個500元。

・南進前に第三十七師団が駐屯していた山西省運城の警察署長は関鉄忱という元騎兵大佐で、漢代の英雄、関羽五十九代の後裔と伝えられていた(上巻p.268)。当時発行されていた中国聯合準備銀行券の十円札に印刷されていた関羽像と風貌が似ていた。

・華北の鉄・石炭・綿花・塩・小麦を日本国内へ還送するのが日本軍の任務だったが、広大な土地と中国人民の大海の中では、面ではなく点を占拠することしかできなかった。華南ではタングステンが垂涎の軍需資源だった。

・中国軍(蒋介石軍事委員長)による日本軍に対する観察と対策(1940年)。
【日本軍の長所】 → 【中国軍の対策】
快:軍用巧妙、動けば脱兎の如し。 → 穏:沈着固守で当れ。
硬:戦闘力と精神が堅強なり。 → 靭:持続性堅忍性ある戦闘で当れ。
鋭:錐の如く突進し勇猛果敢なり。 → 伏:伏兵をもって、不意を突くべし。
【日本軍の短所】 → 【中国軍の対策】
小:兵力寡小、部隊大ならず。 → 衆:要点に兵力を集中する「専」。
短:速戦即決にあり。 → 久:消耗持久戦。
浅:敢て深入りせず300キロ以内。 → 深:縦深配備をもって迎えよ。
虚:後方に空虚多し。 → 実:虚隙を奇襲せよ。

・戦時糧秣の加給品。清酒1人1回の定量は0.4L(約2合2勺)=飯盒のフタ約1杯分。駄馬1頭当たりの駄載重量80キログラム。

・上巻p.468に偵察機から師団戦闘司令所へ落とされた通信筒についての記載がある。筆者らが斥候任務にあたっていた際に、地上から友軍の偵察機へ敵軍の集結状況を知らせるために、通信紙や枯れ草を燃やしてみたものの煙が細いために、斥候の騎兵分隊員の褌を外させて燃やし白煙を上げさせた逸話も載っている。

・上巻p.489においては、陸軍上層部の治安戦略の欠如を指摘している。筆者は「以漢治漢」でなかったこと、吃飯(チイファン)対策が疎かで民心収攬に実効が上がらなかったとしている。

・アルカリ土壌である山西省は馬の飼料牧草として栄養価が高い「ルーサン」(和名「苜蓿うまごやし」)が特産だった(上巻p.504)。蹄鉄を装着するために使用する蹄釘(ていちょう)は、スウェーデン製が硬くて粘りがあり良質であり落鉄することがなかったが、日中戦争開戦後は輸入できなくなった(上巻p.55)。スウェーデンでは制作方法は極秘とされ工場見学できなかったが、1935年ごろから陸軍で良質の蹄鉄を国産化(大阪・狭山と立川)できるようになった。

・1943年6月に捕虜となった当時7歳の中国人男児。師団将兵と南下作戦に随行し、タイで終戦を迎えた。面倒を見ていた加地正隆軍医中尉が熊本へ連れ帰り養育し、1969年「光 俊明」として帰化した。

・1944年4月22日に起きた第二十七師団の一大凍傷事故について下巻p.110で触れられていた。第二十七師団の徴募区は東京付近で、当時は一号作戦に組み込まれていた。この事故は、後年一橋大学教授となる藤原彰氏の著書でも触れられている。大黄河甲橋に向かい、約100キロの道中を行軍中に豪雨に遭い、膝を没する泥濘(ぬかるみ)の中で、立ち往生し、数十名の兵が凍死し、多くの軍馬が斃れている。約2000名の将兵が凍傷にかかった。

・第二十七師団の凍死者を出した記述は下巻p.306にもあり、166名とある。期日は1944年5月14日夜とある。驢(ろば)や牛は多く死んだが、馬だけは死ななかった。馬を捨てて逃げられない山砲隊・歩兵砲隊・大行李の馭(ぎょ)兵の損害が多かった。

