わからなさのなかで

NHK・Eテレ「こころの時代〜宗教・人生〜」の「わからなさのなかで―最首悟の思想をたどる―」。今夜放送の番組ということです。ぜひ視聴したいと思います。
内容紹介を読むと、最首悟氏の教え子である丹波博紀さん(大正大学准教授)が登場するとありました。
丹波さんは、今年6月より水俣病センター相思社の理事に就いていただいていることもあって、私にとって最近知遇を得た方です。
「わからなさ」と言えば、外部から理念的に正しいことを追求していると見られる団体において、しばしば内部でハラスメントを起こす構造が放置されることがあります。丹波さんのようなしがらみのない新しい理事の良識に期待しているところです。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/K7QYR56NJ8?fbclid=IwY2xjawTKcWVleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFVbUoxWkljbHBpd2ZyNzZmc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHhkFmvYGQuvBWC0ltZXgatRyvA8-tjpiKAo78DArKf6DZChHZvPKFpQTS6ZA_aem_tevDpXRTg4f9fCrGxZD2GQ

農地利用最適化推進委員退任

3期9年にわたって務めていた、宇土市農業委員会の農地利用最適化推進委員を、2026年7月19日でもって退任することとしました。もともと権腐十年あるいは(細川護熙元熊本県知事が引き際に発言したように)権不十年とも言いますが、一つの公職に長期に留まることは、自分にとっても他人にとっても地域にとってもロクなことはないと考えていたからです。幸い私が続けなくとも、その任にふさわしい後任の方が出てこられたので、安堵しています。
この10年近くを振り返ってみると、私が居住する行政区の農業従事者の半数近くが高齢のため亡くなったり、引退したりしているうえに、後継者がいないのがほとんどで、担い手が激減しています。そのため、耕作されない農地が増える一方で、農地の集積集約化も進まない状況が続いています。気候変動による作物の生育収量の変化や資材の値上がりもあり、ビジネスとしての魅力も薄いものになっています。加えて将来は人口減少が確実でもあるにもかかわらず、空き家を残したまま農地を宅地開発したり商工事業施設・ヤード開発したりして、内水氾濫の危険性が高まる増災化の道を辿っています。虫食い的な開発はさまざまなインフラ設備の距離も増やしますから、将来行政が負担するインフラ維持コストは重くなる一方です。
このように、地元の将来はたいへん暗いと考えています。それが、農業委員会にかかわると手に取るように見えてくるのですが、委員にそれを止める権限は残念ながらありません。首長や議員になんらかの見識があるといいのですが、その発言内容に接する限りでは、考えが足りなさそうです。
農業振興はすなわち安全保障という考えが国にも地方にも不思議なほどに希薄です。

『エネルギーの地政学』読書メモ

東大先端研のエネルギー国際安全保障機構に所属する研究者たちが書いた『エネルギーの地政学 エネルギートランジションと日本の戦略』(勁草書房、3000円+税、2026年)を読みました。化石燃料主体のエネルギーシステムから再生可能エネルギー主体のエネルギーシステムへのシフトが、文字通りエネルギートランジションということになります。資源小国である日本にとり、脱炭素化を進めながら、エネルギー安全保障を高めていく上で、水素エネルギー関連技術の果たす役割がとりわけ重要になっていることを認識しました。
水素を燃焼したときに発生するのは水のみ、つまり温室効果ガスの排出がゼロという特性があります。カーボンニュートラル社会の実現に向けて不可欠で重要な役割を果たす次世代エネルギーキャリアと考えられています。水素エネルギーの利点は、その多様性と柔軟性にもあります。太陽光や風力といった出力の変動性が高い再生可能エネルギーによって生成された余剰電力をグリーン水素として貯蔵でき、変動電源の調整力として機能させることができます。液化水素やアンモニアに変換して輸送も可能です。蓄電池と比較すると大規模・長期間の貯蔵にも適しています。
日本は国内の化石燃料資源に乏しい国です。原油の99.7%、天然ガスの97%を海外からの供給に頼っています。これら化石燃料は、数億年から数千万年の地球の活動によって生成されたもので、ここにはコストはかかっていませんが、原油埋蔵量の47.3%(2015年時点)が中東地域と、資源の賦存(ぶぞん)が地域的に偏っていますし、現時点でもおおよそ50年前後の可採年数が確保された有限資源であるということを認識すべきです。
一方、太陽光や風力といった再生可能エネルギーは、無尽蔵かつ無料の資源です。EEZを含めた面積では日本は世界で第6位の、資源ポテンシャルがあります。転換期においては輸入水素に頼らざるを得ない課題もありますが、国産電源で安価な水素生産を実現するのは決して幻想ではないと感じました。福島県浪江町などでは水素エネルギー自立コミュニティモデルの運用が始まっており、これなどは自治体の生き残り戦略としても有為な情報かもしれません。
もちろん課題がないわけではありません。再生可能エネルギー技術の設備や機器には、化石燃料を利用する従来の技術に比べて、重要鉱物の使用量が多いという問題があります。銅やレアアース、シリコン、リチウム、コバルト、黒鉛、ニッケル、プラチナ、イリジウムの採掘・製錬において特定の国・地域のシェアが高いとか、大量の電力を必要とするとか、環境汚染や労働者・周辺住民の健康被害といった人権侵害を伴う負の側面があります。
この点については、供給源を多様化する外交努力や重要鉱物の使用量を減らす技術開発が必要となります。たとえば水素製造に際してPEM型水電解装置の触媒には高価なプラチナやイリジウムを使いますが、固体酸化物型電解の触媒は安価なペロブスカイトを使います。その主材料はヨウ素なので、これは日本国内で調達可能です。
産業のサプライチェーンのボトルネックを握る、いわば技術的覇権の追求という現実もあります。(半導体産業を例にとると、半導体製造に欠かせない化学品であるフッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素については日本企業が90%近いシェアを持っており、これらの供給がなければ海外メーカーは半導体生産ができないのだそうです。)