・師団司令部の戦時作戦用の携行品について下巻p.125で触れられている。すべての装備を自動貨車で携行するには約20両を要した。機密書類と戦時公用行李について抜粋すると以下の通りとなる。
機密書類 戦時諸法規・野戦諸勤務令等一式で102冊のほか、下記を保有。前述の藤原彰氏は戦死比率が最も高い陸士55期卒だが、以前は履修科目であった戦時諸法規を学ぶ将校養成教育を受けなかったと、著書で記していた。
参謀部 作戦計画・同命令・編制表・兵器表・情報・人馬弾薬の補充計画運用・地図・秘密保全・通信計画運用・機密作戦日誌等。
副官部 司令部関係の戦時名簿・師団の人馬現員表・同死傷表・功績・将兵の人事・人馬補充事務・司令部物件補給・俘虜戦利品・陣中日誌・事務用品等。
各部 師団全般に関する各部主管業務の計画・補給・運用等書類。
戦時公用行李 乙 機密書類用で、規格は、高さ23.5cm×幅32cm×長さ66cmの防錆鍍金の錠つき金属製。参謀部11・副官部5・兵器部6・経理部17・軍医部5・獣医部5・師団司令部合計49個。 甲 金櫃(きんき)用で、規格は乙と同じであるが、錠は、内外各2個つき、物資調達用の聯銀券(華北)・儲備(ちょび)券(華中・華南)・金銭糧秣被服関係の証票書類を収納。経理部20個。

・行軍について下巻p.155で触れられている。敵との接触が多い場合を戦備行軍といい、日々の行程が多く休憩が少なく昼夜連続となる行軍を強行軍、短時間に目的地へ到着するために速度を増し休憩を減らす行軍を急行軍と言う。敵との接触が少ない場合を旅次行軍と言う。10~15分休憩を含む標準の行軍速度は歩兵中隊で時速4キロとされた。1日の行程は諸兵連合の大部隊で約24キロとされた。敵軍の航空機(米軍P-51ムスタング)からの攻撃や夏季炎熱を避けるため夜行軍を行うことが多かった。

・馬匹の負担量について下巻p.234で触れられている。乗馬の場合は馬体重の約4分の1以内、駄馬の場合は約3分の1以内を適当とし、輓曳(ばんえい)量は約4分の3以内を限度とされた。日本馬の馬体重平均は約470キロ、大陸馬は平均約270キロ以下だった。強行軍による過労や栄養不良、馬蹄の摩耗欠損などが多発し、使役不能となる馬匹も多かった。

・糧秣不足について下巻p.259で触れられている。糧食の1日基本定量は次のとおり。人糧 1人…精米660グラム・精麦210グラム・生肉類210グラム・生野菜600グラム・食塩5グラム・粉醤油30グラム・梅干45グラムなど。 馬糧 1頭…大麦5250グラム・乾草4000グラム・食塩40グラム。 中国人馬夫・俘虜 穀粉600グラム・肉類40グラム・生野菜300グラム・豆類20グラム・食塩20グラム。 師団(人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名)1日の糧秣総量 人糧 小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)。

・徴発、いわゆる強制買い上げ方式について下巻p.260-261で触れられている。住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。藤原彰氏の後を継いだ一橋大学教授だった吉田裕氏の著書にも同様の記述がある。下巻p.420では、事実上の掠奪と記述している。

・下巻p.292によると、在中米軍(第一二航空隊)による対日本土爆撃の第一次は1944年6月16日である。成都から発進したB-29・B-24重爆撃機47機によって九州八幡製鉄所が空襲を受けた。1944年5月末ごろの航空兵力は在中米空軍556機・重慶(国民政府)空軍111機合計667機に対して、在中の第五航空軍は217機であり、戦力比は3:1だった。第五航空軍の実働は約150機程度あり、戦力比の実際は5:1だった。

・1944年6月25日に重慶軍事委員会が発令した桂林防守軍の編成の中に桂林城北部に配置された第一三一師がある。その師長は関維雍少将。1944年11月10日、桂林城内の風洞山・中山公園独秀峰が包囲され力尽き、風洞山の洞窟内で拳銃自殺を遂げたと、下巻p.411にある。

・要塞・堡塁・砲台の区分について下巻p.489に記されている。要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。

・1945年3月11日のランソン捕虜虐殺事件について下巻p.541で触れられている。フランス領インドシナ(現在のベトナム)のランソン要塞を歩兵第二二五聯隊(主に熊本県出身者の兵で編成)が陥落させた際にフランス人の300名余の投降兵を収容したが、鎮目武治聯隊長(大佐)は小寺治郎平第一大隊長(少佐)と福田義夫第七中隊長(大尉)に対し、投降兵の処断を命じた。戦後、フランス軍軍法会議で約20名が戦犯容疑となりサイゴンチーホア刑務所に収容された。小寺少佐は1946年10月30日に同所内で自決。伊牟田義敏第四中隊長(大尉)は1948年11月21日にジュラル病院で病死。鎮目大佐・福田大尉・早川揮一大尉(歩二二五通信中隊長)・坂本順次大尉(歩二二七第八中隊長)は1951年3月19日に法務死についた。ほかにも投降兵射殺事件による戦犯法務死の記載がある。

・下巻p.621-629には付録第六として1944年6月30日調べの第三十七師団小隊長以上職員表が掲載されている。戦後、熊本で医師としてある程度知られた人物の名を見つけることができる。一人は光俊明氏を養育した加地正隆。師団司令部の防疫担当の軍医部員だった。階級は中尉。熊本市水道町交差点に面した加地ビルを覚えるいる向きもあると思うが、健康マラソン(天草パールマラソン大会を始めた)で長寿を目指して「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで記憶に残る「熊本走ろう会」の会長を永年務めた。第5代の熊本県ラグビー協会長も務めた。もう一人は、三島功。患者収容隊本部の衛生部見習士官として名が確認できる。水俣市民病院や明水園に勤務したし、水俣病認定審査会の会長も務めた。水俣病患者認定には厳しい姿勢で臨んでいたために患者・支援者からの評価は低い人物だった。

士官主導と初年兵主導との戦記の違い
第三十七師団歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』や同師団の山砲兵第三十七聯隊の初年兵だった松浦豊敏氏が書いた『越南ルート』と藤田豊著の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』とでは、同じ師団の戦記とはいえ、視点が大いに異なります。『地獄の戦場参千粁』や『越南ルート』では、行軍のつらさや隊内での人間関係に焦点が多く当てられています。糧秣不足と過労、厳しい気象環境で、戦病死が多い戦場でした。中には戦死扱いにされた例もあります。初年兵に理由もなく暴力をふるう古兵についてが敵軍よりも憎しみを込めて描かれています。将官を近くで見ていた若い士官だった藤田本では、将官に対して厳しい評価を下した記述が意外とありました。たとえば、行軍途中で師団長と参謀長だけのために毎日司令部付きの工兵が防空壕を掘らされたことなども明らかにしています。士官たちが残した記録は文字だけではなくスケッチが多いのが特長です。士官に求められる資質に西洋画技法があり、じっさい士官学校ではその教育がありましたので、戦地からスケッチを持ち帰られなかった場合でも当時の記憶から描き起こすことも可能だったかと思われます。

I go to Edo.

#長嶋茂雄 #立教大学 #長嶋一茂 #景浦将

昨日からの長嶋茂雄さん死去の報道に接していろんな思い出に浸った昭和世代は多いことと思います。小学生のときに、巨人ファンだった父のお伴で記録映画「燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3」を熊本市新市街にあった東宝で見た記憶があります。大学生時代には長嶋茂雄さんの母校・立教大学へよく通っていましたので、さまざまな伝説を見聞していました。たとえば、東京六大学野球でホームランを打ったら大学から単位をもらえたとか、英作文の試験で「私は東京へ行った」を「I went to Tokyo.」ではなく「I go to Edo.」と書いたとか…。江戸時代の東京へ行くことをもって過去形とする人並み外れたその思考力は、むしろ天才の領域です。

そうした数々の伝説は、何かの出版物で読んだ覚えがあったので、書架にあった『St.Paul’sCampus』(立教大学の現役学生が編集出版していた雑誌)を久しぶりに手に取ってみました。残念ながら長嶋茂雄伝説の記述は同誌にはなく、代わりに野球関連の記事では、菊池桃子推しだった長嶋一茂くん(当時在学中)や立教大学から大阪タイガースに進んだ景浦将(1943年戦死)がプロ野球50周年記念切手になった話題を見つけました。それと、当時の雰囲気を伝える広告や学生のスタイルを懐かしく振り返ることができました。スタジャン、ソアラ…。