前田浩文氏死去

本日(7/12)の熊本日日新聞27面に、熊本桜友会元会長の前田浩文氏の訃報記事が掲載されていましたので、お知らせします。7月10日にお亡くなりになり、通夜・葬儀は近親者のみで行なわれるとのことです。別途お別れの会の情報があれば投稿します。ご冥福をお祈りいたします。

『水俣病が描く近代日本の自画像』読書メモ

葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。

『生まれたくなんかなかったのに』読書メモ

今年3月リニューアルオープンした三省堂書店神田神保町本店を6月に初めて訪ねたときに、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎新書、960円+税、2026年)を買い求めました。著者は古代ギリシア哲学を専門としている学習院大学文学部哲学科教授。数年前から著者のXをフォローしていたので、なんとなく人柄について知った感じでいましたが、著書を読んでみたのは今回が初めてでした。
X投稿で得る断片的な情報だけで知った風なつもりでも、それでは著者の思想の核心を理解するのは困難です。1冊目に過ぎませんが、著書に接してみてやはり良かったと満足しています。
まずもって著者は、反出生主義者を自任しています。「生まれてこないほうが良かった」と考えるわけですから、「生きていたくない」とか「今から死んだほうがいい」と誤解されますが、そういう主張ではありません。「生まれてしまったものとして、どうやって生きていくかを考える思想」(p.4)だと言います。生きづらさの原因は「個人」ではなく「制度」にあるという視点を示し、「自己責任」の呪縛から読者を解放してくれます。本書を通じて人生に「続ける価値」を感じ取れる点において、特に若い読者は気持ちを楽に持てるのではないかと思いました。文体も読みやすいですし、文字を読むのが不得手なら電子書籍版で読み聞かせしてもらうのもいいのではないかと思います。
反出生主義の思想は、難民の認定と保護のあり方の考えに通じる思いをしました。というのは、生まれた側には、その出生の自己決定権はありません。同様に、たまたま人権が尊重されない国・地域に生まれて難民とならざるを得なかった側にも、生まれの偶然性があります。それがために、難民条約の前文では「難民保護を世界の国々が協力して責任分担する」と謳い、個人の問題として放置するのではなく、社会が制度として受容しようとします。生きづらさを強いられる難民が、それを覚えなくて済む場所で生きていくことができれば、受け入れた側の国益へ長い目で見てなることは歴史が証明しています。
本書でのテーマには難民問題は含まれてはいません。取り上げているのは、働くこと、結婚、親子関係、猫との暮らし、友人、楽しみ、病と老い、子どもを持つこと、人生の目標、経験の価値、安楽死、生きる理由、差別など、たいていの人が一度ぐらいは選択決定を伴うテーマばかりです。そのどれにも常識だと刷り込まされた呪縛があることを知ることができます。哲学者というと、ごく狭い分野の、しかも古典的な専門知を極めた人と思いきや意外に現実社会の構造や現象を追っているんだなと思いました。こういう先生に出会える学生たちは恵まれています。私が学生だったら講義を受けたいなと感じました。

2026.7.16追記
著者が語る動画がありました。
https://youtu.be/8AU_i3MOksw?si=PPXPcYRO_s0G_n27

人権デューデリジェンス

日刊新聞発行もビジネスですから、これは提灯記事だなと読める紙面があります。ですが、7月4日の熊本日日新聞1面コラム「新生面」は、村上春樹さんの新刊小説『夏帆』を取り上げ、その直下に同本の広告が掲載されてました。それを見たら、さすがに興ざめしてしまいました。これだと、タイアップ広告記事そのものです。前日の朝日新聞東京本社版の文化面(26面)には、やはり『夏帆』刊行に際しての村上春樹さんへのインタビュー記事が載っていましたが、さすがにその書籍広告は総合面(2面)の記事下に載せ、一定の配慮はされていました。
「ハルキスト」と称される岩盤読者層に支えられる人気作家とあって、『夏帆』の初版はなんと25万部発行と言います。版元の新潮社からすれば確実に売れる絶対に手放せない作家なんだろうなと思います。
ところで、新潮社と言えば、1年ほど前、『週刊新潮』において外国にルーツを持つ作家に対して差別的な言及がなされたコラムが掲載され、それに傷ついた作家が同社との出版契約を解除・終了する事件がありました。その後の同社の対応をフォローしてないので、この事件を村上春樹さんはどう受け止め、今回の同社からの出版にわだかまりはないのか、知りたいと思いました。しかし、7月3日の朝日と同日の熊日(おそらく共同の配信)のインタビュー記事ではそのことに触れられていません。
それで、新潮社のホームページで関連の情報を探してみたら、「人権デューデリジェンスの新たな取り組みについて──週刊新潮コラム問題をふまえて」という2025年12月25日発表のページを見つけたので読んでみました。これによると、事件を踏まえて2025年10月1日、社内に「人権デューデリジェンス推進室」を設置し、①社内研修体制の強化、②校閲作業の重層化、③社内相談窓口の確立、④ケーススタディの活用、⑤知見のアップデートに取り組み、再び過ちを繰り返さないことが謳われていました。「人権デューデリジェンス(Human Rights Due Diligence)」という用語には、このページで初めて接したのですが、「企業が自社における人権リスクを調査・特定し、これを防止・軽減するための一連の取り組み。」を指すとのことです。おそらく、村上春樹さんも同社のこの姿勢を了として『夏帆』出版(もともと2024年6月号から2026年3月号まで文芸誌『新潮』に4回にわけて掲載されてました…)となったのではないかと思います。
https://www.shinchosha.co.jp/news/article/3351/
実は村上作品に対してはあまり関心がありません。35年前に『ノルウェイの森』を読んだのが最後だったかと記憶しています。宮本輝さんの作品は割と読んだ方で、最近やはり新潮社から『湾』が出たので手に取ろうかどうしようかと思案していましたので、少し安堵しました。それでも版元や新聞社の姿勢はたえず見定めたいと思います。

2026.7.11追記
「ビジネスと人権」に関する行動計画(改定版)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100956579.pdf

88年前の伝単

昨日参加した「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」のおりに講話した高谷和生さんが、1938年5月20日に熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消した中国空軍2機による伝単20万枚の撒布について触れていました。これを、日本側では初空襲と捉えましたが、その作戦の実行を命じた蔣介石は、当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待していたため、「人道飛行」と名付けています。撒布された伝単の内容は、4種類の反戦ビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類の反戦パンフレット(「日本人民に告ぐ」)となっています。内容が内容だけに、伝単は官憲によって回収されたため、現存されているものはほとんどないとされてきました。
ところが、今年3月19日の熊本日日新聞によると、水上村で農業を営みながら、ロシアの文豪トルストイの翻訳を手がけた湯前町出身の故北御門二郎氏(1913~2004年)の遺品から、「日本人民に告ぐ」の伝単が発見され、遺族から熊本県立図書館へ寄贈されたという報道がありました。
https://kumanichi.com/articles/1970572
トルストイの研究家である北御門二郎氏は、良心的兵役拒否を貫いた人としても知られています。人道飛行があった1938年は、国家総動員法が公布(4/1)・施行(5/5)された年でもあり、北御門氏が徴兵拒否の意思を固めたきっかけにもなっています。東京帝国大学文学部英吉利文学科に在学中の同氏は、徴兵検査を受けるべき同年4月21日の前日に失踪し、父が警察で訊問を受けたり、消防団による山狩りが行われたりしています。翌日に、形の上では、出頭を催促されて母とともに出向いた徴兵検査の場で、北御門が徴兵忌避の申し立てを言い切るよりも先に、精神を病む者と「判定」されて、検査をまぬかれたことになっているようです。ともかく、検査を受けて結果的に兵役免除となりました。同年に大学を中退、球磨郡水上村で就農します。日本初空襲=人道飛行があった1938年5月20日には熊本へ帰っていたとすれば、本人が自ら伝単を手に入れ秘匿していた可能性があると思われます。
北御門二郎氏の名前を最初に知ったのは約50年前の高校時代のときでした。高1時の担任である美術教師の坂田燦先生が同氏と交流があり、トルストイの翻訳作品に版画を併載した版画集(『二老人』1978年。その後も『火の不始末は大火のもと』1980年、『愛ある所に神有り』1981年、『人には沢山の土地がいるか』1982年、『作男エメリヤンと空太鼓』1992年と続く)の共同出版をされていました。
熊本県立美術館でも要職に就かれていた坂田燦先生は、現在89歳。今も年賀状でいただく版画作品が楽しみです。写真は2026年のもの。

番外:日本で初めて伝単が登場したのは、九州で起きた藤原広嗣の乱(740年)
官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けたのが始まりと考えられています。