そうこう思うと、長嶋茂雄さんのおかげで昨日からけさにかけて多くの昭和世代が、しばし高度経済成長期やバブル期の日本へ行ってみたのだなと思いました。

https://www.rikkyo.ac.jp/news/2025/06/mknpps00000388fa.html

つえーげんぞー

7か月前となる昨年10月に金沢駅で見かけた(写真パネルですが…)大の里は、ちょうど今の草野とみたいにまだマゲが結えないザンバラ頭状態。このたびの横綱昇進が、いかにスピード出世だったということが実感できます。🧐
石川県を訪ねると、街中で出合う55や8がラッキーナンバーに思えます。これから無限大(8)にイケイケ(55)の活躍が期待できそうです。😊
なお、金沢ゴーゴーカレースタジアムがホームのJ3ツエーゲン金沢のクラブ名は、金沢の方言「つえーげんぞー(強いんだぞ)」に由来するんだそうです。マスコットの名前もゲンゾー。🙂
大の里より1つ若い草野のシコ名には何がふさわしいか、地元で大喜利でもやってみれば。😅

死者の声を聴く

#やなせたかし展 #梯久美子 #やなせたかしの生涯 #戦争ミュージアム #熊本マンガアーツ #原哲夫 #北斗の拳 #ラオウ #ケンシロウ
熊本市現代美術館で現在開催中の「やなせたかし展」記念講演会を本日聴講してきました。講師は、やなせたかし氏と『詩とメルヘン』の編集に共にあたられた経験をお持ちの梯久美子さん。今年文春文庫から『やなせたかしの生涯』を出版された著者だけに、わずか定員100人の会場へ入れるか心配して訪ねましたが、幸い前から2列目の中央の席が空いていて、座ることができました。そしたら、すぐ後ろの席に地元紙の元論説主幹の高峰武氏がおられました。お会いしたのが、今年2月の『増補・新装版 企業の責任』出版記念フォーラム以来で、私からは先月訪ねた菊池恵楓園歴史資料館の展示のことなどを、講演の前に話したりしました。講演中は、私のような図体の者が前に座って視界を遮ってしまったのではと気になりました。
さて、梯さんの講演内容のほとんどは、上記の『やなせたかしの生涯』のエッセンスでしたが、講師としては「アンパンマン」原作者としてだけでなく、詩人や絵本作家としてのやなせたかし氏を評価すべきと強調されていたのが印象的でした。それと、誰に対しても怒らず責めない、やなせたかし氏の人格に対する強い信頼感が、講師の言葉から伝わりました。そのような人生の師に恵まれたことで、今日の梯さんの活躍も生まれてきたように思います。
やなせたかし氏が大切にする究極の自己犠牲の考えは、自身の戦争体験と弟の戦死の影響が大きいと言えます。
梯さんが昨年岩波新書から出した『戦争ミュージアム』のあとがきで、「戦争ミュージアムは、死者と出会うことで過去を知る場所であると私は考えている。過去を知ることは、いま私たちが立っている土台を知ることであり、そこからしか未来を始めることしかできない。」(p.210)と書いておられます。この言葉は、やなせたかし氏が戦死した弟の声を聴き続けてきた行為と重なる思いがしました。今回の「やなせたかし展」もある種の戦争ミュージアムを感じる展示でした。
一口に戦争ミュージアムといっても中には遺品や武器を展示しただけの単なる国威発揚の施設もあります(誤解がないように書き添えますが、『戦争ミュージアム』が取り上げた施設はまとなところだけです)。どのような死者の声を伝えようとしているミュージアムなのか、それらはやはり聴く耳をもった施設運営者の哲学によるところが大きいと思います。いずれにしても、『やなせたかしの生涯』と『戦争ミュージアム』を読んでいただければ、戦争の愚かさを伝える施設と単なる国威発揚の施設の区別はつくようになると思います。講演会後にサイン会の時間が設けられましたので、持参した上記2冊にめでたくサインを頂戴しました。感激です。ありがとうございました。
ところで、梯さんの経歴を知ると、私と同学年。共に熊本県生まれで父親が自衛官。北海道居住経験があります。私が先に北海道に渡り、梯さんはその3年後ぐらい。梯さんが北海道に渡った1年後の夏に私は熊本へ転出しますので、1年間だけ共に道民だったということがわかりました。
以下は、余談ですが、講演会の前に通りの向かい側にある「熊本マンガアーツ」で「北斗の拳」や「花の慶次」の原作者・原哲夫さんの作品展示もきょう観てきました。原さんの経歴を確認すると、生年月が梯さんと同じ、これまた私と同学年になります。「北斗の拳」では兄・ラオウと弟・ケンシロウという義兄弟関係がストーリーに登場します。こちらは柳瀬嵩・千尋兄弟とは異なり、一子相伝の北斗神拳伝承という目標が同じ者同士の関係です。原さんの場合はどういうきっかけがあって、この法定相続関係が複雑な兄弟設定の物語を創作したのでしょうか。未だにどんな内容の話なのか、理解できていません。