熊本空襲を語り継ぐ集い

平和憲法を活かす熊本県民の会が主催する「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」に今年も参加しました。1945年7月1日の第1回熊本大空襲の際に本荘国民学校(現・本荘小学校)3年、8歳の少年だった寺本さんの証言を、いつも子どもたち向けに語るときに使っているという紙芝居仕立てで聴いてきました。その内容については取材に来ていた地元民放TV局のキー局サイトに載っていましたので、紹介します。
https://news.ntv.co.jp/category/society/kkc1f05e115a344c56a713d0e2855eeb34
この証言の前に、集いの代表幹事である高谷和生さんから、熊本大空襲に先んじて1945年の3月・5月から陸軍健軍飛行場と爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工業熊本航空機製作所へ空襲があったのは、米軍側が出撃基地と兵器工場を叩くことを優先していたからと解説がありました。同年7月の熊本大空襲の米軍の攻撃目標は健軍へ送られる部品工場がある南熊本周辺でしたが、実際の攻撃では東側にずれたと見立てていました。
三菱重工業熊本航空機製作所があった場所は、現在陸自の健軍駐屯地であり、今年長射程ミサイル部隊が配備されています。先の大戦当時も現代も有事となれば、直接の脅威をもたらす敵の出撃基地を相手側がまず無力化しようというのは当然です。それがために、指揮所や装備・弾薬がある健軍駐屯地の地下施設化が進められようとしています。一方、駐屯地が狙われるということは、周辺の住民・民間施設も危険に晒されます。まさに81年前のような被災に遭わないと断言はできないと考えます。
ところで、昨年12月にはFIFAの会長が、トランプ氏に「FIFA平和賞」なるものを贈ったことがありました。その後、イラン攻撃で多くの無辜の子どもたちが殺されたのですが、W杯に浮かれる人たちからFIFAへ平和賞を取り消せという声は聞こえてきません。そんなこともあって今回のW杯放送はまったく見る気になれませんでした。
この集いに参加する前には、2つの美術展会場を訪ねて心穏やかな時間を過ごせました。
6/15-7/31「フェルメール蘇る全37リ・クリエイト作品展」(肥後の里山ギャラリー)…元勤務先の前社長が熊大薬学部へ寄贈したリ・クリエイト絵画展。
6/23-7/4「大和淳子」(画廊喫茶オアシス)…中高時代の同級生の初個展。

『みんなこうして連帯してきた』読書メモ

ジェイク・ホール著の『みんなこうして連帯してきた 失敗のなかで社会は変わっていく』(柏書房、2400円+税、2026年)の内容を示すと、肌の色が異なるとか、身体の外見と性自認が異なるといったことが理由で、不当な扱いを受けている人がいれば、それは自分ひとりだけが闘うべき問題ではなく、同じ思いを持つ世界中の人と連帯して闘っていいんだという希望を持たせる書だと思います。著者自身がイギリスの労働者階級出身のクィアのジャーナリストです。クィアとは、既存の性的指向や性自認の枠に当てはまらない人々を指す総称です。かつては同性愛者に対する侮蔑語でしたが、ゲイ・アクティヴィズムが台頭するなか、当事者がこの言葉が内包する負の歴史を引き受けたうえでその意味を反転させ、みずからを名乗る言葉として使うようになったそうです。
本書で取り上げられる世界に散らばる団結の物語は、実に多彩です。表紙装丁にもその対象が以下のように列記されています。有色の人、障害のある人、肥満の人、ホームレス、先住民、気候変動活動家、労働組合員、移民、難民、セックスワーカー、フェミニスト、ゲイ、レスビアン、トランスジェンダー、ドラッグ・クイーン…。しかもそうした属性が複合し、連帯した闘いもしばしばあったことを明らかにしています。
たとえば、自分の身体の自己決定権は、人権の最たるものの一つですが、先進的な民主主義体制と見なされる国においても意外と尊重されていない例があることにも改めて気づかされます。
「権力者にとっては、悲しみによって動けなくなった世界、すなわち連帯や連帯の構築を無意味な努力とみなす社会のほうが扱いやすい。」(p.343)という指摘にもドキリとします。しかし、「最悪の状況にあるとき、希望が命綱になる。」(p.348)であり、「抵抗のなかには喜びがあるのだ。」(p.349)という言葉に救われます。
本書で取り上げられている当事者の境遇には当てはまらなくても、日々の生活において、たとえば企業や学校のなかで、悲しみによって声を上げられない人は少なくないのではないかと思います。企業や学校の内部にその声を受け止めてもらえる環境がないのなら、ぜひ外部へ発してほしいと思います。
行政組織における公益通報の窓口も内部だけでは忖度が働き機能しないものです。八代市が本日から外部窓口を開設するという報道がありました。他の自治体も見習うべきではないかと思いました。
https://kumanichi.com/articles/2008163

動画よりも紙面

辻田真佐憲氏が『文藝春秋』(2026年7月号)に連載中の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」の要約が動画で紹介されています。
動画では対談形式なので、相手からの話の振り方によって紙面では扱いがないエピソード(石牟礼道子の『苦界浄土』で記述される水俣の人の語りはノンフィクションか創作か。渡辺京二の解説をめぐって)へ飛ぶエンタメ性がある一方、文字数換算では圧倒的に紙面記事の情報量に劣るので、やはり原稿を読むべしと感じた次第です。
動画はある分野の知識を得るきっかけにはなりますが、知識事実を体系的に追い理解するには、やはり文字にはかないません。この動画の内容を別に過小評価しているわけではありません。内容的には水準が高いですし、動画の役割を認めた上で、読書が知の向上、ひいては社会の発展に寄与するという思いを強くしました。
https://youtu.be/7_oafo1eA7k?si=RG6ZAZAGTf3g8StX

2050年温室効果ガス排出量ネットゼロへ

「東大駒場リサーチキャンパス公開2026」のオープニングイベントに先日参加したおり、2年前に水俣病患者団体との懇談会のマイクオフ事件で一躍有名になった当時の環境大臣だった伊藤信太郎議員の姿が、会場にありました。なんでだろうと気になって同議員のプロフィールを眺めて見ると、一昨年、東京大学先端科学技術研究センターを訪問し、翌2025年から東大先端研エネルギーシステム分野アドバイザーに就いておられることを知りました。
その関係だと思われますが、上記イベントの2日前の衆議院経済産業委員会の質疑で、2050年温室効果ガス排出量ゼロ達成に向けた再生エネルギー(ペロブスカイト太陽光発電&蓄電池、グリーン水素)の活用を促す質問を、先端研の研究者の名前を挙げながら行っていました。選挙区が東日本大震災の被災地である宮城県ということもあって原発の活用は頭にないようでした。むしろ、大量生産・大量消費・廃棄社会、あるいは物質や金銭の量的拡大を重視する価値観からの転換を訴えていて、ユニークな人だと見直しました。この訴えを尊重していた経産大臣も結構懐が深いおもしろい質疑応答でした。一方、環境省の役人は、議員が求める2050年温室効果ガス排出量ネットゼロについて「野心的な目標」と揶揄する態度を示していて、つまらんなあと感じました。
政治家になるまでの経歴も変わっていて、若い頃は映画監督(マイクオフ事件後に相思社へ来水されたときに映画談義もあったそうです)を務めていたり、国際ニュース番組「CNNデイウォッチ」キャスター、大学教授であったり、多才です。ハーバード大学大学院修士課程修了(Master of Arts)であり、英語・フランス語・イタリア語・中国語に精通しているといいます。
対話力や発信力は並みの大臣よりもあった方だと思いますので、大臣を続けていれば今よりもずいぶんマシだったかもと思いました。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/report/page_00339.html
https://ito-shintaro.jp/profile
https://youtu.be/hvfTdDTAkuI?si=tdIjHKmO3Ob5lP1V

戦争、エネルギー、チッソ

歴史や社会の実相に対する目配りの鋭さをその発言から感じる若手の研究者の名を挙げるなら、私なら斎藤幸平氏と辻田真佐憲氏をまず思い浮かべます。2人には水俣病という公害事件を招いた歴史や社会構造にかなり注目している共通点があります。
その辻田氏が自身の動画チャンネル「辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ」(2026年6月14日配信)の冒頭15分過ぎまでにおいて、『文藝春秋』(2026年7月号)に同氏が連載の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」や相思社職員として水俣にて現地ガイドの経験を有する葛西伸夫氏の著書『水俣病が描く近代日本の自画像 新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2026年)を取り上げていました。そこで、戦争、エネルギー、チッソの関わりを語っていました。水俣病という事件を患者被害者に対する人権蹂躙や環境汚染の問題としてだけでなく、それをもたらしたもっと国策的な背景についても学ぶべきではと感じます。その素材としてチッソの歴史からさまざまな視座を得られると思います。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h12222?ref=innerLink
https://sekifusha.com/13046
https://www.youtube.com/live/Zm7mLEoCQC4?si=OaCpqPDXYmzQWxQe

「生研・先端研」訪問メモ

6月5-6日に開かれた「東大駒場リサーチキャンパス公開」に初めて参加しました。これは同キャンパスにある生産技術研究所(生研)と先端科学技術研究センター(先端研)の研究者による講演会や、120以上の研究室の一般公開、関連企業・団体による産学連携研究の成果紹介など、最新の研究成果に触れられる年1回開催の貴重なイベントとなっています。会場内には一般人はもちろんですが、中高生の団体参加の姿が多数ありました。
オープニングイベントでは両研究所長のあいさつがありました。まず、生研の所長は、日本における博士課程学生数の減少を危惧され、その不人気な理由を仮定に上げ、一つずつ解決策を回答して、博士号の魅力を伝えていました。次いで、「異能の掛け算により時代が求める先端を創造し社会につなぐ研究所」を標榜する先端研の所長は、異分野をつなぐアート、「響創」の役割、その挑戦の場としてこのキャンパスがあることを語っていました。両所長にとって、この思いを受け止めてほしい存在とは、次の博士学生・大学教授・研究者となる中高生以下の世代だと感じます。2日間の公開イベントはその一環ですし、生研の「次世代育成オフィス」や先端研の「先端教育アウトリーチ」など、年間を通じて次世代向けのSTEAM教育が、実施されています。
「STEAM」とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、芸術等(Art)と数学(Mathematics)を総合的かつ横断的に学び、課題発見と解決能力を養う教育手法のこと指します。現代の課題のすべてが、科学だけでは答えることができないと言って差し支えないと思います。知識的な能力だけでなく社会的な能力も身につけて自分で考える力を持った人材の育成が求められますし、そうした後進の人材を育成できる教育人材が求められます。何もこれは子どもに限ったことではなく、生涯にわたって学び続けられる主体的な大人を育成することにつながります。それこそが国益、国民にとっての受益になります。
先端研については、熊本県も連携自治体として全国で2番目に協定締結しています。そのこともあって例年、「せんたん研究員」である「くまモン」がキャンパスに登場したり、特産品販売(マルシェ)への出店もあったりしています。ですが、せっかくなら熊本県内の中高生からも多数参加して視野を広げてもらう機会を増やしたらどうなんだいと思います。限られた時間で見どころがたくさんありすぎて逆に撮った写真は少なくなりました。それでも東京帝大航空研究所時代に建設された「3m風洞」の写真はしっかり撮りました。