私は戦没者を顕彰しない

Facebookのタイムラインで「平和を願い戦没者を戦没者を慰霊顕彰する国会議員の会」(原文ママ)メンバー(以下、「本メンバー」と称す)が写った投稿を見かけました。戦没者を慰霊する気持ちは誰しもありますが、本メンバーと私とでは、認識の違いを感じる部分もありそうです。それについてメモを残してみます。
第一に、本メンバーと私とでは、「戦没者」の対象が異なるのだろうと思います。本メンバーが指す「戦没者」とは、靖国神社に祀られている日本の軍人・軍属の戦死者に限定されていると思われます(A級戦犯も合祀されていますが戦死者ではないのでここでは含めずに考察します)。私が考える「戦没者」とは、戦死・戦病死した軍人・軍属のみならず、戦争によって犠牲となった民間人を含みます(国籍や民族を問わず)。
第二に、本メンバーと私とでは、戦没者を「顕彰する」ことの是非について判断が異なるのだろうと思います。顕彰とは、特定の個人が成し遂げた功績や善行を世に広め、称賛する行為を指します。本メンバーは、戦闘に係ることやそれで命を落としたことを称賛に価すると考えているのでしょう。しかし、私は、いかなる理由があっても殺し・殺されることを称賛する気持ちになれません。繰り返しますが、死者を悼む気持ちはありますが、その死を称えたり、犠牲となられたことを感謝したりしようとは考えません。それよりも死者の無念を晴らすべく過ちに学び、それから得た知見を社会と共有したいと考えます。第一の「戦没者」の対象範囲が異なるので、便宜的に、本メンバーの考える「戦没者」を「(狭い意味での)戦没者」、私の考える「戦没者」を「(広い意味での)戦没者」として、以下のように違いを表してみました。
顕彰主体/対象 (狭い意味での)戦没者 (広い意味での)戦没者
本メンバー   顕彰する        ?
私       顕彰しない       顕彰しない
本メンバーの皆さんは、ひめゆり平和祈念資料館や徴用犠牲者慰霊碑を訪ねたことはあるのだろうかとも思います。