工大の煉瓦門

戦後に開学した大学のキャンパスの敷地がもともとは軍用地だった歴史を持つ例をよく聞きます。熊本で言えば、熊本学園大学には陸軍歩兵第十三聯隊正門や食堂・酒保所跡(現・大学第二体育館)が現存しています。先日立ち寄った千葉工業大学津田沼キャンパスの通用門は、かつてその地にあった陸軍鉄道第二聯隊兵舎の表門として使用されていたものです。「工大の煉瓦門」として親しまれていますが、正真正銘の戦争遺産です。ちなみに同キャンパス3号館にある学食は外部の人も100円の食堂利用券を付加して食券を買えば利用できます。JR津田沼駅からほど近い場所にあります。

「國學院大學博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムの場合、入館料無料で日曜休館の施設が多いのですが、渋谷にある國學院大學博物館は月曜が休館なので、一般のミュージアムとハシゴ観覧しやすい施設です。ですが、日曜だとキャンパス内にある3カ所の学食がすべて休みなのでランチを楽しむことはできません。今回訪れたのは6月に入っての最初の日曜日にあたり、新卒採用シーズンでしたので休日にもかかわらずビジネススーツ姿の学生をかなり見かけました。同館へは渋谷駅からも恵比寿駅からも徒歩で迎えますが、それぞれの駅からバスも頻繁に出てますので、楽に行けました。
https://museum.kokugakuin.ac.jp/
博物館入口の前庭には同地周辺(東渋谷台地)の歴史の解説が表示されていて、朝鮮王族の李鍵公・李鍝公邸や朝鮮人女学生寮の鴻嬉寮などがあったとありました。(1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李鍝公は、原子爆弾に被爆しています。同日、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)によって救助されますが、翌日死去しています。広島の平和公園内に建つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文にもその名が刻まれています。)
同館の常設展示は、考古・神道・校史の3つの部門からなっていました。大学の設立母体は皇典講究所ということでコレクションも皇族由来や神道関連が多くを占める印象を受けました。ただ、学問としてこの分野を研究するとなると、科学的検証も必要なわけで皇国史観とここではどう折り合いをつけているのか、モヤモヤ感も覚えました。
もっとも、今回の狙いは開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」でした。2002年日韓W杯の際に熊本をキャンプ地に選んだベルギーのサッカー代表チームの愛称が「赤い悪魔」なので、勝手に赤のイメージを強く持っていましたが、同国の漢字当て字は「白耳義」、そのため白と略されます。ちょっとしたことですが、情報一つでイメージがずいぶん変わるものだなと思いました。先入観なしにふらりと博物館を巡ってみるのもいいもので、大日本帝国憲法のモデルはプロイセン憲法とばかり思っていましたが、起草者である熊本出身の井上毅は、プロイセン憲法のモデルであるベルギー憲法にも学んでいたことも知りました。その展示資料は、國學院大學図書館が収蔵する、井上毅が所有していた文書・図書からなる「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は、井上毅の号)によるものでした。同文庫の成り立ちは、1957年に井上毅の継嗣・井上匡四郎氏(工学博士・第一次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣)の篤志によって國學院大學に永久寄託され、その後、58年に寄贈へと切り替えられことにあるそうです。ベルギーと熊本の縁に寄せてその日はデザートに白熊を食べてみました。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/299808

「赤羽」訪問メモ

「URまちとくらしのミュージアム」の見学ツアー参加のため、先日、東京都北区の赤羽界隈も少し散策してみました。1980年代前半の時期、私は赤羽台で暮らした経験があるので、久々に見る風景は一変していましたが、かつては軍用地が広がっていた場所でもあり、その痕跡を確認することもできます。
以下は写真メモです。
・1番街…昔は赤羽駅東口から今は北口から出るとアクセスできる駅前商店街です。昔はさまざまな業態の店舗がありましたが、今はすっかり「せんべろ」の街となってしまいました。通りも広くずいぶんと小ぎれいになっていました。昔は通り入口の下ではよく歌手の営業があり、研ナオコを見たことがあります。親知らずの歯4本中3本を抜いてもらった腕のいい歯科医院が入口に面した通り沿いにありましたが、それもどこかに移ったのかもしれません。
https://www.1bangai.org/
・うつり坂…鉄道線から陸軍被服本廠へ通じる登り坂。
・遺構レンガ…旧赤羽台団地のスターハウス近くにある、被服本廠の建物のレンガ。
・東洋大学赤羽台キャンパス…赤羽駅の西側の赤羽台にあります。2023年完成ということで、私が暮らしていた頃には当然ありませんでした。https://www.toyo.ac.jp/nyushi/about/campus/akabanedai/
・前田建設のクレーン…赤羽台一帯では今も再開発が進んでいました。550戸の共同住宅を建設中です。八代市からの指名停止があってもビクともしない建設会社の姿がありました。
・赤羽台東小学校の門柱…今は廃校になってしまいましたが、この学校も赤羽台団地の敷地内です。現在は更地ですが、北区児童相談所が近く着工のようです。設計は隈研吾事務所とありました。むき出しの木を使うのか気になります。
・師団坂…旧陸軍の第一師団工兵大隊と近衛師団工兵大隊に向かう坂道。第一師団工兵大隊兵営跡は星美学園の敷地となっています。
・赤羽八幡神社…神社が丘の上にあるので見晴らしが良く、その敷地から東北新幹線、東北本線、埼京線などの通過車両を見ることができます。日露戦役紀念碑が建っています。陸軍被服本廠へ通じる貨物線路もかつてはあった場所です。
https://ak8mans.com/
・赤羽駅西口のケバブ店…一駅北は埼玉県川口市。赤羽でもケバブが食べられるんだなと思いました。いつか買い求めてみたいものです。総じて西口側の激変ぶりがすごかったです。大型店舗が立ち並んでいました。45年前に最初に西口に降り立ったときはパチンコ店のチンドン屋が練り歩いていたのですが、その面影は微塵もありません。

「URまちとくらしのミュージアム」訪問メモ

国立歴史民俗博物館の「第6展示室(現代)」の解説パンフレット表紙には、東京都北区の赤羽台団地を空撮した写真が載っています。同団地は、日本住宅公団(現・UR)によって1959年から建設が始められ、1962年から入居が開始されました。当時、東京23区内では最大規模の3373戸を擁する「マンモス団地」として呼ばれました。もともとは被服本廠があった軍用地だったのですが、その広大な跡地には団地のほかにも3つの小中学校や公園、消防署、商店街などが設置され、高度経済成長の時代を象徴する最先端の生活の場所となりました。つまり、戦後復興の光の部分を代表する風景として表紙写真に採用されたのだと思いますし、その関連展示パネルも室内にありました。
1980年代前半の時期、団地内ではありませんが、私はこの赤羽台に住んでいました。そのため、個人的にも思い出深い街です。現在同団地は再開発され一部の建造物が残されているとともに、URまちとくらしのミュージアムが2023年に開館して集合住宅の歴史を伝えています。旧赤羽台団地の「41号棟(板状階段室型)」と「42,43,44号棟(スターハウス)」の外観は無料でいつでも見学できますが、同潤会代官山アパートや日本住宅公団黎明期の蓮根団地や晴海高層アパート、多摩平団地テラスハウスといった復元住戸を含むミュージアム棟は、事前予約制の90分間ツアー形式での無料見学となっています。
https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/
水・日・祝日が休館で、ツアーは1日3回組まれています。私が参加したときは、1組15人程度で年齢層は中高年が大部分でした。外国人観光客と思われる参加者もいました。1979年に欧米から日本の住宅の狭さを「ウサギ小屋」と揶揄されたのが、中高年層の頭の片隅には残っていると思いますが、実際に高度経済成長期の住宅のしつらえに接してみると、生活の温かさが感じられたり、将来への希望が持てた時代の明るさがよみがえってきたりします。
以下はツアーで得たマメ知識。ガイドは若い女性でしたが、解説はよどみなく、時間管理や見学者捌きもテキパキしていて仕事ができるなと感じました。
・同潤会代官山アパート時代の電気料金は使用量ではなく設置する電球数で決められていた。トイレには照明具を付けなかった。部屋番号は建物全体の通し番号で振っていた。たとえば148号室でも5階に所在。高い部屋の外壁には縄梯子を架けられるフックがあった。
・公団初期の蓮根団地の流し台は石製。一戸ごとに職人の手作りだった。風呂桶も木製。
・前川國男設計の晴海高層アパートにはエレベーターが設置されたが、着床する階が3階ごととなっており、階によってはアクセスが悪かった。各階廊下に共通電話があり着信を交換手が各戸へ知らせ受信をしらせるボタン設備が各戸にあった。流し台はステンレス製。トイレも洋式。
・昭和30年代の郊外の団地には専用庭のある長屋建てのテラスハウスと呼ばれる低層集合住宅が多く建設された。
※この赤羽周辺には戦跡や鉄道見物スポットもあるので、別に投稿します。