やなせたかしの生涯読後メモ

#やなせたかしの生涯 #梯久美子 #朝ドラあんぱん
今度の土曜日に熊本市現代美術館で梯久美子さんを講師に迎えて開かれる、やなせたかし展・開催記念講演会「光のほうへ ぼくは歩く――アンパンマンが生まれるまで」の聴講を楽しみにしています。とはいえ、会場定員は100人。やなせたかし氏が編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者として身近で働き、同氏の生涯をよく知る梯さんの講演だけに果たして聴講可能か心配です。それもあって、本年3月に書き下ろしで文春文庫から出た『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を読んでみました。
同書を読むと、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど多彩な仕事をこなした同氏の稀有な才能に驚かされます。一方で、理不尽な軍隊生活の初期に何も考えずに過ごした経験や身近な人の死で受けた影響には、戦争体験をもつ世代の誰にでもある共通性を感じました。
今年は戦後80年ということで、新聞紙上では、さまざまな戦没者慰霊の式典の報道が取り上げられます。その中で、しばしば遺族が「今の平和は戦没者の犠牲の上にある」と語りますが、それには強い違和感を覚えます。今日まで平和が保たれたのは戦争の過ちを学んだ者たちによる非戦に向けた不断の努力があったことに他ならないと考えます。戦没者たちは平和構築のため犠牲となったのではなくあくまでも戦争遂行に加担するか、巻き込まれて落命したのであって、戦争が起こらなければ犠牲にならずに済んだ者たちです。つまり犠牲者を出さずに済むする社会にするため、どのような政治の道を選択すべきだったかを考え行動することが、慰霊ではないかと思います。
きょう放送の朝ドラ「あんぱん」では、主人公・朝田のぶと商船の一等機関士・若松次郎とのお見合いシーンが出てきました。ドラマでモデルとされる小松暢さんは、やなせたかし氏との前にも結婚歴がありました。暢さんは、大阪の高等女学校卒業後、しばらく東京で働いた後、21歳のときに最初の結婚をします。その相手が6歳上で、高知県出身の小松總一郎氏。日本郵船に勤務していて、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死されています。ひとり残された暢さんは、自活の道を求めて高知新聞社に入社しました。
海軍に入り、戦死したのは、やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏です。1943年9月に京都帝大法学部を半年繰り上げ卒業し、海軍予備学生兵科三期を経て、翌年5月に駆逐艦「呉竹」の水測室(米潜水艦の水中音を探知するため船底に近い位置にある)に配属されます。千尋氏が乗った同艦は、1944年12月30日、バシー海峡で米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没、同氏も22歳で戦死します。やなせたかし氏は、1946年1月に中国・上海港から佐世保港へ復員、高知へ帰る途中、原爆で街が消えた広島の風景を目にしています(私の父方の伯父も外地から終戦の翌年に復員したら実家が1945年8月10日の松橋空襲で焼失していたのを知りました)。
私の母方の祖父が小松總一郎氏と同じく日本郵船勤務の船員でしたし、1944年1月に乗り組んでいた輸送船がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け、柳瀬千尋氏と同様、船と共に海へ沈み戦死しています。きょう放送の朝ドラ「あんぱん」の最後には、兵事係から戦死公報を受け取る留守宅のシーンがありました。私の母が、自身の父の戦死の知らせが届いた日のことを手記に残していますが、悲報を受けたときの留守家族(当時の居宅は同年7月の熊本大空襲で焼失)のさまが、本日の「あんぱん」の映像と重なって見えました。
国内外に膨大な犠牲者を出さなくてもよい道がきっとあったはずなのに、どこから過ちは始まったのか、それを止めることはできなかったのか、今を生きる人間が考えなければならないのはそこです。

チャンゴから黙鼓子まで

先日水俣の相思社を訪ねた際、掲載写真のチャンゴという朝鮮半島由来の太鼓があるのを知りました。砂時計の形に桐の木をくり抜いた両面締めの楽器で、右面(馬の薄い革)を細い竹の棒で叩いて高音を出させ、左面(牛の厚い革)を左手か先端に丸いものが付いたバチで叩いて低音を出させます。宮廷音楽から、民衆の音楽である風物(プンムル)・農楽まで幅広く使われる伝統楽器だそうですが、左右それぞれの面を打って奏でるため、認知症予防に相当役立ちそうだなとは思いました。
一方、スペイン語で同音の「chango」というと、うるさいという意味があるくらい、確かに賑やかな音を出します。これは太鼓だから仕方がありません。私の地元では雷神のカミナリ太鼓に負けじと打ち鳴らす雨乞い太鼓というのがあって、これまた祭りの時期近くの夜になると練習の音が騒々しいものです。また鼓舞するという言葉があるくらい戦場と太鼓は密接な関係があります。地元のJリーグチームの胸スポが「陣太鼓」ということがありました。そういえば、「chango」と語感が近い英語の「chant」(チャント)とは、サッカーのゲーム中にサポーターが発する応援歌・応援コールのことを指しますが、一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式を意味する古フランス語に由来する言葉だそうです。
そんなわけで、太鼓に何を私は連想するかというと、宗教的な祈りであったり、戦いや運動会・応援団的なものであったりします。そして私は総じてそれらを苦手に感じています。もっとも、これはあくまでも個人的な感覚ですから他人に共感を求めるものではありません。
もう一つ、太鼓と言えば、ドイツ人作家のギュンター・グラスの文学作品『ブリキの太鼓』を思い浮かべます。同作品を読んだのは、やがて半世紀前近くの中2時代の頃だったと思いますが、ナチス台頭により戦争へ向かう時代に少年期を迎えたグラスの半ば自伝的な小説です。永遠の3歳として成長を拒否して生きていく主人公・オスカルが大切にする、ブリキの太鼓がなんとも不気味な隠喩となっています。グラスと同じノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の作風と勝手に重なりを覚えます。
さて、以下はロビン・ダンバーの『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)がネタ本ですが、歴史的に見ても宗教や戦争が成立するには、共同体意識が生まれることが必要になります。ヒトの脳にエンドルフィンが出やすい、いわばトランス状態をもたらすことが重要になります。その前提条件としては、言語や出身地、学歴、趣味と興味、世界観、音楽の好み、ユーモアのセンスといった面で共通点が多いメンバー構成にすると、信頼感が強固になるものです。さらに、その効果を増させる儀式が重要となります。儀式の例としては、歌や踊り、抱擁、リズミカルなお辞儀、感情に訴える語り、会食が挙げられます。儀式に参加することでメンバー間がより向社会的に接したくなるように仕向けます。政治運動やビジネス活動にも同じことが言えるかと思います。
あと必要なことは、カリスマ指導者の存在です。これも歴史的に見ると、親を早くに亡くしていたり、恵まれない境遇で育ったりした人物がなる傾向があります。そうした人物には、人生の早い段階から多くを学び、逆境に立ち向かい嘲笑をはねのける精神的な強靭さが身についています。極端な例としては、精神的疾患を抱えたシャーマン的人物がその立場に就くこともあり、それがトランス状態に入りやすい素因になります。周囲からは狂人扱いされますが、案外人々はそうした人物を信じます。なぜかといえば、その他大勢に埋没しない、突出した存在を頼みにしたいと思う気持ちが人々にはあるからです。
チャンゴをきっかけにしてあれこれ思い付いて見ましたが、結局、太鼓持ちは自分に向かないということなのだろうと思います。つくづく熊本でいう偏屈な黙鼓子(もっこす)気質が染みついている気がします。ところで黙鼓子とは、「もくこし」と呼ばれる、仏教の儀式で使用される楽器のこと。特に、禅寺などでよく見られるそうですが、仏教の修行や礼拝において、心が静まり、法に集中するために用いられるとか。また、黙鼓を叩くことで、煩悩や欲望を浄化し、心の平静を得る効果があるとも言われているようです。これを当て字に使い始めた熊本の人も相当アイロニー豊かなモッコスさんだったのではないでしょうか。

GWは陶器市を楽しみました

先日初めて「波佐見陶器まつり」と「有田陶器市」へ行ってみました。イベント期間が同一ですし、臨時列車の有田陶器市号や有田駅~波佐見やきもの公園間のシャトルバスが出ているため、十分ハシゴして楽しめました。これがマイカーで行くとなると、会場周辺での駐車時間待ちに見舞われるので、そうはいかなかったと思います。私はもともと鑑賞オンリーですから帰りに荷物が増えることもありませんでしたが、もしも陶磁器を買い込むなら現地から発送する手があるので、断然公共交通機関を利用するのがお勧めだと感じました。
まず長崎県波佐見町(ここは長崎県で唯一海に面していない自治体)の波佐見焼に関心をもったのは、朝日新聞経済面の「けいざいプラス」欄で2023年12月に「波佐見焼 小さな町の奇跡」というタイトルの5回シリーズの記事によります。隣の有田のような高級品ではなく大衆向けのデザインで勝負する製品づくりや問屋を通さない流通への移行などを行い、この十数年でブランド化に成功したと言われます。作り手も客層も若い感じがします。「波佐見陶器まつり」期間中は、やきもの公園に窯元がまとまってテント出店しているため、目当ての焼き物を探しやすい形態となっています。それと、私は立ち寄りませんでしたが、高速の波佐見IC近くにも第2会場が設けられていました。
対する「有田陶器市」は今回が第121回を数えるだけあって伝統を誇っていますが、逆に波佐見焼を意識したデザインの店も見受けられました。こちらは1カ所集中方式ではなく、既存の店舗が通り沿いに軒を連ねているので、有田駅~上有田駅間だけでも約3kmを歩くこととなります。すべて見て回るとなると、時間と体力が要求されます。この通りに面した有田焼で最も名高いのは今右衛門窯だと思います。今右衛門陳列館は無料で入館できて当代の作品を堪能できます。今右衛門古陶磁美術館は入館料500円ですが、ここは製造工程や先代・先々代との作風比較が理解できます。別格です。
一方、期間中のグルメ出店は、波佐見も有田も共通していて、九州内のみならずさまざまな飲食が楽しめるようになっていました。私は、有田の通りに出店していた村岡総本舗の小城羊羹を買い求め、上有田駅内のカフェで佐賀牛しぐれ煮弁当を食べてみました。
ともかくどちらも町単独で地産経済を回しているわけですから大したものです。豊かさを感じてきました。