『継体天皇』読書メモ

河内春人著『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書、1000円+税、2026年)は、①継体天皇の即位が可能となった歴史的前提、②その治世をめぐる国際関係、③その死後の世襲王権の成立について論考された著作となっています。今日の皇位継承資格の論議にあたって大いに参考にしてみると面白い本だなと感じました。それと、私が在住する宇土とのゆかりもあります。
『国史大辞典』によれば、継体天皇とは、生没450-531年、在位507-531年、応神天皇の五世の孫と伝えられ越前(今の福井県)から迎えられた人物です。ただし、存命中は「オホト大王」だった、当人からすれば、「継体天皇って誰?」ということになります。「継体」とは8世紀半ばに淡海三船が歴代の天皇を漢字二文字で名付けた漢風諡号ですし、「天皇」も7世紀に成立した称号です。
なお、評価が定まらない天皇であるため、現行の歴史教科書で取り上げず教えない方向にもあるようです。確かに明治憲法の時代では、以下のようなことがありました。たとえば、喜田貞吉(1871-1939)は、「明治時代の終わりに文部省で国定教科書の編修に従事したが、1911年に南北朝正閏問題で責任を取って退官した。」(p.206)、「当時は古代史といえども天皇家の万世一系に異を唱える研究はタブーだった。1930年代になると皇国史観が世を覆い、天皇に関わる研究自体が低迷する。」(p.207)という具合です。したがって、研究や教育に対する時の権力の不当な介入(逆に受ける側の阿りにも)には敏感でありたいと考えます。
継体天皇ことオホト大王が王位継承する前世紀(5世紀)の倭王権は、中国王朝(宋)からの冊封体制にありました。古市集団(讃・珍)や百舌鳥集団(済・興・武)といった複数の王族集団のなかから適任者が大王即位後に宋へ遺使し倭国王に任命(唯一の例外が世子を名乗って要請した興)されていました。中国皇帝からの承認は即位した事実を補強するための手続きでした。また、新たな大王は他の豪族たちからの支持取り付けのため、豪族たちへの将軍号の授与を中国王朝に要請しました。
ところが、5世紀末に宋から南斉へ王朝が変わり、それが王朝簒奪した反乱に映った倭王権は外交関係を持つことを躊躇し479年を最後に中国への遺使を取りやめます。それまで大王を出したことがなかった王族である北陸集団から即位した継体天皇は、中国王朝という外部からの権威付けが得られないこともあって、仁徳天皇を出した古市集団の女性王族である手白香王女との婚姻によって即位の正当性を補強します。皇后の手白香王女は武烈天皇の妹とされますが、その武烈天皇については虚構と本書では見ています。たとえば、『日本書紀』は、それが完成した律令国家の時代に「かくあるべし」と設定した、きわめて作為的な編纂が行われていて、5世紀以前の記述は史実としてほぼ信用できないと著者は指摘しています。漢籍を下敷きにして武烈天皇の暴虐記事がありますし、血統よりは賢者であることを重く記した書物(北畠親房『神皇正統記』1343年)もあります。ちなみに、律令国家時代の「継嗣令」では皇位継承資格があるのは五世孫までとされていました。
在位中は朝鮮半島との外交失政や磐井の乱などが起きていますが、磐井の勢力基盤である八女集団も継体天皇の即位については支持していたと考えられています。その根拠の一つが現在の熊本県宇土市(当時は八女集団の勢力下)から産出する馬門ピンク石の存在です。この石は5世紀後半頃から畿内へ提供されていて、6世紀前半では最大の前方後円墳(墳丘の長さは190mに及ぶ)であり、継体天皇の真陵と推定される今城塚古墳(現在の大阪府高槻市に所在)の石棺の材質として用いられています。

『曖昧な弱者の時代』読書メモ

経済的な貧困層や在日外国人などの文化的マイノリティといった、いわば社会的に公認された「明白な弱者」が救済されるのは「特別扱い」で不公平だとし、自分が救われていないと感じる「曖昧な弱者」の存在に、『曖昧な弱者の時代』(岩波新書、920円+税、2026年)の著者である伊藤昌亮氏は注目しています。「曖昧な弱者」は、「明白な弱者」に対して、憤懣を抱き、敵視し、攻撃します。彼らの反感の矛先は「明白な弱者」を救済しようとする政治家や知識人、マスメディアに及びます。もっとも彼らの反感を利用して支持を集めて伸長しようとする政治の動きもあります。社会の分断が進むだけで、なかなか厄介で醜悪な構造があることを、本書で理解することができます。
一方、本書で「曖昧な弱者」の特質を知ると、ある政党や政治家が自己啓発系の動画や競合相手の中傷動画を利用して一過性のブームを起こすことは、意外と簡単そうに思えました。もちろん、それが政治運動のやり方として考えられても、政策の担い手としての正当性を感じるかは別です。というわけで、本書を読んでも気が晴れるということはありませんでした。それどころか、ダメなところを論理的に批判しても伝わらない、皮相的な手合いの氏名が脳裏をよぎるだけでした。
先日、東大駒場リサーチキャンパスの公開イベントで政治学者の牧原出教授の話を聴く機会がありましたが、そこで高市早苗氏がかつて「政党は(政策の)道具」「発言の場が欲しい」と述べていた新聞記事を紹介し、他の党首になっていても不思議ではない人物像を語っていました。同氏は政策の中身・実現可能性よりも「やりたい」「やったる」という姿を見せることが重要なので、支持が落ちたらサバサバと辞めるのではとも見ていました。この話を聴くと、高市氏の支持層が、情報源をもっぱらSNSや動画に頼り、体系だった政治の知識に疎い情報弱者による「曖昧な支持」で成り立っているのが頷けます。まんざら悲観することもないなと後日感じました。